【論文】
森田恒之
絵画技法の歴史(1)
第一章 絵画技法前史 第一節 先史絵画の謎
人類が残した絵画史の第一ページを飾るのは︑アルタミラの洞窟に描かれたさまざまな動物の絵である︒その美しい色彩と躍動的な筆触
は︑たとえ図版を通してであっても︑見る人の心に迫ってくる︒描かれた時期は今から三万数千年以上も前である︒そういう事情を知れば
なおさら︑洞窟に絵を描いた人々の生活がしのばれ︑夢がかきたてられる︒文明の利器はおろか︑現在われわれが道具と称して使っている
類のものさえ︑彼らは満足には持っていなかったはずである︒それなのになぜ︑あのような見事な絵を残し得たのであろうか? どんな目 的で描いたのであろうか? そうした多くの疑問は後を絶たない︒ただひとつ確かな事実をあげるとすれば︑今なお現存するそれらのカラ
フルな像が︑絵具という物質によって描かれたということである︒
アルタミラ以前にも絵画が存在しなかったのではない︒たまたま今日まで残り得なかったのである︒使われた絵具が耐久性をもたなかっ
たのが致命的であった︒だから︑原始時代の絵画がどのようにして描かれたかについては︑正確なことは何ひとつ分からない︒それでも︑
絵具の必要条件から逆に推理していけば︑最も原始的な絵画がどのようなもので︑どのようにして描かれたかは︑ある程度まで想像するこ
とができる︒絵具の必要条件をすべて備えた物質を手に入れるのは︑そうたやす いことではない︒絵具を塗るための道具をつくるにも多くの経験を必要とする︒それはそれとして︑絵具とか道具とか︑そんなものは何も
使わずに︑ごく身近にある材料を使ってでも絵を描くことはできる︒柔らかい土や砂の上に指でものの形を線描する︒これなら何も要ら
ない︒つまり︑絵画の最も古い形はこれであろう︒当然ながら︑そんな遺例は全くない︒ほんの少しの技術が高度になると︑指先の代わり
に先の尖った硬めの材質を用いて同じように線刻することになる︒先史時代の骨角器に残された狩猟図︑メソポタミアの粘土板に残された
楔形文字︑わが国の先史土器の面に描かれている絵画などは︑いずれもその仲間である︒主に考古学の領域で扱っているこのような線刻画
の遺例は︑世界のあちこちでかなり多く発見されている︒線刻だから耐久性はある︒しかし︑絵に色をつけるということになると︑さらに
進んだ技術が必要であった︒わが国でも絵のある古墳は少なからず知られている︒熊本や大分な
どの九州地方や高松塚をはじめとする大和地方に見られる彩色装飾古墳は有名だが︑これらは描かれた絵画の様式・内容・描法などから見
ても︑かなり高い文化を知った人々の遺産である︒それに対して︑東日本で発見されているものは線刻だけで︑様式的にも稚拙である︒
線刻画が彩色画に先行していたことは間違いない︒ただ︑線刻と並行して︑ごく限られた着色材料が使用されていたであろうことは想像
できる︒例えば︑木の燃えさし︑水で練った泥土のようなもの︑石灰石が固まってできた粘土塊のようなものを着色に使うことはあり得
る︒建築現場で大工の棟梁が手元にあるもので柱にちょっとした覚え書きをするのと同じ方法だといってよかろう︒しかし︑これらの材料
は絵具の基本要件のひとつである定着性に乏しいから︑古い用例はほとんど残っていないのである︒
第二節 古代壁画ラスコーの秘密 ラスコー壁画の絵具
アルタミラと並ぶ代表的な古代壁画として知られるラスコー洞窟の動物画は︑近代になってフランス政府の手で入念な調査が行われ︑制
作に使われた材料や制作条件がかなり解明されてきた︒色彩は極めて少ない︒顔料は洞窟内もしくは周辺に産出する泥土を
主としている︒黒は酸化マンガンを︑赤および黄は水酸化鉄を多量に含んでおり︑白は水和石灰︵消石灰︶もしくは炭酸カルシウムを含ん
だ白土︵カオリン︶である︒そのほかに若干の炭粉が使われていることも知られている︒動物の骨や植物を焼いて得たものであろう︒
今日見ることができる壁画の状況は︑表面に炭酸カルシウムの層が厚くかぶさっていて︑雲がかかったようにぼんやりしている︒制作当
初と比べれば︑かなり鮮明さが失われているはずである︒この厚い被覆層は︑岩壁から少しずつ滲み出した地下水が壁の表面に達したと
き︑地下水に含まれる石灰分が空気中の炭酸ガスと反応してつくられたものである︒それが数百世紀にわたる長い年月の間に壁全体を厚く
覆う︒この自然にできた保護膜のお蔭で顔料の定着はより強固なものになり︑新石器時代に描かれた壁画を今日まで残すことになったので
ある︒ラスコー壁画を制作したとき︑どのようにして顔料を壁画に定着さ せたのか? 原材料の痕跡が完全に失われてしまっている現在︑その方法を知るのは推測によるしかない︒
最も単純な方法としては︑顔料を水で練っただけで塗りつけることが考えられる︒子供の泥遊びと同じで︑単純かつ簡単な方法である︒
石灰質を多く含んだ土はそれでも一応は定着する︒凹凸の多い岩肌にそういう土で地塗りをすれば︑とにかく顔料を定着させることはでき
る︒尿を加えた水︑加熱溶解した動物の脂肪︑植物の根や茎から採った粘液などで顔料を練って使用した可能性もある︒そういう可能性に
ついては︑かなり多くの研究者が指摘している︒
ラスコー壁画の技法オーベルマイヤーは︑一九三八年におこなったラスコー壁画の調査
によって︑赤色に彩色された一部に︑加熱した獣脂と赤土の混合物を動物の毛でつくった筆のようなもので線描した個所があると︑確信を
もって報告している︒また︑彼は同じ報告の中で︑細い筒を使って︑湿った壁画に乾いた顔料末をそのまま吹きつける方法も同時に用いら
れていたことを確認している︒この手法を用いれば︑彩色したくない個所にあらかじめ覆いをかけておいて︑自在に形を描いたり︑部分
的なぼかし効果を得ることができる︒いわゆるマスキング法なのである︒今日のエアブラシュと原理において何ら変わるところがない︒さ
らに︑P・モーラが近著﹃壁画の保存﹄Paolo MORA, Laura MORA
& Paul Philippot, Conservation of Wall Painting, 1984, ButterworthLONDONの中で〝ガエル・ド・ギィシュンの発見〟︵未公刊︶として紹介しているのは︑軟らかい皮製のタンポンで顔料を壁画に軽く