1 はじめに
米国の国際政治学者スタンレー・ホフマンは、
1981年刊行の『国境を超える義務──節度ある国 際政治を求めて』の冒頭で自らの立場を「リベラ ル」と明言し次のように述べている。「リベラル であるということは、必ずしも進歩を信奉してい ることを意味するのではなく、ただ単に、人間と 社会が完成に近づきうる存在であること(これは 限定的でもありえようし、可逆的でもありえよ う)を信じ、特に、社会をより人間的かつ公正に し、市民の境遇をより良くしうる諸制度が合意の 基礎の上に作られる可能性を信じている、という ことだけを意味しているにすぎない。」(強調は筆 者)(1)
筆者は、ホフマンによるこの「リベラル」の定 義に強い共感を覚えており、この文章のもつ意味 を国際政治の文脈でもう少し深く考えてみたいと 思っている。これが本稿執筆の意図であるが、そ の際、議論の素材としては『国境を超える義務』
ではなくホフマンの別の論考「リベラリズムと国 際問題」を利用したいと思う(2)。その理由は、
むろん前者に論ずる価値がないという訳ではな い。そうではなく、前者が武力行使、人権、配分 的正義、世界秩序といった国際倫理をめぐる諸問 題を広く考察しているのに対して、後者が国際政
治のなかでのリベラリズムの可能性に論点を集中 し(そしてそれは国際関係において紛争と対立よ りも協調と協力に焦点をあてる平和の思想の可能 性を検討することでもある)、またその議論の展 開がより体系的に行われていると筆者が考えるか らである(3)。
ホフマンは、「リベラリズムと国際問題」のな かで共通価値の不在(dissensus)を前提として展 開されるアナーキーな国家間政治の暴力的現実
(the logic of interstate politics)から出発し、その 渦中にあって「できる限り多くのリベラルな価値 と配慮」(395)の実現を模索しているが、むろん それが苦難に満ちた作業であることには十分自覚 的である。たとえば同論文でホフマンは、リベラ ルを三つのグループに分け、自身が属する第三グ ループについて「私の属する第三のグループは、
おそらくその発想の源としてシーシュポスを掲げ てきたが、カミュとは異なって、自分たちが幸福 だとは思えないでいる」(395)と語り(4)、国際 問題が「リベラリズムにとって打ち勝ちがたい難 敵(the nemesis of liberalism)」(396)である理由 を縷々指摘している。以下では、まずこの点に着 目し同論文におけるホフマンの議論を追いながら 国際関係においてリベラルな価値と配慮を追求す ることがいかに苦難に満ちた作業であるかを確認 することにしたい。
論 文特集:「思想」としての平和
リベラリズムと国際政治 ─スタンレー・ ホフマンの議論を手がかりに
黒 田 俊 郎
(新潟県立大学)
2 リベラリズムの限界
ホフマンは、リベラリズムをアイザィア・バー リンの流儀に従って、個人の自由(とりわけその 精神的な自律性)に最大の関心を払う教義と理解 し、その二側面の重要性を強調している。すなわ ち他者による強制や拘束からの自由(消極的な自 由)と統治プロセスに参加していく自由(積極的 自由)である。国家は、なによりもまず個人の自 由が他者(とりわけ強者、多くの場合は支配者や 権力者)の行為によって恣意的に破壊されるのを 防ぐために設立され、さらには構成員間に共通す る問題に取り組むために民主的な自治の諸制度に 基づき運営されなければならない(395)(5)。こ のようなリベラリズムの原則は国内政治(そこで はリベラリズムは制度化可能である)と比較した 場合、人類が複数の国家=競合する政治単位に別 れて暮らしている国際関係ではきわめて適用する ことが難しいとホフマンは述べ、次のように論じ ている。
リベラリズムの本質は、自己抑制、節度、妥協、そし て平和である。国家はその本来の活動範囲内に封じ込 められなければならず、政府は法が定めるやり方での みその権力を行使することができる。諸集団や諸個人 は、お互いの自由を侵犯したり抑制したりすることを 避けなければならず、社会生活の構成要素たる紛争は、
理性によって解決されなければならない。すなわち紛 争は、暴力によってではなく、交渉の結果生みだされ る取り決めや構成員の自由意思に基づき設立される権 威に依拠することによって決着づけられなければなら ないのである。他方、国際政治の本質は、以上述べた リベラリズムの本質とはまさに正反対なものである。
それは、最善の場合でも不安定な平和にすぎず、そう でない場合は、戦争状態によって特徴づけられる。絶 えず存在する戦争の危険によって、伝統的には、軍事
力が国家の力を測定する指標とされ、抑制は、もしも それが発生する場合にも、通常は抑止、すなわちより 大きな武力に対する恐れやそれとの衝突から生みださ れる。妥協が行われ、協力が進展することもむろんあ るが、両者とも、関係当事者の利害関係が変化し力関 係が変わるとき、崩壊してしまうのである。国内にお いては、リベラルな諸制度が諸個人間、諸集団間の力 や富の著しい不平等を補い軽減する目的で、また国家 という国内でもっとも強力で豊かな力が他のすべての 者を押しつぶすことを防ぐために設立されているが、
世界政治では、そのような制度は存在しない。そこで 全面的な劇を演ずるのは、まさにジャングルにおける のと同様に、力と富の不平等と不公正であり、メロス 島民との対話をめぐる逸話にはリベラルな要素など微 塵も存在しない。もしもリベラリズムの論理が強者に 対抗する平均的な人間や弱者の論理であるならば、国 際政治の論理はいぜんとして強者の論理のままであり、
国際問題は、力ある者たちの興亡と継承の物語なので ある(396)。
リベラリズムが国際政治の舞台で存続困難であ ることは、たんに国際政治の問題にとどまらず、
二つの点でリベラルな政治秩序の構想に深刻なダ メージを与えてきたとホフマンは述べている。第 一に戦争状態が国境線の向こう側に存在するかぎ り、国内においても個人の自由の確保というリベ ラリズムの最大目標は危機に瀕することになる。
それはある場合は、外国の侵略者の脅威に晒され るであろうし、他の場合には、国防や国家安全保 障の名の下に市民の自由が権力者によって恣意的 に犯される恐れがあるからである。第二に個人の 自由に対する脅威は国内外の国家からのみ生じる わけではなく、さらに深刻なことには、私たち自 身のなかからも生まれてくるのである。市民革命 以降、民衆の同意に基づき絶対王政や帝国がナ ショナリズムを伴いながら国民国家に再編されて いく過程でリベラリズムは、国内において民主的
な自治の制度の構築により権力は分割され民衆の 統制下に置かれることによって自由と権威との和 解がもたらされ、社会の多元性が確保され、国内 に平和と秩序が生みだされると考えてきた。そし て同時に民衆は疑いもなく平和を望むがゆえに民 主的な国民国家の登場は対外的にも国際平和を招 来するものとみなされたのだが、19世紀、20世紀 の歴史的経験(それはまさに「ポスト啓蒙的な経 験」であった!)が示すところによれば、リベラ ルな政体を国内に有する先進諸国の多くは、往々 にして非リベラルな国家や彼らが後進的だと見な した地域に対しては、愛国心に煽られた民衆=国 民の支持を背景に情け容赦のない無慈悲で残酷な 戦争を仕掛けてきたのである。国際問題において は、完全にリベラルな政体として行動することが できたような国家は存在しなかったのである。戦 争状態を本質とする国際政治のゲームの本質が、
そして各国がゲームを演ずる舞台に見られる力と 富の著しい不平等と不公正がリベラリズムがなん とか国内では押さえ込んできた「人種差別主義、
残忍さ、そして不寛容」を国際問題の只中で蘇生 させ活性化させるのである。そして「そのような ジャングルのなかでは、リベラルな諸原則をあた かも適用可能であるかのように振る舞うことは、
まさに破局的な事態をもたらすかもしれないので ある。」(397)
人類が共通の政府を持たぬまま複数の国家に分 かれて暮らしている国際政治の現実は、諸国家を 取り巻く錯綜とした歴史的経緯と文化的脈略とあ いまって、リベラリズムが前提とする自然権や功 利主義といった普遍的な思考のあり方を相対化し 無効化する。権利の有無やその内容・主体につい ての国際的合意は見いだされず、人類にとっての
「最大多数の最大幸福」を判定する客観的な第三 者も存在しない。諸国民は、自らの言葉で自らの 権利と幸福を声高に主張し、相容れない一般意思 の対立は、人類をして「定言的命令の実現にでは
なく合理化された殺人」(399)に駆り立てていく。
歴史を回顧してみると、リベラルな思想家たち は、その時々の重要な国際問題、たとえば民主化 のための内政干渉の是非や民族自決権の評価、植 民地主義の功罪や勢力均衡政策の当否などに対し て一致した見解を打ちだすことができなかったし
(399-400)、アナーキーな国家間政治の暴力的現 実を直視するならば、個人の自由を保障するため に権力を制限し社会の多元性を維持する目的で考 案されたリベラルな国内諸制度は、意思の統一と 権力の集中を必要とする外交政策の策定と遂行に あたっては国益追求の枷にしかならなかったのか もしれないのである。そしてホフマンは次のよう にも述べている。
より深いレベルで見てみると、リベラルな統治者が必 要とする徳目と国家間政治の非情なドラマに関与して いる政治家が必要とする徳目とは相容れないものでは ないだろうか。国家間で展開するこの残酷で冷徹なド ラマをめぐるマックス・ウェーバーの魅惑的かつ陰惨 な見解は、かれの近代官僚制支配に対する脱呪術化と ほとんど同程度に、ウェーバーのカリスマ的リーダー シップへの関心を説明してくれるし、かれが(ビスマ ルクとは異なって)国内ではリベラルな諸価値をなん らかの方策で尊重し、しかし世界の戦場ではドイツ国 民の固有な文化と利益を英雄的に守ってくれる統治者 を執拗に追い求めていくことを説明してくれる。・・・
憚ることのない真正なリベラルな思想家、ジュディス・
シュクラーは、リベラルな指導者にとって必要な冷静 沈着な自制心という徳目とウェーバーの心を捉え、彼 がマキアヴェッリから借用した「卓越した所作による 政治(the politics of the great gesture)」とが対照的なもの であることを指摘している。彼女が次のように語るの はまったく正しい。すなわち国内においては、政治家 はめったに「過酷な選択や重大な決定」を行うことは なく、「ありふれた日常的な事柄を忘れてしまうのは、
リベラルな政治の忘却である。リベラルな政治とは、
戦争や革命の企てではなく、平和と妥協の実践なので ある。」しかしこの事実を思い出すことは、リベラリズ ムの苦境を強調するだけである。つまりリベラリズム は、それがもっともうまく適用可能な国内的な「あり ふれた日常」と世界を舞台とした戦争の悪夢、革命の 挑戦、そして「過酷な選択と重大な決定」が繰り返し 必要となる事態とのあいだで引き裂かれているのであ る(400-401)(6)。
国際政治の過酷な現実は、ヒュームやカントが 述べたように、国内外に戦争や革命、独裁や騒乱 を招来しがちであり、リベラルな思想家たちは結 局、その現実を理解するためにツキディデスやマ キアヴェッリ、ホッブズなどいわゆる「リアリズ ム」の創始者たちの著作を熟読・吟味することに なったとホフマンは指摘している。リアリズムの メッセージは明快である。国際政治においては、
通常の道徳は意味をなさず、国家指導者は自国の 生き残りと安全のために悪しきこと(少なくとも 善ではないこと)をなす道徳的義務があるが、
ホッブズの議論に従えば、国家間の戦争は個人間 の闘争に比べれば破壊的ではなく、そこには暴力 に制限を加える余地(たとえば勢力均衡)が存在 している。また国家間の著しい力の不均等は、大 国主導の下、互酬性に依拠した最低限の秩序構築 の契機ともなるのである。しかしリベラルたち は、このリアリズムの処方箋に満足することはで きなかった。ホフマンはその理由を次のように述 べている。第一にリアリストの国際政治理解にお いて中心的な位置を占める戦争に対する嫌悪感で あり、第二に対外的な戦争状態が国内社会にもた らす負の影響(非民主的で独善的な政治の横行と 自由の制限)に対する懸念であり、第三に個人の 自己陶冶・自己実現に対するこだわりとそれが可 能となるためには国家の分権化と自治の確立、そ してある種のコスモポリタニズムの社会への浸透 が不可欠であるという信念である(401)。
こうしてリベラルな思想家たちは、リアリスト に反駁し、国際政治の現実を変えていくために三 つの「改革主義的な戦略(reformist strategies)」
を考案したとホフマンは指摘する。
三つのうち二つは、国際関係をリアリストの著作で記 されているよりも実際にはずっと穏健なものだったと 描いており、それゆえ、個人にとっては道徳的には言 われるほど悲惨なものではなく、政治家にとってもそ れほど制約のあるものではなかったとしている。哲学 的な最初の戦略は、リアリストの人間性理解を拒否し ており、ロックとヒュームがその拒否の二つのパター ンを代表している。二番目の戦略はより歴史的なもの であり、進歩の可能性を強調していた。第三の戦略は カントの戦略であり、リアリストが描く陰鬱な現実イ メージを受け入れるが、むしろそのことによって現実 を変えていく人間の道徳的義務がよりいっそう切迫し たものとして受けとめられるようになると結論づけて いる。そしてカントは、そのような努力の成功の可能 性はあらかじめ排除されたものではないことを示そう と努力し、実際にその成功のための条件が「自然の機 械的な進行」によって生みだされてくることを示そう としたのである(402)。
しかしホフマンは、いずれの戦略も失敗に終 わったと結論づけている。処方箋としては自然法 と勢力均衡による暴力抑制効果を説く第一の戦略 は、国際政治の現実のなかではほとんどなんの慰 めにもならず、歴史の進歩の過程で理性による戦 争の封じ込み、征服に対する貿易の勝利がもたら され、「国境を超えた個人間の交渉領域の増大に よって国家の力が縮小しほとんど無害になる世 界」(402)を展望する第二の戦略は、歴史それ自 体の進展(その現実は、ベンヤミンの「歴史の天 使」を想起すればよい!)によって裏切られてい る(7)。第三のカントの戦略はより複雑でありも う少し詳細な検討が必要である。カントによれ
ば、戦争は、立憲政体の世界的普及によってとい うよりは、戦争それ自体のもつ破壊力の増大に よって廃絶される。そしてその後に共和政体を採 用する諸国家が、世界市民のあいだに見られる
「普遍的な友好」に依拠しながら、自由な連合を 形成することによって「永遠平和」を達成すると 考えられているのだが、ホフマンは本当にそのよ うなことが可能だろうかと問うている。
カントは、共和的な政体は戦争状態が継続するならば 存続不可能と想定する一方で、平和は立憲的な国家の 存在・連合・普及によってのみ達成可能であると見な している。このいわば鶏と卵問題を解決するためには、
次のように考えるしかないだろう。すなわち「自然の 計画」によって最初に戦争と貿易を通して平和の条件 が作りだされ、その前提の下、立憲的な政体とその自 由な連合が可能になるという見立てである。しかし国 家が共和的であることをいったいなにが保障してくれ るのだろうか。とりわけ「自然の計画」に基づき達成 される平和が意識的な道徳的選択による平和ではなく、
恐怖と抑止に基づく平和であるならば、そのような平 和の下、国家が共和的である保障はどこにあるのだろ う。そしてもし国家が共和的でないならば、平和はど のようにして存続可能なのだろうか。もし伝統的な「戦 争状態」が継続するならば、絶えず増大していく戦争 の恐怖によって、誤解と狂気と全面的な破壊ではなく、
知恵と平和の種が蒔かれることを私たちに保障してく れるものはいったい何なのだろうか(402-403)。
こうしてホフマンによれば、国際場裡における アナーキーな混乱を手なずけことができるとの信 念の下、まどかなる調和を夢み「人類の法的共同 体」を構想したリベラルな思想家たちの企ては、
国際政治の過酷な現実によって無残な敗北を喫し たのである。しかしそのことを認めながらなお、
ホフマンは国際関係におけるリベラリズムの可能 性を追求していく(8)。そこで以下では節を改め
て、この点におけるホフマンの議論を紹介するこ とにしたい。
3 リベラリズムの可能性
ホフマンは、リベラリズムの諸原則は国際政治 のなかでは苦悶と苦闘を強いられてきたことを前 提に、世界のリベラルたちが最初になすべき事柄 として、それぞれの国家におけるリベラリズムの 歴史的達成をなんとしてでも死守することを挙げ ている。外交・安全保障政策との関連で述べれば、
カントが示唆する通り情報公開に基づく政策決定 過程の透明化と民主化を維持・強化することが平 和への意思を対外的に公約し「安全保障上のジレ ンマ」を緩和する点でリベラルな国家にとっては なによりも重要となる。そしてリベラルな諸国家 は、機を見て敏なるやり方でリベラルな諸原則が 適用される領域を世界のなかで拡大していく努力 をなすべきである。ホフマンによれば、全面核戦 争の恐怖が核大国に「戦争への正義でもなく、戦 争における正義でもなく、戦争に抗する正義とい う不文律」(407)を課し、リベラルの最優先課題 である平和=人類の存続にとって有利な状況が生 みだされている今、また経済的相互依存の深化に 伴う国際システムの複雑性の増大が調整と妥協の 技法であるリベラリズムにその活躍の場を提供し 始めている今、リベラルな領域をグローバルに拡 大していく機会を掴むことは、とりわけ大切なこ とである。むろんこのような政治面、経済面での 順風はいつ逆風に変わるともかぎらないので(ホ フマンが見つめているのは1970年代後半から80年 代前半にかけての世界である)、「国際関係という 敵対的な環境のなかにリベラルな価値と政治を最 大限導入するためには」(408)、意識的で慎重な リベラルな戦略が必要となるのである。
ホフマンが考えるリベラルな戦略は「最小限戦 略(a minimalist strategy)」とならざるをえないの
だが、そこにはやっかいな問題が控えているとい う。リベラルな戦略が最小限戦略であるというの は、それが国家を超えていこうとするものではな く、国家を国際関係の主たる行為主体とみなし、
人びとの国家に対する思いと忠誠(富と安全を提 供し文化とアイデンティティを擁護するものとし ての国家)を尊重し、国家の行動を通してリベラ ルな諸価値を国家間関係に浸透させていくことに 眼目をおいた戦略だからである。しかし述べるま でもなく国家の対外行動はしばしば暴力的な色彩 を帯び、またある種の国家(権威主義的な国家や 独裁国家)はその国内において市民的自由を抑圧 し対外的にも必要とあればたやすく侵略行動に 打ってでる。人間の自由と尊厳のために闘うリベ ラルは、むろんこのような国家の行動を容認する ことはできない。結局、リベラルは国家と是々 非々の立場で協力するしかないのだが、その線引 きが難しいのである。したがって「人権を尊重し、
他国の繁栄と発展が自国にとっても不可欠である と考え、紛争の解決に際しては武力以外の方法を 好む」(408)リベラルな国家(その数はかならず しも多くはない)は、国際舞台において他国と交 渉するとき、「自由」という重い荷物を背負い厳 しい選択を強いられることになる。ホフマンによ れば、断固たる態度で穏健な道を選びとることが そこでは必要であり、その際、三つの点が重要と なるという。
第一に枝葉を捨てて本質を擁護することであ る。すなわち国内外の暴力を押さえ込み、平和と 妥協の余地を生みだすことであり、単独行動主義 を控え多国間主義を促進し国際関係に多元主義的 な要素をできる限り導入することである。そして 最も本質的な人間の権利の擁護と促進に努力を傾 注することである。第二に国際システムの崩壊に 繋がるような政治的 ・ 経済的破局(核戦争や大規 模な通常戦争、世界恐慌や世界金融危機、発展途 上国における大規模な内戦・経済破綻・国家崩壊、
あるいは貧しい国から豊かな国への急速かつ大規 模な人の移動)を事前に防ぎ、各国が排外主義的 な自助の原理に盲目的に逃避することを阻止する ことである。そして第三にこれらの政策は、当該 するリベラルな国家の実力に見合った実現可能な 政策として遂行されたとき、初めてその意味をも つということを忘れてはならない(409)。しかし 他方で以上三点を心に刻み断固たる態度で穏健な 道を選択したとしても、まさにそれが穏健な道で あるがゆえに、全面的な軍縮はいぜんとして見果 て夢であり、抑止はその強度を下げた形で国家安 全保障の前提であり続け、資源と富のグローバル な配分の全面的な見直しは、政策というよりは、
学問的議論の余地が大きい論争的なテーマであり 続けるだろうとホフマンは述べている。そして世 界に多く見られる権威主義的な国家や独裁政治の 下では、人権侵害は、リベラルな国家の努力にも かかわらず、今後とも消え去ることはないだろ う。
ホフマンによれば、リベラリズムのためのこの ような穏健な目標の設定はある種のリベラルから は拒絶されることになるという。ホフマンがリベ ラルを三グループに分け自身が属する第三のグ ループについてはシーシュポスを旗印として掲げ ていたことは本稿冒頭で確認したが、彼がその際 述べていた他の二グループに属するリベラル、す なわち世界を自由と全体主義との闘争の場として 理解するリベラルなタカ派たちや、国家による武 装と市場による搾取によって特徴づけられる国際 システムの廃絶を即時求めるリベラルなユートピ アンたちは、このよう生ぬるいやり方には満足し ない。そのことを理解したうえでホフマンは、自 らの立場を次のように擁護している。
リベラルな諸価値により適合的な世界を決してリベラ ルとはいえない多くの国をふくむ世界のすべての国々 と共に築いていかなければならない。それではそれは
どのような世界であるべきなのだろうか。ここで一般 的な論述からより具体的な内実に移っていくことにし よう。あるゆる限界にもかかわらず、非ユートピア的 なリベラルな戦略は、ある一点において野心的でなけ ればならない。すなわちそれは構造に変化を生みだす もの(transformist)でなくてはならず、漸進主義的なも の(incremental) で あ っ て は な ら な い。 漸 進 主 義
(incrementalism)は道徳的に疑問が多い。漸進主義が提 供可能な最善なものはある種の穏健なマキアヴェッリ 主義であり、それはいぜんとしてもっぱら武力と強者 による弱者の操作に頼っているのである。漸進主義は、
主権国家内部で犠牲となった人びとになにが起こって いるかについてほとんど関心を示さず、自助の論理に 全面的に依拠するがゆえに、政治的に危険なものであ る・・・構造変容主義(transformism)は、不十分なも のと不可能なものとの中間に進むべく道を見いだすこ とであり、世界政治の(伝統的な)論理をそれを変え るために使用することを意味している。それは、カン トが彼の「自然の計画」を仮定した時に示した見通し の鋭さを立証するように思われる現実の諸要素を利用 しようとすることである。すなわち暴力的な死に対す る恐れと繁栄と発展への欲望であり、大量破壊兵器が 存在する世界における生き残りの願望と経済的崩壊の 恐怖である(410-411)。
ホフマンが提唱する「構造変容的なリベラルな 戦略(a transformist liberal strategy)」は、二つの 目標をもっている。第一にできる限り多くの国に リベラルな価値と制度の拠点と基盤を作りだして いくことである。それはたんなる人権政策にとど まるものではなく、抑圧的な体制を持つ国家内部 の民主的な諸勢力を支援するためにリベラルな国 家によって採用される考え抜かれた慎重かつ大胆 な政策なのである。それは「抑圧された体制にお ける民主勢力の苦悩を公表し、彼らの迫害に抗議 し、彼らに生き残りと強化の非暴力的手段(たと えば潜在的指導者の養成)を提供することであ
り、民主的な政体を持つ国家、とりわけ独裁的な 体制の束縛から解き放たれたばかりの生まれたて の民主主義に対して、貿易、経済・財政面での支 援、文化交流、外交協力の分野などで優先的な待 遇を与えることである。そしてこの戦略で本質的 に重要なのは、リベラルな国家の政府と組織化さ れた市民たちとのあいだで注意深い分業が行われ ていることなのである。」(411)第二の目標は「国 際的なシステムをグローバルなレジームに変えて いく」(411:強調は原文)ことである。今日では 国際関係論分野で広く流布している「レジーム」
概念にホフマンがここで言及したのは、国家が単 独では解決できない(あるいは国家が単独で取り 組んだ場合きわめてコストがかかるような)様々 のグローバルな問題を解決するために諸国家や非 国家的行為主体にそれぞれの分野で拘束力のある
「ゲームのルール」を提供してきた規範、手続き、
慣行、制度のセットとしてのレジームに着目する ことによって、先に引用したシュクラーの言葉
「ありふれた日常的な事柄を忘れてしまうのは、
リベラルな政治の忘却である。リベラルな政治と は、戦争や革命の企てではなく、平和と妥協の実 践なのである」が意味を持つようなリベラルで実 践的な政策空間が国際政治のゲームのなかに出現 したことの意義を強調するためであったのである
(411-412)。
続いてホフマンは、リベラルな構造変容戦略が なすべきこととして、グローバルなレベルでの各 種レジームの構築を通して以下の五つの原則を世 界政治のなかで実践・強化していくことを挙げて いる。すなわち透明性(transparence)、説明責任
(accountability)、応答責任(responsibility)、団結
(solidarity)、非暴力(nonviolence)である(412- 413)。透明性とは情報の公開性を高め自由な情報 の流れを促進することであり、とりわけ人権分野
(各国における人権侵害及び達成状況のモニタリ ング)と安全保障分野(信頼醸成措置)が重要で
ある。説明責任は、各国の指導者は本質的に人民 から公務を委託された者にすぎないという事実に 由来する責任であり、指導者の恣意的な行動を制 限し、嘘や言い逃れに罰を与える仕掛けを工夫す ることが必要となる(独裁者や権威主義的指導者 が跋扈する世界のなかでそれを実現することはむ ろん容易いことではないが・・・)。第三の応答 責任が意味することは「侵略の犠牲者を各国が一 致して擁護し、テロリズムに対抗する共同行動を 企て(それはテロリストを財政的に支援したり 匿ったりする国家に対する制裁をふくむ)、ジェ ノサイドには多国籍的な枠組みでの人道的介入を 準備する」(412)強力なレジームを構築すること である。そして団結とは、国境線の向こう側にい る人びとの苦境に思いをはせることであり、政策 的には配分的正義に叶った社会経済システムを模 索し、絶対的貧困の問題に真剣に対処することで ある。そこでは国家ではなく、苦境にある人びと へのサポートがなによりも大切となる。第五の原 則である非暴力は、国際政治を「戦争と革命の企 てではなく、平和と妥協の実践」としてのリベラ ルな政治に変容させていくうえでとりわけ重要な ものとなる。諸国家は国益追求のための武力行使 を差し控え、正当な武力行使は国際社会が合意し た共通目標にのみ限定されなければならない(そ れは国際的な警察行動に近似するだろう!)。そ う指摘したうえで、ホフマンは1980年代前半の世 界を見つめて「世界的な安全保障レジーム(a
world security regime)」の構築に向けて様々な論
点(モスクワとの真剣な対話の必要性、軍事技術 の進展を踏まえた核不拡散と軍備管理の重要性、地域紛争と内戦の外交的解決の模索など)を検討 している(413-414)。
また戦争とならぶ政治的暴力である革命を考察 することは、(革命はしばしば戦争を誘発すると いう点でも)国際政治における非暴力の可能性を 考える際不可欠となるが、ホフマンによれば、革
命はリベラルにとって頭の痛い問題であるとい う。というのは、革命はめったにリベラルな政体 を生みださないのだが、その一方で革命は政府に よる深刻な人権侵害によって引き起こされるから である。ホフマンは次のように述べている。
世界の舞台で人間の諸権利を真剣に取り扱うことは、
多くの場合、平和を真面目に考えることと同様に緊急 性が高く、つまるところ政治的にも道徳的にも平和の 問題と同じくらい重要なことである。しかしそのこと を自覚してもなお、今後多くの革命が発生するだろう し、またその革命は古い独裁者を新しい独裁者、恐ら くはよりいっそう質の悪い独裁者に置き換えるだけだ ろう。しかし歓迎されざる革命を抑圧するために武力 介入を行うことはリベラルにとって禁じ手である。唯 一の例外は、真にジェノサイド的な状況が発生し、介 入する側がその不偏不党性を証明することができ、介 入の範囲と期間が厳格に制限されている場合である。
他方、現状維持側に立った非軍事的な介入は、その目 的がたんに革命の阻止にあるのではなく、政権側をし て革命状況が発生する原因ともなった彼らの悪を正す 道 に 導 い て い く 場 合 の み、 正 当 化 さ れ る の で あ る
(414)。
以上素描した構造変容戦略を実現していくため に最も重要な点を三つホフマンは最後に指摘して いる。第一に、リベラリズムが国際社会のなかで その地歩を固めていくためになによりも必要なこ とは、リベラルな政体をもつ諸国が外交・安全保 障、財政・金融、社会福祉といった様々な分野で
「正しい政策」を実行し、そのことによってリベ ラルな国家の権威と力を世界のなかで高めていく ことである(413)。第二に、私たちは国内外の政 治の複雑さとそれに由来する制約を無視して自国 の繁栄と富強のみを追求することがあたかも大義 であるかのように妄信する政治家を国家指導者と して選び出してはならないのである(415)。そし
て第三の点、リベラルな国家の市民としての義務 と役割についてホフマンは次のように記してい る。
国内において市民は団結して行動し、国家が不正を働 かず悪に貢献することがないように監視しなければな らない。そしてもし国家が悪と不正をなす場合は、非 暴力的に一致して抵抗しなければならないのである。
その際重要なことは、そのような抵抗には国家からの 制裁が発動されることを覚悟し、またそれはたんなる 抵抗にとどまらず国家の行動を変えていくことを目標 とすべきである。さらに市民は排外的な愛国主義の訴 えを拒絶しなければならず、コスモポリタニズムが要 請する想像力と共感力を示さなければならない。そし て最後に市民は、対外的には国境を超えた協力と関心 のネットワークを構築していかなければならないので ある(415)。
4 むすびにかえて
リベラリズムは、歴史的にみて国家間政治の暴 力的現実のなかでリアリズムに対抗して恒久平和 の実現を構想し希求する最大の思想的冒険であっ たといえるだろう。本稿では、1980年代前半に執 筆されたホフマンの議論に依拠して国際政治にお けるリベラリズムの限界と可能性の一端を検討し てきたわけであるが、私見では、執筆からほぼ30 年が経過した今日でもなおホフマンの論の進め方 は私たちに多くの示唆と希望を与えてくれるもの だと思う。生半可な紹介しかできなかったが、読 者が現代世界における平和の条件を考える際の一 助となれば幸いである。ホフマン自身は、むろん その後の世界政治の変動のなかで国際的なリベラ リズムの危機の諸相となすべき努力について考察 を深めている(9)。その詳細な検討は稿を改めて 行うこととして、ここでは最後に「リベラリズム と国際問題」の結語を引用し、本稿の結びとしよ
う。
世界の出来事のなかで私たちは次のようなカントの信 念を共有することはできないかもしれない。すなわち リベラルが担う課題とは「やがてはゆっくりと解決さ れていき、着実にその目標に近づいていく種類の課題 である」という信念である。しかしそうだからといっ て、私たちは世界がすでに私たちの望むものとなって いるかのように行動してはならないだろう。そうでは なく私たちは、たんなる「休戦の連続に代わって将来、
恒久平和が実現するだろうという展望」が「空っぽの 中味のない思想」ではなく達成可能な目標であること を信じて行動すべきなのである。いずれにせよ、そう することが私たちの義務なのである(416:強調は原 文)。
註
(1)Stanley Hoffmann, Duties Beyond Borders: On
the Limits and Possibilities of Ethical International Politics, Syracuse University
Press,
1981, p.8.(スタンリー・ホフマン『国境を超える義務:節度ある国際政治を 求めて』寺澤一監修、最上敏樹訳、三省堂、
1985年、10頁。)
(2)Hoffmann, “Liberalism and International
Affairs” in Hoffmann, Janus and Minerva:
Essays in the Theory and Practice of International Politics, Westview Press, 1987, pp.394-417. 初出は1987年刊行の論文集『ヤ
ヌスとミネルヴァ』であるが、元々は、1984年11月にコロンビア大学で行われた米 国の著名な文芸評論家ライオネル・トリリ ング(Lionel Trilling)の名を冠したセミ ナーシリーズの講演ために準備されたもの である。なお以下、本論文からの参照・引 用頁数は本文中に( )で示す。本稿では、
この1980年代の論文に依拠してホフマンの
リベラリズム論を検討するが、1960年代の 初期ホフマンの論考のなかでそのリベラル な問題関心の芽がどのようなかたちで存在 していたかについては、拙稿「シーシュポ スの苦役:スタンレー・ホフマンのリベラ リズム論」『法政理論』(新潟大学法学会)
Vol.45, No.3を参照。
(3)ここで詳細に論じる余裕はないのだが、『国 境を超える義務』でのホフマンの基本的立 場をあえて要約するならば、次のようなも のとなろう(同書第1章「倫理と国際関係」
参照:以下、本註における同書からの参 照・引用は訳書頁数を[ ]で示す)。
①ホフマンは、国家の政策決定者たる政治 家に分析レベルを設定したうえで、国際関 係において論ずべき倫理的問題として、第 一に国際関係において政治家が道徳的選択 をなす余地はあるのかどうか、第二にもし あるとするならば、そこにはどのような限 界なり制約があるのか、という二つの問い を挙げている。
②ホフマンは、第一の問いについては、道 徳的選択などあるべきではないとは誰も言 わないが、しかしそれは残念ながらありえ ないと述べる人は多いと指摘し、その理由 としてホッブズ的議論(国際関係は「自然 状態=無政府状態」で、そこでの原則は弱 肉強食)とウェーバー的議論(国際政治は 諸国家が抱く諸価値がぶつかり合う国家間 の妥協が不可能な道徳的対立の場であり、
そのような場においては、政治の倫理であ る「責任倫理」は政治家に必要な場合は自 らの道徳的立場を擁護・死守するために邪 悪な手段の使用を命じることになる)を確 認したうえで、そのような「道徳的選択は ありえない」という議論は十分に説得的で はないと述べている。ホッブズ的議論に対
する従来の反論は、世俗自然法(グロチウ ス、ロック、プーフェンドルフ)や功利主 義(ヒューム)の立場から、無政府状態な 国際関係においても「人間の社会性」は存 在し、そこから共通規範や共通利益の存在 を導きだすものだが、ホフマンは、この立 場には批判的である。なぜならば、歴史的 にみて、それに反する事例があること(共 通規範
/
価値の不在や希少性)を私たちは 経験的に知っているし、ルソーが指摘する ように「人間の社会性」が(他者との比較 を通して)自尊心と競争をもたらし、諸悪 の根源になることもまた多いからである。しかし他方でホフマンは、次のようにも述 べている。「しかしながら、国際政治が自 然状態すなわち戦争状態であるというホッ ブズの荒涼とした描写もまた、国家間関係 の 現 実 を 完 璧 に 描 写 す る も の で は な い・・・いつの時代にも国家同士がすべて 戦争状況にあるなどということはない。そ の描写が歴史のどの時点についても妥当す るわけではないし、また空間的に見ても同 様である。政治家たちがいつもいつも生死 を賭さねばならないとか、そのために叩き のめされ続けるということもない。」[18]
またウェーバー的議論に対しては、国民国 家の権力を至上の価値とする以上、いかな る統治も外交も恒常的な対立に陥ることを 宿命づけられている、というのは誤りであ ると指摘し、国民国家の対立を生存適性の 恒常的で苦難に満ちた判定基準のようなも のであると考えたり、個々の国民国家は神 聖にしてばらばらな本質的実在であって、
その本質的実在の道徳的優劣は国民国家相 互間の戦闘を通じてのみ決定されうると考 えるのも正しくないと主張している[20]。
したがって第一の問い(道徳的選択の有
無)に対するホフマンの答えは、国際関係 にも政治家がなすべき道徳的選択の余地は ある、というものである。
③ホフマンは、第二の問い(道徳的選択の 限界・制約)については、国際関係におい ても政治家は道徳的選択の余地はあるが、
その余地は極度に小さいと述べている。そ の理由は、第一に構造的なものであり(共 通政府の不在[アナーキー]という特徴を もつ国際政治は道徳的選択の余地が極度に 小さくなる形で構造化されている)、第二 に哲学的なものである(価値をめぐる無窮 の抗争というウェーバーの観念を受け入れ ないとしても、なおやはり、現実に機能し ている統一的な国際行動基準などは存在し ない。存在しているのは、相拮抗する基準 や、対立する知的伝統、互いに衝突する道 徳観念である)。そして、第三に政治的な 理由、公正な道徳的な判断をより困難にす る複数の政治的桎梏が存在する。すなわち 状況判断の難しさ(国際政治の運営は国内 政治の運営の何倍も暗中模索を余儀なくさ れる。政治家は国外の出来事を支配せず、
また普通は国外の出来事を明瞭に理解して などいないのだから、その倫理も責任倫理 としては決して完璧たりえない)や国内各 方面からの多様な圧力、そして傲慢や虚栄 に惑わされがちな政治家の本性が指摘され ている。ホフマンは、国際政治の道徳的劣 等性を指摘する。国際政治とは、国内政治 の場合より以上に、道徳的に立派な振舞い をすれば罰金を払うことになる分野なので ある。そこでは欺かれるおそれが常にあ る。たとえば愚直に隣人を信じておとなし く待っているうちに相手から先制攻撃を受 ける、といった具合である。また難民・貿 易上の競争相手国・救済を必要とする国と
いった部外者に対する振舞いが善良すぎる と、国内から思わぬ反発をこうむる破目に なるかもしれないのである[24-29]。
④ホフマンは、次に上記の限界のなかで外 交政策上の倫理的行為はどのようなものに なりえるのか論じ、道徳的政治の二つの基 準である健全な原則と手段の実効性に照ら して、政治家が備えるべき倫理とは、目 的・手段・自己抑制という三つの異なった 要素の混合であると指摘している[38]。
第一に健全な目的の設定とは定言的命令と 功利主義とを混ぜ合わせることであり、第 二に実効性ある手段の選択とは(これは当 然、手段の暴力性/非暴力性に関わる問題 でもある)、妥当とされる目的であっても、
もしそれが自分や他人に過大な犠牲を強い るなら、道徳的政治の要求を満たすものと は言えないということである[40]。この 点をさらに詳述すれば、a)目的そのもの を壊しかねない強要や腐敗を伴うような手 段を選択しないということが道徳的に必要 だということであり、b)選択される手段 は目的と釣り合いがとれていなければなら ないし、またそこで追求されている目的が 自分のすべての目標のなかで占める重要性 の度合いとも釣り合っていなければならな いということであり、c)手段を選択する にあたりそれを用いた時の方が用いない時 よりも諸価値を損なうということがないも のを選ぶべきであるということである
[41]。そして最後に第三の望ましい自己抑 制とは、国際関係において道徳的行為をす ることの目的は、政治家にも市民にも重く のしかかる様々な二律背反を軽減すること であるべきである、ということである。私 たちは皆、国民としての義務と(より漠然 としてはいるが)人類の一員としての義務
との板ばさみになっている。そこで自己抑 制の道徳ということになるのだが、そのた めに必要なのはたんに他人の道徳的主張を 考慮することだけであると論じられている
[42]。
(4)「現在、リベラルは、三つのグループに分 かれているように思われる。第一のグルー プは、自由と全体主義の偉大な闘争の場と して世界を分析する。このグループに属す るリベラルたちは、全体主義に対する十字 軍の闘士となってきた。その代償は、『自 分の国が自由かつ自由のリーダーであるか ぎり、正しくても間違っていようとも、わ が祖国』と声高に叫ぶことであった。第二 のグループは、ユートピアの探求を断念し ておらず、国家の武装解除や共同体主義的 な慣行・規範・制度の普及を通して、国際 政治の論理が最終的に破棄され代替される ための仕掛けを構想し続けている。しかし 彼らはいぜんとして次の問いに答えてはい ない。すなわちいかにしてその変容を達成 でき、私たちは、どうやったらこの世界を 離れてそこにたどり着けるのか。私の属す る第三のグループは、おそらくその発想の 源としてシーシュポスを掲げてきたが、カ ミュとは異なって、自分たちが幸福だとは 思えないでいる。彼らは、国際政治のゲー ムにできるかぎり多くのリベラルな価値と 配慮を浸透させようと努力しているが、
ゲームそのものがこの世界から一掃されて しまうことがないこともまた知っている。
しかし国家間の危険なゲームは、もしもそ れが過去と同様のやりかたで再演されると したら、それは、私たちすべてを破壊と混 沌に導くリスクに満ちているのである。」
Hoffmann,
“Liberalism and InternationalAffairs,” pp.394-395.
(5)アイザィア・バーリン『自由論』(小川晃 一他訳、みすず書房、全2巻、1971年/新 版全1巻、1979年、新装版2000年)。この ような 自己統治/自己陶冶を前提とする
「強い個人」に依拠する古典的リベラリズ ムには、相互依存と「ケア」の重要性を指 摘するフェミニズムからの批判が存在す る。たとえば岡野八代『フェミニズムの政 治学:ケアの倫理をグローバル社会へ』(み すず書房、2012年)を参照。
(6)文中のシュクラーの引用は、Judith Shklar,
Ordinary Vices, Harvard University Press,
1984, p.243.(7)ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念につ いて」同『ボードレール他5編:ベンヤミ ン の 仕 事 2』( 野 村 修 編 訳、 岩 波 文 庫、
1994年)所収。
(8)「リベラルな構想と国家間政治の論理との 対立、そして国際政治の領域における前者 の失敗は、世界の舞台でリベラルな諸価値 を促進するいかなる希望をも放棄しなけれ ばならないほど全面的なものなのだろう か。私たちは、リアリズムの商標たる力の 策略と道徳的袋小路の歪みについての辛辣 な分析と経験から学ぶことの重要性と慎慮 の必要性を囁くリアリズムの呼びかけに戻 らなければならないのだろうか。私はその ようには考えない。そして私は、幻想なき リベラリズム(a liberalism without illusions)
の可能性と方向性を示唆すべく努力してみ た い と 思 う。」( 強 調 は 原 文 )Hoffmann,
“Liberalism and International Affairs,” p.405.
(9) た と え ば1998年 刊 行 の 論 文 集
World
Disorders: Troubled Peace in the Post-Cold
War Era(Rowman & Littlefield, updated ed.,
2000)には、冷戦終結後の世界政治の変容 を踏まえたリベラリズムの現状を考察する重要は論考が何本か収録されているし、
2006年 刊 行 の
Chaos and Violence: What Globalization, Failed States, and Terrorism Mean for U. S. Foreign Policy(Rowman &
Littlefield)では、米国の単独行動主義を痛
烈 に 批 判 し た 何 冊 か の 関 連 本(Gulliver
unbound[2004] , America goes backward
[2004])と合わせて、イラク戦争後の世界 におけるリベラリズムの衰退に対する深い 憂慮が示されている。