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アジアに関わる研究、一体系

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(1)

アジアに関わる研究、一体系

一K.A.ウィットフォーゲルの場合一

 「日本には、支那通というものが沢山いる。しかし、我々は、彼等の支那に関係する知識 が断片的であって、全体として徹底した理解のないことを残念に思う。我々は、日本人とし て、支那に対する明白な概念に欠乏している。……我々の欠乏を感じている正当の知識に達 することを得んとするは、我々の希望である。」(山路愛山、『支那論』、大正五年)

 一が、私をして言わしむれば一、昭和四十年代の今日、依然として本邦において欠く

         の       コ        

るは、量、支那についてのみならず、アジァー般についての体系的理解である。

 「現今におけるアジア、東南アジアに関わる研究たるや、真に多彩である。殊に本邦におけ るや、アジア経済研究所(通称「アジ研」)の諸研究は一本学の東南アジア研究の範とし ても一一見、揺ぎない成果を誇りつつあるかの如きである。

 大別して、それら諸研究は、次の三つの類に分つことが出来る。

 第一に、当該地域に関わる宗教、政治、教育、法制……等、社会的(社会学的)諸事情の

研究である。

 第二に、自然的・風土的諸事情に関わる研究(自然科学的操作を経たものを含む)であ

る。

 第三に、経済的諸事情の研究、これは更に、1)ごく一般的・抽象的な変数一いわば、

「真空内における」経済一を基礎とした所謂「純粋分析」と、2)具体的・特殊的事実を 中心とした一主として個別経済を問題とする一その記述とに分れる。

 それら諸研究につき、敢て、概括的批評を試みれば、次の如きことが言える。

 先づ、この種の研究では最大公約数というべく第一の研究については、それらが本来ベー スとする筈の物質的・物理的生活諸事情乃至経済的基礎、所謂「下部構造」の分析を欠いて いるため、一部、理論としての労作も、客観的必然性を有し得ないこと、更にその大抵につ いて酷評すれば、全体としての確固たる方法論の欠如は、それら諸研究を単なる風景画的描 写(ウィットフォーゲルの所謂Die En−bloc Methode)に終らしめている。

 第二の研究も、第一の場合同様、研究上の主軸を欠くことが、これ又、それら諸事実につ いての単なる調査、珀末的渉猟(Die Kurzschluss Methode)一多くの場合、せいぜ い半分しか妥当でないか、或は完全に無意味であるところの一に終始せしめている。

 第三の、1)については、所詮、論外と云うべく、斯ふる研究自体がこの種の主題にとっ ては、研究の前提でもなく中枢でもなく、ただその最后における仕上げとしての補助的機能

しか果し得ない性質のものだけに、 他所から来たお客さん としてしか、これを遇し得な

(2)

い怨みがある。…∴・…その唯一の優越は、それ自体としての展開が、時に如何に無意味・無       内容な結論をしか導き出さないものであるにせよ、ともかく、それが一つの理論であること による。第三の、2)についてはく第一、第二の場合について言えることが、略そのまま当 て嵌まる。その対象が経済的なものであるということ以上の何ものをも、我々に提示し得な

い。

 以上、三者の欠を補って余りある方法……三者の諸研究のすべてを、科学的次元において

       

一つの体系に収束せしめ且つ夫々その適所に位置づける方法……その説得においてマルクス の所謂「鉄の必然性」を有する方法……一その一つが、本稿の取扱うウィットフォーゲル

(嘗ってめ「正統派マルクス主義者」、今日での「自由」の唱導者)の場合である。」(拙 稿、『「アジア的社会に対する科学的分析の方法論一一カール・A・ウィヅトフォーゲルの場

合一」・、研究年報、1968年第10集)

       

 もらとも魂私にとって大事なのは、私の考え自体である。一一只管、追従・模倣を旨とす

         コ  コ       コ

べき研究者にあるまじく一。従って、本稿の場合にも、私のこの個人的的事情に変りはな        い。本稿に所見される、私のウ垢ットフォーゲルについての興味・関心二敢て研究と言わ ぬが一その他、についてのいつも乍らの沢山の援用・言及(それらの必然、或はそれらの 間に漂うリリシズムを理解する人に幸いあれ!)も、所詮、私の考えの裏打ちのための材 料、傍証のための手段として利用したに過ぎない。

 「私は無論、荷か新しいこどを学び、従って又、偵分で考えようと志す読者を想定してい るのである。」(マルクス、『資本論』、第一撃序文より)

 尚、本稿は、その基本の半ばを、私の学生当時の、しかも主として自習時の構想の一つに

      の   の    

拠る。一三の半分は、所謂有機体説への最:近の私の関心に拠る。(私が、ウィットフォー ゲルと有機体説との密接を発見したのは、ごく最近の事柄である。)いわば、本稿は、その 一半において、一私自身の学修のための一ウィットフォーゲル解題(そめ二)とも称す べき性質の一篇である。(続稿予定)

 体系とは何か。ホルスト免ワニゲンフユールは・その著『国民経済学における体系思 考・一つの方法史的考察』IHorst Wagen釦hr;Der Systemgedanke in d『「Nationa1−

6kga・mig Ein・卑・th・d・ngescht}i・h・B・t・achtung,19$3・)冠頭第一篇において・

「体系,Systgmとは何か」、と問題提起を行う。

      り    

 一近代的意味における科学(学問)の古典的定義は、周知の如く、カントが与えた。

即ち、彼は、原理によって整えられた認識の全体として、これを形式的に規定したのであ る6面・・「純粋理性は一つの完全な統一体をなすものであるから、もし理性の原理が、理性 自身の「自然的本性によって理性に課せられたあらゆる問題のうちの三州つだけでも、解決

(3)

するに不充分であるとしだら、我々は斯かる原理を構わず捨て去って差支えない。そうだ とし虎ら・この原理には・他の問題をも一?残らず解決し得るという充牙な信頼を置くわ けにいかなくなるからである6」(カント、 『純粋理性批判』)

 科学く学問)は如何なるものでも  カントによれば、それ自体として}つの体系であ る。それは原理にようて樹てられなければならぬ。÷一それはいわばそれ自身のために存 する建物である。……「知識は、一つの理念のもとに全体の部分の必然的な関係において 建築的な統一にもたらされることによって、科学的となるのである。」(三木 清、r哲学 入門』)

 而して、曰く、「もし科学がその限界を相互に侵む合うならば、それは科学の増加でな くて、その轡形化である。」、……相対的独立を保った、自己完了的・自己充足的学科……

「厳格にその規定された領域内に留まり、体系化であり、専門学科を保持し、分析と結 合を行って合理的なるものを非合理的なるものからきれいに離し、信仰から知識を分離

し、一その欲するままに従い  或は謙遜し或は誇張する。」

 科学とは寧ろ体系的知識に等しい。故に、『体系化は、科学的叙述の核心をなすものであ る。・・…個々の学科が体系的なる限り、それは相対的に他のものと引離して限定され、も しくはそれ自体で完結している。……「体系的統一体とは、普通一般の認識を先づ科学的 たらしあちもめであり、普通の知識の総計から一つの体系を作るものであるが故に、我たの 認識一般においては科学的なるものの教義は即ち建築学である。」(カント)

 カゾトが個々の学科の建築学の姿を用いて以来、近代科学のこの特徴は繰返し繰返し 正当に強調されて来た。……「体系的ゴ性質はむしろ近代科学の概念にとってく本質)

必然的な特徴どして妥当する。……我々の科学一経済学について、その表徴を探れば、・

例えば、こうである一「秩序」(ケネー)、「法則」(リカアド、マルクス)㍉L・「体系」

(ゾムバルト、シュムペーター)、 「関聯」(アモン)…… ……聯関観察。

 聯関観察が完結されてないということも確かにあり得る。一定の見地から見るならば、

どんな体系化も、それ自体で完成していないのである。「何故かと云えば、如何なる体系 論者も根源関係から、もしくは我々が個別科学について云う如く、一つの定められた発端 から出発しなければならないからである。」

 一一一個別科学について論ずるところによれば、  現実全体は自足的な全体として、一 つの専門的  体系的観察の対象たり得ない。 「多様にして(一見)渾沌たる現実は諸原 則により、抽象的方法を用いて区分又は『整頓』されなければならぬ。その特徴:の一つ一 つは故意に一面的に、或は一或程度まで任意に 馳一つの最:高の見地の下に取出されね ばならぬ。」 ・即ち、経済学上の表現によれば、所謂同一性原理がつくられるのである。

  ・現実なる全体……(に対する)部分としての全体……「専門の内に止まり」〜その 価値をそれ自体の中に担い、専ら合理的に規定されるもの。……渾沌たる多様の経験対象 から、 又は日常に与えられる思惟対象から、幽一面的意味をもった認識対象がつくられる。

(4)

(アモン)……「論理上相互依存関係にある個々の認識の一体系である学なるものは、

論理上統一ある即ち我々の思惟にとって全く同じ性質を有する対象に関係せしあての外は 考え得べからざるものである。」(アモン、『理論経済学の対象と基礎概念』)

 定められた発端(同一性原理)は最高の命題として体系的観察の尖端に置かれる。同一 性の原則からして根本概念(上位概念)が展開せられ、根本概念から更に諸々の概念(下 位概念)が展開される。……「概念は体系の中にあってのみ概念である。」(ゾムバル

ト、『三つの経済学』)

局 → 同 →

略→

\ 概

/ 念

 確かに我々の思惟能力は発生的に観察すると、屡々正に逆に進むのを常とする。即ち初 めに未だ明確に取出されていない前提の下に後の最高命題を研究し、而して後になって初 めて、観察の最後に体系的な支柱、定められたる発端を、出来るならば明瞭に方式化する のを常とす。体系的なるものは従って我々にとっては後のものであるのを常とする。が、

論理的にはそれは先のものである(か勿3σ鋸。.76〃α勉ノα)。これに反し個々の思想の順 序、又は問題の場合には逆の関係に立つのである。ごれらのものは我々にとっては先にあ る(汐〆伽39κo認%oε)。が、しかし、本来の性質から云えば後である。(アリストテレ

ス)

 ……「理性は原則から出発する。そしてこれらの原則は、経験の経過においては必ず使 用せられねばならないものであると同時に、この使用は経験によって充分に実証せられて いるのである。」(カント)

 「科学」(「学問」)及び「体系」の概念は故に一一一現今の解釈によれば一分ち得ない程 相互に結合している。

 「体系」とは一つの編成されたる全体であって、その取挙げる領域に関しては比較的の

   り      コ       ロ       む  り        コ       

完全さを主張するものである。その成員(部分)の相互間に矛盾があってはならない。略 言すれば、次の様にも定義出来るであろう。体系とは形式的全体性である、と。……「完 全なることを意識し且つ構造的に編成せられたる知識。」         ・  「雑多なる経験が一定の統一的原理によって整理せられ、秩序立てられ、そこに概念の体

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系が組立てられる時、初めて我々はこれを学問と呼ぶ。……知識の学問的体系化が進めら るるに及んでは、およそ概念は概念として夫々、又相互に、論理的な整合を求め、矛盾な き秩序の形成を要求するに到らざるを得ない。」(北野熊喜男、『経済社会の構造分析』)

 広い意味の体系の概念について、Joh.ランベルトは綿密な研究をなしている。日く、

「いかなる科学も、将又そのいかなる部分も、その体系が観念と命題の綜合概念であっ て、しかも総てを合せて一つの全体として観察することの出来る限り、これを一体系と見

ることが出来る」、と。一体系に関するカント的な解釈はランベルトによって著しく影 響されているものである。

 ドイツ観念論の哲学において、体系思想は、特にカント、フィヒテ、シェリング及びヘ ーゲルにより著しく進歩するに至った。

 フィヒテはそのr学問論』において強調して日く、「一箇の科学は体系的な形式を備 え、当該科学内のあらゆる命題はすべて二、三の根本命題に関聯し、而して、之を通じて 一つの全体に合一する」、と。

 ヘーゲルは体系的な思惟を絶対化した。「真理が存在する真の姿は体系的思惟たり得る のみ」(『精神現象論』)等と。

 「この時二三、r科学』とr体系』とが相関的概念であるという考えは二度と棄てられ ることがなかった。」(ワーゲンフユール)

 一カント、フィヒテ、シェリング及びヘーゲルの何れもが、他面、強力な有機体説論 者であった一点に、この際、  以降の関り合いにおいて  、我々の注意を集中すべき であろう。

 「カントの影響の下にシラーは彼の国家理想を一種の有機的組織において見出し、フィ ヒテも又有機体における全体と部分との類比において国家とその成員との関係を説いてい る。……有機体思想の壮大なる哲学的形而上学的適用はシェリングによって行われた。彼 は自然の根源的統一的な本質を生命に見た。彼にとっては自然は、全体の生活力を中心と するところの一つの巨大な生命連関、無限の対立から自己自身を形成するところの一全 体、一つの巨大な有機体に外ならなかった。……啓蒙的機械的世界観に対立する広い意味 において有機的世界観という語を使用するならば、我々は、単に国家観の領域のみに止ま らず、更に一歩進んで、ブユロウと共に、ヘーゲル哲学の基礎をなす形而上学的根本原理 は『現実態を一全体として、即ち完結的な有機体として見ることにある』.、とも云うこと が出来る。……ファルケンハイムが、ゲーテとヘーゲルとを比較した論文において、両者 に共通する点の一つとして有機体論的思惟を挙げているのは正当である。」(福井孝治、

『経済学の基礎にあるもの』)

(6)

 私は、嘗って、次の様に書いた。

 「乖来・経済現象が一つの琿論体系の対象となり得るためには・先づそれが『マ個の根 本原理』乃至一定の全体的関聯(認識形式)……を媒介として統一的に把握されなけねば ならない(カントの所謂『統覚の超然的統一性』)。勿論、それは循環理論(純粋経済 学)、構造理論(経済社会学)、或は静学、動学の何れについても一夫々程度の差はあ

      ヒ      り

れ  それが科学(学問)たることを目標とする限り結局において等しく主張され得べき        

ζとである。一『論理上相互依存関係にある個々の認識の一体系であるものは、論理上

      

統一ある即ち我々の思惟にとって全く同じ性質を有する対象に関係せしめての外は考え得 べからざるものである。』その点、シュムペーターにおける如く、経済における「交換」

(マルクスの場合、『生産』)を強調することは、循環理論として最も合理的・合目的々で あるというべきである。何故なら、そこでは『全体としての経済』過程に含まれる生産、

       

交換、分配、消費等個々の過程も、その形式的意義に於ては何より斯かる全体的関聯一 r聯関的体系』の中において夫々の意味を発揮するからである。r我々が到達した結果 は、生産、交換、分配、消費が同一だということではなくて、それらが一個の総体の全肢 節を、一つの統一の内部での区別をなしているということである。』」

 「すべて真に哲学的(学問的)なる思惟は、根底において体系的である。」(ハルトマ

ソ)

       ロ      

 では、何故にそうであるか。以上における如き「体系」の必然(の必然)は何である か,…一いかなる理由Grundに拠ってであるか。……通常、自明とされ、全く看過され ているところの  その存在論的意義、根拠は何か。

       の      

 私は、不図、次の急な思い付きを得た。一一 蟹は己が甲羅に似せて穴を堀る 、と か。肉体(有機体)の擬制を、我々の理性が翻刻すべく機能しているからではあるまい か、……理性の(機能の、構造の)根拠は、肉体(有機体)そのものではあるまいか、

と。一 例えば、古代、絃楽器が女体を模して作られた如く一一一。

 そして、後、斯かる私の思い付きの適当、適正を証明すべく、偉大なる二人  カント とマルグス(による同様言及)を、,私は得た。

 カントの場合

 「……純粋理性は許多の肢体Gliederbauから成る有機体そっくりの構造をもつもの である。それだからここでは一切のものが夫々一個の器官であり、全体は各個のために存

し、各個は又全体のために存在するという工合である。……体系の構造Gliederbau des Systemsは、いわば有機的統一を有するものと看倣される。」

(7)

 「・!・∵・純粋理性は認識原理に関する完全に独立した、それ自体だけで存在する一個の統 一体……である。つまりこの統一体においては各々の構成要素はて恰も一個の有機体にお けるように、他の一切の構成要素のために存在し、全体は又各個のために存在する。更 に又どんな原理にしても、一つの関係の中へ確実に採り入れられるためには、同時に、純粋 な理性使用全体に対する全般的関係において吟味せられねばならない。」(『純粋理性批

判』)

 他方、r判断力批判』における「有機体」そのものの取扱いにおいては一一

       り  り

 「各部分がただ他の全ての部分を通じてのみ存在すると同様に、又他の部分のために及 び全体のために存在するものとして、換言すればその道具(機関)として考・えられるので あるが、しかしこの後者だけでは尚未だ充分ではない。 (何故ならそれは技術の道具でも あり得べく、従って単に目的一般としても可能であり得るものとして表象されるからであ る。)むしろそれは他の部分を(従って又各自相互的に)生産する機関として考えられね ばならぬ。しかも技術の道具は到底斯くの如きものであることは出来ないのであって、そ れはただ道具そのものに対しても全ての素材を(技術のそれに対してさえも)供給すると ころの自然のそれにおいてのみ可能なることである。而して、ただ然かる場合、然かる故 にのみ、斯くの如き産物は有機化されたる及び自己自身を有機化する存在として、一つの 自然目的と名付けることが出来るのである。」

体系一理性・一有機体(の論理)の三位一体は、斯くして成る。

 理性が先か、有機体が先か、興味ある設問がここには可能であろう。ただ、私は、次の 様に書いたことがある。

 「一体r有機体Organismus』一Mechanismus(機構、機械論)の対一一一なる実体 概念……は、……概念を有機的、統一的、全体的……に構成するに一一就中問題・対象を それ自ら(文字通り)自律的に限定すべく  極めて有用、便利である」、と。

 カントにおける理性一一斯かるものこそ、ヘーゲルの所謂「悟性的なるもの」である。

三木 清の云う、「このものは、弁証法においては、最初に掲げたかの弁証法の三つの契 機のうち特に『思弁的なるもの』に属する。ところでこの思弁的なるものは単にヘーゲル にのみ特有のものではなく、寧ろあらゆるドイツ思弁哲学に、従ってシェリングにも共有 のものである。それは既にカントによって所謂綜合的普遍das Synthetisch−Allgemeine として発見された。それ故にヘーゲル自身も……云う、『判断力批判は、カントがそこに おいてイデーの表象、否! 思想を言い表わしたという著しいものをもっている。直観的 悟性、内的合目的性等の表象は、同時にそのもの自身において具体的として考えられた普 遍である。従ってこれらの表象において独りカントの哲学は思弁的として自らを示す。』

(8)

カントが夙に有機体に結びつけたところの具体的普遍的なるもの、ヘーゲルの謂う思弁 的なるものは、まことに有機体説の主なる思想内容である。」 (『社会科学の予備概念

』)

 即ち、三木 清は、ここにおいて、ヘーゲルの所謂具体的普遍に、理性と有機体の共通 なるものを捉えたというべきである。下り! その内実は、大抵において(前述の)カン トに一致するものである。日く、「具体的普遍にあっては、一切の特殊が一つの完了し た、統一ある全体の中で一義的な、必然的な位置を保つ。この時、各々の部分は全体を要 求し且つ各々の部分をして互いに要求せしめる。如何なる部分も全体によって規定され て、全体の意味を現わさぬものとてはない。カントは斯くの如き構成を有機体において 見、ドイツ歴史学派の有機体説はそれを歴史的存在一般のうちに見た。」

 マルクスの場合

 甚だ奇妙なことを言う様だが  所謂観念論者とも見違うマルクスの表白があるのが、

彼の方法論上の著として有名な『経済学批判』序説、殊に「二、生産、分配、交換及び消 費の一般的関係」における場合である。

      ロ

 生産、交換、分配、消費の各部分過程は、そのままでは「全体としての」経済を構成し 得ない。故に、上位概念によるそれらの統一を行い、体系を形成するのが経済学の方法

(の常道)である。 一一マルクスの場合、上位概念として工夫されたのが「生産」であ る。「生産の社会的過程は生産そのものを含むと同時に(それが存在しているところの社 会における)分配と交換並びに(その社会的役割における又その社会的な面からの)消費 をも含んでいる。生産は生産物の交換なくしてはあり得ず、交換は又生産なくしては行わ れない。生産が全然ないところでは交換も全くない。分配と消費はいかなる社会体制のも とでも行われるが、しかし生産の社会的形態に従って分配と消費の性格は変化してゆく。

斯くして、生産、交換、分配、消費は互いにばらばらの自立的なものではなく、全体とし ての単一の社会的生産過程の中の色々な要素であり、或は又マルクスの表現を用いれば、

全体の部分、統一体内部の各部なのである。」 (エル・ア・レオンチェフ、r経済学とは 何か』)

 一一「マルクスの表現」を、その結論としての肝腎についてそのまま援用すれば、こう である。 「…・…・・Das Resultat, wozll wir gelangen, ist nicht, dass Produktion,

Distribu.tion, Austausch, Konsumtion identisch sind, sondem dass sie alle Glieder einer Totalitat bilden, Unterschiede innerhalb einer Einheit.(我々が到達

した結果は、生産、交換、分配、消費が同一だということではなくて、それらが一個の総 体の全肢節alle GHederを、一つの統一の内部での区別をなしているということであ る。)生産は、生産の対立的規定における自分を包摂しているのと同様に、他の諸要因を も包摂している。過程は常に新しく生産から始まる。交換と消費とが包摂者になるこ、とが

(9)

出来ないことは、自つから明らかであるd生産物の分配としての分配についても同じこと が云える。しかし生産諸要素の分配としては、分配は、それ自身生産の一つの要因であ

      の   り      

る。だからある一定の生産は一定の消費、分配、交換を、これらの様々な諸要因同志の一

     コ       コ     

定の関係を、規定する。勿論生産も又、その一面的形態においては、それとして、他の要 因によって規定される。例えば市場が拡張すると、つまり交換の範囲が広がると、生産は その規模を増大し、又一層深く分化する。分配の変化と共に、生産は変化する。例えば資 本の集積、絶品と農村への人口の様々な分配、等々につれて。最:後に消費の欲望は生産を 規定する。様々な要因の間に交互作用Wechselwirkungが起る。こうしたことは、どん な有機的な全体organische Ganzenについても起ることなのである。」

 認識論的形式論理的に云う限り、ここでのマルクスのロジックの運びは、まさしく(前

      の        の     コ      の         

述の)カントそれと完全に一致する。就中、有機体説論者としてのマルクスの重要な片鱗 さえ、我々はここに窺うことが可能である。一彼においても、その「体系」は、同時に有 機体を暗示している。

 「例えば入間の体を考えてみるがいい。体は先づ沢山の細胞が集って色々な器官をつく り上げている。手だの足だの、心臓だの胃だの腸だのという風に。しかも、これらの器官 は器官で散り散りばらばらになってあるのではなく、互いに結びつき連絡し合って所謂循 環器系統だの消化器系統だのをつくり上げ、しかも又その循環器、消化器等の色々な系統 が又複雑に結びついて結局我々の体全体をつくり上げている。それこそ文字通りOrgan のシステムをなしているのである。つまり身体の系統だった仕組ということがOrganiza一

      コ    

tionとかSystemとかいうことの生物学的な本来の意味に外ならないのである。」(北 野熊喜男、前掲著)

 「……自然的所産においては、いかなる部分も他の一切の部分によってのみ存在すると

       コ同時に、又他の一切の部分及び全体のために実在する。換言すれば、すべての部分が夫々 道具(Organ器官)と看倣されるのである。」(カント、『判断力批判』)

   斯かる意味での体系がカントに(或はマルクスに)共通するものであること、前述 した通りである。涛ントにおいて、それは、『純粋性批判』に一部の暗示として、『判断 力批判』においては(所謂有機体説として)顕示的に表明されたことも、又、既述した如

くである。

(10)

 後者におけるカントは、やがてドイツ浪漫派に、即ちフィヒテ、シェリング、ヘーゲル 或は歴史学派へと発展する。

 「カントの哲学の積極的な展開の出発点をなすものは、第一批判と第二批判を差し早い いて、却ってこの第三批判にあるのである。フィヒテさえ判断力批判の抜粋を作り、ゲー テも彼の生涯の最も美しい時期を判断力批判に負うことを告白しているのである。シェリ ング及びヘーゲルの哲学が第三批判の発展の方向にあることは言うまでもない。従って判 断力批判はカント哲学の冠.をなすと共に、後続哲学者に対する影響において最大の意味 をもつのである。」(高坂正顕、『カント』)

 「カントの『判断力批判』が歴史的に見てその影響力が極めて大きく、所謂ドイツ観念 論の哲学は全般的に言ってカント哲学をこの『判断力批判』の方向に発展せしめたもので あるということは、通常云われることである。」(岩崎武雄、『カント』)

 マルクスの場合、更に特徴的なことは、所謂「発展」の思想(歴史的動学)として、彼

       

の方法(論)が如上の意味での体系裡に今一つの固有の意味での体系を一いわばベース たる横糸に配する縦糸としで一所有している事実である。  しかも、有機体的類推 Analogieを有するものとして!

 ウィットフォーゲルの弁証法的交互作用理論Dialektische Wechselwirkungslehre は、その様な意味でのマルクスにおける核心の一つなのである。

 即ち、ウィットフォーゲルはその大著『支那の経済と社会、一アジア的な一大農業社 会に対する科学的分析の試み  』(1931)において云う、

 「我々の研究は、史的発展の経過中に、支那の生産過程、従って、この生産過程を通じ てその社会組織を規定した生産諸力の研究を以って始まる。………生産諸力なるものに

       り

は、社会的側面の外に、自然的な一側面がある。かの前者は、生産過程の内部において、

積極的な因子、即ち、r父的』要因を、後者はr母的』に受動的な要因を形成する。前者        は、実践的に活動しつつある人間が、彼等の歴史を、彼等の経済史をも又、自ら作るとい

うことを示す。しかるに、後者は、次のことを示す。成程、このように活動的な人類が、

彼の歴史を自ら作りはするが、しかし、それは人類によって作られなかった全く特定の諸 条件の下に、即ち、その具体的姿容は、社会的労働の生産性と態様とに適応して変化する が、しかし、それ等を構成する諸要素の一切の機能の諸推移にも拘らず、根本的に不断に 作用を及ぼし、従って社会のより以上の発展の態様に対しては尚決定的であるところの、

      コ      コ      コ

自然諸条件の下においてであるということ。従って、マルクスはこう要求する、『一切の

         コ      コ       り       り      コ      ロ   

歴史記述は、これらの自然的諸基礎、しかもこの自然的基礎の上に、人間の活動が歴史過

      の       コ      の      

程において、如何にそれを変更するかということから出発しなければならぬ。』」

(11)

 「我々のとる社会科学体系においては、荷も歴史究明に関する限り、自然諸契機は排 除し難き確固たる地位を占めている。」(ウィットフォーゲル、『経済史の自然的諸基 礎』、1932)

 換言すれば、自然的側面と社会的側面との(異質的)両者は、あるものの存在乃至その 媒介・統一によって、一つの交互作用一一体系をもつのである。

 即ち、そこに予想されるものが、有機体・有機的なるもの、』従って、その作用( 生 命、生活現象)としての新陳代謝(物質代謝、物質交代、代謝、metabolisrn, Stoffwe−

chsel)なる一厳粛事実である。  物質代謝……代謝機能Wechselwirkung、即ち「交 互作用」。

 「……人間……それは生をもつ有機体である。……肉体的存在……。生をもつ有機体 は、それを取巻く物質的世界の中で、物質を基礎にそれと交互に代謝を行いながら、無意 識のうちに、合目的的活動を展開する。」(北野熊喜男、『社会経済学原理』)

 「およそ一切の実体は、空間において同時的に存在するものとして知覚される限り、完 全な交互作用Wechselwirkungをなしている。」(カント、『純粋理性批判』)

 マルクスr資本論』にウィットフォーゲルr支那の経済と社会』の前述と対照せらるべ く一事実、ウィットフ牙一ゲルがそこに直接に依拠しているところの一そのままの比 喩がある。旧く、

 「自然的に存在しない素材的富のあらゆる要素の存在は、特別な人間的要求に特別な自 然を同化させる特殊的な合目的的に生産的な活動によって常に媒介されなければならなか った。従って、使用価値の形成者として、即ち、有用なる労働としては、労働は、すべて の社会形態から独立せる人間の一存立条件であって、人間と自然との物質代謝Stoffwe−

chse1を、従って、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。……商品体 は、自然素材と労働なる二つの要素の結合である。人間は、その生産において、,自然自身 がする様にする外に仕方のないものである。更に、この形を与える労働自身において、人 間は不断に自然力によって支援され、従って、労働はこれによって生産された使用価値 の、即ち素材助手の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティが言う様に、労働はその 父であって、土地はその母である。」

 一同様、ウィットフォーゲル『経済史の自然的諸基礎』に云う、

 「我々は、『現実的生産過程』、即ち、社会的に労働する人間と自然との物質代謝 Stoffwechse1から出発すべきである。『従来のすべての歴史観は、歴史の斯かる現実的 な基礎を、全然捨てて顧みなかったか、もしくは、これを附属物としてしか考察していな

      の     ご         リ コ      ロ  ロ    の       の       

い。斯くして、自然に対する人間の関係は、歴史から排除され、従って自然と歴史との対 立が作り出される。』」

(12)

 有機体・有機的なるものと経済的範躊との接点一「旧来の経済学的な概念と、生理学的 な概念との切点」  に「物質代謝」を把握するのが、大熊信行氏の場合である。郎ち、氏 はその著『家庭論』において云う一

 「生理的なものと、経済的なものとは、直接に論理的な関連をもっている。人聞の生理 は、エネルギーの生産、蓄積、消費という過程の循環として、一応それだけで捉えられる如 くであり、この過程が持続するために必要なものは、太陽・空気・水・栄養の摂取である。

ところが栄養の摂取は、人間においては食物の獲得を前提し、食物の獲得は又労働の形態を とらなければならない。そして労働そのものは、まさに生理的エネルギーの支出である。こ の一般関係を別な形で述べれば、働くことは生理的エネルギーの消費であると同時に、物質 的エネルギーの獲得であり、食べることは物質的エネルギーの消費であると同時に、生理的 エネルギーの生産である。ここに生理的及び物質的という二種類のエネルギーが、生産と消 費という関係において、一周の連鎖をなす。かくして生理学的な物質代謝と、経済学的な物 質代謝(それは労働を媒介としてなされ、マルクスによって『社会的な物質代謝』とよばれ た)とを、同一次元において捉えることが可能であり、そして必要である。」

 一一換言すれば、マルクスにおける所謂先の体系と後の一一即ち、今、我々が問題にして いるところの  体系とは、斯くて、労働一生産の次元において、問題を共通にし、接穂・

一元化する。(事実、マルクスにおいてそうである。)

 「生物体は生活現象を間断なく行うために、絶えず物質を消費して不用となつ物質を体 外に排泄し、これを補給するため、外界から新鮮な物質を摂取し、これを同化して自己の 成分として生活を持続する。」(広辞苑、「新陳代謝」の項)

 従って又、ヤルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、次の様に書いたのである。

 「すべての人間史の第一の前提は勿論生きた人間的個体の生存である。従って確認され 得る第一の事態は、これら個人の身体的組織とそしてこれによって与えられるところの、

その他の自然への彼等の関係とである。……すべての歴史記述はこれら自然的な基礎 と、歴史の行程での人間の行動によるこれらのものの変更とから出発しなければならな

た。」

   人間の生活に必要な物資は、出来上った形では一般に存在しない。人間は自然にあ る物を人間の生存に必要な物財に転化するため、一定の努力を費さなければならない。

      

(レオンチェフ)……「人間自身は、彼等が彼等の生活手段を生産し始あるや否や、自分 を動物から区別し始める。……人間は彼等の生活手段を生産することによって、間接に彼 等の物質的生活そのものを生産する。」

 「生きるものに必要なのは何よりも先づ食うことと飲むこと、住むこと、着ること、そ の他尚幾つかのことである。従って第一の歴史的行為はこれらの欲望を満すための手段の 産出、即ち物質的生活そのものの生産である。しかもこれは、ただ人間の生命を繋ぐため

(13)

にも、今日尚数千年前と同じく日々刻々やり遂げられねばならない歴史的行為であり、あ らゆる歴史の根本条件なのである。」一「いかなる民族も、もし働くことを止めたなら ば、一年はおろか数週間の間に亡びてしまうであろうということは、どんな子供でも知っ ている。」

 「生物体を構成している物質は、生物が環境から吸収した物質によって絶えず更新して いる。生物のこのような不断の物質更新が生命の維持の不可欠な条件である。物質代謝の 停止は生物の死を意味する。」(岩波講座哲学 VI)

 但し、マルクスは引続き、こう書いている。「我々はここでは勿論人間自身の肉体的性 状にも、又人間の眼の前に見出される自然条件即ち地質学的、地理学的、風土的その他の 諸関係にも立入るわけにはゆかない。」

 一一一何故ならば、社会科学にとって、それらは一一自然科学的なるものとしての  所 謂与件だからである。(彼が「自然弁証法」を書かなかった理由の一半である。)が、与 件であることは、それらが  変化しない、不変である、一定である、同一である……と いうことを決して意味しない。所謂交互作用Wechselwirkungの徹底は、社会的側面と 共に、自然的側面の変化(深化・開発)をも当然予定せざるを得なくなるからである。

 「自然は常に同一であるという一般的な考え方  この考え方から環境主義environ−

mentalisrnといった静態的な理論が生れ、同様に静態的に廃i棄された  とは反対に、

自然は、人間が単純なもしくは複合した歴史的原因に対応して、その技術装備、その社会 組織及び世界観を大きく変えるに従って、大きく変化する。人間はその自然的環境に働き かけることを決してやめない。彼は絶えずそれを変形するのであり、彼の努力から新しい 機能水準に到達するにつれて新しい力を現実化する。果して新しい水準に到達出来るかど うか、又到達した場合どこに導かれるかということは、第一に制度的秩序、第二には人間 活動の究極の目標一一人間の近づき得る物理的・・化学的及び生物学的世界一に依存す

る。制度的条件が等しいとすれば、技術・生存及び社会的コントロールの新しい形成の発 展を示唆し、許容する  或は排除するのは、自然的背景の差異である。」(ウィットフ

ォーゲル、『東洋的専制主義』、1957)

 歴史的・具体的に云えば、こうである。 「滝は原始人にとっては、土地の目印或は崇拝 の対象として以外には、全んど関心がなかった。定着した人問が、複雑な機械的水準の工 業を発展させて初めて、彼は水の動力エネルギーを現実化した。そして、多くの新しい企 業(水車工場)が急流の川岸に発生した。石炭に内在する技術的潜在力の発見は、人間を 嘗ってなかった程地質学に関心をもたせたし、水車工場は、蒸気エンジンの支配する産業 革命後の工業界では、ロマンチックな遺物に過ぎなくなった。近年、人間は電気の生産的 エネルギーを見つけ出した。そして再び落下する水に注意を向けている。しかし、二十世

(14)

紀の技術が、以前水車織物工場のあった同じ場所に、水力発電所を建てるとしても、この 場合、古い背景の中で新しい力を現実化するわけである。自然は新しい機能を獲i得するの であり、それは又次第に新しい外観をもつことになる、」

 「自然は、経済史の経過にあって一つの不変的因子であり、常に同一であるという仮定 程誤ったものはない。」(ウィットフォーゲル、『経済史の自然的諸基礎』)

社 会 ノb、、

 本図は、私の学生当時(但し、ウィットフォーゲル或はE.W.ジンマーマンとの還遁 以前)における工夫の一つ。

 社会(一文化の函数である)の発展は、同時に、他方それに相応する自然の深化を招来 することを意味させた。(その逆も又真である。)

 下記のジンマーマン『世界の資源と産業』(1951)における場合と比較せよ。

人間

文化的欲求欲求

を含む

 一

能 力

技術  科学

文 化

  偽蛎侭

抵抗   苺島の

人間

    コ

自 然

(15)

 「文化は、完全な解放の意味で自然から自由であるのではなくて、より多様なより広汎 な結合の意味に於てそうなのである。……我々は自然をより深く利用し研究することによ って、全体として自然からより一層自由になるのではなくて、我々はただ、その結合を多 様ならしめることによって、自然の本質乃至自然の進行の偶然からより一層独立するに過 ぎない。」(ラッツエル、『人類学的地理学』)

 「恣意的にではなく、新たな、より深い複雑な自然の構成法則に従って、これをなすの である。」(ウィットフォーゲル、前掲著)

 名著『機械発明史』の著者A.P.アッシャーは、シュムペーターの所謂「新機軸」が自 然的側面を一定として規定している点を不満として、次の様に書いている。

 「……曰く、『生産資源の増大は、一見したところ、内的変化の過程における明白な根本 的動因たるように思われる。が、物的な諸事情は一定であるとして理解される一その増大 は、それ自体人口増加や生産財のストックの増加に吸収されるからである』と。ここで言わ れている物的諸事情の概念は、普通のものであるが、しかしこれらの目的にとっては、不充 分なものである。生産資源は、現存の利用し得る技術によって経済活動のために用いられ得 る全地理的事情の一部に過ぎない。分析の目的のためには、この事情の幾つかの型を区別し て認識することが必要である。即ち、全地理的事情、潜在的な経済的事情、現行の経済的事 情Y現下焦眉の経済的事情等がこれである。潜在的資源は、技術や市場需要のあり得べき変 化を含む。現行の資源は、恐らく技術や市場需要に何等かの変化がなくとも利用し得るであ ろう。尤も、多くの斯様な資源は現在尚活用されていない。現下焦眉の資源は、いうまでも なく現在利用されつつある資源のことである。従って生産資源の総量は、技術の明白な函数 であり、革新に極めて敏感である。蓋し潜在的資源は、嘗っては実行し得る費用水準ではと ても経済的意義の見出し難かった様な発明・発見を利用することによって増大せしめられる からである。」(「経済発展の理論の歴史的意味内容」、ハリス編、『社会科学者シュムペ

一心ー』所収)

        一シュムペーターの一ファンたりし(学生当時の)私にとっても、この点は既に不満で

あった。何故なら、シュムペーター(或はウィットフォーゲルその他)との運遁以前、自己 の社会経済的ヴィジョンの一つとして、私は、次の様な断片をノートに記していたからであ るQ

 「……経済的事清の変化により、資源(人的・物的)の採算点も変ってくる。一旦放棄さ れた鉱山が再び復活することもあり得る。しかし、そのためには、単に時代の変遷でなく、

それに伴って時代的な技術(私はこれを普通の技術一連続的技術、『革新』に対し、断続 的な技術と呼んでいる)の革新がなければならない。そして斯様な技術の革新は、新しき指 導者の下に、産業・国家を含む一国の制度全体の変化・変革一一革命、それが平和裡如何を

(16)

問わず一を同時に必要とする。従来に於て、斯かる意味の技術的革新は、主として動力と 原料、それに伴う交通について行われている。(コンドラチィエフ) 例えば、人力・水力・

風力から蒸無・石炭(イギリスにおける産業革命)・そして次には鉄・石炭(イギリス・ア メリカ、ドイツ)、更には軽金属・石油(アメリカが世界経済の支配権を握った)一と時 代は変遷した。そして、『鉄と石炭の時代が鉄道の時代と言えるならば、今日の石油と軽金 属の時代は、自動車と航空機の時代である。』……斯かる意味で、今日における次の時代 は、観念的な社会主義でもなく、TVAでもないことが……。」

一一観念的? ウィットブォーゲルも書いている。

 「……各時代に存在する社会秩序の構造は、非常に異った仕方で自然の諸要素を探求し利 用することもあり得るであろう。しかし能動的な社会的労働の如何なる歩みと錐も、人間の 外部にある客観的な世界、即ち自然の運動法則に依存しつつ進まねばならない。社会的な圏 域に最高の地位を移そうとする常になされるすべての努力は、自由なる意志の王国、我々 を取巻いている現実の世界の厳格な規定から解き放たれた意志の自由の王国へ連れ戻すもの である。真実の科学にとっては、神秘家や僧侶がそれをとり、又彼等が雄弁にそれを模倣す るままに薦めているところの斯かる途に進み得ない。」(『経済史の自然的諸基礎』)

 と同時に、このことは、当面の問題の分析にとって自然的側面が与件であるからといっ て決してそれを無問題化し得ない一どころか、他面、より一層の分析のためには寧ろ我 々のまさに直面すべき問題(領域)であることを意味する。

 「如何なる社会経済体制の分析も、それに対応する自然基礎の分析によって代置さるべ きではない。とは云え、その自然的基礎は、社会経済の与えられている自然的基礎なので あり、社会経済構造を真に深く全面的・機構的に理解するために不可欠である。」(ウィ

ットフォーゲル、『支那の経済と社会』、日本版第四版ぺの序)

 「自然による人間歴史の一面的規定なる仮定を、我々は古典的唯物論のテーゼとして見 出した。……これと反対の一面性は、人間の活動性の意義のみを同様に専ら力説すること にある。それは弁証的な契機を忘れている。この点では、先の自然主義的立場も同様であ

る。」

 社会……自然……弁証法……。三題噺ではないが、向坂逸郎氏はその著『経済学方法論』

      

において、マルクスの方法論を、  それらと所謂体系との繋がりにおいて一次の様に説

かれている。

 「人類は二つの世界に住む。自然と社会である。……自然と社会を差別と統一において理 解することに史的唯物論の精髄は尽きると云ってよい。……彼(マルクス)においては、諸問 題を考えるということは、あの時はあれ、他の時はこれという風に個々に考えることではな い。一切の問題を統一において理解すること、換言すれば、一切の問題が一つの統一ある知 的体系の中に所を得ることである。問題が解決されるということは、それが我々の知的体系

(17)

の一環として有機的に結びつくということに外ならない。……『資本論』の方法は、マルク スの思想体系の中において理解される外にない。というのは、社会の経済的構造が、自然と 社会との統一的結合の一定の地位にあるからである。……」

 一一一見識と云うべきである。

 社会的側面と伺時に、自然的側面を考慮する方法として、一寧ろマルクス域上に一 意識的に採られたのが、ウィットフォーゲルにおける弁証法的交互作用の方法(論)であ る。而して、ウィットフォーゲルの云う、

 「問題の提出し方は、とりも直さず、研究方法の表現である。マルクス的歴史分析の本 質的な道具は、史的唯物論である。我々は、他の機会に、マルクス史的唯物論の特定の核 心的要素が、、 プレハーノブとレーニンとを除いた一殆んどすべてのマルクス主義学 徒によってさえも、如何に閑却され、看過され、誤解されているかを明らかにした。……

我々はマルクス的研究方法を、その完全な唯物論的弓妥協性の下に、適用せんことを努力 する。それ故に、我々の研究においては、生産様式という範濤が、その創始者(マルク ス)が、それに与えようと考えた中心的な地位を取戻している。生産様式という範疇と共 に、生産諸力なる範疇が、中心に向って現出する。更に、この生産諸力なる範嬉の内部で は、社会的な生産諸力と並んでそれと共に、自然によって条件づけられた生産諸力を、マ ルクス及びエンゲルスが意味したところの決定的な意義において歴史的分析のうちに根を 下させることが、この上もなく肝要である。」(『支那の経済と社会』)

 「生産力の発展に対する自然的契機の決定的意義についての本来の正しい思想を真に承 認し、又採用した者は極めて少数である。」(『経済史の自然的諸基礎』)

⇒生産力(技術)⇒

♂b、、

 本図は、筆者が学生当時(一但し、ウィットフォーゲルとの還遁以前)マルクス体系の 一側面(一一史的唯物論)を問題にした際、工夫し、描いたもの。次のウィットフォーゲル

r地政治学、地理的唯物論及びマルクス主義』(1929)の場合と比較せよ。

(18)

〔社会的側面〕  組織・資格

        (技巧並びに知識)

機械・道具  原料

      (労働によって濾過されたる)

→労働力→労働手段→労働対象

〔自然的側面〕 人間の性質 自 然 力 自然的素材

(即興臨)(貯識㌦麹(人間の工業から独立して存在している様な)

 尚、私の図の説明には、次のウィットフォーゲル『経済史の自然的諸基礎』よりの援用        

程、一私とウィットフォーゲルとの共通を敢て確保すべく 、それ以上適切にして、妥 当なものを、私は知らない。

 「社会のあらゆる発展の基礎としての、社会的労働過程の発展は、この労働過程を態様及

       コ      

び活動に従って制約する生産配力の発展である。たとえ、すべて歴史的に条件づけられると はいえ、生産諸力は、そのすべてが狭義の社会的性質を帯びるわけではない。生産諸島の二

      コ      り       り        

群、生産されたものと生産されざりしもの、社会的に条件づけられたものと自然的に条件づ けられたものとは、労働過程において相互に作用し合う。……かくて、社会的生産諸力の総

      

体の内部で、主体的一個人的部分(労働の性能及びその組織)が、常に物的生産諸条件との 関聯において、面これに依存して発展する。しかし、生産の物的諸条件、所謂技術は、その 性質上、その構成上、『外的諸条件(自然法則)により』制約される。即ち、人出は、自己 の労働の『指導的』手段の構成、並びにこれによって遂行されたる社会的労働行為自体にお いて、『外的世界、即ち自然』に依拠し、『そして、彼の活動はこれに制約される』。斯か る外的自然的世界の法則は、 『人間の合目的々活動の基礎』を形成している。斯かる制約は 発展過程の制約を意味するに外ならない。社会的生産諸力の生成、特に、その物的核心たる 技術の生成は、その時々の活動的な自然諸契機の構造によって制約されている。」

 一一そして、(以上に)そのまま続く次の援用こそ、又ウィットフォーゲルの図にそのま ま適当するのである。(引用のテクニックのこの巧妙!一そして、この偶然!)

      

 「我々は、自然と社会、自然的及び社会的生産諸力は、r二つの互いに原則的に異った機

       

能を果す』ということが出来る。労働行為をもつ人間は、不休・運動の契機を代表し、自然

      

は、本来のままで、もしくは変容せしめられて、客観的基底  その物的構造如何によっ

の      ロ   の   つ   の   の       の       の   の   の   の       の    

て、労働行為を全く一定の方向に導く(か、もしくは導かぬ)所の一契機を代表する。社 会的労働過程の形態内で、自然に向い積極的な態度をとる人聞は、社会的生産諸力の一定の

      

状態を前提すれば、彼の手に入る自然的労働手段と、『天地』から獲得する自然的労働対象 とが許す範囲内でのみ、その活動性を形成する。社会的に労働する人間が、どんな自然によ り条件づけられた資料にr出会うanschlagen』か、それを制約するものは、勿論、社会 的に発展した生産諸力(労働の技能、科学及びその技術学的適用、労働組織、生産されたる 生産手段の範囲及び作用)の全体である。しかし、その社会的形態における労働過程の変化

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