• 検索結果がありません。

田 原 善 郎

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "田 原 善 郎"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

自由と現実

一ヘーゲルのルター理解について一

田 原 善 郎

「哲学は宗教を解明することによってのみ自己を解明する。また自己を解明 することによって宗教を解明する」 (ユ4,S.28)とヘーゲルがいうように,

ヘーゲルの哲学的思索をつらぬいていたのは宗教の問題であったということが できる。彼はいくつかの著作のなかでプロテスタンティズムを高く評価してい るが,とりわけルターによって信仰のうちに捉えられた近代的自由を,自己の 始源として考えている。この小論においては,まず, 『法の哲学』 (Grund一 linien der Philosophie des Rechts,1821)において,プロテスタンティズム,

とりわけルターの自由がどのように評価されているかを中心にして,ヘーゲル がルターの信仰を自分とどのような繋がりのなかで捉えたかを見てみたい。さ らにヘーゲルのルター評価をめぐり,それがルターについての正しい理解なの かどうかという問題が提起されているが,この問題を踏まえてヘーゲルのルター 理解の正否について検討してみたい。

(1)

ヘーゲルの「法の哲学』の「序文」に,ルターを評価した有名な箇所がある。

「思想によって正しいと認められないいかなるものをも心術において承認し ようとしないことは,偉大なる我意(Eigensinn)であり,人間の名誉となる 我意である。そして,この我意は近代に特徴的なものであり,もともとプロテ

スタンティズムに固有な原理である。ルターが感情と精神の証(あかし)にお いて始めたものは,さらに成熟した精神が概念において把握し,かくて現在の なかで自己を解放し,それによって現在のなかに自己を見出そうと努めている ものと同じものである。」 (7,S.27)

ヘーゲルは,「思想によって正しいと認められたもの」のみを承認する近代

的な主体性の原理,あるいは近代的自由の原理をプロテスタンティズムの固有

の原理として捉えるとともに,それがルターにおいて始まったと考えている。

(2)

ところで,ここで「ルターが感情と精神の証とにおいて始めた」ところの主体 性の原理としての我意は,ヘーゲルによって捉えられた,より成熟した精神が 概念において把握しようとしているものと同じものであるとされている。すな

わち,ルターにおいて捉えられた主体性の原理が,より成熟した形でヘーゲル によって概念的に把握されようとしているのであり,そのことによって,「現 在のなかに自己を解放し,」「現在のなかに自己を見出そうとしている」ので

ある。

このようにしてヘーゲルは,ルターの信仰の原理としての主体性の原理を評 価し,自己の思想に取り入れていくのであるが,それはヘーゲルの思想のなか でどのように位置ずけられ,どのような役割をもっているのか。この問題を解 明するために,さきの「法の哲学」からの引用文が,「序文」全体の文脈のな かでもつ意味をさらに見てみよう。

ヘーゲルが「序文」において強調していることは,第一に,現実を重んじる ということである。それは彼の論敵であったフリース(Jakob Friedrich Fries,

1773−1843)たちにたいする激しい非難の言葉に現れている。かれらは「学問 を思想と概念の展開のうえに立てる代わりに,むしろ直接的な知覚と偶然的な 空想のうえに立てる」 (7,S.18)のであり,彼らの考えに従うならば,「倫 理的世界は思念と恣意の偶然性に委ねられてしまう。」(7,S.19)当時の哲学 がこのように現実をはなれて,各人の特殊な確信と主観的な感情の上にたつ風 潮にたいして,ヘーゲルは現実にたいする哲学の立場を強調する。「哲学とは 理性的なものの根本を究めることであるから,まさにそれ故に,現在的にし て現実的なものを把握することであり,彼岸的なものを打ち立てることではな い。」(7,S.24)したがって「法の哲学」の主題である法,倫理,国家につい ての真理は,各人の主観的な心情のなかにではなく,現実的なものの把握のう ちに求めるべきである。「理性的であるものが現実的であり,現実的であるも のが理1生的である」 (a.a.0.)という立場をヘーゲルは明確にする。ヘーゲ ルが次に強調していることは,法,倫理,国家についての真理を求めるために は,与えられたものに止まらず,自由な思惟によって,すでに即自的に理性的 な内容(この文脈では現実)に理性的な形式を得させることが必要であるとい うことである。その対象(内容)が現実であるという点においては哲学と他の 学問は同じであるが,ただ,それを思惟によって概念的に把握する(begreifen)

という認識の形式が他の学問とは異なる。(1)しかして,概念的把握としての思

(3)

田原:自由と現実       63

惟とは,「内容にしたがえば事柄とその規定のなかにのみありながら,主体性

〈論理的にいえば形式〉にしたがえば無規定的に自己自身のもとにある」 (8,

S.80)から自由な思惟である。この自由な思惟(形式)と現実(内容)の統一 をヘーゲルは『法の哲学』の課題とする。

以上にみたようにヘーゲルは「序文」において,「法」についての哲学的論 究とは,まず,現実をその対象(内容)とし,つぎに,その対象である即自的

に理性的である内容としての現実を思惟(形式)によって概念的に把握し,そ うすることによって内容としての現実に自由な形式を得させるということであ ると述べる。それでは,この「序文」のなかで,ヘーゲルは,評価しているル ターの主体的原理をどのように位置ずけているのであろうか。

「現在の十字架における薔薇としての理性を認識すること,そして,それと ともに現在を享受すること,  このような理性的洞察こそ,概念的に把握し ようという内的な要求が生じた人々に,哲学があたえるところの現実との和解

(Versbhnung)である。言い換えるならば,実体的であるもののなかで主体的 な自由をもちながら,特殊的なもの偶然的なもののなかでなく,即自対自的に あるところのもののなかにあろうとする内的な要求が生じた人々に,哲学があ たえるところの現実との和解である。」 (7,S.26)

「現在の十字架における薔薇としての理性を認識すること」という命題にお いて十字架は現在の象徴であり,薔薇は理性の象徴である。中埜肇氏によれば,

十字架は苦痛のシンボルであり,とくに苦痛を貫いての信仰のシンボルである から,現実のなかに薔薇として理性を認識することは,十字架を自分の身に引 き受けながらその中にある薔薇を摘むのと同じように,苦痛を媒介にしてはじ めて可能なのである。このような苦痛をともなった厳しい認識作用によって現 実と理性は同一となるのであり,それをヘーゲルは「理性的洞察」と呼び,こ のような厳しい洞察によって「現実との和解」がもたらされると考えたのであ る。(2>では,この「現実との和解」によってもたらされるものはいかなるもの であろうか。それが,この引用文にみられる実体的なものと主体的自由の綜合 統一の実現なのである。すなわち,普遍的なもののなかにおいて主体的自由を 維持すること,一方,主体的自由でありながら普遍的なもののなかにあろうと することによって,我々は現実との和解に到達し,現在を享受することになる のである。

「このことはまた,先に抽象的に内容と形式の統一として表されたもののよ

(4)

り具体的な意味をなすところのものである。なんとなれば,そのもっとも具体 的な意味における形式とは概念的に認識するものとしての理性(die Vernunft als begreifendes Erkennen)であり,そして,内容とは倫理的ならびに自然的 現実の実体的本質としての理性である。すなわち,両者の意識的な同一性が哲 学的理念である。」 (7,S.27)

形式とは「概念的に認識するものとしての理性」であり,内容とはは実体的 本質としての理性」である。これをさきの引用文にあてはめてみるならば,実 体的なもののなかにおいて主体的な自由を維持しようとするのが形式としての 理性であり,実体的なものの本質が内容としての理性である。そしてこの両者 の統一が「現実との和解」である。

したがって,ヘーゲルが「序文」において述べている「法」の真理を求める ために思惟によって現実を概念的に把握し,そのことによって現実に自由の形 式を得させるということは,「概念的に認識するものとしての理性」すなわち

「自己意識をもった精神(selbstbewusster Geist)としての理性」(7,S.26)

と「実体的本質としての理性」すなわち「現に存在している現実としての理性」

(a.a.0.)との統一である。すなわち,さきの引用文にいう実体的なものと主 体的自由の統一である。ヘーゲルはこの意味での主体的自由,すなわち「自己 意識をもった精神としての理性」を,ルターの信仰の原理である主体性の原理 に負うと考えているのであり,そこにヘーゲルがプロテスタンティズムを評価

し,ルターの主体性の原理を評価する所以がある。このように見てくるならば,

ルターの主体的自由とは,ヘーゲルによって,即自的に理性的な現実を即自対 自的なものへと発展させる不可欠な契機として考えられている。

(2)

前節で『法の哲学』の「序文」によって,ルターが「感情と精神の証」とし て始めた主体的自由を,ヘーゲルが自らの自由概念の始めとして捉えているこ とを明らかにした。では,ヘーゲルは,ルターの主体的自由をいかなる意味で 始めとして捉えていたのか,また一方,どの点において区別していたのか。よ

り一一般的にいうならば,ルターの主体的自由をヘーゲルは内容的にどのような ものとして捉えていたのか,この点をこの節では見てみよう。

「法の哲学」第2部・道徳性(Moralitat)において,ヘーゲルは「主体的

意志としての意志においてのみ,自由は,あるいは即自的にある意志は現実的

(5)

田原:自由と現実       65

であり得る」 (7,S.204)と述べているが,この意味での自由を現実化する 主体的意志が,「序文」においてルターによって始めて把握されたとされてい る我意(Eigensinn)と本質的に同一なものとして捉えられている。ところで,

ヘーゲルがここで論じている主体的意志はその本質として「善」 (das Gute)

をもっているが,それはまだ抽象的善であって,したがって主体的意志はまだ 善にたいする「関係」のうちにあるに過ぎない。このように,主体的意志は自 己の普遍性の契機としては抽象的普遍性としての善をもつにすぎないが,一方,

その善の抽象性のために,自己の特殊性としては「その自己自身へ反省する普 遍性において,自己自身のうちにおける絶対的自己確信である主体性」 (7,

S。254)をもつ。この主体性としての絶対的自己確信をヘーゲルは「良心」(das Gewissen)と呼んでいる。

「良心とは,そこではすべての外面的なもの,制限されたものが消失してし まっている,このもっとも深い内面的な自己自身だけとの孤独である。すなち,

この徹底した自己自身のなかへのひきこもりである。人間は良心としては特殊 性の諸目的からもはや束縛されていない。したがって,このことは一つの高 い立場,この自己自身へと没入する意識へと初めて達した近代世界の立場であ

る。」 (7,S.254)

過去においては宗教にしろ法にしろ外面的で与えられたものを信じ守ってき たが,近代以後,良心が絶対的自己確信としての特殊性を定立し,意志を規定,

決定するものとなったとヘーゲルはいっているので,「序文」における近代に 特徴的なプロテスタンティズムによってはじめられた我意と照応して,ここで 良心も近代世界の立場としてルターによって始められたものと考えているとみ てよいQ

「真の良心は即自対自的に善であるものを欲する心術である。したがって,

それは確かな諸原則をもっており,これら諸原則は真の良心にとってそれだけ で客観的な規定であり,義務である。これらの良心の内容,すなわち真理から 区別されるならば,良心とは意志の活動の形式的な側面にすぎない。それはこ のものとしていかなる固有な内容をももっていない。」 (7,S.137)

ヘーゲルが先に「もっとも内面的な自己自良だけとの孤独」とよんだ良心と は,この引用文で意志の形式的な側面としての良心と呼ばれているものである。

そこでは外面的なもの,制限されたものは消失し,いかなる特殊的目的にも束

縛されずに,良心は自己自身へ没入しており,客観的な内容を欠いている。し

(6)

たがって良心は「それだけでは無限な形式的な自己確信であり,」 「主体の確 信」 (7,S.255)であるにすぎない。ヘーゲルはプロテスタンティズムによっ

て始められたと考える主体的意志を,自己規定するものとして評価するととも に,その内容を欠いた形式性を指摘し,それは自己確信以上のものでないと限 界ずける。

「ある一定の個人の良心がこの良心の理念に適っているかどうか,良心が善 であるとみなし,あるいは,そう主張するものが実際にも善であるかどうか,

このことは善であるべきとされるものの内容からのみ認識される。………

したがって良心はそれが真であるかどうかというこの判断に服せしめられるの であり,おのれの自己のみを引き合いに出すということは,良心があろうと欲 するところのものに,すなわち,理性的であり即自対自的に妥当する普遍的な 行為様式の規則にまさしく反している。」 (7,S.255)

真の良心が即自対自的に善であるところのものを欲する心術であるのにたい して,自己確信としての良心は対自的にのみ善であるところのものを欲する。

いいかえれば,真の内容から自己を切り離し,善であると自己が思いなすもの のみを真であるとする。 「良心とは,なにが法であり義務であるかを,自己自 身のなかで,自己自身から知り,自己が善として知るもの以外のなにものも認 めようとしない主観的自己意識の絶対的権利である」 (a.a.0.)という点で は,自己確信としての良心はまさに良心である。しかし,真の良心であるため には,「主観的な知と即自対自的にあるものの一一体性(Einheit)」 (a.a.0.)

が要求されるのである。

我々は,ヘーゲルが『法の哲学』で道徳性のテーマの主題とする主体的意志 をルターとの関係においてみてきたが,彼がそこで実際に分析の対象としたの はルターというよりはカントの意志であった。ヘーゲルは,良心を,自己の中 へ反省した普遍性において自己を規定し決定するものとして絶対的な自己確信 であり,それ故にこそ自己が善として知る以外のなにものをも義務としてみと めない主観的自己意識の絶対的権利であると評価したが,この立場は,定言命 法において道徳法則と意志の格率の形式的一体性への意欲を行為の原理として 述べたカントの立場と了解できる。カントにおいては,自己の確信にあいて把 握した普遍的な道徳法則に意志を一致させることが義務であった。しかし,こ の立場では道徳法則はまだ内容のともなわない抽象的普遍的なものにすぎない。

したがって義務もまた「義務は義務のためになされるべき」 (a.a.0.)であ

(7)

田原:自由と現実       67

るという抽象的なものにすぎないことになる。ヘーゲルは,このようなカント の意志の形式主義を「内容のためにではなく,義務としてのみ欲せられるべき 義務,すなわち形式的同一性はまさにあらゆる内容と規定を排除するものであ る」 (7,S.253)といって批判しながらも,そこでは「私は義務を行いなが ら,自己自身のもとにあり,自由である」 (7,S.251)といって,カントの義 務の根源が意志の純粋な無条件的な自己規定であることを明らかにし,カント は意志の自律の思想を確立したと高く評価する。ヘーゲルがカントの意志を対 象にして論じたのは,カントの意志が主体的意志のもっとも純粋な完成した形 式をもっていたがためである。カントほど完成した形式をもってはいなかった が,ルターに始まるとヘーゲルが考えた主体性意志も,その方向性にあいては 同じ評価と批判をヘーゲルによって受けているのである。

以上のように,ヘーゲルはルターの主体的自由を,カントのそれに焦点をあ てながら,その同一方向において定位した。そこでは自律と自己確信の意志を もった近代的な主体の自由が評価されるとともに,客観的な内容を欠いた形式 性が批判されていた。しかし,ルターの場合,カントとの違いはそれが実践理 性の立場からではなく宗教的な信仰の立場からなされている。ヘーゲルもさき

にそれを「ルターが感情と精神の証における信仰としてはじめたもの」と呼ん でいる。そこで,さらに,ルターの宗教的信仰の立場において,いま見てきた ヘーゲルのルターの主体的自由への評価と批判がどのように貫かれているかを 見てみよう。

「宗教は真なるものを自己の普遍的な対象とするが,しかし,その根本規定 においては思惟と概念によって認識されていない,ある与えられた内容として それを普遍的な対象とするのである。同様に個人のこの対象にたいする関係も 権威にもとずいた義務ずけであり,さらに,自由の契機を含む自己自身の精神

と心情を証するものは信仰と感情である。」 (7,S.424f)

『宗教哲学講義』 ( Vorle曲ngen Uber die Philosophie der Religion ) においてヘーゲルは,宗教の概念における第一の契機はその普遍性における概 念であり,神の概念であると述べている。③ 「神とは絶対的に真なるものであ

り,即自対自的に普遍的なるものであり,すべてを包括し,含み,すべてに存 在を与えるものである。」 (16,S.92)しかし,この普遍的なものとしての神

は,宗教においては思惟と概念によって認識されていない。宗教においては思

惟は,純粋な思弁的な思惟の活動を一方においてもちながら,いまだ直接主観

(8)

の外部に感性的に与えられ,外から権威をもって個人に信仰を義務ずけるので ある。一方「我々は神について直接的に知る。それは我々の内なる一つの啓 示である。このことは我々が本質的に固守しなければならない大きな原則であ

る。」 (16,S.160)ヘーゲルは,啓示を外的な内容をもつものとして考える が,単に外から与えられたものであるとは考えない。プラトンの想起説にした がって,それは人間が根源的に自己自身のなかにもっている何ものかであると 考える。人間はそれ自身において精神である。真理は人間のなかにある。した がって真理が意識にもたらされるかどうかということだけが問題なのである。

真理が意識にもたらされる仕方としては,まず,神は感じられるのであり,

感情は神の存在が与えられる根拠である。しかし,神についての真なる感情は 感1青そのものに由来するのではなく,感情によって捉えられた真なる内容によっ てはじめてそうなのである。

「即自対自的に真なるものは心情にとって自立したものとして現れる。その 自立したもののなかでは心情は,自己自身を断念し,この媒介によってはじめ て自己自身を回復することを通じて,真の自由を得るのである。」(16,S.ユ46)

即自対自的な真理のなかで自己の我欲をすて,自己から解放され,自己を止 揚することによってはじめて自己に真に帰るのである。このような意味で絶対 的な真理と自己を同一化し,しかも,自己を断念した無欲な自己意識としてこ の真理のなかに自己を維持する関係を,ヘーゲルは信仰とよび,宗教的感情と よぶ。さらに,このような絶対者との感情(信仰)のなかでは,私は自己の思 念や我欲を私の自由において断念することができるのである。神が意識される 仕方としては,さらに表象がある。感情においては神は主観に規定され偶然的 であるのにたいして,表象にとっては対象性にまで高められるので,神と自己 意識の本質的結合の必然性がそこにおいては展開されることになる。まず神は 表象のなかで直接的に与えられたものとしてあるが,つぎに,神と自己意識の 結合が主観的な性質をもったものとして現れる。さらに,神はそれ自身におい て私に適合し,そして精神の証は神を真理として,私の本質的な規定として承 認する。

「精神は精神に証をあたえる。この証は精神の固有な,内的な本性である。

このことのなかには,宗教は外的に人間のなかにもたらされたのではなくて,

人間自身のなかに,彼の理性,自由一般のなかにあるという重要な規定が含ま

れている。」 (16,S.147)

(9)

田原:自由と現実       6g

信仰は本質的に啓示によって媒介されるのであるが,啓示は直接知であり外 から与えられるとはいえ,人間が根源的に自己自身のなかにもっているところ のなにものかなのである。すなわち,神についての表象は単に主観的なもので はなく,神は事実として存在するのである。ヘーゲルはこのような宗教的啓示 を,自己自身の自由において真であると認めることを「精神の証を与える」と いう。ヘーゲルは「宗教哲学講義』において,さきにみたように,感情によっ て神を感ずることと神の表象を区別して論じているが,一方,「直接知のすべ ての形式,信仰,感1青などは表象の側面にふさわしい」 (16,S.156)ともいっ ている。ヘーゲルが宗教的感情と同一として述べた信仰も,純粋に感情に属す るというよりはむしろ広い意味での表象として現実にはあるとヘーゲルも考え ていたと思われる。その意味で直接知に属する信仰,感情など宗教的表象を自 由において真であると認めることを,ヘーゲルは「精神の証をあたえる」といっ たのであると考えてよい。

ここで,本論の冒頭における引用を振り返ってみたい。「ルターが感情と精 神の証における信仰として始めたもの」がヘーゲルの「成熟した精神」へと発 展していくのである。ルターは直接知の形式である感情や表象における信仰に

よって神を証した。しかし,このことは上にみたように知覚と偶然的な思いつ きで神をたてたということではない。精神の証において神をたてたということ は,精神としての人間が,感情と表象の形式において,与えられたものを自己 自身のなかに根源的にもっている真理として,自己の主体としての判断にした がって真として認めたということである。その意味において「感情と精神の証 における信仰としてはじめたもの」は「思想によって正しいと認められないい かなるものも心術によって認めようとしない」「偉大なる我意」であったので ある。この意味において,ヘーゲルからみてルターの信仰は,宗教的表象にお いてではあるが,主体的自由であるという点においてカントの良心と同じ評価 をもつのであり,またカントの良心と同じく主観的な自己確信にすぎず形式的,

抽象的であるという批判を免れないのである。

(3)

ヘーゲルは,ルターが宗教的な感情と表象の形式において絶対的自己確信と

しての良心を定位し,その意味で主体的自由を把握したことを評価するととも

に,それが形式的であり客観的内容を欠くために,単なる主体の確信を出るこ

(10)

とのないものとして限界ずけた。そこで内容を欠いた単なる形式としてルター の主体的自由はヘーゲルのそれとは区別されるのであるが,その区別にもかか わらず,自己確信として,あるいは精神の証として,ルターの主体的自由がヘー ゲルの自由の不可欠な契機であることを,ヘーゲルは明らかにしたのである。

ところで,ヘーゲルのいう意味でのルターの主体的自由について,つぎのよう な二つの問題が提出される。第一の問題はヘーゲルのいう意味でのルターの主 体的自由が果たしてあったのであろうかということである。ヘーゲルは自己の

自由の根源をルターの主体的自由に求めるが,それはルターにたいする誤解で はないだろうか。このような疑問をもつ人は少なくないが,中埜氏によれば,

人間における信仰と自由との結びつきについては,ルターとヘーゲルは同じ立 場に立っているかに見える。しかし,信仰の自由の関係についていえば,ヘー ゲルにおいては自由と信仰は完全に一体化されている。ヘーゲルでは,信仰が 自由を可能にすると同時に,自由が信仰を可能にする。しかし,ルターの場合 は,信仰は自由を可能ならしめるが,その逆は成り立たない。ヘーゲルでは,

自由な精神による精神の認識としての信仰が成立するのであるが,ルターの場 合は信仰によってはじめて精神の自由がもたらされるのであり,自由な精神に よる信仰は成立しないということである。④第二の問題は,ヘーゲルのいう意 味での主体的自由は実体的なものと一体化しなければならない。すなわち,現 実的なものと統一されてのみ意味があるのであるが,ルターの主体的自由は客 観的内容を欠き,形式的,抽象的にすぎないものとしてヘーゲルによって捉え

られた。それにもかかわらず,ヘーゲルは,ルターの主体的自由が単に純粋な 内面的自由にとどまらずして,現実の地平における自由として発展していくも のと考えている。ヘーゲルにとっては,先に述べたフリースたちのような,現 実を離れて,各人の特殊な確信と主観的な感情に立つ哲学とルターの思想を同 一のものとして捉えていない。ルターの信仰の原理は現実における自己を見出 す方向を即自的にもっていると,ヘーゲルは考えているのである。しかし,ル

ターの信仰は現実と質的に区別された純粋に内面的な信仰である。ルターの信 仰と現実の関係にたいするヘーゲルの理解は果たして正しいのであろうか。

まず第一の問題,ルターにあってはもともと精神は自由ではない,したがっ て自由な精神による信仰は成立しないという問題について見てみよう。たしか に中埜氏の述べるとおり,ルターは宗教改革三大論文のひとつである『キリス

ト者の自由について』 (Von der Freiheit eines Christenmenschen,1520)

(11)

田原:自由と現実       71

のなかで,いかなるわざによることなく,信仰のみが人を義として自由にする と述べている。ルターの信仰とは神の言葉を信ずることである。神の言葉を受 け入れることによってのみ人はキリスト者の自由を得ることができるのである。

ところで,この場合,信仰の前提としての自由は認められないのであろうか。

『キリスト者の自由について』においては,この局面の自由については触れら れていない。しかし,たとえば,1523年の「現世の主権にっいて』(Von welt一 licher Obrigkeit)のなかでルターは次のようにいっている。 「信仰とは自由 のわざであり,何人にたいしてもこれを強制することはできない。」 「人が信 仰するしないかという問題は,各人の良心にかかっている。」 (WA.ll,S.264)

ルターは国家権力の問題を扱っているのであるが,信仰とは各人の主体的決断 を待たなければならないのであって,権力による信仰への干渉はおこなわれて はならない,たとえ行われたとしても実を結ぶことはないだろうと述べている のである。さらに,たとえ異端の信仰をもっていようとも,弱い良心に力をもっ て嘘を強い,心に思っていることとは別のことを言わせようとするよりは,異 端のままに放置するほうがずっと罪が軽いともいっている。そこに自由な精神 による信仰からすすんで,いかなる他の人間によっても介入することのできな い心の領域がルターによって主張されているのをみる。ルターにあっては,い かなる思想を問わず,すべて人間の心は不可侵であり,思想の自由は守られ るべきなのである。当然,そこには自由な精神が前提されていなければならな い。(5)さらに1525年の「天来の予言者らを駁す』 (Wider die himlischen Pro一 pheten)においては,「私の前に神々をもってはならない」という律法(モー ゼの十戒)に反するとして,ヴィッテンベルグの教会で聖像破壊という直接行 動にでた人々にたいして,ルターは自らも偶像崇拝の意味での聖像の破棄を主 張しながら,一方,聖像の問題は,人間の内面にかかわる「自由な良心」 (W A.18,S.67)の事柄なのであり,それを律法として強制的に破壊することは,外 的なわざをもって良心と霊魂とを殺すことにほかならないと,次のように述べ ている。「誰も神の聖像すらも暴力をもってくつがえす責任はないのであり,

すべては自由であり,たとえ聖像を暴力をもって破壊しなくても罪を犯しては

いない。しかし神の言葉をもってなす責任はある。すなわち,カールシュタッ

トのように律法をもってではなくして,福音をもって破壊する責任がある。し

たがって,それは聖像を拝したり,それによりたのむことは偶像崇拝であるこ

とを良心に教え,啓発することである。…………それからあとは外的にはそれ

(12)

をなるがままにまかせよ。」 (WA.18,S.74)神の言葉をもって良心に教え啓 発することで,なすべきことは止まっている。それ以上は自由な良心の事柄な のである。ルターは,人間が,それらを行い,行わない自由な良心をもってい ることを,そしてそれは神聖にして不可侵であることを主張するのである。

ルターにあっては,良心は律法と福音を結びつけるものとして把握されてい る。聖像破壊の直接行動に走った人々は律法を守ることを直接に救済の手段と して考えたが,ルターにあっては,律法とは人間をして自己の罪意識を認識せ しめるものでしかない。「律法は何が善であるかを教えはするが,教えられた ことは直ちに行われない。なぜなら,律法は我々が何をなすべきかを示すが,

なす力をあたえないからである。しかし,この事実のうちには,律法が人間を 人間自身に示し,そのことによって人間の無力を認識し,自己の力に絶望する ことが定められている。」 (WA.7,S.52)この絶望のなかで良心が罪意識 に目覚める。良心とは律法を成し遂げる力ではなくして,律法をなしとげるこ とのできない自己を責め,審判する力なのである。自己の力によって律法を充 たそうとして果たせず,かえって絶望のなかで罪意識に呵責する良心は,自ら を空しくして救いの言葉としてのキリストの福音を受け入れる。そこに信仰が 成立するのである。ここで,先にみたように,神の言葉を受け入れるか否かは 良心自身が決定するのである。これが「自由な良心」の意味である。

ここで,ヘーゲルのルター理解について考えてみたい。

「客観的真理が私にとって存在する場合,私は私を放棄し,私にとって何物 をも保持せず,同時にこのく客観的〉真理を私のものとして把握したのである。

私はこの真理と私を同一化し,私を,しかし純粋な無欲な自己意識としての私 を,この真理の内に維持したのである。」 (16,S.146)

この関係をヘーゲルは「信仰」と呼ぶのであるが,ここにみられる関係を,

ルターの律法と福音の関係における良心の役割と合わせてみることができない だろうか。神は,ヘーゲルにしたがえば,絶対的に自立したものとして私にとっ て現れる。この神のなかで私は自己自身を断念するとヘーゲルはいうが,ルター の場合,それは,神によって与えられた律法によって自己の無力を認識し,挫 折することによって我欲を折り,心を空しくした私ではなかろうか。ここで神 の言葉を受け入れることにるりキリスト者の自由を得ることになるのであるが,

ヘーゲルにしたがえば,それは,神の内で自己を放棄することによって自己の

外に出て,自己から解放され,自己を止揚したことによって,神の内で真に自

(13)

田原:自由と現実       73

己に帰り,自由を得るのである。この自由への過程は,神によって与えられた ものでありながら,また,私のものとしてヘーゲルは捉えているのであり,ル ターも「自由な良心」によって自己の意志の責任として捉えているのである。

さらに,信仰において,「私はこのく客観的〉真理と私を同一化し」とヘーゲ ルはいっているが,ルターの場合は神との一体化があるのだろうか。「信仰は,

魂が神の言葉に等しくなり,すべての恩寵に満ち,自由にして至福にならしめ るばかりでなく,花嫁と花婿をひとつにするように,魂をしてキリストと一体 化ならしめる。」 (WA.ll,S.264)ルターにあっては,神と人間は越えること

のできない深淵によって隔たっている。そこで,ルターの場合,神と人間の媒 介者としてのキリストが必要とされ,その媒介者を介して,対立をこえて,人 間は神と一体となるのである。以上にみたように,ルターにおいても,自由な 良心を前提してはじめて信仰が可能であったし,信仰によって魂は神と一体と なる。ヘーゲルの場合と同じように,自由なる精神による信仰において神と一 体となることができるのである。ルターのキリスト者の自由も自由な精神を契 機としてはじめて自由として成立するのではないだろうか。自由な精神のみが 自由を欲するのだから。このようにみてくるならば,ヘーゲルの理解したルター の主体的自由はルター自身のものと考えることができる。

しかし,ルターは人間の意志は非自由であると『奴隷意志論』 (De servo arbitrium,1525)において語っている。そこにおいてルターはエラスムスの 自由意志論にこたえて,永遠の救いは神によってのみ啓示されるのであり,エ ラスムスのいうように,神の恩寵なしに,我々は救いを欲したり善悪を欲した りすることは不可能であるという。ところで,ルターによれば,救いに関して は人間の意志は自由ではないといっても,意志は神によって強制的な必然性の もとにおかれるのではない。強制的な必然性に意志が支配されるならば,自発 的に意欲するということはあり得ないわけであるが,ルターは,人間は意志の 変化を自発的に欲し,そのような行為するという。ルターによれば,それは自 発的に意志の変化を欲するべく神の霊を通じて定められているのであり,この 変化も自由意志によってではなく必然性によって生起したのである。すなわち,

人間は自発的に意欲するという必然性のもとにあるのである。このようにして

ルターは人間の意志は自由ではないと主張するのであるが,このような大前提

にたつならば,神の言葉を受け入れるか否かは自由な良心によって決定される

というルターの考えは,さらに,自由な良心によって自発的に神の言葉を受け

(14)

入れる,あるいは拒否するという必然性のもとにあるということになる。そこ でルターには信仰の前提になるような自由はない,ヘーゲルとルターはその点 において決定的な違いがあるということになる。

ところで,この場合,信仰の前提になる自由のみでなく,信仰の結果となる 自由も否定されることにならないだろうか。「すべては神の意志によって生起 する」 (WA.18,S.705)のであるから。とするならば,ルターのキリスト者の 自由は見掛けだおしの無意味なものになってしまうのだろうか。ルターの奴隷 意志論は,神と人間が絶対的に対立していることと関係している。ヘーゲルの

ように,主体が絶体者としての理性の契機として機能しているのではない。絶 対的対立項として人間と神の間は越えることのできない深淵によってその交流

を閉ざされている。しかし,絶体的な超越者として人間の意志を完全に支配す る神は,そのことによってキリスト者の自由を廃棄しようとしているのではな く,かえって守ろうとしているのである。 「奴隷意志論』において展開される 予定説によれば,人間は神によって救いに予定されるものと滅びに予定される

ものとに分けられ,この神による選択は人間によって不可知である。しかし,

不可知であるということは,これを人間の側からみるならば,誰がどのように 予定されたかは不明なのであるから,選ばれたものも滅びに予定されたものも 区別することはできず,人はすべて同じ位置に立っていることになる。必然性 は,不可知であるが故に,選ばれているかどうかという不安に人を陥れ,高慢 な心を謙虚にすることによって信仰への刺激とはなるが,不可知であるが故に,

意欲する良心の自由を意志から奪わない。「言葉の神を認めないのは意志の責 任である。」 (WA.18,S.686)かえって必然性は不可知の深淵のなかで自由な 良心を守る。すなわち,「人間の作った規定と掟によって我々が奴隷状態に巻

き込まれることを許さないために,神の言葉があり,それによってキリスト者 の自由が肯定される」 (WA.18,S.627)とルターが同じ「奴隷意志論』でいう ように,ルターの予定説によってあたえられた必然性は,人間によって作られ た教会の組織や教養によって我々が魂の支配を受けることのないための防壁で ある。我々は必然性のもとにありながら,かえって,それ故に自由なのである。

神と人間という絶対的な対立項のなかで,人間の絶対的有限性を示したルター

は,そのことによって,人間の無限の可能性を逆説的に示すのである。このよ

うにみるならば,ルターの奴隷意志論にもかかわらず,いやそれ故に,ルター

においても,自由な精神を前提にしてはじめて信仰が可能なのであり,したがっ

(15)

田原:自由と現実       75

て,ヘーゲルが自己の自由の根源をルターの主体的自由に求めることに問題は ないと思われる。

(4)

次に第二の問題を見てみよう。ここではルターの主体的自由は客観的内容を 欠いているとヘーゲルは主張しながら,一方,それが現実的なもののなかへ発 展していく根をもっていると考える。

「ルターの抗議は,はじめは限られた点だけについてであったが,やがてそ れは教義にまでも及び,個々人にではなくて,関係のある諸制度,修道院生活 とか,司教の世俗的支配等などに向けられた。」 (12,S.497)

「主体的自由の権利は,古代と近代を区別する転回点にして中心点をなす。

この権利はその無限性の形式においてはキリスト教において言い表されており,

そして新しい形式の世界の普遍的現実的原理となった。」 (7,S.233)ここ に見られるように,ヘーゲルは,ルター自身の改革運動においても,ルターの 内面的自由が現実化し社会的自由への要求となっていくことを主張しており,

また,世界的視野においては,プロテスタンティズムの主観的無限性の原理が 近代世界を動かす現実的な原理となったことを言っているのである。つまり,

ルターの時代に局限して考えてみても,近代世界の流れのなかで巨視的に捉え てみても,プロテスタンティズムの主体的自由が現実的原理となっていくこと をヘーゲルは主張しているのである。

ところで,ヘーゲルの考えているように,プロテスタンティズム,とくにル ターの主体的自由は現実的原理と成り得たのであろうか。ヘーゲルのルター把 握に問題はないのだろうか。中埜氏は,「ヘーゲルにとっては,宗教改革を介

して,<宗教的・内的な自由と政治的な自由との結びつきは本質的なものであ り,〉これがさらに一般化されてく宗教的なものと政治的なものが自由の中で 結びつく〉」というパンネンベルグの意見を批判的に紹介し,⑥神と人との主 体的同一性があったという点ではヘーゲルとルターは共通点をもっているが,

ルターの場合は内面的な意味で「神の前での」自己と神との主体的同一性であ り,したがって内面的世界を出ることはないが,ヘーゲルの場合は「世界の中 なる」神の前での自己と神との主体的同一性だから,それは必然的に主体的・

客体的同一性へと到る。その点でルターとヘーゲルの主体的自由ははっきり区

別される,と述べている。⑦ルターの場合には,内面的世界をあくまでも出る

(16)

ことはないという考え方である。

たしかに,ルターは『キリスト者の自由について』において,信仰の世界か ら外的世界を斥けてはいる。それは次の文に明らかである。

「いかなる外的事柄も,それがなんと呼ばれていようとも,人間を自由にし,

信仰に入らしめないということは明白である。………身体が囚われていない,

新鮮であり,健康である,欲するままに食べ,飲み,生活するということが,

魂にとって何か役に立つのであろうか。身体が,その意に反して,囚われてい る,病気で弱っている,飢えている,喉が渇いて苦しんでいるということが,

魂に何の害を及ぼすであろうか。」 (WA.7,S.21)

ルターのキリスト者の自由は内面的自由であって,外的な現実的世界とは質 的に異なる人間の内的世界において成立する。したがって,それは外的世界か らは独立している。ルターに従えば,「内なる人は,魂にしたがえば信仰によっ て十分に義とせられている」 (WA.7,S.30)のであり,信仰にはいかなる 行為をも必要としないのである。

ところで,ルターは,すでに当時において,「信仰のみ」を強調することに よって善きわざを禁じるものであるという非難を受けているが,ルターは実際 に行為を二次的なものとしてしか見ないのであろうか。ルターは信仰と行為の 関係について「神の国は話や言葉にあるのではなくして,実践において,すな わちわざにおいて,訓練においてある」 (WA.8,S.4)といっている。こ の言葉によって,彼は信仰の条件としての行為について語っているのではなく,

信仰とは内面的なものであるが観念的な事柄ではなく,現実にこの世に生活し ている人間の問題であることを示している。1520年の「善きわざについて』

(Von den guten Werken)のなかで信仰と行為の問題について論じて,ルター

は「人間の本性は一瞬間たりとも行うか行わないか,あるいは受けるか避ける

かなしではあり得ない」 (WA.6,S.212)といっている。ルターは,人間は

生活のなかであらゆる瞬間に決断を迫られているのであり,したがって信仰の

うちに生きるということは,重大なことであれ,些細なことであれ,日々のな

かで生じてくるあらゆる事柄を信仰をもって決断することであるといっている

のである。ルターが信仰から行為を斥けるのは,信仰は内面的な事柄であり外

的行為の結果として成立するのではないからであるが,一方,信仰は日常生活

におけるあらゆる行為を決断するに際して常に行為の動機として成立するので

あるから,その意味において信仰は行為を離れては成立しないと考えるのであ

(17)

田原:自由と現実       77

る。

「キリスト者は自己自身のうちに生きず,キリストとその隣人において生き る。信仰によってキリストのうちに,愛によって隣人のうちに生きる。………

見よ,これが正しい,霊的な,キリスト者の自由である。」 (WA.7,S.38)

同じ1520年の「キリスト者の自由について』の結句においても,以上のように 信仰と愛の行為の統一においてキリスト者の自由が成立することをルターは主 張している。また,『キリスト者の自由について』は,内面的信仰の問題を論 じながら,その背景は,信仰を外的世界から切り離すという主張を通して,ド イッを心身ともに支配していたローマ教会の体制をつき崩すというすぐれて現 実的な問題を論じていると見ることもできる。事実,やはりユ520年の『キリス

ト教的身分の改善についてドイッ国民のキリスト教的貴族にあたう』(An den christlicher Adel deutscher Nation von den christlichen Standθs Bessθrung)

においては,ルターは,ローマ教会の物心両面にわたる搾取の現状を痛烈に告 発している。ドイッを「ローマの雌牛」として,巧妙な手口によって,教会も 都市もすべて荒れ果てるまで根こそぎ収奪しようとしているローマにたいして,

「ドイツを圧迫する困苦と重荷」 (WA.4,S.405)にたいして,ルターはド イツ国民の与望を担って叫んでいる。そこには実践のなかに信仰をおき,世俗 的生活を肯定したルターの立場が明白にみえるのではないだろうか。このよう に見てくるならば,ルターのキリスト者の自由は現実的なものとの対立のなか で,それだからこそ同時に強く現実的なものと結び付いているといえる。たし かに,ルターにおいてはヘーゲルにおいてのように信仰と行為,あるいは(主 体的)自由と現実的なものは有機的に結合されていない。したがって,両者の 結びつきは恣意に委ねられる可能性を残している。そこにルターの現実におけ

る実践的態度のずれをみることもできる。たとえば,同じキリスト者の自由の

立場に立ちながら,1520年にローマ教会にたいしてとった態度と,1525年の農

民戦争においての態度のずれなどはそれであろう。しかし,右にみてきたよう

に,ルターの信仰は行為のなかでこそ意味をもっていたのであり,現実的な生

活をはなれてルターは信仰を考えることはできなかったのである。一面,信仰

は行為の動機とはなっても結果になることはなかったので,そこにヘーゲルの

いうように客観性に欠けるところがあり,さらに一貫性に欠けるところもあっ

たと思われ。しかし,その抽象性にもかかわらず,ルターの信仰は,そしてキ

リスト者の自由は,ヘーゲルのいうように現実のなかにその根をもっていたの

(18)

である。

以上,ヘーゲルがプロテスタンティズム,とくにルターの信仰のなかに近代 世界の原理である主体的自由を認め,その成熟したものとして自己の自由を考 えたことについて考察した。ヘーゲルのルターにたいする評価については,ヘー ゲル自身のルターへの誤解があるという批判もおおいが,ルターというよりは,

ドイッにおけるルター派教会の果たした役割に眩惑されて,ルター自身の意味 についてのあやまった先入観が,かえってそれら批判のなかにみられるのでは なかろうか。細かい点では,これからの展開にまたなければならないが,ヘー ゲルのルター理解は大筋において誤りはないといえるということを示した。

引用文ならびに註において数字のみを示した場合は,G.W.F.Hegel Werke in zwanzig Banden, Theorie Werkausgabe, Suhrkamp Verlag,1970の巻数を 示し,WA.はD.Martin Luthers Werke, Kritische Gesamtausgabe, Weimar,

1833ffの略号であり,そのあとにつづく数字はその巻数を示す。

「参考文献」

中埜 肇『ヘーゲルとルター自由と信仰』 (中埜著『ヘーゲル哲学の根本にあるも

の』以文社刊。)

「註」

(1)cf.8.S.47

(2)中埜 肇『ヘーゲル哲学の根本にあるもの』76ページ参照。

(3)拙稿「宗教と社会一く宗教哲学〉」 (城塚,浜井編『ヘーゲル社会思想と現代』

東大出版会所収)参照。

(4)中埜 肇 前掲書87〜90ページ参照。

(5)拙稿「国家権力と人間一ルター社会倫理思想における問題点」 (淡野,城塚編

『社会倫理の探究』勤草書房所収)参照。

(6)中埜 肇 前掲書85ページ参照。

(7) 〃    〃 92ページ参照。

参照

関連したドキュメント

 親権者等の同意に関して COPPA 及び COPPA 規 則が定めるこうした仕組みに対しては、現実的に機

私たちは、私たちの先人たちにより幾世代 にわたって、受け継ぎ、伝え残されてきた伝

基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として決定するも

神戸・原田村から西宮 上ケ原キャンパスへ移 設してきた当時は大学 予科校舎として使用さ れていた現 在の中学 部本館。キャンパスの

夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな

基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として各時間帯別

現状の 17.1t/h に対して、10.5%の改善となっている。但し、目標として設定した 14.9t/h、すなわち 12.9%の改善に対しては、2.4