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合同後における米沢武官養成会の動向と成果

1  千喜良英之助校長の赴任と養成会と有為会の懇談会養成会が合同を慫慂した目的としては、地域の育英事業を有為会を中心に合同し強力化することで武官輩出の一大供給源であり最近成績が振るわない米沢中学校の教育・武官養成支援を充実させたいことがあった。合同成立後、武官養成会から意見が出され構想していた米沢中学に対する武官養成支援事業が積極的に行われるようになる。その端緒は昭和十六年五月、米中卒業生で当時教育者としてすでに名声のあった千喜良英之助の米中校長への招聘である。千喜良は明治二十九(一八九六)年南置賜郡南原村に生れ東京高等師範卒業後、長野県立信濃大町中学、岩手県盛岡男子師範教諭、沖縄女子師範教頭などをへて、昭和十年に沖縄県立那覇第二高等女学校校長兼教諭をつとめていた ((0

。千喜良は自身の幼少時の体験から農村の貧困と教育に関心を寄せるとともに、岩手師範時代には体操の授業で号令に代え音楽を採用、看護婦の学校常駐、促進学級の設置、男女混合学級への組替え、国旗掲揚塔の

設置などを実施した。また、委員会制度を導入し教員の身分に関係ない議論による学校運営を行った。しかし、そのような革新的な運営が岩手県ににらまれ視察をうけるなど「師範の赤の元凶」といわれることもあったという。その一方で生徒からの信望はあつく、昭和七年九月沖縄県女子師範への転任が決まると師範学生による一大留任運動が起こり、沖縄第二高女でも尊敬する人アンケートで最高点をとるなどしている。昭和九年十月には、日本主義の研究・教育・教員再教育機関である文部省直轄の国民精神文化研究所に入所し半年間の再教育をうけている。このように近代的・良心的教育者である一方、左傾的ともみなされていた千喜良を米中校長に迎えた背景については明かでない部分が多いが、養成会理事で予備役海軍大佐・軍令部嘱託の湯野川忠一は「茲に各位の多大なる御尽力に依り新に米沢地方三大育英財団の合同完結し英名ある同郷の先輩千喜良英之助氏を米沢興譲館中学校長に迎へ、育英事業の陣容一応整備を見たる ((0

」と述べているので、合同の達成を契機として、有力な教育者である千喜良を米中校長に招聘することで、米中の教育を改善し軍学校をふくむ上級学校進学者を増加させたいという、以前からの養成会や有為会が有していた米中改革構想が実現したとも考えられる。千喜良は着任後すぐに積極的に活動を開始している。前述したように養成会は武官養成策として在京武官と米中教員との懇親を構想していたが、昭和十六年七月東京水交社で行われた有為会と武官養成会の懇談会に新任校長の千喜良はさっそく出席し、米沢の教育振興について懇談している。千喜良はその感想を「米沢出身の名士、将星と膝を接し大いに得る処あった、米沢地方の教育振興問題に関し真摯な意見開陳があったが人材の育成を主眼として生徒の〝気風〟の善導並に父兄達を通じて目先の事のみにこだわる事なく遠大な心を培養将来の大成を期し邁進せし める様等々議論された、在京の名士、将星と一堂に会し人の揃っているのには驚いたがいづれも郷土の振興に留意されて居り感謝に堪えない ((0

」述べている。同年九月千喜良は米中からの軍学校進学数が近年減少していることに対して次のような試験制度改革論を主張した。都会の生徒が多く陸海にパスすると云ふことは学校の設備なり教育の程度が然らしめるものと思ふ、而してそれは単に知識的の優劣であって必ずしも陸海軍が知育人のみを欲しているのではなく東北の強兵は依然として軍部の目するところである□で、私の云ひたいことは軍部が東北人を欲しているならば現在の試験制度を改正、都会人と東北人のギャップを縮める上に於て試験制度に一定のハンディキャップを付けることが必要ではあるまいか、このことは軍部のみならず上級校への希望条件の一つであり次回行はれる全国校長会にも提案し強調するつもりです ((0

千喜良は軍学校の試験制度の改革を東北という地域性から提案している。米中の成績が振るわないのは東北の教育環境のためであり、軍部が東北の強兵を必要とする以上試験制度を都会の学校有利=知育中心の内容から変更するとともに、軍部や軍学校のみならず上級学校全体の意識改革をも求めている。注目されるのは、千喜良は試験改良を軍学校のみでなく上級学校進学全般の問題として提起していることである。千喜良は米中からの軍学校進学を増加するという養成会の意をくみつつも、教育者として米中の進学全体のこととして発言していると考えられる。昭和十七年七月にも千喜良は東京に出張し片桐英吉海軍中将らを訪問している。時期的なことからしておそらく有為会と養成会の懇談会に参加したものと考えられる。その際に片桐中将から「ハワイ爆撃実写の大写真 ((0

」を貰いうけている。片桐は写真を米沢中学と興譲国民学校に寄贈する目的で渡したのであったが、千喜良は米沢に帰郷後、米沢中学校内

に写真を飾り愛国熱高揚資料とするとともに興譲国民学校へも送付している。このように、千喜良は養成会さらには地域の期待のなか米中に赴任し、東京での養成会と有為会の懇談会に出席し米沢の教育問題について在京有志や将校と意見交換するとともに、軍学校試験制度改革論の主張や戦意高揚のための写真掲示など、赴任当初から積極的に米中の軍学校進学の成果をあげるべく活動したことがわかる。その一方で、その発言には教育全体のなかでバランスを取ろうとする真意もみうけられるなど、良心的な教育者としての側面も失うことないよう行動したともいえる。

2  育英事業合同後の米沢武官養成会の成果合同後、武官養成の成果は出たのだろうか。昭和十六年三月の米沢中学の入試では二五二名の受験者中六割が軍人志望であるとし、千喜良の前任校長である岩淵勝郎校長は「是あ大将が沢山出来るぞと大喜びの態である ((0

」と新聞は伝えている。受験生も軍人志望と口にすることで好印象を得られると考えてのことかもしれないが、時局を反映するようになる。同年五月の養成会総会では会の強化に関する協議が行われ、米沢中学で実施する準備教育は、幼年校志望者は五〇銭、陸士志望者は一円の授業料を徴収することに決めた。軍学校受験を目前にして、養成会理事の湯野川忠一は十四・十五年度とも海軍軍学校に米中からひとりも採用者がいない状況をふまえつつ「先年武官養成会は率先して米沢地方育英財団の合同を提唱し育英事業の拡大振興を呼号し遂に今回財団法人の合同が実現されましたのは誠に同慶の至りに堪へませんが外面的なる後援事業の努力のみでは其の目的を貫徹することは出来ません。内面的なる子弟それ自身の啓蒙自覚よりする確固不抜の精神的努力が最も必要で」あり「父兄の方々が御親切な る御鞭撻に御指導に一層力瘤を入れられ学術も体格も共に優秀 (01

」な生徒の育成に努めるよう望んでいる。合同の成果を強調するもののそれは外面的な援助であり、生徒自身の内面的努力と中学や家庭での指導教育の重要性を訴えている。軍学校志願生徒にたんに資金を与える会から、育英事業合同の成果による中学教育の改革充実とさらに家庭をまきこんでそれらを統合して武官養成の成果を上げていきたいという養成会の姿勢があらわれており、それは以前から構想していた「家庭的連絡交渉」の具体的なかたちであった。昭和十六年度の成績をみると、六月段階の新聞報道では「同校当局では本年度は五十%の入学は確実」で、陸幼志願者は現在三〇名に達しさらに増加するとされ「軍都米沢の面目躍如たるものがある (0(

」と報じられたが、実際には前年度とほとんどかわらず、東京や他郷の同郷人による成績のおかげで前年度より全体数で増加したにとどまった。理事の湯野川はこの結果について「陸海軍諸学校に志願採用せらるゝものも漸次其の数を増し、幾多有為の才を送りつゝあるも其の多くは他郷に育ちし者にして、地元の米沢地方の学校出身者は実に寥々として

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」いると述べている。合同後初年度の武官養成成果は全体数では増加したものの米沢地方中学校の成果は上がらなかった。昭和十七年度は七月の段階で干城会に七〇名あった。干城会は毎日一時間の勉強会を行うだけでなく、「学科や訓練の干城会特別講習も日曜も休まずやって貰うことを申出で (00

」と土日まで訓練を続けた。成績をみると戦争開始後なので新聞報道も○○名と報じられ詳細は不明だが、海兵など複数の合格者があり成果が出たようである。新聞は次のように伝えている。陸海武官の揺籃として全国に名をなしている米沢興譲館中学校より今回海軍兵学校、海軍経理学校に○○名が合格した旨発表があり近年にない合格率なので同校職員生徒は歓声をあげている、陸海武官

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