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ピースペインティング

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ピースペインティング

2010

井川惺亮 最終講義

日時:2010

1

30

日(土)14:00~

場所:ナガサキピースミュージアム

司会:それでは只今よりピースペインティング

2010 アーティストトーク及び最終講義「ア

ートする平和」を始めたいと思います。まず、最初に長崎で音楽活動を精力的にされてお ります中原さんよりバイオリン演奏をしていただきたいと思います。それでは中原さんよ ろしくお願いします。

中原:皆さんこんにちは。井川先生、そして研究室の皆さんこのような展覧会、おめでと うございます。今から演奏します曲は井川先生がフランスにおられたのでフランスの作曲 家マスメーという作曲家からオペラ「ハイス」の中で演奏されてますハイスの演奏曲を演 奏したいと思います。

~演奏~(

violin

司会:有難うございました。続いてピースミュージアム専務でございます増川さんよりご 挨拶をいただきたいと思います。

増川:皆さん、こんにちは。今日は寒い中、沢山の方が来ていただいき有難うございます。

芸術家には定年は無いのですが、長崎大学にてご活躍する井川先生が定年になるとことを 聞きましてびっくりしました。先生には前にも一、二度ここで展示会をやっていただいて おりまして、私共との関係が非常に深いのです。先生の退官を記念して何かピースミュー ジアムでできることはないかと考え、作品発表のお願いをすることにしましたところ、先 生は大変喜んでくださり、また研究室の学生の皆さんと一緒になって展示会をしていただ くことになりました。

ご存知の通り先生の色は

9

つにしかないのにもかかわらず、大変明るく、私たちの心に も明るい気持ちを持たらしてくれます。先生は若い頃、マルセイユに行かれまして、フラ ンスはいつも新しい文化が生まれており、当時フランスでは非常に新しい動きがあったと 聞いています。シュポール・シュルファスという、わかりやすく言えば美術活動を社会的 な状況の中で捉えるのであろうと思います。先生はこういった作品活動を通じて、ここ長 崎でアートを通して平和を熱望されておられます。私どもが運営していますこのピースミ ュージアムというのもは、実は全く根っこは一緒でございまして平和を目指しております。

長崎には原爆資料館という非常に悲惨な経験をした体験を伝えることによって平和を探し

(2)

ていこうとしておられますが、私達はその生き方とちょっと違いまして、身の周りの音楽 であるとか、絵であるとか、そういったものを通じて平和を考え、また未来の子ども達に 平和な地球を渡そうではないかという取り組みです。だから文化活動を通じて平和を探し ていくという今までにあまり例が無かったミュージアムです。そういった中に井川先生は 賛同していただいて協力を惜しまずやっていただいているわけです。非常に嬉しく思って おりまして、こういった活動がもっと幅広く多くの皆さんに伝われば、もっと素晴らしい 平和が創れるのではないかと思っております。

今日は、先生の最終講義までをこのミュージアムでしていただくということは大変感激 をしております。一緒にお話を聞きまして、また今後の活動の糧にしたいと思っておりま す。先生、今日はどうもありがとうございます。またこれを支えてくださった研究室の皆 さん、どうも有難うございました。

司会:有難うございました。ではいよいよ、井川先生より「アートする平和」と題しまし て最終講義をしていただきます。

井川:こんにちは。いろいろと紹介していただきました。私がもう言うことは無いと思い ます。ある方は、定年というのは粗大ゴミのようなものと表現をされていまして、まさし くそういう状況かもしれませんね。しかし、私たちアートを目指す人は、絶えず自らの感 性をありのままに、努めようとしています。本や新聞を読んだり、テレビや映画を見たり、

色んな情報を得ようとする人間の営みの中で、私の場合はそれをする代わりに、毎日色を パレットに搾り出します。それらの色に対して日々感動する。そういう訓練がないと、学 生と接するときに作品というのが輝いて見えて来ず、輝いて来ない。今、中原さんがバイ オリンを弾かれました。このバイオリンを例えて言えば分かりやすい。あれを仮に何も知 らない私が弦を弾いたとしたら曲にならないですよね。音楽家は絶えず弾くという修練で あり、そういうものがないと曲にならない。同じバイオリンでありながら、それを美的に 音楽的にメロディに表現できるというのは、やはり絶え間ない努力というのが必要ですね。

それで、絵描きに課せられたものは、特に私に対しては、色だったということです。つ まり、これまでを振り返りますと、幼年時代、小学校の頃、瀬戸内海の島でずっと過ごし てきた中で、私が描く風景のモチーフが、石灰岩の石山でした。島全体がそういう風景で、

その岩山にダイナマイトで爆破して山が変幻していく様を見ていました。こうして子ども の頃、たくさんの自然の色に囲まれて育ちました。私は赤ん坊の頃、命からがら家族で引 き揚げて日本まで帰って来ました。母親が折りにつけて、「あんたは助かってなかったかも しれない」と、本当に瀕死の状態で引き引き揚げて帰ってきたと言う。私はお母さんのお っぱいも充分に飲むことはできず、栄養障害を起こし、その上、麻疹による高熱で中耳炎 となり、難聴となりました。難聴の苦しさというのは、何も知らない赤ん坊の頃からスタ ートしていたので、聞こえないのが当たり前であったと思います。ところが小学校に入っ

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ていくと勉強などの競争意識が出て来るのですが、それに打ち勝つためには努力をしてい かなければならないので、やっぱりなかなか難しい。そういう状況で、親がこの子に課せ るものは何であろうと心配をしていたところ、どうやら絵が好きそうなので、百姓をして いた母は野菜が獲れましたら、「新鮮なうちにすぐ描いたら」とか、また魚売り屋さんが来 ると、「魚が生きて跳ねているよ」と言って、「そらっ、描きなよ」とお皿に盛ったりして くれました。こうして子どもながらも生き生きとしたものを見て感動する体験をしていた のです。今では色を見ていますと、いつもこの状況を思い出します。

私は、大学を出ても職がなく、しばらく浪人を

5

年くらいしていました。当時は

70

年代 初め頃でオイルショックをもろに受けていました。こんな不景気な折に、75 年初夏からフ ランス留学するチャンスを得ました。滞在

4

年間、マルセイユ美術学校で勉強しました。

地中海と瀬戸内海は似ているように思われますが、夏は空気が乾燥し、冬には雨が多く、

海はどこまでも色があってまぶしかったです。

マルセイユの旧港を歩くと、ここに古代ギリシャ人がやって来たという碑文が岸辺に刻 まれており、そこに歴史的な思いを馳せたりして、また港の真ん前から太陽が昇ってくる 道に沿っての道路と建築の景観を中世時代から造られており、感動する場所です。周辺に はカフェやレストランが囲むように並んでいて、市庁舎もその港右側にありました。その 光景とは全く異なった新天地を求めた大自然に学園都市が作られ、そこに美術学校があり ました。60 年代後半の学生運動のあおりをくらって美術学校では石膏像という、私たちが 基本的にデッサンするモチーフですが、それら石膏像が頭から壊されており、それはまさ しく伝統的なものに対してナンセンスと言うものでした。折しもマルセイユ美術学校教授 陣はフランス現代美術作家として代表的なクロード・ヴィアラ先生やジョエル・ケルマッ ク先生らがおられ、このお二人のコンビが学生らにとっても非常に良かったです。

ヴィアラ先生は非常に感覚的な先生で、仕事(制作)に対して「どんどん、やれ、やれ」

と指導します。もう一人のケルマック先生は、「なぜ色を塗るのか。またそのような制作の 行為に対して省察をしなさい」というふうなことを、ある時は「あなたの作品はだれそれ に似ている」と言って、その例を出してくれました。こういう二人の、言ってみれば私は 2頭馬車の御車になったようで、ちょっと格好いい例えで変ですが、このような先生方の 指導の下で、私は、自身の絵画に対するテーマ性を持つに至りました。東京芸大でも先生 方による批評会はありましたが、そこで学生たちが積極的に討論することはなかったです ね。マルセイユ美術学校では一人学生が前に出て、プロフェッサーが一堂に並び、後に学 生たちがいて、どことなく矢継ぎ早に質問をしてきます。それに対して答える。作品の見 かけが途中であったり、また貧しそうな表現であったりしても、ちゃんと言葉として語る ことができれば、説得力として作品が認められる。それに対して私たち日本人はある完璧 な美、ある密度のある絵、形のプロポーションのいいもの、そういったものを目指してい たようですが、どうやらそういうものではなく、作り手がどういうプロセスでものを考え ているかという、数学の謎解きのような、回答方法が様々であるようにさまざまなディス

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カッションがありました。

それから、私にとって非常に良かったのは、このマルセイユの学園都市、リュミニは、

日本人の目から見れば、フランスというイメージが全くしない場所であったこと。前述の ように一般的な日本人は、皆当然のようにパリを目指して行きます。私のマルセイユ美術 学校は、前述の通り自然の荒野の中にあり、私はまるで囚人のように寄宿舎とアトリエを 往復していました。こんな環境に一般的な人は耐えられずに皆パリに行ったり、街に出て 美味しいコーヒーを飲んだり、映画を見たりとかしていたようです。私はあまりそういう 趣味も無く、とにかく先ほど言いましたように自分にとっての修練ですね。とにかく次に 先生が来校するまでに作品をできるだけ沢山作る。未完成でもいいから用意して先生を待 っていました。先生が来られると色々聞きます。

こうして繰り返していくうちに、私自身分かってきたことは、私ができる絵画の単純性 です。できるだけ色を単純に使って、しかもこれは欲張りな発想ですが、表現の最大さと は何かと、キャンバスの中に求めていきました。非常に難しい問題があるように思われそ うですが、私自身としては非常に簡単なことを目指していました。つまり簡単に仕事(制 作)ができる、いつでもどこでもできるという、どんな場所でも制作ができるという、こ れが私にとっての一番の表現のありようでした。それらを述べますと教授陣らが「面白い」

などと言っていました。理由を聞くと、私の周辺では「腹切りサムライ精神だ」などとあ りましたが、私は、「それとは違い、ここはフランスに勉強に来ていますから、単純化に向 かってやっていることが明快だ」と答えていました。

ある日、真っ白なキャンバス上に黄色い斑点をポッと置きました。先ほどのクロード・

ヴィアラ先生がそれを見られて、「絵を仕上げたのか」と言い寄ってきました。私は思わず、

その先生の反応が聞きたかったので、「はいっ!」と言ってしまいました。フランス語が分 からない時はなんでも「ウィ、ウィ」とよく返答しました。あまり「ノン、ノン」とは言 えないですね。ノンノンという雑誌があり、見たことはないのですが、分からなくても私 は、適当に「ウィ、ウィ」でしたね。なんか鶯が鳴いているようですね。そうすると、「じ ゃあ何故だ」と突然、雷のような質問がやってきましたね。そこで、「私はあなたの質問に びっくりしました」と伝えると、「そこのところにどんな驚きがあったのか」と聞かれるの です。「はい、あります」と答えました。このようなやりとりから、丁度誘導尋問のような 調子となり、先生から謎を引き出そうと、そこで、「とっさに白い色と黄色の色との対比に 惹かれています」と私が伝えましたら、「お前のは論理的だ」という答えが返ってきました。

こんな調子でどうやら私は大きなヒントを得たような感覚となったのです。これは非常に 禅問答のような、まさにそういう境地ですよね。まるでクロード・ヴィアラ先生がお寺の 坊さんのようなそういう感じを受けました。こんなきっかけから、色についてもう少し洞 察していこうということで、気が付いてみますと、「編入させるから編入試験を受けろう」

と、「いえ、いえ、私はフランス語喋れませんから」と言うと、「今喋っているではないか」

と。「いやいや、もうとてもじゃない、試験なんか大の苦手です」と言うと、「いや大丈夫

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だ」と言われました。このように皆さんに向かって楽しそうに話していますが、実際はフ ランス語で相手を説得させるのは大変な作業です。この状況は、ああでもない、こうでも ないと、まるで絵を描いているような対話ですね。

私のディプロム試験受験では、これは私がここで最終講義していることが偶然なように、

試験を受けたのも偶然、そういうことで生き方もアートのように接してきました。ディプ ロム試験は、試験官がここマルセイユ美校の先生方ではなく、フランス中の美術学校から 色んな先生が来ます。ですから初対面となります。そして「やあ」と、ニコニコ握手して

「僕の名前はこうこうだ」と挨拶して

7

人の審査員が広いところで、約

3

年間集めた作品 を一同に並べたところで、矢継ぎ早に質問されていきます。私はちょっと遠くにいる方は 聞こえないので、「聞こえないので、一人ずつキチンと質問をしてください」という提案を しました。その受験会場の最後に合否が伝えられます。この話は時間の関係で後回しにし て、マルセイユから帰国した頃のお話を進めます。

日本に帰ってきて、東京で初めて個展をすることになりました。親戚に小学校時代から の友達がいて、この個展を見に来ました。彼が言うのには、「小学校の頃から色が変わって ない」と言うのでした。私はびっくりしました。えっと思いましたが、この会話から私の 色彩の出所は、瀬戸内海の風景の色であり、まさしく原風景となったということでした。

まあ、絵画の論理というのはおそらく絵描きたちが謎解きの錬金術のような絵作りをして いる、後世の人が色んな解釈で色々言っていますが、おそらく作り手というのはそういう 人との、自然との、制作との出会いによって、先は見えないですけど、それをと読みなが ら感じて行っているのですね。あたかも読書される方は、読書の体験によって自分の旅を している。画像を見られる方はそういう画像を。うちの息子なんかはサッカーが好きでい つも寝ても起きてもテレビやゲームばかり見ている状況なので、ある日子どもに聞きまし た。「お前ちょっとカウンセラー受けなきゃ駄目だ。本当に映像病になっているぞ」、「お父 さん、何言ってるの?ライブよ、ライブ」、「えっ、ライブとは何だ?」「字幕のところに

LIVE

と書いてあるでしょ。あれが分からないの?」と。なるほど、この前に展示しているこれ らの作品は、私が実際まさしく

LIVE

している。色を付けている。そういう子どもの言葉 によって、やっぱり映像を見てもいいではないか、現代の中学生、高校生、大学生たちは。

今は息子は大学生になっていますが、つまるところ、子どもたちは決して駄目ではないで すね。実際の大学生らもね。世間の大方の方から、「最近の子は駄目だ」と言われますが、

私自身も教員自体も貧弱になってきていることも確かだろうと思います。でも皆さんも精 一杯やっている。学生さんも精一杯やっている。それは批判することはいくらでも批判で きる。どこが悪くて何に自分で気付いてないのかっていう先ほど言った子どもを見るとい う目ですね。それは同時に時代を読み取るということになりますが、私はいずれにしても、

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年前のこの色に接することと、同様の色であっても、今見ている色に接することはやっ ぱり違います。そういうことで、私が今「これが原風景だ」と言えるのは、幼年時代の友 人の子どもの頃の言葉を借りれば、これがまさしく原風景です。この時制をキチンと伝え

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れば、これをまたフランス人は、「いいね」と言って聞いてくれると思います。そういう話 は向こうの方は色々聞いてくれます。日本人の場合はいつも秘密です。その秘密を喋って しまうと「折角見る側でイメージしているのが壊れてしまうので、しゃべるとつまらなく なるよ」と言うのです。

それから長崎に来た理由をよく問われます。「どうして来たのですか」と。実際私は東京 で美術の活動を展開していました。長崎来るときに多くの友人が「間違った場所に行くの ではないか」と、実際長崎に住んでおられる方に言うのは失礼なんですけど、「東京のアー トシーンから見れば、現代美術はないよ」というふうなことになりますね。私はそういう ことを周りから聞くと、少し心配はしましたが、しかし私の心の中では、「日本のマルセイ ユは長崎だ」と。港町ですね。それから南から中央に対する反骨精神というこれは時間が あればまた語りますけど、そういう南方というのは中央に対する、自分達で自治を守るそ ういうのがフランスではあります。

先ほどのクロード・ヴィアラ先生たちは、作品発表を実践したのは、人が誰も来ないと ころで発表するという手法を取っていました。通常は有名な美術館で発表したいものです。

私も県美術館が企画してくださればすぐ飛びつきますよね。そういうことをしない。誰も いない海岸で発表するとか、そのことが返ってパリの人たちの刺激をさせた。そのような 一種の戦略に至ったと思うのですが、非常にネガティブですよね。私はそういう話を聞い ていましたので、長崎でなんかやれば新しいものが生まれるのではないかとそういう期待 を持っていました。それで長崎に来て、つい最近長崎に来たような記憶もあります。この 建物から近いところに以前B倉庫がありました。そのB倉庫で長崎に来て最初に作品発表 しました。あのB倉庫の発表は、今振り返れば重要ものとなったことは確かです。なぜか というと、倉庫の大きな扉を開くと海が見える。そういうロケーションの中での発表はす ごく贅沢でした。

それから長崎洋館群です。私が来た頃はまだ町中には洋館群がありましたが、いよいよ 取り壊されなくなろうとした頃で、私に「是非洋館を使って井川の作品で洋館の良さをア ピールしてください」という依頼が来まして、て3.4回ぐらい作品発表をしました。洋 館で発表することは、まあ一般的には洋館はレストランや喫茶店になっていますよね。美 術館にすれば東京の人たちは、これは願ってもない場所だと言います。先ほどから場所に ついて話していますが、場所性ということを長崎に来て更に真剣に考えるようになりまし た。実際、団体展でもそうですし、グループ展でもそうですけど、グループの皆さんは先 生の作品を奉って、大体メインに掲げますね。壁面の中央に掲げます。つまり壁という制 度のあるものに作品を掲げれば当然作品がよく見えて、また映えます。正面中央は非常に いい場所となります。先ほどの現代美術を発表するなら、長崎で発表するよりは東京で発 表した方が遥かに効果的です。それはどうしてかというと評論家が沢山いるからです。ま た間違って会場に入って来る人や、いろいろなお客さんがいます。また作家に関心を持っ ている方がやって来て、「うちの画廊でも発表をやってくれ」とか言う方もおられ、とても

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刺激的でした。長崎で発表するとそういう機会はあんまりないですね。そういうふうに場 所というのは制約されているし、また非常に厳しいものがある。これは平面絵画でも色を 場所によって空間を作ったり、色が生きてきたり、色が変化していきますね。私自身は絵 画の平面の周辺にむかっていく当時そういう作品を作っていました。今から振り返れば、

長崎に不時着したことは、キャンバス上に日本の地理の周辺に身を置いたということにな りますね。後からそういう文章も書いてみたいと思います。このように場所性というのは 非常に大事です。

長崎の爆心地公園ですが、このピースミュージアムも扉を開くと、まっすぐに爆心地公 園に向かってこの建物は造られたそうです。原爆が落ちた中心地は、世界でそこでしかな い。そういうような場所です。今は爆心地公園は整備されてしまいましたが、実は私はと てもがっかりしています。一般的には整備される空間というのは皆さんにとっては、それ はそれでいいと思います。まあ時代の流れですからね。でも以前の爆心地は、被爆にあっ た火の見矢倉とか、コンクリートの階段とかが無造作に公園の中に置かれていました。そ れはまさしく、現代美術におけるインスタレーションに近く、ものを配置する。それが非 常に自然の姿で身近に平和というものを間近に感じ取れていました。それが今は原爆資料 館が新築され、さきほどのオブジェ群がそこに収容されて、あまりにもきれいになり過ぎ ているという感じがします。これは私の個人的な意見ですけども。

ひとつにそういうものは風化されていきますので、風化されないように保存ということ で、ここで現代美術にも関わってきますが、こういう平和を考えるのは、個人では難しい です。私の平和との出会いは、ひとつは私の恩師である野見山先生は、「いい絵を描けば誰 かが寄ってくるよ。自分から出版社などに持ち込むことはしない方がいいよ」と、つまり 余計なことをするなという先生でした。先生は戦没者の、先生の同世代の方や前後の方が 戦地でなられた。ご自身は生きて帰ってきた。「これでいいのか」という問いかけがあって、

その亡くなった人のために戦没者の画集を作られたそうです。戦没者は若いのに絵を描き たかったそうで、そういう思いでじっとしておれない。もっと言えば罪深いことをしてい るのではないかと。これは私の印象ですが、そういう教えが恩師から私にありました。教 えというか教訓ですよね。それから、ヴィアラ先生はアパルトヘイト展に出品されたこと。

これは長崎であり、確か長崎新聞社ギャラリーでしたね。こういった先生方が世界の最先 端を走っておられる。そして私が現に長崎にいる。長崎にいて絵を描く者の役割は何かと、

これはいつも学生と話しているとやっぱり長崎の持っている、言っていいのかわからない ですけど、宿命ですよね。人間の生きるということを語っている長崎風景。今の若い人た ちがそういうことを考えているかどうかと、まあ今回の出品している学生達にも「私にと って平和とは何か」についての問いかけをしています。作品と文章ですよね。私は前述の 先生方から受けて、また、私の学生に伝える。これを私流に言えばアカデミックな教育の 義流だと思います。私自身は現代美術と称して一般的には訳の分からないことをしている ようで、また市民権を得ていないですが、しかし私が恩師から受けたことを技法としてで

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はなく、人間として、これはピカソでもそうですが、私が言わなくても、偉大なアーティ ストたちは、心のどこかに平和を考えている。私は幸い長崎に来て被爆地であるというこ とで何か考えなくてはならない。長崎に来て一番初めに思ったことは何であるかといった ときに、たまたま新聞を見ました。そこにはB倉庫の紹介があったり、続いて爆心地公園 にギリシャからオリンピアの火が長崎に届いたりなどが書かれていました。(外は次第に寒 波がやってきていたので、戸外で聞いておられる方々に向かって)「寒いですね。室内に入 ってください。扉を閉めましょう」

(この会場は小さな空間なので、一気に来客で一杯となる)皆さんが急に集まってき来 たので、すこし濃縮して短く話しましょう。私がこれまでやってきた仕事は、私自身の作 品ですね。一つ目に私がどうやって自らの作品を作っていくかという、これは大きな課題 ですね。二つ目にこれは長崎に来てから出てきた課題ですが、国際交流というものがあり ました。先ほど報道の方から何人ぐらい留学生を迎え、そして送りましたかと質問を受け ました。30 人ぐらいですかね。国際交流は長崎の地を利用すること。またヨーロッパでは なくアジアの国で結びついていることです。それから三つ目に地域の活性化、これはぺー ロン資料館や五島の三井楽の防波堤を着彩しました。それから先ほどから言っている平和 活動が四つ目です。はじめから平和を考えていたわけではありません。

ある日、灯火台モニュメントのデザイン募集がありました。専門家やデザイナーや建築 家から、それから幼稚園の子まで募集中という内容で、再度の募集を新聞記事で知りまし た。私はこれに応募すれば、アーティストとしての何かの役割が果たせるのではないかと、

そんなふうに素朴に思いました。応募して採用されたのですが、後で知ったことですが、

上位

5

位の中で立地条件が良かった私の案がたまたま採用されることになりました。会場 にはこの灯火台モニュメントの宮本さんがおられますので、後ほど聞いてみたいと思いま す。このように平和は、その大きなきっかけは新聞等や色んな情報によってであり、もう 一つ8月9日になると町から平和のことがやってくる。あれはびっくりです。あなたたち はどうですか?まぁ、地元の方は別でしょうが、外から来た人間は、本当に体ごと伝わっ てく来ます。なんとかしないといかんと。そして当時の学生も「8月9日はじっとしてい られない」とという言葉を聞きました。私は初めは「そんなオーバーな」と思いましたが、

でもやって来るのです。それはとても大事なことで真剣に取り組むようになったのです。

そういう学生が傍にいなければ、私は普通に自作が売れるような絵、言葉は悪いですが、

そういうふうに媚びたかもしれません。このような学生たちがいたからこそ、私は平和に 目覚めたのです。最近の学生は先輩が培ってきていますので当たり前になっていますが。

そこで、日本人学生の井ノ上さんに発表してもらいたいと思います。「あなたは平和につ いてどう考えていますか?」

井ノ上:私は長崎出身で小さいころから平和教育がさかんで8月9日になると、皆学校に 集まって夏休み中なのですが、登校して被爆者の方のお話を伺ったり、皆で平和を考える

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ために集会を開いたりして、そういう教育の上での平和というのは情報としてすごくあっ て、学ぶ機会も多くあったのです。今考えてみると、毎日毎日平和な生活の中でそういう 原爆が長崎というところであったということを、情報としてわかっていてもやっぱり実感 することはなくて、ずっと高校、大学と来てしいましたが、井川先生の研究室に入って、

先ほど出ましたけども8月9日に折り鶴パフォーマンスという灯火台、先生がデザインさ れた灯火台のところに折り鶴を皆さんで折って貼り付けていくというパフォーマンスに参 加させていただいたときに、恥ずかしながら、初めて原爆落下中心地の公園に8月9日に 行きました。長崎人だったのですが、平和のために皆さんが世界中から色々な国の、色々 な年代の人が集まってくるというパワーを初めて感じて、圧倒されたし、逆に長崎ってこ んなに平和のメッセージがあふれている町なのかと実感して、一緒に折り鶴を折るという 行為の中で、みんなと誰も関係なく話ができて自然に平和に関しての想いが共有できたと いうことがあって、ここでやっと私も肩肘張らずに、自然にその平和について考えてみよ うかなと実感できたと思います。

井川:有難う。私も同じように育ってきたと思います。デザインコンペで、そのモニュメ ントを立ち上げてしまえば、作者は、それで終わりだと思っていました。つまり私の役割 はですね。ところがあの火が灯ったりして、年々、そうこうしているうちに、8月9日の 日に県外から平和祈願で来崎した人たちに、そのモニュメント前を通る旅人たちに、折り 鶴を折ってもらい、それを灯火台に貼っていくというふうに動きが変わってきました。実 際8月9日、爆心地に行き、折り鶴パフォーマンスの経験をしましたら、いろんな国の人々 が、長崎被爆の日に来ていたことを私は知り、平和の重さを教えられました。そして学生 たちもそのことに感動しながら、一生懸命に協力してくれ、その結果、夕方になると、そ のとりどりの折り鶴が本当に芸術作品になってきて、輝くモニュメントへと変貌していき ます。これを見たホログラフィーで日本的なアーティスト石井勢津子さんがこれを目撃し まして、「これはすばらしい芸術作品だ」と言ってくださいました。

土台この目の前(会場)にある折り鶴を「どうして作ったのか」という問いかけですが、

通常に平面キャンバスに真剣に描いている人は、こういうありふれたものに色をつけると、

「こんな馬鹿げたことを」と言うでしょうね。でも私は芸術表現で一番大切なことは、“印 象しやすく、表現しやすい”この2つの条件が揃うことです。もっと言えば、折り鶴自体 は、平和そのものを宿し、またその象徴です。そういう意味で、この上に色をつければ、

印象深くなっていきますね。これは平面絵画でも同じです。手の表現も、このように手の ひら(パーのように開いた手)を見て描くと表現しやすいですね。その手を指先から見た もの(手を水平にして見ている人の目に向けて)を描きなさいと言われても、なかなか手 に見えず、印象も難しいです。この光景をダビンチは写実的に描き、試みてはいますが、

それを今、デジカメで撮っても手という印象は薄れます。このように開いた手のひらから 見るのが一番易しい表現です。これは古代エジプトのレリーフ等を見ても、すぐわかりま

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すね。側面性、正面性というふうに、ですね。しかも絵描きとしても、一般の人としても 描きやすいわけです。

そういう意味で今回は折り鶴を出品しました。そしてこれは極めて大きな鶴です。皆さ んもこれ以上大きな鶴を見られた方はいないと思います。イメージとしてもあまりないと 思います。これは“おーいニッポン”という

NHK

BS

として

2005

年に放映されたもの で、そのときに登場した平和を象徴する鶴として大鶴を制作しました。これに対して、あ ちら(奥の正面壁は端っこ)に取り付けている塵取りは、美術棟の前の植栽に捨てられて ありました。そこにはヒマラヤ杉がいっぱい生えていました。その横でゴロンと7年間位 の間転がっていて、これはあまりにも憐れに思いました。ちょうど私自身のような、私の 化身のような、そういう感じがしました。このような塵取りは、今はもう無いと思います。

(受講者に向かって)「見たことありますか?」工業技術科の先生の誰かが作ったかもしれ ません。下に鉄板が張ってあって、木製作りです。

当時私はリサイクルアートというものをやっていました。この塵取りは森山町で

2004

に発表したものです。私はこの塵取りの取っ手のところに色を着けました。なぜ取っ手の ところに色を着けたかというと、通常左手で持ちますね。そこに色が着いていますから、

色が身体に伝わっていくという仕組みです。そして塵取りだけでは面白くないので、学生 たちで1cm角よりもっと小さな折り鶴ができるか競争して折ってもらいました。小さな 折り鶴群を。これら折り鶴、すなわち平和をかき集めるということになります。実際、掃 除すること自体がゴミを集めれば、周りがスッキリしますよね。そんな按配で折り鶴群を 集めれば平和が集まって来きます。するとこれら集った鶴群は身体に伝わります。

小さい鶴に対して、先ほどの大きな鶴は、子どものために、天井から下げたものです。

一番最初に、先生の作品は会場の真ん中に置き配置しました。これは私の場所性の論理か ら言いますと違反していますよね。自らの作品を一番目立つところに置いて、学生らの絵 はその周りに置いていますから。ここから私の言い訳がありますので聞いてください。大 鶴はこの館に入るかどうか、あまりにも大きなものですから、入らないのかもと思ったり しました。どうにか入れることに成功しました。次にしたことは、この大鶴を何よりも子 どもに見せることを着眼し、平和を見ていただこうと思っていたのです。それによって改 めて日本人として当たり前の折り鶴を見ていただきたい。しかも手漉きの和紙で織り込ん だ文字通り「折り鶴」を見て、平和を感じていただきたかったのです。ところで、この鶴 の高さですが、より鶴らしく見せるには、背丈以上に吊り上げた方が飛んでいる鶴に見え ますが、今回は特に私は子供さんに見ていただきたい。子どもの目線で鑑賞していただく ため、大鶴の吊るす高さをぐーんと下げ、まるでテーブルのようになりましたね。少し触 ると揺れます。これも楽しんでください。

それから玄関からの回廊は、あそこに入るとかなり天井が高くて、あたかも祈りの空間 のような感じですね。私はそのイメージに沿って、ロープをたわしています。

次に留学生の南さんよろしくお願いします。「あなたの作品では何を表していますか?」

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南:猫をモチーフにして、作品の下は猫を作った作品で、上はピースマークです。

井川:「材料はなんですか?」

南:風船です。

井川:「それは自分で買ってきたんですか?」

南:いいえ、長崎大学の理科の教授の先生が井川先生にあげて、それを私がもらいました。

井川:サイエンスワールドという行事があって、子供のための理科の実験をするために風 船を沢山使ったそうです。その廃材を理科の森下先生が、「これがを作品のどこかに活かせ るもなら、どうぞ使ってください」とリサイクルする井川先生のところに持ってきました。

先生から「この使えないゴム風船を使って作品を作ってみたら」と助言されました。先生は、

「もう私の場所は廃材ばかりです。もうこれ以上は無理です。それに定年となりますから、

まあ南さん、あなたは猫の顔を作っているでしょう。それに使えるのではないかと思い、

どうですか?風船の破けたものを使ってパッチワーク的作品ですね。そして今回平和のた めのシンボルマークですが、私はあれをハンドルではないかと見ました。何か意味はこめ られていました?」

南:海をイメージして寒色系の色を使って作りました。海の表面のキラキラを表現したか ったです。平和が波に乗ってみんなに届けばいいなと思って作りました。

井川:(受講者に向かって)

2

つのデザインはわかりますか?平和が伝わってきそうですね。

南さんは留学して10ヶ月目です。日本語の上達がすごいですね。次に中国の方はウさん ですが、ウという字は烏と書きます。ウーロン茶のウです。「あなたは中国から来て、長崎 の平和をどのように受け止めましたか?」

鳴蕾:私は中国から来た学生ですが、中国で平和活動に参加したことはあまりありません。

長崎に着てから「平和」ということが耳に入りました。長崎だからこそ被爆地ということ で、そういう平和活動がありますけど、私は井川研究室で井川先生の下で勉強する中でア ートを通して平和活動することを勉強させていただきました。特に先ほど言っていました 折り鶴パフォーマンスとか、市場での8+9平和展の開催ですとか、中国では想像できな い平和の活動を学ぶことができました。

(12)

井川:「これから中国に帰る予定ですが、国に帰ったらどう考えますか?」

鳴蕾:平和に対して地域と美術を結びつく活動を、ここで勉強したことが国へ帰ってもで きる範囲でアートを通して地域が結びつく活動を作っていきたいと考えています。

井川:場所が違えば、日本でもそうだ思いますが、今、被爆から

65

年経過しています。私 が小学校のころは8月6日、広島に向ってお祈りしていました。瀬戸内海の島ですから、

宮島参りをしていましたので、広島でした。その頃の長崎というのは遥かに遠くにあるイ メージがありました。現に今、長崎に来てみますと、広島の8・6を忘れるぐらい8・9 になっています。私の色が9色使用していますが、どうして9色なのかと、最初の長崎頃 きかれましたが、その説明には「九州に来たから」と言ったら、変にうなずかれたりしま したが、元々9という数は、日本人にとってあまりいい印象は無いですよね。「中国はどう ですか?」

鳴蕾:中国では9はいい意味です。

井川:いずれにせよ、9という数字は私の場合は色の原色が中心になっています。土台は そこから中間色、オレンジ、緑、紫、そしてその中でもとりわけ赤色に対して明るい赤と 濃い赤、黄色も明るい黄色と濃いい黄色、緑も同じく黄緑と深緑というふうに計9色です。

たまたま私の生まれたところが、引き揚げ出生地というシリンゴールという、烏さんたち の近くです。去年9月に行きました。そこで烏さんの大学で作品発表の機会を得て、そし てそこから更に6時間と延々とバスに乗り、私の生まれた場所に行きました。そこはずー と草原が果てしなく続き、もう行けども、行けども大草原です。そのシリンゴールという ところに着いてもまだまだ先は草原です。そこにペイズミョという地名が私の出生地と漢 字で書いてあるのです。そこに訪ねてみると小さな町で、その広場が広がっていて、左右 対称のお寺がありました。そこに丘という意味のオボを、私は母からそこが目印だと聞い ていました。そこの丘には階段があり、当時は山だったのですが、今は観光地として整備 されて、そこの階段は171段あるんです。緩やかな階段ですけど、地元の人の話を聞い たら1+7+1=9ということでした。その階段の上から振り返ると一直線に町が広がっ ていました。この小高いから丘地平線が

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度見えて素晴らしかった。そこで新たな色の 出会いがありました。特に私が印象に残ったのはセルリアンブルーの色と、白、紫、黄色、

緑もありました。もうそれらの色に体ごと染まってしまったという、宗教は別にして、何 かひょっとしたら、お腹の中の、生まれた瞬間に、その色そのものに接していたのではな いかという実感が、その時ぱっと思いました。息子に話をしたのですが、「関係ねぇやって」

の感じで、若い方はしょうがないです。しかしそんなふうに色の原点はどこにあるのかと いうのは、その人が生きていくプロセスの中で変わっていくものです。

(13)

前述もしましたが、ある色のことを思い出しました。たまたま私がキャンバス上に黄色 というのをパーと一色着けましたが、マルセイユ美術学校の先生にとればすごい衝撃だっ たと思うのです。井川のようなフランス語のできない人間が、何をしたのだという、ある 一つの出来事ですよね。絵画というのはそういう出来事であり、現代美術で強調されるの は、一回性ですよね。もう自分でやったそういう行為は後に引き下がれないという非常に 厳しいものがあります。クリストも布で梱包するとか、大陸を横断する壁として布を張っ たりしましたが、あの方の考えの中に、あの方は回教だったそうですね。奥さんがそうい うことで、しかし宗教は別にしても、その展示したものを跡形も無く片付けるというイン スタレーションを、現代美術はそうです。私も美術展示を終えたらどこかえ仕舞う。しか し形態としては残るので、これは私にとって思わぬ副産物で、大抵は畳んで仕舞うのです ね。紐などかはグルグルと巻いてしまいます。この大鶴はたたむことはできません。永遠 の平和の祈りとして。先ほど最初に増川さんが作品を見られて、ピースミュージアムの前 に新しい施設ができるので、子供たちのためにそこのロビーなどに飾っていただければと いう期待を込めた言葉を発していただきました。私はこれを研究室から我が家に持って帰 ると、テーブル代わりとかになるかもしれませんけど、ちょっと難しい問題があるかと思 います。

何れにしましても、折り鶴というのは先ほどから言いますけど、非常に印象としては日 本人の持っているその仕草、折るという行為を通してアイデンティティを、そこに平和を 感じること。また色着けられた鶴は、色の関係性によって、関係性というのは、ここに置 かれた黄色とそこに置かれた青との響きあいが出てきます。折り紙ですから折り込んでい た部分が、つまり隠れていた部分が立体にすることで中から白い紙が出てくる。その白が 色たちをコントロールするその兼ね合いですね。バイオリンを弾いてくださった、その音 色が流れるように、色も音のような旋律的な、音楽的なものを生み出してきます。そのよ うな波動、振動を、そういう力を色というものは持っています。また人々の心を結び付け、

この力によって平和への響きとして捉えて欲しいのです。私にとっての色彩を話しました。

司会:それでは質問のある方いらっしゃいますか?長崎大学で井川先生の授業を受けてい る学生さんが多くいらっしゃいますので、一言感想をいただいてもいいですか?

学生:長崎大学3年の小林と申します。今日はありがとうございました。長崎ピースミュ ージアムというところに初めて来ましたが、こうして井川先生の作品や井川先生のゼミの 方々の作品を見ることで、平和についてちょっと考えが自分の中で少し変わったなと、ア ートのつながりっていうのがすごい深いんだなということが実感できてよかったです。

司会:ありがとうございます。灯火台でお世話になっている宮本さん、お願いします。

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宮本:長崎誓いの火、正式には長崎を最後の被爆地とする誓いの火灯火台モニュメントと 言いますが、その維持会の宮本と申します。本当に井川先生とも

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年のつきあいになりま した。ギリシャからオリンピアの火が来ましたのが、

1984

年でしたから、そのあと4年か かって灯火台の建設に入りました。本当に私の自分の仕事、職業として働いたのが

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年間 なんです。だからほぼ先生とその後の余生も考えますとほぼ同じぐらいのお付き合いです。

本当にこの誓いの火は苦労もしましたが、今度は、井川研究室のOBによって素晴らしい 本ができました。私は先生の会場でお配りしますと言っていたので、もっと小さな冊子か と思っていましたが、その見事なぶりにびっくりでした。中身が素晴らしい。改めて先生 のすごさをつくづく感じました。今日は何が何でも、別にもうひとつ用事があったのです が、先生の最後の講義だけはきちんとお話をお伺いしたいなと思ってまいりました。私と 建設委員の仲間たちが参りましたが、ほぼ私の人生の半分は、やっぱり誓いの火の灯火台 とともに歩んでいたのではないかと感じております。爆心地に建っておりまして、この爆 心地のモニュメントというのは、大体は鎮魂、慰霊そういうものがほとんどです。爆心地 ということから考えてみると、当然それはそうであろうと思うのですが、この誓いの火だ けは、本当に個性的な光り輝いたものが出来上がったのです。それに対して率直に申し上 げて、ちょっと場違いなのではないかという声もあるにはありましたが、そのあと

20

数年 もの間に、先生やゼミ生の皆さん方、卒業生の皆さんのいろいろな形での活動がその先生 の想いも含めて灯火台の意義について地域の人に理解されてきたというふうに実感してお ります。特に今は平和ナインの方がいらっしゃいますね。子供たちの修学旅行とか案内の 平和ガイドということでいらっしゃるのですが、どうして誓いの火は毎日燃えないのかと お叱りをうけたりします。それでも灯火台の鮮やかな色彩があり、その持つ意味について 子供たちに語るのがとっても楽しみで、ましてやその火が燃えるときには、私も一度現場 を拝見して、こんなに喜んでいただけるのかと思いましたけど、ここに案内するのが本当 に楽しいと。周りのものが、もちろん爆心地グランドゼロですから、それなりにきちんと した説明をするんですけども、未来に向かっての希望を語れるのはこの灯火台であると、

本当に子供たちは明るい色は好きですけども、何よりも一番喜んでいるのは平和ナインの 方であるということを理解しました。それほどにやっぱりあの灯火台の存在価値というの はそういう形であるんだなというのが、改めて考えたわけです。今年初めてゼミ生の皆さ んの感想を私聞きました。いつもいつも掃除で汗だらけになっていて、その後の折り鶴パ フォーマンスでもまたまた皆さんとの交流というところで終わっていたんですが、ひとつ は先生の最後の年ということもありまして、ぜひゼミ生の皆さんに感想をということで、

書いていただいたんですけど、それを読んでまた私が今まで受けていたものと違う次元の ご意見とご感想を読ませていただきまして、これまた深い深い感動をいただきました。私 は先生のご本の中で貴重な1ページをいただいたんですけど、表現が雑で私はともかく、

誓いの火の経過をきちんとして書く場はなかなか無かったもんですから、やはり未来の皆 様方に是非にスタート含めて知っていていただきたいという機会にしたいと思ったもので

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すので、ちょっと余分な記事が多かったんですけど気持ちとしては永遠にこれはグランド ゼロに建ち続けるモニュメントなんです。これをぜひぜひ学生含めてもちろん先生もそう ですけど皆さんが自分の人生の中でものすごく大きなことがらであったことを意識してい ただいて。オバマさんが出てきて、核のない世界っていう言葉が通常の感覚で受け止めら れるようになってきました。私は40年近く平和運動の端っこに関わってきて、核の無い 世界なんて言えなかったんですよ。夢としては持っていましたけど、これほどリアルな感 覚で受け止められる時代は私が生きているうちにできるとは思いませんでした。だからそ ういう意味で本当に灯火台と共に、核の無い世界が実現するまで、長崎の爆心地グランド ゼロにこの灯火台が建ち続けてまた、皆さんの人生と共に見ていただければこんなうれし いことはなかったと思います。先生のご本以外のことに関しては素人でございまして、初 めてモダンアートという世界を先生のお仕事を通して見ることができまして、私は今はも う本当に各地のモダンアートの展覧会にも皆さんの作品展もあるたんびに見せていただい て、親しめることになったということも、ひとつの先生とのお付き合いの中で生まれてき たものでございます。先生本当に長い間ありがとうございました。そして今後ともどうぞ よろしくお願いいたします。

司会:針貝先生一言お願します。

針貝:長崎大学の教育学部で美術史を担当しております針貝と申します。今日は井川先生 の最終講義ということで是非大学で最終講義をしていただきたかったです。ピースミュー ジアムでされるということで私も先生にこれまで授業を受けさせていただいたわけではな いですが、是非先生のお話を聞きたいと思いまして参りました。

今まで井川先生は学生たち、沢山のゼミ生たちと共に、今回もそうですけど、手と手を 携えられて地域に根差した形で活動されてこられて、それがあと2カ月ということですが、

これからも是非大学と縁を切られることなくお元気で活動していただきたいと思います。

ちょっと感動いたしまして、声が震えてまいりましたが、今後とも学生を見守り続ていた だきたいと思います。ご苦労様でした。

司会:有難うございました。それでは先生最後に一言お願いします。

井川:これ以上言うと蛇足になります。今後どうするかということを皆さん気になってお られると思います。廃品業者にでもなろうかなと思っています。実に楽しいなと思ってい ます。私の研究室はまさにゴミの山に埋もれています。最近ではカメを拾いました。その カメを守り神として、そのカメを見ながらちょっと長生きしたいです。色はまだ存在して いますから色と共に頑張って行こうと思います。

(16)

平和 について

大学院 2年 井ノ上 埋恵

私は長崎に生まれ育ち幼いころか ら平和教育 を受けてきた。長崎で学校生活 を送ったか らこそ、

平和や戦争について学び考 える機会が多 く、このよ うな環境が与え られた ことに感謝 している。

しか し、平和教育で学んだ ことについて実感 して いたか といえばそ うではなか った ことを今 とな って反省す る。戦争の悲惨 さを情報 としては知っていても、何不 自由ない毎 日の中ではどこか遠 く、

今 この ときにも多 くの国で戦争が起 こっていることを少 しずつ忘れて しまう私がいた。戦争や原爆 について無意識のうちに目をそむけて しまう現実があった。

私の意識が変化 したのは井川研究室 に所属 し、美術 による平和活動 を経験 してか らの ことだ。私 が取 り組んでいる美術が実は平和 と深 くつながっていることに様々な活動 を行 う中で気付いた。

毎年 89日に 『誓いの火 』灯火台モニュメン トで行われる折 り鶴パフォーマ ンスに参加 し、通 りかかる人々と共に折 り鶴 を折 り話す 中で、心の底か ら、 しか し、とて も自然 に平和 を祈 り、それ ぞれのや り方で活動 している人々の存在 を知った。また、井川研究室が開催す る平和展 『8

+

9展』

は、爆心地に程近い浦上百貨センターギャラリーで 日頃か ら取 り組んでいる作品を持ち寄 り、学生 だけでな く

OB

や地域の作家 も一緒 に発表する展覧会である。美術は人々を結びつける力があ り、

美術の喜びは誰 とでも共有することができるのだと感 じた。

これ らの活動に私は気負わず楽 しんで参加することができ、身近な問題 として受け止め られなか った平和 に改めて向き合いたいと思った。そ して、具体的な結果が残 らな くて も、 どんなにささや かで も、 89日に灯火台モニュメン トに集 まった人々 と同じ素直な気持ちで平和 を祈 り続ければ いいと思った。それ まで何 とな く重たかった心が楽 になった。

井川研究室の活動では国際交流も多 く、現在 も中国、韓国の学生 と一緒 に勉強 してお り、展覧会 のために韓国に行き、あち らの教授の先生方や学生たちと触れ合 う機会 にも恵まれたが、 このよ う な交流の中で強 く実感するのは、私たち人間は思いや りの心 を持っているということだ。た とえ違

う国の人 とで も、理解 したいという気持ちがあれば言葉や文化の違 いは決 して障害にはな らない。

この交流で国境なんてないと感 じることができた私たち新 しい世代の世界 中の若者が、思いや りの 気持ちで手 を取 りあえばきっと平和へ前進することができると信 じたい。

私 は現在、着古 された服で作品を制作 している。世界 に色々な人が生きているように、服にもさ まざまな色や形がある。作品では服それぞれの色や形 を生か しあい、・響きあわせたいと考 えつなぎ 合わせているが、私 自身も周囲の人々、 これか ら出会 う人々 と認めあい、お互いを高めあう関係 を 築いていきたいと思 う。

長崎には原爆 という過去があるが、平和 を心か ら祈 る人々が生き、世界 中か ら平和 を願 う人々が 集い、生きた平和のメッセージを発信 し続けている街で もある。私 もその一員であることをどこに いても忘れないようにしたい。私 にそ う気付かせて くれた井川慢亮先生を始め とす る多 くの人々に

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平 和 に つ い て

毎 年 ミン ミン 蝉 の 声 を 聞 くと、「平 和 」に つ い て 思 う。

長 崎 で 生 ま れ 育 ち 、長 崎 の 中 学 教 師 とな っ た 私 は 毎 夏 、 子 どもた ち と共 に 祈 り続 け て きた

平 和 とは 、過 去 の 戦 争 を 反 省 す ることだ け で な く、自 分 や ともだ ち を 大 切 に す るこ とか ち も 生 ま れ る

そ れ は 自 分 の 作 品 や 、友 達 の 作 品 を 大 切 に 思 う美 術 の 授 業 そ の も の だ 術 の 授 業 は 「平 和 」‑ とつ な が る

わた なべ つ か さ

今 年 は 語 りべ の 渡 追 司 さん の 話 を 聞 い て 丸 尾 中 学 校 の 3年 生 が 平 和 を 訴 え る紙 芝 居 を 作 っ た 。

今 後 も 、生 徒 と共 に ア ー トで 平 和 を 訴 え て 行 きた い

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私に とっての平和」

宮崎正太郎

私 に とっての平和 とは何で しょ う?平和 とは心が穏やかな ことを言 うそ う です。小鳥の さえず りを聞 くと平和だ と感 じます。晴天の下、仰 向けで寝 っ転 がっていると平和だ と感 じます。公園で遊ぶ子供たちを見た り、男女の談笑す る姿を見た り、犬の散歩 をしているお じさんの姿を見た りす ると平和だ と感 じ ます。私に とっての 「平和」の認識はその程度のことです。

長崎で毎年平和 を願 うのはなぜで しょう。長崎で毎年願 う 「平和」 と、私に とっての 「平和」は微妙に違 うと考 えます。長崎で願 う平和は永遠の平和です。

平和ではない」状態、悲 しみのない世界 を望むのが 目的です。私は最近、知 人を失いま した。私は、当時起 きた戦争 を知 りません。大切な人 を一人失 うだ けで世界が灰色に感 じるのに、戦争を体験 した人は どれほ どの世界 を失ったの で しょう。長崎が願 う平和は、永遠 に再びそんな悲 しみのない平和です。

私は何 も知 らずに 「平和」を願 うことは失礼だ と毎年考 えますが、私に とっ て大切 な人が幸せ に生きて くれればそれでいい と思います。そんな毎 日が続 く

ことが、私が知 る限 りの 「平和」だ と思います。

(19)

私 に とっての平和

私 の生活 は、平和 を特 に意識 もせず に成 立 し、平和 がなかった と言 う記 憶 もない。 この様 な私 は、考 えれ ば考 えるだ け、̀平和" の意味の大 き さ

と深 さにその正体が遠 くな り、実態 が分か らな くなった。

冷戦終清 とベル リンの壁 の崩壊後 にも、国益 とイデオ ロギー対立による 帯問題や 内戦 も終済 を迎 え られず、今 なお繰 り返 され てい る。そ して軍事 産業 の存在す る現実 を否定 出来ず世界 は存在 してい る。

多 くの矛盾 を抱 える平和 を私 な りに考 える と、一昨 日と同 じ様 に今 日を 迎 えてい るガその ことが平和 なのだ と息 う。そ して共 に学んだ素材 らしい 文化や習慣 を持つ官学生連 と、交流 を就 け られ る社会 がいつまで も耗 くこ

とを願 ってい る。

も しかす ると平和 を考 えな くなった とき、そ こに平和 が在 るのではない だろ うか。 しか しまた考 えない と失 って しま うの も平和 なのだ ろ う。そ し て平和活動の出来 る ミュー ジアムがある平和 を感 じてい る。

佐藤 千代子

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