はじめに
戦時体制の強化がすすむにつれ政治・経済など各分野において統制がはかられ、それは昭和十三(一九三八)年の国家総動員法公布、さらに十五(一九四〇)年以降の新体制運動において各種企業や団体の合同・統合というかたちで進展をみせる。そのような動向は教育・婦人分野においてもみられる。青年団においては、昭和十六(一九四一)年一月大日本青年団・大日本連合女子青年団・大日本少年団連盟・帝国少年団協会の四団体が大日本青少年団として統合された。婦人団体は昭和十七(一九四二)年二月大日本連合婦人会・愛国婦人会・大日本国防婦人会が大日本婦人会として統合された。また、教師および教育関係者による半官半民の全国的職能団体である帝国教育会は、自らが中心となり地方教育団体を統合し昭和十九(一九四四)年には大日本教育会と名前を変更し「本会ハ教育翼賛団体」であると戦時体制に呼応することになる。
このような動向は育英事業団体にも確認できる。昭和十八(一九四三)年十月に国家的育英事業として創立された財団法人大日本育英会の設立過程においては、昭和十七年段階までの文部省案では地方団体を含む既 存育英団体は大日本育英会に無条件で統合する予定であったが、その後大日本育英会の制度設計に対する批判がおこるなどして、十八年五月頃には統合から提携方針へと変化した。 地方育英団体においても本稿で検討するように米沢・置賜地域(米沢市と東西南置賜の三郡)では、昭和十六年に米沢有為会に統合されるかたちで、教育財団興譲館と米沢教育会の三団体が合同している(以下、有為会、興譲館財団、教育会とも記す)。
合同や統制がはかられる目的は、団体の一元的統制をはかることによる高度国防国家構築という国策への協力であり、大東亜共栄圏建設のための国家的人材養成などであった。米沢の育英事業団体の合同も、それまで各団体が別々に行っていた育英事業を合同することで資金を増大して、地域や米沢興譲館中学校(以下、米沢中学校・米中とも記す、昭和四年一月二十九日山形県立米沢中学校から山形県立米沢興譲館中学校へ改称した (1))への育英事業を強化することでより郷土から各分野への人材輩出を盛んにする目的があった。
しかし、合同をおこなうには団体の歴史性の相違や、対等な合同か強力な団体を中心とする吸収的合同かなど合同の方法をめぐり、さまざま 論 文
戦時下、育英事業団体の合同問題における定款改正の意義と 米沢武官養成会の主導的役割について
―有力会員と同郷会による郷土 「戦時体制」 の確立
―布 施
賢 治
な困難が存在しており、決して容易に実現できるものではなかった。
歴史性の相違という点では、米沢有為会は明治二十二(一八八九)年頃東京に遊学した青年層中心に設立された米沢・置賜出身者による同郷会、米沢教育会は明治十八(一八八五)年に上杉家と有力士族層中心に設立された育英団体、興譲館財団は私立米沢中学校を運営した資金や上杉家が廃藩置県時に士族救済のための共有財産として与えた資金を中心に明治三十三(一九〇〇)年に設立された育英団体であった。三団体とも米沢の育英事業を行うことは同一であったが、資金的には興譲館財団と教育会は上杉家・旧藩士族層による旧藩資金が中心であるのに対して、有為会は青年層や地域の支援、県補助金が中心であった。また人材観の相違、育英事業の目的の相違も大きな問題であった。米沢教育会が「国家有用ノ人材 (2)」の育成なのに対して、興譲館財団は地域の育英事業であり当初は個人への学資貸与を行っていたが、明治四十年代以降広く社会の教育事業に投資するようになり、図書館や有為会寄宿舎の建設費や運営費補助を行った。有為会は育英事業のなかでも特に貸費制度の開始を熱望するも資金不足の理由からようやく明治四十四(一九一一)年に開始できたのであり、その目的は郷里の福祉と貸費生本人の発展をふまえ広く人物を養成するというものであった (3)。また有為会は組織として大規模であり多様な人材を会員として網羅していることから、みずからのみが真に米沢・置賜地域の諸問題を研究できる機関であるとの自負を強く持ち、興譲館財団や教育会の育英事業を不十分であるとして批判し続けていた。さらに、育英事業団体が財団・社団法人であるため文部省の監督下にあり、合同のためには目的や資金・解散の手続きなどについて、文部省や県とのやりとりをつうじて定款や寄付行為を変更して明示する必要があるとともに、団体相互で共通の認識を持ちつつ手続きを進める必要があった。 米沢教育会は明治三十二(一八九九)年六月に、興譲館財団は明治三十三年九月に文部大臣から財団法人認可をうけている。一方で米沢有為会は、明治四十二(一九〇九)年四月に東京に寄宿舎を開設したが、その際に上杉家から二万円、興譲館財団から七千円の貸与をうけた。財団法人である興譲館財団は法人格を有しない有為会に多額の資金を貸与することに対して「不確の嫌ある (4)」ことを懸念したため、有為会は四十二年十二月文部大臣から社団法人の認可をうけている。有為会は社団法人のため定款変更には総会での賛成が必要であったが、例えば毎年夏の時期に米沢で実施するという総会実施規定の変更は、同郷会が明治期の設立以来もっていた郷土の共同性維持という重要な役割に変容を加えることになった。合同問題が提起されて以降、さまざまに定款・寄付行為の変更が行われるようになるが、定款の変更は同郷会がたんなる郷土の親睦・育英団体から戦時体制下において教育・産業国策への協力団体へとその性格を変容させる意義をもつものであった。このような相違を超えて合同が達成される背景には、①合同を推進し議論した各育英団体の有力者はほぼ全員米沢有為会の有力会員であり、郷土だけでなく中央においてもなにかしらの関係性やつながりをもち、郷土からの人材輩出という点においては思想や職業をこえて一致協力していた、②中央政治と結びついた有力者の影響力、③軍部・有力軍関係者の影響力、④諸団体が育英の対象となる地域の中学校、米沢の場合は米沢興譲館中学校の教育にどのような危機感をもちそれをどう改善しようとしたのか、その一方で中学校側はどのように呼応したのかなどの諸点が影響した。①であるが、表
直ら自身も青年時に教育会の貸費生であった。興譲館財団理事も旧藩最 教育会理事は旧藩主家のほか大学教授がつとめ、また吉田熊次や小西重 職者と彼らの米沢有為会での役職名についてまとめたものである。米沢 1は米沢教育会と教育財団興譲館の昭和十五年時の役
上位身分の侍組子孫でつくる温故会会長や米沢市長や米沢図書館長など米沢の有力者で構成されていた。そして、彼らのほとんどが有為会の有力会員でもあった。表2は、米沢・置賜からの陸海軍武官輩出を目的として昭和八(一九三三)年に再興された米沢武官養成会の昭和十三年時陸軍部役員名簿である。上杉伯爵以下郷土出身の有力軍人と地域の教員・教育関係者八八名が名を連ねているが、彼らのうち四四名が有為会の会員であり、さらに前述したように教育会や興譲館財団の理事でもあった。表3は昭和十三年時の米沢武官養成会陸軍部会員であるが、軍学校在学者まで含む二三七名のうち有為会会員は七三名である。軍学校在学者をのぞく一九五名でみると会員率は三七%であった。表4は昭和八年時の米沢出身海軍武官であり彼らが米沢武官養成会海軍部の会員であったと考えられるが、八〇名のうち有為会会員は五三名で六六%であった。陸軍よりも海軍に有為会会員率が高く、米沢が海軍に多数武官を輩出し海軍兵学校進学には陸軍軍学校よりも中学校からの特別な教育が必要になることもあり、海軍と有為会との結びつきの強さが指摘できる。地域の育英事業団体の動向を検討する場合、個々の会員は東京や米沢などの居住地や職種や歴史性により別個の会で活動し、合同問題では人材観やその他の諸事情の相違から対立する場面もあるものの、元来彼らは有為会を中心として複数の会に所属しており、また自身がその会の貸費生であったなど、郷土の育英団体と相互的に強い結びつきを有していた。郷土からの人材輩出という問題において大局的には異論はなく、特に中央で官僚や大学教授として著名に活躍する人物にとっては新体制運動の情勢をにらみつつ合同への意欲は強いものがあったと考えられる。吉田熊次・佐藤寛次・小西重直らは昭和十(一九三五)年設置され日本精神にもとづく文教政策を答申した教学刷新評議会のメンバーであった。
表1 昭和15年時米沢教育会・教育財団興譲館役員の米沢有為会での役職
米沢教育会 職業等 米沢有為会での役職
上杉 憲章 理事長 総裁
吉田 熊次 理事 東京帝国大学名誉教授・国民精神文
化研究所研究部長 相談役
佐藤 寛次 理事 東京農業大学学長 会員
小西 重直 理事 京都帝国大学名誉教授 評議員
高橋 清 理事 陸軍歩兵大佐 評議員
清水 敬一 理事 愛知工業会社支配人、海軍主計大佐 評議員・監事
教育財団興譲館
戸田 虎雄 常任理事 銀行頭取 相談役
西條駒次郎 理事 温故会会長 相談役
登坂 又蔵 理事 米沢市長 相談役・評議員・米沢支部長
浜田 忠喜 理事 米沢市会議員・酒造業 米沢支部参事
赤井運次郎 理事 市立米沢図書館長 米沢支部参事
大峡 栄一 理事 米沢市学務委員 会員
『米沢有為会雑誌』「米沢中学校興譲会奨学財団」(国立公文書館所蔵)などより作成
表2 米沢武官養成会陸軍部の役員・支部役員名簿(昭和13年時)
陸軍部役員
総裁 〇 上杉憲章 伯爵
会長 〇 上泉徳弥 海軍中将
陸軍部部長 〇 中島鉄蔵 陸軍中将
評議員 〇 佐藤三郎 陸軍中将
評議員 〇 梅沢力助 陸軍少将
評議員 〇 芦川良治 陸軍少将
評議員 〇 平賀貞蔵 陸軍少将
評議員 〇 甘粕重太郎 陸軍少将 本部理事 〇 横沢高記 歩兵大佐
本部理事 五十嵐勝吉 歩兵中佐
本部理事 〇 遠藤二雄 主計少佐 本部理事 〇 宍戸清次郎 歩兵少佐
米沢支部役員 長井支部役員
支部長 〇 遠山彦次 海軍大佐 支部長 吉川三郎 海軍軍医少佐
副支部長 〇 鈴木正章 歩兵中佐 副支部長 未定
顧問 〇 西條駒次郎 顧問 古谷金逸 長井中学校長
顧問 下條英四郎 顧問 横沢仲右衛門 篤志家
顧問 〇 戸田虎雄 顧問 黒沢長太郎 豊原村長、輜重大尉
顧問 米沢中学校校長 顧問 金田利兵衛 県会議員、歩兵中尉
顧問 〇 登坂又蔵 米沢市長 顧問 安倍多門 県会議員
顧問 大場成実 米沢高等工業長
顧問 伊藤四郎右衛門 県会議員
理事 〇 屋代亨輔 輜重大佐 理事 大場源三 軍医大尉
理事 〇 進藤隆二郎 歩兵大佐 理事 平田彦左右衛門 歩兵中尉
理事 〇 大河原 清 歩兵中佐 理事 高橋吉次 歩兵中尉
理事 〇 真島孝松 海軍少佐 理事 飯沢準一 歩兵中尉
理事 〇 笹生俊平 歩兵少佐 理事 伊藤 東 歩兵少尉
理事 笠原豊一 歩兵少佐 理事 〇 佐藤信行 医師(校医)
理事 吉田綱一 歩兵少佐 理事 〇 桑島五郎 医師
理事 田村久内 歩兵大尉 理事 〇 横山八次 長井郵便局長
理事 安部勘七 歩兵中尉 理事 吉田貴和 長井中学校教諭
理事 伊藤浩一 砲兵中尉
理事 〇 蘆川良平
理事 〇 赤井運次郎 市学務課長
理事 〇 山下義広 米沢興譲館中学校医
理事 〇 香坂十郎 大町郵便局長
理事 石屋 澄 米沢興譲館中学校教諭
理事 〇 鈴木吉郎 米沢興譲館中学校教諭
理事 〇 戸田勇造 米沢興譲館中学校教諭
理事 〇 登坂卯一 米沢興譲館中学校教諭
評議員 〇 猪俣政次郎 篤志家 評議員 桑島忠一 長井町長
評議員 〇 金子功太郎 篤志家 評議員 高橋正雄 歩兵中尉
評議員 鑪 信策 篤志家 評議員 横山一雄 歩兵少尉
評議員 〇 金子才助 篤志家 評議員 長谷川一寿 長井町助役
評議員 〇 朝岡精一 評議員 高橋一郎 長井村長
評議員 佐近司喜一郎 輜重少佐 評議員 安部与右衛門 豊田村長
評議員 市野美保三 歩兵少佐 評議員 〇 中里一郎 伊佐沢村長、歩兵中尉
評議員 安部熙吉 海軍主計少佐 評議員 鈴木震次郎 長井小学校長
評議員 〇 井上周義 高等小学校長 評議員 横山直浩 小学校長
評議員 〇 中村金太郎 小学校長 評議員 平田 亘 荒砥小学校長
評議員 〇 山本徳四郎 小学校長 評議員 庄司雄吉 長井中学校教頭
評議員 〇 槇山辰三 小学校長
評議員 〇 佐野富士四郎 小学校長
評議員 〇 新野 操 小学校長
評議員 藤田常光 海軍主計大尉
評議員 〇 高野省三 小学校長
評議員 〇 今井帰一 歩兵少尉
評議員 近野武助 歩兵少尉
評議員 石黒喜助 歩兵少尉
評議員 加地秀一 分会長
評議員 島津英一 歩兵少尉
監事 〇 福田長次郎 上杉伯爵家扶
監事 藤田常光 海軍主計大尉
表3 米沢武官養成会陸軍部会員名簿(昭和13年6月現在)
部・学校など 氏名 官等 期別
1 〇 岩井勘六 少将 4
2 〇 本間力弥 歩兵大佐 4
3 下條英四郎 歩兵大佐 5
4 〇 渡部 勇 少将 6
5 田中敏謙 歩兵中佐 7
6 〇 村山武助 歩兵中佐 7
7 〇 成田哲夫 歩兵中佐 8
8 〇 千坂洋三郎 歩兵中佐 8
9 〇 矢野 栄 歩兵大佐 10
10 小幡清見 砲兵大佐 10
11 〇 梅沢力助 少将 11
12 〇 佐藤信亮 少将 11
13 〇 芦川良治 少将 11
14 〇 高橋 清 歩兵大佐 11
15 〇 西 良太郎 歩兵大佐 11
16 〇 安部忠夫 歩兵中佐 11
17 〇 古藤真平 歩兵少佐 11
18 左近司喜一郎 輜重少佐 11
19 〇 上泉貞吉 歩兵大佐 13
20 相浦仁雄 歩兵中佐 13
21 〇 島 良輔 騎兵少佐 13
22 〇 島 良知 歩兵大尉 13
23 鵜瀞 潤 砲兵大佐 13
24 〇 高橋誠造 砲兵中佐 13
25 〇 田中勇記 砲兵中佐 13
26 〇 佐藤三郎 中将 14
27 〇 平賀貞蔵 少将 14
28 〇 宮本春次 輜重大佐 14
29 〇 横澤高記 歩兵大佐 15
30 市野美保三 歩兵少佐 15
31 神居銓次 歩兵少佐 15
32 〇 登坂高治 騎兵中佐 15
33 高橋亀次 砲兵大佐 15
34 西條新太郎 工兵大佐 15
35 〇 屋代亨輔 輜重大佐 15
36 和田重徳 工兵大佐 16
37 保科貞次 歩兵大佐 16
38 〇 進藤隆二郎 歩兵大佐 16
39 〇 笹生俊平 歩兵少佐 16
40 窪島新七 歩兵大佐 17
41 香坂次郎 歩兵大佐 17
42 目崎 淳 歩兵少佐 17
43 原 祐一郎 歩兵大尉 17
44 上杉亀雄 騎兵中佐 17
45 〇 若林源蔵 砲兵少佐 17
46 〇 中島鉄蔵 中将 18
47 〇 甘粕重太郎 少将 18
48 〇 小泉恭次 少将 18
49 〇 佐藤吉雄 歩兵大佐 18
50 浅間義雄 少将 18
51 〇 外山孝一 歩兵大佐 18
52 宮島貞次 少将 18
53 〇 相良千代松 砲兵大佐 18
54 小川盈一 歩兵大佐 18
55 〇 上野幸輔 歩兵少佐 18
56 鈴木越郎 航空大佐 18
57 〇 小山田三郎 砲兵中佐 18
58 〇 南雲親一郎 少将 19
59 〇 鈴木正章 歩兵中佐 19
60 〇 大橋直吉 歩兵中佐 19
61 山岸正治 砲兵中佐 19
62 〇 鈴木義正 歩兵少佐 19
63 酒井政之助 歩兵大尉 19
64 〇 海老名栄一 歩兵大佐 20
65 高橋亮吉 歩兵中佐 20
66 笠原豊一 歩兵少佐 20
67 湯野川国治郎 砲兵中佐 20
68 大河原 基 砲兵中佐 20
69 〇 大熊保治 歩兵中佐 20
70 〇 横山臣平 少将 21
71 〇 大河原 清 歩兵中佐 21
72 石川 登 歩兵大尉 21
部・学校など 氏名 官等 期別
73 〇 平賀亨二 歩兵大尉 21
74 武田光次朗 騎兵大意 21
75 〇 近藤 栄 歩兵中佐 22
76 〇 黒沢正三 砲兵中佐 22
77 山岸 栄 工兵中佐 22
78 佐藤久八 航空中佐 22
79 吉田綱一 歩兵少佐 22
80 〇 渡邊龍雄 歩兵少佐 22
81 中山 勉 騎兵大尉 22
82 遠藤登士 憲兵大尉 22
83 〇 相田俊二 歩兵大佐 23
84 〇 佐藤武夫 歩兵中佐 23
85 佐藤毅雄 歩兵中佐 23
86 〇 鈴木喜芳 歩兵中佐 23
87 島貫嘉昌 砲兵中佐 23
88 〇 大熊貞雄 砲兵大佐 24
89 〇 玉木幸重 歩兵中佐 24
90 矢島 元 歩兵中佐 24
91 〇 桜井忠記 歩兵大佐 24
92 〇 五十嵐 翠 憲兵中佐 24
93 〇 遠藤義助 砲兵中佐 24
94 莅戸七郎 歩兵大尉 24
95 〇 左近司六郎 歩兵中佐 25
96 湯野川龍郎 砲兵中佐 25
97 〇 平賀栄雄 航空少佐 25
98 徳江 光 歩兵中佐 26
99 齋藤義美 歩兵中佐 26
100 今 格麿 歩兵少佐 26
101 笠原昌夫 歩兵少佐 26
102 〇 遠藤三郎 航空大佐 26
103 時目 清 工兵中佐 26
104 戸田文太郎 航空中佐 26
105 〇 宮下健一郎 歩兵中佐 27
106 小越岩雄 歩兵中佐 27
107 〇 瀬下亮三郎 砲兵少佐 27
108 大内維武 工兵少佐 27
109 青海川弘徳 歩兵少佐 28
110 中俣親吉 歩兵少佐 28
111 鈴木敬一郎 歩兵少佐 28
112 西沢勇雄 砲兵少佐 28
113 大河原鉄之助 工兵中佐 28
114 佐藤 正 砲兵少佐 29
115 五十嵐勝吉 砲兵少佐 29
116 渡部長三郎 砲兵少佐 29
117 高橋六郎 砲兵少佐 29
118 遠藤典邦 砲兵少佐 30
119 遠藤松次 歩兵少佐 30
120 吉田修一 歩兵少佐 31
121 星 駒太郎 航空中佐 31
122 吉原秀雄 歩兵少佐 32
123 平賀又男 歩兵少佐 32
124 甘粕三郎 航空少佐 32
125 鳥羽才助 歩兵大尉 33
126 鈴木卓而 騎兵少佐 34
127 〇 利根川 勇 砲兵少佐 34
128 宍戸清次郎 歩兵少佐 35
129 芦川春雄 砲兵少佐 35
130 佐藤 直 航空少佐 35
131 高橋 武 航空大尉 38
132 佐藤辰男 航空大尉 39
133 伊藤智次郎 歩兵大尉 41
134 酒井忠雄 歩兵大尉 42
135 〇 佐藤 操 歩兵大尉 42
136 寺嶋義雄 歩兵大尉 42
137 横沢三郎 歩兵大尉 43
138 梅沢治雄 歩兵大尉 44
139 遠山弥兵衛 歩兵大尉 45
140 後藤倉蔵 砲兵大尉 45
141 佐藤公夫 砲兵大尉 45
142 村山虎蔵 砲兵中尉 46
143 阿部武雄 輜重中尉 46
144 高橋正二 歩兵中尉 48
部・学校など 氏名 官等 期別
145 穴沢信義 歩兵中尉 48
146 中島隆広 航空中尉 49
147 少尉候補者出
身之部 赤間安吉 歩兵大尉 1
148 少尉候補者出
身之部 平 定美 歩兵大尉 3
149 少尉候補者出
身之部 〇 皆川弥惣 歩兵中尉 3
150 少尉候補者出
身之部 青木健次 騎兵大尉 3
151 少尉候補者出
身之部 吉田義治 砲兵大尉 4
152 少尉候補者出
身之部 窪田 栄 輜重大尉 5
153 少尉候補者出
身之部 梅津秀松 工兵大尉 7
154 少尉候補者出
身之部 阿部徳弥 歩兵大尉 7
155 少尉候補者出
身之部 安部清五郎 歩兵大尉 8
156 少尉候補者出
身之部 今野政吉 工兵大尉 8
157 少尉候補者出
身之部 小園□五郎 砲兵大尉 8
158 少尉候補者出
身之部 井上由多 歩兵中尉 10
159 少尉候補者出
身之部 角石幸平 砲兵中尉 12
160 少尉候補者出
身之部 山岸長蔵 歩兵中尉 13
161 少尉候補者出
身之部 川崎林重 歩兵中尉 17
162 少尉候補者出
身之部 佐藤秀雄 歩兵中尉 17
163 少尉候補者出
身之部 菅井留吉 航空中尉 17
164 少尉候補者出
身之部 皆川政治 歩兵中尉 17
165 少尉候補者出
身之部 皆川伝治 歩兵少尉 18
166 少尉候補者出
身之部 鈴木光男 歩兵少尉 18
167 少尉候補者出
身之部 村山竹治郎 歩兵少尉 18
168 少尉候補者出
身之部 高橋皆吉 輜重少尉 18
169 各部将校之部 〇 遠藤二雄 主計少佐 170 各部将校之部 内田栄喜 主計少佐 171 各部将校之部 枝松貞蔵 主計大尉 172 各部将校之部 〇 大峡政吉 主計中尉 173 各部将校之部 〇 竹俣一三 軍医中佐 174 各部将校之部 大場源三 軍医大尉 175 各部将校之部 藤倉徳賀蔵 軍医大尉 176 各部将校之部 小林太郎 軍医大尉 177 各部将校之部 宮崎厚一 軍医少佐 178 幹部候補生出
身之部 広居丈夫 歩兵少尉
179 幹部候補生出
身之部 〇 渋谷武雄 輜重少尉 180 幹部候補生出
身之部 金田 満 歩兵少尉
181 幹部候補生出
身之部 齋藤良太 歩兵少尉
182 幹部候補生出
身之部 金井栄一郎 工兵少尉
183 幹部候補生出
身之部 〇 鈴木吉郎 工兵少尉 184 幹部候補生出
身之部 小川栄四郎 軍医少尉
185 幹部候補生出
身之部 〇 高橋岩太郎 歩兵少尉 186 幹部候補生出
身之部 安部和一 歩兵中尉
部・学校など 氏名 官等 期別
187 幹部候補生出
身之部 〇 山下藤太郎 軍医少尉 188 幹部候補生出
身之部 中川誠一 軍医少尉
189 幹部候補生出
身之部 高橋俊雄 歩兵少尉
190 幹部候補生出
身之部 竹田常太郎 砲兵少尉
191 幹部候補生出
身之部 〇 屋代 亨 軍医中尉 192 幹部候補生出
身之部 渡部辰二 工兵少尉
193 幹部候補生出
身之部 〇 今村貞夫 砲兵少尉 194 幹部候補生出
身之部 小関泰吉 歩兵少尉
195 幹部候補生出
身之部 奥山金太郎 歩兵少尉
196 陸士本科
(歩兵27連隊) 中津川七郎 本年本科卒業 51 197 陸士本科
(歩兵31連隊) 横山鉄夫 本年本科卒業 51 198 陸士本科
(歩兵29連隊) 田中義彦 本年本科卒業 51 199 陸士本科
(歩兵80連隊) 黒沢武夫 本科2年 52 200 陸士本科(野
砲兵2連隊) 吉田綱夫 本科2年 52 201 陸士本科
(豊岡分校) 横沢謙二郎 本科1年(航空) 53 202 陸士本科
(武相台) 星 総一 本科1年(歩兵) 53 203 陸士本科
(武相台) 阿部 浩 本科1年(歩兵) 53 204 陸士本科
(武相台) 市川公夫 本科1年(野砲) 53 205 陸士本科
(武相台) 青木 勇 本科1年(歩兵) 53 206 陸士本科
(武相台) 荒井 正 本科1年(野砲) 53 207 陸士本科
(武相台) 笠原忠男 本科1年(騎兵) 53 208 陸軍予科士官学校 二宮 □ 2年 54 209 陸軍予科士官学校 黒沢 直 2年 54 210 陸軍予科士官学校 高橋 武 2年 54 211 陸軍予科士官学校 本間寅蔵 2年 54 212 陸軍予科士官学校 布施 剛 2年 54 213 陸軍予科士官学校 南雲克郎 2年 54 214 陸軍予科士官学校 坂野 一 2年 54 215 陸軍予科士官学校 片桐 弘 2年 54 216 陸軍予科士官学校 山森健次郎 2年 54 217 陸軍予科士官学校 芳賀光蔵 2年 54 218 陸軍予科士官学校 本間武雄 2年 54 219 陸軍予科士官学校 市川孝太郎 2年 54 220 陸軍予科士官学校 菊地 弘 2年 54 221 陸軍予科士官学校 山岸圭介 2年 54 222 陸軍予科士官学校 梅津文吾 2年 54 223 陸軍予科士官学校 平 芳作 2年 54 224 陸軍予科士官学校 庄司幹雄 2年 54 225 陸軍予科士官学校 進藤浩康 2年 54 226 陸軍経理学校 斎藤信一 予科2年
227 東京幼年学校 相良 実 3年 228 東京幼年学校 猪俣秀市 3年 229 東京幼年学校 今村重信 2年 230 仙台幼年学校 栗林鉄郎 2年 231 仙台幼年学校 香坂 清 2年 232 仙台幼年学校 佐藤昌清 2年 233 仙台幼年学校 佐藤俊雄 2年 234 東京幼年学校 竹股慶五 1年 235 仙台幼年学校 松浦孝吉 1年 236 仙台幼年学校 堀内清松 1年 237 仙台幼年学校 斎藤 勉 1年
『昭和十三年六月現在米沢武官養成会名簿』(陸軍部)などより作成、〇印は米沢有為会の会員
「尚予メ御承諾ヲ得ルコトナク名簿ニ掲ケシ方々ハ御入会御快諾ノコトニ願ヒタシ」とあるので、承諾ないまま名簿に会員として 掲載されている者もいると考えられる。
表4 昭和8年米沢出身海軍武官
階級 予備役 氏名
大将 予備役 〇 黒井悌次郎
中将 〇 左近司政三
中将 〇 今村信次郎
中将 予備役 〇 釜屋忠道 中将 予備役 〇 上泉徳弥 中将 予備役 〇 入沢敏雄 中将 予備役 〇 千坂智次郎 中将 予備役 〇 釜屋六郎 中将 予備役 〇 清水得一 中将 予備役 〇 大湊直太郎 中将 予備役 〇 松浦松見
大佐 〇 名古屋十郎
大佐 〇 平田 昇
大佐 〇 片桐英吉
大佐 〇 下村正助
大佐 〇 南雲忠一
大佐 〇 近藤英次郎
大佐 山口 実
大佐 渡部徳四郎
大佐 〇 小林 仁
大佐 〇 武田盛次
大佐 予備役 〇 山下正武 大佐 予備役 〇 名古屋為毅 大佐 予備役 〇 野原三郎
大佐 予備役 相浦誠一
大佐 予備役 〇 遠山彦次 大佐 予備役 〇 湯野川忠一
階級 予備役 氏名
機大佐 〇 氏家親治
機大佐 予備役 小田切延寿
医大佐 〇 芋川千秋
医大佐 予備役 〇 長井又蔵 医大佐 予備役 〇 関 市衛 医大佐 予備役 青木美雄 計大佐 予備役 〇 清水敬一
薬大佐 〇 玉虫雄蔵
中佐 〇 坂野民部
中佐 山口三郎
中佐 〇 山下知彦
中佐 〇 酒井一雄
中佐 予備役 〇 山崎金一 中佐 予備役 〇 下條小三郎 中佐 予備役 〇 大滝新蔵 中佐 予備役 〇 寺島宇瑳美 中佐 予備役 〇 小泉才助 中佐 予備役 〇 岡田義一 機中佐 予備役 鈴木 清 機中佐 予備役 丸山末男 機中佐 予備役 〇 青柳 清 機中佐 予備役 〇 宮 秀房
少佐 伊藤義雄
少佐 〇 山森亀之助
少佐 和田三郎
少佐 山田勇助
少佐 近野信雄
階級 予備役 氏名
少佐 〇 亀田寛見
少佐 予備役 安原武雄
少佐 予備役 〇 真島孝松 少佐 予備役 〇 川上壮雄
少佐 予備役 森田三郎
機少佐 〇 鳥山祐蔵
医少佐 予備役 吉川三郎 計少佐 予備役 〇 安部凞吉
大尉 〇 勝見 基
大尉 〇 大島一太郎
大尉 山中秀夫
大尉 近藤道雄
大尉 工藤俊作
大尉 小田切政徳
大尉 清水 洋
機大尉 和田五郎
機大尉 黒田忠仁
機大尉 星 忠雄
機大尉 〇 林崎守三
機大尉 予備役 〇 野呂武雄
中尉 勝見五郎
医中尉 予備役 〇 田中周吉
計中尉 児玉 茂
少尉 関 衛
少尉 寺島美行
少尉 予備役 〇 篠田武助
特に小西はその後有為会において同郷会的教学ともいえる「興譲学」の確立を主張するようになる。さらに、財団法人大日本育英会の後をうけ昭和十九年四月に設立された特殊法人大日本育英会において、地方育英団体との連絡協議機関として同年三月に設けられた育英団体協議会のメンバーに本出報恩財団理事として、米沢有為会副会長の香坂昌康とともに名を連ねるようになるなど、戦時体制下の教育国策に積極的に関わるようになる。②は例えば米沢有為会の香坂昌康の影響力が指摘できる。香坂は東京で旧米沢藩士の家に生れた内務官僚で教育会の貸費生でもあった。昭和七(一九三二)年から十年まで東京府知事をつとめただけでなく、大日本連合青年団理事や国民精神総動員中央連盟理事をつとめ、青年団の統合や戦時体制強化に強くかかわった人物である。有為会では昭和期に東京支部長や教育部長をつとめ「昭和十八年以降、宇佐美会長に代って、結城豊太郎が会長に就任するが、実質は香坂東京支部長の摂政時代であり (5)」と認識されるように、戦時期の有為会を実質指導した人物であった。そして内務官僚でありながら「教育者トシテ、又教育行政ノコトニ携ハル者トシテ、或ハ少シデモ教育ニ関係ガアル者ト致シマシテ (6)」と自身を強く教育者として認識していたきらいがあった。香坂は昭和十年頃には郷土の育英団体の合同強化をすでに主張しており、合同問題に強く関係したと考えられる。香坂は昭和十二年に設置され国民学校設置や錬成など総力戦体制に応じた教育体制を答申した教育審議会のメンバーであり、その後昭和十七年に大東亜錬成院長、十九年には前述のように小西とともに育英団体協議会のメンバーにもなる。米沢での育英団体の合同を成果として、米沢有為会および小西や香坂など有力会員は大日本育英会においても地方有数の育英団体として立場をしめるようになる。③であるが、戦時体制のもとではどのような政策を実施するにしても
松野良寅『遠い潮騒』142~147頁などより作成、〇印は米沢有為会の会員
軍部の許しがなければうまく進まなかったのであり、教育分野としてもそれは同じであった。財団法人大日本育英会の創設に関わった小柳牧衛が「当時はご承知のように陸軍省というものが実権を握っておったので、(中略…布施)まず、いろいろの問題を具体的にするには陸軍省を説きふせなければならない (7)」と回顧するように、これは中央でも地方でも同様な問題であったと考えられる。米沢では米沢武官養成会とその会長である海軍中将上泉徳弥の影響力である。戦争の進展のもと武官養成の必要が求められるなか、米沢興譲館中学校を中心とする米沢地域の中学校の軍学校進学者数の不振を養成会は強く憂慮しその改善を要求していた。会長の上泉徳弥は皇室中心主義・海軍拡張を唱え近衛内閣の国家総動員体制に積極的に加担するとともに、教化団体「国風会」の活動をつうじて青年層中心に演説や雑誌などで自らの主張を広げていった軍人であった (8)。同様な活動は有為会においても確認でき、郷土の育英事業合同とそれによる米沢中学校の教育支援体制強化を強く主張している。しかし、武官養成会と三団体では育英事業の目的や人材観が異なるため、軍側の合同に果たした役割と軍側が望んだ中学校教育改革の内実を検討する必要がある。④の中学校側の対応であるが、中学校は郷土から高等教育機関や軍学校に人材を輩出する地域の重要な機関であり、明治期からその教育に育英団体は強く関与していた。特に軍はその求める人材観が高等学校進学者とは異なることから独自に中学校教育に働きかけるとともに、中学校側でも軍の求めに応じて軍学校進学のための組織を軍と協力して設立するなどしていた。戦時期には米沢中学校でも武官養成会の協力のもと干城会が組織され、山形県荘内地方の武官養成の中心である鶴岡中学校や荘内奉公会をライバル視しつつ、中学校からの武官養成に力を注いだのである。また、経済不況のなか後援会設立を有為会に働きかけるなど、 教育の充実にも積極的に動いていた。昭和十六年に校長に招聘された千喜良英之助は当時著名な良心的教育者ではあったが、教育の本質を考慮しつつも武官輩出への協力も惜しまなかった。以上のことから、中央政治と結びついた有力な政治家や軍人会員の主張と果たした役割、武官養成会といった地域の軍関係の育英事業団体の影響力とその主導的役割をふまえつつ、合同の過程や定款変更の意義さらには合同後の同郷会の性格の変容などを明らかにして、地域の育英事業の合同の意義について検討する必要がある。さらに、合同に中心的役割を果たした香坂など有力者が、その後中央においてどのような役割を担っていくのかという点も視野に入れる必要がある。このような視点をもつ研究としては、前田一男による帝国教育会の翼賛団体化過程と教育団体の統合過程およびその意味を明らかにしたものがある (9)。前田は民の論理で活動していた帝国教育会が翼賛体制に取込まれて行く要因として、中央と結びついたリーダーの任命を許し、そのリーダーが国民精神総動員運動など政治の中枢に参加することで会が国策の役割分担を積極的に自覚するようになる点、定款の変更による組織原理の転機による官の論理の受入れ化、などを指摘する。また帝国教育会を中心とする教育団体の統合が昭和十八年以降と他分野より遅れたことについては、既製教育団体の複雑な性質の相違があったこと、大政翼賛会が経済・政治・文化団体の統合を優先しつつ、教育界は軍隊とおなじく最初から翼賛的性格を兼ね備えているものと認識されていた点、また文部省教学局が昭和十五年頃に官民合同の一大教育団体結成を計画し頓挫していたことを明らかにしている。リーダーの中央政界とのかかわりや定款変更に団体の体制化への変容の意義をよみとるなど、本稿にも関係する重要な論点を提示している。また藤井忠俊は婦人団体の統合過程を分析し、軍が指導する国防婦人会が統合の主導権を握るべく統合議論に強い影響力を与えた点を明らか