朝鮮民主主義人民共和国における
新しい価値論の展開
井 上
目次
はじめに
一経済学の基本任務 ニ財貨とは何か 三 財 貨 の 価 値 四価値の大きさ
五マルクス価値論の問題黒
六価値問題に対する自主的立場と創造的立場
七労働価値説と需要供給説
八社会的必要労働(時間)と生産価格
九共産主義社会と価値法則
おわりに
朝鮮民主主義人民共和国における新しい価値論の展開
一 周 一 一 一 一
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立教
経済
学研
究第
四一
巻三
号ハ
一九
八八
年)
‑戸
四
は じ め に
わたくしは一九八七年八月中旬から約一カ月間訪朝し︑DPRKハ朝鮮民主主義人民共和国)の経済学︑主として価値
論はついての勉強を行なってきたfDPRKは︑マルクス・レlニン主義を朝鮮の現実に創造的に適用するなかか
ら︑テュチエ(主体)思想を創始したが︑この思想はマルクス・レlニン主義を継承すると同時にそれを独創的に発
展させた哲学である︒このチュチェ思想にもとづいて︑DPRKで新しい経済学が展開されつつあることを知ってわ
たくしは強い関心をもった︒そして朝鮮社会科学者協会の諸先生の御好意により︑今回の訪朝でその一端にふれるこ
とが
でき
た︒
最初はマルクス経済学の学徒としてわたくしはその理論を納得するのに困難を感じた︒しかしやがて︑人間中心の
チュチェ経済学の正しさが主として価値論についてではあるがわかり︑それを受けいれることができるようになっ
どうしてわたくしが当初︑チュチェ経済学を理解し難かったかを考えてみると以下の点が原因であったような気が た
する
︒
マルクス経済学は資本制社会を研究対象とした経済学であるのに対し︑チュチェの経済学は朝鮮民主主義人
民共和国という社会主義社会で創始される経済学なので︑まず共和国がどのような価値観をもっ国であるかについて
の理解が不十分だったということである︒金正白書記は次のように述べている︒
まず
︑
﹁世界のすべての事物は人間に奉仕
する限りにおいて価値をもつものです﹂(﹁テュチェ思想について﹂)
このことと関連して共和国の指導思想がチュチェ思想であり︑それは何よりも人間中心の世界観であるため︑チュ
チェの経済学も人間の自主性と創造性の観点から展開されており︑この点でマルクスの労働価値説の枠内に止まって
いては理解し難いところがある︒価値とは何か︑価格をどう考えるか︑財貨の有用性をどうみるか︑需要供給の法則
をどう位置づけるか︑価値法則をどう理解するか︑などの諸問題をはじめ︑あらゆる諸問題を考える場合に︑当初わ
たくしが戸迷ったのはマルクス経済学への絶対的信頼があったからである︒
わたくしのように共和国を理解するチャンスに恵まれ︑またチュチェ思想についても多くを学ぶことができた人間
であるにも抱わらずそうであったのだから︑共和国の実状やチュチェ思想を知る機会に恵まれない方々の場合には︑
より一層の困難が生じ︑その正しさを認めがたくしてしまうかも知れない︒しかしとにかくわたくしの理解した限り
でのチュチェ経済学のなかの価値論に関する部分を紹介しよう︒
ただその前に断っておかなければならないのは︑朝鮮の研究者は︑まだ自分たちの研究は完成したものではなく︑
試論として学んで頂きたいと︑わたくしに繰り返し語っていたことである︒以下︑問題提起という意味からも︑あく
までもわたくしの理解した限りでのチュチェ経済学の一端をここに述べてみたい︒
経済学の基本任務
科学は人間の運命を開拓する方途をさまざまな側面から解明することを任務とする︒哲学は世界における人聞の地
位と役割を解明し︑人間の運命を切り開くうえで堅持すべき根本原則を明らかにする科学であるが︑経済学は︑経済
生活における人間の地位と役割を解明し︑経済生活における人間の地位と役割を向上させ︑人間の経済的要求を実現
朝鮮民主主義人民共和国における新しい価値論の展開
一 一 五
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年﹀
一一
六
するための効果的な方途を明らかにする科学である︒
経済生活とは︑人聞が物質的富を生産し︑物質的要求をみたしていく過程である︒経済生活の主人は人間であり︑
経済生活を発展させる担当者も人間である︒人間の要求とそれを実現しうる創造的な力を抜きにしては経済生活につ
いては考えられない︒経済生活は孤立的にではなく社会的に行なわれる︒人間の力は社会的に使われて物質的富を創
造し︑人間の物質的要求は社会的にみたされる︒
経済生活を円滑に行なうためには︑人間の要求とそれを実現する力を社会的に統一することが必要である︒そのた
めには社会的需要に即して人間の力が支出され︑その支出された力が公平に評価されなければならないし︑人間のそ
れぞれ異なる要求が合理的にみたされるようにしなければならない︒人間の経済活動には︑人間の要求と力ばかりで
なく︑客観的条件も参加する︒人間の創造的力は客観的対象との関わりのなかで作用する︒人間の創造的力とは客観
的対象を人間の要求にあわせて改造する力であるから︑要求を実現しうる力を検討することは︑とりもなおさず人間
の力を客観的対象との関係から検討するということである︒かくして人間の要求と力を中心に経済生活を捉えるとい
うことは︑人聞の要求と力ばかりでなく︑それに関わる客観的条件までもことごとく包括して捉えるということであ
る︒経済生活の主人も人間であり︑それを発展させる担当者も人間である︒それゆえ経済学はあくまでも人聞を中心
に経済理論を展開し︑人間に奉仕するよう経済生活を運営する方法を与える人間中心の経済学となるべきである︒
財貨とは何か
あらゆる社会の富は︑その社会が生産し消費する財貨の総体である︒財貨とは︑人間の要求をみたすために作られ
た生産物である︒しかし︑経済社会の発展するにつれて︑財貨は商品という特殊な歴史的形態をとるようになった
が︑この傾向は資本主義社会において最も顕著となり︑そこでは一切の財貨が商品という形をとるようになった︒
商品とは︑交換(売買)を通して他人のための使用価値となる財貨である︒
商品だけが富ではない︒販売のために作られたものでない生産物も富である︒また流通過程を離脱して生活的消費
(個人的消費)に入りこんだ消費手段ゃ︑生産的消費の過程に入りこんだ生産手段も︑
商品ではなくなったが富であ
る︒したがってこれらはすべて経済学の対象となる︒
資本主義社会が社会主義社会︑共産主義社会へと移行するにつれて︑富のなかで占める商品の比重は低下し︑ゼロ
に近
づく
︒
さて財貨とは人間によって創造され︑人間に役立つ物である︒ある物質が財貨となるためには人間の要求を充足さ
せることのできる物質的属性︑つまり使用価値︑または有用性を持たなくてはならない︒財貨は客観的に存在し︑し
たがって財貨の使用価値も客観的に存在する︒しかし人聞の要求を離れて財貨は存在しない︒人間の要求が変化し︑
ある財貨に対する要求が無くなれば︑物の物質的層性に変化がなくても︑その物は財貨としての資格を失なうのであ
る
。
物の有用性
( Z {
伊 豆
‑ n v w
o ‑ 3
は︑その物の使用価値(の
$ 3
5 z
d
司
23
であ
る︒
何を有用なものとみるかは︑人間による︒人間の発展水準に応じて︑何を有用なものとみるかは変化する︒
使用価値︑有用性には︑自然物としてのそれと︑人間労働の所産としてのそれがある︒
人間労働の所産としての使用価値はさらに単なる生産物の使用価値と商品の使用価値に分かれる︒
朝鮮
民主
主義
人民
共和
国に
おけ
る新
しい
価値
論の
展開
一一
七
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年)
一一
八
これら三つの使用価値は︑それが人聞の要求を満足させるなら︑いずれも価値物となる︒価値とは︑人聞が物の有
用性(使用価値)に与える評価である︒
人間に奉仕する使用価値が︑人間にとって価値あるものである︒
動物としての人聞にとっては︑その肉体的生命を維持するために役立つ自然物のみが価値あるものであっただろ
うぺやがて動物から転化した人間にとっては︑その創造的活動によって価値ある自然物の範囲は拡大された︒資本主
義社会にあっては人間の何らかの欲望を満足させるものが人間にとって有用性のあるものである︒これは資本主義社
会における個人主義的価値観に照応している︒
人民大衆が真に社会の主人となった社会では︑人民に役立つもの︑人間に有用なものとは︑人間の地位と役割を高
め︑人間の自主性と創造性と意識性を高めるものである︒これは社会的政治的生命を人間の真の生命とみる集団主義
的価値観に照応する︒
いずれにしても財貨は人聞の要求を満足させることのできる物質的属性を客観的に持っと同時に︑主観的に人聞が
要求をみたすことのできるものでなければならない︒人間にとって不必要な物は財貨ではない︒財貨は人間のための
ものであり︑人間にとって貴重なものである︒財貨の使用価値は物質の属性として客観的に存在するのであり︑人間
の主観によってその存在を左右できるものではないが︑しかし︑人聞を離れて財貨を考えることはできない︒たとえ
ば物の物質的属性に変化がなくても︑その物に対する人間の要求がなくなればその物は財貨ではなくなるのである︒
財貨は︑結局は︑人聞の要求を充たすことのできる物質的属性を持つと同時に︑人聞がそれを必要とする物でなけれ
ばならないのである︒
あらゆる自然物は︑そこに人間の創造的労働が投下され︑人聞に役立つように加工されるかぎりでのみ︑富であ
る︒人間の労働を全然ふくまない純然たる白然物を富から除外するのは︑経済学の正統的な考え方であった︒
自然物は︑しかし富とは無関係ではない︒自然物の豊かな国は︑それを富に転化する可能性の大なる国である︒し
たがって自然物は潜在的富である︒
人聞が労働を通じてつくり出した有用な物はいうまでもなく︑自然のままの有用物も︑すべて人間によってその用
途が発見され︑また人聞がそれらを占有し利用できる能力をもっているがゆえに︑人間にとって価値のあるものとな
った︒たとえば木︑石炭︑核エネルギーなどもそれらを人聞が利用する方法を発見することによって価値あるものと
なった︒原始人たちは︑自然に育った木をほとんど利用することができなかったが︑しかしそのご創造的能力が発展
するにつれ︑人聞は木をたきぎとしたり︑家を建てたり︑船をつくったり︑橋をつくるなどして利用するようになり︑
今では︑木から紙や布などもつくるようになったが︑これらは名も知らぬ数多くの人々の活動経験が累積した成果で
ある︒木や各種の鉱物や動力資源はいずれも自然物であることがすぐわかるが︑核エネルギーのようにものは非常に
複雑で難かしい加工工程を通して利用が可能になるので︑単なる自然物とはちがって︑核エネルギーは自然から離れ
た人間の創造物のような印象を与えるが︑もちろん木や核エネルギーなども︑それはいずれも自然物なのであり︑そ
れを実際に利用可能にするのは︑すべて人間であり︑人間の創造的労働を通じてである︒
単なる自然物と財貨との区別は︑人間の創造力が付加されているかどうかにある︒自然物には人聞の創造力は付加
されていないが財貨には人聞の創造力が付加されている︒
財貨はまず人聞の創造力が付加され︑人間によって獲得された物である︒地中に埋蔵されたままの金︑銀︑資源な
朝鮮民主主義人民共和国における新しい価値論の展開
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O
どは財貨とはいえない︒財貨は必ず人聞の創造力によって獲得され︑加工された物であり︑かつ人聞の要求を充たす
物でなければならない︒
自然を改造する人間の創造的活動は︑本質において︑自然を人聞に有利に改造して人間に役立たせるところの人間
の目的意識的活動である︒
財貨の価値
チュチェ哲学は︑他のすべての問題と同様に︑価値の問題についても︑人聞を中心に解明する︒あらゆる財貨は︑
人間にとってのみ価値をもっ︒人聞を離れた財貨︑人聞を抜きにした価値はありえない︒すべての価値あるものは人
聞のためのものであり︑人聞が創造するものである︒人間は価値の主人であり創造者である︒わたしたちは当然︑価
値の主人としての人間の地位と︑価値の創造者としての人聞の役割︑すなわち人聞の自主的な要求と創造的能力に基
づいて︑価値の本質と︑その法則を解明しなければならない︒
(1 )
マルクス経済学における価値とは︑商品の価値である︒しかし哲学的にいえば︑価値はもろもろの社会的貴重性を
表わすカテゴリーである︒だとすれば経済学における価値も︑当然哲学的な価値カテゴリーに基づいて解明されるべ
きで
あろ
う︒
つまり社会的貴重性を表わす価値カテゴリーが︑商品生産の支配する資本主義社会では︑商品の価値と
して表現されるとみるべきなのである︒しかしマルクス経済学者たちは商品の価値と哲学的価値とは別個の概念とみ
ているようである︒
( 1 )
ここで貴重性という用語が使用されているが︑この貴重性とは︑ある財貨のもつ有用性ハ使用価値﹀を人聞が自己の必要
(欲求﹀をみたすのに役立つ価値あるものとし認め︑それを貴重なものとし評価するという意味で使用されているのである︒
だから一粒の米でも人聞はその有用性を貴重なものとして評価するという意味であり︑日本語でいう貴重品という場合に使わ
れて
いる
とこ
ろの
コ両
価な
﹂と
いう
意味
の用
語と
は同
一で
はな
い︒
一般的に︑何を価値あるものとみるかは重要な哲学的問題である︒価値観は世界観の重要な一部分である︒階級社
会での価値観は階級的性格を帯びる︒ブルジョア階級が価値あるものと認めるものが︑労働者階級には何の価値もあ
りえないことがある︒価値は主体の利害関係と関連するため︑階級的利害関係が異なれば価値観も異なる︒
マルクスの価値観は︑価値の実体を抽象的労働とみ︑商品を生産する勤労者の労働のみが価値を創造することがで
きるという見地から労働者階級の利益を擁護している︒この点でマルクスの価値観は労働者階級の階級的立場を反映
している︒そしてマルクスが価値を商品に限定したことは︑種々の価値あるものを商品化し︑あらゆる貴重なものを
商品化するブルジョア社会を研究対象としたからである︒
チュチェの価値観は︑価値の主人を人民大衆であるとみ︑人民大衆の自主的な要求を実現することに役立つあらゆ
るものを︑価値あるものと認める︒搾取階級は自己の階級的制限性のため︑社会の利益と完全に合致する価値観を確
立することができない︒これに対して国家と社会の主人として︑自主的でかつ創造的な生活を営む人民大衆のみが︑
社会発展の利益と完全に合致する価値観を樹立することができる︒われわれは︑資本主義社会を基準として価値観を
確立するのではなく︑人民大衆が完全な主人となる共産主義社会を基準に価値観を確立すべきである︒われわれは︑
価値のカテゴリーを商品生産とだけ結びつけるのではなく︑すべての富に︑ことごとく適用すべきであり︑価値がさ
まざまな社会制度において︑どのような形態に表現されるかを解明すべきである︒人聞が所有するあらゆる物質的及
朝鮮民主主義人民共和国における新しい価値論の展開
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年)
一 一
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び文化的富と︑それぞれ異なる分野における人聞の活動の価値を正しく評価することは︑つねに重要な意義をもっ︒
われわれの任務は︑人間の創造的力量を正しく配置し︑人間の活動を正しく評価するための正確な基準を与える価値
法則を確立することである︒
さて或るものが価値をもとうとすれば︑何よりもまずそのものが人間の要求をみたせるものでなければならない︒
人間の要求を満足させることのできないものは価値をもつことはできない︒しかし人聞が自己の要求をみたす方法は
動物のそれとは根本的に異なる︒動物は客観世界に順応し︑受動的な方法で要求をみたすが︑人聞は客観世界の主人
となって生き発展するために欲望を満たす︒人間の自主的な要求は︑もっぱら客観世界を改造する人聞の創造力によ
って実現される︒人間の最初の最も貴重な富は︑自己の創造力であった︒自らの創造的力を支出して人聞は自己の要
求をみたすことができる富を創造する︒人間の自主的要求をのぞいて富の価値について語れないように︑人間の創造
的力と創造的労働をのぞいて︑富とその価値について語ることはできない︒
人聞は客観的対象に主動的に働きかけて物質的富を創造する︒人聞の労働とその対象との相互作用において︑主動
的なものは人間であり︑被動的なものは労働対象である︒もちろん労働対象は︑物質的宮を創造するうえで無くては
ならない必須の要因である︒しかし物質的富の創造にあたって︑労働対象より決定的役割を果たすのは人聞の創造的
労働
であ
る︒
もちろん人間にも動物的特性があり︑自然環境を動物的にも利用する︒人聞が︑空気や水や日光などを動物と同様
に自然のまま利用するかぎりは︑とくに価値問題はおこらないだろう︒ところが空気や水や日光のようなものも︑動
物のように自然のままで利用するのではなく︑人聞の創造力を加えて利用するなら︑そこには価値の問題が発生す
る︒価値は人間の創造的活動︑労働とその起源をともにしているのである︒この意味で人間の発生とともに価値の問
題は発生したといえよう︒
ところで財貨の使用価値(有用性)は︑具体的側面と抽象的側面から考察できる︒財貨の使用価値は人間の特定の
種類の欲望を充足するものであるが︑同時にそれは︑このような具体的使用価値という側面のほかに︑使用価値一般
としてみることができる︒米と布とはその用途を別にするが︑それらはともに有用であり人間にとって貴重であると
いう共通性をもっ︒このような共通性がまさに価値なのである︒
具体的有用性は具体的労働の産物であり︑抽象的有用性は抽象的労働の産物である︒
マルクスは使用価値を商品の物質的属性とみなし︑それを商品の有用性と同一のものと規定した︒そしてマルクス
は使用価値と価値をまったく異なる範噂とみた︒しかしマルクスが使用価値は価値でないといいながら﹁価値﹂とい
う言葉を﹁使用﹂という言葉につけるのは論理的な矛盾である︒昔︑白馬は馬にあらずと主張して能弁論者といわれ
た人がいる︒彼は白馬という概念が馬一般をあらわす概念ではないことを強調しようとしたのである︒たしかに馬と
いう一般概念は白馬を含むが︑白馬という概念は馬一般をふくまない︒しかし白馬はやはり馬である︒同様に価値一
般と使用価値を区別して使おうとするなら︑価値も使用価値も価値一般に属する価値の一種であることを認めたうえ
で使うべきである︒だがマルクス経済学者たちは価値と使用価値の差異点のみを強調して︑価値としての共通性につ
いて正しい理解をもっていない︒この点は以下で検討するが︑マルクス価値論の一つの限界である︒
使用価値が特定の用途について問題になるのに対し︑価値は有用性一般との関係で問題となる︒
マルクスは︑商品が労働の生産物であるということから︑商品の使用価値をつくる労働を具体的有用労働として把
朝鮮
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人民
共和
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握し︑商品の価値をつくる労働を抽象的人間労働と規定した︒そしてマルクスによれば商品の価値とは商品に対象化
された抽象的人間労働なのである︒
たしかに労働過程を通じて︑商品がつくられるのだから商品には労働が体化されているといってもよい︒しかし商
品に体化された労働が価値であるといえるであろうか︒労働とその結果は同じものではない︒もし原因と結果が同じ
なら︑そこには創造はない︒男女の結合なくして子供はありえないが︑男女の結合そのものが子供ではない︒労働の
所産であっても人間の要求に合わない時は︑それは価値物ではない︒価値とは物質の属性そのものではなく︑物質の
属性に対する人聞の評価である︒
マルクスは︑たとえば米一斗と布一
0
メートルが交換される場合︑この二つの商品の唯一の共通性は︑それらがともに労働の生産物であるとみた︒しかし︑米と布との共通性は労働の生産物ということだけではない︒まず商品は客
観的に存在する物質であり︑売るための物であり︑有用性をもつものであり︑人間によって所有されているものであ
るなどの共通性がある︒問題は︑どの共通性がより本質的な共通性なのかという点にある︒たしかにすべての商品は
労働の生産物である︒しかし労働はあくまでも財貨を生産する手段であり︑それ自体が財貨ではなく︑またそれ自体
が価値ではない︒労働の生産物でなくても使用価値を持つならそれは商品になることができる︒原始林の価値の大き
さは人聞がそのような原木を育てるために投下される労働を尺度として測定することができる︒また空気とか日光の
ようなものは人間に極めて必要なものである︒しかしそれらが極めて有用であり使用価値をもっとはいえ︑それは人
聞の需要に対し無限の供給量をもつため︑それらは価値物とはならないのである︒これに対し有限な土地のような場
合には商品として価値をもつのである︒
財貨の最も本質的な共通性は︑あくまでもそれが人間の要求を充足させる有用性をもっている点にある︒そしてこ
の財貨のもつ有用性が人間には貴重なのであり︑それゆえ価値をもつのである︒このように人聞を中心にして考察す
るなら︑財貨の価値とは︑財貨のもつ社会的有用性に対する人間の評価︑つまり社会的貴重性である︒より厳密にい
えば有用性即ち価値ではなく︑有用性が社会に貴重なものとして評価されるとき︑はじめて有用性は価値をになうよ
うになるのである︒
価値はそれゆえ物それ自体の物質的属性ではなく︑また物に対化された労働でもない︒価値は一定の物質的属性を
持つ物に対する人間の関係を表わすカテゴリーであり︑もっぱら人聞にのみ意味を持つ社会的概念である︒物が価値
をもつのでなく︑人聞が物に対して価値を与えるのである︒
マルクスは商品に対象化され客観化された抽象的人間労働が価値であると規定した︒価値を効用としてみる効用価
値説が主観的価値説とよばれるのに対し︑マルクスの労働価値説が客観的価値説とよばれるのはこのためである︒
ところがマルクスは同時に価値をある特定の社会的関係のもとにおいてのみ成立するものとみている︒すなわち社
会的分業と私的所有という社会関係のもとでは︑生産物は必然的に売買(交換)されて商品になり︑生産物は価値物
になるとみたのである︒マルグスは商品は物ではなく︑物の形で表現された人と人との社会関係である︑
と 規 定 し
しかし価値は人と人との関係ではなく︑あくまでも人と物との関係である︒人と人との関係︑社会関係をぬきにし た ︒
て価値を問題にすることはできないが︑しかし︑だからといって価値を人間関係とみてはならず︑人間と財貨の関係
とみるべきである︒
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マルクスは価値を人と人との関係︑社会的分業と私的所有に基づく関係︑人と人とが商品を生産し︑交換し合う社
会関係と結びつけている︒商品のないところには価値はないというのがマルグスの見解である︒
しかし共産主義社会においても財貨は商品の形態はとらなくとも存在し︑個別的に異なる各種の使用価値をもっ財
貨を︑どれだけ生産し︑どの財貨がいろいろの財貨のなかでとくに大切かなどの価値判断も引き続き必要であろう︒
このため価値のカテゴリーを商品生産にのみ結びつけるのはあやまりである︒
マルクスは商品に対象化された労働そのものを価値とみた︒しかし商品に対象化された抽象的人間労働それ自体が
価値なのではなく︑人々に有益な物を創造する手段としてのみ労働は価値をもつのである︒価値は客観的なものでは
なく︑したがって商品に対象化された抽象的人間労働そのものが価値ではない︒あらゆるものの価値は︑人聞を主人
としてそれが人聞にどれほどの利益を与えるかによって評価されるべきである︒すなわち価値とは物の有用性にもと
づく人間にとっての貴重性をあらわすカテゴリーである︒価値は人聞の一定の欲求を充足することのできる性質をも
つ物(客観的対象)と︑それを求める木間門主体)の存在を前提としてのみ成立しうる範噂である︒このように価値は
主体と客体の統一によってのみ成立する︒
価値は人間の要求(需要)を離れては考えられない︒人間の要求を充たすことのできる物︑あるいは活動だけが価
値をもっ︒人聞が欲しない物や活動は価値をもたない︒人間の要求が変化すれば物の価値も変る︒価値は主体である
人間の要求に依存する︒この意味で価値は主体的である︒
価値は主体的であるといっても︑決して人間の非現実的な念願とか想像などのような純粋に主観的なものではな
ぃ︒人聞の欲望は人間の意識を通して表現されるという点では主観的ではあるが︑人間という発達した物質の属性で
あるという点では客観的である︒
価植は人間の要求を離れて考えられないと同時に︑それを充たす物質的属性をもっ客観的対象を抜きにしては考え
られない︒あらゆる価値あるものは客観的に存在する︒この意味では価値は客観的であるといえる︒
しかし価値は主体的であると同時に客観的でなければ成立しない︒人間の要求自体は価値をもたず︑人間の要求を
はなれた物自体も価値をもたない︒人間の要求とそれを満たす物の属性が一致する時︑人聞はその物に対して価値を
認めるのである︒それゆえ人間だけが価値の主体になることができるのである︒
人聞が欲しない物が価値を持てないように︑人間の要求を充足できる物質的属性をもたない物も価値を持てないの
である︒価値はもっぱら人間の要求とそれを充足することのできる物との統一において成立する︒
価値を考える場合︑主体の側面だけをみるなら主観主義的誤まりを犯し︑客観的側面だけをみるなら容観主義的誤
まりを犯すことになる︒
チュチェの価値論は人聞が財貨に対して評価する有用性を価値とみる︒しかしこのことから初期の主観的な効用価
値説と同じ共通性があるかのようにみるのは誤まりである︒効用価値説は主観的にのみ効用を問題にし︑財貨に投じ
られた創造力の支出を無視しているが︑チュチェの価値論は客観的な財貨に投じられた労働を無視するものではな
ぃ︒また効用価値説の効用とチュチェ価値説の効用も︑何を効用とみるかという点でその内容を本質的に異にしてい
ところで価値は客観的に存在する財貨の価値であるという場合でも︑それは価値という物質が客観的に存在すると る
いうことではない︒物質が客観的に存在するように価値が客観的に存在するとみることはできない︒
朝鮮民主主義人民共和国における新しい価値論の展開
一二
七
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年)
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しかし価値は観念的なものではなく現実的である︒価値の現実的存在は︑価値物が客観的に存在していることと︑
その物の価値を認める人聞が客観的に存在しているという事実に基づいている︒
人聞は客観的対象に︑一定の主体的要求をもって対処する︒客観的対象をありのまま認める場合には︑人間と客観
的対象の聞にはどんな関係も発生しない︒人聞は客観的対象に客観的に対処するだけでなく︑一定の欲望をもって主
体的に対処する︒人間は自分の要求に合う対象と合わない対象を区別するし︑自分の要求に合う対象は利用し︑合わ
ない対象は捨て去る︒人間の要求に合う対象は︑人聞が生きてゆくうえで必要であり︑人聞に利益をもたらす︒かく
して入聞は自分の要求に合う対象が︑自分にもたらす利益を評価するのである︒価値は客観的対象が人間の要求に合
ぃ︑それゆえに人間に必要であり︑貴重であるということを表わすカテゴリーである︒すなわち価値は︑人聞の要求
を実現するうえで必要な手段に対する貴重性を表示するカテゴリーである︒
価値は一定の要求を実現しようとする人間と︑その実現に必要な客観的手段の統一に基づいている︒人間は客観世
界を自分の要求に即して改造し︑自分の要求と客観世界を統一させる方法によってのみ生きる︒それゆえ主体と客観
世界との統一は︑主体である人聞が生き発展するうえで根本的な意義をもつものなのである︒
( 2 )
しかし︑これまで主体と客観世界との統一に関する理解は明確ではなかった︒この問題は認識論の問題として提起され︑
世界を認識する人間の意識と客観世界の関係の問題︑主観と客観︑思惟と存在の問題として考察されてきた︒例えばへl
ゲル
は主観と客観の統一における客観の独自性を無視して主観の創造的性格を神秘化した︒これに反しマルクスは主観を客観の反映とみなす見地から主観と客観の統一を唯物論的に論証しようとし︑主観と客観の統一における人間の決定的役割については
それ
をと
くに
強調
する
こと
がな
かっ
た︒
主観と客観の統一は人聞が客観世界を自分の要求に即して改造する過程であり︑主観と客観の統一における人間の主人とし
ての地位とその決定的役割はチュチェ思想の強調するところである︒まさに︑それゆえ客観的なものと主観的なものの一方に
偏る客観主義や主観主義では価値の本質を解明することができない︒客観的なものと主観的なものを統一的に包括するチュチ
ェ的
弁証
法に
依拠
して
こそ
︑価
値の
問題
を正
しく
解明
する
こと
がで
きる
ので
ある
︒
自然のままの有用物も人間にとって価値あるものである︒しかしその価値の評価は︑人間と自然物の需給の関係に
よってさまざまである︒空気や日光などは︑その有用性は極めて大きい︒もしそれが需給の関係で有限ならその価値
(人間の評価)も大であろう︒しかし空気や日光は相対的に無限である︒したがって有用性は極大であっても供給も極
大なのでその価値の大きさはゼロである︒
これに対し︑或る特定の土地︑例えば︑日本の新宿駅前の土地の価格は日本一であるが︑それはその特定の土地は
そこだけにしかなく︑有限であり︑その土地を使用するなら︑商屈としても極めて有利であり︑したがって人々はそ
の土地の有用性を認めて︑多大の支出をしようとするからである︒この人が評価して支出しようとする価値額がその
土地の価値の大きさである︒価値とはあくまでもある対象に対する人間の評価であり︑価値の主人はあくまでも人間
だからである︒
ある科学者が社会に貢献する発明を長期間の努力のもとに完成したものとする︒社会はこれを価値あるものとして
高く評価するであろう︒社会は彼に勲賞を与えてその名誉を讃え︑彼の研究条件や生活環境がよりよくなるように配
慮するであろう︒このような社会の彼に対する報償が彼の受取る価値の大きさである︒このようにある種の価値の評
価には︑物質的評価に止まらず精神的評価もある︒
金正白書記は次のように述べている︒﹁集団主義は︑集団のためにより多くの仕事をし︑より多く貢献した人間に
朝鮮民主主義人民共和国における新しい価値論の展開
} 一 一 九
立教経済学研究第四一巻三号︹一九八八年﹀
。
たいしては︑さらに多くの分け前が与えられるようにし︑さらに高い社会的評価を与えることを要求します︒社会主
義社会においては︑集団の利益と個人の利益が根本的に統一されています︒こういった点で社会主義分配原則は︑集
団主義的原則と矛盾しません﹂(一九八六年七月一五日論文)
政治︑文化︑教育︑思想理論などの各分野での優れた業績の評価︑その価値の大きさは財貨の価値の評価と価値の
評価という点では本質上変るものではない︒だが全く同じでもない︒財貨の価値評価は人々の経済生活合理化のため
の基本的条件であり︑したがって財貨の価値の大きさは
E
当に評価されなければならない︒しかし︑さきの諸分野の業績は直接︑経済生活に結びつくものではなく︑社会的政治的生命体が政治︑文化︑教育︑思想︑理論の側面から評
価し︑社会の自主性と創造性︑意識性への貢献度を護え︑その価値を認める評価である︒それらは間接的には経済生
活へも影響を与えるものではあるが︑経済的財貨に対する評価より︑さらに幅広い評価を受けるものである︒その価
値の大きさは︑したがって社会的必要労働時間によってのみは評価されないのは当然であろう︒すなわち経済的な価
値評価を含みながらも︑はるかにそれを超えるものである︒
四
価値の大きさ
労働は︑価値そのものではなく︑価値物をつくる手段である︒
労働は︑しかし︑価値の大きさを測定する普遍的︑一般的な尺度である︒価値の大きさを測る尺度としての労働
を︑価値そのものとみてはならない︒
価値とは何かという問題と価値の大きさをどのように測るべきかという問題とは区別されなければならない︒
何が価値かを決定するのは人間である︒人間のみが或る財貨が有用か無用か︑価値があるかないかを決定する︒い
くら労働が大量に投下されたものであっても︑人聞の需要を充たせず︑人間に役立たないものは︑価値をもたない︒
では価値の大きさはどのようにして測ることができるのか︒それはまず財貨のもつ有用性一般の大きさを比較する
﹂とによっても測られる︒
大きな欲求を満足させることのできる有用性は価値が大きく︑小さな欲求を満足させる有用性は価値が小さい︒例
えば
鉛筆
一
OO
本は鉛筆一本の百倍の欲求を満足させることができるので一OO
本の鉛筆は一本の鉛筆の一OO
倍の
価値
をも
っ︒
また人聞の欲望と関連して財貨の価値の大きさを測定することも可能である︒
人間の欲望は主体的なものであるが︑しかし人間の欲望は客観的に表現され︑その大きさを客観的に測ることがで
きる︒例えば食欲は肉体的生命を維持しようとする人間の生理的欲求(物質的属性)を表わす︒そして食欲の大きさは
それを満たす食料品の量をもって計ることができる︒一
0
日間の食料は一0
日間の人間の食欲の大きさを量的に表現しているQ
それ
ゆえ
一
O
日分の食料は一日の食料の一O
倍の価値をもっ︒しかし使用価値が異なる場合はどうか︒鉛筆と鉛筆︑食料と食料などの同一使用価値の場合は︑使用価値︑有用性
の大小を直接比較することができるが︑鉛筆とパンなどの場合はどうか︒この場合の価値の大きさを測る尺度は︑社
会的必要労働時間である︒なぜなら︑労働は人間の欲求をみたすあらゆる種類の有用物をつくる普遍的手段だからで
ある
したがって同一生産部門の財貨を含めてあらゆる種類の財貨の価値の大きさを測る尺度は労働である︒ ︒
朝鮮
民主
主義
人民
共和
国に
おけ
る新
しい
価値
論の
展開
一 一
一
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年)
一 一 一
一
一般に人聞は自己の需要をみたす目的のために労働し︑労働の結果として財貨をつくり需要を充たすのであり︑需
要労働財貨は密接に結びついている︒
一般に大きな労働が投下された財貨であればあるほど大きな有用性(価値)をもっ︒
労働価値説は︑価値の創造において人間労働が決定的役割を果しているという事実に基礎づけられている︒労働が
価値を創造するということは︑結局︑労働が投下される度合に応じて価値が創造されるということである︒
一時
間の
労働で一個の物をつくる人が二時間では二個つくる︒労働の量が二倍になれば︑労働の結果も二倍になり︑つくられ
た価値も二倍になる︒社会を一つの主体としてみるなら︑その社会で生産された物の価値は︑その社会がそれらの生
産物を生産するのに必要とした総労働量と正比例する︒つまり物の価値の大きさは︑その生産に投下された社会的労
働の大きさに王比例するのである︒
労働は︑人間の要求とそれをみたす富(財貨)を媒介する環である︒人聞は労働によって富(財貨)を創造する︒
人間の要求とそれをみたす属性をもっ客観的対象(財貨)の統一は労働によってなされる︒人間の要求l労働l財貨
は不可分の統一をなしている︒人間の要求を実現するために労働が支出されるという点から見れば︑人間の要求は労
働と照応している︒大きな労働が支出されたことは大きな要求があったことである︒他方労働が財貨を創造する点か
らみれば︑労働は財貨と照応する︒労働が沢山投下されたということは︑それだけ多く財貨が生産されたということ
であ
る︒
人間の要求労働財貨の関係が統一されていることから︑人聞の要求の大きさも財貨の価笹の大きさも労働をも
って測ることができるのである︒人間の要求とそれを実現する手段の関係からみるとき︑労働は人間の要求を実現す
る一般的手段となる︒労働は︑それ自体で要求をみたすこともできるし︑また人聞が要求するさまざまな富をつくる
ことによって要求をみたすこともできる︒それゆえ労働力は万能の使用価値をもっ富であり︑労働は人聞の要求を実
現する普遍的・一般的手段である︒労働はまさにこのような特性をもっゆえに︑あらゆる財貨の価値を測る尺度とし
て最適なのである︒
労働は労働の結果としての財貨と不可分の関係を持っと同時に︑労働の目的である需要とも不可分の関係にある︒
社会がある財貨の生産により大きな労働を支出したということは︑その財貨に対する需要がそれほど大きいことを意
味する︒この意味で労働は需要の大きさを測る尺度ともいえる︒
社会的需要に応じて必要な社会的労働が支出され︑社会的労働が支出された度合に応じて社会的富がつくられるな
らぱ︑個々の生産物の価値の大きさは︑一般的にその製品の生産に社会的に必要な労働がどれほど支出されたかによ
って決定される︒すなわち各種の使用価値をもっ製品の生産に支出された社会的必要労働時聞が価値の大きさを規定
するのである︒
労働は価値の大きさを測る尺度として重要な意義をもつものではあるが︑しかし価値を形成する要因としては︑労
働のもつ意義は人間の要求に従属する︒すなわち労働は価値を形成する唯一の要因ではない︒労働は人間の要求に即
して投下された時にのみ価値を創造できる︒いかに大きな労働が投下されても︑それが人間の要求に合わない時は︑
価値を創造できない︒創造的立場が自主的立場を前提としてのみ成立することができるように︑労働を価値創造の要
因とみる見解は︑人聞の要求を価値成立の要因とみる見解を前提にしてのみ成立しうるのである︒
朝鮮民主主義人民共和国における新しい価値論の展開
一 一
一 一 一
一
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年)
四
五
マルクス価値論の問題点
マルクスの価値論における最大の問題点は︑価値の本質を誤まって規定し︑また価値の本質の規定(価値の質の規
定)と価値の大きさの規定(価値の量の規定)との関係を明確にし得なかったことである︒
マルクスが価値の大きさは社会的必要労働の大きさによって決定されると規定したことは正しい︒社会を一つの主
体としてみた場合は︑社会全体の要求(総需要)は社会の総労働によってみたされる︒したがってどれだけの大きな
社会の総労働(社会的必要労働)が支出されたかによって︑どれだけの社会の要求(総需要)がみたされたかを測るこ
とが
でき
る︒
ところがマルクスは︑価値とは何であるかを解明する点では誤っていた︒彼は商品の価値を商品に体化︑対象化さ
れた抽象的人間労働であると規定した︒彼は具体的労働は使用価値をつくり︑抽象的労働は価値をつくるとして︑拍
象的労働を価値の実体であるとみた︒たしかに商品は労働の生産物である︒しかし労働はあくまでも商品を生産する
手段である︒手段としての労働が原因となって︑結果としての商品が生産されるのである︒原因と結果︑手段と目的
は同じものではない︒商品生産の手段である労働が︑実体として商品に凝結しているとか︑ましてやそれが価値であ
るなどとはいえない︒労働それ自体は商品の属性ではない︒商品を生産する手段である︒また労働という物質も存在
しない︒価値は物質の有用性︿属性)に対する評価であるから︑労働そのものが価値でないのは明白である︒
マルクスは商品に対象化された労働が価値であり︑その価値の大きさは労働の量によってきまるとしているが︑し
かしマルクス自身が対象化された労働の量によって価値の大きさがきまるのではなく︑その商品を生産したとき大き
な労働が支出されていても︑現在その商品を再生産するのに僅かな労働の支出ですむなら︑その僅かな労働量が︑そ
の商品の価値の大ききである︑としている︒つまり商品の価値の大きさはその商品の生産に支出された労働量によっ
てきまるのではなく︑その商品の現時点における再生産に必要な労働量によってきまるとしているのである︒このこ
とはそもそも︑商品に対象化された労働とは商品を生産する手段であり︑手段とその目的である商品そのものは直接
同一視できないことを意味している︒したがって商品を生産する手段そのもの(労働)が価値ではなく︑価値は商品
そのものの本質と結びつくものでなければならない︒
マルクスは︑商品の価値が商品に対象化された抽象的労働であることを論証するために︑使用価値が異なる二つの
商品が一定の量的比率で交換されるのは︑それらの聞に共通性があるからであり︑その共通性が二つの商品に投下さ
れた抽象的労働だけであると述べている︒このマルクスの説明方法は商品の本質的特徴を比較していない誤まった形
式論理的手法である︒
交換される二つの商品を比較する場合︑商品の本質︑基本的属性を比較すべきである︒つまり商品の使用価値およ
び価値を比較すべきである︒しかしマルクスの場合は価値とは何かを論証するために二つの商品を比較しているので
あるから︑共通性としての価値はまだ確認されないものとしよう︒そうすると残るのは使用価値だけである︒
しかし具体的使用価値が異なるから交換がなされるのであるから︑具体的使用価値は二つの商品の共通性ではない
とマルクスはいう︒しかしこのことは使用価値一般が二つの商品の共通性であることを否定するものではない︒労働
の二重性︑すなわち具体的有用労働と抽象的人間労働を認めるのと同様に︑具体的使用価値と使用価値一般(抽象的
使用価値)を認めることができる︒そしてまさにこの使用価値一般︑生産物の有用性一般を人聞が自己の要求を満足
朝鮮
民主
主義
人民
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論の
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一三
五
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年)
一一
二六
させるものとして評価したとき︑その生産物は価値物となり商品となるのである︒したがって二つの商品の本質的共
適性は︑二つの商品が人聞の要求をみたすことのできる有用性をもち︑かっその有用性を人聞が自己に必要なものと
して評価している││双方の商品所有者が評価しているからこそ交換がなされる││・ということであり︑一一つの商品
がともに価値物だということである︒かくして交換される商品の本質的共通性はまさに価値だということができるの
であ
る︒
では人間の認めた有用性一般の大きさ︑つまり価値の大きさはどのようにして測られるのか︒
それは人聞の要求をみたしうる有用性の大きさで測られるのである︒しかし有用性の大きさは同一種類の生産物の
場合は簡単に比較し計量することができるが︑異種生産物の場合は困難である︒それゆえ異なった要求を満足させる
異なった生産物の価値の大きさを規定する尺度は︑多様な生産物を生産する共通の手段でなければならない︒その多
様な生産物を生産する共通の手段こそが労働である︒それゆえ労働を基準にして価値の大きさを測定するのである︒
労働を共通的手段とすれば次の関係が成立する︒すなわち人聞の欲望の大きさl労働の大きさ│労働の結果である
有用性の大きさ(物の価値の大きさ)は照応するという関係である︒
マルクスは抽象的労働を価値自体と同一視したことから使用価値はあっても労働が投下されなかったものは価値を
もた
やす
︑価
格だ
けを
もっ
とみ
た︒
抽象的労働が価値であり︑価格は価値を貨弊で表現したものであるというマルクスの規定か︑りするならば︑価格と
は︑結局︑商品に投下された社会的必要労働を貨弊で表現したものである︒ところが価値のない価格とは︑
一体
何を
貨幣で表現したものであろうか︒ある原始林と︑人聞が労働を投下して造った山林が同一の価格で売買されるなら
ば︑このことは︑労働の所産であれ︑労働の所産でないものであれ︑それらが同じように木材として同一の使用価値
をもち︑木材に対する人間の要求をみたすうえで同一の役割を果たすからだということは︑常識としてもあきらかで
ある
労働の産物であるかないかに関わらず︑人閣の要求を充足しうる物は︑すべて価値をもち︑また労働の産物である ︒
かないかに関わらず︑一般に財貨の価値は労働を尺度として測ることができる︒
人聞は主に二つの道を通して財貨の有用性を認識するようになる︒一つは財貨が自己の要求をみたす時であり︑も
う一つは財貨をつくるために自分の力を支出する時である︒飢えを経験した者は米の貴さを十分に理解でき︑孤独な
生活をした人は友人の貴さを知ることができる︒また汗水流して農事にたずさわった人でこそ穀物の貴さを身にしみ
て判り︑きびしい闘争の道を歩んだ革命家であってこそ︑革命の獲得物がどれほど貴いものか良くわかるものである︒
人聞が財貨の貴重性を感じるようになるこの二つの場合のなかで︑より根本的なものは︑財貨が人間の要求をみた
すことである︒いかに苦労して造ったものでも︑それが人間の要求をみたすことができなければ︑なんの貴重性もも
つことはできない︒だが一般には︑元手を大きく費した物であればあるほど人間の要求をより大きくみたすことがで
きるため︑労働を尺度として貴重性を測定できる︒労働の産物でない自然物の場合も︑労働の産物である同種の富と
対比してその貴重性を認めることができる︒ある使用対象物の価値は︑それが人聞の要求を充足しうる属性をもつか
もたないかを基準にして決定され︑労働は使用対象物の価値の大きさの尺度として︑労働の産物であるかないかに関
わらずあらゆる使用対象に適用されるものである︒
マルクス主義経済学は︑価値を商品とだけ結びつく歴史的カテゴリーとみた︒もちろん資本主義社会にあっては︑
朝鮮民主主義人民共和国における新しい価値論の展開
一三
七
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年)
/¥
すべての財貨が商品の形態で存在するため︑物の社会的貴重性にたいする評価が交換を通してのみなされ︑かくして
物の価値が一般的に交換価値として表現されるということができる︒しかし価値のカテゴリーを商品生産とだけ結び
つけるのは誤まりである︒将来︑商品のない共産主義社会にあっても︑貴重な財貨はますます増大するであろうし︑
財貨の大きさを比較検討することも引き続き必要であろう︒今でもわれわれは商品でない数多い価値ある貴重な財貨
をもっている︒共産主義社会に到達したとしても︑決して価値ある物と価値の無い物を区別する必要が消滅したり︑
物と行動ににたいする価値を論じる必要がなくなることはない︒人聞が自主的な要求を実現するために創造的活動を
続ける限り︑価値のカテゴリーは永遠に残るであろう︒価値を商品とだけ結びつけることは︑健全な常識に反するも
のであり︑もろもろの財貨をもっぱら商品の見地からのみ考察しようとするものである︒
マルクスは︑価値だけでなく︑価値の実体である抽象的労働も︑ただ商品と関連する歴史的カテゴリーとみた︒
労働に具体的な面と共通的な面(抽象的な面)があることは事実である︒しかし︑すべての労働に共通することはそ
れだけではない︒人聞の労働力が支出される︑ということのほかに︑一定の目的をもって労働がなされるということ
(白的意識的な活動だということて労働には必ず主体的な労働力の支出だけでなく客観的な諸条件が参加しているとい
うことなども共通的なことである︒
われわれに重要なことは︑価値創造の手段としての労働の特性を明らかにすることである︒われわれは労働過程で
人聞が支出する元手の大きさと︑その結果が人間にもたらす有用性の大きさが相応じ合うことを解明し︑労働が価値
の大きさを測ることのできる根拠を解明すべきである︒そのためには人聞を中心に労働を考察しなければならない︒
人聞は労働運程で労働するにあたっては︑どれだけの労働︑どれだけの強度と熟練度の労働を支出しなければならな
いかを考え︑また労働の結果をうけ取る際には︑それが果して人間の要求をみたしうる属性をもっているかどうかを
問題にする︒つまり︑労働における支出と収入︑手段と結果を考えるのであって︑これがまさに労働過程を自然と人
聞との物質代謝の過程とみることなのである︒
自然との関係でみるとき︑労働は人聞が自分の要求に即して自然を改造する創造的活動である︒労働過程で人間は 自然と物質代謝をする︒人聞は︑自らが支出した生活力よりも一層大きな生活力を自然から得て︑有力な存在へと発
展してきた︒元来︑生命有機体は自らの有機体の一部分を破壊(異化作用)して得たエネルギーによって︑環境から自
己に必要なものを摂取(同化作用)することにより環境と物質代謝を行なうのである︒このような労働の性格は単に商
品を生産する労働に固有のものではない︒
マルクスは使用価値と価値︑具体的労働と抽象的労働のうち︑価値と抽象的労働は商品生産と運命をともにするも
のとみた︒しかし労働が存在する限り︑労働の具体性と抽象性は引き続き存在するだろう︒そして財貨の有用性も具 体的な面をもつであろう︒また使用価値を具体的有用性︑価値を有用性一般としてみるならば︑そのような区分は商
品にだけ当てはまるのではなく︑あらゆる財貨にことごとく該当するとみなければならない︒
マルクス主義経済学は︑社会主義社会にあっては︑労働力は商品でないため価値を持つことができないとみる︒し
かし社会主義社会においても労働力は価値をもつのであり︑熟練労働者は未熟練労働者にくらべて︑﹁受取り生活費﹂
は大である︒
またマルクス主義経済学者のなかには︑物質的富を生産する労働だけが価値と剰余価値を創造し︑精神労働をする
人々は肉体労働をする人々が創造する財貨をただ消費するだけだという理解を示す人がいる︒マルクスは政治家︑軍
朝鮮民主主義人民共和国における新しい価値論の展開
一三
九
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年)
一 四 O
人︑学者などが︑どのような価値を創造し︑どんな分配を受けるべきかを問題として解明してはいない︒マルクスの
力点は資本家が労働者をどのように搾取しているかの解明に置かれていたのである︒
人聞は価値評価の主人であると同時に価値の創造者である︒労働手段を創造する肉体労働が価値を創造するのと同
様に︑人聞の創造能力を育成する精神労働も価値を創造するとみるべきである︒教育と科学︑文化の発展に費す資金
や労力を消費支出とみなし︑物質的富の創造に用いる資金や労力だけを生産的支出とみるのは誤りである︒このよう
な考えは人聞を本位とするのではなく︑人間の物質的生活環境を本位としてみる誤った見解である︒
マルグス価値論の限界の一つは価値のカテゴリーを商品とだけ結びつくものと規定したことである︒
.晶ー
,
、
価値問題に対する自主的立場と創造的立場
世界が無限であるように人聞の要求も無限であるといえよう︒
人間の要求は固定不変なものではなく︑要求を実現できる創造的能力の成長につれて増大する︒発達した人聞は未
発達の人閉まり︑より多様な要求をもっ︒
人間の要求は︑したがって社会的需要は︑決して人間の観念の産物ではない︒それは人間生活の発展とともに形成
された歴史的・社会的産物である︒人間の創造的能力が歴史的に発展したように︑人間の要求も歴史的に発展してき
た︒人聞の要求は人聞の行動方向を規定し︑それを実現する行動へと人聞をかりたてる︒この意味で人聞の要求は人
聞の創造的能力を支配するといえよう︒だが人間の要求は創造的能力によって実現されるのだから︑常に創造的能力
によって制約されている︒しかしこの二つの要因のなかで︑人間の要求が常により能動的役割を果たすのである︒人
間の手足が人間の欲求を規定するのではなく︑人間の欲求が人間の手足を動かすのである︒
人間の要求と利害関係を反映する人聞の目的は︑人聞の自主性のあらわれである︒人聞の目的を観念的なものとみ
るのは︑人聞を観念的な存在とみるのに等しい︒人聞は最も発達した物質であり︑人間の要求と利害関係は人聞の本
質である自主性の発現にほかならない︒人間の欲望は客観的事物の反映ではなく︑人間の本質的特徴の発現なのであ
る
。
勿論人間の欲望や人間の目的それ自体は物質ではない︒しかしそれは物質︑最も高度に発達した人間という物質の
本性から生まれたのであり︑単なる観念とは異なる︒だが人間の目的や欲望を人間の本性から切り離して︑独立した
実体とみるなら︑それは観念論である︒
人間の欲望は︑したがって客観の反映ではなく︑人間生命の本質的発現である︒人間の階級的および民族的利害関
係の判断︑生活的欲求などは︑いずれも人間の運命にかかわる人間自体の強力な内的要因であり︑人間の活動を規定
する根本要因である︒客観的条件も重要であるが︑人聞が客観世界を能動的に改造しようとする主体的要求と活動
が︑より重要である︒
人間の生命が物質的なものと不可分離であると同様に︑人間の本質的欲求も物質的なものと不可分離である︒この
ように自主的立場が人間の要求や目的と関連するのだが︑創造的立場は︑人聞の要求や目的を遂行する手段と方法に
関連
する
︒
人聞を中心に︑つまり人聞の自主的な要求と創造力に基づいて価値問題を解明するということは︑これすなわち︑
価値問題を解決するうえで自主的立場と創造的立場を堅持するということである︒
朝鮮
民主
主義
人民
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価値
論の
展開
四
立教経済学研究第四一巻三号(一九八八年)
四
価値問題を解明する場合に自主的立場を堅持するということは︑人聞を価値の主人の地位に据え︑富の価値を人間
の要求を規準にして評価する原則を守るということである︒
価値は人聞の要求と︑それを満たしうる客観的対象が統一する場合にのみ成立するのであるが︑この二つの要因は
同等な地位にあるのではない︒価値の主人はどこまでも人間であり︑価値は人間とだけ関わるのである︒人間の要求
を客観的対象に合わせて改造するのではなく︑客観的対象を人聞の要求に合わせて改造するのであり︑そうしてこそ
価値が創造されるのである︒物の価値は︑物自体でなく︑その物を使う人聞が規定する︒或る物が価値を持っか持た
ないかということは︑それが人間の要求に合うか合わないかということによって全的に決まるのである︒価値を成立
させるニつの要因である主体的要因と客観的要因のなかで︑主体的要因が上位を占めると認めるところに︑この問題
に関する自主的立場の特徴がある︒
価値問題で創造的立場を堅持することは︑人聞の決定的役割によって価値が創造され︑価値の変化過程も人間の創
造的能力を規準に解明されるというζ
とで
ある
︒
結局︑財貨の価値の本質を規定する問題は︑人間の要求と関係し︑価値の大きさを規定する問題は︑人聞の創造力
と関連するのである︒人間の本質的属性である自主性との関連で価値の質が決定され︑創造性との関連で価値の量が
測定されるのは︑価値があくまでも人間によって人間中心に評価されるものであり︑人間と財貨とめ関係において︑
主体としての人一聞が価値の主人だということにほかならない︒
七
労働価値説と需要供給説
価値の本質︑すなわち価値とは何かという問題とともに︑価値の大きさがどのように変化するかという問題の解明
も重要である︒なぜなら︑物の価値とは人間の需要ハ要求)を充足させる物質的属性に対する社会的評価だからであ
る︒需要は人間の要求であり︑財貨はそれを満足させる手段である︒
要求とそれを実現する手段(財貨﹀の相互関係は︑需要と供給︑生産と消費という関係の基礎である︒需要が要求
を代表するなら財貨の供給は需要を充足させる手段を代表する︒
消費が要求の実現を意味するなら︑生産は消費を実現する手段をつくることである︒
需要は人間の要求を代表するので︑需要の充足過程と同一の特徴をもっ︒すなわち供給(要求を充足させる手段であ
る財貨)の増大につれて︑需要は相対的に低下する︒需要が相対的に減少するということは︑要求をみたす手段に対
する要求が相対的に減少することであり︑したがってそれらの手段を構成する物に対する貴重性が低下することであ
る︒かくして需要が一定の条件のもとでは供給が増大するにつれて財貨の価値は減少する︒
これに反して︑供給が一定の条件のもとで需要が増大すれば︑それに正比例して財貨の価値は上昇する︒
需要が一定の条件のもとで供給が増大すれば︑これに反比例して物の価値は低下し︑反対に供給が一定の条件のも
とで︑需要が増大すれば︑これに正比例して物の価値が増大することは動かし難い一つの法別である︒需要と供給の
法則は︑生産を社会的需要に応じて行なうことを求める社会の根本要求を反映している︒
合理的な場合︑需要│労働l供給は統一し︑需要の大きさl労働の大きさ│供給の大きさは照応する︒このことか
朝鮮
民主
主義
人民
共和
国に
おけ
る新
しい
価値
論の
展開
一四
三