田漢の話劇「古池の音」と谷崎潤一郎文学の唯美主 義
著者名(日) 閻 瑜
雑誌名 大妻国文
巻 42
ページ 131‑149
発行年 2011‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001294/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
大妻
国文
第必 口す
。
年 月
田漢の話劇
﹁ 古 池 の 音 ﹂
と 谷 崎 潤 一 郎文学の唯美主義
閣
議
田、
漢と 話劇
﹁古 池の 音﹂
について
回漢
︵本
名は
田寿
昌︑
一八
九八
1
一九六八︶は一九一六年八月から二二年九月まで日本に留学していた︒在日中︑当時日本で注目され始めた新劇に傾倒し︑新劇の公演をよく鑑賞し︑出世作﹁瑚珠店之一夜﹂などの脚本を六作創作した︒自作
した話劇﹁霊光﹂と﹁不朽の愛﹂はそれぞれ東京有楽座︵一九二
0
・十
・二
O
初上演︶と東京中国青年会劇場︵一九二O
年初
上 演 ︶
で上演された︒また︑当時福岡に住んでいた郭沫若と文通を始め︑芸術や恋愛について自由に論じ合っていた︒
O年
五月
︑
回漢︑宗白華︑郭沫若の聞の書簡は﹃三葉集﹄としてまとめられ︑上海亜東図書館から出版された︒中国新文
学の
創作
を目
指し
︑
一二年六月︑郭沫若︑郁達夫︑張資平らの同人達と東京で﹁創造社﹂を創立した︒機関誌﹃創造﹄は
当時の中国におけるほとんど唯一の純芸術雑誌である︒
一九一七年に上海で開店した内山書店は︑当時の新興作家がよく訪れる場所であり︑日中文化のサロンのような存在で
あった︒店主内山完造は︑二六年一月に上海を訪れた谷崎潤一郎に現代中国文壇の状況を紹介する時︑中国の
﹁新
しい
文
回漢
の話
劇﹁
古池
の音
﹂と
谷崎
潤一
郎文
学の
唯美
主義
一
士創作家﹂として︑謝六逸︑
回漢
︑郭
沫若
の名
をあ
げた
︵谷
崎潤
一郎
﹁上
海見
聞録
﹂︶
0
この
時︑
回漢は欧陽予情︑洪深など
と一緒に︑戯曲改革を呼びかけ︑旺盛な創作活動を続けていた︒上記のように︑回漢は中国近代劇運動の始祖の一人であ
り︑長年郭沫若と同じ道のりを歩んだことがあり︑現代中国文学の発展に大いに貢献した人物と言える︒ところが︑彼は
文化大革命が始まった一九六六年に投獄され︑迫害を受け︑残酷な苦難を味わった後六八年に他界した︒南京国民党政府
に勤めたことがあるという政治上の関係のせいか︑中国の近現代文学と戯曲研究においても︑国内外で郭沫若ほ
V
仁重
要視
され
てい
ない
︒
回漢が中国国歌の歌詞の作者であることを知らない人も少なくないようである︒
回漢は一九二二年秋に帰国後︑菊池寛の﹁海の勇者﹂﹁屋上の狂人﹂︑武者小路実篤の﹁桃源にて﹂﹁仏陀と孫悟空﹂な
ど戯曲も多く翻訳した︒二三年春から︑創造社を離れ︑﹁文壇の惰眠状態を破り︑薫りの漂う新鮮な空気を引き起こす﹂
ことを唱え︑妻易激論と二人で文芸誌﹃南国半月刊﹄を創刊した︒妻の病死後︑二六年夏︑回漢は﹁南国電影劇社一﹂を創
設し︑映画制作に着手し始めた︒資金難によって難局に陥った映画制作を続けるため︑一九二七年六月から同年の秋頃ま
で︑南京国民政府政治部に勤めていた︒その直後︑上海芸術大学主任兼学長となり︑話劇および映画の創作指導をし︑定
期的に文芸会を開催していた︒特に︑一週間にもわたる戯曲界の大家との共演﹁芸術魚龍会﹂は︑最も影響力のあるもの
二八年春︑﹁南国電影劇社﹂に対して組織変更を行い︑﹁南国社﹂のほかに︑南国芸術学院も創設した︒のち︑
文学・戯曲・絵画という三部門から︑戯曲を中心とした文学・絵画・音楽・戯曲・映画と五部門に増設した︒﹁南国社﹂
による話劇の公演のほかに︑不定期刊行の雑誌﹃南国﹄︑および﹃南国月刊﹄﹃南国週刊﹄を相前後して創刊した︒この で
あっ
た︒
﹁南国社﹂時代︑芸術の薫り高い話劇﹁湖上の悲劇﹂や﹁古池の音﹂が誕生した︒
︵
4
︶一九
年三月︑﹁中国左翼作家連盟﹂が創立された︒田漢は魯迅と同じく創立者と執行委員の一人であった︒同年五三O
月︑回漢は﹁我々の自己批判﹂と﹁銀色の夢から目覚める﹂を発表し︑今まで歩んできた道を反省し︑ブルジョア的なロ
マンと感傷的な情緒に対して自己批判を行い︑﹁南国社﹂とともに﹁新しい方向に転換し︑新しいステージに上がりたいL
と宣
言し
た︒
それ以後︑戯曲創作は反帝国主義運動を推し進める強風にならざるをえないと主張し︑文学と民衆生活を最
も真
実に
︑
リアルタイムに反映すべきだと強調するようになる︒
とこ
ろが
︑
それ以前の回漢の話劇のほとんどは︑芸術至上主義と恋愛自由を唱える唯美主義的なものであった︒﹁古池
の音
﹂は
二0年代末期に創作されたもので︑方向転換直前の作品である︒回漢自身も﹁濃厚な唯美主義的な傾向を見せて
︵
5
︶ いる劇﹂と語っているように︑耽美的︑唯美主義色の最も濃い話劇であり︑初期話劇の特色をよく反映している作品とされて
いる
︒
独幕
話劇
﹁古
池の
音﹂
︵中
国語
名は
﹁古
湾的
声音
﹂︶
は原稿用紙三十枚あまりの短い作品であり︑登場人物が二人しかいな
︵
6
︶ 田漢は自らその内容を次のようにまとめている︒いにもかかわらず︑神秘的︑叙情的であるため︑難解なところがある︒﹁ある詩人は物欲からある舞姫を救い出し︑自分が旅から帰るまで寂しい高楼に閉じこませる︒彼女は霊の誘惑を受けて
高楼の下にある古池に飛び込む︒詩人は復讐のため︑古池を叩き壊そうとして古池に飛び込む︒しかし︑詩人の声も古池
の音
もと
もに
遠く
なる
﹂︒
作品には一度も登場しない女主人公の舞姫︑そして詩人はそれぞれ何故古池に飛び込んだのか︒その古池の音は何を象
徴し
てい
るの
か︒
回漢自身の解説によると︑松尾芭蕉の俳句﹁古池や蛙飛びこむ水の音﹂についての松浦一
︵第
一講
﹁貴
族か
︑平
民か
﹂︶
にお
ける
解釈
から
ヒン
トを
得た
のだ
とい
う︒
﹃生
命の
文学
﹄
天地の大に遊楽する芸術至上主義者は美に飽和して慨惰なる眠りを食ることを欲しまい︒彼等の世界は美しい夢の世
界である︑安らかなる眠りの世界ではない︒安らかに眠込む時は美しい夢も失はれる︑快く眠込む時は楽しかりし酔ひ
も失はれる︒彼等は飽和の瞬間を求める︑彼等は古池に飛び込んで了った後の蛙を思はない︒蛙と水と相触れて音を発
する瞬時を求める︒唯其瞬時である︒其瞬時が文芸と人生との真諦に悟入すべき最も貴き円である︒︵略︶
田漢
の話
劇﹁
古池
の音
﹂と
谷崎
潤一
郎文
学の
唯美
主義
一
四
水に飛び込んだ剃那の蛙︑引金を引いた剃那の拳銃︑之れが生と死とを結び附け︑迷ひと悟りとを結び附け︑人生と
芸術とを結び附けるもの︵略︶︒若し此蛙と此拳銃とを一つの作品の模子として点出すれば︑遊楽の福音と解脱の福音
とは憂々相鳴って金石の響を立つるやうな気持ちがする︒
楽と
解脱
の福
音で
ある
︒
芸術至上主義者は蛙が水に飛び込むという瞬間を求め︑それが文芸と人生を理解する円である︒飛び込む時の音は︑遊
回漢は上記の内容に触発され︑次のように述べている︒
一時非常に強い芸術至上主義の傾向を持っていた私は︑松浦一氏の評論に対して言うまでもなく非常に共鳴を感じて
いた︒そこで﹁古池の音﹂という題目を九年前にすでに創作予定の脚本集に加えておいた︒
私が想像している脚本には︑古池に飛び込む蛙が詩人であり︑詩人が飛び込もうとする時︑彼を引き止めるのが母で
ある︒ここには︑生と死︑迷いと目覚め︑人生と芸術の極めて険しい戦いがあるのである︒||これが私の捉まえよう
とする﹁呼吸﹂というものである︒
﹁古
池の
音﹂
は一九二八年夏に書き上げられ︑同年九月﹃南国週刊﹄に発表された後︑南国社によって上海︑南京︑広
州で一回目の公演が行われた︒南京と広州の公演では︑観衆には理解されなかったため︑
場人物は詩人一人から詩人と母二人に増やされ︑字数も数千字から一万字以上になった︒修正後の﹁古池の音﹂は︑ 二九年四月に書き直された︒登
九
二九年七月から八月にかけて︑南国社が南京︑無錫︑上海で二回目の公演を行った時に上演された︒この時の上演につい
て︑田漢は次のように評価している︒
この悠久で神秘的な音は︑第一回公演時にすでに多くの人々の心の奥まで届いた︒ところが︑今回の古池は一回目よ
り更に深いのである︒したがって︑その音も一回目より遠くまで届くはずである︒﹁ここから君の幻滅による悲しみと
同時に︑君の戦う軍歌も聞える︒君は今回の南海の旅からすでに多くのものを得ている﹂と隊涛君が指摘しているよう
に︑観劇者に大変よい暗示を与えることができたのである︒
当時
︑
回漢は芸術性を重視する一方︑話劇が大衆向けのものになるべきだとも主張していた︒公演時︑大衆に受け入れら
れるよう︑鑑賞券の値段設定にまでも配慮していたのである︒ところが︑芸術に生涯を捧げようとする﹁古池の音﹂
の 詩
人に込めている田漢の思いは︑予想ほど大衆に理解されていなかったようである︒上記の陣涛君の指摘によると︑﹁古池
の 立 日 ﹂
の詩人は回漢自身の投影と言える︒詩人が美瑛を芸術至上主義者に変えようとする夢は︑﹁俗世﹂から完全に抜け
してしまう︒話劇の芸術性と大衆性のジレンマに陥った閏漢からは︑芸術の俗化と出せない美瑛の自殺によって﹁幻滅﹂
﹁ 戦 ﹂
ぃ︑品格を保つ話劇作品を創り続けたいという決心がうかがえよう︒
田漢の谷崎潤一郎文学についての関心
、
回漢は日中近代文学交流史においても原点にあたる極めて重要な人物である︒彼は﹁自伝﹂において︑日本に留学して
いた問︑﹁いろいろな文学歴史書籍を博覧し︑数人の日本文人とも付き合っていた︒厨川白村以外︑谷崎潤一郎︑佐藤春
夫など唯美派︑悪魔派作家も知っていた︒︵略︶ロシア社会民主主義︑特にトルストイの影響のほかに︑日本悪魔派作家
谷崎潤一郎からの影響もある︒厨川白村の精神分析と松浦一の唯心主義も﹂︑それぞれ自分に﹁影響を与えていた﹂と述
懐し
てい
る︒
田漢
の話
劇﹁
古池
の立
日﹂
と谷
崎潤
一郎
文学
の唯
美主
義
五
一占
ノ、
その
うち
で︑
回漢が最も親しく交友していたのは︑谷崎潤一郎である︒谷崎が一九二六年一月頃上海を訪れた時︑内山
書店の店主内山完造の紹介で二人は知り合った︒谷崎が中国に滞在した一ヶ月の問︑田漢はほぼ毎日同行していた︒翌年
六月︑南京国民党政府の要職に着任した回漢は︑映画に携わる日本人技術者の招致と日本演劇界の新しい傾向の視察のた
め訪日した︒谷崎は神戸港に出迎え︑自宅に田漢を泊め︑京都なども案内した︒その後も二人は文通を続けていた︒
谷崎文学を中国に紹介するために
回漢
は
﹁神
と人
との
間﹂
﹁前
科者
﹂﹁
麟麟
﹂﹁
人面
症﹂
﹁お
固と
五平
﹂︵
第一
幕︶
を翻
訳集
﹃神
と人
との
間﹄
︵上
海中
華書
局︑
一九三四・十︶に収録して出版した︒翻訳作業は二年前の三二年三月までに行ってい
た︒
訳文
の前
に︑
回漢による原稿用紙二百五十枚もの谷崎の評伝も載っている︒それは﹁鮫人﹂﹁鬼の面﹂﹁神と人の間﹂
﹁黒
白﹂
をメ
lンに︑﹁蘇州紀行﹂﹁秦准の夜﹂﹁西湖の月﹂にも触れて谷崎文学の特色を紹介するものである︒この評論に
よる
と︑
回漢
は三
二年
の一
−二
人権
福抗
戦の
戦火
で︑
ほぼすべての蔵書とすでに書き上げた︑あるいは執筆中の原稿を失つ
てしまったので︑翻訳作業も評論も頼らざるをえなかったのは︑手元にある新潮社﹃現代長篇小説全集︵八︶谷崎潤一郎
篇﹄︵一九二九・十一︶に収めてある﹁鮫人﹂﹁神と人との間﹂﹁鬼の面﹂﹁黒白﹂と︑改造社﹃日本現代文学全集合一十四︶
谷崎
潤一
郎篇
﹄︵
一九
二七
に収録されている
﹁痴
人の
愛﹂
﹁少
年﹂
﹁鴛
姫﹂
﹁信
西﹂
﹁兄
弟﹂
﹁二
人の
稚児
﹂﹁
金と
銀﹂
﹁S
O
﹀忠同︒同同
a 4 5
4 そ
g n F g
﹂﹁
人面
痕﹂
﹁お
固と
五平
﹂﹁
或る
少年
の怯
れ﹂
﹁赤
い屋
根﹂
であ
った
︒翻
−訳
集の
最後
に︑
改造
社﹃日本現代文学全集﹄に収めてある一九二七年までの年譜をもとに作成したと見られる略年譜が添えられている一u右記
の二
冊は
前述
した
よう
に︑
ほとんどの蔵書を失った田漢にとっては極めて貴重な存在となっていたので︑彼はそれに収め
てある谷崎の初期作品をよく読んでいたに違いない︒
回漢が谷崎の作品をいかに熱心に読んでいたかは︑谷崎が一九二六年に上海から帰国した直後に発表した﹁上海見聞録﹂
の一
節か
らも
よく
分か
る︒
創作家であり菊池寛劇選の翻訳者である回漢君は︑何と云っても日本の現代文学に最もよく通暁してゐる︒或る晩一
緒に﹁新六三﹂へ飲みに行った時︑私がやに下ると一五ふ言葉を云ったら︑座に居た長崎生れの芸者や外の日本人諸氏は
大概その意味を解しない︑甚だしきは﹁野に下る﹂ことを云ふのですかと云った人もあるのに︑田漠君はちゃんと知つ
てゐ
たば
かり
では
く︑
その
言葉
︑が
私の
旧作
﹂回
開﹀
司﹀
問︒
司叶
君︒
巧﹀
叶の
田明
日山
ョに
ある
こと
迄も
覚え
てゐ
られ
たに
は︑
作者自身も既に忘れてゐたことで︑全く恐れ入ってしまった︒︵傍点は原文︑以下同︶
このように谷崎と親しく交友し︑その文学を熱心に読み︑しかもその唯美主義の影響を受けていたと明言している回漢
に︑谷崎文学からの影響がないとは言えまい︒
田漢
の
﹁濃厚な唯美主義的な傾向を見せている﹂話劇﹁古池の音﹂は︑谷
崎文学の影響を受けていると思われる︒次は︑﹁古池の音﹂を解読しながら︑谷崎潤一郎文学との影響関係を探っていき
こ ︑ ︒
+
I
−ν一 、
﹁古 池の 音﹂
と谷崎潤一郎文学
︵ご美少女を育てる夢||﹁痴人の愛﹂との関連
﹁古
池の
音﹂
は舞姫であった美瑛が古濠に飛び込んで自殺してしまったが︑それを知らない詩人が旅から家に帰るとこ
ろか
ら始
まる
︒
詩人
は︑
﹁俗
世の
誘惑
﹂
から舞姫を救い出し︑自分が旅から帰るまで﹁堪らないほど寂しい高楼﹂に閉じこめる︒彼の
望みは︑この高楼で落ち着いて読書に専念させ︑一日も早く高尚な精神世界に近づいてほしいのである︒旅から帰った詩
人は︑机に広げて置いてある本を見かけ︑次のように感銘する︒
回漢
の話
劇﹁
古池
の音
﹂と
谷崎
潤一
郎文
学の
唯美
主義
七
} \
僕は勝った︒成功した︒ようやく彼女を俗世の誘惑から救い出したのだ︒肉体の喜びに耽っていた人聞を目覚めさせ
たのだ︒︵略︶母の手紙によると︑彼女は二ヶ月も高楼を降りたこともないそうだ︒思いがけないことに︑彼女はきっ
ぱりと間違いを直す子なのだ︒
﹁ 俗
世 ﹂
から好きな少女を見出し︑自分の望む通りに改造するという点は︑谷崎潤一郎の耽美主義の代表作﹃痴人の愛﹄
に通
じて
いる
と思
われ
る︒
長篇
小説
﹃痴
人の
愛﹄
︵﹃
大阪
朝日
新聞
﹄
一九
二四
・三
・二
01
六・
十四
と﹃
女性
﹄
一九
二四
・十
一
1
一九
二五
・七
︶
の主
人公
︑
模範的な二八歳の会社員河合譲治は︑結婚に対する夢があった︒幼い少女を引き取って自分の理想の女性に育て上げたい
という夢である︒彼は浅草のカフェで出会った十五歳の少女奈緒美を気に入り︑彼女を引き取り︑洋館で二人暮らしを始
める︒最初は楽しい日々だったが︑成長につれてますます美しくなる奈緒美は︑精神的には全く進歩せず︑次第に堕落し
てしまう︒奈緒美が他にも何人もの男とねんごろなつきあいをしていることに気付き︑譲治は彼女を外出させないように
した
︒
しかし︑相変わらず男との密会が絶えない奈緒美を彼は追い出してしまうが︑次第にどうすることもできない状態
に陥ってしまう︒彼にとって奈緒美は美しい天使であるが︑奈緒美にとって譲治は︑お金を出してくれる奴隷でしかなく
なる︒結局︑彼は会社を辞め︑田舎の財産を売った金で横浜に奈緒美の希望通りの家を買い︑
二人
で暮
らす
よう
にな
る︒
譲治は︑限りなく美しさがましてゆく奈緒美の肉体の奴隷として生きていく︒
少女を自分の理想像に近い人になるように育てるという夢は︑﹃痴人の愛﹄の譲治も﹁古池の音﹂の詩人も持っている︒
譲治はカフェで働く美少女奈緒美を気に入り︑彼女を妻としてはずかしくないほどの教育と作法を身につけさせ︑いい時
期にお互いが好きあってから夫婦になりたいと思う︒﹁古池の音﹂の詩人は︑舞姫である美少女美瑛に引かれ︑彼女を自
分と同じような﹁芸術に魂をあずける﹂人間に育てようとするのである︒
譲治と詩人の計画は最初の頃はうまく行き︑幸せな日々を送っていた︒しかし︑美少女を自分の理想に合う女性に育て
るという夢は長くは続かない︒奈緒美は精神的には全く進歩しないどころか︑堕落の道をたどり始める︒結局︑譲治は︑
美しくなりつつある奈緒美の肉体の美に取り濃かれ︑永遠にその奴隷になっていく︒一方︑美瑛は﹁新生﹂したどころか
古池の誘惑に負けて高楼の下にある古池に飛び込む︒詩人は復讐のため︑古池を叩き壊そうとして自身も古池に飛び込む︒
美少女を自分の理想に合う女性に育てる夢を持ち︑しばらくはうまくいったようであるが︑結局破滅してしまう点で︑
﹁古
池の
音﹂
は﹁痴人の愛﹂に酷似していることが分かる︒
( 一
一
)
足の崇拝者||﹁富美子の足﹂との関連
﹁古
池の
音﹂
の詩人は︑家に帰った時︑机に広げて置いてある本を見ると︑美瑛がベッドで休んでいると思い︑
レー
ス
が垂れているベッドに向かって美瑛の名前を呼んでも反応がないので︑美瑛がまだ熟睡していると推測する︒この時︑彼
はベッドの前に並べてあるハイヒールの靴に目を向ける︒この靴を見ると︑美瑛が試着する時の魅力的な様子を思い出す
のを
禁じ
えな
い︒
彼女はまだこの靴を履いているよ︒これは彼女の以前の楽しい生活の唯一の記念と言えるでしょう︒
︵靴
を持
ち上
げ
て思
いに
耽る
︶あ
あ︑
靴︑
そしてこれを踏んでいる足と腿は︑どれほどの罪悪の花であろうか︒ああ︑人を美の地獄へ
と誘惑するものだよ︒まだ覚えているよ︒彼女にこの靴を買ってあげたのはある冬の夜だった︒彼女は薄い黒色のストッ
キングを穿いた腿を伸ばして僕に靴組を結んでもらったのよ︒||僕は紐を結びながら︑心の中で不思議に思っていた︒
どうしてこの小さなハイヒールは︑彼女の足が履いたら︑直ちに人間を地獄へと誘惑する悪魔となるのだ︒ああ︑もし
回漢
の話
劇﹁
古池
の音
﹂と
谷崎
潤一
郎文
学の
唯美
主義
1L
0
四僕がこの楼閣の主人でなければ︑もはやとっくに君の奴隷になってしまったよ︒
しか
し︑
今は
︑:
::
君は
僕の
奴隷
にす
ぎな
いの
だ︒
詩人は女性の足に魅了されることによって︑奴隷にまでなれるのである︒
﹁古池の音﹂と同じく一九二八年に刊行された﹃銀色の夢﹄︵上海良友図書印刷公司︶にある﹁杏娘﹂という一節にも︑女
性の足に目が引かれる場面がある︒
祖父の家に行く途中︑私の中の少年の心が何度もどきどきしたことがある︒しかし︑今日ほどどきどきを感じたこと
はない︒︵略︶なぜなら︑今日は極めて魅力的︵岳民ヨロ伺︶な娘が斜めに洗濯板に脆いて服を洗っているのだから︒
︵略︶彼女のやや力を抜いたような姿勢から︑生命力が流れている曲線を満喫できるのだ︒
︵略
︶足
の崇
拝者
︵向
︒︒
?
同町巴岳仲間同︶でなくても︑愛嬬を持つてはずかしそうに斜めに洗濯板に脆いている時の水中の倒影を永遠と忘れられな
いの
だ︒
女性の足に対するこの異常な愛着と崇持は︑谷崎の
﹁富
美子
の是
﹂︵
﹃雄
縛﹄
一九
一九
・六
︑七
︶を
連想
させ
る︒
﹁富
美子
の足
﹂
は︑﹁蘇州紀行﹂﹁秦准の夜﹂﹁西湖の月﹂というような中国を舞台にした小説とほぼ閉じ時期に発表した
もの
であ
る︒
当時
︑
日本に留学中で︑文芸に強い関心を持ち︑また谷崎の一番初期の作品﹁豆町﹀忠町民叶
4 3 4
︿ 箆
n v
﹂g
さえも熟読していた田漢は︑この作品も読んだことがあるのではないかと思われる︒
気障なところがあって下町趣味の老人塚越は︑芸者富美子を妾にしてから︑一族の者からのけものにされるようになる︒
老人の遠い親戚である美術学校の学生字之士口に︑富美子をモデルにして絵を描くよう依頼する︒字之士口は次第に︑
この
老
人が﹁変に人の足元へ絡み着いて来るやうな執念深い性質﹂を持っていると発見する︒ ある日︑老人は地袋の底から古ぼけた一冊の草双紙を出し︑その中に刷つである挿絵の一つである︑縁側に腰をかけな がら︑泥で汚れた右の素足を手拭で拭いている女性の姿を︑富美子にまねてもらい︑宇之吉に描いてもらうようしつこく 頼んだ︒そこで︑宇之吉は週に二回老人の家を訪ねて富美子をモデルに絵を描くことになる︒富美子の足は美そのもので ある︒字之吉は絵を描くうちに︑その足に深く引きつけられるようになる︒
真直ぐな︑白木を丹念に削り上げたやうにすっきりとした腔が︑先へ行くほど段々と細まって︑螺の所で一旦きゆっ と引き締まってから︑今度は緩やかな傾斜を作って柔らかな足の甲となり︑その傾斜の尽きる所に︑
五本の駈が小駈か
ら順々に少しづっ前へ伸びて︑親駈の突端を目がけつつ並んで居る形は︑お富美さんの顔だちよりもずっと美しく僕に
は感
ぜら
れま
した
︒ お富美さんのやうな﹁顔立ち﹂
は︑世間に類︑がないことはありませんけれど︑こんな形の整った立
派な
﹁足
﹂ は今迄嘗て見たことがありません︒甲がいやに平べったかったり︑世と駈との列が開いて居て︑聞が透けて 見えたりする足は︑醜い器量と同じゃうに不愉快な感じを与へるものです︒然るにお富美さんの足の甲は十分に高く肉
を盛
り上
げ︑
五本の駈は英語のm
と一五ふ字のやうにぴったり喰着き合って︑歯列の知く整然と並んで居ます︒:・:か う云ふ美しいものを見せられる度毎に︑僕はつくづく︑造化の神が個々の人聞を造るに方って甚だ不公平であることを
感じ
ます
︒ のち︑老人塚越は重病を得て物を食べられなくなった時︑牛乳やス
lプを綿の切れに付け︑富美子の足の世に挟んで自
分の口の端へ持って来るように頼む︒さらに臨終を迎えた時︑﹁息を引き取るまで︑ずっとお前の足で私の顔を踏んでい てくれ﹂と命じ︑富美子の足の下で無限の歓喜のうちに死んだのである︒
回漢
の話
劇﹁
古池
の音
﹂と
谷崎
潤一
郎文
学の
唯美
主義
四
四
老人は徹底的な﹁是の崇拝者﹂である︒この﹁変に人の足元へ絡み着いて来るやうな執念深い性質﹂
は一
般的
では
なく
︑
しかも人並みのものでもないため︑読者に与える衝撃が大きいと想像できる︒
回漢
の
﹁足
の崇
拝者
︵内
g
?E
Z V
E
︶﹂と
い
う言
葉づ
かい
は︑
﹁富
美子
の足
﹂
中国
では
︑
の老人塚越を意識した発言と考えられる︒
五代︑宋以降から辛亥革命にかけておよそ千年の問︑纏足の風習が盛んであった︒男性にとっては︑女性
の足はとても魅力的な存在であった︒
回漢
が
﹁杏娘﹂を書いた一九二八年頃︑纏足はすでに禁止されており︑若い杏娘は
纏足していないと思われる︒ところが︑纏足の風潮がないものの︑長年人々の意識に浸透していた女性の足に対する注目
は
一朝
一夕
に改
まる
もの
では
ない
︒
回漢が単に女性の隠すべき素足を魅力的に思っていたことは否定できないが︑谷崎
の﹁富美子の足﹂によって︑女性の足を崇拝するという中国の伝統的な潜在意識にあるものが喚起されたこともないとは
言え
ない
であ
ろう
︒
( ーー
一
)
鮫人||﹁鮫人﹂との関連
﹁古
池の
音﹂
の詩人は︑長旅から戻るとき︑美瑛に珍しいお土産を数多く持って帰る︒流行のマフラー︑
シル
クの
生地
︑
シル
クの
靴︑
帽子
︑
スト
ッキ
ング
︑
クリーム︑楽譜︑香水のほかに︑大好物のライチもある︒最後に︑﹁見ればきっと嬉
しく
て堪
らな
い﹂
﹁宝
物﹂
である﹁まんまるで輝いている﹂真珠を取り出す︒詩人は︑南洋のある島で︑猟師がカップル
の鮫人を捕まえている場面に遭遇した︒男の鮫人は猟師に殺され︑女のほうは詩人に救われた︒女鮫人は感動して泣いた︒
真珠
はそ
の涙
であ
る︒
中国では︑貌晋時代から鮫人に関する伝説がすでに多く伝えられ︑晋代の﹃捜神記﹄には︑鮫人は中国の南海の果てに
いつも機織をしていてその手を休めることなく︑泣いた涙は真珠になると記
されている︒曹植﹃七啓﹄や左思﹃呉都賦﹄にも鮫人が取上げられている︒杜南﹃客至﹄と張華﹃博物士山﹄の詩には︑人 住む人魚であり︑魚の姿で海の中で暮らし︑
情厚い鮫人は思返しとして血と涙の結晶である真珠を恩人にあげると記されている︒謎に包まれた存在である鮫人は︑中
国古典文学においては︑恩は倍にして必ず返し︑善良で人情厚い人物のシンボルとしてしばしばたたえられている︒小泉
八雲︵ラフカデイオ・ハ
l
ン一八
五
01
一 九O
四︶の
その涙は紅玉になったと変更されている︒ところが︑南海では真珠が特産であるため︑中国の古典
﹁鮫
人の
思返
し﹂
︵一
九
OO
︶も︑俵屋藤太郎に救われた鮫人が思返し
をす
る物
語で
ある
が︑
では
﹁珠
﹂と
なっ
てい
る︒
国漢による谷崎作品の翻訳集﹃神と人との間﹄の評伝の冒頭には︑谷崎の未完の長篇小説﹃鮫人﹄︵﹃中央公論﹄
一九
二
0
・一︑
三
1
五︑八
1
十︶が取上げられている︒中国に一年間滞在した服部の友人南貞吉が中国江南地域の美しい風景を追憶する部
分が
ある
︒
田漢はそれを引用し︑現在の中国は内戦によって様子が一変したと記している︒
﹃鮫人﹄は連載が始まった半年後︑前篇だけで中断された︒落暁した青年画家服部は引越しを重ねて浅草公園の隣に住
みつく︒次第に食欲に心が奪われつつある服部は︑俳優たちから小遣いをもらいによく浅草劇場へ行く︒そして次第に︑
歌唄いの少女林真珠に惚れてしまう︒真珠はそのことに気づかず︑服部に小遣いをあげつやつける︒ところで︑林真珠は芸
名で︑本名は林しづであり︑謎に包まれている少女である︒上海で公演した際︑中国劇の男役をしていた林真珠は︑外見
が中国の少年﹁林真珠﹂とそっくりであった︒そのため︑息子の﹁林真珠﹂と離散した父親は︑林真珠を自分の息子と思
い込んでしまい︑失ったわが子を思う一心で舞台に飛び込み大騒︑ぎをする︒その父親を車夫として雇い︑
一緒
に劇
場に
来
ていた資本家証氏は舞台の裏へ陳謝に行く︒その時︑証氏は林真珠の美しさに打たれる︒のちに︑改めて陳謝の意を表し
たいと言い︑彼女を自分の別荘で開いた宴会に招待し︑騒ぎを起こした父親とその娘に同席してもらう︒娘は自分とそっ
くりの林真珠と姉妹の誓いを結ぶ︒宴会後︑林真珠は証氏に別の別荘に呼ばれ︑翌日の夕方帰されたが︑その間何が起こっ
たかは謎である︒このことは︑上海で大いに報道されたが︑日本に帰った後︑劇団の支配人はこの謎の事件を隠してしま
ぅ︒その後︑支配人と同居している林真珠は︑真夜中みなが熟睡していた頃家を空け︑朝みなと同じように起きるように
回漢
の話
劇﹁
古池
の音
﹂と
谷崎
潤一
郎文
学の
唯美
主義
四
四四
なる
︒
その真相を明かすため︑支配人は服部に林真珠を尾行してもらうと頼むところで︑小説は謎のままで中断してしま
三つ ノ︒
﹃鮫
人﹄
には
︑
一言
も﹁
鮫人
﹂
について触れていないが︑これからの展開で﹁鮫人﹂と名づける理由は分かるのであろ
ぅ︒
﹁真
珠﹂
とい
う名
前︑
および服部に小遣いをあげ続ける優しい心を持っている︑そして謎に包まれている点から見る
と︑林真珠を人情厚い鮫人に喰えていると推測することが可能であろう︒
回漢は鮫人に関する伝説を知っていると思われるが︑谷崎の﹃鮫人﹄というタイトルから鮫人についての故事を連想し︑
﹁古池の音﹂に神秘性を付け加えるため︑鮫人の涙からできた真珠についての一文を書き入れたと想像できよう︒
︵四︶漂泊者||﹁ある漂泊者の悌﹂との関連
﹁古
池の
音﹂
の詩人は二ヶ月の長旅から帰って来た︒どこへ旅に出たかは触れていないので︑漂泊者と言えよう︒
方
美瑛は︑詩人が旅に出かけた一ヶ月後︑本もあまり読まなくなり︑ピアノもほとんど弾かずに︑露台で歌ってばかりであっ
た︒以前は詩人の影響を受け︑﹁生命は短いものであるが︑芸術は不朽である﹂と思っていたが︑今は︑体を大事にしな
いと不朽である芸術を全うできないではないか︑という母のアドバイスに対して次のように言う︒
私は漂泊な生活に慣れた子だよ︒南のほう︑北のほう︑黄河︑揚子江︑どこにも私の足跡が残っているが︑
r
こに
も
私の魂が残っていないのだ︒私の魂はいつも向こう側の山と川を眺めているのだ︒この世界に来たばかりだが︑もうす
でに次の世界に行く準備をしておいた︒もともと先生の言うことを信じて︑芸術に魂を預けようと思っていたが︑自分
の魂は芸術の宮殿にも住み慣れないと私に教えてくれた︒一刻も落ち着くことができず︑間もなく旅立つのよ︒
美瑛もまた漂泊者である︒何のために漂泊生活を送っていたがについては語っていないが︑作者田漢が当時︑﹁南国社﹂
を率いて各地で公演していたことを連想させる︒
この
よう
な漂
泊詩
人は
︑同
時期
の話
劇﹁
南帰
﹂︵
﹃南
国﹄
月刊
第一
巻第
三期
︑
一九二九・七︶にも登場している︒桃の拒が間
もなく散る頃︑母親は娘の春をある情熱的な農家の少年と婚約させた︒ところが︑春の心には︑以前この村に滞在してい
たある漂泊者のことしかないのである︒彼女はこの漂泊者が木に刻んだ詩を毎日読み︑彼が残したぼろぼろの靴を枕にし
て寝ている︒ある日︑この漂泊者は夢のようにようやく戻ってきた︒春は宝物を得たように︑二度と彼と離れたくないと
思う︒漂泊者も幻を追いかけることに疲れて︑この村に残り︑永遠に春と一緒にいるかもしれない︒ところが︑春が農園
へ野
菜を
取り
に行
く問
︑
母親は春をすでに婚約させたことを漂泊者に伝え︑﹁もう少し早く来たらよかったのに﹂と言つ
た︒この漂泊者は仕方なく︑新たな果てない旅に出かける︒
田漢は日本滞在中の一九二O年一月二七日に︑﹁漂泊の舞踊家﹂
とい
う詩
を書
いた
︒
ノマロフ朝に属し︑極めて重要視
されていたピアニストとダンサーが
れた︒当日の﹃朝日新聞﹄に載っている︑ 一九一七年のロシアの﹁二月革命﹂以後︑シベリアで漂泊の生活を余儀なくさせら
日本へノマロフ朝時代の同僚を探しに来たという事実を序文として記している︒
詩は次のように始まる︒
漂泊!これは詩人の生活︑琴師の生活︑
歌姫の生活︑舞踊家の生活︑
すべての芸術家の生活だ
f
君達
は芸
術家
だ︒
君達はこのような生活|lこのような漂泊的な生活を
困漢
の話
劇﹁
古池
の立
日﹂
と谷
崎潤
一郎
文学
の唯
美主
義
一四
五
四
ノ、
過ご
して
いる
のだ
︒
﹁漂
泊﹂
が
﹁芸術家の生活﹂だと断定しているのである︒実際に︑回漢の初期の話劇には︑漂泊生活を送らざるをえない
詩人︑琴師などの芸術家が度々登場している︒このような漂泊者は︑谷崎が最初の中国旅行後に創作した﹁或る漂泊者の
悌﹂
︵﹃
新小
説﹄
一九
一九
・十
二に
も描
かれ
てい
る︒
﹁去
年の
今頃
||
十月
二十
五日
の午
後二
時﹂
頃︑
﹁私
﹂
は天津の市中で一番立派な︑まるで欧州の都会であるようなフラ
ンス租界で散歩する時︑反対方向からよぼよぼとつまずいてくる乞食のような男を見かけた︒よく注意して見ると︑乞食
のようであるが︑面長な顔だちのどこかに品があり︑生まれながらの賎しい人間ではないらしい様子がうかがえる︒
真黒な援と垢との中に光って居る二つの眼︑形が崩れて歪みかかっては居るけれど︑元は立派であったらうと想像さ
れる優雅なきゃしゃな鼻筋︑それ等はたしかに労働者や乞食の顔の中にあるものではない︒殊に私の興味を動かしたの
はその眼であった︒︵略︶それは美しさの点から云っても︑また美しい癖に無表情である点から一五つでも︑全く憧楼に
包ま
れた
宝玉
であ
った
︒
﹁ 私 ﹂
はこの男のことに気になり︑彼の後に付いていった︒男は大通りを一直線に歩き︑賑やかな白河の海岸通りの突
き当たりまで来た︒川縁に苦力の休息所に充てられた小屋の横にある煉瓦の堆積の上に腰を下ろして︑
マド
ロス
の持
つパ
イプを探し出し︑空っぽのまま日にくわえて︑
しき
りに
すぱ
すぱ
と脂
を吸
った
︒﹁
私﹂
はこの様子を見て︑次のように推
測し
た︒