一八五〇年プロイセン憲法の成立を めぐる政治過程(⇒
社会研究室前田光夫
(1969年10月7日受理)
目 次
(一)問題の所在
⇔ プロイセン国民議会の成立
㊧ 「革命の承認」をめぐる闘争(以上前号)
⑳ 保守勢力の結集 a)シュヴァィトニッツ事件
㈹ 欽定憲法理念の成立(以上本号)
(四)保守勢力の結集
ω 1848年の夏には,春に革命勢力によって政治的舞台から退りぞけられた勢力が革命の 生じた全ヨーロッパ諸国で再び強力となった。プロイセンにおいてもその例外ではない。
まず,強力な精神的勢力が保守的国民運動を呼び出すのである。すなわち,国家主義,王 朝への忠誠,福音派並びにカトリックの教会制,大土地所有者の身分感情といった旧プロ
イセンの諸理念が,大衆を保守的に感化しようとして協働するに至る。
1)
まず,反革命運動のひとつとして,L. v.ゲールラバ(L. v. Gerlach)とv・タッデン
(v.Thadden)の指導下にある敬度派による宗教運動があげられる。それは自由主義に よって志向されていた国家と教会の分離を国家の非キリスト教化として,神の恩寵による 権威の廃止と議会制の採用を大衆の支配と神の世界秩序への破壊とみなして,議会急進派
と対立していた。この世界観的運動にまもなく,ビュロー・クメロー(Biilow−CUmmerow)
2)
を中心とする貴族的大土地所有者の経済的運動が結合した。
貴族的大土地所有者は三月革命によって,王制という支柱を喪い,その社会的一経済的 な特権的地位を喪失し,加えて,ハンゼマンの農業政策と租税政策及びますます急進化し て来る国民議会の法律草案により脅かされていたのである。
3)
彼等はそれ故に,「大地主の利益保持及び国民全階級の福祉維持のための協会」(Verein zur
Wahrung der Interessen des Grossgrundbesitzes und zur Aufr㏄hterhaltung des Wohlstandes aller Klassen des.・Volkes)を設立して,民主主義に対する防衛戦線のため
の農民獲得に努力し,ポンメルンとブランデンブルクにおいては,或る程度それに成功し ていた。また3月革命の結果,法的承認を得た集会・結社の自由が保守派に,自己を組織 4)
し,自己の要求をもって世間に登場する機会をあたえた。われわれはその一例として,48 年8月18・19両日にベルリンで開催された「ユンカー議会」(Junkerparlament)をみる。
プロイセン国民議会への選挙に際して敗北した大土地所有者・土地貴族の組織体であるこ の団体は,カムプハウゼン=ハンゼマン内閣の土地税法案とするどく対立し,国民議会に 対しても敵対的であった。
5)
(2)反国民議会運動の基地の一つは宮廷内部にもあった。いわゆる「カマリラ」(Kam−
ari11a)がこれである。3月革命の勝利によって,まず確認されたことは,立憲君主制に おいては,国家意思の形成は国王の恣意から引離され,国民代表に責を負う内閣の協賛を 必要とするということであった。従って,国王が従来自分の気に入った顧問達と共に決定
を下すための機構であった「官房」(Kabinett)は首相によって指導される内閣制度(St−
aatsministerium)によってその意義を喪った。「官房大臣」(Kabinettsminister)と「軍 事官房」(Mititarkabinett)とはここに廃止され,国王の書簡並びに私的問題の処理にあ 6)
たる「文事官房」(Zivilkabinett)のみが存在するにすぎなくなった。
7)
旧官房大臣V.チーレ(von Thile)は,ルイ十六世と彼の二元政治の運命を意識して,
「国王は責任ある官職にいない彼の友人の勧告と召命をうけた大臣の意見を対立させて,
漁夫の利を占めるという考えを放棄すべきだ」との意見を持していた。ヴィルヘルム四世 も,ひとまず,彼の意見に従い,3月末に,憲法問題に関し,彼あてに送付されたすぺて の提案を内閣に回付すぺきことを定めた。しかし,彼は政治問題に関して,内外より疎外 されることを侮辱と感じ,その妹に,「最早や,国王は国土を支配せず,いわゆる責任大 臣なるものが支配している」と書き送っている。彼は,とくに軍統帥問題に関しては,後述 8)
する如く,内閣の介入を拒絶した。そして,とりわけ重要なことは,プロイセンがアルニム 内閣からカムプハウゼン=ハンゼマン内閣への移行の中で,議院内閣制をどろうとする様 相を示していた時に,ヴィルヘルム四世は,チー…一レの勧告に従っていたにも拘わらず,彼 が従来自明のこととして行使していた権利,すなわち,政治問題において,彼の個人的信 任をもつ人物の助言を求めることをやめなかったことである。ヴィルヘルム四世の周囲に 9)
は,3月前期より,「カマリラ」と自称したゲルーラバ兄弟(Leopold und Ernst Ludwig von Gerlach),ラドヴィッツ(工v. Radwitz),シュタール(F. J. Stah1)等が集合して いた。t3月前期に,強力な副政府(Nebenregierung)を形成していたこのグループぼ,
10)
革命後も国王の側近にあって,>Ministξre occulte<を形成し(これが誕生した日はカム プハウゼン内閣成立の翌日である3月30日と云われている),国王の信任ある人物からな 11)
る秘密且つ無責任の内閣として,国民的信任をもった構成員よりなる立憲的責任内閣と並 存することになった。
カマリラの最初の成功は国王をポッダムにとどめ,大臣をベルリーンに置くという国王 と大臣の地域的分離であった。この措置は国王をして責任大臣よりもその私的顧問の影響 を受け入れ易くするのみでなく,文事官房の政治的意義もより強化せしめたのであった。
文事官房の判断はしばしば,責任大臣の文書による報告よりも重きをなしたのであった。
12)
かくの如くして,カマリラは国王の周辺にあって,適当な時期に,内閣及び国民議会に反 撃を行ない,喪失した権力を回復し,旧秩序を再建する準備を整えていたのである。
(3)48年3月以降,軍(=正規軍)は全く苦境に立っていた。元来,軍は解放戦争の国民 的興起の中では民族精神の可視的表現とみなされ,国民は軍の中に自己の最大の具体化を 見ていたのである。しかしながら,プロイセンの国家改革が軍制改革に随行せず,むし ろ,国家と社会が新に対立し,軍が反市民社会的な態度決定を行なうに至った時,軍は権 力獲得を志向する市民勢力の直接の攻撃対象となった。48年3月の軍の屈服は,市民層に は自己の勝利とみなされたのである。軍はいまや,国民議会及び内閣より出されるr連の 13)
自由主義的軍制改革に直面した。改革の主要構想は以下の如くである。
イ)軍の憲法宣誓,すなわち,従来軍において行なわれて来た軍旗宣誓(Fahneneid)
と並んで,憲法が成立した場合には,軍に憲法に対しても宣誓を行なわせる事。君主主義 14)
原理によれば,国王は憲法の外にあってなお,その地位と職務の権威と正当性をもつ。も し,軍が国王のみに忠誠と服従を誓約する軍旗宣誓を行なうにとどまるなら,憲法争議に 際して,軍は国王と共に憲法の外に立っことになる。憲法宣誓の主張者の意図は,軍人の 行なう軍旗宣誓と憲法憲誓のうち,後者に前者に対する優位をあたえ,憲法争議の場合に は,違憲的に行動する国王への軍の服従・忠誠義務を解除し,軍を憲法的勢力として維持 することであった。すなわち,国王=戦帥への宣誓を合憲性の留保の下に行なわしめ,国 王と軍の服従。忠誠関係を絶対的拘束から相対的それに転化させようとしたのであった。
かくの如くして,軍を憲法に無条件に拘束させることにより,軍と国王との分離に成功す れば,軍と国王の伝統的な一体性と不可分性の中に存している国王の権力と権威の前立憲 主義的基礎は喪失をみることになる。軍の憲法宣誓は君主主義原理の妥当を制約するため の不可欠の要素であった。
15)
軍の憲法宣誓は,48年3月22日ヴィルヘルム四世によって約束され,同年5月16日の憲 法草案(いわゆる内閣奏上案),同月20日の憲法草案に採用されていた。しかし,軍は憲 16)
法宣誓と軍旗宣誓という忠誠宣誓の二元主義が戦闘集団としての軍にもたらす影響を大い に憂慮し,これに反対していた。
17)
ロ)市民軍(BUrgerwehr)の創出=国民武装。 3月の間に創出され,4月19日の勅令 18)
によって法的承認を得た市民軍は,独占的武装権力としてのプロイセン軍部の地位を侵害 するものであった。8月より議会においてはじまった市民軍法(Biirgerwehrgesetz)の 18)
審議は,国王の勅令によって承認されたこの武装団体に,さらに議会による法律的保障を あたえようとするものである。市民的武装権力の創出は,職業的正規軍より国内秩序維持 の任務を奪うことになった。なお,国民議会においては,国民武装による正規軍の代替論 19)
すら論じられていたことも一言すぺきであろう。
20)
ハ)軍の指揮官の選挙及び兵士の集会・結社・請願の自由。国民議会の憲法委員会はそ の憲法草案において,正規軍の一構成分子である護国軍(Landwehr)においても,下級 指揮官については,指揮官の選挙を承認していた。集会・結社・請願の自由については,
21)
国民議会及び新聞において,その承認が要請されていた。が,軍にとっては,かかる要請 22)
は,「軍の礎石を震動させる」ものにほかならなかった。
23)
二)統帥権独立制の否認は真正な立憲主義の基本要素の一つである。従って,プロイセ ンの立憲化の過程において,統帥権問題はいずれ論議の対象となるはずであった。その契 機となったのは,48年4月のポーゼン州におけるポーランド人の暴動鎮圧に対して,国王 が内閣を経由することなく命令を軍団長に発布したことであった。内閣は国王の統帥権の 親裁を否認し,国防大臣に軍事問題の決定権を掌握させんとしたが,国王はこれに抵抗し 統帥権の親裁を固執した。
24)
ホ)最後に,フランクフルトとの関係で,ドイツ・ライヒ軍組織の問題がある。プロイ セン軍を構成部隊としてこの組織体に接合させるという計画は,軍の伝統を誇るプロイセ ン軍人の承認し得ざるところであった。
25)
(4)以上の如き自由主義的軍制改革に反対する軍人の抵抗グループが,48年初夏より次第 に形成されて来る。その一つとして,「革命のデー一モン」に対して,「アナルヒー」に対
して,「国王と国民を分離させ,後者に国王の利益と国民の利益とは全く別のものと信じ こませる現代の妊策」に対して,軍を保護するために,48年6月に将校団の一グループに 26)
よって創設された「ドイツ軍事新聞」(Deutsche Wehrzeitu ng)があげられる。この新聞 は軍の精神的抵抗を組織化するものであり,「軍は爾今,自己が単に命令による権力であ るのみならず,学問,知性,教養,思想による精神的権力である事をも示さねばならぬ」
27)
というスローガンの下に,あらゆる重大な問題に対して,論説を掲載し,新しい事件をす るどく批判し,短時日のうちに,プロイセンを越える強力な抵抗の精神的中枢になること
に成功した。
28)
他の主要な抵抗グループは国防省内部にあった。「プロイセンのカヴェニャック」と称 29)
された軍務局長v・グリースファイム中佐(von Griesheim)がその指導者であった。
彼は軍務局長であったが,その影響力は国防大臣のしばしばの更迭によって高められ,こ の時期のプロイセンの軍事政策の指導を手中におさめていた。彼が執筆した四部のパンフ
レットは,プロイセン軍部の反革命的立場を示すものとして著名である。
30)
(註)
1) E.Jordan, Die Entstehung der Konservativen Partei und die preussischen Agrarverh−
altnisse von 1848(1914), S.185.
2)H.Wegge, Die Stellung der dffentlichkeit zur oktroyierten Verfassung und dle pre。
ussischen Parteibildung 1848/49(1932), S.18;
E.Jordan, aaOS.1865.
3)H.Wegge, aaOSS.18〜19.
4)H.Wegge, aaOS.19;E. Brandenburg, Reichsgrtidung(1916), Bd,1,S・241
5)E.R,Huber. Deutsche Verfassungsgeschichte(1960)(以下DVGと略)Bd』,S・683 f・;
V.Valentin, Geschichte der deutschen Revolution 1848〜1849(1968)
Bd.皿,S. 233;E. Marcks, Pismarck(1951), S.463f.
6) ここの記述はハルトウング(F.Hartung, Verantwortliche Regierung, Kabinette und Ne−
benregierugen im konstitutionellen Preussen 1848−1948, in:Volk vnd Staat in der deutschen Geschichte(1940), S.232)によったが,シュミット・ビュッケブルクによると事情は異なっている。
すなわち,革命直後,国防大臣V.ライヘル(von Reyher)は,軍事官房は「責任ある省から分 離された官衙として,立憲的国家型態とは一致しない」, 「それ故に,軍事官房は国防省に合併され るべきである」という見解を主張した。彼は即座に軍事官房を国防省内に移転するために必要な措置 着手した。しかし,彼は48年4月26日に職を退りぞいた。一方,大蔵大臣ハンゼマンは軍事官房の建 物を「御料及び山林局」を収容するために使用しようとしたので,ライヘルの後任者であるカニッツ
(v,Kanitz)に5月1日,「軍事官房廃止の権限授与を願わくはすみやかに申請されんこと」を乞う た。カニッツはそこで,v.ノイマン中将(von Neumann)に間合せたところ,中将は5月5日に,
国王の同意の必要性を述べた。大蔵大臣と国防大臣は,従って,国王に上奏したところ,国王は,5 月14日に軍事官房を国防省内に移転することには同意したが,それ以上のことは行なわなかった。す なわち,ヴィルヘルム四世は軍事官房を解散しなかったのである。さらに,彼は出来る限りすみやか に軍事官房を国防省の建物からひき出し,彼のそばに移転させようと考えていたと云われる。
VgL R. Schmidt−BUckeburg, Die Militarkabinett der preussischen Kりnige und deutschen
Kaiser 1787−1918(1933), S.38.
7) F.Hartung, aaOS.231.
8) F,Hartung, aaOS,232,
9) F.Hartung, aaOS.233.
10) E.R. Huber, DVG, Bd. ll,S.482f,
11) F.Hartung, aaOS.233.
12) F.Hartung, aaOSS.233〜234.
13)E.R. Huber, Heer und Staat in der deutschen Geschichte,2Aufl,(1943),(以下Heer und Staatと略)S.170,
14) 3月前期において,軍の憲法宣誓はクールヘッセンにおいてのみ行なわれていた(1831年1月
5日の憲法)。E. R. Huber, Heer und Staat, S.172,
15) Vgl,E. R, Huber, Heer und Staat, SS.173〜174.
16) 3月22日の「立憲主義憲法の採用に関する国王の宣言」においてヴィルヘルム四世は,「朕は 常備軍を新憲法に宣誓させるであろう」と約束した,
5月16日の内閣奏上案。
81条。「両院の議員は次の宣誓を行なわねばならぬ。
私は,国王に忠誠を,憲法に服従をなさんことを誓う 」。
82条。「同一の宣誓は全国家官吏及び軍によって行なわれる」。
5月20日政府草案。
78条。「両院議員,全国家官吏,軍は国王と憲法に忠誠と服従を宣誓しなければならない」。
17) Vg1, R. H6hn, Verfassungskampf und Heereseid(1938), S.343 f.
18) E.R. H uber, DVG, Bd. ll, S.734.
19)R.H6hn, aaOS. 281.市民軍が国内の秩序維持のために使用される武装権力として考えられ,
正規軍が国内任務より除外されたことは,すでに3月29日,ベルリー一ン衛成総督及び警察長官が内閣 の委任によりベルリーンに帰還した新連隊に対し,「公共の秩序の維持は市民軍にのみ委ねられる。
正規軍の可能な援助行為は,最も重大な危機の場合にのみ,且つまた都市官庁または文事官庁の明示 の要求によってのみ生じ得る」という布告を出した事よりも判明する。これはもちろん,「市民のみ が市民を守る」という自由主義の原則によるものであった。
20)議会では,正規軍全体に代る手段として,スイスの民兵制または市町村制(Gemeindeverfas−
sung)に基づく新軍制の建設が提案された。後者は急進派による案で,「かかる建設によってのみ,
意識的にゲマインデと国民より分離して生活する軍隊の克服が可能なのである」という立場より出さ
れた。R. H6hn, aaOS.237;V. Valentin, aaOSS289〜290.
21) 国民議会憲法委員会草案,30条。「護国軍には,中隊長をふくむ段階までの〔指揮官〕選挙権
が属する」。
22) Vg1. H. Pfefferkorn, Der Kampf der Linken um den Einfluss auf die Exekutivgewalt in der Konstituierenden Versammlung fUr Preussen 1848(1926), S.8ff.
23) R.H6hn, aaOS.281.
24) ヴィルヘルム四世が暴動鎮圧について,軍団長にあたえた命令は,内閣の政策執行を妨げ,ま た失敗させるものであったと云われる、
内閣は,「国王は将来もはや軍事問題に関し,個々の司令官と直接に関係せず,すべての通達を権 限ある国防省を経由して出させる」という請願を国王に出した。国王はそれに対し,「朕は朕以上の 何人も,あらゆる憲法上の統治原則を完全に承諾し得る者のいないことを貴下に告げる。朕はしか しながら,同時に,この原則の軍への拡大は如何なる憲法によっても正当化されるものでないことを 宣言する」と述べた。6月4日にも,ヴィルヘルム四世はカムプハウゼンに,「軍事問題における国 王の無制約の権限という原則はプロイセンにあっては維持されねばならぬ。何故なら,軍と国王の 絶対的一体性のないプロイセンなるものは全く考えることの出来ないものであるし,それ故に,この 一体性への侵害は内外におけるプロイセンの死刑判決となろう」と述べている。G・A・Craig, Die preussisch−deutsche Armee 1640−1945(1960), SS. 130〜131.
25)註⑱Φ参照。
26) R.H6hn, aaOSS.282〜283.
27) R.H6hn, aaOS.283
28) R.H6hn, aaOS.283:V. Valentin, aaOS.232.
29) E.R. Huber, DVG, Bd. H, S.733.
30)グリースファイムの四つのパンフレットとは次の如きものである。
(i)「ロシアとの戦争について」(Vber den Krieg m{t Russland)。このパンフレットは四月末に 執筆されたもので,その趣旨は,プロイセンのロシア・ツァー一リズムへの外交的依存と革命フランス からの離反を要求するものであって,アルニム外相の公的なプロイセン外交政策と衝突するものであ
った。
(ii)「ドイツ中央政府とプロイセン軍部」(Die deutsche Centralgewalt und die preussische Armee)。 このパンフレットは7月16日,フランクフルト政府の国防大臣の,「ライヒ摂政は,暫定 的な中央政府の指導権と共に,全ドイツ軍の統師権を掌握したので,全ドイツ諸国の軍隊は,この通 知をうけて,摂政に忠誠を表明するため,8月6日衛戌地において,パレードを行なって,万歳三唱 をしなければならない」という回章に対するプロイセン軍部のレスポンスであった。グリースハイム はこの中で,プロイセン軍がライヒ軍に同化することに強く反対し,フランクフルトの軍事面での統 一政策に対するベルリーンの軍事的分邦主義を明示した。 噛
(iii)「護国軍に約束された部下による上官選挙の有害なる影響について」(Uber den schadlichen Einfluss der ftir d董e Landwehr in Aussicht gestellten Wahlen der Vorgesetzen durch die Un−
tergebenen)。 このパンフレットは9月に出された。そこでは憲法委員会草案において規定された 護国軍の兵士による指揮官選挙への反対論が展開されている。
(iv)「民主主義者に対しては軍人のみが役に立つ」(Gegen Demokraten helfen nur Solqaten!)。
このパンフレットはベルリーンへのウランゲル将軍の進駐直後に執筆された。これはプロイモン軍部 が軍を反市民革命のための道具として考えていることを物語るものである。 E.R. Huber, DVG,
Bd. g, S.654 undS.733;R. H6hn, aaOS,315;G, A. Craig, aaO S, 135,
(五) シュヴァイトニッツ(Sehweidnitz)事件
1) 3月の敗北から態勢を立直して,革命とその結果に対し,自己を防衛しようとする 軍と軍の一層の自由主義化を図る国民議会,なかんずくその左翼勢力との対立は,7月に
シュヴァイトニッツ(シュレジェン州の都市)において生じた市民軍と軍との衝突により 一段と激化した。この事件をめぐる国王と議会の対立は,3月の革命と12月のクーデター の分水嶺であり,欽定憲法成立の主要動因の一つでもあるので,すこしく詳細にその経過 をみたい。
2) まず事件の概略をみよう。シュヴァイトニッツ事件は7月31日に生じた。この事件 については二つの報告がなされている。一つはシュレジェンの軍司令官ブランデンブルク 伯(Graf von Brandenburg)の内閣に対するそれであり,他の一つは議会でのエルス ナー(Elsner)議員のそれである。
ブランデンブルク司令官の報告は8月2日に内閣に到達した。それによれば事件は次の 如くである。
「(シュヴァィトニッツ)市当局は,市民軍が今後,信号によって召集されることになると要塞司 令官に通告するが,それが要塞内では許されぬこととして拒絶される。(要塞)司令官ローラ・ヅゥ
・ローゼィ(Rol!a du Rcsey)は市民の間では信任がない。大部分の市民は彼に対するに軽蔑をも ってしている。同じ様に,動機はないけれど,軍に対する強い嫌悪感が存在している。市長も同じよ うに好意をうけてはいない。
シュヴァィトニッツの市民軍は民主的信念ということで擢んでている」
「(7月31日の)夜9時頃,大衆はローラ・ヅゥ・ローゼィにKatzenmusik(嘲笑の目的で夜窓外 で行なわれる騒々しい音楽のこと。適当な訳語がないので原語のまま挿入しておく),を送るため,
司令官々舎の前に現われた。デモ隊の中には武器を帯びた市民軍兵士が人目を惹いた。市民軍はこの けしからぬ事件を阻止するために何もしなかった。自ら必要な措置をとるようにとの警視(Polizeii−
nspector)への要求も同じく何の効も奏しなかった。市長も,余は無秩序を制止することが出来ぬと いう。その間に,大衆は司令官々舎の前でより威嚇的な態度をとったのである。司令官は従卒を歩兵 23連隊の軽歩兵大隊に属する一中隊を呼びにやらせた。軍は司令官々舎の周囲に壁を背にして配置さ れた。一いまや,やっと鐘声によって市民軍が呼集された。しかし呼集の信号が知らされておらず それ故に警鐘とみなされた。従って,正規軍が兵営から広場に急いだ。v.ゲルスドルフ(von Gers dorf)少佐は一揆と信じ,部下に銃に装填することを命じ,号令によってのみ発砲せよとの明確な命 令を出した。一司令官々舎の状況は,その間に激化した。軍は大衆によって侮辱され,石を投げられ た。一市役所で,誰かが軍に二弾発砲し,うち一弾が兵を傷つけた。彼のそばに立っていた戦友が発 砲し,そして多分,それが一般に発砲への号令とみられたのであろう。およそ102発がうたれ,将校 達は前に立って,射撃を妨げようとした」。(以下略)
1)
この軍側の報告に対し,左翼のエルスナアー議員は本質的にそれとは異なる報告を議会 で行なった。
「(市民軍の)教練のために,市民軍司令官は警急号音(Genera l−marsch)をうたせようとした。
要塞司令官はその懇請を許可したが,実施の直前に許可を撤回した。彼はこの行為によって一般の不 満をひき起し,その不満が夜,Katzenmusikとなったのである。市民軍はこの日激しい教練から宿舎 に帰って来ていた。市民軍司令官は,幾分遅くではあるが暴動について知った。が,その時に即座に 召集を行ない,それから兵士達は市庁に集合した。要塞司令官は最初の群集の集合の時に,裏門から ぬけて,命令を下すために兵営に赴いた。そこで二個中隊が広場に現われた。群集は兵士をみて逃 げ散じ,そして集合している市民軍の兵士達は司令官々舎から離れた集合場所にいた。いまや恥ずべ き悪事がはじまるのである。弾丸の装填をすませた小銃をもつ一個中隊が突撃の歩度で広場に現 われた。何の呼び掛けもなしに,指揮官のために狂というまでに熱狂した狂暴な兵士がたけりたった 猟犬のように,おとなしい市民軍につきすすんで来て,忠実な立憲主義的市民の胸に鉛の弾丸をうち こんだのである。最初の射撃で6人の友が致命傷を負って地にたおれた。殺人鬼スクリベンスキー
(Skribenski)(中隊長)は再び発砲させた。14人が死し,32人が重傷を負った。この企図は準備さ れていた。何故なら市民が逃げようとした時,街路は大砲で遮断され,そこには火縄をもった兵士が
いた。」
2)
このエルスナアーの議会報告に対して,ブランデンブルクは再度筆を取り,次の如き反 駁文を8月11日,内閣に送付している。
「警急号音それ自身に関して,要塞。市民軍両司令官の問に了解が生ずることはあり得ないし,生 じてもいなかった。ただ,意図された型式は拒絶されねばならなかった。一点呼号音(Appellsc−
hlagen)による召集が希望されたのである一。何故なら,警急号音によっては,要塞内で,軍の混 乱が生ずるであろうから。
市民軍の教練は3旧には行なわれなかった。市民軍はその司令官によって即座に召集されたのでは なく,Katzenmusikが始まってから30分たって,市長ベルリーン(Berlin)により召集されたので ある。鐘声は局外者によっても警鐘と解された。
群集は(エルスナァーの報告の如く)軍をみて逃げ散じたのではなく,大狼籍が生じたのである。
いずれにしても軍の意図は,市民軍がみえなかったからと云うのではなく,市役所の後で何もせずに 立っていたのであるから,市民軍に向けられたものではないのである。
(しかし)市民軍の参加は犠牲者のリストからも明らかである。市当局は死者7人,傷者26人と報 告している・これら33人嚥牲者中・7人のみが市民軍嘱すA以下略)・
以上の両報告を比較してみると,細部に亙っては相互に矛盾するところ多く,いずれが 顛を鮪しているのかは不明であるし・それ鹸証することも目下は不能である ホと
にかく,シュヴァイトニツツにおいて軍と市民軍が衝突し,その際,軍の攻撃により市民 軍側に死傷者が生じたことは否定出来ぬ事実である,国民議会は軍によるこの市民および
市民軍への攻撃を単なる偶発事件とはみず,特に議会の急進派は,この事件は軍内部に潜 む反動的反立憲的性格を明示し,時代の立憲主義的傾向から軍全体を防衛しようとする兆 候とみたのである。
3) 国民議会は事件に如何様に反応したであろうか。
議会において事件を取扱ったのは請願委員会(Petitionskommission)であった。委員会 はまず委員長エルスナーをして事件の説明の最後で,内閣に対し,事態についてその知れ るところを出来る限りすみやかに議会に知らせることの要請を行なわせた。次いで委員会 の多数派は,「事件に関係した部隊をば新しい衝突を避けるためにシュヴァイトニツツか ら遠ざけること」を提案した。この提案は,伝統的法によって軍の配置に関しては単独的 5)
に決定すべきものである国王の統帥権に干渉するものであつた。しかしながら,国民議会 6)
の急進派はこの提案を不満とした。
シュレジェン出身の急進左派の代議士シュタイン(Stein)は次の如き要旨の演説と報 告を行なつて政府に衝撃をあたえるのである。
「私は本委員会提案に反対する。それは,私には,この事件に関し完全に充分なものと は思われないからである」。彼は再度,情熱的なやり方でシュヴァイトニッツの状況を議 員に思い浮ばせた後,取られるべき手段について報告した。
「この事件の根源は私にはより深い所に存するように思われる。であるから,その匡正策もこの事 件一つにむけられるべきではなく,より一般的なものとならねばならぬ。私は云う。この事件の根源 はより深いところに存するのだ,と。諸君,諸君は最良の憲法を作成することが出来る。最良の法律 を制定することが出来る。だが,これによって,すなわち,これらの法律のみによっては,(国民の 政府に対する)信頼は強化されるものではない。法律を執行する官吏が重要なのである。 (中略)。
プロイセンにあっては3月18,19日の事件によって……全体制が完全に動揺し,且つ変更した。しか も,われわ21Lは文武の最高行政官職に以前と同じ官吏のいるのをみる。私は云うが,(国民の政府へ の)信頼は,われわれが文武の両府において,新国家の精神,新時代の理念によって深く浸透され,
これら理念が実際においても実現されるべくわれわれと共働する官吏をもつまでは,回復されないで あろう。最近,内務大臣は,最良の効果をもった布告を行政官吏に発布した(7月15日,内相は県知 事に対し,官吏が公的権限を用いて反動的企図をすることは許されないという指令を出した。……引 用者)。私はいまや,それに続いて提案をしたい」。
彼はここで著名なシュタイン提案を行なう。曰く,
「国防大臣は軍への布告の中で,将校団があらゆる反動的運動から遠ざかり,市民とのあらゆる種 類の争議を避けるのみならず,市民への接近並びに結合によって,誠実且つ献身的に立憲主義的法状 態の実現に協力する意図を有する旨の言明をなされたし」。
7)
左派はこの要求にとどまらず,軍への攻勢を一・段と進める。左派は,この個別的事件をー
発端として,軍全体の改革=立憲化を一気に行なおうとする。代議士シュルツ(Schulz>
のシュタイン提案への付加提案はこの左派の意図をよく示すものであった。すなわち,そ れによると,国防大臣は将校団に立憲的法秩序の実現への協力を押しつけるのみならず,
「その事と自己の政治的信念の一致しない将校は軍より退くことを徳義上の義務(Ehr−
enpflicht)とする」と宣言することが要請されるのである。
8)
シュタインの提案は204対161により,シュルツの附加提案は180対179によって可決され た。内閣は要塞司令官を待命処分にし,事件に関係したシュヴァイトニツツの駐屯部隊の
9)
勤務地変更を行なったが,もとより左翼の不満を解消させるものではなかった。
シュタイン・シュルツ提案は反動的将校団を一掃して,憲法宣誓,指揮官選挙,軍人の 請願,結社,集会の自由という自由主義的原理の軍への移行を容易ならしめ,プロイセン 立憲化の最大の障害物である軍を精神的に征服することにより,軍と国民との分離を廃棄 し,立憲主義的国家の実現を促進させようとするものであった。しかし,この提案は自己
10)
貫徹のためには,何よりもまず,克服の対象が国家の頂点に立っているのをみなければな らなかった。国王ヴィルヘルム四世と彼の保持する統帥権がそれである。まさにそれ故に 左翼の一論客(ヤコビ)が述べた様に,6月のヴェーレンヅ提案が「国民主権の理論的承 認」==「革命の原理の承認」の要求をめぐる争議であるとすれば,シュタイン=シュルツ 提案は「国民主権の実際的適用」をめぐる争議という性格を帯びたのである。
11)
4)国民会議によるシ・タイン・シ・・レツ提案の可決は艇潰族将校グルー熾ロ
守団体,有産市民層を激昂させたが,何よりもまず,統帥権を干犯され,戦帥としての名 誉を侵害されたと感じた国王がこの提案に対立した。
国王は内閣に対して,「朕は朕の統帥権に対する如何なる干渉の試みにも耐え得ぬであ ろう。決議は明らかな,朕の統帥権への侵害であるから,朕はこれらの決議が遵守されな いことを主張しなければならない」と論じ,さらに,国民議会にその本来の任務に自己を 限定すべき旨を命じ,かかる試みに対しては,今後,「朕は天なる神の課したもうた義務 を感ずることにより,朕は国王の権利の侵害に対しては,はっきりと,朕が神より受けた 権力をもって立向うであろう」との警告を含む議会への勅書を起草した。
13)
内閣は8月11日,国民議会の議長より正式にシュタイン・=シュルツ提案の可決を通知さ れて,態度表明を迫られる一方,国王のこの強硬な態度に接して著るしく困難な状態に追 14)
いやられた。国王よりも,国民議会の状態をよく知る内閣は,国王の勅書の公表が議会内 部の左翼勢力の増大と急進的諸決議の籏出をもたらすであろうことを恐れて,勅書の公表 を差しとめることを決定し,議会に対しては,より穏和な道をとって,ジュタイン提案に 固執しないように説得せんとした,内閣は,将校団の政治的態度を修正する努力がなされ
ねばならぬとしても,シュタインによって要求された一般的布告によっては,かかる修正 に軽易になるよりも困難になるとみたのである。
15)
従って,9月2日のシュタイン・シュルツ提案への内閣の応答は次の如くである。今,
その重要部分のみを引用しよう。応答書は,まず,国防大臣の軍の立憲化への努力を述べ た後,統けて曰く,
「軍の指揮官達も同様,適宜な布告の発布によって,今後プロイセン国家の基礎を形成し,その実 現を内閣が断々固として擁護することを義務づけられ,且つ決意している立憲的自由の原則を,反動 的意味においてであれ,共和制的意味においてであれ侵害するようなすべての運動に,自らも決然と
して対処すべきであるという現時点における特に重大な義務を知らしめられている。
さらに,国防大臣は,侵害が生ずる様な場合には,啓蒙的に,または叱責をもって,やむを得ない 場合には,厳格な徴罰をもって,これに干渉する。そして,その際,良心と名誉が国防大臣を指導す
るであろう」。
それに対して,国民議会が要求した様な一般的布告の発布は拒絶されねばならない。
「このような一般的布告は,われわれの当然の確信によれば,軍の精神と本質にそぐわないのであ る。それは,将校と兵士が一その各々の立場にあって一上級者の命令を執行すべき場合の拠り所 である信頼に満ちた服従の代りに,軍の紀律と秩序のあらゆる価値を次第に葬り去ってしまうような 不信の精神を据えるのに適しているのである。われわれはそれ故に,軍に対するかかる布告は有害な 結果をもつであろうと信じ,且つすべての閣僚と同じく,国防大臣がその職務行為のために受諾し た重大な個人的責任を考慮して,国民議会によって志向されている目的達成のための手段の選択を,
彼に委ねておくことが必要であるとみるのである。(以下略)」
16)
約四週間の遅延の後に,議会にあたえられた内閣の応答は,軍の精神全体の改革につい ては述べることなく,個々の反立憲的な事件が生じた場合には,国防大臣が正しい指導に よって,これを匡正するということにすぎず,軍精神改革のための一般的軍布告の発布と いう国民議会の態度,要求とは大いに径庭する。議会にとっては,立憲的に思考する国防 大臣が存在することが重要なのではなく,立憲的に編成された軍隊の創出が重要だったの である。内閣が議会のこの基本的態度に接近しない以上,両者の決裂は不回避であった。
17)
(逆に,それに接近することは,国王の信任の喪失を意味した)。
5) 9月4日に公表された内閣のシュタイン=シュルツ提案への応答書は,提案の主眼 点である一般的軍布告の発布を拒絶したので,ただちに左派の不満と反棲を惹起した。そ の反応は次の如きシュタインの提案となってすぐに現われた。曰く,
「議会は,8月9日に議会が議決した布告を,ただちに,国民の鎮静,信頼の維持並びに議会との 決裂を避けるために,発布することが内閣の緊急の義務であると決議されたし」
18)
シュタインは,執行のための理由として次の如く述べる。
r軍全体が反動の楯というのではない。兵士は国民の兄弟だ。階級精神で教育された将校のみが反 立憲主義精神の代表なのだ。いまや,内閣が議会の議決の執行を拒絶するなら,彼等将校達は政府と 一致していると信じ,彼等に保障された保護の中に,彼等の態度の承認をみるであろう。
この理由よりして,議会の名誉と尊厳とが,この議決の執行されることを要求しているのである。」
19)
ヴァルデックも,
「内閣は,われわれが議会および国民の名において要求したものを如何にして拒絶することが出来 るのか。私は大臣諸公に云う。もし何も生じないのであるなら,諸公と最早や一分間も席を共になし 得ないであろう。一体全体,なお考えることが必要なのであるか?」
20)
と述べて,シユタイン提案の執行を内閣に迫った。
しかし,右翼及び右翼中央派はかかる布告が導くことになる「良心の審問」に反対して 2D
内閣と議会の妥協を図るため,冷却期間を設ける事を必要とみ,記名投票を行なって,論 議を9月7日まで延期させた。
22)
6) 内閣の応答書に対して,議会外で左派の言論機関も,議会内での議員の活動に対応 して,活発な言論戦を行なった。
応答書の公表された翌日,「フオルクスブレッター」(Volksblatter)紙の特別版は,次 の如き激しい語気をもって,内閣の措置を批難した。
「アウェルスヴァルト内閣は,従来国王にも認められていない拒否権を,このMachtspruchによ って横領し,反革命を公然と宣言した。……一体,その責任がいまなお確認されていない内閣に主権 的国民議会の諸議決をその好みに従って執行したり,しなかったりすることが許るされるべきなのだ ろうか?。……ここで問題なのは,3月18日の革命が維持されるか,あるいは再び,われわれが古い 隷属状態に帰るかということである」。
23)
民主党の機関紙「改革」(Die Reform)紙(9月6日)は,国防大臣が8月9の議会 の議決の執行を拒絶したことを怒り,絶対主義のこの抵抗企図に国民の不動の意思を対置 させる。 ・
「以前,プロイセンにおいては,すべての市民が兵士であった。彼等は指揮され,苦しめられた。
今や,攻勢に転じているのである。
われわれは,すべての兵士を市民に,法律の善良且つ忠実な臣民にすることを決心した。国民議会 は,もし8月9日のその議決に対し,何の罰もうけずに頑固な抵抗が行なわれるとすれば,暴兵の遊 び道具に財下されてしまうであろう。議決が執行される場合,多くの将校が軍から脱退するとおどす とすれば,それは只歓迎すべきことである。何故なら,その時こそ,軍の精神の変更が予期されるか
らである」。
23a)
左翼は,困難な戦いが戦い抜かれるであろうことを益々意識した。彼等は生粋のプロイ セン派の中に最大の敵をみ,まだ,政府の立憲主義精神への信仰を完全に放棄していなか
●
った。そして,軍の拘束が期待される内閣であるとして,ヴァルッデク内閣が要求された のである。9月7日の「改革」紙は云う。
「その時まで(=すなわち,ヴァルデック内閣成立まで……引用者),われわれは警戒していなけ ればならぬ。古い暴兵が存在する限り,彼等がわれわれにむけられることなく,ナポリ,プラーグ,
パリーの運命を用意することのないようにわれわれもまた用心するのだ」。
24)
「ベルリーナー・ツァイトウングスハーレ」(Berliner Zeitungshalle)紙は,この争議 における基本的なものを強調する。
「右翼も,議決の執行を固執すべきである。何故なら,ここで問題になっているのは議会の名誉だ からである。議会は,その目的を奪われるという危険な橋を渡っている」(9月6日),「国王の政府 に盲目的に服従して軍を維持することは,立憲主義憲法に反する」(9月7日)
25)
以上の諸論説から,われわれは9月7日の国民議会の討議の基本的内容を察知すること が出来るのである。左翼は,その当初からの主張である,「革命の承認」論=主権的国民 議会論を明白に強調し,そのための最大の障害物である軍の立憲的改革を激しく主張す
る。その中には,プロイセン君主制を立憲化された君主制の中で,最も民主的で,共和制 に近い議会君主制に転化せしめようという政治意図が秘められていたのであった。
7) 9月7日の議会の論議は8時間以上にも亘り,争議は軍への一般的布告の発布をめ ぐる問題を越えて,議会と政府の権限分配をめぐるそれと化した。議会は6月に回避され た国民主権の承認を,いまや,シュタイン=シュルツ提案の執行を内閣に課することによ
り,間接的に実現せんとする。国民議会は4月8日の選挙法によって,憲法協約権限と並 んで立法権を保持していたが,シュタイン提案の如き軍事法的一官吏勤務法的性格をもつ 政治的措置を執行すべしという指示を内閣に対して議決することは立法行為ではない。そ れは内閣に対して統治的行為を命ずるものであった。これは明らかに,行政権(=統帥 権)への侵害であった。国民議会がかかる措置を要求する権限をもつとすれば,その時は 主権的全権が国民議会に属することになろう。しかし,選挙法に基づく法的権限をもって 26)
しては,権力包括的主権的議会としての国民議会像は浮び上って来ない。法的権限の枠内 においては,国民議会は,如何なる場合であれ,統治問題ならびに統帥問題に就て,議決 により,一定の措置をとるべく内閣を義務づけることは出来なかったのである。従って,
左翼及び左翼中央派は,法的権限を無視して,直接,国民主権及び革命に基づき議会の権 限を構成しようとする。争議はここにおいて,第二革命の様相を呈したのであった。
9月7日の論議をみてみよう。
内閣は,議会主義原理を否認し,権限問題に関し,
「要求されている布告の発布について,問題になるのは,政府が責任を担っている行政処分であ
●
る。政府は,国民議会の議決の精神で行動することに同意すれば,それで充分である。国民議会は政 府に対して,(行動の)手段を規制することは出来ない。さもなければ,政府と行政の中心地は議会
内に移行し,大臣は(議会の)執行委員会とみられることになろう」,
27)
と述べて,提案執行の法的義務のないことを理由に,義会の要求を拒絶した。これに対 し,国民議会の急進派は,自らの構成した国民議会本質論をもって,これに抗弁する。
左翼中央派に属するブユツヒャアー一(Bucher)議員の演説は,国民議会の権限を制憲議 会(=革命の直接的承認!)としてのその性格より,選挙法に制約されぬものとして,次 の如く説く。
「人々は,議決の執行を要求する議会の権限を,第一に4月8日の選挙法を引き合いに出して,次 に,立憲国家の本質を引き合いに出して争った。(しかし)われわれが未だ立憲国家に生活していな いこと,とにかく,政治学の初学者すべてに知られている諸権力のはっきりした限界がなお,プロイ センにおいては生じていないこと,一言を以ってすれば,われわれは決して憲法に基づく議会ではな くて,憲法を作る議会であることが幾度くり返されなければならぬのか。そして,全くのところ,選 挙法を引き合いに出して,なにが述べられねばならぬのか?……世界史は選挙法の制約の下に止り難 いであろう。時代というものは法令集中の一片の紙きれとは全く異なった基礎を必要とするものだ。
・…・・墲黷墲黷ヘ……おそらく……史上例のないわれわれの任務,すなわち,未完成の革命の結末を立 法という平和的方法で達成するという任務を認識すべきである」
28)
ヴェーレンヅも国民議会を主権的議会とみなし,議会の行政統制権を主張する。
「諸君,諸君は,私が嘗って,すなわち,現在の議会が開会されたはじめに,革命を承認されたし という提案をしたのを御存知だ。この承認は投票で拒絶された。そして,その際こちら側(左翼席 を示しながら)は,諸君に対して,(革命の)熱狂に制止をかけ,革命の波を静かにねかせるため,
革命の承認を希望すると述べた。われわれは革命を静かなる終末に導かねばならなかったのである。
国民はこれを議会に希望しているのである。国民はわれわれに,われわれが新しい国家生活に道を開 くだろうという信頼を寄せている。しかしながら,国民はまたわれわれに,革命の中で国民が得た権 利のいずれもわれわれが放棄してはならない義務をも課したのである。そして,もし,われわれがか かる提案をなす権利,すなわち,文武いずれの問題であれ,国家行政に関して,統制をなす権利,を もたないとすれば,革命中に得た権利を放棄することになるのである。諸君,われわれはこの権利を 保持せねばならぬ。国民の主権を代表するのは誰か,政府=内閣かこの議会か,が問われている。自 分はそれが議会であると信ずる」
29)
付加提案を行なったシュルツも,矢張り,主権的国民議会論に基づいて,政府に,シュ タイン=シュルツ提案の執行を要求する。
「この議決は……全国民の第一次選挙より構成され,全国民の主権のトレーガーである議会より出 ているのである。そして,この議決を向けられた人々は,国民意思を執行することを任務としている のである。彼等は,;れを拒絶した。……われわれは,われわれが決議したものが行なわれることを
要求せねばならない。……われわれは,国民の権九尊厳,将来に対して,責任を負わされている。
(政府の)この反抗は,国民のもっとも神聖なものを侵害することなのである。すなわち,われわれ が未だ国王にすら承認していない統治府の拒否権を先取りしているのである。それは,政府を全国民 の意思に優位させ,われわれを諮問的議会にするものである。……ひとりこの議会の名誉,全国民の 尊厳が,われわれが以前の諸議決に固執することを要求しているのみではないのだ。
プロイセンが,ドイツが,ヨーロッパが,われわれを注視しているのだ。4週間の遅延の後に,わ れわれの決議がかかる方法で回避されるのを承認せねばならぬとは(21)。われわれは憲法を作って しまう前立憲主義の制度がこんなやり方で踏みつぶされてしまうのに同意せねばならぬのか。否,
諸君,われわれは出来ぬ,しないであろう」。
30)
シュタイン・シュルツ提案にむけられたもう一つの批難,すなわち,「この提案は軍紀 の弛緩を生ぜしめ,良心の審問を要求する」に対して,シュルツは,
「立憲主義的軍紀の概念が存在する。この概念は,立憲的軍隊にとっては,表面的服従のみが望ま しいものではなく,かかる服従は,服従者が,命令者は全国民の全体意思と一致していると確信して いる所では,はるかに好ましいものとなるという点に示される。他方,その時,人はまた,ただ鉄の ような軍紀の強制に服する以上に,よく服従することであろう布告の発布を行なうだけで,これによ り,立憲的軍隊が創設され,且つ,人々は最早や軍紀をわずらう必要はないのである」
31)
と酬いている。しかしながら,すでに述べたが如く,9月7日の論議の核心は権限争議
=新主権の建設であって,軍紀問題は中心的な論議の対象からはずれてしまっていた。
この間,内閣と議会左派との余りに激しい争議を避け,より穏和な解決を求めんとして 議会内の右派より二つの修正案が出された。
一・一一つは右翼中央派のウンルーより出される。彼はまず,「われわれは目下,反革命と第 二革命の間にある」と思惟する。続いて,彼は,
「8月9日の議決は,思想の調査,良心の強制ではなく,立憲国家において必要な国民と軍の一致 を導入し,反動的運動を避けることを目的とするものであることを考慮して」
内閣が8月9日の議決の精神にそった布告を発布しないならば,その時は議会は不信任 投票を行なうことを提案した。ウンルー案は,シュタイン=・シュルツ提案のもつ意義の緩 和を図りながら,議会主義をプロイセンに導入しようというものである。
他の一つは,右翼の代議士タムナウ(Tamnau)による提案であった。彼は,「市民の 平和と新しい立憲国家の促進のため」,反動的並びに共和制的な運動に対する警告として 将校への布告は必要だとの内容をもつ声明を内閣に出させることを提案した。但し,彼は 理由書の中で,
「国民議会は,軍の将校に対し,彼等の政治思想の表明を強要したり,国防大臣に布告の文言を教 示したりすることを意図するものではないJ
と述べて,シュタイン:シュルツ提案の緩和をウンルーと同じように,そして,それより もっと右寄りの形で提案したのである。
32)
しかしながら,8月9日の議決の完全執行を要求する議会多数派は,これらの妥協案を 否決した。議会主義も国民主権論の基礎づけを得ぬ限り,最早や,議会左派と内閣との仲 介の媒介物にすらなり得なかったのである。
最終の投票において,右翼および右翼中央派の143票に対するに,左翼および左翼中央 派は219票の多数をもって,「政府は,直ちに,国民の安定,信任の維持,および国民議会
との決裂を避けるために,(8月9日の)国民議会の決議を実行すべし」という,シュタ イン提案についての決議を可決したのである。国王にとっては,「叛逆的な布告の発布」
(国王はシュタイン提案をそうよんだ)が再度議会を通過したのである。
33)
8)審議の結果が伝えられるや,議場外に集合していた民衆は歓呼の声をあげて勝利を 祝つ メ急進派の「ベルリーナ・一 ツ・イトウングスハーレ」紙は・その号郷おV て
「最初の戦いはかくして勝った。勝利は戦いとられた。主権的国民萬歳」という呼声で事 35)
件を総括している。たしかに,外観は勝利であった。アウエルスヴァルト=ハンゼマン内 閣は議会の攻勢の前に自己を維持することが出来ず,9月11日,退陣を表明する。6月の カムプハウゼン内閣の倒閣に続く,この内閣の退陣はプロイセンが議会主義の道を歩み出 したかの如き外観をあたえた。「しかし,まさに,このことが保守的貴族内部に,軍人内 部に,そしてなによりもまず,国王自身の下において,ヴァルデック憲法への抵抗によっ てのみならず,左派に決定的に一撃をあたえる事によって,民主化と議会主義化のプロセ スを阻止する決意を強化させたのである。議会によって強制されたアウエルスヴァルト=
ハンゼマン内閣の解任は,プロイセンに第二革命ではなく,反革命を導いたのである」
36)
(註)
1)}LPfefferkorn, aaOSS.37〜38.なお,原文は現在形の時制で書かれているが,意味をくんで 過去形で訳したところもある。
2) H.Pfefferkorn, aaOS.39.
3) H.Pfefferkorn, aaOS.4◎
4)従来の記述は,エルスナァーの議会報告に基づいて記述されている場合が多い。ブランデンブ ルクの報告は内閣にのみ送附され,国家機密文書(Akten der Geheimen Sfaatsarchivs)におさめ られていて,1926年のプフェッヘルコルンの博士論文の中で始めて公表されたものである。
5) H.Pfefferkorn, aaOSS.40〜41
6) E.R. Huber, DVG. Bd.∬,S.736
7)H.Pfefferkorn, aaOS.41f;ER. Huber, DVG, Bd. H, S, 735;G, A, Craig, aaOS, 136;
V,Valentin, aaOS,239