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雅美雅美

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(1)

164

シェーラーの立場は現象学的であり︑その倫理学は現象学的価値

倫理学であると言われるように︑彼の思想の重要な基礎となったの

は︑ブレンターノとフッサールの思想である︒

フッサールの現象学の先駆者ブレンターノは︑﹃道徳認識の源泉に

ついて﹂において︑心的現象の共通の特性として︑心的対象に対す

る主観の指向的関係をあげた︒そして指向的関係の最も根本的な相

違に従って︑心的現象を表象︵表象的指向関係の領域︶︑判断︵肯定︑ ﹁価値の絶対性と相対性﹂と題する論文は︑

シェーラーの価値論を要約した部分と︑それに対

する筆者の批判的見解を示した部分の二つに分れ

ているが︑紙数の関係上︑本﹃論集﹄には前の部

分の約三分の二だけを掲載した︒従って︑シェー

ラーに対する批判は︑すべて来年度﹃論集﹄に掲

載される部分に保留されている︒

価値の絶対性と相対性㈲

価値の絶対性と相対性日︵関雅美︶

1M・シェーラーの価値論をめぐってI

否定的指向関係の領域︶︑情緒︵愛︑憎という指向関係の領域︶の三

つの基本的な種類に分ける︒判断作用に︑誤まった盲目的な判断と︑

正しく明証的な判断があるように︑愛憎の作用にも︑正しく明証的で普遍的なものと︑そうでないものとの区別がある︒明証的判断に

よって肯定される対象は真であり︑否定されるものが偽であるのに対して︑正しい明証的愛によって愛される心的対象は善いもの︑憎

まれるものが悪いものであるlこのようにブレンターノが指向性を心的現象の特性とみること︑道徳的善悪の価値に係わる作用を︑

愛と憎という情緒的指向作用と承ること︑作用と対象の間に本質的

関係があるとみることなどは︑シェーラーの思想の基礎となったと

言うことが出来る︒

一方フッサールは厳密で普遍妥当的な学の存在を信じ︑相対主義

と歴史主義を倦むことなく批判する︒またブレンターノにならって︑

意識の対象指向性を主張し︑﹁意識は常に何ものかの意識である﹂・から︑意識と対象とは原理的に区別されながら︑しかも互いに関連すると考えるフッサールは︑心理主義をも鋭く批判した︒なぜならそ

れは︑経験的意識作用とそれがかかわる超時間的普遍的内容を混同

雅美

(2)

163

し︑対象︵理念的内容︶を意識作用に溶かしこむことによって︑対

象の超越性と意識の対象指向性という関連する二つのものを︑共に

見失ってしまうからであるlこのような相対主義︑歴史主義︑心

理主義への鋭い批判的態度︑厳密で普遍妥当的なものへの確信︑対

象の超越性と意識のそれへの指向性の相即の確信などは︑シェー

ラーの思想の重要な基礎である︒

このようにシェーラーとフッサールの間には︑多くの類似点があるが︑他方両者の間には重要な相違があることをわれわれは見逃す

ことが出来ない︒フッサールにとって現象学とは︑一切の意味の母胎としての純粋意識に立ち戻って︑認識批判を行なう﹁純粋意識の

学﹂であるから︑反省によって明かにされて行く純粋意識の作用が現象学の中心に立つことになる︒しかしシェーラーの﹁現象学﹂は

純粋意識の学ではなく︑その作用が現象学の中心に立つことはない︒

フッサールによれば︑意識がさまざまの体験内容を同一の対象の

種々の局面として綜合し︑意味づける時︑体験内容は主観的性格を超え︑客観的対象の現象としての意味を与えられ︑意識に対立する

ものとして客観化される︒この綜合的構成作用がいわゆる指向作用

であり︑対象とは指向的統一の極に他ならない︒だから意識の対象は意識によって構成されながら︑それ自身対象性を持つというのが

フッサールの確信なのだが︑シェーラーでは︑意識による対象構成

の考えは捨てられて︑意識の指向性の考えの糸が保存されている︒フッサールにとっては︑意識はブレンターノの場合のように単に対

象指向的であるのではない︒それは前述のように対象指向的である

と同時に対象構成的であり︑指向性とは能動的構成作用に他ならな

いのだが︑シェーラーでは︑対象構成の面が捨てられ︑対象はそれ 価値の絶対性と相対性㈲︵関雅美︶

を指向する意識の作用から独立に︑それ自身としてある絶対的存在

︵物目体︶となる︒このような対象にはいろいろな種類があり︑対

象を捉えるには︑その種類に応じた認識態度が必要であって︑対象と認識作用はその意味で不可分であるにせよ︑対象の存在は認識作用から独立である︒それは望遠鏡を通してしか見えない星が︑それ

にもかかわらず望遠鏡から独立に実在するのと同じことなのであぶ矛現象学的にみて︑﹁意識は常に何ものかについての意識である﹂

限り︑意識されるものは︑意識から離れて︑それとは別に︑それ自

身として存在すべきであり︑そのような絶対的な自体存在があって

はじめて︑それについての指向的意識がありうる︒だから︑仮りに

それを指向する意識が消失しても︑対象が消失するわけではないと

シェーラーは考える︒これらのことは︑﹁意識は常に何ものかについ

ての意識である﹂という現象学的事実からの当然の帰結とみられて

いる限りにおいて︑シェーラーにとって︑それ自身また一つの現象

︵2︶

学的事実であった︒そしてこのような重要な相違が︑両者の現象学

的方法の大きな相違につながって行くことになる︒

一切の先入見を排して﹁事象そのもの﹂に迫ろうとしたフッサー

ルが取った方法は︑周知のように﹁現象学的還元﹂と呼ばれ︑﹁形相

的還元﹂と﹁先験的還元﹂の二つから成っている︒素朴な意識の状態l﹁自然的状態﹂lでは︑事物は﹁われわれの外にある超越

的対象﹂と考えられ︑対象を定立する意識の作用は︑前に置かれて

いる対象にいわば吸収されてしまっている︒現象学はこのような素

朴な自然的状態を︑いわゆる﹁現象学的判断中止﹂によって括弧に

入れ︑自然的状態が定立する超越的事物の世界を離れて︑内在的な

意識の世界に還り︑対象を定立する純粋意識の意味賦与作用をそこ 一一

(3)

162

に見出さなければならない︒この操作が﹁先験的還元﹂である︒と

ころで︑先験的還元によって捉えられる内在的な意識も︑そのま上

では個別的な流動する意識の流れにすぎないから︑現象学はその本質を反省によって捉えなければならない︒フッサールは個別的なも

のが持つ普遍的構造を﹁形相﹂と呼び︑形相を捉え笏操作を﹁形相

的還元﹂と呼ぶ︒それは具体的には︑自由な想像の作用によって︑

個別的内容にいろいろな変化を加えてみる操作である︒これによっていろいろな変化を与えて承ると︑どんな風に変更してみても︑そ

の個別的なものが欠きえない本質的構造︵形相︶がおのずから明か

になるlつまり本質が直観される︵本質直観雪①閉口闇宮らわけ

である︒このように︑還元には先験的と形相的の二つがあるけれど

も︑このうち特に現象学的なのは先験的還元の方であって︑形相的

還元︵本質直観︶の方ではない︒なぜなら︑例えば幾何学などでわ

れわれは︑紙に書かれた経験的な三角形や円の図形に基づいて︑三

角形や円の普遍的本質を捉えているのであって︑これが特に現象学に固有の方法だとは言えないからである︒

ところがシェーラーでは︑前述のように現象学の﹁意識の学﹂と

しての性格が捨てられているのに対応して︑還元の考えについても︑

大きな変化が起こっている︒つまり純粋意識へと立ち帰る﹁先験的還元﹂の思想が捨てられ︑﹁形相的還元﹂︑本質直観の思想だけが保

存されている︒そしてそれが︑それ自体において存在する絶対的存

在の本質を︑あるがま上に明証的に捉える作用だとされるのである︒対象は意識の意味賦与作用によって成立する意味統一体であるか

ら︑意識から独立にそれ自体として存在する絶対的存在︑対象自体といったものは︑形式論理的にはありえても︑現象学的にはありえ

価値の絶対性と相対性㈲︵関雅美︶ ないと︑フッサールは言うであろうが︑シェーラーでは︑絶対的存在はあり︑その本質はあるがま入に明証的に直観可能なのである︒彼は次のように書いている︒﹁いわゆる〃現象主義〃勺言g目g巴尉︐目房と不可知論に反対して︑現象学的本質直観に基づく哲学のやり方は︑外的世界と内的世界における絶対的存在は︑明証十全に認識出来ると主張する︒われわれの精神は︑絶対的存在から事実上隔てられてはいるけれども︑その原因は認識する精神の不変の構造にあるのではなく︑原理的には克服出来る人間精神の弱さや傾向性にあ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑る︒形而上学および絶対的に与えられた存在や生を再び復権しようとするこのような原理を︑現象学的哲学が証明可能と考えるならば︑この哲学には二重のことが命令される︒それは存在者から人間が︵特に現代の人間が︶きり離されているいろいろな形式を究明すること︑神・外的事物・自己自身への洞察における︑一切のありうべき錯誤

︵3︶

の方向が生ずる根拠︑動機を究明すること︒﹂︵傍点筆者︶

この文章でシェーラーが﹁現象学﹂と区別して﹁現象主義﹂と呼

んでいるのは︑﹁われわれの認識は現象の背後に横たわる実在の〃現

象″の認識にすぎないとする理論﹂であり︑現象学はそれと正反対

︵4︶

なのである︒ただシェーラーにとって︑現象学が現象主義と正反対

なのは︑それが﹁現象の背後に横たわる実在﹂を否定するからでは

なく︑逆にそれが絶対的存在についての本質直観ないし﹁純粋で前

︵5︶

提のない絶対的認識を与えることを要求する﹂からである︒﹁シェー

ラーにとって哲学とは︑そして彼が自己の立場を現象学とする限り

において現象学とは︑主観に対して超越的・絶対的なものに迫って行く態度にほかならなかったのであり︑また︑絶対的なものを把え

させる方法が現象学的方法なのであった︒しかも︑このような絶対

一一一

(4)

161

的存在への関心︑形而上学的関心は︑人一倍曲折に富んだ彼の思索

のうちにあっても︑終始かわることのないものであったと云い得る

︵6︶

のである︒﹂前に示した引用文にあるように︑シェーラーの現象学は︑

絶対的存在のアプリオーリな本質を︑現象学的本質直観によって捉

えることによって︑形而上学を復権させようとするものであった︒

そして以下に述べる彼の価値論を特徴づけているものはl上述し

たブレンターノ・フッサール的なものを別にすればlまさしく以

︵7︶

上のような﹁形而上学的アプリオリスムス﹂である︒従って︑現象学的と言われるシェーラーの思想の核心は︑フッサール﹃イデーこ

第一巻の時期の現象学思想の核心から遠く隔たったものであると言

わなければならない︒ただ︑先入見や軽々しい推論を排し︑﹁事象そ

のもの﹂をわれわれの生きた全体的体験に即して分析する知的誠実

性を︑もし﹁現象学的﹂と呼ぶとすれば︑われわれは現象学的態度や手法を︑シェーラーの著作の到る所に見出しうることは確かであ

る︒

︵1︶三画浜野蔚冒︾⑦$画目目の言乏国憲・里罠蔚委員置需ゞ国具くめ.霊

︵以下シェーラー全集第五版からの引用は︑単に巻数と頁数の承で示

す︒なお︑全集五版第二巻の頁付は︑以前の版と違っている︒︶

︵2︶団員国・圏黛.西弓・国具く.霊も弓

︵3︶国具冒・筐︑

︵4︶画具〆︾四四つ

︵5︶願伊○・.巴や

︵6︶亀井裕氏﹁価値世界とその崩壊﹂岩波講座﹃哲学﹄第九巻一五五頁︒

︵7︶亀井裕氏前掲論文一五七頁︒ 価値の絶対性と相対性㈹︵関雅美︶

シェーラーによれば︑価値は事物や財や事態の共通の性質︑恒常

的なメルクマールではなく︑それから独立の客観的超越的本質であ

る︒われわれは快適さ︑愛らしさ︑高貴さ︑美しさ︑といった価値

を︑事物や人間の特性として表象しなくても︑それとして捉えることが出来るのであって︑それはちょうど赤という色を︑特に物体の

表面を覆うもの︑物体の単なる表面などとして捉えなくても︑例え

ば純粋なス・ヘクトルの色のように︑単なる外延的質として捉えうる

のと同じである︒人間や行為の善さ・悪さといった価値も︑多くの人間や行為の共通のメルクマールから生ずるものでも︑それを本質

とするものでもない︒これらの価値を捉えるには︑場合によっては︑唯一人の人間︑唯一つの行為だけでこと足りることもある︒共通の

メルクマールが価値なのではなく︑それは単に価値の担い手として

機能するにすぎない︒このように︑価値はそれが入りこむ存在形式︑

担い手から独立な客観的超越的本質であるが︑このことは次のよう

な事実において︑特にはっきり現われるとシェーラーは主張する︒︵一︶ある事態の価値は︑その価値の担い手が与えられていなく

ても︑明証的に与えられる場合がありうる︒例えば︑ある人間のどの点がそうなのか言うことが出来ないにもかかわらず︑その人間が

快く︑快感が持てることがある︒またある芸術作品のどの点︑どの

性質がそうなのかを言うことが出来なくても︑その作品を美しいと

か︑崇高であるとして捉えることが出来る︒︵二︶価値は事象と共

に変化したりすることはない︒例えば青い球が赤くなったとしても︑

色彩﹁青﹂はあくまで﹁青﹂であって︑色彩﹁青﹂が色彩﹁赤﹂に

(5)

160

はならぬように︑今迄私に対して誠実だった友人が突然私を裏切っ

たとしても︑﹁友情﹂という価値はそれによって影響されないし︑あ

る一枚の美しい絵画が破壊されてしまったとしても︑﹁美﹂という価

︵1︶

値は依然として変ることなく存在するのである︒しかしそうは言っても︑まず最初にわれわれに与えられるのは﹁財﹂⑦呉⑦暮閏Iつまり﹁価値物﹂雪の耳島長lであり︑第二

番目にはじめて︑われわれはこの財において価値を感得するのが普︑︑︑︑︵ワ︶通の順序である︒このことは︑価値は財においてはじめて現実的と

なることを意味していると言えよう︒価値はレアールな財から完全

に孤立してあるのではなく︑それに即して輝くのであり︑本来客観

的なものであるところの価値は︑財において客観的であると同時に︑︑︑︑︑︑︑︑︑現実的となる︒だから︑新しい財の出現は︑現実の世界における価値の増大であるということにもなるわけであるlこのように価値はその昌晨冨言固弓鼻としての財において現実的になることは

確かであるが︑しかしだからと言って価値は財の性質でなく︑それとは独立な客観的本質︑﹁イデアールな客体﹂であ魂︒

このように︑価値が﹁イデァールな客体﹂であるのなら︑それは

イデアール理性的に把握されるような﹁理念的対象﹂の世界︑﹁理念的な意義﹂

の領域に属すものなのであろうか︒プラトンは数︑円︑三角形を理

念的対象の世界にあるものと考え︑価値もまたこれと同様であると

した︒シェーラーによれば︑このようなプラトン説はある意味では

正しい︒なぜなら︑善い人間や善い行為について意識にのぼるとこ

ろの﹁善さ﹂という理念的な意義内容もあるからである︒シェーラー

が価値と類比的にしばしば例に挙げる色や音の場合で言えば︑例えば実際に眼にされる︑特定のニュアンスを帯びた︑さまざまの赤に

価値の絶対性と相対性㈲︵関雅美︶ 対する︑﹁理念的な種としての赤﹂がこれにあたる︒しかしながら︑価値や色や音が理念的領域でしか見出されないかどうかということになると︑話しは別である︒数や図形の場合︑例えば3という数は︑どんな計算で得られても︑どんな符号で現わされても︑それは同じ一つの数にすぎない︒また︑見られ画かれた三角形において︑﹁三角形の意義﹂のもとに入って来ないものは﹁三角形のもの﹂の領域には属さない︒つまり数や図形は理念的領域にしか見出されないものなのである︒だが色や音はもっと別の領域にも属する︒私は﹁赤﹂の意義を考慮しなくても︑赤い色を直観することが出来る︒ある物がまず最初は全く無規定の色として直観され︑次にそれが﹁赤﹂という意義のもとに齋らされることにより︑はじめて赤い色になるのではない︒価値の場合も事情は全く同じである︒価値に対して無記なる事実がまずあって︑それがある理念的意義の光りに照されて︑

︵注︶︿4︶

はじめて価値ある事実になるのではない・価値は端的に捉えられる︒

︵注︶まずわれわれに最初に与えられるのは︑価値に対して無記な事物だと

考えるのは事実に反する︒現象学的事実としては︑まずわれわれに与え

られるのは財や価値であって︑価値に対して無記なものではない︒例え

ば︑砂糖は快価値を担う財として与えられる︒このさい感得される価値

としての快は︑砂糖がわれわれに及ぼす感情状態︵それをなめた時に︑

舌の上に感ずる特殊な快感︶とは全く別物で︑後者は価値のように第一

次的に与えられるのではない︒それは内的知覚に現前する肉体の特定

部分としての舌に対して︑特別の注意が向けられることによって︑はじ

めて捉えられる︒またその時にはじめて︑財としての砂糖が︑この状態︑︑︑︑︑︑︑︑︑の単なる原因としてIつまり価値に対して無記な物体としてI思

(6)

l弱

こうして︑プラトン説は誤りだということになるのであるが︑

シェーラーによれば︑プラトンの誤りの原因は︑精神を理性と感性

に分ける古来の二分法にある︒この立場に立つ限り︑価値が数や図形と同様に感覚内容には属さないとなると︑それは理性によって捉

えられる﹁意義﹂の領域に属すものとならざるをえないことになる︒

しかし︑例えば子供は前もって善の理念を捉えていなくても︑母親

の情愛や心遣いの﹁善さ﹂を感ずることが出来る︒またわれわれは

敵である人間に︑ある美しい倫理的価値を感じながら︑意義の領域

においては︑従来通りの否定的判断に留まっているといったことが

しばしばである︒このような例から判るように︑価値は前述の二分

法の立場が言うように︑単なる意義の領域に属すのではなく︑実質︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑的直観11感性的ならざる直観lの事実なのである︒そしてここ

で直観というのは︑内容の四一号鼻億意岸を指すのではなく︑対象の与えられ方の直接性を指すのであ唖︒

ところで︑価値をイデァールなものとゑる立場を︑もっと別な観

点から正当化しようとする者がある︒アウグスティヌス︑デカルト︑マールブランシ1などの召壁①蔚勺冨さロ涛閏がそうである︒彼らに

よれば︑価値︵特に倫理的価値︶は︑円や三角形などの数学的概念と同様に︑それに正確に対応するものを︑経験的内容の中に見出し

えなと号巴朋︵理想的なもの︶であり︑現実の人間の行為は︑それ 惟的に対応させられるのである︒普通なら財である対象としての砂糖とその価値を指向する心の働きが逆転して︑舌の特殊な状態に向けられゑのは︑極めて稀れなことであり︑従って砂糖が価値に無記な原因物

︵5︶

質として指向されることも︑稀れなことと言わなければならない︒ 価値の絶対性と相対性日︵関雅美︶

に一定程度接近しうるだけであるから︑それはイデァールなものの領域に属するというのである︒だから彼らは︑有限な直線を捉える

ためには︑絶対的で無限な直線の理念の部分としてそれを理解しな

ければならないように︑ある人間の善さを捉えるためには︑昼用

①言閏垂直言︾冨用⑦○言$が必要だと主張したりもするのである︒だが価値はすべて昼①巴$であるという主張は拒否さるべきであ

る︒註再言琶なものの価値があるように︑a①巴なものの価値もあるわけであるが︑しかし一般に価値というものは︑それ自身としては

︵注︶︵7︶

価値でないものの丘①里駅ではない︒それはシェーラーにとって︑前

述のように︑非感性的直観の対象であり︑実質的な質目鼻g巴①

︵8︶

Cg岸騨である︒それは理性によって捉えられる概念的抽象的な意

義や達成不能な理想ではなく︑価値判断の形式的基準でもなく︑ま

たカントの言う善のように︑普遍的法則への合致︵合法則性︶といっ

た形式でもない︒それは非感性的直観の対象となり︑また善なる意

志の対象ともなりうる︑実質的質なのである︒

さてそれならば︑価値を捉える非感性直観の機能を持つものは何

か︒ブレンターノと同様シェーラーにとっても︑対象の本質とそれ

を捉える体験作用の本質の間には︑必然的関連があるということは︑ ︵注︶以前に価値はイデァールな客体であると言われたのは︑それが経験的でなく︑感覚的所与でないlつまりレァールでないlという意味であり︑その後で︑価値はイデァールな対象の世界に属すものでないと言われたのは︑それが理性によっての象捉えうる﹁意義﹂や︑達成不能な﹁理想﹂でなく︑非感性的直観の対象である︑という意味である︒

一ハ

(7)

158

︵9︶

われわれがそこから出発すべき﹁現象学的根本命題﹂であるから︑

価値の把握にはそれに固有の機能がなければならない︒シェーラー

によれば︑それは﹁感得﹂蜀与行ロ︵およびこれと密接不可分の関係

にある﹁選取﹂ぐ○量gg︑﹁後置﹂zmg陥冨g︑﹁愛と憎﹂屋の冨員

︵皿︶ 砥譲溌蕊涯岫蕊耽鰯蕊一蓉懸

ステリオーリなものでなく︑理性の作用と同様に︑アプリオーリな

ものでありうる︒このように情緒作用がアプリオーリでありうるこ

と︵情緒的アプリオリスムス︶︑価値が経験的存在形式から独立な客

観的本質としてアプリオーリでありうること︵価値の形而上学的ア

プリオリスムス︶︑価値がアプリオーリな情緒作用によって直観され

ること︵価値情緒主義︶などが︑シェーラー価値論の核心をなすの

である︒

だがシェーラーのように︑情緒的なものもアプリオーリでありう

るとみることは︑哲学史上それほど普通のことではない︒カントは

人間の精神を理性と感性に分ける前述の二分法を継承し︑理性Ⅱアプリオーリ・合法則的・絶対的︑感性Ⅱァポステリオーリ・非合法

則的・相対的と承なした上で︑感得︑愛︑憎などの情緒作用を︑そ

れは理性に属さぬという理由によって︑感性の領域に帰し︑アプリ

オーリなものとは認めなかった︒精神の構造にふさわしからぬこの

ような二分法は︑単にカントだけのものではなく︑現在に至るまで

哲学に根強くはびこっている先入見であり︑そのためこれらのもの

は︑すべて人間の精神物理的体制に依存するものとされて来た︒そ

れで︑精神生活の非論理的なものの領域にも︑純粋な思惟と同じように︑精神物理的体制から独立で︑経験的心的生活の法則には還元

価値の絶対性と相対性㈲︵関雅美︶ アゥグスティヌスとパスカルは︑このような先入見を動揺させた

例外的人物であった︒○a用go8員︾ざ囚皀①合の8日︾自画号の

目呂邑①go︵祁昌という言葉で示されるものが︑パスカルの思想を

︵昭︶

一貫して貫いている︒彼は席OB昌画の$国勗○房と言っているが︑

その意味は︑感得︑愛︑憎なども︑知的合法則性に還元出来ない独自の永遠で絶対的な合法則性を持つということであ魂︒だから

シェーラーは︑前述のように価値情緒主義と情緒的アプリオリスム

スに立つ点でlブレンターノとの関係を別にすればl明かに・ハスヵルの徒である︒彼の遺稿に見える自号四日○房という言葉もよくそのことを示してい蕊︒

ところで︑情緒作用による価値の非感性的直観とは︑シェーラー

によれば現象学的本質直観である︒一般に対象を何らかの象徴︑シ

ンボルを介して間接的に捉えることl例えば赤という本質を直接

にではなく︑特定の物体の色としてのみ捉えることlを非現象学

的経験と呼ぶのに対して︑イデァールなものを︑それがある通りに︑

直接的にかつ明証十全に直観することを︑シェーラーは本質直観︑

現象学的直観ないし現象学的経験と呼ぶ︒この場合︑直観内容は確

かに対象の現象型愚弓目gであるが︑勺冨弓目gというものはレアールなものの卑閑言言匡長ではないし︑ましてや評言旨ではな

︵略︶

い︒それは対象の直接的で明証十全な現われなのである︒だから対

象が勺悪g目gとして与えられるからと言って︑対象は意識現象に 作用がかかわる対象や性質の間にも︑アプリォーリな関連がある柳︸ではないかということも︑やはり問われいま上に残されたのであった︒ 出来ない︑根源的法則性を持つような純粋な直観︑感得などがある.のではないかということが問われなかったのである︒またこれらの

(8)

157

シェーラーは以上のような立場に立って︑彼とは立場を異にする

価値論に批判を加えて行くのであるが︑その一つは実質的価値論の反対としての新カント派の形式的価値論ないし﹁価値Ⅱ妥当﹂論で

あり︑もう一つは価値客観主義の反対としての︑さまざまな価値主

観主義である︒

ロッッェやヴィンデル¥ハンドやリッヶルトにとって︑価値とは﹁妥

当﹂需言ご︾⑦巴冒長であって﹁存在するもの﹂ではない︒妥当性と

いう特質は持つが実在性は持たない︒それは﹁判断主観に対して基準として妥当する﹂︵駅邑cとしか言えないような超越的基準︑

アプリォーリな理念的形式である︒だが価値をマテリアールな質とゑるシェーラーが︑このような立場を認めないのは当然であろう︒︑︑︑︑︑︑彼にとって﹁価値そのものは妥当することのうちに消えてしまうよ

うなただの妥当ではなく﹂︑特定の作用において捉えられる﹁事

︵Ⅳ︶

実﹂目鼻の胃言であり︑存在するものであった︒ すぎないのではない︒﹁意識は常に何ものかの意識である﹂限り︑指向される対象は︑指向する意識の外に︑意識の指向の有無にかかわらず存在するということは︑前述のようにシェーラーにとって︑意識の指向性を基礎づけるべき﹁現象学的事実﹂であった︒対象は意識から独立に存在しながら︑現象学的本質直観によって︑ありのまLの姿で捉えられる︒従って︑シェーラーと現象学とのかかわりという点から彼の価値論を振り返って見ると︑ブレンターノ的情緒主義と︑フッサール的な現象学的本質直観の思想と︑意識の指向性を基礎づける指向対象の超越性というシェーラー的な現象学的主張とが︑彼の価値論を支えていると言うことが出来る︒ 価値の絶対性と相対性㈲︵関雅美︶

シェーラーは価値の主観主義的解釈の諸形態を倦むことなく批判

するが︑それは価値の主観性︑相対性の主張が︑近代哲学の抜き難

い確信として存在しているためである︒ただ︑客観主義といい︑主

観主義批判といっても︑価値と意識のある種の相関性をシェーラーが必ずしも否定しないことは︑今迄の議論の中でもすでに触れられ

ている︒一般に対象と作用の間に本質的関係があるということは︑

﹁哲学の最も基本的な洞察の一つ﹂なのであり︑いまのわれわれの

場合で言えば︑まず第一に︑価値と感得などの情緒的指向作用の間に本質的関係があって︑前者は後者によってしか捉えられないとい

うことである︒第二に︑価値が価値として意識されるのは︑人間の

あり方と人間が置かれている状態に依存するということである︒例

えば精神的でない自然的人間にとって︑価値は肉体的欲求にとって

重要な財の圃凰ggとしてしか存在せず︑それ以外の価値は注意の対象にならない︒また価値の担い手︵財︶が限られていて︑それを得るには努力がいる時とか︑他人と比べて自分にある財が欠けてい

︵肥︶

る時とかに︑価値が意識の対象となることが多いlだがこのような例から判るように︑対象と作用との本質的関係は︑要するに対象︑︑︑︑︑︑︑︑︑の主観への所与可能性に係わるのみであって︑対象の存在そのものにも︑また対象のあり方にも係わらない︒例えばカントの認識論が

言うように︑主観の認識作用の法則が︑認識対象のあり方の法則を

規定するといったことは︑価値と作用の間にはない︒だから︑価値

の所与可能性の主観性︑相対性の主張を超えるような主観主義を

シェーラーは認めないわけである︒

価値判断は客観的自立的な価値に対応するものでなく︑欲求︑嫌

悪︑その他種々の感情状態の表現にすぎないとし︑﹁価値Ⅱ欲求の対

(9)

1冊

象X﹂とゑる主観主義的見方は︑スピノーザ以来多くの人々によっ

︵四︶

て主張されて来た理論である︒だがそれは﹁価値の陳述﹂と﹁感情表現﹂を混同している点で誤っており︑事実とも合致しないものである︒例えばバラの花を別に欲しいとも思わずに︑﹁カーネーション

より︒ハラの方が価値が高い﹂などと判断しうるように︑われわれが

ある価値を選択する場合︑同時にその価値への欲求が起こるとは限らないし︑逆に肯定的価値を嫌悪したり︑否定的価値しかないと判っ

︵釦︶

ているのにそれを欲求することもありうる︒また星の輝く大空の崇

高さを感ずる場合にふられるように︑どんなに努力しても獲得出来

ず︑従って獲得しようとも思わぬような価値l主観主義理論では

存在不能なはずの価値Iをわれわれは感得することが出来る︒ま

た自分の敵に嫌悪の情を感じながら︑しかもなお彼に倫理的価値を

帰することがありうるし︑価値を認めた敵に対する自分の感情がい

ろいろに変化しても︑価値判断は不変のま上であるような場合にゑられるょうに︑ある対象を承ることによって生じた感情状態と︑そ

︵劃︶

の対象の価値の把握︑陳述は別物である︒

このように︑価値の把握と主観的感情状態は別物なので︑価値あ

りとされたものが必ず欲求されるわけではなく︑価値なしとされた

ものが必ず嫌悪されるわけでもない︒しかしいやしくも欲求︑嫌悪

が起こる限りは︑それが価値判断に正しく対応すべきことlつま

り︑価値ありとされたものが︑価値ある故に欲求され︑価値なしと

されたものが︑価値なぎ故に嫌悪されるのが︑望ましい正常な姿だ

とすれば︑主観的感情状態がある所では︑それを基礎づけるものと

して︑まず価値判断が先行すべきであって︑逆に前者が後者を基礎づけたりすべきものではないであろう︒そうだとすれば︑主観的感

価値の絶対性と相対性㈲︵関雅美︶ 情状態から価値を引き出す理論は︑単に主客転倒した誤った見方であるだけでなく︑異常な見方であるとさえ言えるであろう︒シェーラーがスピノーザ理論をルサンティマン︵弱者の怨恨︶の現われとみるのはそのためである︒﹁価値は透明なも會国易冨吊言﹂なので︑人は誰れでもそれを明証的に捉えることが出来るのだが︑捉えられた﹁善きもの﹂を実現する力を︑誰れもが持てるわけではない︒善きものへと意欲を向けながら︑その努力がうまく行かない時︑人はしばしば善きものに嫉妬を抱き︑そのため︑客観的自立的な価値の理念そのものの権利を否認し︑それを主観的なものへと引きづり降そうとする︒価値とは主観的意欲などの表現に他ならぬと主張することによって︑自己にとって達成可能な・主観的に望ましいものを︑﹁価値あり﹂とする権利をえて︑客観的価値を達成出来ない力弱い自己を正当化することが出来るようにするためにである︒こうして︑価値の主観化と︑価値判断の読全なアナーキーの正当化が生じたのだとシェーラーは言うのである︒もっとも︑シェーラーは主観主義の原因をいつもルサンティマンに求めているわけではない︒彼はある所では︑その原因を価値判断が理論的認識と違って︑普遍性を持たぬことが多いという事実に求めている︒人間のある同じ性質や行為が︑人により時代によって︑あるいは賞讃され︑あるいは逆に非難されたりすることがある︒一般に人間には︑他人と同じように振舞うことによって︑自分を正当化しようとする強い傾向があるので︑価値の問題で他人と意見が違うと︑理論の違いの場合よりも不安になり易い︒だから価値判断に普遍性がないと︑人はひどく失望して懐疑に陥り︑価値は主観的なのだと思うようにな︵¥つまり︑賞讃や非難を意味する言葉は︑自

(10)
(11)

1別

価値の間にはいろいろな関係が考えられるが︑価値の種類︑性

質さらに価値の担い手のイデーから独立な︑価値の本質そのものに

基づくアプリオーリな連関は︑形式的連関である︒これは純粋論理 ︵8︶P画.○・︾いの

︵9︶伊P○.︾弓PR.国具ぐ︾﹄巴 ︵Ⅷ︶国具胃︾雪・﹄宗球.︾旨輿震ぬ雪P国具ぐ遭璽︾函紹 ︵︑︶国負目・紹童雪 ︵吃︶PPO・面躍.︑誤霞. ︵旧︶国.勺勝o巴.勺g脇$︾司昌.雪式四囲

︵M︶国且舅︑鴎●︾謡冥国口昌・霊.言.asご自国︾ロ閉雪の算三島碕璽口号﹃

両津二穴冨.の○毒里閏少幽念●.届﹄威.

︵喝︶国具〆︾いち廟・︾○aoショ日厨

︵焔︶国具胃ゞ霊・弓遣ミマ国具ヨ迫圏

︵Ⅳ︶国具昌︾乞甑.

︵岨︶PPO.︾巨卸ごい

︵聰︶国具ヨマg

︵別︶国具昌︾雪壱己︑

︵別︶PPO.︾畠四

︵鯉︶pPO.︾匡興鴎卸国9国︾雪雲届壁.

︵羽︶国9国︾畠﹈

︵溌︶酔い○・.畠禽.

︵弱︶酔い○.︾乞騨乞輿匝庭

︵蹄︶P騨○・﹄謡

価値の絶対性と相対性㈲︵関雅美︶

一あらゆる価値は︑例えば快と不快︑美と醜︑正と不正などの

ように︑肯定的︵積極的︶価値と否定的︵消極的︶価値に分れると

いう事実︒二肯定的価値と否定的価値に対する存在の関係を規定する次の

四つの公理︒イ肯定的価値の存在は︑それ自身肯定的価値である︒

ロ否定的価値の存在は︑それ自身否定的価値である︒ハ肯定的価値の非存在は︑それ自身否定的価値である︒

二否定的価値の非存在は︑それ自身肯定的価値である︒

三価値とぎ房口の次のような関係︒

イ一般に存在すべしとか︑存在すべからずと言えるのは︑価

値についてのみである︒

ロ肯定的価値は存在すべきであり︑否定的価値は存在すべき

でない︒

四同一の価値は肯定的であると同時に否定的であることは出来ないという事実と︑それに対応するところの価値取扱い原理l同

一の価値を肯定的であると同時に否定的であるとみなすことは出来

ない︒だが価値の区別や関係は︑このような肯定的l否定的といった形

式的な対立関係につきるのではない︒価値の全領域には︑価値の本

質そのものに根差す固有の﹁序列﹂両画晨oap昌偏があり︑これに

よってある価値は他の価値よりも︑高いものであったり︑低いもの

︵2︶

であったりする︒価値の序列は︑肯定的価値と否定的価値の間の関 学に比せらるべき純粋価値論をなすものであるが︑

︵1︶

としては次のようなものがある︒

一一 これに属すもの

(12)

153

係とは全く別物であるが︑肯定l否定の関係を︑高いl低いの序列関

係に置き換えようという試承が︑多くの人々によってなされて来た︒︲︵つ②︶例えば︑ある価値はそれに対立する否定的価値より高次であるとか︑

あるいは︑もし共通の次元に投影されるなら︑低次の様態の肯定的価値は︑高次の様態の否定的価値より高次であると言われたり士¥

だが二つの価値関係を共通の次元に投影して︑ある種の高さの程度の違いへ置き換えるためには︑すべての価値を量化し︑価値の違い

をすべて量的相違として取扱わなければならないが︑いま問題の二

つの関係は︑共に質的関係︑質的相違であって︑例えば︑﹁非常に美

しいI少し美しい﹂︑﹁とても甘いl少し甘い﹂といった関係とは別

物である︒また肯定I否定の関係に置かれた価値の実現に係わる原

理は︑選言的であって︑一方の実現は他方の放棄である︒ところが︑

高いl低いの関係に置かれた価値の場合は︑主として相補的関係で

ある︒例えば︑単なる生存に必要な低次の価値︵物︶が維持され︑

それが満ち足りていることによって︑文化価値の実現が可能になるといった関係である︒高次の価値の実現は︑低次の価値にはじめて

意味を与え︑低次の基本的価値の実現は︑高次の価値の実現を確かなものにする︒要するに序列の関係は︑肯定l否定の関係と質的に

異なるものであるから︑両者を洪墹の次一兀に投影し︑ある種の高さの程度の違いとみることは出来ない︒

価値の序列には一弓のものが考えられる︒一つは価値の本質的な

担い手によるものであり︑他は﹁価値様態﹂君①再ョCs岸壁の間に

成り立つ序列である︒前者は後者に比べて形式的であり︑後者は価値のすべてのアプリオーリな関係の中で最も根本的で実質的であ

ブ︵︾◎

価値の絶対性と相対性㈲︵関雅美︶

価値はまずその本質的担い手の観点から区別され︑序列関係が設

定される︒一人格価値と事物価値人格価値とは人格そのものに直接に属

す価値であって︑人格自身の価値と︑諸々の徳の価値である︒事物価値とは価値物の持つ価値であるが︑人格価値は事物価値より高次

である︒

二閃億g君の耳︵自分にとっての価値︶と津①目旦君①風︵他人に

とっての価値︶これは前のものとは別な区別であるから︑これらの価値はまたそれぞれ人格価値や事物価値でもありう

る︒同碕g尋①算と軍①目Q言の耳は︑それ自身としては︑同じ高さのも

のであるが︑後者の実現作用は前者の実現作用より高次である︒

三作用価値︵認識作用︑愛や憎悪の作用︑意志の作用などの価

値︶と機能価値︵聴覚機能︑視覚機能などの価値︶と反作用価値︵例えば︑ある物を喜ぶといった作用の価値︶これらはすべて人格価

値に従属するものであるが︑作用価値は機能価値より高く︑機能価値は単なる反作用価値より高いとシェーラーは考える︒この場合の

判断の基準は︑恐らく︑自発性︑能動性の程度に置かれているので

あろう︒

以上のほか︑シェーラーはさらに︑心情価値I行為価値I結果価

値︑指向価値l状態価値など︑いろいろと区別を立てては︑その間

の高低を論じているが︑しかしこの種の序列はそれほど重要なもの

︵6︶

ではない︒

価値のアプリオーリな関係の中で︑最も重要で基礎的なものは︑

価値様態の序列である︒価値様態とは︑価値の実質的性質のことで︑

価値を例えば肯定的と否定的とに分けた場合︑肯定的という性質は︑ 一一一

(13)
(14)

152

一つ一つの価値の実質を捨象した形式的性質であるのに対して︑実

質を捨象しない︑形式的ならざる性質を︑価値様態と呼ぶのである︒その序列は下から上へと次の順序になぷ︒

一快適価値快︑不快という様態であり︑この区別は何がわれ

われに快を与え︑不快を与えるかといった︑事物に関する経験的知

識に先行する︑アプリオーリな絶対的区別である︒例えば︑同じ物

がある人には快を与え︑他の人には不快を与えるといったことがあ

るにしても︑快不快の区別は絶対的である︒快は不快に優先する

が︑このことは︑価値そのものと感性的選択作用の本質に根差すア

プリオーリな命題であって︑観察や帰納に基づくのではない︒だか

ら例えば︑歴史家や旅行者がこれとは違う選択をする人間のいることを報告したとしても︑われわれは︑その人間はわれわれと違う事

物を快と感じているにすぎないのだろうとか︑快よりは高次の価値

のためにこういう選択をするのだろうとか︑あるいは︑欲望の倒錯

があるのだろうと考える︒つまり︑上の命題は︑すべての人類学的

経験に対してアプリオーリである︒

二生命価値これは高貴なものI賎しいものの対立に関係する

すべての価値であり︑また︑幸福雲○亘という意味領域に係わる

すべての価値もこれに属する︒さらに上昇あるいは下降する生命の

感情や健康感情︑病気や無力の感じなどの﹁生命感情﹂によって示

されるもの︑あるいは︑喜ばしさや憂うつさなどの感情的反応によっ

て示されるものも︑これに属する︒生命価値は快適価値や精神的価値に還元出来ない︑完全に自立的な価値様態であるが︑従来の倫理

学はこの点を見落して来た︒カントもすべての価値を善と悪︑快と

不快に分け︑生命価値を快と不快の快楽主義的価値に帰する誤りを

価値の絶対性と相対性日︵関雅美︶ 犯しているが︑それは彼が人間を理性と感性に分ける前述の二分法に惑わされたためと︑﹁生命が真の実在であって︑単なる経験的類概念でないことを見落したためである︒﹂三精神的価値主なものとしては美と醜︑正と不正︑真理認識の価値などであり︑いわゆる文化価値や︑肉体的所与に媒介されない精神的な喜び︑悲しみなどが示すものもこれに属する︒四聖価値これは絶対的なものとして与えられる対象において︑それに対する特殊な愛の作用を通じて現われる価値とされるが︑シェーラーにとって聖とは要するに︑人格雰勗目において現われる﹁人格価値﹂である︒彼は神を認めており︑神を信ずる宗教的作用に︑宗教的実在︵神︶がコレラートとして対応するということは︑﹁現象学的に基礎づけられた哲学の枠内では︑少しも驚くべきことではない﹂と言い︑さらに神に神聖性を帰してはいる︒だがシェーラーは︑聖は人格の完成状態に属す価値であると言っているので︑その意味では︑聖は宗教的な意味のものであるよりは︑むしろ倫理的意味のものであら兇︒もっとも︑人間を﹁神的なものへの運動︑移行﹂と承るのみでなく︑個別的人格を無限人格としての神の一面的個別的な静与の房○局①具R異一○口とさえ承るシェーラ画にとって︑宗教と倫理の区別は消えていると言えるのかもしれない︒なお︑さまざまな時代や民族が何を﹁聖なるもの﹂と考えたかということは︑そのつどの財の問題であって︑アプリオーリな価値論や序列論には属さない問題である︒

ところで︑以上のような価値の序列を主張する時︑シェーラーは

いったい何を基準にしているのであろうか︒彼はある価値の高低と︑

その価値の固有の本質の間には︑アプリオーリな本質的関係がある

一一一一

(15)
(16)
(17)

148

ている価値もまた︑善なる意志の実質的目的たりえないと速断した︒

それは価値がアプリオーリな自立的実質的性質であることll従って善なる意志の実質的目的たりうることlをカントが知らなかっ

たからである︒経験的相対的な財以外に︑実際に意志の実質となり

うるものを知らなかったカントは︑善なる意志から実質的目的を排除せざるをえなかった︒彼にとっては︑意志が実現すべき目的を提

示する﹁実質的倫理学﹂は即ち﹁財の倫理学﹂⑦言臼①昏弄であり︑

それは同時に﹁相対主義的倫理学﹂に他ならぬからである︒こうし

て実質を奪われた意志は︑自己の規定根拠として︑普遍的形式的法

則以外のものを持つことが出来ず︑それと合致するのが善なる意志

となる︒こうして意志の善悪は︑合法則性︑反法則性という形式と

なった︒だがそれは︑価値を実質と承るシェーラーからすれば︑善

悪を価値とは認めないことである︒また財の排除Ⅱ価値の排除とゑ

て︑価値を善なる意志の実質から排除したことは︑善悪を単に価値

と認めないだけでなく︑さらにそれを他のすべての価値と無関係と

象たことになる︒だがシェーラーにとって︑善悪は形式でなく実質であり︑また他の価値に係わるものであった︒そしてそれを可能にしたのが価値序列の思想である︒つまり︑絶対的な意味での善悪と

は︑それぞれ最高︑最低の価値実現の作用において現われる価値であり︑相対的な意味での善悪は︑そのつどの出発点からみて︑それ

ぞれより高い価値︑より低い価値実現の作用において現われる価値

である︒このように︑善悪価値と他の価値が︑序列の思想を介して

結合し︑諸価値が善意志の実質的目的となることによって︑相対主義に陥ることのないアプリオーリな実質的価値倫理学が成立するこ

とになった︒﹁実質的価値の諸性質の間に︑アプリオーリな序列があ

価値の絶対性と相対性㈹︵関雅美︶ るという事実が︑カントの形式主義への最も鋭い批判となったので

一注︶︵鴫︶ ある︒﹂

︵注︶善悪は︑序列づけられた他の価値を実現する作用において現われる価

値だとすれば︑それ自身は︑他のすべての価値と違って︑価値の序列に属

しえない︒シェーラーは︑﹁価値はすべて序列においてある﹂と言うが︑

善悪価値のみは例外となる︒彼の思想が序列づける思想であり︑﹁初め

に秩序ありき﹂というのが彼の確信だとすれば︑この例外は大きな矛盾

である︒実質的価値倫理学が︑この矛盾を代償として築かれているとい

う事実は︑少からずわれわれの注意を引くであろう︒

︵屯1︶国旦冒︾の④届.

︵2︶騨伊○.︾障っ心

︵3︶z・西画耳目gP固己弓旨呂言&①勺篁8s三ゆ乞認皀蜀

︵4︶ぐ巴.言.ごo三富日璽いぃ○・・s露.

︵5︶四国○・︾障○獣.

︵6︶団員目︾﹄骨﹃域.

︵7︶以下の叙述はPP○.︾届墨.︾国且雪︾届霞.による︒

︵8︶ぐ哩・国旦目・眉・画温.一望︸令の獣・︾国Qぐ︾勗少岳・勗虫鵠岸のo彦里g︾

君$g匡呂吋自目g口角弩ヨ冨昏活︾国巨篇津具冨帰︾勗異なお以下

本書は単に野ヨ.と略記︶ごgご目菌︾P餌○.遣圏

︵9︶国且国︾囲いの旨目︾﹄雪露.︾の○琶里閏.弔冨ざ8℃三門言君里国国開昏画巨匡ごい

こいP巨臨.

︵蛆︶小倉貞秀氏コックス・シェーラー﹄七二頁︒なお︑以下の叙述は国9

国・己﹃廟・軍国旦冒・后のによる︒

︵︑︶国且胃︾雪ゞSm露.︾函霊

(18)

参照

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