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雅 美

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(1)

意味の検証可能性理論は︑ウィットゲンシュタインによって提唱

され︑彼の影響を受けていた論理実証主義者たちの研究集団である

ウィーン学団︵ウィーン大学哲学教授シュリックと彼に招かれた

人々が木曜日の夕方に会合して開く私的なセミナーの形で一九二○

年代後半に結成され︑三○年末にナチスに弾圧されて解散︒ポパー

はこのセミナーに招かれたことはなかったが︑批判者の形でメン

バーたちと交渉を持っていた︶の中心的学説となったものである︒

これは前節で扱った帰納主義と実質的には同じものだが︑哲学の評

価の問題を含んでいるので︑ここで取り上げることにする︒

ウィットゲンシュタインは命題を㈲論理学や数学の命題と︑口現

実の世界に関する命題に分ける︒前者は現実の世界については何も

語らず︑論理的な規則に従って論証を進めていくだけのものなので︑

(7)

ポパーの批判的合理主義的科学論︒︵関雅美︶ 意味の検証可能性理論と哲学

ポパーの批判的合理主義的科学論︒

論証過程に誤りがない限り問題はないが︑後者はそうしたものでは

ないので︑その真理性は何によって判定されるのかが問題になる︒

これについて彼は以下のよ︑フに考える︒感覚を通じてじかに経験す

ることができ︑そして最も簡単な事実︵ある事物の存在とか︑その

性質とか︑それと他の事物との関係といったこと︶を原子的事実と

呼び︑これについて報告する例えば﹁これは白い﹂とか﹁ソクラテ

スは背が高い﹂といった命題を原子命題と呼ぶとすると︑世界は原

子的事実の総体だと言えるので︑これと合致する真なる原子命題を

全部知ることができれば︑世界のすべてが正確に知られることにな

る︒従って︑現実の世界に関する真なる命題は︑真なる原子命題を

基礎として︑これから出発したものでなければならない︒つまり前

者は︑後者を﹁・・⁝・とともに⁝⁝﹂﹁・⁝・・あるいは⁝⁝﹂﹁もし..⁝.

ならば⁝⁝﹂といった結合語で結び合わせたり︑一般化したりして

得られたものでなければならない︒だからウィットゲンシュタィン

によれば︑前者はそれがどんなに複雑で抽象的なものであっても︑

結局は真なる原子命題に還元されなければならないことになる︒つ

まり︑前者は後者の真理関数でなくてはならないわけである︒そこ

雅美

(2)

で︑ある命題が真理かどうかを調べるには︑それを論理的に分解し︑

その中に含まれている様々な原子命題を取り出した上で︑それらが

原子的事実︵あるいはそれを捉えている感覚的経験︶と合致するか

どうかを見なければならない︒うまく合って真であることが検証さ

れたときには︑それから構成された元の命題の真理性も検証された

ことになる︒そして彼によれぼ︑こうした命題のみが有意味な

︵日8昌晨三︶命題で︑有意味なものだけが経験科学的命題なので

ある︒逆に言えば︑こうした検証が不能なものは無意味で非科学的

なものとされるわけだが︑彼にとって哲学︵形而上学︶こそ正にそ

うしたものにほかならない︒哲学は彼にとっては﹁全く訳の分から

ぬおしゃべり﹂宙言閏哩与閏厨ご﹁無意味なナンセンス﹂にすぎな

いものであった︒こうして彼によれば︑検証可能性︵真なることが

検証可能な原子命題への還元可能性︶と有意味性と科学性︵非哲学

性︶は一致し︑有意味で科学的なものと︑無意味で哲学的なものと

を区別する基準︵境界設定基準︶は検証可能性であることになる︒

こうした意味の検証可能性理論の基礎にあるのは︑言うまでもな

く帰納主義である︒従って㈲のHで述べた批判l科学が求めざる

をえない普遍法則は直接経験を超えているので︑それによっては検

証されえないという批判Iがそのまま当てはまることになる︒だ

から︑批判的に見ればこの理論は︑その意図に反して︑経験科学を

さえも無意味で非科学的なものにしてしまい︑科学︵有意味なもの︶

の基準ないしは科学と非科学︵無意味なもの︶の境界設定基準を与

えるどころか︑両者の区別・境界そのものを消し去る結果になって

しまっているのである︒だがこの理論は︑こ︑フした批判が当てはま ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶

る帰納主義に尽きるものではなく︑それを超える独自のものを持っ

ている︒伝統的な哲学を無意味なものと断定することがそれである︒

哲学と科学を峻別し︑前者を無意味なものとして葬り去ることが

ウィットゲンシュタイン理論の狙いであった︒

彼によれば︑従来哲学の問題とされてきたものには四種類ある︒

H論理学や数学によって解答されるべき性質のもの︒口経験科学に

よって解答されるべき事実に関するもの︒日これら二つが組み合わ

されたものl彼によれば︑以上はいずれも哲学の本当の問題とは

言えないものである︒卿以上のいずれにも属さない︑純粋に哲学の

問題だと彼が考えているもの︒世界の本質とか根本原理とか︑神と

か霊魂とかを主に扱ってきた形而上学と呼ばれる哲学の問題がこれ

に当たる︒彼によれば︑これらは例えば﹁あらゆる猫は一七三に等

しいか?﹂︑﹁ソクラテスは等しいか?﹂といった類いの無意味な擬

︵1︶

似問題にすぎない︒だから︑有意味でしかも哲学でなければ解くこ

とができないような真正の哲学的問題は存在しないことになる︒そ

うだとすれば︑哲学者のまともな仕事として残るのは︑問題を解く

ことではなくて︑言語や命題の分析・明瞭化だけになる︒伝統的な

形而上学が甲論乙駁の果てしない論争を繰り返してきたのは︑使わ

れている言語や命題の暖昧さに欺かれて︑検証手段のない無意味な

擬似問題にそれとは知らずに係わってきたためであるから︑言語や

命題を分析してその真意を明らかにすることが必要なのである︒こ

うすることによって︑命題の無意味さを明らかにしてそれを排除す

ることができるし︑問題の無意味さを暴露して問題自体を消し去る

ことが可能になる︒哲学者には︑純粋に哲学的な問題を無意味なも

(3)

のとして葬り去るこ︑フした仕事しか残されていないというのが︑分

析哲学と呼ばれる流派を生んだ彼の立場なのである︒

ポパーは︑経験的事実による反証可能性を科学性の基準ないしは

科学と非科学の境界設定基準と見る彼の理論を︑意味の検証可能性

理論を批判する形で公表した︒このため︑ポパーの理論は㈲意味の

検証可能性基準を批判する中で着想されたものであるかのように︑

また口意味の検証可能性基準を意味の反証可能性基準で置き換えて

部分的に修正しよ︑フとしただけのものであるかのように︑ウィーン

学団によって受け取られた︒だがこれは誤解である︒反証可能性理

論は㈲ポパーがウィットゲンシュタインの理論を知る前に︑マルキ

ストなどの擬似科学を批判する中で着想されたものである①のH参

照﹀︒また︒それはポパーによれば︑科学と非科学の境界設定基準に

すぎず︑有意味なも分と無意味なものとの境界設定基準ではありえ

ない︒その理由は︑ある命題を科学には属さないものだと言うこと

はできても︑ただそれだけの理由で︑それを﹁全く訳の分からぬお

しゃべり﹂﹁無意味なナンセンス﹂だと決め付けることはできないか

らである︒ある命題を基準に照らして非科学的なものだと判断する

ことができるためには︑まずその命題を理解する必要があるのだか

ら︑非科学的だと判断したものでも︑理解することはできたはずな

ので︑理解可能なものが﹁全く訳の分からぬおしゃべり﹂であるは

ずがないのである︒要するにポパーは︑非科学I無意味なものとは

ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶

考えないわけであり︑そうしたポパーにとっては︑意味の検証可能

性基準と反証可能性基準は全く異質のものであって︑単なる置き換

えや部分的修正ではなかったのである︒

そしてこのことは︑ポパーが哲学を無意味なものとは見ていな

かったことを示している︒もっとも彼は︑㈲全く訳の分からぬおしゃ

べりと批判されても余り文句を言えないよ︑フな堕落した哲学的著作

が︵特にヘーゲル学派の中に︶沢山あったし︑︒この種のものの出

現が︑ウィットゲンシュタインや分析哲学の影響で︑少なくともあ

る期間抑制された事実があること︑更にもっと根本的なこととして

は︑日哲学の堕落は専門化することから生ずるのだが︑そ︑フした哲

学が多かったことなどから︑ウィットゲンシュタインの哲学批判に

︵2︶

一理あることは認めている︒日について詳しく言えば︑まともで有

意味な哲学は︑解くべき自分の切実な問題を持っているが︑これは

ポパーによれば︑例えば数学・科学・道徳・政治などの問題に根差

しているものなのである︒換言すれば︑専門化した哲学の狭い枠を

超えた所で生じた問題という意味での哲学外部の問題に根差してい

るものなのである︒なぜなら︑そもそも哲学とい︑フものは︑例えば

生物学とか天文学とかというように研究領域の名前がそのまま学科

の名前になっているような専門学科とは違って︑自分独自の領域を

持っていないものなので︑専門化した狭い枠の中に閉じ込もること

などもともとできないはずのものだからである︒それはあらゆる学

科の領域に広く根を伸ばし︑養分となるべき問題を汲み取ってこな

ければ枯れてしまうものなのである︒だから哲学は︑同時代の広範

な学問的社会的諸状況の中から生み出されて解決を迫っている切迫

一一一

(4)

した問題を敏感に受け止めて︑それを狭い既存の専門学科の枠にと

らわれない自由で総合的根本的な立場から解こうとしなければなら

ない︒哲学は不可思議なものへの驚きから始まるとアリストテレス

が言ったように︑解決を迫ってきている哲学外部の切実な問題への

鋭い感受性︵驚くことができる資質︶と︑問題解決への燃えるよう

な衝動に支えられてはじめて︑まともな哲学の問題とまともな哲学

が生ずるのである︒もしそうした感受性と情熱が失われて︑問題が

専ら専門化した哲学の狭い内部から汲み取られるようになると︑哲

学はその根を失って枯れ︑無意味なおしゃべりと批判されても余り

文句を言えないものに堕落する︒哲学が問題を専門化した自分の内

部からしか汲み取れないとい︑うことは︑いわば哲学の近親結婚なの

であり︑無意味なおしゃべり的哲学は︑それから生まれる悲惨な奇

︵3︶

形児にほかならない︒そしてこうしたことが起こるのは︑具体的に

は次の二つのタイプの専門家の場合である︒Hある学説を信奉する

人々︵誰々学派・何々学派と呼ばれる専門家たち︶の場合︒彼らは︑

その学説を樹立した偉大な哲学者をつき動かしていた切実な問題へ

の感受性と衝動を持たず︑師匠の学説に傾倒する心だけに動かされ

て︑それを決り文句的に振り回したり︑その煩瓊な解釈詮索に耽る

ことをもって︑自分の問題とも生き甲斐ともする人々である︒口過

去の様々な哲学を広く客観的学説史的に研究することをもって自分

の問題としている専門家たちの場合︒これら二つはいずれも外部と

の接触が失われ︑問題が哲学の内側からしか汲み取られなくなって

いるという意味で︑哲学の専門化なのである︒ポパーによれば︑そ

れは哲学から本来の意義を奪って︑煩墳で空虚な詮索に堕落させが ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶

ちであるとい︑フ理由で﹁地獄行きの大罪﹂︵日︒﹃冨房言︶にほかなら

︵4︶

ない︒要するに︑二つの意味での専門化によって堕落した哲学に関

する限り︑ウィットゲンシュタインの批判は大筋において正しいけ

れども︑それが当てはまらないまともな哲学があることもまた確か

なのである︒

だが︑もしまともで有意味な哲学の問題が哲学外部のそれに根差

すのなら︑それは哲学の問題とは言えないし︑それを扱うものを哲

学と呼ぶこともできないのではないか︑という疑問が起こる︒これ

についてポパーはH問題の解決が多くの学問分野にまたがることが

あり︑フること︑また口例えば物理学の理論と結び付いて生じた問題

であっても︑現在物理学者が扱っている理論との結び付きよりも︑

今までまともな哲学者たちによって論じられてきたものとの結び付

きの方が密接な場合には︑それを哲学の問題と呼んでもよいこと︑

日従って︑問題を各学科ごとに狭く固定して分類したり︑哲学とか

哲学的とかとい︑フレッテルをごく限られたものだけに貼り付けたり

するのは︑適当なことではないしまたくだらないことでもある︒彼に

よれば︑こうした固定的な分類やレッテル貼りの問題は︑哲学を無

意味なものとして排除するためにウィットゲンシュタインが考え出

︵5︶

した退屈な擬似問題にすぎない︒要するに︑専門化した狭い枠を超

えていくところに︑他の学科とは違う哲学独自の意義があるし︑従

来のまともな哲学者たちの問題意識や理論はそうしたものだった︑

と考えるポパーにとっては︑哲学の伝統的な概念に従って自分を哲

学者だと信じている人々が︑同時代の切迫した哲学外部の問題に根

差すものと真筆に取り組んでいる所にこそ︑まともな哲学があるの

(5)

だと考えておけば︑それで十分だったのであろう︒

哲学に関するポパーの考えをもっとはっきりさせるために︑哲学

史上に現れたものの中の例えばどれを彼がまともで有意味なものと

評価しているのかを見てみよ︑フ︒前述のよ︑フに彼は︑哲学が根差す

べきものとして︑数学や科学の問題と並んで道徳︑政治などの問題

を挙げ︑﹃歴史法則主義の貧困﹄や﹃開かれた社会とその敵﹄で後者

に関する彼自身の哲学思想を展開しているが︑﹃推測と反駁﹄で評価

すべきものの具体例として挙げているのは︑宇宙論とそれに関する

︵6︶

認識論である︒まず前者について言えば︑科学も人間を内に含む宇

宙︵世界︶の理解を目指すものとして︑宇宙論だと言えるから︑哲

学的宇宙論と科学的宇宙論の関係をど︑フ見るかが問題になる︒ポ

パーによれば︑哲学的宇宙論はH科学に先立って新しい問題とそれ

への大胆で独創的な解答を提起し︑科学的宇宙論に新しい可能性を

示唆して刺激を与える︒またそれは口同じ作業によって︑科学を宇

宙論へとよみがえらせる︒と言うのは︑科学は専門化するにつれて︑

宇宙全体の研究から特殊な対象の研究へと細分化し︑非宇宙論化す

る傾向を持つが︑それに全体への感受性を吹き込んで活力を与え︑

宇宙論へとよみがえらせるのは︑哲学的宇宙論の力である︒しかし

これは日反証可能でしかも厳しいテストに耐えた命題を提示する科

学的宇宙論にいつかは取って代られる運命にある︒だからポパーが

前者を評価するのは︑要するに後者の﹁前衛﹂としてであると言え

︵7︶

よ︑フ︒彼が高く評価するソクラテス以前のイオニア学派に始まるい

わゆる自然哲学︵最初の哲学的宇宙論︶を例に取って言えば︑﹁大地

は水によって支えられて船のよ︑フに浮かんでいる﹂とい︑フタレスの

ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶ 美しい着想は︑大地の安定性を説明するという自ら立てた問に対する答であるが︑これはウェゲナー︵一八八○一九三○︶の大陸移動説

︵8︶

の前衛と言える︒タレス説に触発されて生じた批判的修正理論であ

るアナクシマンドロスの﹁大地が安定しているのは︑何かによって

支えられているためではなく︑すべてのものから等距離にあるため

だ﹂という︑人類史上最も大胆で革新的な考えは︑一方ではい球形

の大地が宇宙の中心に何物にも支えられずに浮いていて︑天体が付

着した幾つもの天球がそれを取り巻いている︑という修正理論を示

唆し︑これが更に批判的討議を触発して︑アリスタルコス︵古代ギ

リシアの天文学者で地動説の創案者︶やコペルニクスによる修正理

論である太陽中心的世界体系理論の出現を促したことによって︑こ

の最後の理論の前衛の役目を果たしたと言えるし︑またそれは他方

ではロニュートンの非物質的で不可視の引力という観念を示唆して

いるとい︑フ意味で︑その前衛の位置を占めている︒また︑宇宙は何

からどのよミフにして生じたか︑といゞフ問についての自然哲学者たち

による批判的論争の末にデモクリトスに代表される古代原子論が与

えた解答lすべてのものは原子からできており︑ものの生成変化

とは﹁空虚﹂の中での原子の運動にほかならない︑という解答lが︑

現代科学の前衛であることは言うまでもない︒

次に認識論について言えば︑ポパーが評価するのは︑宇宙に関す

る認識がどのよ︑フにして得られ︑またどのよ︑フに進歩するのかを明

らかにし︑そうすることによって認識の進歩に貢献できるような認

︵9︶

識論である︒これは実質的には彼自身の科学論に等しい︒われわれ

は︑観察から出発する帰納的推理によっておのずと宇宙に関する真

(6)

以上のように︑まともで有意味な哲学理論がありうること︑それ

を批判的に討議することが可能なこと︑哲学理論はこれによって進

歩すること︑をポパーは確信しているわけである︒だが哲学理論の

批判的討議の可能性については少しばかり説明が要ると思うので︑

最後にこの問題を取り上げる︒なぜこれが問題になるのかと言えば︑

経験的事実による反証可能性を科学と非科学の境界設定基準と見る

ポパーにとっては︑哲学は非科学つまり反証不能なものの方に分類

されるわけであり︑しかも反証不能とは批判不能ということだろう なる認識に導かれるのではない︒そうではなくて︑問題︵解決すべき宇宙の謎︶の発見から出発し︑見掛け上のものにすぎないような観察事実には惑わされない理性の批判的でしかも独創的な思考力によって︑説明仮説を大胆に推測し︑次いでこれを批判的に討議することによって︑もっと優れた説明仮説の推測へ進む過程で︑宇宙の認識が得られ進歩していく︒このことは︑宇宙の認識とその進歩は批判的討議・批判的合理主義によって可能になることを意味している︒ポパーはこ︑フした見方の正しさを︑古代の自然哲学の発展が実によく示していると考える︒なぜならこれは︑文明の初期に見られる反批判的傾向︵伝承された教説を無批判的に継承するように強要する傾向︶をイオニア学派の人々が初めて打破し︑後に西欧文明の本質となった批判的討議の伝統を創出したことによって発展できたものだからである︒認識論というものは︑こうした歴史的事実に典型的に現れているよ︑フな宇宙の認識とその進歩の実態を正しく捉えることによって︑進歩に貢献できるものでなければならない︒ ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶

から︑経験的事実によっては反証できない哲学理論の批判的な吟味

や討議がどうして可能なのかが︑説明を要する問題となるのである︒

これについて彼は︑哲学理論を問題に対する答としてなら︑その妥

︵Ⅲ︶

当性や優劣などを批判的に討議することができると考える︒詳しく

言えば︑側の四で述べたよ︑フに︑一般に理論とい︑フものはどんなも

のでも︑ある問題に対する答として考え出されたものだから︑理論

をその問題と関連づけて答としての妥当性を問う形で︑批判的に検

討することができるはずである︒だから哲学理論についても︑それ

が解こうとした問題と関連づけて︑Hそれはその問題を本当に解く

ことができているものなのか︑それとも︑問題を単に向こうへ押し

やっているだけのものなのか︑Qそれはその問題を他の理論よりも

︑うまく解決できているものなのか︑日その解答は単純なものなのか

︿解答の単純さについては㈲の口参照﹀︑また稔り豊かなものなのか︑四そ

れは他の問題を解くのに必要な他の哲学理論と矛盾しないものなの

かlなどと問う形で批判的討議が可能なのである︒このことをタ

レスとアナクシマンドロスの宇宙理論に即して説明すれば︑大地は

なぜ安定しているのか︑という問に対するタレスの答︵大地が船の

ょ︑フに水によって支えられているからだという答︶は︑それならそ

の水はなぜ安定しているのか︑という類似の問を誘発することに

よって無限後退に陥る︒だからこれは︑大地の安定性を説明すると

い︑フ問題を解いてはおらず︑それを単に一歩向こうへ押しやってい

るだけである︒これに反して︑アナクシマンドロスの理論は無限後

退の虞がない︒彼がこの種の修正理論を提示したのは︑こうした批

判的討議の結果であったと考えられる︒二人の理論はいずれも経験

一ハ

(7)

科学理論のように︑なんらかの経験的事実によってテストできるよ

うなものではない︒しかし問題と関連づけた上で︑答としての妥当

性を純粋な思考によって批判的に討議することによって︑アナクシ

マンドロスの理論の方が優れていると評価することは十分にできる

のである︒

このことは︑一般にわれわれが偉大な哲学者たちの著作を理解す

ることができるためには︑彼らが解決しよ買うとしていた問題を発見

しなければならないことを教えている︒例えばプラトンやアリスト

テレス︑デカルトやライプニッッ︑ヒュームやカントなどの著作が

展開する広大で極度に抽象的な世界を本当に理解することができる

ためには︑彼らが解決を迫られていた問題は何であったのかを知ら

なければならない︒また一般に哲学史というものは︑問題とその暫

定的解決とそれへの批判とが組み合わされた長い連鎖であることを

知らなければならない︒ポパーによれば︑哲学の初心者に対する最

悪の教授法は︑問題との関連抜きで誰かの理論を教え込も︑フとする

こと︑初心者をただやみくもに理論に慣れさせようとすることであ

る︒これでは偉大な哲学を︑ウィットゲンシュタインが言うよ︑フに︑

全く訳の分からぬナンセンスなおしゃべりと思わせることになりか

ねない︒そうしたものと思われかねないものに意味を与えることが

できるのは︑問題との関連づけによる理解だけなのである︒一般に

分析哲学者たちはこうした理解をしようとせず︑問題とその解決の

連鎖としての哲学史にも殆ど関心を示さないが︑彼らのこうした態

度と哲学を無意味なものと見ることとの間には関連があると言える

だろ︑フ︒

ポパーの批判的合理主義的科学論︒︵関雅美︶ 以上要するにポパーによれば︑哲学の仕事は言語や命題の単なる分析・明瞭化ではない︒哲学外部の状況の中から切迫した問題を発見し︑解答を発明してはそれを批判的に吟味し改善していくことが哲学の仕事なのである︒だから側の口で述べたよ︑フに︑ポパーの批判的合理主義における合理性が批判性を意味し︑批判性が改善を求めることを意味するとすれば︑科学と同様に哲学もこの意味での合理性を持つことができることになる︒彼が哲学を有意味なものと見る最も深い理由はここにあると言えよう︒このように見てくると︑哲学は科学と同じく︑批判的合理主義に支えられた広い意味での推測と反駁の方法に錐フものだと言えるのである︒哲学では反駁が純粋な思考に基づく批判的吟味によってなされるのに対して︑科学では観察・実験に基づくテストによってなされるという違いはあるが︑両者の方法は基本的には同じことになる︒このように考えるポパーにとって︑哲学は経験的事実による反証不能という意味で非科学的なものではあるが︑だからと言って無意味なものでは決してないし︑反証可能性理論は科学と非科学の境界設定基準ではあっても︑意味と無意味のそれではない︒

本節では︑科学理論の本質主義︵ののの①三菌房目︶的見解と道具主義

︵旨の言匡目目冨房目︶的見解とに対するポパーの批判を取り上げる︒

(8)

本質主義と道具主義

(8)

本質主義は事象について︑その現象と実在︵本質的な性質や在り

方︶とを区別する︒前者は例えば太陽の日周運動のように︑誰もが

日常経験してはいるがしかし実は見掛け上のものにすぎないものの

ことであり︑後者はそうした現象によって隠されている地球の自転

のような真実の姿のことであると言われる︒このように二つを区別

した上で︑科学は実在を正しく記述することを目的としているだけ

でなく︑正しい記述理論を実際に入手することもできるし︑またあ

るものがそうした理論であるかどうかを確実に判定することもでき

ると考える︒こうした理論は︑それが事象の本質的な性質を記述し

ているものだと考えられている限り︑㈲それ以上の説明︵それなら

なぜその事象はそうした性質を持っているのかの説明︶をもはや必

要としないし︑またしようとしてもできないものでもあるとい︑フ意

味で︑究極的な説明理論であり︑従って口仮説でなくて究極的真理

である︑と見なされることになる︒だから本質主義に従って︑例え

ばニュートンの重力理論を︑物体の本質的性質を記述している真な

る理論だと考えると︑質量に比例する力で他のものを引き付けるこ

とが物体の本質的性質なのだ︑ということになってしまうので︑そ

の本質そのものを更に問題にして︑﹁それなら物体はなぜ距離を隔て

て他のものを引き付けるような性質を持っているのか﹂と尋ねたり︑

その理由を説明しようとしたりすることは︑少なくとも物理学の内

部においては不可能であるし︑またその必要もないことになる︒無 ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶

H

理にそれを説明しよ︑フとする場合に考えられるのは︑神がそうした

性質を物体に与えたのだ︑といった宗教的説明だけだろう︒このよ

うに科学の立場を超えて宗教の立場に移行しようとしない限り︑あ

ることが物体の本質的性質なのだという説明は︑もはやそれ以上の

質問を許さない究極的説明になってしまうのであって︑人はそれを

真理としてただ受け容れるしかないことになる︒科学理論はこのよ

うな究極的説明理論として真なるものでなければならない︑と本質

主義は主張する︒

ポパーによれば︑これには三つの難点がある︒第一は︑上に述べ

たいと口の理由によって︑稔り豊かな問を立てることを妨げて科学

の進歩を阻害する︑とい︑フ難点である︒一三−トンの重力理論に即

して言えば︑﹁重力の原因は何か︑なぜそれが生ずるのか﹂とい︑フ問︑

換言すれば︑﹁重力理論を︵例えばアインシュタイン理論のよ︑フな︶

もっと普遍的な理論から演鐸することによって︑重力を説明するこ

とができないだろ︑フか﹂といった問を立てることをこの立場は妨げ

る︒この種の問は︑現存する理論よりももっと普遍的で情報量の多

い革新的な理論を生み出すことにつながる稔り豊かな問であるが︑

本質主義はそれを抑えることによって科学の進歩を阻害する︒第二

は︑科学理論は仮説でしかないことを見落してそれへの批判を拒否

することによっても︑やはり科学の進歩を妨げるとい︑フ難点である︒

第三は︑この立場を支えている現象と実在の区別自体が誤りだとい

︵u︶

うことである︒ポパーによれば︑日常的経験的世界も︑科学理論が

描き出す物理的世界も︑同じ一つの実在世界の同様に実在的な諸側

面ないし諸層と考えられなければならない︒前者も実在しない見掛

(9)

けだけのものではなく︑科学理論によって説明されねばならない実

在的な対象なのである︒例えば太陽の日周運動も地球の自転と同じ

ように実在的であり︑後者を含む太陽中心的宇宙体系理論によって

︵太陽がなぜ日周運動をするよ︑フに見えるのか︶説明されねばなら

ない対象なのである︒要するに︑見掛けだけの現象と実在を峻別す

ることは︑そもそも誤りである上に︑第一・第二の難点をさえ生み

出して科学の進歩を妨げることになる︒だから︑われわれは本質主

義を認めることができない︒

次は道具主義だが︑普通この言葉はプラグマティズムの立場に

立っているデューイの概念道具主義を意味する︒これは︑人間の認

識作用を環境への動物の適応作用が発達したものと見なし︑概念や

思考は適応作用の道具にほかならないから︑それらの価値は︑環境

によりよく適応することができるようにわれわれをうまく導くこと

にあるのだし︑これがうまくできて有用なものでありさえすれば真

理と言える︑と考える立場である︿側のHの実用主義説参照﹀︒だがポ

パーが扱うのは︑それよりずっと前からあるもので︑しかもプラグ

マティズムとは無関係な多くの物理学者によって今なお広く受け容

︵蛇︶

れられている見方である︒これは︑例えば法王庁がガリレイを裁い

た一六三○年代に︑コペルニクスの太陽中心的宇宙体系理論の身分

に関して持っていた見解である︒法王庁は︑この理論が従来の地球

中心的な理論よりも単純なものなので︑天文学上の計算や予測をょ

ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶

り簡単正確にすることができる便利な道具であることを進んで認め

ようとした︒しかも︑以前法王グレゴリウス十三世が一五八二年に

それまでのユリウス暦を改正してグレゴリウス暦︵現在の太陽暦は

これに基づく︶を制定したときに︑これを十分利用した事実さえあ

る︒しかし法王庁は︑旧約聖書の記述と矛盾するように思われたこ

の理論を︑実在の真なる記述とは認めなかった︒それは計算や予測

を簡単正確にするために考案された道具にすぎない︑というのが法

王庁の見解であった︒だから︑道具として便利であることが分かり

さえすればそれで十分なのであって︑それが同時に真理でもある必

要は全くなかったのである︒ガリレイがこのことを認めさえすれば︑

彼がこの理論を教えることに法王庁は少しも反対ではなかったので

ある︒彼が断罪されたのは︑木星とその衛星がコペルニクスの太陽

系の小型のモデルを形作っていることや︑内惑星である金星が月の

ように満ち欠けすること︵コペルニクスが正しければ起こるはずで

︵咽︶

あったこと︶を望遠鏡で確認していた彼が︑コペルニクス理論は道

具として有用なだけでなく︑真理でもあると主張したためである︒

科学理論に関する法王庁のこうした見解を例えばニュートンの重力

理論に当てはめると︑引力などとい︑フものは実際には存在しないこ

とになる︒それは物体の加速度を規定している実在する力ではなく︑

その計算や予測を可能にする数学的な道具にすぎないことになる︒

このよ︑フに︑科学理論はH実在の真なる記述ではなく︑計算や予測

のために考え出された単なる仮定︑道具にすぎないこと︑口真理を

目指して批判し誤りを排除していくことによる理論の改善進歩と見

えたものも︑実は単なる道具の改良にすぎないこと︑日理論の価値

(10)

は道具としての有用性にあって真理性にはないこと︑などを主張す

るのが︑ポパーが批判する道具主義である︒

こうした見方が出てきた理由は︑科学の発展に伴って︑同一の現

象を異なった理論で説明できる場合があることや︑今まで真理とさ

れてきたものが思いがけなく反駁されてしまう場合があることなど

が明らかになったり︑また︑理論は観察不能なものについての概念

︵例えば力の概念︶を含んでいることが注目されたりしだしたため

に︑理論というものは全くの仮定︵ポパーの意味での仮説とは違い︑

全く不確実なもの︑という意味での仮定︶にすぎない︑と思われる

︵M︶

ようになったためである︒だがもっと別な理由もある︒それは︑実

在とか本質とかといったものが現象の背後に隠されているわけでは

ない︑と道具主義者が信じていることである︒つまり︑バークリが

﹁存在するとは知覚されてあることだ﹂と言ったように︑事象は経

験を通じてわれわれに現象している通りのものでしかない︑と考え

られていることも理由の一つなのである︒本質主義の見方では︑理

論は誰もが日常経験する現象世界とは峻別された実在を記述するも

のであって︑前者を記述するものではなかった︒そして確かに︑理

論が描き出す理論的世界︵例えばすべてのものの構成要素と言われ

ている分子や原子の世界︶は︑われわれが日常経験する現象世界︵例

えば私が弾いているピアノ︶と全く違ったもののよ︑フに見えている

わけである︒それで︑現象と峻別された実在の存在を否定し︑本当

にあるのは現象だけだと信ずる人々の眼から見れば︑本質主義者が

実在世界の記述だと主張している理論などというものは︑現象と区

別された実在が存在しない以上︑実は何物をも記述していないこと ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶

になる︒つまりそれは単なる仮定︑道具にすぎないことになる︒こ

うした様々な理由によって︑科学理論は結局のところ︑いわゆる応

用科学の技術的な︵例えば航海術のための︶計算規則と基本的には

同じ性格のものとされてしまうわけである︒だからこの立場では︑

既存の理論を超えた新しい革新的な理論を求め続ける純粋科学と︑

自明のものとして前提された理論の技術的応用だけを求める応用科

学の区別が消えてしま︑うことにもなる︒

ポパーによれば︑この見解には次のような難点がある︒第一は︑

本質主義の第三の難点の所で述べたこと︑つまり経験的現象世界も

理論的物理的世界も同じ実在世界の諸側面として実在すること︑後

者を記述する理論は前者を説明するものでもあることなどを見落し

ていることである︒第二は︑以下の四つの事実を見落していること

である︒㈱科学は物理的実在世界に関する真なる理論を得ようと努

力するものであること︑㈹科学者は反証可能性の高い理論を求める

が︑そうしたものほど多くの出来事を理論上起こりえないものと主

張する排斥言明を含むので︑それだけ余計実在に関する主張になる

と言えること︑㈲科学者は理論を反証しようと努めなければならな

いが︑反証が成功したときには︑理論を否定する実在との接触を確

認することができ︑それの正しい把握の努力を再開すること︿側の㈲

参照﹀︑②科学者といえども真理の判定基準を持たないので︑理論が

真理であることを確実には知ることができず︑せいぜい真だと推測

するしかないにしても︑反証可能なものがまだ反証されていない限

りは︑真であると推測することに反対はできないはずであること

lこうした事実を見落していることが第二の難点である︒第三は︑

(11)

理論の反証を実質的に不可能にすることである︒なぜなら︑理論は

もしテストに耐えられずに反証された場合には︑誤りとして放棄さ

れなければならないのに対して︑道具はテストにパスしなくても︑

放棄される必要のないものだからである︒例えば︑試作された飛行

機の機体の破壊テストは︑機体の誤りを発見して捨てるために行︑7

ものではなく︑道具としての安全限界を確認し︑その限界内で使う

ために行うものである︒道具はもともと有効に使用したり適用した

りするためのものだから︑そのテストは︑その有効安全な使用や適

用の範囲を確認したり︑その範囲を拡大する手段を探るためのもの

で︑真理を得るために誤りを排除しようとする理論の反証とは性格

が全く違うのである︒従って︑理論が道具と見られている場合には︑

たとえ反証されたとしても︑反証されたものとは見なされず︑期待

に反して適用範囲が制限されることになっただけのもの︑と見なさ

れるにすぎない︒だからそれは限られた範囲内でではあるが依然と

して有効なもの︑と見なされ続けることになる︒こうして道具主義

は理論の反証を実質的に不可能にする︒このことは︑道具主義的見

解そのものが︑反証された理論を救うためのアド・ホックな言い逃

れの口実に使われる危険性を持っていることを示している︒第四は︑

この見解を支えている人間の態度にまで踏み込んでみたときに浮び

上がってくるもので︑第三の難点と結び付くものである︒それは︑

真理を探求するために実在の真なる記述と推測されるものを自由大

胆に構想しては批判にさらす態度の欠如︑換言すれば︑イオニア学

派によって創り出されて以来西欧文明の伝統的本質となった批判的

冒険的合理主義の欠如である︒第五は︑道具主義が第三・四の理由

ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶ によって︑本質主義と同じように科学の進歩を妨げることになるとい罰フ難点である︒

以上要するに科学は︑物理的実在世界の真なる記述理論であると

ともに現象的実在世界の真なる説明理論でもあるものを求めて︑推

測と反駁の方法に従って絶えず進歩していかなければならないが︑

本質主義も道具主義もこうした努力と相容れない誤った見解なので

参︵︾つ︵︾︒

ポパーによれば︑ダーウィン主義つまり自然淘汰理論は殆ど同語

反覆的で形而上学的なものである︒環境へ適応できたものは淘汰を

免れて生き残ることができるので︑環境への適応とは生存の実際的

成功のこと︵適応I生存値︶であり︑現在生きている種は適応でき

たものにほかならないし︑死滅したものはそ︑うではなかったものな

のだ︑といゞうよ︑フな説明は︑同語反覆に近く︑内容に乏しい︒だか

ら︑それはテスト可能な科学理論ではなく︑形而上学的︵非科学的︶

なものにすぎない︒だが︑例えばバクテリアがペニシリンに耐性を

示すようになることが実験的に確かめられたとき︑淘汰理論は︑ペ

ニシリンが存在しているような環境への適応機構がバクテリアにあ

ることを示唆することによって︑その機構の詳細な研究を指示する

ことができる︒こ︑フしたことができる理論は今のところこれしかな

(9)

科学理論と進化論弁証法

一一

(12)

い︒このような意味で︑これは具体的で実際的な科学研究の非常に

︵過︶

価値ある指針なのである︒ポパーによれば︑これが普遍的に受け容

れられたのはそのためである︒だがそれにしても︑ダーウィン主義

をもっと豊かなものにし︑科学研究にとって一層価値あるものにす

るための改善が必要だ︑とポパーは考える︒

彼がダーウィン主義と呼んでいるのは︑厳密には新ダーウィン主

義︵自然淘汰説と現代の生物学や地質学などの成果を総合したもの

で︑総合説とも呼ばれているもの︶のことである︒彼はこれを改善

するための提案をしているが︑そのポイントは︑進化がランダム歩

行︵例えば︑一歩ごとにルーレットを回して次の歩みの方向を決め

る人の足取り︶の形を取らずに︑定向進化つまりより高次の生命形

態と言えるものの方向を目指す進化の形を取ることがあるのはなぜ

︵逓︶

か︑を説明できるように新ダーウィン主義を補強することである︒

それによれば︑定向進化のきっかけになるのは︑生物の好み︑願

望︑目的構造の変異である︒例えば︑環境の変化によってある種の

食物がなくなったことに対応して︑新しい食物への好みが生ずるよ

うな場合である︒そしてこれが技能構造の変異︵新しい食物をうま

く獲得する技能の出現︶を助長し︑次に後者が身体構造の変異︵新

しい技能に好都合な身体上の変化︶を助長する︒これが変異の第一

次的系列だが︑三つの構造の間には第二次的なフィードバックがあ

りうる︒つまり︑新しい身体構造が逆に好み構造と技能構造に影響

してそれらを強化・誇張したり︑新しい技能構造が逆に好み構造に

影響してそれを強化・誇張することがあり︑フる︒だがポパーによれ

ば︑好み構造の変異が先頭に立って指導する形で第一次的系列に ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶

沿って進化が進んでいく場合に限って︑より豊富な好み構造を持っ

ているという意味で高次の生命形態と言えるものへ向かう定向進化

が生ずるのであるC

ポパーが出したこうした改善提案自体にはこれ以上深入りせず︑

以下本節での私の関心事に叙述を絞ることにする︒ポパーは進化論

︵Ⅳ︶

と科学論を統一的に解釈する︒これが可能なことが︑彼が進化論に

深い関心を持つ理由である︒彼によれば︑ダーウィン的淘汰は広い

意味での試行と誤り排除の過程と言えるので︑ダーウィン主義はポ

パー主義であり︑ポパーの科学論はダーウィン主義なのである︒つ

まり︑解決すべき問題との出合いに始まり︑それに対する試行的な

解答の推測と反駁による誤りの排除へ進む方法が︑両者に共通する

論理的基礎である︒科学がこれによって進歩するように︑生物はこ

れによって進化する︒進化における生物の変異は︑環境にいかに適

応するかという問題に対する解答としての新しい適応方法の多少と

も偶然的な試行的提示に相当し︑自然淘汰は︑環境によるその妥当

性のテストと反駁による不適当なものの排除に相当する︒詳しく言

えばポパーは以下のよ︑フに考える︒

生物は環境に︑うまく適応できなければ生きていくことができない

ので︑﹁どうしたら環境へよりよく適応することができるか﹂という

問題を解いていかなければならない︒生物は環境が投げ掛けるこの

問題の解決に絶えず携わっているのである︒もっとも︑この問題が

生物によって明確に意識されているとは限らないし︑その解決が意︑︑︑︑︑︑識的に求められているわけでもない︒生物の営みは客観的に見てそ

うしたものと解釈できるということである︒生物にとって︑環境は

一一一

(13)

それが変化した場合には︑早急に解決すべき適応の問題を投げ掛け

ていることになるし︑変化していない場合でも︑よりよき適応の方

法を探らなければならないものである限り︑やはり問題を投げ掛け

ていることになる︒そしてポパーによれば︑今までの進化の結果で

ある生物の行動様式に現れている反応性向つまり環境に対する一定

数の反応様式や解剖学的構造︵形態や様々の器官とその機能︶は︑

この問題に対する答に当たるものなのである︒人間より下等な生物

は︑すべて一セットの反応様式を遺伝的に持っていて︑下等な生物

のものほど固定しているが︑生物は今のところこ︑うい︑7仕方で環境

へ適応することにしているわけなので︑これが環境から投げ掛けら

れた適応問題に生物が暫定的に与えた解答なのである︒反応性向や

これによくマッチする解剖学的構造がこうしたものである限り︑そ

こには﹁これこれの環境状況︑環境刺激には︑これこれの反応をす

ればうまく対処できるはずである﹂という期待・判断・理論とでも

︵注︶

言︑フべきものが遺伝的に内蔵されている︑と見ることができる︒こ

の意味で︑生物の性同や器官は科学理論と類似のもの︑それの生物

学的相似物と言えるだろ︑フ︒

︵注︶上で言われたことを蛙の視覚を例にとって具体的に見てみよ︑フ︒蛙に

は動いているハエ︵動いている小黒点︶は見えるけれども︑静止しているハエ︵静止している小黒点︶は見えない︒後者の映像が網膜にいくら映っても︑中枢神経系は作動しないよ︑フになっているからである︒生きた昆虫類を餌にしている蛙にとって︑動かないものは生きていないもの︑つまり餌にはならないものを意味しているので︑こうした不要なものに中枢神経系は作動しないようになっているのである︒このように︑環境世界をありのままに捉えるのではなく︑自分に必要なものだけを選択的に感覚するような特殊な感覚能力を発展させていること︑従って感

ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶ ところで︑生物の適応様式は︑遺伝的に保存されているものであるにしても︑完全に固定されたものではなく︑修正可能なものであり︑生物は︑新たな適応の必要に応じてそれを修正していく柔軟性を備えている︒進化の度合いの進んだものほどそうだと言える︒生物が新しい適応様式を試行的解答の形で提示するように迫られるのは︑㈲生物とは無関係に環境自体が変化して問題化したことによるか︑口例えば以前の適応様式が一応成功だったために︑個体が繁殖し過ぎて食料が不足し︑共倒れの可能性が生じた場合のように︑生物が生み出した適応様式によって環境が変化し︑解決すべき新しい問題が生じたことによるか︑日一般に生物にとって環境というもの 覚された世界は︑環境世界の実際の有様よりもずっと貧弱でしかも特定の方向付けがなされていることは︑なにも蛙の視覚に限ったことではなく︑人間を含むすべての生物の感覚器官に認められることである︒感覚器官がこうしたものだとすれば︑﹁これこれのものだけが自分にとって有意義なので︑これだけを識別する方が自分の生存に効率的で有利なはずである﹂という期待とか判断とか理論とかに類似したものが︑遺伝的にそこに内蔵されていると言えるだろうし︑こうした器官の発達は︑環境に自分を︑うまく適応させようとする問題解決の努力が今までに挙げ得た成果であると解釈できる︒なお︑感覚器官には一種の理論が内蔵されていて︑それが感覚するように指示したものしか感覚されないという事実は︑観察には常に理論が先行するとい︑飢不パーの主張②の日参照﹀の生物学的ないし生理学的根拠と言えるだろう︒なぜなら︑観察対象が理論によって意識的に選択解釈されるのに先立って︑感覚器官に内蔵された理論による観察︵感覚︶対象の無意識的選択解釈が既に行われているからである︒観察には︑こういう根源的な意味においても︑理論が先行しているのである︒

一一一一

(14)

は︑それが変らない場合でも︑それへのよりよき適応を問題として

投げ掛けているものであることによるか︑のいずれかである︒いず

れの場合も︑今までの適応様式が適切であるとの期待・理論が予期

に反した場合だと言える錘ともかくこうした形で問題を投げ掛け

られた生物は︑変異つまり新しい反応・行動様式︑新しい形態・器

官やその機能などを解答として試行的に︑しかも一つだけではなく

数多くを競合的に提示する︒そしてこれらの解答は︑環境内でのよ

りよき生存︑問題解決に適しているかどうかによってテストされ︑

不適当なものは誤りとして排除される︒これは㈲いわゆる自然淘汰

l不適当な解答をした生物そのものを死滅させることlによっ

てか︑あるいは口不適当だと分かったものをそのまま放置して自然

淘汰される前に生物が自ら修正したり抑制したりすることによっ

て行われる︒生物は自然淘汰によらずにこうした修正や抑制を自ら

行う制御機能︵誤り排除機能︶を持っており︑これは前述の遺伝的

適応様式の柔軟な修正可能性︵新たな試行的解答提示機能︶と同じ

様に︑進化の過程の所産であり︑環境内での適応経験によるテスト

から学ぶ形で増大していくものである︒そしてポパーによれば︑誤

り排除機能と解答提示機能は密接に関連する︒なぜなら︑意識的な

ものとは限らない生物の解答提示は︑偶然的またはランダムなもの

であらざるをえないが︑しかし︑誤り排除機能を持つようになった

ものにおいては︑ある試行が次の試行に影響することによって︑試

行が完全に偶然的あるいはランダムなものとは限らなくなるからで

ある︒詳しく言えば︑失敗して自ら修正・抑制した以前の試行の再

現やそれに類したものの出現を爾後は排除するか︑あるいは少なく ポパーの批判的合理主義的科学論口︵関雅美︶

とも現れる頻度を減少させるかするような機能が︵経験から学ぶ形

で︶身に付いていくからである︒ポパーのこうした指摘は︑㈲で触

れた改善提案と密接に関連する彼の進化論解釈の重要な論点であ

る︒ともかくこ︑フして試行的に提示されたものの中でテストに耐え

て排除を免れたものが︑免れ続けていくことの中で次第に固定した

ものになっていくのである︒

進化の過程が以上のよ﹃フなものだとすれば︑それは科学の進歩の

過程と同じ様にも﹄←弓弓←同国←も画の四段階の図式で表すことがで

きる︒両者はいずれも推測と反駁の方法に基づく問題解決理論の漸

進的な成長過程である︒両者の本質は同じであり︑違うのは︑進化

における推測と反駁を︑科学は言語︵言語も進化の過程で生み出さ

れた問題解決方法の一つである︶を用いて自覚的積極的に︑そして︑

誤った推測をした人間自身を死滅させずに︑ただ仮説だけを淘汰し

死滅させる形でやっている点だけである︒科学論の進歩も︑つまり

は仮説の生存適性を巡る競争と淘汰の結果にほかならない︒だから︑

ポパーの好みの比嚥を借りて言えば︑﹁アメーバからアインシュタ

︵四︶

インに至るまで︑知識の成長は常に同じ﹂仕方によるのであり︑前

︵聰︶

者から後者へまでは﹁ほんの一歩の歩みにすぎない﹂︒アメーバの

営みが意識的なものだと仮定する必要はないけれども︑客観的に見

て︑両者はともに問題を解決しようとし︑誤り排除の過程で暫定的

解決の中から適切なものを学び取ろうとしているのだと言える︒両

者の違いは︑アメーバが自分の問題解決方法の誤りを認めるのを

嫌って︑自然淘汰にさらされがちなのに対して︑アインシュタイン

は誤りをいとわず︑その発見を意識的積極的に行うこと︑要するに︑

参照

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