金代のキタイ系武将 とその軍団
一 着恭の事跡を中心に ‑
Qi t a y ( Qi ‑ d d n) Mi l i t a r yCo mma n d e r sa n dTh e i rAr myCo r psu n d e rJ i mDy a n s t y:
Re ‑ e x a mi n a t i o nEs p e c i a l l yo nt h eBi o g r a p h yo fXi a oGo n g 斎恭
松 井 太
M ATSUI Dai
は じ め に
唐王朝の滅亡後 、内モ ンゴル に興起 した遊牧 キ タイ ( Qi t a y> 契丹)族 は、キ タイ 帝国‑遼朝 を建国 し ( 9 0 6) 、東 ・北 ・中央 アジアに大 きな影響力 を及ぼ した 。1 1 2 5 年 、 キ タイ遼帝国 は ジュシェン ( J u 主 e n> 女真)族の建 てた金朝 によ り滅 ぼ され る。 その 結果 、耶律大石に率 い られて中央 ア ジアに西遼国 を建てた集団 を除 き、多 くの キ タイ 族 ( 1 ) は金朝の支配下 に入 ることとなる。
これ ら金朝治下のキ タイ族 につ いての諸先学の研究 は、金朝が遊牧 キ タイ族 を軍事 的に重視 し、特 に北 ・西北辺境 ‑内蒙古地域のキ タイ族 をモ ンゴル高原の遊牧民 に対 す る辺境防衛部隊 と して重用 したことを明 らかに した。その一方で、耶律余部の謀反 ( 11 3 2) 、粛裕の謀反 ( 1 1 54) 、撒 八 ・移刺窟斡の反乱 ( 11 61‑62) 、徳寿 ・陀鎖の反 乱 ( 1 1 9 6) などキ タイ系武将 や遊牧集団による反乱 ・謀反 が金代 を通 じて散発 し、 ま た 1 3 世紀以降のモ ンゴル帝国の興起 に伴 って多数のキ タイ族 が金 に反旗 を翻 しモ ンゴ ルに協力 した ことか ら、金代 を通 じてキ タイ族 は最大の不安定要素 となったと位置づ け られている( 2 ) 。
しか し、 これ らの見解 は、専 ら金代制度 史 ・兵制 史の側面 か ら、 また専 ら制度史料 や反乱事件 に関す る史料のみか ら提 出 されている。筆者 は、キ タイ系将相の伝記資料 を分析 す ることで、彼 らおよびキ タイ系軍団の具体的な活動 を再構成 しつつ、それ ら を金代政治史に位置づ ける余地 が充分に残 されていると考 える
。本稿 は、その事例研 究 と してキ タイ系葵族 ( 3 ) 出身の武将 である粛恭 をとりあげて考察 を加 えるとともに、
さらに金代前半期のキ タイ系武将の動 向に も開説す るもので ある。
松井 金代の キ タイ系武将 とその軍団
1 .着恭の事跡
斎恭 については、『 金史 』 巻 8 2 所収の列伝 ( 以下、粛恭伝 と略)が基本資料 となる。
以下には粛恭伝 を便宜上 6 段 に仕切 って提示す る 。
【Ⅰ】帯恭字敬之、乃烈葵王之後也。父潮、天輔間掃朝、従攻興 中、送以烏興 中デ。
師還、以恭烏質子。宗望伐末、瑚普領建 ・興 ・成 ・川 ・託五州兵馬 寓戸、軍帥 以恭材勇、使代其父行、時年二十三。
【 Ⅱ】至 中山、宋兵出戦、恭先以所部撃敗之。経山東、及渡推襲康王、皆在軍 中。師 還、帥府承制授徳州防禦使、葵人之屯清 ・棟間者、皆隷蔦O改棟州防禦使 C
【 Ⅲ】皇統間、改同知横海軍節度使
cT父責 、起復烏太原少デ。
【 Ⅳ】 用廉、遷同知 中京留守事。累遷兵部侍邸、授世襲謀克。坐問禁 中起居状、決杖、
奪一宮。貞元二年烏同知大興デ。歳鯨遷兵部尚書、烏某国生 日使。以母憂去宮、
起復烏侍衛親軍馬歩軍都指揮使O四年遷光禄大夫、復烏兵部尚書。
【 Ⅴ】 是歳、経孟夏国連界、還過臨滝、失所僻金牌。至太原、憂患成疾。時己具其事 騨 聞於朝、海陵復命拾之、伏通論恭日 :「 汝失信牌 、亦猶不謹 。朕方僕汝 、欲 有委使、乃稀疾耶 ? 必以去 日身備信牌、蹄則無以烏辞、欲朕先知耳 J C 使至、
恭己疾篤、稽受命、俄頃而卒。
【 Ⅵ】海陸方追使輿其子護衛九君弛視、乃戒府宮使善護之 、至保州、己聞計夫、海陵 深悼惜之。命九君護喪以遠、所過州府設臭。喪至都、命百官致祭。親臨臭、時 贈甚厚 、井賜喪馬一。謂九寄日 :「 爾父街命、卒於道途、甚可悼惜 。朕乗此馬 十年、今賜汝父、可常控至枢前。既葬、汝則乗之」。
次 に、粛恭伝の内容 を整理 しつつ、関連す る諸問題点 を指摘 してお く ( 4) 。
【I 】粛恭は葵王の後商であり、彼の父の功 は天輔年間 ( 1 1 1 7‑2 3) に金 に投降 し、
興 中府の攻撃 に従軍 した結果、金か ら興 中府の長官 に任 じられた。その際、葡恭 は質 子 として金側に差 し出 された。天会 3 年 ( 1 1 2 5)1 1月に金が北東の討伐 を開始 した際 ( 【 Ⅱ】参照)、粛潮 は宗望 (ジュシェン名は斡寓不 または窟里温、金太祖の第 2 子) が率 い る東路軍 に配属 され 、建州 ・興 中 ( 5) ・成州 ・川州 ・託州の 5 州 か ら徴発 され た軍団 を率いて万戸 ( 万人隊長) となる予定で あったが、「 軍帥」の推薦 によ り粛恭 が父に代わって この軍団 を領 したとい う。
さてキタイ帝国時代、興 中府は中京道 に属 し、キ タイ系葵族の重要 な本拠地であっ
東北 ア ジア研 究 シ リー ズ 5
た ( 『 遼 史』巻 3 9 ・地理志 3 ・中京道 ・興 中府)。金 が この 中京道 を攻略 平定 した際 、 最 も大 きな功績 を挙 げたの は、 ジュシェ ン宗室 出身の ダラ イ ( * Da l a i > 捷憾 、漢名は 昌 C太祖 ・太宗 の 従 弟 ) で あっ た。 F金 史 j 巻 77 ・昌 ( 捷備 )伝 は ダラ イの 中京 道
( 金の葵六都路 ‑中京路 )平定 を下記の よ うに伝 える。
太祖 自将襲遼 主干天魚津 、留輔重干 草漂 、使捷備 ・牙卯守之 。葵路兵宮 浦軸不能 安輯其衆 、送以撞傾 烏葵六路軍帥鎮之 。‑久之 、討劾山速古部英 人、葵人掠陰戟 、 殺且蓋 、速 古 ・畷里 ・鋳尼十三巌皆 平之 。詔 日 :「 朕以 葵路険阻 、経 略烏難 、命 汝往任其事 、而克副所託 、良用嘉歎。‑・ 障詔二 十、招 諭未降 、汝富審度其事、従 宜虞之」。其 後撫定葵部及分南路通界、表請 設宮鎮守。上 目 :「 依東京潮海列置千 戸 ・謀克」。遼外戚遥箪 昭古牙部族 在廷州 、斜野 襲走之 、獲其妻撃及官豪之族 。 撞傾復撃之 、‑昭古牙勢感亦降 、興 中 ・建州皆平 。詔第将士功貰 、撫 安新民。捷 傾 請以遥輩 九営為 九猛安 。上以奪鄭有功 、使領四猛安 、昭古牙I J i 烏親管猛安 C 五 猛安之都帥 、命捷傾挿 入授之 。撞傾輿劉彦宗翠粛 公月はi 興 中デ 、郡府 各以契丹 ・ 漢官清治 、上皆従之 。及宗翰 ・宗望伐末、捷傾烏 六都路都続 。宗望 己受宋盟 、軍 還 、撞備乃蹄 中京。
記事 中の事跡 を 『 金 史』本紀 と照合す ると、 ダラ● イは葵六都路 ‑中京路 の平定の た め天輔 7 年 ( 1 1 23) 初頭 に葵六部路軍帥 に就任 し [ 三上 1 972 ,pp. 460‑ 461 ]、同年 5 月に 1 3 か所の山砦 に拠 る速古 ・畷里 ・鉄尼部の葵族 集団 を掃討 、翌天会 2 年 ( 11 24) 閏 3 月に遥輩 九営 ( 6) の平定 を開始 し 、1 0 月 には これ を投降 させ て興 中府 ・建州地域 を平定 した ( F 金 史 』 太宗本紀)。捷傍 伝 によれば、平定 され た造輩 九営 は 9 つ の猛安 ( < mi n g g a n〜c h i n. 千戸。 1 千 人前後の兵 を供 出 で きる軍事 ・行政組織 。 またそ の長官 を意味 す る場合 もある)に再編成 され、うち 4 猛安 は ダライの直属軍 団 と され、
残 る 5 猛安 につ いて もその 「 都帥」の任 免権 は ダライに与 え られ た。従来 、 この道輩 九営の再編成 は、金延 が葵族 に対す る控制 を強化 した もの と位置づ け られ てい る [ 李 滴 ・張星久 1 9 86 ,pp. 61 ,65 ]。 しか し撞備伝 の文面 を虚心 に読む限 りで は、遥輩 九 営 な ど中京路の キ タイ系集団 は、金廷 とい うよ りむ しろ葵六都路軍帥 ダライの個 人的 支配下 に置 かれ た と考 えるべ きで ある。
また撞傾伝 は、平定 され た興 中府 の統治の ため ダライが帯 公瑚 なる人物 を興 中デ に
推挙 ・任命 した といい、一方粛恭伝 は、粛恭 の父蕎瑚 が興 中府の平定 後に輿 中デ に任
じられ た と伝 える。両伝 にみ える粛 公瑚 ・帯鋼 は、明 らか に同一 人物 で あ る( 7)。 さ
松井 金代の キ タイ系武将 とその軍団
らに撞傾伝 中では粛公瑚の興 中ヂ任命がダライの 「五猛安の都帥」の任免権に直続 し て記 され、斎恭伝では粛潮 が 「 五州」の軍 を率いる予定であったとい う
C両者 を勘案 すれば、 ダライの信任 を受 けた斎瑚 ( ‑粛公瑚)は興 中デ と 「 五猛安 ( おそらくは建 州 .興中 ・成州 ・川 州 ・託州の 5 州 か ら各 1 猛安)の都帥」 とを兼任 していたもの と 考 えられ る
Cまた、粛期 に代わってその子粛恭 を抜擢 した 「 軍帥」 ( 粛恭伝) も、「 葵 六路軍帥」に任 じられていたダライその人に相違 ない。すなわちダライは、新附のキ タイ系 5 猛安軍E f I を管制す るにあた り、 まずは葵王 に連なる血統 を有す る粛瑚 ( ‑粛 公瑚) を起用 しつつ その子の帯恭 を質子 として手許 に置 き、 さらにはその粛恭 を軍団 長に据 えることで、影響力を強化 しようとしたのである。
なお、後述す るよ うに、天等 2年 ( 11 39) 8月、 ダライは謀反の罪で謙殺 され る。
粛恭伝がダライとの関係 を明言 しないのは、伝記の作成時点で ダライが 「 逆臣」 とさ れていたことが影響 しているに相違 ない。
【Ⅱ】 ここでは、天会 3 年 ( 1 1 2 5)以降の金 ・宋戦争での粛恭の活動 が伝 えられ る C
天会 3 年 2 月、金 はキタイ帝国の天秤帝 ( 位11 01‑11 25) を捕 えてキ タイ帝国 を滅 ぼ した 。 天輔 4 年 ( 11 20)以来、金 ・北末 はキ タイ帝国挟撃のため同盟 していたが、
この間に北宋側が違約 ・背反行為 を繰 り返 していたため、天会 3 年1 1月に金は東西の 二軍団により問罪南伐 を開始 した。宗望率 いる東路軍は燕京か ら河北 を縦断 し、宗翰 (ジュシェン名は粘没喝 または粘竿、太祖の従弟撒攻の子)摩下の西路軍 は大同か ら 山西 ・河東 を南下 して、宋都開封府 を目指 した。天会 3年 ・4年 ( 11 2 6)の交 にかけ て金軍 は宋都開封 を包 囲 し、 4 年正 月には 一 旦和議 を結 んで北帰 した (【Ⅰ】所引
『 金 史』撞備伝の末尾の 「 宗望己受宋盟 、軍還」は この時点 をさす)。 しか し北末 は、
金に従 っていたキ タイ系武将の耶律余部 に謀反 を勧 める ( 同 7 月)など、再び破約工 作 を行なった。憤激 した金軍 は同年 8 月に再び開封へ と進撃 し、閏1 1月には遂に開封 を陥落 させ、翌天会 5 年 ( 11 2 7 ) 3 月 ‑ 4 月に宋帝欽宗 と上皇徽宗 らを連行 して北帰 した C いわゆる靖康の変である。金軍の北帰後、 5 月に徽宗の第 9 子康王 ( 穏構)が 宋帝 ( 高宗) として即位 し南宋王朝 を建て ると、これ を討伐す るために金軍はみたび 南進 を開始 し ( 同1 2 月)、天会 6 年 ( 11 28)を通 じて華北 ( 河北 ・河南 ・河東 ・山東
・陳西)経略 を進め、天会 8年 ( 11 30) 9月には北末の知済南府事だった劉預 を皇帝 として低値国の膏 を建 て,山東 ・河南 ・陳西の民政 を委ねた。一方、天会 7 年 ( 11 29) 末か ら翌 8年 ( 11 30) 2月にかけては康王 を追撃 して江南 にまで進入す るなど金軍は 南末 を軍事的に圧倒 した ものの、推水以南 を完全に征圧す るまでには至 らなかった
。天会1 2 年 ( 11 34) 9月の金 ・膏連合軍の推南攻撃失敗後、戦線 は曙着状態 となる
。東北 ア ジア研 究 シ リ‑ ズ 5
さて、ダライは二次 にわたる開封攻撃では宗望摩下の東路軍 に属 し、 さらに天会 6 年以降の金の華北経略 に際 しては元帥左監軍 として山東地方の平定 を主導 し、 この地 域 を半ば封建領 と化 した O低 値国の膏の皇帝 として劉務 を推薦 したの もダライであっ た。膏支配下の山東の諸処 にはダライ軍団が駐 屯 して軍事的後盾 とな り、 ダライ本人 は灘州 を根拠地 として推東地域への進攻 を図 った ( 8) 0
一方、粛恭伝 には粛恭の活動が きわめて簡単 に記 され るのみである。 しか し中山の 攻撃 ( F 金 史」太宗本紀 によれば天会 3 年 1 0 月 ・天会 4 年 8 月)に参加 してお り、河 北 を縦断南下 した東路軍 に従 っていたことが確認 され る 。【Ⅰ】 での考察 をふ まえれ ば、粛恭は直接 にはダライ磨下 に属 していたと考 えられ る。 さらに粛恭 は山東 を経て 推水 を南渡 し、天会 7 年末か ら翌 8 年 にかけての康王追撃戦にも従軍 し、帰還後には 山東東路の徳州防禦使 として東隣の清州 ・様州 に駐 屯す るキタイ系葵族部隊 をも統括 したといい、 これ も山東平定 を主導 したダライの軍事活動 と重 なるものである。おそ らく粛恭 はキタイ系 5 猛安軍団 を徳州 ・清州 ・様州 に展開 させ 、 潅州 に拠 るダライ直 属軍団 を後方か ら支援 していた もの と推測 され る。後に様州防禦使 に転 じた時期は定 かではないが、いずれにせ よ粛恭はダライ指揮下でその活動 を支 えたことは確実であ る。
【 Ⅲ】皇統年間 ( 1 1 41 ‑4 9 ) のおそ らく前半 に粛恭 は同知横海軍節度使 ( 知所 は冶州) に転任 した とい う。 【 Ⅱ】の 「 師還」 とは、早 ければ天会 8 年 ( 1 1 3 0) 正 月の江南進 攻 か らの帰還、遅 くとも対南宋戦が一段落 した天会 1 2 年 ( 1 1 3 4) 前後 をさすであろう か ら、 この間 7‑8 年以上にわた り粛恭 は山東方面で活動 したことになるC
しか し、粛恭の 「 主君」であるダライの運命は、 この間に激 しく転変 していた。天 会 1 3 年 ( 1 1 3 5) 太宗 が死去 し、太祖の孫 カラ ( * Ka r a> 合刺、漢名は重)が第 3 代皇 帝即宗 として即位 した。 これに伴い、南末 に対す る遠征 ・政策 を主導 していた宗輪は 兵権 を奪われて失脚 し、金延の実権 はダライ ・宗磐 (ジュシェン名は蒲慮虎、太宗の 長子)・宗篤 (ジュシェン名は誰魯観、太祖の第 6 子) らと、宗幹 (ジュシェン名は 斡本、太祖の長子)・ウジュ ( * Uj u> J l7 T E 〜斡 出、漢名は宗滞、太祖の第 4 子) らの 両派 によって争われた。 一 旦優位 を占めたダライ一派は、南末の秦櫓 と結託 して金 ・ 末の和平交渉 を進め、その障害 となった塊値国の膏 を取 り潰 した ( 天会 1 5 年 ( 1 1 3 7) 1 1月)。膏の旧領の うちダライの執着す る山東は金領 とされ たが、河南 ・陳 西は天脊 2 年 ( 1 1 3 9 ) 3 月に末に返還 された。 しか しその後金延ではウジュ派 が巻 き返 し、天 脊 2 年 7 月には宗磐 ・宗篤が謀反の罪で課殺 され、ダライも兵権 を奪われて失脚 した。
さらに翌 8 月にはダライも謀反の罪で課殺 され、金廷内の政争はウジュ派の勝利 に終
松井 金代の キタイ系武将 とその軍団
わ ったので ある。天 脊 3 年 ( 1 1 4 0 )5‑6 月、 ウジュは金軍 を主導 し、 ダライ外交 に よ り南 末 に返 還 され た河 南 ・陳 西 を奪 回 した
。その上 で 、翌 皇統 元 年 ‑紹 興 1 1年
( 1 1 41 )の金 ・宋講和 が成立す る [ 以上 、外 山 1 9 6 4 ,pp. 2 6 ‑ 31 ,2 3 2 ‑ 3 0 9 ,3 1 0 ‑ 3 4 2 ]。
さて、 ダライの失脚 と謀反 ・謀殺 に関す る諸 史料 は、外山軍治 によ り要領 よ く整理 されてい る [ 外 山 1 9 6 4 ,pp. 3 3 4 ‑ 3 4 0 ]。 しか しここで は、外 山が言 及 しなか った苗 耀 『 神業記 』( 『 三朝北盟 会編 』 巻 1 9 7 ・紹興 9 年 ( 1 1 3 9 ) 8 月 1 1日条所 引)の一節 を とりあげる。
魯国王捷傾罷都元帥 、以四太子J E) TL 代之 、・ ・ ・ 撞傾快 々謂無罪見譲 、遂輿三子宗武
・宗旦 ・宗望 同妻発寄妃共議 日、 「 錐奪我元帥府兵 馬 、尚有本千戸 及強壮得 力家 人部曲 、可従 山後詐憤赴涼径往 閣下 、問因何 罪如是罷権」C忽 有親信契丹 人召哲 郎君 、知共謀 、送告訴於J Cj T E o
記事 中にみ えるダライの言 によれば、 ダライは 「 元帥府兵馬」つ ま り金の正規軍の 指揮権 を奪 われ た とはい え、なお 「 本千戸」 と 「 強壮得 力家人部曲」 とを有 してお り、
その軍事 力 を背景 に金延 での権勢回復 を図 った
Cところが 「 親信 契丹人」 召哲郎君の 密告 によって ダライの計画 は漏洩 した とい う。
すでに見て きたよ うに、 ダライは 4 猛安のキ タイ系軍 団 を直属 させ 、 また粛恭率 い る 5 猛安軍 団 も影響下 に置 いていた。史料 中の 「 本千戸」・「 家人部曲」 とは、おそ ら くこれ ら合計 9 猛安の キ タイ系軍 団 を意味す る。 また 「 親信契丹 人」 召哲郎君 が この 謀反 を密告 してい ること (この点 につ いては後述 す る) 自体 も、謀反 に参画す るほ ど にキ タイ族 が ダライに重視 された ことをうかがわせ る。以上の諸点 か ら、筆者 は、キ タイ系軍 団が ダライの権勢の軍事 的淵源 となっていた ことを物語 る史料 と して、 この
F 神麓 記』の信蕃性 を評価 すべ きと考 える。
ところで、 F 金 史 』 中には粛恭 以外 に もダライ魔下 に属 して対宋戦争 に従軍 した と 考 え られ るキ タイ系武将 につ いての情報 が残 され る。以下 にそれ らを検討す る。
『 金 史 』 巻 91 ・移刺成伝
移刺成本名落J C、其先遣横帳人也 。況勇有謀 、通契丹 ・漢字。天骨 間、隷撞傾下 馬 行軍猛安 、輿宋 人戦於楚 ・酒之 間 、成以所 部先 登 、大破宋軍 、功最諸婿 。 [ 天
倉1 2 年 ( 1 1 3 4 ) ] 劉麟 約合天長軍議進止 。 成輿 爽古 査合ホ倶烏撞備 前鋒 、得宋生
口馬郷導 、送達天長 、香宗嘉之 。後従宗猫 、将兵虜膏 園。及再伐末 、攻濠州 、毎
東北 ア ジア研 究 シ リー ズ 5
戦 軒先 萱 、 多所 推破 。宗弼 再 取 河 南 、成 及素懐 忠 等 八猛安先 渡 。河南 平 、 第功 授 宣 武 将軍 、除 威 州 別 史,
F金 史』巻 81 ・粛 王家奴 伝
粛 王 家奴 、英 人也 、居 庫 薫河
C鳥 人魁偉 多力 、未冠仕達 、烏 太 子 率府 率 ,天輔 七 年 、 許続 呆定 築地 、 王家奴 率 其郷 人乗降 、 命烏 千 戸領之 。 ‑・ 明年再 伐 末 、宗 望 軍 至 中山 。‑師 還 、屯鎮 河 糊
。演 州賊 葛進架 衆 数 寓臨 消 、学 童 照里 以騎 兵二 千討 之 、 王 家奴 領謀 克先 登 、 力戦 大破 其 衆 。 ‑従 梁王 宗弼 征伐 、烏 寓 戸 、遠 島 五 院 部節度 使 。
F 金 史』巻 9 0 ・移 刺 道伝
移 刺道 、本 名接 。宗 室 移 刺古 烏 山東 東 路兵 馬都揺 管 、辞 掌 軍府 清書 、往 来 元帥 府 計議通 事 、右 副 元帥宗 弼 愛 其 才 、召烏 元帥府 令 史。
移 刺成 はキ タイ帝 国の横 帳 出身 で あ る。横 帳 とは初 代 キ タイ皇帝耶 律阿保機 の諸 子 で皇 帝 とな らなか った者 の子孫 を皇 族 と して過 した集 団 で あ り、葵族 と同 じ く中京路 を主 要 な遊 牧 地 と して い た ( 9 ) 。従 って 、粛 恭 らの 葵 族 集 団 と同様 に横 帳 もダ ライ磨 下 に組 み 入れ られ 、 それ ゆ えに移 刺成 もダ ラ イの もとで 「行軍 千 戸」 に任 じられ対束 遠 征 に従軍 したの で あ ろ う。次 に、葵 族 出身の 葡王 家奴 は、天 輔 七年 ( 1 1 2 3) に都続 の 某の 「 実地 」 つ ま り中京 路 平 定 に伴 い投 降 した と され る。 こ こで都続 の 呆 とい うの は誤 りで 、 ダ ラ イ と共 に遥 輩 九営 を攻 撃 し ( 『 金 史 』 撞 傾 伝 前掲 箇所 )対宋 遠 征 開始 時 に は六都路 副 都統 す なわ ち ダ ラ イの副官 に任 じられ た斜 野 ( 斜 也 ) とい う人物 を、
同 じジ ュ シ ェ ン名 ゆ えに混 同 した もの で あ る ( 1 0) 。従 って 、粛 王 家 奴 も中京 路 平 定 後 は ダ ラ イ魔 下 に属 した と思 わ れ る
。さ らに斎 王 家 奴 は 「再 伐 宋 」 つ ま り天 会 4 年 ( 1 1 2 6) の 第 2 次 開封攻 撃 の際 に は中山の攻 撃 に参加 して お り、 その後 は 「 河 朔」 に 駐 屯 して清 州方 面 の平 定 に もあた って い る 。 これ は、 中山 を攻 撃 し、後 には徳 州 ・清 州 ・棟 州 の キ タ イ系葵族 軍 団 を統 括 した とい う粛恭 の軍 事 活動 と も重 な る。あ るい は、
粛 王 家 奴 は斎 恭 直属 の 5猛安 軍 団 に属 して い たの か も しれ な い
。また、移刺道 は金 の 宗 室 移 刺古 が 山東東 路兵 馬 都 総 管 とな った際 、 右 手召 され て軍 府 の清 書 を掌 った とい う 。
前述 の よ うに山東 地 方 は ダ ライの支 配下 に あ り、 また移刺 古 は ダ ライの指 揮 下 に あ っ た こ とが確認 され るか ら( l l ) 、移 剰道 もダ ラ イ磨 下 に属 して い た とい える。
しか し、膏 の廃 国 ( 天 倉1 5 年 ( 1 1 3 7 ) ) に際 して移 刺成 は ウ ジュの配 下 で 出軍 し、
河 南 ・陳 西 の 奪 回 戦 ( 天 脊 3 年 ( 11 4 0) 〜皇統 元年 ( 11 4 1)) に も参加 して い る 。 ま
松井 金代の キ タイ系武将 とその軍団
た粛 王 家奴 もウ ジュに従 軍 して 「 万 戸」 に任 じられ て い る
C一 方、移 刺道 は、軍 事 上 の連絡 の ため燕 京 ・河 南 の元 帥府 とを往来 して い る際 に ク. ジュに よ って蹄 召 され て い るOつ ま り、元来 ダ ライ配下 に あった移 刺成 ・粛王 家奴 ・移 刺 道 は、 ダ ライ抹 殺 に前 後 して その政 敵 で あ った ウ ジュの配 下 に移 って い るの で あ る 。 前掲 F 神麓 記』 の 召哲 郎 君 の動 向 を も併せ 考 えれ ば 、 お そ ら く移 刺成 ・斎 王 家奴 ・移刺道 らダラ イ配下 の キ タイ族 の一 部 は、 ダ ライの政 敵 ウ ジュの勧 誘 を うけ、 また は ダ ライの軍 事権剥 奪 ・失 脚 を契機 と して 、 ダ ライか ら離 反 して 「 勝 ち馬 」 ウ ジュ派 へ転 向 したの で あろ う
。一 方 、粛恭 は、 ウ ジュ主導 の河南 ・陳 西奪 回戦 に参 加. した様 子 が な く、皇統 年 間 に 同知横海 軍 節度 使 へ の転 任 、 さらに父 の喪 に服 した後 に大 原 少デ に復帰 した こ とが記 され るの み で あ る。 金 の 官 制 で は同 知 節 度 使 及 び府 少 デ は と もに正 五 品 で あ るか ら ( ̲ F 金 史 』 巻 5 7 ・百 官 志 3 )、 それ まで棟 州 の防 御 使 ( 従 四品) だ った斎恭 は降 格 され た こ と とな る
。お そ ら く斎恭 は、かつ て質子 と して ダライの許 に あ り、 また ダ ライの 推 挙 で キ タイ系 5 猛 安 軍 団の長 に任 じられ た とい う経 歴 か ら、新 実権 者 ウ ジュに敬遠 され 、対 南宋遠 征 か ら も外 され たの で あ ろ う。 ダ ラ イの謀 反 自体 に粛 恭 が関与 して い たの か否 か は不 明 なが ら、少 な くと も、移刺成 ・粛 王 家奴 の如 くウ ジュ派 に転 向 は し なか った もの と考 え られ る。
【 Ⅳ】 しか し、 その 後 、粛恭 は 「 廉 を用 て」 故郷 の 中京路 ( キ タイ帝 国の 中京道 )の 副官 ( 同知 中京留 守 事 、 正四品) に昇進 し、 さらに は兵部 侍郎 ( 正 四品) す なわ ち軍 事担 当部 門 の副官 と して 中央政 府 に召還 され る 。 天 徳 2 年 〜 3 年 ( 11 51‑1 1 52) に は
「 禁 中の起 居 の状 を問 う」 た罪 に よ り一度 は解職 され た もの の ( 1 2) 、貞元 2 年 ( 11 54) には 前年 に新首都 と され た中郡 大興府 の副官 ( 従 四品 ) に任 じられ 、 さらに 「 歳 余」
に して兵 部 尚書 ( 正三 品) と して 中央政 府 に復帰 した。正 隆 2 年 ( 1 1 5 7) には粛 恭 が 兵 部 尚 書 と して軍 事 体 制 の 強 化 に参 画 して い る こ とが確 認 され る (13) 。 翌 正 隆 3 年 ( 11 58) に は南 宋 皇 帝 の生 誕 日を祝 うため に派遣 され る賀宋 生 日使 ( 賀生 辰 使 ) に任 じられ た ( F 金 史』海 陵本紀 に よれ ば 3 月朔)。対 宋 使 節 へ の任 命 はエ リー トコースの 1 つ で あ り、 また経 済 的利得 を も得 る こ とがで きる、一種 の恩 典 で あ った [ 西尾 尚也 2000,pp.39‑40,42‑4 8 ]。母 の喪 に服 した後 は侍 衛 親軍 馬 歩 軍 都指揮 使 つ ま り皇 帝 の親衛 軍 団の 司令 官 ( 正 三 品) と して宮 に復帰 し、次 いで正 隆 4 年 ( 1 1 59) には光 禄 大 夫 ( 従二 品下 )・兵 部 尚書 に再 任 され た。つ ま り、粛 恭 は 、 同知 中京留 守 事就 任 を 契機 と して、 ほぼ一貫 して 中央 政府 の要職 を歴 任 して い る とい える。
この 間 、金廷 中央 で はや は り激変 が起 きて い た。皇 統 9 年 ( 11 49)1 2 月、宗幹 の長
子 で平 章政 事 の任 に あ った辿 古 乃 ( 漢 名 は売 ) が ク ーデ タを起 こ して熊宗 を試 し、第
東北 ア ジア研 究 シ リー ズ 5
4 代皇帝 と して即 位 した。彼 は後 に海陵王 と称 され る。 この海 陵王の クーデ タに最大 の貢献 をな したの は、粛恭 と同 じくキ タイ系葵族 出身の粛 裕 で あ った。 『 金 史』海 陵 本紀 お よび粛裕伝 は、海陵王 と帯裕の結託 を以 下の よ うに記す。
F 金 史』海陵本紀
皇統 四年 、加龍虎衛上将軍 、烏 中京留守 、遷光禄大夫 。鳥人儒急 、多猫忌 、残忍 任敷。初 、厚賀宗以太祖嫡孫嗣位 、売意以烏宗幹太祖長子 、而己亦太祖孫 、遂懐親 観 。在 中京 、専務 立威 、以厭伏小人。猛安着裕傾 陰敢決 、売結納之 、毎輿論天下 事 。裕瑞 知其意 、因勤海 陵撃大事 、語在裕博 。七年 五 月、召烏 同判大京正事 、加 持進。十一 月、拝 尚書左丞、務摺持権柄 、用其腹心烏省毒要職 、引粛裕烏兵部侍 邸 。‑ [ 皇統 9年 4月]送 出烏領行毒 尚書省事 。過 中京 、輿斎裕定約而去 。至 良 郷 、召還 。海陵莫測所以 召還之意 、大恐 。既至 、復烏平章政事 、由是益危迫 o
F 金 史 j 巻 1 2 9 ・斎裕伝
粛 裕 、本名造折 、英人 。 初以猛安居 中京 、海陵烏 中京留守 、輿裕相結 、毎輿論天 下事 。‑海陵寛成拭逆之謀 者、裕啓之也 。海陵烏左丞 、除裕兵部侍部 、改 同知南 京留守 事 、改北 京。海陵領 行基 尚書省事 、道過北 京 、謂 裕 日 :「 我欲就河南兵建 立位競 、先 走両河 、挙兵而北 。君烏我結諸猛安以磨 我」。定約而 去。海複雑 自良 郷 召還 、不能如約 、送試即宗纂立 、以裕烏秘書監 O
斎裕 は猛安 と して葵族 の故地 で ある中京路 に居 り、皇統 4 年 ( 1 1 4 4 ) 海陵王 が中京 留守 と して赴任 した ことを契機 に、両者 は結託 を強 め た。海陸王 は皇統 7 年 ( 1 1 4 7 ) 1 1月に尚書左丞 に遣 り、その際 には粛裕 を兵部侍邸 に招 いた。同 9 午 ( 1 1 4 9 )4 月に 領行台 尚書省事 と して開封 に赴 く途上 、海 陵王 は、同知 中京留守 事 ( 1 4) に任 じられて いた粛裕 に 「 諸猛安」 を糾合 して挙兵 に呼応 す るよ う密約 した。す なわ ち、海 陸王の クーデ タ計画 は、粛裕の指揮下 にある諸軍 団 を軍事的後盾 と していたので あ る [ 王淑 英 1 9 9 8 ,p. 5 3 ]。
ここで、再 び帯恭 の経歴 を考 えてみ たい。金利の 1考 は 3 0 ヶ月 も しくは満 3 年 で あ
り ( F 金 史』 巻 5 2 ・選 挙志 2 )粛恭 は天徳 2 年 〜3 年 ( 1 1 5 0‑1 1 5 1) に兵部侍部 に在
職 してい るか ら、その前職の同知 中京留守事の在任期 間は ま さに海陵王 の クーデ タの
前後 となる。一 方、海陵王 クーデ タ時 には粛裕 が同知 中京留守事 となってい る C つ ま
り、粛恭 と粛裕 は、中央 では兵部侍邸 、中京路 では同知留守事 を、 ご く近 い時期 に務
松井 金代の キ タイ系武将 とその軍 団
めているのである。粛恭伝 には明言 されないが、海陵王 ・煮裕の クーデ タ計画 には、
中京路東半地区 ( なかで も興 中府などの 5
州 )に地盤 を有・ していた粛恭 も協力 したに 相違 ない。海陵王新政権下での殊遇ぶ り、特に兵部侍邸 として初めて中央政府 に入っ た後に、功臣への恩典である世襲謀克 [ 三上 1 9 7 2 ,pp. 2 1 9 ‑ 2 2 9 ] を授与 されている の も、クーデ タ参画の見返 りとみ るべ きである。
海陵王の クーデ タに粛恭 ら 「 旧 ダライ派」が参加 したとい う傍証が もう一つ ある。
海陵王の信任 を得て尚書右丞相 ・中書令 まで昇 りつめ、その勢威は 「 任職用事頗車窓、
威福在己、勢傾朝廷。海陵倍信之、地相仰成而己 」 ( F 金 史 』巻 1 2 9 ・黄裕伝) と伝 え られた粛裕は、 しか し、貞元 2 年 ( 1 1 5 4 ) 正 月に謀反の罪で諌殺 された。その間の事 情 を斎裕伝 は次の ように述べ る。
而海陵猫忍暗殺、裕恐及禍、遂輿前莫定デ粛満蒙奴 ・前御史中丞粛招折 ・博州同 知造設 ・裕女夫過剰補謀立亡遼淳王延繕之孫。裕使親信素屯納往結西北路招討使 粛好胡、好胡即懐忠。懐忠依遠未決、謂屯納日 :「 此大事、汝蹄遣一重入来」C裕 乃使招折往C招折前薦中丞 、以罪免、以此得詣懐忠。懐忠間招折輿謀者復有何人、
招折 E]:「 五院節度使耶律朗亦是也Jo傾忠膏輿朗有隙、而招折嘗上撞備轡事、傾 忠疑招折反覆、因執招折 、収朗繋獄 、遣使上轡。
帯裕は粛漏家奴、粛招折、博州同知の造設、女婿の過剰補 らと共謀 して、キ タイ帝 国の末帝である天秤帝 ( 「 亡遼淳王延 頑」 ) の孫 を擁立す る計画 を立てた。 この謀反は 長期 にわたって計画 されたものであったが ( 1 5 ) 、 しか し、西北路招討使の蕎懐忠 ( 好 胡)の通報 により露見 し失敗 した。煮憤忠が粛裕 を裏切 った理由は、一つ には謀反参 加者の 1人耶律朗 との確執であるが、 もう一つ には 「 招折嘗上撞傾智幸、懐忠疑招折 反覆」 とい う疑念であった。一方 【 Ⅲ】で掲 げた苗耀 F 神麓記」では、ダライの謀反 を密告 したのは 「 親信契丹人」召哲郎君 と され るC この召哲 ( * t J I eu‑ t l I e)邸君 と粛 招折 ( * t J I E u‑ t l I e)とが同一人物であることに疑問はない ( 1 6)
Cっ まり帯裕の与党粛招 折 はかつて ダライの側近 だったのである。
粛裕 自身がかつて ダライ派 に属 したかは不明なが ら、少なくとも、斎裕が糾合 して
いた 「 諸猛安」 とは、ダライの中京地域平定 によってその配下 とされたキタイ系軍団
を中心 としていたもの と推測 され る。 ダライを倒す ことで権力基盤 を固めた即宗政権
の もとでは、この 「 旧 ダライ派」キ タイ系軍団は故地の中京路で逼塞 を余儀 なくされ
たのであろう。そのただ中に野心に満 ちた海陵王が中京留守 として赴任 したことは、
東北 ア ジア研 究 シ リーズ 5
彼 らキ タイ族 にとって も中央政界 に浮上す るための好機 となったに相違 ない。
なお、粛裕の謀反 とその失敗が、直接 にその他のキ タイ系武将 ・官僚 に影響 を与え たふ しはみ られ ない [ 外山 1 9 6 4 ,pp. 8 8 ‑ 9 0 ]。本来 は粛裕 と 「 同謀」 とされた粛憤 忠 も、謀反密告の功 によ り枢密副使 に昇進 し、後には西北辺境防衛の大任 を委ね られ てい る ( 『 金 史 』 巻 9 1 ・粛傾忠伝。 ただ し、撒 八 ・移刺窟斡 の反乱の鎮定 に失敗 した 罪で諌殺 された)。同様 に、粛恭 も引 き続 いて首都 ・中央政府の要職 を歴任 してい る。
少な くとも表面上では、粛恭 は斎裕の謀反 には無関係 とみてよかろう。粛恭 は葵王の 後高に生まれ、ダライ配下で も 5 猛安軍団の司令官 とされた経歴があるに も関わ らず、
その官位は光禄大夫、職 は兵部尚書 にとどまる。一方、最高位の尚書右丞相 ・中書令 まで昇 りつめた粛裕は、 もとは 「 猛安」つ まり 1千人隊長に過 ぎなかった。名族出身 の粛恭 と 「 成 り上が り」粛裕 とは、海陵王の奪権 に際 して協同 したとはいえ、必ず し
も良好 な関係 にはなかったのか もしれない。
【 Ⅴ】 海陵王が粛恭 を西夏 との国境画定交渉のために派遣 したのは 『 金史』海陸本紀 によれば正隆 4 年 ( 1 1 5 9 )3 月朔であ り、明 らかに対南宋遠征の際 にその背後 を西夏 か ら衝 かれないための事前交渉であった。海陵王 は前年の正隆 3 年 ( 1 1 5 8 ) にはすで に対南宋遠征の意志 を固めてお り [ 陶晋生 1 9 6 3 ,pp. 3 3 ‑ 3 5 ]、 この年 に粛恭 らを使 節 として末へ派遣 したの も敵情視察 を目的 としていた( 1 7 ) 。海陸王 が帯恭 を南宋出使
・対西夏交渉 に相次 いで任 じたこと自体、その信頼の厚い ことを物語 る。なお、 この 国境画定作業の結果 を直接 に物語 る 「 画界碑 」 3 点が近年陳西省呉旗で発見 された。
それ らの銘文によれば、 この 「 画界碑」の立石 は正隆 4年 5月、その責任者 は 「 宣差 兵部尚書光禄」す なわち粛恭 その人である [ 姫乃軍 1 9 9 4 ]。
しか し粛恭 は、大任 を果 した後、海陵王か ら与 えられた 「 信牌」 を紛失 したことが 原因で病 を発 し、太原府で病没 した。天会 3 年 ( 1 1 2 5 ) の伐宋戦開始時に 2 3 歳であっ たとい うか ら、享年 は57 歳 となる。
【 Ⅵ】粛恭 が没す る直前、海陵王 は、護衛 として近侍 させていた粛恭の子の九奇 を派 遣 し、粛恭 を迎 えさせ たが手遅れであった。粛恭の棺 は手厚 く護送 されて中部に至 り、
その葬礼には百官 が出席 しまた海陵王 自らも臨席 した。なお、臣下の葬礼に皇帝 自身 が臨席す るのは、皇族の完顔一族や后妃 を除 けば宰相 クラスの高官 もしくは鮒馬世戚 の場合がほ とん どである ( 18) 。官職 では兵部尚書 に過 ぎない粛恭 に対す る海陸王の厚 礼 は異例 といえ、海陸王の奪権 に粛恭が果 した功績の大 きさを推測 させ る。
以上 を総括すれば、粛恭の経歴 は、金によるキ タイ族平定や対宋遠征 または金廷内 部の権力闘争 ・クーデ タなど、金朝政治史の動向 とも密接 に関連 して浮沈 していた と
1 30
松井 金代の キ タイ系武将 とその軍団
結論で きる
Cそ して金廷支配層に とっての煮恭の重要性 、あるいは粛恭の金延 に対す る影響力は、彼 が率いるキ タイ系軍団の軍事力がその源であった と考 えられ る。
2 .金代のキ タイ系武将 をめ ぐって
前章でみたよ うな粛恭の経歴 は、実 は、金代の キ タイ系将相 とも共通す る点が少な くない。以下には、彼 らの伝記資料 をもとに、その特徴 を列挙 してみ よ う
。( 1 ) ジュシェン宗室 とキタイ系武将
キ タイ帝国が金 によ り平定 された際 、投降 したキ タイ系武将の 多 くは、投降先の ジ ュシェン宗室 ・領袖 と個 人的な主従関係 を取 り結んでいる。前章 にみたよ うに、中京 路 を平定 したダライの麿下 には、蕎恭 ・移刺成 ・粛王家奴 らの中京路地域 を本拠 とす
るキ タイ系武将 が多数加 わっていた。
一方、ダライの政敵 ウジュも、その属下 には少な くないキ タイ系武将 を抱 えていた。
移刺戒 と同 じく横帳 出身の移刺温 は、は じめ香宗 オル ド ( * Or do> 誰里菜。漢名 は宗 輔の ち宗勇 、太祖の第五子)摩下の潮海人武将大臭 ( 『 金史』巻 8 0 ) に従 っていたが、
天会 7‑8 年 ( 1 1 2 9‑1 1 3 0 ) の江南遠征 を契機 と して ウジュの信任 を得 、ウジュの遠 征 には必ず従軍 した とい う。特に天脊元 〜2 年 ( 1 1 3 8‑1 1 3 9 ) 頃の ウジュの北方遠征 [ 外 山 1 9 6 4 ,pp. 4 3 0 ‑ 4 3 1 ] に際 しては官職 を捨 てて従軍 してお り、その 主従関係の 濃密 さが うかが える( 1 9 )
。耶律安礼 は天脊初年 ( 1 1 3 8 ) 頃 に山西で 「 元帥」 に従 って い る。山西 は南進 す る金軍 に とって右翼 にあた るか ら、 この 「 元帥」 とは天 会 1 5 年
( 1 1 3 7)に右副元帥 に就任 したウジュと考 えられ る。 また安礼 は後に海陵王か らウジ ュの 「 故更」 とみ な されてお り、 ウジュ派 に属 していた ことは確実 である ( 20) 。キ タ イ帝国鮒馬家の後商 である石抹下 も、 まず香宗 オル ドに従 い、その死 ( 『金史 』 即宗 本紀 では天会 1 3 年 ( 1 1 3 5 )5 月甲申)後 、天会末年 ( 1 1 3 7 ) 頃 にウジュの帳下 に召 し 抱 えられ た。石抹下は当時金延の実権 を握 っていた ダライ ・宗磐 らの勧誘 を受 けたが 応 じなか ったとい う ( 2 1 )。 ウジュが ダライ配下の キ タイ系武将の招致工作 を行なった 可能性 については前章 【皿】で述べた通 りだが、ダライ側 も、同様 にウジュ派のキタ イ系武将 を勧誘 していたのである。
この他 に も、ジュシェン宗書 に仕 えていたキ タイ系武将の例 として耶律悪 を挙 げる
ことがで きる,彼 もまた横帳の出身であ り、宗室 出身の貴書 ( F 金 史 」 巻 7 2 ) に従 っ
て山西 ・陳 西方面の平定 に従軍 し、専室の死後、やは り陳西方面の最高司令官 となっ
東北 ア ジア研 究 シ リーズ 5
た撒 寓喝の辞 召 を受 けて その参謀 とな り軍務 を委ね られてい る ( 22) 。
( 2) キタイ系武将 と質子 ・禁軍 ・群牧
ダ ライは中京路 を平定 して その統 治 を粛期 に委ね るにあた り、子の粛恭 を質子 と し て手許 に置 き、後 には帯恭 をキ タイ系軍 団の長 に据 えて影響 力 を行使 した [ 前章 【Ⅰ】
参 照]。斎恭 の よ うに ジュ シェ ン宗室 の もとで養育 され たキ タイ系武将の例 と して は 石抹栄 がある。キ タイ ・金戦争の際 、父暢益 が天秤帝 に随 従 したため、石抹栄 はその 母 とともに女英文字の作製者 と して著名 な完顔希デ (ジュ シェ ン名は谷神)の家で養 育 され、成長す ると希デ の上 司で あった宗輪の幕府 に出仕 した とい う ( 23) 。
また、金の 中央集権化 が進 め られ た とされ る照宗時代以降 は、キ タイ系武将 ない し はその子弟 が護衛 と して禁軍 に属 す る例 が頻 見す る [ c f . 藤原 2 0 0 0 ,pp. 2 2 8 ‑ 2 3 0 ]。
まず禁軍 を司 る殿 前部点検 司 が天等 元年 ( 1 1 3 8 ) に設置 され た際 、 その初 代 の長官 ( 都 点検 ) を務 め たの は キ タイ帝 国の鮒 馬 家 出身 の粛 仲 恭 で あ り [ 外 山 1 9 64 ,p.
3 2 0 ]彼 は 「 衛禁有備」の功 によって銀青光禄大 夫 ・尚書右丞 に昇進 してい る ( 『 金 史』
巻 8 2 ・粛仲恭伝)O前述 の石抹栄 も、即宗即位 に伴 って宗 輪 が失脚 す ると、天等二年 ( 11 3 9) に護衛 に充 て られ 、後 には宿直将 軍 に昇進 して い る ( 24) 。海 陵王時代 で は粛 裕の第着酢 が殿前左副点検 ( F 金 史j巻 1 2 9 ・粛 裕伝 ;F 金 史 』 巻 7 6 ・宗本伝 )、 また帯 恭 も侍衛親軍 の馬歩軍都指揮侯 に任 じられ、斎恭の子粛 九 欝 も護衛 と して海陸王側近 に在 った [ 前章 【 Ⅵ】参 照]。正隆 6 年 ( 1 1 61 )海陸王 の 南宋遠征 開始直前時 には都 点検の耶律湛 、右衛将軍の粛禿刺 が反乱鎮圧 の ため に派遣 され て お り (F 金 史 』 海 陵 本紀 ・正隆 6 年 5 月、同 8 月 ;同巻 91 ・帯憤忠 伝)、同年 6 月 2 9 日には 「 護衛 契丹軍」
3 0 0 人余 が河南 の汝州 で反乱 を起 こ し南宋側 に逃 亡 した とい う( 2 5 ) 。海陸王 は 6 月 2 2
日突亥 には南京開封府 に入城 してい るか ら ( 『 金 史』海陵本紀 )、この 「 護衛契丹軍」は 明 らかに海陵王の親衛部隊の一部である。同年 1 0 月に耶律 元宜が海陵王 を暗殺 した際に は、元宜の子 で宿直将軍だった耶律母里奇 も加わっていたとい う( 2 6 ) 。時代 は障 るが、石 抹仲温 も護衛十人長か ら宿直将軍 ・器物局使 ・左衛将軍 ・左副点検 を歴任 してい る ( 27 ) 。
さらに禁軍 で護衛 に充 て られ たキ タイ族 は、官営軍馬牧場 で あ る群牧や、都点検 司
の属局 で御馬管理 を担 当す る尚厩 に任 じられ る例 も多い。海陵王 の南征 に際 して最 高
司令官 を務 め た耶律 元宜 は、 そ もそ も騎射 ・ポ ロ競技 に秀でた遊牧武 人で あ り、皇統
元年 ( 1 1 41 ) に護衛 に充 て られ た後、蘇里本群牧傍 を経 て、再び都点検司の属官 であ
る武 庫 署 令 ・符宝邸 を歴 任 した ( 28) 。葵族 出身 の伯 徳梅 和 尚 は、海 陵王 の正隆 5 年
( 11 60) に護衛 に充 て られ た後、昂魯椀群牧 副使 を経 て、禁軍 に復帰 して護衛十人長
松井 金代の キ タイ系武将 とその軍団
‑尚厩局副使‑尚厩局使‑右衛将軍挟衛使 を歴任 し 「尚厩 を典 ること十余年」であっ た とい う ( 29)
。横帳 出身で照宗初年 に護衛 に充て られ た移剰按答 も、騎射 を善 くす る のみ な らず善馬の選定 に多々関与す るな ど、いかに も駄 馬遊牧民 らしい才能 が伝 えら れ る ( 30) 。貞元 3 年 ( 11 55) に賀宋使 と して派遣 され た耶律隆 も、F 金 史 』巻60 ・交 樗表上 では同知南京路転運司事の任 にあった と され るが、南宋側の史料 によれば武散 官 ( 広威将軍 ) を有 し、群牧副使 に充て られてい る 。( 『 建炎以来累年要録 』 巻 1 6 8 ・
紹興 2 5 年 ( 1 1 5 5) 5 月乙丑) 。)
この よ うに金延 がキ タイ族 出身者 を護衛 ・尚厩官 と して禁軍 に配 し、あるいは群牧 官 に任 じたのは、 日常的に皇帝身辺で勤務 させ ることで彼 らを懐柔 ・掌握 し、 さらに は彼 らを通 じてキ タイ系遊牧集団の管制 を図 った もの と、筆者 は考 える
。撤八 ・移剰 窟斡の反乱 後 まもない大定 6 年 ( 11 6 6) で も皇帝の親軍 中に 「 逆党」つ ま り遊牧キ タ
イ族の子 弟が少 なか らず所属 していた こと ( 3 1 ) や、キ タイ系遊 牧民 の反乱 に対す る招 諭や統治対策 には多 くの場合 キ タイ系武臣 ・官僚 が任 じられてい ることも ( 32) 、 この 推測 を裏付 ける。群牧 と尚厩局 とが馬群管理の点で密接 に関係す ることは、金後期の 明昌 4 年 ( 11 9 3) に尚厩局使の石抹貝が慶州 ( キ タイ諸帝の陵墓が集 中す る) を拠点 として群牧所の再整備 を担 当 した こと ( 33) か らもうかが える
。また金代の群牧の 多 く はキ タイ帝国の群牧 を継承 し、その軍馬の飼養 も主 と して金の西北万 一北方 に展開す るキ タイ系遊牧民 が担 当 していたと一般 に考 えられている [ e. g. ,高井 1 9 9 9 ,p p.36
‑ 4 0 ]。
ひ るが えって、 ダライ ・ウジュ ・完顔希デ ・宗翰 ら金初期の ジュシェン有力者が、
粛恭 ・移刺成 ・粛王家奴 ・石抹栄 ・移刺温 ・耶律安礼 ・石抹下 らの帰順キ タイ系武将 を属下 に抱 えたことも、その配下のキ タイ系遊牧軍 団の掌握 を目的 と した もの とみな せ よ う。 この ような ジュシェン有力者 とキタイ族 との関係 、あるいは金の禁軍 とキ タ イ系武官 との関係 は、ケシク ( mo.ke s i g < t t i . kえz i g) と呼 ばれ たモ ンゴル帝国時 代の親衛隊制度 とも相通ず る点がある。周知の よ うに、モ ンゴル帝国の ケシク制度 は、
モ ンゴル遊牧貴族 の子弟 を質子 としてモ ンゴル皇帝の もとで出仕 させ 、人格的な主従 関係 を強化す るとともに、モ ンゴル政権の高級将相 を育成す ることを目的 とした。 ま たこの制度 は帰順勢力の代表者 に も適用 され、モ ンゴル帝国は質子 とされ た子弟に帰 順勢 力の代表者 を襲継 させてその掌握 を図 ったの で ある。 さらに酒代 の ヒヤ ( hi ya
〜 c hi n. 侍衛 ・護衛 )制 もモ ンゴル時代の ケシク制 と酷似 してお り、 これ を杉山清彦 [ 2003 ,pp.11 9‑ 1 29] はモ ンゴル帝国か ら清朝 に継 承 され た もの と推測 している。
これ らモ ンゴル時代 ・清朝時代の親衛隊制度の淵源が金代 さらにはキ タイ帝国時代 に
東北 ア ジ ア研 究 シ リー ズ 5
まで遡及 して確認で きるかは、今後の検討課題 である。
( 3)金の軍事活動 とキ タイ系武将
金朝がキ タイ族 を軍事的に重用 したことはすでに諸先学 によ り指摘 されてい るが、
そこでは対北方 ・西方辺境防衛の任が強調 されて きた。
しか しなが ら、金の南方への軍事活動すなわち対宋遠征 に も多数のキ タイ系武将 が 参加 していたことは、本稿 で言及 して きた粛恭 ・移刺成 ・煮王家奴 ・移刺道 ・耶律安 礼 ・石抹下 ・石抹栄 らの事績 か らも明瞭である。天会 3 年 ( 1 1 2 5 ) に始 まる対北東遠 征 に参加 したキ タイ系武将 と しては 、 『 金 史 』 に列伝 が ある者 だけで も、粛恭 らの他 に、伯徳持寓補 ( 巻 8 1)・耶律塗山 ( 巻 8 2 ) ・耶律余暗 ( 巻 1 3 3 ) ・耶律懐義 ( 巻 8 1)・
移刺斡里菜 ( 巻 9 0 ) ・耶律恕 ( 巻 8 2 ) ・移剰温 ( 巻 8 2 ) らの名 を挙げることがで きる
。さらに、正隆 6 年 ( 1 1 61 )の海陵壬 による南東遠征 に も、やは り多数のキ タイ系武 将 が参加 しているO この南宋遠征 に際 しては、北 ・西北辺境 ‑内蒙古地域の キ タイ族 らが徴兵 に反 発 し撒 八 ・移 利窟 斡 らに率 い られ て大反 乱 を起 こ した [ 三上 ・外 山
1 9 3 9 ] とい う経緯 か ら、従来 キ タイ系武将の参加 は必ず しも注意 されていなか った。
しか し、海陵王の南征 を鳥陣研究 した陶普生 [ 1 9 6 3 ]によると、 この南征 に従軍 した キ タイ系武将 と して、海陸王 に直属 し推西方面 に進攻 した耶律元宜 ・その子で駿騎副 都指揮任であった耶律王禅 をは じめ、耶律元宜軍の別動部隊 と して推東 に進攻 した葵 埴 不也 ( 粛埼) [ 陶晋生 1 9 6 3 ,pp. 1 4 9 ‑ 1 5 0; 外山 1 9 6 4 ,pp. 9 6 ‑ 9 7 ]、武毅軍都総管 と して葉暢 ・湧水方面に進攻 した石抹下、軍糧補給担 当の移刺道 ( 本名は接)、済州 路行軍万戸 となった移刺温 、神栄軍都総管 と して洞州 に駐留 した石抹栄 および耶律没 答、威略軍都総管の斎 中一 らが挙 げ られ、 さらに 『 全 史 』 列伝 か らも移剰値 ( 8 9 ) ・ 移利子敬 ( 巻 8 9 ) ・移刺斡里菜 ( 巻 9 0 ) ・移刺道 ( 題三 、巻 8 8 ) ・耶律神都斡 ( 巻 81 ・ 耶律情義伝) らを数 えることがで きる 。
特 に耶律神都斡 は南征直前 まで西北路招討都監 と して内薫地域 の遊牧民統治 を担 当 しているか ら、南征 に も遊 牧キ タイ族 を引具 した可能性 がある 。 さらに、耶律元宜麿 下の南東遠征軍が内蒙古か ら徴兵 された遊牧 キ タイ族で構成 されていたことを示 す徴 証 と して、元代のキ タイ系官僚の帯域の伝記である胡砥逼 「 衛輝提領長官粛公神道碑」
( 『 柴山大全集』巻 1 6 ) が挙げ られ る。 この 「 帯公神道碑」 によれば、粛境の先祖 は
代 々キ タイ帝国の貴族 で■ ぁ り、海陵王の正隆年間 ( 1 1 5 5‑1 1 6 1 )に大 名路涌平 県に駐
屯 し、その まま土着 した ( 34) 。一方 『 金 史 』 巻 1 3 2 ・完顔 ( 耶律)元宜伝 は 「 海陸伐
実 、 (元宜 )以 本 官 領神 武 軍 都姥 管 、以 大 名路騎 兵 寓鯨 益之 」 といい 、 正隆 6 年
松井 金代のキ タイ系武将 とその軍団
( 1 1 61 )の南 征 に際 して耶 律 元宜 の磨 下 に約 1万 の 「 大 名路 の騎 兵 」 を加 えた とい う。
この 「 大 名路 の騎 兵 」 とは、粛墳 一族 ら海陵 王 時代 に 「屯成 」 を名 目 と して内蒙古 か ら徴兵 され た キ タイ軍 団 を さす もの で あ ろ う。 また 「 粛 公神 道 碑 」 は帯境 の 4 世 の祖 阿 薩適 が キ タイ帝 国時 代 に群 牧 長官 に も任 じられ た といい 、一方耶 律 元 宜 は禁 軍 の護 衛 ・武 官 と群 牧官 とを歴 任 して い る [ ( 2 ) 節参 照 ] 。耶律 元 宜 らキ タイ系武将 ・軍 事官 僚 を通 じて粛 墳 一族 らの遊 牧 キ タ イ族 を管制 す る システ ム は、海 陵王 の南 征 に際 して 最 大 限 に活 用 され た に相 違 ない。正隆 6 年 ( 1 1 61 ) 6 月に撒 八 ・移 刺 窟斡 らに呼応 し て河 南 の汝 州 で反 乱 を起 こ した 「 護 衛 契 丹軍 」 (( 2)節 参 照 ) も、 お そ ら くは護 衛 と して金 の禁 軍 に出仕 した キ タイ系武 将 に よって内幕 地域 か ら招 致 ・徴 兵 され た もの で は なか ろ うか。
( 4)海陵王 との関係
盲 毎陵 王 が 自己の権 力 を確立 す るため 、 ジュ シ ェ ン宗 室勢 力 を抑圧 ・弾圧 ・粛 清 して キ タイ ・漢 人 ・潮海 な どの 臣僚 を登 用 した こ とは、第 5 代 世宗 (ジュ シェ ン名 は鳥 禄 、 位 1 1 61‑1 1 89) の 「 海 陵時 、契丹 人尤被信 任 」 とい う言 ( F 金 史』巻 88 ・唐括安 礼伝 )
に象 徴 され る 。 この点 は、海 陵朝 で は粛 裕 ・黄玉 ・耶 律安 礼 ・粛蹟 ・耶律 怒 らの キ タ イ族 ( 葵族 を含 む)出身者 が宰執 ( 尚書 令 ・左 右丞相 ・平 章 政 事 ・左 右丞 ・参 知政 事 ) の 半 ば を 占め た とい う数 量 的 分析 か ら も確 認 され [ 三 上 1 97 0 ,PP. 33ト33 5,425‑
427,43 2‑ 433; 三 上 ・外 山 1 9 3 9 ,p. 43 6; 外 山 1 96 4 ,PP. 87 ‑ 88 ]、 また対 宋 使 節 の 人選 に も反 映 して い る [ 西 尾 尚也 2 0 0 0 ,p. 4 2 ]O
しか しなが ら、武 力抜 きに単 に官 僚 ポ ス トを操 作 す るだ けで 、 ジュ シェ ン素 量勢 力 を弾 圧 ・撃肝 す るほ どの海 陵王 独 裁 が可 能 に な った とは思 えない。 少 な くと もキ タイ 系官 僚 の 多 くは、 ( 2) 節 でみ たキ タイ系武 将 と同様 に キ タイ系遊 牧 軍 団 と密接 な コ ネ クシ ョンを有 し、海 陵 王 に よ るキ タイ系官 僚 の挙 用 も、彼 らの背後 に あ る軍 事集 団 と しての遊 牧 キ タイ族 を自 らの独裁 権 力構 築 に利 用す る こと を 目的 と してい たの で は な か ろ うか。現 に、上述 の キ タイ系宰執 の うち、粛 裕 は 中京 路 の キ タイ系軍 団 とい う軍 事 力 を もって海 陵王 の クーデ タを支援 した [ 第 1章 【 Ⅳ】 ] 。耶 律安 礼 ・耶 律 恕 も対 束 戦 争 に従軍 した経験 を もつ [( 1)参 照 ]。 この両 名 は それ ぞれ ウ ジュ ・撒 寓喝 と個 人 的 主従 関係 に あ り、いわば 、海 陵王 が敵 視 した ジュ シ ェ ン宗 室 勢 力 に連 な る者 で あっ た 。
に もか か わ らず海 陵王 が彼 らを登 用 したの は 、や は り彼 らが同族 の キ タイ系 と連絡 し
得 る立 場 に あ ったか らで あ ろ う ( 35)
。粛 玉 も、海 陵 治世 に 尚書 省 令 史 ・礼 部 尚書 ・参
知 政 事 ・尚書 右 丞 ・平 章 政 事 ・右 丞相 と専 ら文官 と して登 用 され て い る よ うで あ る
東北 ア ジア研 究 シ リーズ 5
が、後 には軍職 の定海 軍 節度 使 とな って い る ( 36) 。 また粛晴 も、正隆元年 ( 11 5 6) に 尚書 右丞 を解任 され た後 は北 京 ( 旧の 中京)留守 に転任 し、撒 八 ・移刺窟斡 の反乱鎮 定 に も任 じられ た よ うで あ る ( 37) 。彼 の弟粛順 も武将 と して陳 西 方面 に在 った といい
( 38) 、一見 「 文官 ・文職 」 に あ るキ タイ系官 僚 で も軍 事 的活動 と無 関係 とは限 らない 例 と言 えよ う。
お わ り に
本稿 では、 まず キ タイ系 武将 の粛恭 の伝 記 史料 を もとに、彼 の事績 を金朝政治 史の 展開 に位置づ けた。次 に、金代 の キ タイ系武将 ・官僚 の事績 か ら、粛恭 の活動 と軌 を 一 にす る事例 を挙 げ、その歴 史的背景 につ いて概観 した。 その結 果 、金代 前半期 の キ タイ系武将 ・官僚 の 多 くは、遊牧 キ タイ族 の軍 事 力 を背景 と して金朝 の諸政 治勢 力 と 結 びつ き、その活動 は金朝 政治 史 とも密接 に連動 して い ることを指摘 で きた と考 える。
もとよ り、本稿 は金代前半期 のキ タイ系 武将 を対 象 と した素描 に とどま り、 よ り綿 密 に再構成 す る余地 は 多々 あ る。特 に、金朝後半期の キ タイ族 につ いての分析 は今後 の 重要 課題 となろ う。近年 、モ ンゴル帝 国史研究 の立場 か らも、 モ ンゴル帝 国勃興期 にお け る金朝支配下 の キ タイ族 の軍 事 的 ・政治 的 プ レゼ ンスが しば しば注 目されて い るか らで あ る [ 松 田 1 9 92; 杉 山正明 1 99 2 ,pp. 57 ‑ 5 9; 杉 山正 明 1 997 ,pp. 3 3 5 ‑ 3 3 7;
杉 山正 明 1 99 9 ,pp. 7 3‑7 4 ]。 さらに、金代 の キ タイ族 の動 向 にかつ ての キ タイ帝 国 の諸 事象 が どの程度 反映 され て い るか も重 要 な問題 とな る。す なわ ち、西暦 1 0‑1 4 世 紀 を適時的 に貫 く形 でキ タイ族の動 向 をと らえるこ とは、 キ タイ史 ・ジュ シェ ン史 ・ モ ンゴル史全体 に波 及す る課題 とな る。
キ タイ族 の側 で も反乱 ・謀 反 の際 には旧 キ タイ帝室 を擁立 す る動 きが散見 され 、諸先
学 もその点 を強調 してい る。 しか し、所謂 「キ タイ民族 意識 」 は必 ず しもキ タイ族 の
行動 を決定 す る もの ではな く、実際 には よ り小 さな党派 ・人脈 さらには個 人 レヴェル
の利 害 が重 視 され る こと もあ る ( 39) 。 さらに、粛恭 や移刺成 ・煮王 家奴 らダ ライ磨下
の キ タイ系武将 の動 向 [ 第 1 章 【 Ⅲ ・Ⅳ 】・第 2 章 ( 1 )参照 ] にみ られ るよ うに、 それ
らの党派 ・人脈 は 「キ タイ民族」 に限定 され て構築 され るわ けで はな く、政治状況 と
関 わ って柔軟 に再編 され て いた。 この よ うなキ タイ系武将 ・官僚 の人的結 合 を捕捉 す
る際 には、 「キ タイ民族 史」 の 内輪 に留 ま るこ とな く、個 々の政 治状況 を理 解 した上
での位置づ けが放 かせ ない( 4 0 ) 0
松井 金代の キ タイ系武将 とその軍団
以 上 の よ うな作 業 は 、 同 時 に 、東 方 ア ジア にお け る 「国 家 」・「 民 族 」・「 政 治 」 の 実 態 の 総 体 的把 握 につ な が る もの とな ろ うQ
注
( 1 ) キ タイ帝国時代、全てのキ タイ族が耶律 ・者のいずれかを姓 とした こと、また金代以降の 漢文史料 に現われ る移刺 ・石拝 がそれぞれ耶律 ・粛の異漢字転写であることは周知の通 りで ある。本稿でい うキ タイ族 とは、耶律 ・移剰 ・石抹姓の者、および素姓で明 らかに非漢語の 人名を名乗 る者 をさす
。( 2 ) 外山軍治 「 金朝政治の推移」・「 金朝治下の契丹人」 [ 外山 1 9 6 4 ,pp. 1 ‑ 6 4 ,6 6 ‑ 1 2 2 ] およ びそこに引用 され る諸文献 、また三 上 ・外山 [ 1 9 3 9 ] ・西尾賢隆 [ 1 9 7 7 ] を参照 C
( 3) 葵 は北魂時代か らキ タイの 西 ・南隣で遊牧 していた集団であ り、遥里 ・伯徳 ・奥里 ・梅只
・楚里の 5 つの下部集団か ら構成 されていたが 、9 世紀末 〜1 0 世紀初頭 に興隆 したキ タイに よって征服 され 、キ タイ治下では葵六部‑葵王府部に再編成 されて中京道方面 に放牧地 を定 め られ た [ 島田 1 9 7 9 ,pp. 8 7 ‑ 9 9 ] o F 金 史い 二は粛堂古帯 ( 巻 6 3 ・后妃伝上 ・昭媛察八)・
伯徳持寓補 ( 巻 8 1)・粛王家奴 ( 巻 8 1)・粛恭 ( 巻 8 2 ) ・素懐忠 ( 巻 9 1)・伯徳先 君 ( 巷1 2 2 ) ・ 粛辞 ( 巻 1 2 9 ) ・粛裕 ( 巻 1 2 9 ) など、出 自を 「 葵人」 とされ る者や、 また葵馬和尚 ( 巻 2 ・ 太祖本紀 ・天輔 7 年 ( 1 1 2 3)6 月)・葵回寓補 ( 巻 6 7 ) ・葵樟不也 ( 巻 6 ・世宗本紀 ・大定 3 年 ( 1 1 6 3 )5 月)など、「 実業」 と呼 ばれ る者が散見す る。 これは金代 に もキ タイと葵 とが 区別 され続 けていた可能性 を示す。 しか し r 金史J巻 9 1 ・粛懐忠伝 には 「 粛懐忠 、本名好朗、
葵人‑海陵意謂 ,懐忠輿粛裕皆契丹人」 とあ り,少な くとも金廷側 は .葵人である素懐忠 ・ 粛裕 を 「 契丹人」すなわちキ タイ族の一部 と認識 していたことが判明す る。そこで本稿で も, 葵 をキ タイ族に含めて扱 う
。( 4 ) 特記 しない限 り、個別事件の年代比定 は F 金史」本紀 および外山 [ 1 9 6 4 ] 巻末の年表に従
う 。