明治期司法権力 の社会運動抑圧取締 (
1)荻 野 富士夫
はじめに
Ⅰ
明治前半期の司法的弾圧 1 国事犯犯罪の断罪
2民権運動の司法的弾圧
3 1890
年代の司法権力 ( 以上,本号)
Ⅱ
初期社会主義運動の司法的弾圧
1兇徒果衆罪か ら騒擾罪へ
2社会主義運動の 「 裁判攻め」
3
「 大逆」事件裁判
おわ りに ( 次号掲載予定)
は じめに
社会運動を抑圧 し取締をお こなう機構や機能 として司法権力の存在がある
。戦前において,司法省 ・裁判所を中核 とする司法権カ は,特高警察 ( 内務省) , 教育 ・思想の抑圧統制 ( 文部省) ,思想憲兵 ( 翠)などとともに治安体系 を形 成 し,警察権力 とともに主要な位置を占めていた。また治安法規の立法化 ・行 使 という面においては,内務省以上に直接的な関わ りがあうた。さらに司法権 力の存在 は,社会運動の抑圧 ・取締 という次元にとどまらず,全統治機構 ・機 能を考える上で も重要な意味をもつはずである。 しか し,その機構 や機能,歴 史的意義 についての考察 は,法制史の面でい くつかの蓄積 はある
1)ちのの,全
1)
『日本政治裁判史録』( 我妻栄 ら編)全五巻は個々の 「 政治裁判」を詳細 に論 じて いるが,司法権力の機構 ・機能の歴史的展開についての検討は少ない。森長英三郎
『 史談裁判』全四巻 はより網羅的に事件を取 りあげているが,司法権力 その ものへ の論及はない。また,小田中聡樹 『 現代司法の構造 と思想』『 治安政策 と法の展開 過程』は 「 天皇制司法 と社会運動」などを総論的に論 じており示唆に富むものの,
〔101〕
102 商 学 討 究 第39巻 第1号
体像解明の試みは乏 しく,歴史学 の分野で はほとん ど問題 とされて こなか っ た
2)といえよう
。私 は特に
1920年代後半以降の社会運動弾圧 に大 きな役割をはた した思想検察 などに関心をもっ ものであるが,その中核である思想検事 とて突唐 に出現 した わけでな く, 「 大逆」事件裁判を想起すれば明瞭なように,初期社会主義運動 以来の弾圧 という長 い蓄積の前史があるわけである
。さらに,それ以前 の反政 府運動 に対す る司法権力の対応 はどうだったのであろうか,という問題 も生起 する。そこで,戦前司法権力の社会運動抑圧取締 という課題 に接近するために, 本論ではまず明治期の司法権力のあり様を概観す る
。明治末を画期 とす るのは, 「 大逆」事件裁判によりそれまでの司法的弾圧が 頂点に達 して,社会主義運動の逼塞化 に成功 し,その抑圧の役割が一段落す る とみるか らである
。士族反乱 ・自由民権運動 ・都市民衆騒擾 ・労働運動 ・社会 主義運動 との対抗 という視点でみていくために,司法権力全般の機構の形成 の 問題 は必要最小限にとどめ,主 に機能面‑ ある運動や事件 の勃発 に際 して司 法権力が具体的にどのように対応 したのか‑ に重点をお くこととす る
。ところで,司法権力 は一般 に検事による捜査の指韓 と取調 べ ・起訴,公判, 監獄 ( 刑務所)における行刑,刑満了や仮釈放後の司法保護 という四つの段階 で発動 される
。1930年代になると,それぞれの段階で思想的抑圧や統制が遂行 されるように機構的 ・機能的な整備が進め られていくが,本論の対象 とす る時 期を含め,それ以前は,主に前二者の段階で弾圧が行使 されたのが特徴的であ
る ( 司法権の独立が達成 される以前,国事犯犯罪などでは,司法権力を越えた, より上か らの指示 ・判断で措置 されたが) 。
具休的な実証の段階には至 っていない。刑法改正,不敬罪の規定
,
「大逆 」 事件裁 判などに関 しては,それぞれ詳細な研究があるが,いずれ も司法権力全体 との位置 付 けは十分 になされていない (個々の研究 については本論証を参照)02) 家永三郎 『司法権独立の歴史的考察』が ほとんど唯一 の研究だが,焦点 は 「司法権 独立」 にあ り,司法権 と社会運動の対抗関係 は視野の外 におかれている。なお平野 義太郎 「明治刑法発達史」(『明治権力の法的構造』<明治史研究叢書>所 収 ) は, 戦前の 「刑法発達史 についての一考察」(『歴史科学』1935年 ) を加筆発展 させ た ものであ り,治安法規 としての刑法の問題点を明 らかに していて大いに示唆に富む0
明治期司法権力 の社会運動抑圧取締(1) 103
l 明治前半期の司法的弾圧
1
国事犯犯罪の断罪
明治初年の司法権力 は,警察機能を併せ もちつつ,反政府運動 の鎮圧 と社会 秩序の安定化をめざ した
。1868年の刑務官の設置
,69年の弾正台 の設置
,71年 の司法省の設置,そ して
72年の司法省警保寮の設置 という一連の機構整備 は, 国事警察機能の創出の過程であ り,維新政府に対す る反抗の排除の過程である。
この国事警察機能の多 くは,内務省の設置 とそれに続 く行政警察の確立により, 司法省の手か ら離れることになるが,司法警察 という次元で司法権力の下 に も 残 り,抑圧取締の重要な部分を占めてい く
。手塚豊氏が指摘 される
3)ように,国事犯事件の審理に対する明治政府 の方針 には普通犯罪 と異なり,特別裁判所 によって処断す る・ tい う原則があった
。 1872年
5月,江藤新平が司法卿になると,まず仮 りに司法事務を定め
,「 凡 ソ事 件 ノ政府二関スル犯罪ハ卿,輔聴許 セサ レ‑裁判官之 ヲ論決 スル ヲ得 サ ラシ
ム4)」
と規定 した。 この段階は,司法省 と裁判所が未分離で司法椎 の独立が は か られていない点 に特徴があるが,それは同年
8月の 「 司法職制章程」の制定 のなかに一層明 らかとなる。「 本章章程」で 「 国家 ノ大事 二関 スル犯罪 ヲ論決 ス
5)」と規定 され,同時に 「 凡国家 ノ大事 二関スル事件及裁判官 ノ犯罪 ヲ審理 ス
6)」る裁判所 として,司法省臨時裁判所が設 けられたのであ る
。しか し,こ の段階における国事犯処罰の基準 は新律綱領 ・改定律例にその規定がなか った ため
,「 明治維新以遠 ノ習慣」によって処断 されていた とい う7 ) 。司法省臨時 裁判所 との関連 は不明だが,尾佐竹猛 『明治警察裁判史 』によれば
,1875年,
かつての参議広沢真臣の暗殺事件を審判す る 「 広沢故参議暗殺事件別局裁判規 則」が定められた。
3) 手塚豊 「秋 田事件裁判考」『自由民権運動の研究』上巻所収 20頁 4) 司法省編纂 『司法沿革誌』17
頁
5) 司法省 『法規分類大全』第14巻 「官職門」109
頁
6) 同前 119頁
7)
尾佐竹猛 『疑獄難獄』146頁
104 商 学 討 究 第39巻 第 1号
1875
年
2月の大阪会議で大審院の設置が合意 されたことで,一応司法権 は行 政権か ら独立 し
,5月の 「 大審院職制及章程」第六条で 「国事犯 ノ重大 ナル者 及内外交渉民刑事件 ノ重大ナル者 ヲ審判 ス」 と規定 された ( 一審に して終審) 0
しか し,前述の司法省臨時裁判所 も存続 し,特に士族反乱の裁判6 こあたった
。76
年1 1 月には司法卿大木喬任 自らが萩 ・福岡 ・熊本に赴いて臨時裁判所を開き, 西南戦争では
77年
4月,有栖川宮征討総督の下に九州臨時裁判所が設置 されて
いる
。また
,78年
11 月には大久保利通暗殺事件のために大審院内に臨時裁判所 がおかれたという具合である
。これ らは太政官の指令にもとづ くもので,殊 に 国事犯事件 に関す る限 り,司法権の独立 は皆無に等 しい。 しか も,これ らの国 事犯裁判に際 しては政府の最高首脳部で処断の方針が決定された
8)。そ して、
1876
年の神風連の乱 ・秋月の乱の段階で国事犯断罪の方針が確立す る。 「 佐賀 県暴動御処断ノ例井二現律兇徒衆衆 ノ条二照 シ」,司法省 はつ ぎのような基準
をっ くり,太政官の了解を得たのである
(76年1 1 月) 0
‑、朝憲 ヲ素乱 セ ンコ トヲ企 テ兵器 ヲ弄 シ衆 ヲ衆 メ以 テ官兵 二抵抗 シ及 ヒ官兵 ヲ殺 傷 セシムル者首及 ヒ従 卜錐 モ首 卜同 ク画策 ヲ主 トスル者新
一、従ハ慾役十年其軽キ者慾役三年
‑、脅縦 二諸般 ノ雑役 二供 スル等 ノ者‑論 セス 一、罪人 ヲ蔵匿 スル者等 ノ如 キハ定律 こ依 ル
ー、右大 目二依 り情実 ヲ掛酌 シテ軽減 スル コ トヲ得ルg)
さらに,この基準 にそって,具体的な判決の原文まで司法省 は作成す る
。有 栖川宮征討総督の管轄下にあった九州嘩時裁判所が司法省に移管 され声際に伴 なって 「 該賊処分順序
」を判検事 に達 しているが,その第三,四,五条 はつ ぎ のように規定 されている
(1878年
7月) 0
8) 『伊藤博文伝』には,伊藤の木戸孝允宛の 「熊本 ,秩,秋月三箇所 の賊徒処分 の儀 に付 ,段 々御評議相成候処,いづれにも多人数の事 に付,速 に決極相着候方可然 に 付 ,処決 の権御委任 の者出張被仰付可然決議 にて,司法卿其選 に当 り,小倉 まで出 蕪,彼地 は双方へ中央の事故,擬律の上裁決を司法卿へ申出,同郷指令 に及 ,直 に 断獄可仕筈 に御座候」 という書簡 (1876年11月10日付)が紹介 されている。
9) 司法省 『法規分類大全』第1巻 「刑法門」378
頁
明治期司法権力の社会運動抑圧取締(1) )05
第三条 判事右 ノ求刑 ヲ受理 シ本犯 ノ口供書 ヲ以テ処刑 ヲ本省 二伺出へシ
第四条 本省二於 テ刑 ヲ定 メ宣告書 ノ案文 ヲ作 り原裁判所 ノ本庁或ハ支庁 二下付 スへ シ
第五条 原裁判所ハ右 ノ宣告書 ノ案文 ヲ浄写 シ該庁 ノ印 ヲ捺 シ通常 ノ規則 二従 ヒ 宣告 ヲ為 スへシ10)
っいで,
8月には大久保利通 と伊藤博文の両参議の名や,九州臨時裁判所 の 裁判長河野敏鎌 らに対 し,裁判上拷問を用いることの不可 と寛大な処分方針 を 指示 している1 1 ) 。このように,なにか らなにまで司法省および政府 の掌 中にあ るわけで,臨時裁判所 は飾 りものにす ぎない。司法権の行政権への完全 な従属 といってよい。
「 国事犯 ノ重大ナル者」 は大審院や司法省臨時裁判所によって処断されたが, それ以外の国事犯事件の処理において も一般の普通犯罪 とは異なっていた.す べて司法省を通 じて太政官の 「 上裁」を得なければな らず,司法卿の指拝監督 権が行使 されたのである。先の江藤新平による仮司法事務の規程がそう. であっ
たが
,1875年
5月の 「 司法省章程」には 「 第二 勅奏官位華族 ノ犯罪国事犯及 内外交渉事件 ノ重大ナル者‑卿 ヨリ検事 二指令 シ当然ノ処分 ヲ行‑シムル事
12) 」
とあ り
,「 検事章程」には 「 第六条 凡 ソ重大 ノ事犯 笈晶 汚憲及国事犯及内外 交渉 ノ重犯 アレハ各検事 ヨリ速二司法省 二具上 シー面処分 ヲ行 ヒ一面指揮 ヲ乞 フ1 3 ) 」 と規定 されていた。 この司法卿の指揮監督権が実際にどのように行使 さ れたかは不明だが,同年
10月のある国事犯事件 において
,「国事犯 二関 スル裁 判ニシテ不 肖 卜見込ム者‑期限二拘 ラス検事 ヲシテ上告セシム1 4 ) 」とい う先例 を闘い' Tいる (これは,この事件の判決が軽す ぎるとみた太政官が司法省 に指 示 したもの) 。また
,1876年茨城県の地租改正反対‑按で は,茨城県か ら司法 省宛に 「 管下村民暴動 ノ者共裁判所へ送付ノ儀伺」がだされている。
10) 『法令全書』1878年 638貢 ll) 『伊藤博文伝』中巻 87
貢
12) 『法令全書』1875年 1753貢 13) 同前 1754頁
14) 司法省 『法規分類大全』第1巻 「治罪門」10
8 貢
)06 商 学 討 究 第39巻 第1
号
国事犯 の検挙 か ら裁判 にかけての 「 処分順序」 は司法省 の手 に握 られていた ちのの,実際には具体的な処理過程で多少の髄寵 もあった らしい。 「 従前右事 杏 ( 熊本其他 の賊徒残務取扱方‑ 引用者注)‑随行官 ニテ取扱 ヒ又十年九州 地方賊徒残ハ岸良検事長 ( 大審院‑ 引用者注 )其外 工被命其他 ノ国事犯 ‑刑 法課 ニテ取扱来 り右様三科 二跨 り候 ヨリ往々議案区々二相成不都合 ノ儀 モ不少 侯 1 5 ) 」とい う司法省庶務課の一文がそれを物語 る。 この 「 不都合」を解消 す る ため
,79年
1月以降
,「 国事犯 ニシテ己決囚二係 ル事務‑総 テ1
6) 」,新 たに大審 院検事局 の職掌 とした。
このよ う. な断乎 と した国事犯犯罪断罪 の方針 は,動揺の定 ま らない明治政府 の政治的 ・社会的基盤 を力づ くで固めることか ら導かれた ものにはかならない。
表
1は
,1876年 か ら
81年 までの国事犯者既済人員である
。77年 の数値 は,前年 の茨城 や三重 などの地租改正反対‑挟および西南戦争を反映 した ものとみ られ
るが,その後 は急減 している
。表1 国事犯事件の裁判所別既済人員
裁 判 所
年
大 審 院 臨時裁判所 軽罪裁判所 合 計1876年 8 840 ‑ 848 1877年 22 45,166 26,162 71,350 1878年 76 50 126 252
1879年 5 ‑ 17 22
1880年 4 ‑ 2 6
1881年 ‑ ‑ 3 3
最高裁事務総局 『明治以降 裁判統計要覧』よ り引用
2 民権運動 の司法的弾圧
散発的な士族反乱 に対 しては,司法権 を含み こむ形で行政権が強権を発動 し たが,一面で司法諸制度 ・法規 の整備 の進捗が はか られ,一面で 自由民権運動
15) 同前 第14巻 「官職門」 5貢 16) 同前 第14巻 「官職門」463貢
明治期司法権力の社会運動抑圧取締(1) 107
が反政府運動の様相を呈 して くるのに対応 して
,1880年代には司法権力 その も のが反体制的な運動を抑圧す ることになった。司法諸制度 ・法規の整備 もこの 抑圧機能の確立のために進め られた面 もも
つ 。すでに
1875年 には豪語律 ・新聞紙条例が制定 され,ついで出版条例が改正 さ れ,言論 による民権陣営の政府攻撃を封 じ込めようとしていたが,これ らは内 務省サイ ドか らの治安法規であった
17 ) 。それに対 し,司法省サイ ドか らは条約 改正を意識 した実定法整備の作業の一つとして,刑法の起草が進 め られ,そ の なかで農民一撰や民権運動 という大衆運動を取締対象 とす る規定や皇室に対す る罪などを盛 りこんでいった
。1880年
7月公布の刑法 ( 施行 は
82年
1月) は,
77年
10月の 「日本刑法草案」
,79年
6月の 「 刑法審査修正案」 とい う二度 の草 案の修正 の末に公布 となるが,ここで問題 となる第二編 「 公益二関スル重罪軽 罪」中の第一章 「 皇室二対スル罪」,第二章 「 国事 二関スル罪」,第三章 「 静詮 ヲ害スル罪」(その うち第一節 「 兇徒衆衆 ノ罪
」)の諸規程 は
,「日本刑法草案」
「 刑法審査修正案」を経 るなかで,規程が拡大ないし新設 され,罰則が重 くなっ てきたものである
。たとえば
,「 政府 ヲ穎覆 シ又ハ邦土 ヲ僧宿 シ其他朝憲 ヲ素 乱スルコ トヲ目的 卜為 シ内乱 ヲ起 シタル者 1 8 ) 」に対 しての刑罰 は,無期流刑 と 罰金か ら死刑へ と重 くなり,不敬罪では 「 天皇 ノ身体 二対スル罪」か ら 「 皇室
二対スル罪」へ と適用範囲が広がる。兇徒衆衆罪 は,改定律令のなかに兇徒衆 衆条例 として規定 はあったものの, 「日本刑法草案」にはな く, 「 刑法審査修 正案」で新たに加わったもので,この新たな追加が
1880年前後の国会期成同盟
に結実す る民権運動の高揚の反映であることはいうまで もない。
しか も注 目すべきことは,刑法起草過程における 「 皇室二対スル罪」や 「国 事 二関スル罪」拡張 は,政府の最高 レベルでの判断によって進め られた とい う 事実である。吉井着生夫氏は 「 編纂の各段階で終始該罪を刑法上に存置すべき
17) 1878年 7月,司法省は大審院 と諸裁判所に対 し,新聞紙条例 ・義務錘に抵触 した犯 者の姓名などの毎月報告を求めている (『法令全書』1878年 638
頁) 。
18) 「刑法審査修正案」 司法省 『司法資料』別冊第17冊 「日本近代刑事法令集 ・ 下」所収 30
頁
108 商 学 討 究 第39巻 第1
号
か否か,存置するとした場合にいかに規定するかが問題 とされ,周到 な論議, 修正を行 うとともに,つねに重大問題 として上奏裁を仰いだ1
9)」と指摘 され, その詳細な論証のなかで刑法草案審査局 ( 総裁伊藤博文)における 「日本刑法 草案」の審査で
,「 本邦 ノ国体 二関 シ,或‑外国 二対 スル等 」 の重大問題 につ いて
,「 皇室二対 スル罪 ヲ設 クルコ ト
」「 国事犯 ノ巨魅 ヲ死刑二処 シ刑名 ヲ区別 シテ設 クルコ ト
20)」などが太政官 より上奏を経て決定 したことを紹介 されてい る (
1878年
2月,審査委員村田保の 「 法制実歴談 」 より) 0
刑法の公布 ・施行 と同時に治罪法 も公布 ・施行 された。同法 は刑事裁判所の 構成を定めたもので,それまでの司法省臨時裁判所 に該当する特別裁判所 と し て高等法院を設 けた。高等法院は司法卿の要請で 「 上裁」 を経て開かれ
,「 刑 法第二編第‑章第二章 ノ重罪」などを管酪 した
。裁判長一人 と陪席裁判官六人 は大審院判事 と元老院議官のなかか ら毎年あらか じめ選任 される。治罪法の起 草にあたった清浦杢吾 は,高等法院の設置について 「 国事 二管スル重罪 ノ如 キ
‑其性質太 夕重要ニシテ党輿モ亦従テ衆多 トナ リ故二尋常 ノ法庁二於 テ‑至厳 ノ処置 ヲ欠キ裁判 ノ信忠 ヲ薄スルノ恐ナキニアラス
21)」 と解説 している
。この 清浦の言に明 らかなように,そ して元老院議官の参加が政府権力による司法権 への容曝 とともに高等法院の権威の強化を意図 したように,この特別な裁判所 の設置 は,支配層にとって国事犯事件がいかに重大視 され,危険視 されていた かを示そう
。高等法院の最初の開廷は福島始審裁判所若松支庁より移送 された福島事件で ある。予審ののち,内乱罪被告 として河野広中 らが公判に付 され,政府転覆 の
「 盟約書」の証拠 としての信感性が争点 となったが,判決 は河野が軽禁獄
7年 にとどまるなど,政府の圧力などを考慮すれば,比較的軽かったといえ る
。つ いで高等法院の開かれた高田事件では,赤井景昭のみ公判 に付 され,検事側 の 無期流刑 ( 内乱予備罪)の求刑に対 し,垂禁獄 9 年の判決が下 った。
19) 吉井蒼生夫 「旧刑法の制定 と 『皇室二対スル罪
』
」『神奈川法学』 第13巻第 3号
1978年
3月
20) 同前
21) 清浦杢吾口述 『治罪法講義 随聴随筆』第5条 1881年 1
月
明治期司法権力の社会運動抑圧取締(1) 109
高等法院における裁判で注 目すべ きことは,終始行政権 によって翻弄 され る ことである
。福島 ・高田両事件の裁判において,三島通庸や大木喬任司法卿 ら が政治的圧力をかけていることはすでに明 らかにされている
。しか し玉乃世履 を裁判長 とす る高等法院は,ある程度情状を酌量 して検事側の求刑か ら減刑 し たように,政治的圧力に完全 に屈 して,行政権に露骨に追随することはしなか̀ っ た。それは政府側には予想外の事態であったため,また高等法院の裁判が社会 的に大 きな反響を呼び,河野 らの行動が英雄視 され始めるという皮肉な事態が 生 じたため,司法省は新 たな対応を迫 られ る。83 年
12月
,「 治罪法第八十三条 ∫
二記載 スル事件 二付高等法院 ヲ開カサル時ハ通常裁判所二於テ裁判スルコ トヲ 得
22)」という太政官布告が施行 されるのである
.この布告 によって高等法院 は 有名無実化 し,実際,それ以降
,90年の刑事訴訟法および裁判所構成法 によっ て消滅す るまで,高等法院は二度 と開延 されることはなかった。
司法省の対応 は,国事犯事件を高等法院の手か ら奪 うだけでな く,国事犯 と̲
して処断すること自体を極力減 らそ うともした。強盗 ・放火 ・殺人などの普通 犯罪 として処理 しようとする方針で
,「 国事犯
」‑「 志士」 とい う殉教者 とし ての栄誉が生 じがちな風潮に,破廉恥罪を適用 して,この方面か らも民権運動
に冷水をあびせかけようとしたのである
。その転機 は
1∫,884年
10月の加波山事件 裁判か らで,以後の群馬事件 ・秩父事件裁判などは強盗 ・放火 ・殺人,そ して 兇徒衆衆罪で処断されている
。加波山事件裁判では,常時犯ではな く国事犯 と して取扱 うよう進言 していた栃木県始審裁判所長が更迭 されるだけでな く,逮 捕地の裁判所で分割 して処分せよという司法卿の異例の内訓が発せ られ,さ ら
につ ぎのような具体的な指示 までがだされているのである ( 水戸始審裁判所検 事宛司法権大書記官の指示書) 0
過 日御地へ出張致候節委曲司法卿内命之主意申進置候通 り今般暴徒訊 問上彼 レカ 思想 ヲ述 へ候 トキハ必 ス国事犯 ノ方 へ引付申候間第‑等之形跡上 二顕 レクル暴行 ヲ 取調 へ‑ モ思想上 ニハ訊及セサル様呉々モ御注意有之度彼 ヨ リ思想 ヲ達 テ申立候 ハ ハ本案 二付従物 トシテ御聞取相成可然候巳二過 日呉々モ御打合致 シ置候事柄 二候得
22)
『 法令全書』1
883年 88 貢
Ilo 商 学 討 究 第39巻 第 1号
共猶為念 申進候也 23)
このような司法の行政への従属 は,民権運動陣営の攻撃対象 となった。た と えば,飯田事件の撒文 には 「 大審院の如 きに至 りては門に其標を折掲す る爾。
其実 は則ち司法卿に隷 し,而 して司法卿 は則ち内閣に隷 し,内閣 自 ら動 か して 翫ち司法権を左右す2 4 ) 」と書かれている
。ところで,刑法中では兇徒衆衆罪の適用 は,群馬 ・秩父事件の鎮圧 に威力 を 発揮 したが,それとともに民権運動逼塞化に一役買 ったのが不敬罪の規定であ る
。渡辺治氏 は,明治
10 年代の不敬罪の頻繁な発動 は同法が政治運動規制法 の 役割を担 ったものと指摘 されている
25)。1883年
1月には 「 皇室二対 スル犯罪人 ア リタル時‑司法省へ具申セシム」旨,各裁判所に内達 され,同時 に検事宛 に は 「 其時々当省 ヨリ指令ノ上処分可相成儀
26)」が指示された
。司法権力による民権運動弾圧 はこのような裁判や治安法規における断罪にと どまらない。警察権 に匹敵す るような判検事の拷問やスパイ使用の事実がある。
I
『自由党史 』によれば,福島事件に際 して福島始審裁判所若松支庁の判事赤司 欽二のおこなった拷問は 「 人聞いて其名を畏 る
27)」はどの苛酷 さであ り,また 高田事件惹起の直接の原因 は,新潟始審裁判所高田支庁の検事補堀中太郎 に使 役 された頚城 自由党員長谷川三郎の暗躍であったという
。各激化事件の処理の敏速 さも,民権運動を逼塞 させる意図 と理解 されよ う
。たとえば,秩父事件 においては,勃発後まもな く司法省 は事件を重大視 して司 法大書記官名村泰蔵 らを埼玉県に派遣す る一方,大宮 ・小鹿野 ・熊谷 ・八幡山 ( 児玉郡)の四カ所に 「 暴徒糾問所」を設置 している
。予審 と公判 は,事件 の 教唆 ・煽動者を重罪人 とみなす司法省の方針にそって進め られ,早 くも三 カ月
23) 『加波山事件関係資料集』440頁 稲葉誠太郎 「解説」参照 24) 『自由党史』下巻 (岩波文庫版)103
貢
25) 渡辺治 「天皇制国家秩序の歴史的研究序説」『社会科学研究』第30巻第 5号 1979
年3
月
26) 司法省 『司法資料』別冊第17冊 「日本近代刑事法令集 ・下」195頁 27) 『自由党史』中巻 253頁
明治期司法権力の社会運動抑圧取締(1) 111
後の
1885年
2月には判決言渡 しがあった。
士族反乱 。自由民権運動を通 じて内務省による国事警察 は独 自の機構的整備 を遂げていったのに対 し,司法省による国事犯 ・兇徒衆衆運動への対応 におい ては,司法省臨時裁判所,ついで高等法院の設置はあった ものの,常備的な抑 圧機構 は設けられなかった。 しか し,民権運動に対する抑圧取締方針が厳重で,
「 時 として常規を逸 したる傾なきに非」ざることは,すでにみたい くつかの事 例で明 らかだろう
。そして,つぎの倉富勇三郎の回想 も有力な補強材料となる。
某所 に ・(三重県 な りLと思ふ)公開演説場 に於て誠 に畏れ多 き不敬 の言動 を為 し たる者 あ り,司法省 にては此の如 き犯罪を不敬罪 として処罰す るには軽 善に過 ぐ, 宜 しく危害を加へん としたる者 として起訴すべ Lと為 し其の旨を検事に訓令せ Lに, 裁判所 にては起訴 の罪名 に該 るものとの判決 を為 さず,検事 より上告 を為 した るに (此の頃は軽罪 に付控訴を為す ことを許 さず)大審院 にて は上告 を理 由 とす る判決 を為す訳 に行かず,上告を棄却すれば司法省の面 目を損す る故其 の事件 の取扱 に付 大 いに苦心 したることあ り。又某裁判所 (高崎辺の区裁判所 な りし様 に恩へ ども記 憶確かな らず)に於て不敬罪を犯 したる被告人 に対 し重禁鋸三年 の言渡 を為 し,司 法省 にては刑の長期五年の言渡 を為 さざるを不当と為せ り28)0
3 1890
年代の司法権力
憲法発布 ・条約改正交渉などを控え,内閣発足を受けて
,1886年
2月 には司 法省官制が,ついで 5 月には裁判所官制が制定 され,司法権の独立 が法制上 で 整 った。すなわち,司法大臣の裁判官任免の権限がな くなり,裁判官 の身分保 障が実現 したのである
。この司法制度の近代化 は,憲法発布後の裁判所構成法 と刑事訴訟法の公布施行 によって一応の達成をみる。すでに有名無実化 してい た高等法院 は廃止 された。
同時に,司法警察の手続面での整備 も進む
。1886年
3月
,「司法警察訓則」
によって,検事 ・司法警察官 ・憲兵の執務要領が詳細に規定 されたのである
。それまでの訓令や達 を統合整理 した もので,本論 に関わ るの は第三三条‑
28) 倉富勇三郎 「裁判所構成法施行前後 の回 顧
」
『法 曹 会 雑 誌 』 第17巻 第11号 1939年11 月
)}2 商 学 討 究 第39巻 第 1号
「 刑法第二編第一章第二章及第三幸第‑節ノ犯罪ア リタル時‑司法警察官‑逮 二検事 二報告 シ検事‑之 ヲ司法大臣二異状 ス可 シ2
g)」‑である
。これによ り, 不敬罪 ・内乱罪 ・兇徒衆衆罪 は,司法警察官‑検事‑ →司法大臣へ と敏速 に報告
され,逆の流れで処理方針が指示 されることになった。
しか し,法制面の整備 とは裏腹に,司法権の独立が実質的に確保 されていな いことは,そ して国事犯への抑圧がどれほど苛酷であったかは,井上毅 の 「検 察官並二警察官 ノ弊害」に詳 しい ( 憲法発布後 ,1 89 0年 1 1 月以前 の起草 と推 定
)。「 我手隅 今 ノ裁判所及監獄署 ヲ観ルニ判決迅速 ナラズ
。公平 ノ裁判 ヲ支 フ
ルコ ト能‑ズ」 と述べて,憲法政治のあるべき姿 との帝離を憂慮す る当局者 の 立場か ら,具体的な 「 弊害」をっぎのように指摘す る ( 国事犯に関わるものを 引用) 。
ママ
第二 新聞条例違反出版条例違反等国事犯被告人 卜称スル者 ヲ特 二虐待 スル コ ト, 又之 ヲ告発 シタル上‑殊二手続及事実 ノ如何 ヲ間ハズ有罪 ノ裁判 ヲ為スル疑 ヲ 免 カ レザルコ ト。
第五 国事犯人二対 シテハ全 ク証拠 ヲ摩滅スルノ恐 レナキ者 卜錐 モ決 シテ容易 二保 釈 ヲ許サザルコ トア リ。
第六 国事犯 ノ為メニ閑キクル公廷 二於 テ‑其弁論 モ亦国事二渉ルベキハ勢 ノ免 カ レザル処ナ レドモ,検察官‑弁論人 ノ弁論 ヲ制限 シテ其職 ヲ尽 ス ヲ得 ず ラシム ルコ トア リ。
第十二 保安条例二依 り退去 ヲ命 ジタル者 ヲ拘留 シテ故 ラニ其出発 ノ期限 ヲ誤 ラシ メ,然ル後該条例 ノ違反者 トシテ之 ヲ処分 シタルコ トア リ30).
井上 はこれ らの弊害の第‑の原因 として
,「 事 ノ是非 二依 り裁判 スルニアラ ズシテ,多 ク‑政府 ノ意 ヲ迎ヘテ裁判スルコソ一身 ノ栄利 ヲ計ルノ道ナ リト誤 信スルニ依ル
31)」と断 じている
。司法権独立の観念のなさを井上 は嘆いている わけだが,のちの大津事件などをおもえば,それ らの国事犯裁判 の背後 に暗黙 の 「 政府 ノ意 」 があることも確かであろう。さらに重要なことは,国事犯犯罪
29) 『類衆法規』第9編 614
頁
30) 井上毅 「検察官並二警察官 ノ弊害」『秘書類纂』「法制関係資料 ・上」 91貢
31) 同前 8 9 貢
明治期司法権力の社会運動抑圧取締(1) 113
に対する恐怖が広 く支配層 に行 きわたり,その徹底的繊減が求め られていた こ とである。
しか し,憲法発布 ・帝国議会開設後のほぼ
1890年代の間,それまでの司法権 力が士族反乱か ら民権運動 にかけて維新 ・藩閥政権を保持す るために行使 して きた抑圧取締の機能 は,相対的に発動を控え られるといってよい。表
2に示 し たように,不敬罪( 「 皇室二対 スル罪」) は刑法施行直後 の政治運動規制的役割 をおえて漸減 し,兇徒衆衆罪 とともに
,1890年代後半 はほとんど適用をみない。
その漸減傾向は,集会条例 ・集会及政社法において も共通 している
。内乱罪 に ついては
1889年以降,その発動をみない。 このような状況 は天皇制国家秩序 が 安定 したことを第‑の要因 として,運動の中心が反体制的なものか ら体制内的 な反対運動へ転 じたことを第二の要因 とす る
。警察権力においては
,1890年前 級,国事警察が高等警察に転換 し,政党勢力 に対す る情報蒐集 ・容壕な どの政 治警察的活動を展開 していたが,司法権力の場合 もそれ と照応す る
。すなわち, 本質的な敵対勢力がない状況下,司法権による抑圧取締の機能 は縮小されたの
で あ る
。この ことは 「国 事 犯 」 観 念 の消 滅 と密 接 に関 わ る
。司 法 省
『 刑事統計年報』によれば
,1889年か ら該当事件 はな く
,94年以降
,「国事犯」
の統計自体が消える。
表2 明治中期の不敬罪 ・国事犯 ・兇徒衆衆罪の処罰人数
年
罪 状
1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900不琴罪
(諜 叫 ス) 14人 12 9 6 1 1 1 4 4 2 4 8 12 8 1 ‑ 1 1 3
(1歳甑為」)44人 24 4 11 ‑ 45 1 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 〔欄消滅〕
(荏) 「国事二閑 スル罪」 において 「内乱こ関スル罪」 は1887年か ら 「外患 二関スル罪」 となるo
「罪状」の人数 は 「死刑 ・徒刑 ・懲役 ・禁街 ・罰金 ・拘留 ・科料 ・棒鎖」などの合計人員O
司法省 『刑事統計年報』各年より作成
兇徒界衆罪の実際の適用 は減少 した ものの,改正刑法案や法文の解釈 のなか
では,法益の範囲が広が り
,厳重になりつつあった。それ は,来 るべ き新 たな
反体制運動への予感的対応であった。第一議会に提出された 「 明治二十三年改
正刑法草案」は,現行刑法を本質的に修正す るものではなかったが,兇徒究衆
114 商 学 討 究 第39巻 第 1号
罪の規定では顕著な変化をみせる。「 兇徒界衆 ノ罪」か ら 「 暴動 ノ罪」 へ とか わ り,主な規定 も 「 人 ヲ殺傷 シ又‑公私 ノ財産 ヲ穀壊、奪掠スルノ目的 ヲ以 テ 多数集合 シ暴動 ヲ為 シタル者ハ兇器 ヲ携帯 スル ト否 トヲ分 タス六月以上五年以 下ノ有役禁鋤又‑五円以上五十円以下ノ罰金二処 ス
32)」となった。現行刑法 に あった 「 兇徒多衆 ヲ噴衆 シテ」 という規定や 「 官庁二喧聞 シ官吏二強逼 シ又‑
村市 ヲ騒擾 シ」 という具体的な例示が消滅 し,単に 「 多衆集合」が取締対象 と なったのである
。このことは,小田中聡樹氏が指摘 された3 3 ) 兇徒衆衆罪 の 「 騒 擾罪」化の問題に帰結す る
。小田中氏は岡田朝太郎や勝本勘三郎の刑法論のな かに兇徒衆衆罪の修正的解釈を認め られているが,明治憲法発布直後に早 くも 司法省内部で 「 騒擾罪」的方向への修正が進め られていたわけである。
このような変化 は,新たな社会運動の台頭への司法省の敏速な対応策 のなか にもあ らわれている
。1892年
9月,検事長 ・検事正宛の司法大臣訓令で 「重大 又‑特別 ノ犯罪ニシテ公衆 ノ耳 目ヲ惹 ク可キ事件及内外交渉事件二付テハ迅速 ヲ旨 トシ直二本大臣二報告 ヲ為 シ検事正ハ別二検事長ニモ報告 ヲ為ス可 シ3 4 ) 」 と指示 されたのである
。それまでの三カ月毎の報告か ら随時報告になったわけ だが,のちにこの通牒が司法省編 『 思想事務 二関 スル訓令通牒集』 (
1932年
9月発行)に収録 されていることは
,「 重大又ハ特別 ノ犯罪 ニ シテ公衆 ノ耳 目 ヲ 惹 ク可キ事件」が労働争議 ・小作争議 ・民衆騒擾などの新たな社会運動の勃興
に伴な う事件を指 しているとみることができる。甲府雨宮製糸 ・大阪天満紡績 などでス トライキが勃発 し,日本海側地域では米騒動的状況が現出 して いた こ とに,司法省 は逸早 く対応 しようとしたといえる
。さらに■ 翌
1893年
9月 に制定 された 「 司法警察官執務心得」の第二十条の司法警察官の検事局宛報告事項の 規定では,1
886年
3月の 「 司法警察訓則」の同規定 に
,「 重要 ノ犯罪又ハ公衆
ノ耳 目ヲ惹 ク可キ犯罪」が追加 された。
35 )
32) 『刑法沿革総覧』 109頁
33) 小 田中聡樹 「足尾鉱毒兇徒噴衆事件」 『日本政治裁判史録』 明治 ・後
34) 「重大犯罪事件及内外交渉事件並 二司法政務関係報告方 ノ件」 1892年9
月
5日 司法省編 『思想事務 二関 スル訓令通牒集』「思想研究資料特輯」 第 1号 9頁
35) 「司法警察官執務心得」
1893年 9月
金子源治 『司法警察官執務心得義解』所収