REPORT 2008.8・9
10 被爆63年を数える今も“ヒロシマ”を発信し続ける原爆ドーム 原爆が使われると 、﹁ このような ことが起こる ﹂ という事実を愚直に 伝え続けること│
それが広島平和 記念資料館の役割です 。 今なお多く の見学者が絶えないのは 、﹁ 平和記 念資料館に行けば原爆とはどのよう なものか 、 使われるとどのようなこ とが起こるのか ﹂ ということがすぐ さま理解できるという現実があるか らです 。 ﹁ 深 化 ﹂ という言葉がありますが 、 平和記念資料館の展示物としっかり 対峙することによって 、 自分の眼で 見えているもの以上に見えてくるも のがある 。 ここに直接足を運ばなく ても 、 テ レビやインターネットで収 集した映像や資料を見ることも可能 です 。 しかし 、 平和記念資料館とい う ﹁ 空間 ﹂ の中でヒロシマのことを 知ろうとすれば 、 そこで展示物と対 峙することによって 、 新たな発見が 促されるということがある 。 それが史
実
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ヒロシマのさまざまな惨状が凝縮さ れている広島平和記念資料館│
戦 後 63年経った今も 、ここを訪れる 人々は絶えない 。 人々はここで何を 知り ・ 何 を学ぼうとしているのか 。 そして広島平和記念資料館は人々に 何を伝え続けるのか。前田耕一郎
広島平和記念資料館館長「広島平和記念資料館」
の役割は何か
原爆
を
愚直に
伝える
11
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広島平和記念資料館の企画展「被爆建造物は語る」。ここでは今なお 市内各所に残っている被爆建造物を写真パネルで展示している その人なりの ﹁ 深 化 ﹂ といえるもの です 。 展示物は 、 見る側の気持ちの 持ち様・身構え・心構えに応じた情 報を発信しているということを考え させられます 。 この仕事に携わって教えられたこ とは 、﹁ 想像力 ﹂ の大切さです 。 一 発の原爆によって 14万人の方々が命 を落としたのですが 、 そ の意味する ところは 、 さまざまな暮らしを営ん でいた ﹁ 一 人 ﹂ がそれぞれ亡くなり 、 その数が 14万人ということです 。 原爆被害について考えるときには ﹁ 想像力 ﹂ が大切です 。 例 えば 、 乳 飲み子を抱いた母親 、 勤労動員され た中学生や女学生など 、 失われた一 人ひとりの存在 、 そして大切な人を 失い 、 残された人たちのことを想像 してみてください 。 被爆者が綴った ﹁ 手 記 ﹂ や ﹁ 証言 ﹂ を読んでいくと 、 個々の ﹁ 生 身 ﹂ の存在を感じさせら れます 。﹁ 想像力 ﹂ と は 、 そういう ことではないかと捉えています 。 ところでヒロシマを伝えるという ことに関して考えるとき 、 ヒロシマ でどんなことが起きたのかについ て 、 事実をあるがままに繰り返し繰 り返し伝えることの大切さを痛感さ せられます 。 事実を誇張したり 、 拡 大したり 、 あるいは過小に見積もる のではなく 、 原爆によって引き起こ されたさまざまな事実をあるがまま に見てもらうこと 。 さまざまな被爆 資料の収集や関係者の証言映像を撮 り続けているのは 、 そのためです 。 平和記念資料館では原爆にかかわ る資料収集を継続して展開していま す 。 ここはヒロシマを伝え残す役割 を持っている施設であり 、 それを残 した人の意思を含めて 、 ここに預け さえすれば残していくことは可能で ある 、 そういうことを知ってもらっ た上で収集を続けています 。 被爆 50周年の時に 、 被爆者たちの 思いを綴ったものがあります 。 そ こ には 、﹁ 50年たった今 、 地 球上にこ んなことが絶対あってはいけない 。 私たちと同じような思いは絶対にさ せたくはありません ﹂ というものが 圧倒的に多い中で 、 まれに ﹁ 私は米 国を恨みます ﹂﹁ 娘をかえしてほし い ﹂ というものがありました 。 被 爆 者は皆が最初から心穏やかで 、﹁ 他 の誰にも同じ苦しみをさせたくな い ﹂ と思っていたわけではないとい うことを知らされました 。 実際 、 被爆者の方々に聞くと 、﹁ 最 初はどうして自分がこのような目に ⋮ ⋮と思うたよ ﹂ と か ﹁ アメリカが 憎かった ﹂ と語る人もいるのです 。 63年が経った今なお核兵器が存在 し続けている現実がある中で 、 肉 体 的 、 精神的にしんどい思いをして生 きている被害者には核兵器の存在に 対する怒りが間違いなくある 。 語 り たくない 、 思い出したくないという 人が少なくない中で 、﹁ このままで はいかん 。 自分も語ろう ﹂ と証言を 始め 、 活動を続けています 。 被爆者 たちは一様に ﹁ 核兵器があり続ける ことへの恐れ ﹂﹁ 自分たちと同じよ うな人はおっちゃいかん ﹂﹁ 自分に 子どもや孫ができたとき 、 こんな世 の中があっていいのか ﹂ と真剣に考 えていて 、 それは被爆者たちの心の 声として真摯に受け止めなければな りません 。 原爆に遭遇しなければ普 通の人生を歩むはずだった人が原爆 によってまったく違う人生を歩まさ れる羽目に陥ったことをどう考える のか 。 普通の人であった被害者が語 るという意味を考えれば考えるほど その行為を尊いと思わなければなら ないと考えています 。 原爆の恐怖はその瞬間だけで済む のではなく 、ずっと続いていきます 。 原爆は亡くなった人だけでなく 、 生 き残った人も傷つけ苦しめました 。 放射線による後障害に苦しみ 、 ま た 原爆の影響が子や孫の代まで及ぶの ではないかと 、 今も不安に思う人も 少なくありません 。 戦争が起これば 、 ひとたび核兵器 が使用されるとどのようなことが起 こるのか│
それを伝えているのが 平和記念資料館ということです 。 現在 、 平和記念資料館では企画展 として ﹁ 被 爆建造物は語る ﹂ をテー マに 、 今なお残る被爆建物や樹木の人間に苦
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写真を展示しています 。 多くの被爆 建物は 、 復興の過程で解体され 、 立 て替えられていきましたが 、 63年の 年月を経て 、 今なお市内の各所には 被爆の惨状を物語る建物や樹木が残 っています 。 こ の企画展では被爆建 物や樹木は核兵器を持ち続ける人類 に 、 地球滅亡の危機を静かに 、 力 強 く訴え続けています 。 毎年 、 8月になると平和と核廃絶 を求める運動が展開されています が 、 その意味でいえば 、 繰り返し繰 り返し訴えていくことが何よりも大 切だと考えています 。 ︵談︶特集
繰り返し行動していくことの意味
REPORT 2008.8・9
12 「ゆだ苑」には、パンの生地で作っ た原爆ドームの模型。被爆者が描い た絵やビデオ・衣類など原爆資料を 展示、平和文庫もある。 平和と原爆への思いを 込めて1974年に建立さ れた「原爆死没者之碑」。 碑文には 「あの日の苦 しみ いやされること なく 無名戦士らここ に眠る」 と刻まれてい る。(山口市宮野江良) 「被爆者の痛みや思いを記録し、伝えていくことは自分たち の使命です」と話す「ゆだ苑」事務局長の上野さえ子さん ●「山口方式」と「ゆだ苑」わが国の原水爆禁止運動は「いかなる国の核実験も許さない」という立場を巡って分裂した歴 史があるが、山口県では政治的・思想的に中立的な立場を堅持し、統一行動を展開してきた。いわゆる「山口方式」だ。「ゆ だ苑」もそうした中から、1968年にオープン。当時、被爆治療には温泉が効くといわれたことから、温泉の出る湯田に設 立され、被爆者の憩いの場、核兵器廃絶運動を発信する場にもなった。(「ゆだ苑」山口市元町3-49 TEL083-928-6181) 率するなど 、 国や自治体の不十分な 対応を補ってきた 。 被爆者が高齢化 し 、受診する人が少なくなった今も 、 この活動は続いている 。 上野さんは 、 元理事長の故永松初 馬さんらとともに ﹁ ゆ だ苑 ﹂ 建設の ための募金活動に寝食を忘れ奔走し た一人だ 。 辛酸をなめた被爆者と向 き合う中で 、 とりわけ核廃絶に対す る思いは強い 。 ﹁ 被 爆者の方は原爆が落とされた 前後のことは忘れても 、 あの日の惨 状が頭から離れることは絶対にな い 。 その思いを記録し 、 伝えていく ことは自分たちの使命です 。 それが 核廃絶につながると信じて ﹂ ﹁ ゆ だ苑 ﹂ で は 、被爆者の ﹁ 語り部 ﹂ 運動や被爆者の訴え ﹁ 一筆運動 ﹂ な どで 、 被爆者の声を発信してきた 。 ﹁語 り│
山口のヒロシマ集 ︵ 全 7 巻 ︶﹂ は 、 上野さんたちが被爆者を 一人ひとり訪ね 、 聞いた話をまとめ たもの 。 80年から 10年かけて 7巻を 発行 、 被爆者の思いを後世に残す貴 重な書となっている 。 「 被爆者の辛い思いを発信してい くこと 、 それが三度核を使わせない ことにつながると信じています 」 と 、 上野さん 。 祖母の土地だった縁 で高校卒業後 ﹁ ゆ だ苑 ﹂ に就職した 上野さんの核廃絶の思いは衰えるど ころか 、 年々強くなっている 。 ︵ 本誌・佐藤 ︶ ﹁ 9月 6日の ﹃ 6﹄と ﹃ 9﹄と い う数字には何か運命的な意味が込め られている 、 と思わずにはいられま せん ﹂ と話すのは 、 山口県原爆被爆 者福祉会館 ﹁ ゆ だ苑 ﹂ 事務局長の上 野さえ子さん 。﹃ 6﹄ は 広島に 、﹃ 9﹄ は長崎にそれぞれ原爆が投下された 日だ 。 もちろんこの日 、 山口に原爆 が投下されたわけではない 。 にもか かわらず 、 9月 6日を ﹁ 山口のヒロ シマデー ﹂ と決めたのは 、 なぜか 。 1 9 7 3 年夏 、 山口大学・ユネス コクラブの学生たちが広島に向けて の ﹁ 平和キャラバン ﹂ の準備中に 、 市内にある宮野江良地区の墓地の一 角に被爆兵士の遺体が埋められてい る 、 という証言をもとに遺体収骨作 業が行われた 。 9月 6日から 10日間 かけて 、 13体以上の遺骨を収集 。 遺 骨は広島で被爆し 、 旧山口陸軍病院 に運ばれ 、 治療の甲斐もなく死亡し た被爆軍人だった 。 翌年 9月 6日、 関係者の懸命な募金活動によって 、 平和と原爆への思いを込めた ﹁ 原 爆 死没者之碑 ﹂ が完成した 。 9月 6日を ﹁ 山口のヒロシマデー ﹂ と定めたのは 、 被爆軍人の遺骨収集 がきっかけとなっている 。 74年に碑 を建立以降 、毎 年﹁ 原爆死没者追悼・ 平和式典 ﹂ を行ってきた 。 碑には 1 11 体以上の分骨 、 1 699 人の死 没者名簿が納められ 、 「 あの日の苦 しみ いやされることなく 無名戦 士らここに眠る 」 と碑文が刻まれ ている 。 山口県の被爆者健康手帳保持者は 現在 4 775 人 、広島・長崎に次ぐ 。 高齢ですでに亡くなった人やさまざ まな事情で手帳を保持しない人もい ると見られており 、 その数を合わせ ると 1万人を超えるという見方もあ る 。 直接 、 原爆が投下されなかった 山口になぜ被爆者がこれほど多いの だろうか 。上野さんはこう説明する 。 ﹁ 一つは 、 広 島城周辺の部隊に本 県の出身者が多かったこと 。 もう一 つは 、 原爆投下直後 、 山口から救援 部隊として広島に向かった軍人たち で 、 二次被害を受けた人たち ﹂ 34年前 、 被爆兵士の遺体が発見さ れた宮野江良地区には 、 かつて旧山 口陸軍病院があり 、 広島で被爆した 山口出身者はここに転送されてきた という史実が残っている 。■
被爆者援護 を 続 け る ﹁ ゆ だ 苑﹂ ﹁ ゆ だ苑 ﹂ は 、 山口の被爆者 ・二 世援護と核廃絶運動の推進役を担っ てきた施設 。 68年 5月にオープン 。 山口の被爆者は広島や長崎に比べる と恵まれない環境の中で 、 懸命の援 護活動を続けてきた 。 原 爆症専門医 による集団検診 、 また専門的な治療 を受けるために被爆者を広島市に引■な
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9月
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の
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9月6日は
「山口のヒロシマデー」
被爆者援護と核廃絶を
訴えつづける人々
広島・長崎に次いで被爆者が多い山口県。9月6日 を「山口のヒロシマデー」と決め、毎年この日に 「原爆 死没者追悼・平和式典」を開き、被団協・労働組合など 核廃絶を願う多くの人たちが参加している。1974年 から始まった、この式典は今年で34回目を迎える。13
REPORT 2008.8・9
特集
繰り返し行動していくことの意味
被害の激しかった北砂地区に建設さ れた東京大空襲戦災資料センター 東京大空襲戦災資料センター 02年に開館した民立・民営の資料センター。06年には増築オープンした。館長は作家 の早乙女勝元氏。東京都江東区北砂1-5-4。交通案内などはホームページを参照。 大空襲に至るまでの経緯や、被害の詳 細について説明をするボランティアス タッフの二瓶さん 『死んでもブレストを』 早乙女勝元/文・遠藤てるよ/画 ㈱日本図書センター・1800円+税 墨田電話局に勤務していた交換手の少 女たちを襲った東京大空襲。多くの遺 体は身元の確認すらできず、ガマ口金 具で数を確認した。生存者の証言など から再現した少女たちの悲劇。 わずか一夜にして 10万人もの命を 奪った東京大空襲 。﹁ まさに史上空 前の皆殺しでした ﹂ と 、 東京大空襲 戦災資料センターの早乙女勝元・館 長は 、 この空襲の特徴を語る 。 19 4 5 年 3 月 10日未明 。その日 、 攻撃が続いたのはたった 2 時間とい う短い時間だった 。 しかし 、 そのわ ずかなうちに来襲した約 300 機の B − 29が落とした焼夷弾は 、 中心地 での最大密度が 1 平方メートルあた り 3 発にも及ぶほど苛烈を極めた 。 街は瞬く間に劫火に包まれ 、 この空 襲による死者は約 10万人 、 被災者は 1 0 0 万人を超えた 。■耳
に
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断
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ところが 、 こ れほどまでの惨劇だ ったにもかかわらず 、 東京には空襲 を伝える公立の博物館がない 。 70年 代から計画されていた東京都による ﹁ 平和祈念館 ﹂ の建設は 、 99年に凍 結されてしまった 。 そのため長年 、 資料館建設の活動 を続けてきた早乙女さんらは 、 や む にやまれず民間募金を呼び掛けた 。 その結果 、 4 000 人を超える協力 によって 02年に設立にこぎつけたの が 、 この戦災資料センターだ 。 そこで中学生などを対象に 、 自 身 が体験した東京大空襲を伝えている ボランティアの一人に二瓶治代さん がいる 。 二瓶さんは 8 歳のころ亀戸 で大空襲の被害にあった 。 焼夷弾の 炎は 、 1 000 度 。 燃えあがる炎の なかを逃げまどったときの記憶は 、 消えることはない 。 ﹁ 叫 び声が耳から離れません 。 ギ ャーッといった 、 うめくような断末 魔の叫びが⋮ ﹂ いまでも二瓶さんは話をしながら 膝が震えてくるという 。 それでも二 瓶さんがこの活動に参加しているの は 、﹁ 私が見たことは 、 私しか話す ことができない ﹂ と考えたからだ 。 それは 、 草の根=民衆が体験した戦 争を継承することといえる 。■過
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早乙女さんはこう断言する 。 ﹁ 小さい者 、 弱い者の立場から戦 争を見れば 、 間違うことはありませ んよ ﹂ 原爆に比べると東京大空襲の惨劇 は語られることが少ない 。 しかし 、 そこには一人ひとりの生活があり 、 命があった 。 資料センターを貫く理 念は 、 弱い者の立場から戦争を語る ということだ 。 ﹁ 過去は未来のためにあります 。 過去を知ることは歴史を後ずさりす ることではありません 。 それは例え ればバックミラーと同じです ﹂ と 、 早乙女さんは語り伝えることの大切 さを訴える 。 曇っていたり 、 別のものが映って いたりするバックミラーでは 、 安 全 な走行はできない 。前 へ進むために 、 後ろを確認するのだ 。 その上で 、 いま私たちができるこ とについて 、早乙女さんはこう話す 。 ﹁ 学ぶこと 、 知 ること 。 何 よりそ れが大切です 。 一 冊の本でも手にさ えすれば 、 一度でもセンターに来て くれれば 、 人間的な想像力が発揮さ れる 。 そう期待しています ﹂ あの日 、 下町の住人たちがどのよ うな目に遭ったのか 。 下町住人の視 点から早乙女さんらは都民の戦禍を 訴え続けている 。 ︵ 本 誌・対馬 ︶下町住人の視点から
空襲の記憶を語り継ぐ
東京大空襲戦災資料センター
太平洋戦争末期に東京の下町を襲った米軍の無差別爆撃。一 夜にして10万人もの命が奪われた。公立の博物館すらない状 況で、募金によって設立された民立民営の「東京大空襲戦災資 料センター」は、下町住人の視点から惨劇を語り継いでいる。REPORT 2008.8・9
14特集
繰り返し行動していくことの意味
たにやま ひろし 1958年生まれ。86年から日本国際ボランティアセンターの一員としてタ イやラオス、カンボジアに駐在。その後、JVCアフガニスタン現地代表。06年11月から現職。 20 0 1 年 10月 8日の米英軍によ るアフガニスタン攻撃は 、 同 年 9月 11日に起こったアメリカの同時多発 襲撃事件に対する報復として始めら れた最初の対テロ戦争である 。 こ の 戦争で米英連合軍はタリバン政権を 崩壊させ 、 新政権のもとでの一連の 民主化プロセスを経てアフガニスタ ンの復興を成功に導いたとされた 。 アフガン戦争が先例となって 2 0 03 年 3月 20日には同じく米英連合 軍はイラク戦争を強行し 、 ア フガニ スタンと同じシナリオで民主化と復 興を進めようとした 。 しかしアフガ ニスタンでもイラクでもその結果は 惨憺たるものである 。 アフガンでの ﹁ 対テロ ﹂ 戦争は 、 今や成功の展望すら見えない状況で ある 。 タリバンの支配地域は拡大し ており 、 陸上での戦闘で戦死者が拡 大するにつれ 、 米 軍・ IS A F ︵ 国 際治安支援部隊 ︶ 軍は空爆に頼るよ うになり 、 民間犠牲者を急増させて いる 。 それがアメリカや外国軍 、 そ してカルザイ政権への憎しみと不信 を増大させ 、 いわゆる ﹁ テ ロ ﹂ 拡大 の温床となる深刻な悪循環を生んで いる 。人道的危機
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イラクの状況もまた予断を許さな い 。 国連の決議も経ずに始められた イラク戦争は ﹁ 侵略戦争 ﹂ と呼ぶに ふさわしい不当な戦争であった 。 し かし問題はそれだけではない 。 こ の 戦争とその後の占領政策 、 そして強 引な民主化の結果 、 イラクはさまざ まな党派と党派に属する民兵が互い に権力を争い抗争を繰り返すという 混乱を引き起こした 。 この結果 、国内避難民 2 7 0 万 人 、 国外に逃れた難民 2 0 0 万 人 、 イラ ク戦争以降の死者数 15万人 、 殺害さ れた医者の数 2 000 人以上 、 そ し て食料配給を必要とする人口 1 6 0 0 万人というように 、 イラクは今ま さに人道的危機の状況にある 。 失敗 し た ア フ ガ ン ・ イ ラ ク 政策 アフガニスタンとイラクでの失敗 から大きくわけて二つのことを学ぶ 必要がある 。 アメリカの意に沿わない政権を武 力によって叩くという戦争政策の問 題と 、 民主主義を力で外から植えつ けられると信じる民主化政策の問題 である 。 ア フガニスタンでもイラク でも人々はこの二つの政策が密接に 結びついており 、 しかもそれらがア フガニスタンやイラクの人々のため になされたのではなく 、 アメリカの 利益のためだったと気付いている 。 その典型的な証左がアフガニスタ ンとイラクで進む米軍基地の半恒久 化と拡大であり 、 また米軍に対する 免訴特権である 。 米軍は無実の民間 人を殺してもそれらの国の政府は裁 けない一方で 、 米軍は一切の合法的 な訴追プロセスもなく逮捕したい人 間を逮捕し収監し 、 そこで拷問した り殺害することもできる 。 また民主主義の歴史的な経験のな い国にいきなり民主選挙を導入する ことは慎重であるべきであるにもか かわらず 、 ア フガニスタンでもイラ クでもアメリカの大統領選に都合の よい日程で進められた経緯がある 。 またイラクでは 、 復興の利権にはア メリカとアメリカに協力する国やイ ラクの協力者のみがあずかれるとい う利権構造を生み出した 。﹁
自
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き
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の
日本
日本政府はアフガン戦争をいち早 く支持し 、 ア フガニスタンで継続す る対テロ戦争でアメリカを支援する ためにインド洋に自衛隊を派遣し た 。 またイラク戦争でもアメリカへ の支持を表明し 、 アメリカのイラク 占領と対テロ戦争を支援するために 陸海空の自衛隊を派遣した 。 いずれのケースもそれまでの自衛 隊派遣とは異なり 、 アメリカの武力 行使を支援するものである 。 イラク での空自の活動は名古屋高裁で集団 的自衛権の行使に当たるものとして 違憲判決を受けた 。 ア フガニスタン とイラクでの自衛隊派遣に合わせた かのように日本では憲法改正の論議 が喧しく叫ばれるようになり事実 、 政府与党は憲法改正に向けた手続き 法である国民投票法を成立させるに 至った 。 海外での戦争加担と国内で の ﹁ 戦争ができる国 ﹂ への法制化が 同時進行しているのである 。 アフガニスタンとイラクでの米軍 支援を実現するために 、 政 府は特別 措置法という場所と期間を限定した 時限立法で対応するしかなかった 。 しかし自衛隊派遣を延長するたびに 国会審議を経なければならないこと に不便を感じた政府と与野党の一部 議員は 、 いつでも 、 ど こでも自衛隊 を派遣できる派兵恒久法を制定する 準備を進めている 。 これが来年の通 常国会の大きな争点になると予想さ れる 。 また 、 ア フガニスタンでの ﹁ 国 際 貢献 ﹂ の方法では自民党のインド洋 での給油支援特別措置法と民主党の アフガン復興支援法案が対立してい るが 、 いずれも ﹁ 自衛隊派遣が先に ありき ﹂ の政策であるという点では 共通している 。憎悪
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フ
ガ
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アメリカの失敗によって事態が泥沼化するアフ ガニスタンとイラク。日本としても果たしてこの まま自衛隊による米軍支援を続けることがいいの かどうか。有権者として私たちは選挙で判定を下 さなければならないはずだ。﹁有権
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日本国際ボランティアセンター(JVC) 代表理事谷山博史
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REPORT 2008.8・9
アフガニスタン ナンガルハル県 ゴレーク村のJVC診療所での診療の様子 アフガニスタン ナンガルハル県シェワ郡の 小学校教員を対象にしたJVCの教員研修の様子 イラク アンバール州ファルージャにおける 国内避難民に対する J V C の食料支援の様子有権者
と
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私は 、﹁ 国際平和貢献 ﹂ を日米同 盟の中での ﹁ アメリカに対する貢献 ﹂ とは違う 、 もっと広い意味で捉えな ければならないと考える 。 選択肢は もっとたくさんある 。 特に復興支援 において 、 日本は軍隊を派遣しない からこそ地元に受け入れられ 、 と て もいい効果を生んでいると 、 私たち 現地で活動している日本の NGO ︵ 非政府組織 ︶ は実感している 。 こ れはイラクでも同様で 、 イラクの人 たちは日本に人道復興支援を期待こ そすれ 、 自衛隊による米軍支援に対 しては反発がある 。 日本に対する特別な信頼感は自衛 隊派遣で損なわれたと見ていい 。 ま たイラクに対しては自衛隊派遣と別 に 50億ドルもの支援を約束し 、 そ の 8割近くが事業化した 。 透明性も統 治能力も疑問だらけのイラク政府に 対してこれだけの巨額な支援がつぎ 込まれて誰がその有効性を保証でき るのだろうか 。 自衛隊派遣費も復興支援費もすべ て税金で賄われている 。 選挙民であ る私たちは 、 ア フガニスタンとイラ クでの米軍の軍事作戦と日本の協力 に対してどのような判定を下すべき であろうか 。 政府自らがアフガン政 策とイラク政策の検証をしない以 上 、 選挙民である私たちがこれを検 証し 、 選挙で判定を下さなければな らないはずである 。REPORT 2008.8・9
16 家族が全員殺害され、彼女だけがただ一人生き残った ︵ルワンダ︶ ももい かずま 1962年生まれ。フォトジ ャ ー ナ リ ス ト。 世 界140 ヵ国あまりを「紛争」「環境」 などを主軸に取材。第32 回太陽賞受賞。東海大学非 常勤講師。著書に『この大 地に 命与えられし者たち へ』(清流出版)他多数 戦争はなぜ起きるのか? この理 由を探るため 、 私が何度も現地取材 しているのがアフリカ中部に位置す るルワンダという国である 。 北海道 の 1 / 3 程度の面積しかないこの国 で人口の 1 / 8 を殺害するジェノサ イドが発生したのは 1 9 9 4 年 4 ∼ 7 月のこと 。 鈍器やナタによる虐殺 が 1 00 日間 、 昼夜を問わず続き 、 山積みになった死体をブルドーザー が穴に投げ入れて処理し続けたとい う 。﹁ 民族の違い ﹂ を理由に殺害さ れた 1 0 0 万 もの命 。 取材で明らか になったのは 、 い びつな形で極限ま で 高 め ら れ た 人 間 の サ デ ィ ズ ム だ っ た 。 だが 、 現地で何人もの殺害当事者 たちから話を聞くたびに 、 私は奇妙 な違和感を覚えた 。 事前に想像して いた人間像とは違い 、 皆優しく 、 普 通の会話ができる者たちだからだ 。 取材者としては 、 彼 らが悪魔のよう な者たちであったら 、 ど れだけ楽で あっただろう 。 だがなぜ 、 普通の者 たちが 、 人類史に残るような大量虐 殺に荷担してしまったのか? 紐解くように取材を進めると 、 虐 殺が始まる何年も前から 、 全国で深 刻な飢餓が発生していた事実が浮か び上がってきたのだ 。 赤道直下に位置しながら 、 連なる 山々をいだくルワンダの別名は ﹁ 千 の丘の国 ﹂。 少ない平地に村や町が 集中し 、 残りは丘や山 。 そして大袈 裟でなく土地のすべてが農地なの だ 。 つまり斜面にも 、 田畑が作られ ているのだが 、 大半が棚田や段々畑 ではなく 、 斜面に沿って開墾された もの 。 そ のため 、 雨が降るたびに豊 かな表土が流れ出していたのだ 。 そ の影響で 、 1 980 年代まで一人当 たり 2 000 キロカロリーあった収 穫量は 、 9 0 年代初頭になると半分 の 1 000 キロカロリーにまで減少 していた 。 成人の場合 、 何もしなく ても 1 5 00 キロカロリーが必要に なるわけだから 、 虐殺直前のルワン ダ社会では 、 生命の維持さえ難しく なるほどの食料不足が発生していた ことになる 。 ギ リギリまで餓えた社 会は 、 一触即発の危険をはらんでい た 。 そんな危険な状態に ﹁ 民族の違 い ﹂というきっかけが投入され 、人 々 の不満が爆発したのだった 。大量生産
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ここで有史以来繰り返された戦争 をもう一度考えてみたい 。 戦争を突 き詰めていくと多くの場合 、 それら が ﹁ 土地 ︵ 領 土 ︶﹂ ﹁ 食料 、水 ﹂﹁ 資源 ﹂ を巡る争いだったことがわかる 。﹁ 火 に油を注ぐ ﹂という喩えで考えると 、 これが火にあたる要因だろう 。一方 、 戦争の主要因として挙げられること が多い民族・宗教・独裁などの条件 は油である 。 注意したいのは火があ れば争いが生まれるものの 、 逆に油 があるだけでは 、 火が起きない点だ ︵参 照 本紙 2 008 年 6月号グラ ビア ︶。 ルワンダの例が追いつめられた上 での ﹁ 戦 争 ﹂ だとすれば 、 もうひと つの戦争をも考える必要があるだろ う 。 それがふくらみ続ける ﹁ 欲望を 満たすための戦争 ﹂ である 。 イラク戦争が始まってから一年経 った 2 0 0 4 年 、 現地取材をして驚 いたことがある 。 それは米軍に前後 を警護されながら絶え間なく走りつ づけていたタンクローリー車の隊列 だった 。 運んでいたのは原油 。 火 事 場泥棒をも連想させるその光景は 、 原油という限られた化石資源が開戦 の主目的であることを示していた 。 着目したいのは 、 ル ワンダの場合 、 食料不足により直接生命の危機が訪 れていたのに対し 、アメリカの場合 、 今のところ原油不足による直接的な 生命の危機などは訪れていないこと だ 。 けれども資源としての原油は 、 埋蔵残量の半分を使い終え 、 あとは 減り続けるだけと推測される現状の 中で 、 な おも右肩上がりの大量生 産・大量消費社会 、 つまり欲望にま みれた ﹁ 20世紀アメリカ型社会 ﹂ を 維持するためには 、 どうしても更な る原油確保が必死となる 。豊か
な
表
土
の
流
出
で
収穫
量
が
減少
深
刻
な飢
餓
が呼んだ
ルワ
ン
ダ
虐
殺
﹁資源﹂には明確な終わりが見え始めたのに 、爆発的に増 え続ける人間の ﹁欲望﹂ 。今、本当に必要なのは、 ﹁地球の上 でしか人間は生きられない﹂ ことを改めて認識することだ。「増えつづける欲望」
と
「限りある資源」
戦争の背景にあるもの
写真と文/桃井和馬
フ ォ ト ジ ャ ー ナ リ ス ト17