経営参加と労使協力
著者 鯰江 城夫
雑誌名 關西大學商學論集
巻 創立七〇周年記念特輯
ページ 101‑119
発行年 1955‑11‑04
URL http://hdl.handle.net/10112/00022227
経 営 参 加
労使関係を研究対象とする場合︑国民経済学的に︑法学的に︑或いは社会学的に︑其他諸種の立場から之を考 察する事が出来るが以下に於ては経営学的角度に於て︑特に我国終戦後のインフレを基調とする経済復興策の破 綻︑国民経済の行詰りの打開策としての生産性向上と︑時代的要請としての労使協力に付いてその方法と問題の 所在を経営参加制度との関聯性に於て捉えんとするものであるが︑斯様に限定した場合に於ても猶︑経営参加と
労使協力とは如何なる関係にあるかは︑
付ては経営学的立場に於てよりも学者以外の︑例えば企業の経営者︑労仇組合の代表者等により実際問題として 採上げ︑論ぜられる場合の方が多く︑又その一環として経営参加が論議される場合に於てもその内容に付き統一 された見解に基くものではなく︑殊に之を労使関係論との関連性に於て見た場合︑論者によって著しい懸隔が見 出され︑問題を経営学的観点に局限した場合に於ても両者の関係は猶未だ明かではない︒即ち一橋大学︑山城章
( 1 ) ( 2 )
教授の論文﹁経営参加の企業理論﹂及び京都大学︑田杉競教授﹁経営参加の労使関係的考察﹂に於ては何れも経
経常参加と労使協力︵鯰江︶ と
しかく明瞭ではない︒云ふまでもなく労使の協力協調に関する諸問題に 労
使 協 力
ムる
江
城
夫
I O I
営参加を論ぜられるのであるが︑之等斯学の権威の論ぜられるところに於てすらその理解される内容︑範囲は異 り︑従って又その説かるる結論に付ても説が分る
4ものである︒随つて以下に於て経営参加と労使関係︑労使協 カの問題を論ずるに当つては先︑之等両説を中心としてその説かる
4
経営参加の内容を理解する事より論をす 先︑山城教授の見解よりみるなれば︑経営参加とは独り労仇組合のみが企業経営に参加するものではなく経営に対境関係を形成する利害者集団
( I n t
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)
の各代表者全部が参加する︵すべき︶もので︑営に対する利害者集団の一っとしてその他のものと同じ立場に於て企業経営の中心的機能である決定機能に対し てのみ参加するものとされる︒即ち教授によれば経営参加の主体は労仇者個人ではなくして労仇組合の代表者で
あり
︑ しかも参加すべき主体は独り労仇組合のみに止らず︑﹁政府の経営参加﹂﹁金融機関の経営参加﹂
大衆の経営参加﹂の如くすべての利害者集団の代表者も参加すべきである︒而して特に組合の代表者を主体とし て労仇者個人をしりぞける理由は経営内に於て従業員が経営機能の一部たる会計計算事務を担当するとも経営参 加と云ふべきではないと同じく労仇者が経営活動の一部機能を担当する事は当然の事であり︑経営参加と呼ぶべ きものではなく︑又労仇者は経営構成員であって経営を受けるものであるが故に︑経営を受けるものが経営する 者︑管理する者の行為に参加する事は無意味であり︑又︑経営体を解体に導く原因となるからである︒次に経営 参加の客体︑如何なる機関に︑又如何なる機能に参加すべきかに付ては︑現代的企業に於ては組織化と最高人事
機能は株主総会が有し︑ め
たい
︒
かくして生成した企業体の最高活動方針を決定するのは取締役会が担当し︑之に基づき
労仇組合も経
執行的管理が執行機関︵社長以下の︶によってなされるのであるが︑か
4
る現代的企業に於ける経営機関と経営機 能の関係よりすれば取締役会に於て︑而も最高決定機能に対し参加すべきであって特に仕事の仕組であり専門家 によって担当されている管理以下には絶対に参加すぺきではない︒現代的企業に於ては労仇組合は経営に対する 利害者集団として資本醜出者と同じく対境関係を為しているが猶之以外にも消費者集団其他の集団があり︑之等 集団の主張が経営体側の利害の自主的主張と錯綜し︑勢力関係による強い者勝の経営体の支配争いが生じる可能 性があるから之等経営自体の利害と対境的利害の総ての立場を調和せしめる体制としてのみ経営参加を認めんと するものである︒特に︑執行︑管理する機能や機関に参加する︑管理参加では絶体にあってはならない︒蓋し管 理的執行活動は専門的担当者の責任と権限に属し︑自らの創意と自主︑責任に於て執行せらるべきであって︑他 の専門家や素人の参加が問題となるものではない事による︒具体的に云えば社長以下部課長等すべての活動への 参加は問題となり得ないC
要するに次に述べる田杉教授の見解との関連に於ける山城教授の主張は①経営参加は 労仇者個人ではなくして労仇紐合の代表者の資格に於て為さるべき事R労仇組合の経営参加は教授の対境関係︑
即ち経営体に対する労仇組合以外の利害関係者集団と同列に於て参加すべきでありR参加すべき機能は経営の最 高決定機能にのみ限定され︑管理的執行には飽迄参加すべきではなく④而して現実に参加すべき機関は経営の最
高決定機能を担当する取締役会にのみ限る事︑の四点に於て見る事が出来る︒
以上の如き山城教授の主張に対し田杉教授の経営参加に付ての理解は︑先︑右の中Rの参加すべき機能を決定 機能のみとする点に於て異る︒即ち︑決定とはタンネンパウムも指摘する如く三つの過程を有するもので︑第一
経常
参加
と労
使協
力︵
鯰江
︶
! 0 3
に決定さるべき幾つかの可能な行動の方法を探知する事︑第二にそれぞれの方法が如何なる奴果︑犠牲︑限界を 有するかの考察︑第三にその一っを選択決定する︒決定が斯様な段階に於て為されるものならば単に第三の形式 的決定のみならず第一︑第二の提案や︑情報の蒐集︑整理︑及び結果等を論議する事が為されなかったならば決 定が炊果的に行われない事よりして之等の過程も決定と見るべきである︒而して斯く解する時は④の参加すべき 機関を取締役会にのみ限定する説に対して︑形式的には労仇紐合代表の取締役会に於ける決定参加ではなくとも 執行的地位にあるもの︑或ひは作業者も決定の事実的過程に参加する意味で経営参加と解すべきであり︑執行的 活動には経営参加は許し難いとする事は認め難い︒執行活動は決定された方針に従ひ発せられた指令を具体的情 況に応じて解釈し︑具体化する余地があるばかりでなく各部署の具体的情況を報告し︑又それに基づく改善や提 案を為す権限が与えられる︒従って此意味に於ける経営参加の主体は必ずしも①の労佑組合の代表者とは限らな い︑労仇者が正式の協議︑又は諮問機関に於て意思を表明し管理組織内の一員として自己の権限︑責任に関連し て組織の上府部に提案や意見を述べる事も経営参加と呼ぶべきである︒而して③の対境関係論に付ては経営に対 する利害関係者が各々の利己的な要求を通す丈では生産の増大︑調和ある社会の発展は不可能であり︑経営の支 配を勢力関係に放任する事が企業の永続的繁栄を害し経営の社会的機能︑経営者の社会的責任を全うする所以で なく︑現在企業を発展させる為には経営体の自主の立場︑資本家の立場︑労仇組合の立場︑消費者大衆等の立場 をすぺて勘案妥協し︑相互に調整する体制が必要である事の主張は正しいとしても︑
か4
る利害関係者集団の巾 で泊牲者大衆を別とすれば株主や金融機関や取引先等の如き躯団は経営者と或程度まで共通の論理︑ビジネスの
論則︑或いは能率の原理によって判断を為し︑共に合理的な判断某準を有つている︒それ故利害の一致も容易で
あるが労
1 1 1
者の第団丈は異質の存在であり︑之をそのま
4には認めない︒資本主義社会に於て労仇者はその生活 環境も経済状態も︑価値判断も経営者とは異るものである︒しかも労仇者が団結して労仇組合を組織した場合は 一府経営者の論理を承認せず︑特定企業の繁栄を問題とするのではなく企業の範囲を超えた階級の利害を考へて 行動するものである︒それ故にこそ社会は企業をめぐる利害者集団の中︑労仇組合に対してのみ団体交渉といふ 制度を設け︑その意思を対等の立場で主張させる事となっている︒利害関係者集団の調整は理想ではあるが︑労 仇者と労仇糾合に付ても他の集団と区別して論ぜられねばならない︒又組合の代表が決定機能に参加した場合︑
経営の立場を認める事となり︑組合の意思と異る決定に拘束される心配も考えられるが故に決定に対する参加よ りも団体交渉と生産委員会方式による諮問機関への参加を主張されている︒
( 3 )
斯かる田杉教授の説に対し山城教授は再び﹁経営参加論の批判に答える﹂に於て︑労仇組合代表者が取締役会 で組合の意思と異る決定に拘束される危惧に付ては単に之は労仇組合のみの問題ではなく他の集団にも共通の問 題であって︑個々の立場も一旦決定されたものは尊頂するのが制度としての経営参加の性格であり︑調和はルー ルである︑労仇組合のみならず他の利害者集団も決定に従ふは当然である︒更に又決定機能の解釈に付ては①決 定そのものR決定のスタフ機能R執行そのもの④執行のスクフ機能の四者をも経営参加なりとするは誤りであ る︒その中の①のみ︑しかも取締役会への決定参加が正しい意味での経営参加であってそれ以外のRR④は労使 協力と称すぺきものである︒ラインとスタフの関係に於て見られる如く職務権限の明確化︑組織の確立化は経営
経営参加と労使協力︵鯰江︶
105
註
(1
)P
R
誌
第 五 巻 螂 四 号 五 頁 以 下
(2
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R
誌
第 五 巻 第 八 号 五 頁 以 下
(3
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R
誌
第 五 巻 第 九 号 三 五 頁 以 下
にとり重要な事柄であり決定そのものと︑その権限の主体︑決定に至るまでのプロセスとプロセスに於ける協力
者とは厳に区別しなければならない︒決定はその権限ある機関︑人︑部門が担当し︑責任を有して居り︑プロセ
スの協力者は協力に関する権限と責任はあるが決定そのものではない︑権限と責任を不明確にする事は組織を破
壊せしめるものであると主張される︒要するに経営参加の理解に於て前者の四点に於ける主張に対し︑後者は①
主体は労仇組合及び労仇者をも含め広く理解しR対境関係の一環としての決定参加よりは労仇組合の異質性より
して団体交渉と諮問機関への参加を可としR決定に至る過程をもその事実過程よりして参加と解し④取締役会以
外にも執行機関への参加をも認めるべしと主張されるものである︒
右に概観した如く経営参加に対する両主張はその凡ゆる点に於て対蹄的な意見の対立が見られる様であるが︑
斯かる相異の生ずる所以は経営参加そのもの4理解に付て之が労使関係に於て如何なる立場︑関連性を有してい
るかの解釈の相異に基因し︑猶斯様な相異を生ぜしめる理由は又更に深く根本的に企業論上の立湯の相異︑労使
関係の本質的なものに対する認識態度の相異・によるものと考えられ︑随つて之等を明かにする為にはその背景を
為す企業の性格︑企業経営の実質︑内容及び経営者載能等に対する両教授の見解にまで糊る事を要し︑特に労使
の基本関係に付ての理解︑労使を飽迄本質的に対立関係として見るか否か等に付ての詳細な検討︑其等に対する 本稿の立場をも明かにする事を要するものと思われるが︑以下に於ては労使関係の有する二面的性格と経営参加 本来経営に於ける労使関係は二而的性格︑即ち階級的︑対立的な面と経営体を媒介とする運命共同体としての
協調的な面とを併せ有するものであって︑国民経済的には階級的に対立する立場にある労使関係も一旦両者相筒 つて経営体を形成する限りに於てはその経営単位内に於けるそれぞれの利害が経営の消長に最終的基礎を置く点 に於て運命を共通にするといふ面を有つに至る︒然し又更にその獲得せられた成果の配分に付ては経営内部に於 ても再び利害相反する立場に立つ事となる︒即ち之等の二面的性格の何れの面に重点を置くかによって労使関係 の認識︑政策的取扱ひ方が異つて来る︒経営を飽迄之を構成する要索としての労使関係に重点を置き︑構成要素 的に見る場合︑確かに労︑使は対立し利害相反する性格を有つてゐる︑と共に此対立的性格を有する構成要素を も之等が相俺つて形成するところの経営体を中心として機能的観点に於て之を把握した場合︑経営の盛衰が労︑
使何れにとつてもその利害を一致せしめる限りに於ては対立的な性格は消え︑協同関係にあるものと云ふ事が出 来る︒労使を対立的のものとするも協同関係にあると見るも︑要は此二面的な性格の何れに重点を置き何れを支
配的と見るかにか
4
つてゐる︒而してか4
る労使関係が現実の経営活動に於て如何なる点に対立し︑如何なる場 合に利害一致し協調可能となるかに付ての理解と︑経営参加と云ふ場合もその参加すべき経営とは経営活動の中 の如何なる部分を意味し︑経営に参加する事は此労使の二面的な性格と如何なる関係にあるかと見る事によって
経営参加と労使協力︵鯰江︶
との関連性に付てのみ考察し度い︒!07
経営参加の適用も政策も異るぺき筈である︒即ち︵一︶先︑経営内に於ける労使の関係を飽迄その対立的な性格 に煎点を懺くか︑或ひは経営体を中心として協調的なものと見るかによって異り︵二︶次で労使の対立と協調と を現実の経営活動の上に如何様に理解するか︵三︶最後に経営参加とはか
4
る労使の関係に対して如何なる立 場︑内容を有つと理解するかによって異るものと思ふ︒然らば上述の両説は之等の点に付ては如何様な見解に立 たれるものであろうか︒先︑前者の対境関係説は第一の点に付てはその説かる
4ところよりして構成体の内部に 於ける労使協調の可能性︑否︑必要性を強調せられる様であり︑その主張される経営参加とは﹁特に経営体の活 動を上層の経営
( A d m
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とそれ以下の執行的管理
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に分つときは︑前者の経営の中のしかも 最古回方針の決定にのみ︑取締役会に於て労仇組合の代表が他の利害関係者集団と同列の立場で参加すべきであり
( 1 )
:・・・・経営自主体に対し対境関係にあるものが各々の利害を相互に調整する体制をつくり出す︒﹂
﹁労仇組合の経
愕参加と労使協力とを明確に区別した︒⁝・・・田杉教授は参加と協力とを区別しないで広く参加と解される︒⁝⁝
( 2 )
私見は参加と協力とを厳に区別し決定取締役会参加以外はすべて労使協力と呼ぷ﹂と述べられているところより して第一︳一点の経営参加と労使協力との関係に付ては両者を一応別個のものとして区別され︑従って経営参加とは 労使協力以外のものであって各々の主張と利害の調整を図る事を制度化するところのものである︒即ち労使の対 吃は経営活動の中の最高決定に於てのみ調整されるべく一旦かくして調整された以上は仮令労仇組合の主張︑利 ヽ害が允分に認められない場合にも蚊日千対立は存在し得ない︒その決定に服従するは当然であって万一飽迄それが 不満である場合には参加しないか脱退が考えられるものである︒従って調整されるぺき利害︑労使の対立は披邸
経営
参加
と労
使協
力︵
鯰江
︶
現実の経営活動に於て如何様に理解するかの問題に付ては生産性の向上といふ目標に於て執行管理以下の経営活 動は労使を協力せしめ得るもの︵協力せしむべきもの︶と理解し︑経営内部に於ける両者の協調に重点を置かれる︒
之に対して後者の説は﹁労仇組合は経営者の理論をそのまま承認しない︒労仇組合は単に特定の企業の繁栄を問 題にするのではな<│ービジネスの論理をそのま
4には認めなぃー一人の人が経営者として同時に団体交渉の
( 3 )
相手方としてテープルの両側に座る事は出来ない﹂と云はれる如く第一の点に付ては労使を構成要索的に理解し 本質的に対立関係にあるものとされる︒従って経営参加に付ても最高決定機能に付︑決定機関たる取締役会に於て 経営に対する利害関係者集団が各々の利害の調整を図る制度よりも労仇組合のみは団体交渉によるべき事を屯張 され︑労仇者が決定に参加する制度を有たずとも経営協議会︑生産委員会︑職場委員会の如き諮問機関的性質のも のに於て十分その意思を経営に反映せしめ得るものとし︑或ひは経営参加の内容に付ても経営に於ける決定機関 としての取締役会の無力化と決定機能の事実的過程の分析よりして最高決定への参加のみならず更に決定に対す る提案︑情報策集整理をも経営参加として強調される事は第二点の現実の経営活動に於ける労使の対立に付ては 管理以下にも之を認められるものであり︑而して又第三点の労使協力と経営参加との関係に付ては取締役会以外 の管理︑執行をも経営参加なりとされるが︑経営参加労使協力との関係︑異同に付ては直接明かにされていない︒
斯くの如く両教授の主張は凡ゆる点に於て見解の相異が見受けられる︒若し両説が何れも経営参加の定義なり︑ に於ては主張し得ない︒ 決定に於てのみあり︑それ以下の執行管理にはあり得ない事となる︒仮令対立があるものとしても最高決定以外
︵執
行管
理に
於て
これ
を為
す事
は企
業を
破壊
する
事と
なる
︶ 即ち第二点の労使の対立と協同を
109
内容如何を論ぜられるが真意であるなれば之等の点に付ての詳細なる究明が必要であろう︒乍然両説は唯に論ず
る経営参加の範囲を異にするのみならず立場に於て異る︒而して又我々も経営参加の解釈の当否如何を論ずるよ
りも︑それ以前に経営参加を通じてその背景を為す労使関係を明かにせんとする事に於て問題を有つ︒即ち労使
関係の二面的性格に於て前説は経営自体の機能的立場より︑その協調関係を重視し︑後説は構成要素的にその対
立的性格を重視する︒従って一は取締役会︵対境関係︑経常内部︶に於ける調整可能となるに対し︑他は団体交渉
による争︑力関係を認める事の主張となり︑或いは又労使の利害関係の対立に付ては一は成果の配分に於けるそ
( 4 )
れを主として重視し︑管理以下に付ては生産性向上に於て労使に対立よりも共通基盤を求めるに対し︑他は飽迄
配分関係のみならず執行管理面に於てもその対立関係を問題とするが故に生産委員会︑経営協議会等の諮問機関
を重視する事となる︒前説は飽迄企業論的︑理念的に経営参加の何たるや︑如何にあるべきかに重点を置いて問
題とするに対し後説は経営参加自体︑そのあり方よりも︑それ以前の労使の対立関係を前提としてその衝突と結
合による調整に重点を置いて経営参加を関連的に採上げる点に於て異つてゐる︒更に一は理念的立場に於てでは
あるが暗黙の中に労使の対等を前提とせらる
4
に対し他は客体的存在︑弱者としての地位にある労仇者を認め︑その地位の向上︑擁護を問題とせられるものである︒
斯くの如く両説に於て立論の前提が異るものとすれば之を同一平面に於て比較する事は不可能となる︒即ち経
営参加の企業理論︑経営学的に経営参加とは何を云い︑如何なる態様を指すか︑殊に山城教授自らも﹁経営参加
の企業理論と云ったのはわが国その他世界各国の実情の説明でなくその理論を考えて見たのである︒参加とは経
営学的には本来か
4
るものである⁝⁝しかして現実にはこの理論通りになっていないけれども⁝⁝﹂と云はれる
︑︑
︑︑
如くあるべき姿としての経営︑対境関係的経営自主体︑或いは経営参加を論ずる場合には前者の説は充分に意義 がありその限りに於ては正しいと思はれる︒或いは決定機能の分析︑決定機関との関係︑ラインとスクフ︑権限 と責任に対する理論の明快に付ては教えられるところが多い︒斯様に経営参加自体の理解に付ては後説は積極的 主張がなく︑又経営参加と労使協力とは如何なる関係にあるか等の点に付てはその主張が明かでない︒乍然前者 の説に於て経営参加と労使協力との関係を︑決定取締役会参加をのみ経営参加なりとしそれ以外はすべて労使協 力なりとされる点には疑問を有つ︒学問的に労使協力と云ふ語句が果してその経営参加との関連性に於て正確な 内容の表現が可能であらうか︑別言すれば労使関係に付ては経営参加と労使協力とを区別する以前に労使関係︑労 使協力の内容︑本質と経営参加との関連を明かにする必要があるものと思ふ︒例えば労使関係が対立的と協力的
の二部分︵二面性︶を有つ場合︑
経営参加︵対境関係内部に於ける労使の利害調整︶は之等二部分の中の如何なる範
︑︑
︑︑
囲を覆ふものであるか︒︵特に対立との関係に於て︶勿論前説があるべき経営参加を論じ︑その内容を限定し︑それ
︑︑︑︑︑︑︑︑
以外の関係は労使協力と云ふと規定する事は自由であるが︑もともと労使協力と経営参加とは同一平面上で区別
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
し得ないもの︑カテゴリーを異にするものと理解し度い︒経営参加は労使の対立の一部を覆ふと共に労使協力の
︑ ︑ 即ち協力︵対立︶以前のものと思ふ︒此事は前説の主張する経営参加を上層の最高決定
一部をも包含するもの︑
にのみとゞめる可きか或いは管理参加には及ぼす可きではないかの問題に付て重要な関連性を有する︒
( 5 )
次に対境説は理想なりや理論なりやの問題に付ては山城教授自身も認められる如く経営参加の企業理論がある
経営
参加
と労
使協
力︵
鯰江
︶
111
︑︑
︑︑
べき態様のそれである限り目標としての正当さを有し︑又経営理論にたずさはる者は経営体のあるべき形態を探 究し之に基いて現実を指導し︑飽迄それの実現に対する努力を怠つてはならない事は云ふ迄もないが︑
に現実が理論と隔たる処猶遠き場合︑それにつながる現在の直接目標を設定し具体的政策を考察する事も亦為さ るべきではなからうか︑例えば対境的経営自主体が実現さるべき正しい企業形態であるとしても現実が経営者独 オの方向に指向し︑或いは出資者が︑労佑者階級が︑消費者が︑弱者としての立場に置かれてある時は経営自主 体の成立に努力を致すと共に他方その独才者を抑え弱者を保護する具体的方法をも考える事は必要であらう︒斯 かる観点からすれば叙上の両説は相互に相容れぬものではなく両立可能であり︑而してその何れに重点が置かる べきかは現実の認識によって分れる事となる︒而して現実に於ける企業性格の変化︑経営者の機能的変化を顧み る時は確かに一方には対境説の主張する如き︑
ボールディングの所謂組織革命︑或いはイギリスに於ける公共企 業体に対する消費者の発言権の認められてゐる事実等経営に対する利害者集団の形成︑組織化が見受けられ対境 的経営自主体成立の可能性を示すが︑それと共に又全く反対の現象としての経営者独オも成長しつ
4ある専が看
取される︒即ち全く対立せる性格のものが現在の企業内部に於て同時に成長しつ
4ある︒而してその何れが将来
の支配的形態となるかは簡単に断定すべきではないが︑現状と︑将来の予想よりすれば対境的経営自主体の成立 よりも却つて取締役会の無能化を通じて経営者独オの方向に指向するものと思ふ︒蓋し田杉教授の指摘されるゴ
( 6 )
ードンの説︑或ひはホールデンも云ふが如く︑米国に於ては取締役会に於て公衆及び従業員の代表は重要視され ず︑又取締役会自体が漸次その職能を退化せしめて居り︑或ひは我国に於ける社用族︑三等重役の横行︑株主総会
に於て経営者の意見を押付ける﹁御用総会屋﹂等は社外取締役の無能化と共に経営者独オヘの過程と見るが真実 に近いと思はれるからである︒随って又此事は理想︵理論︶としての決定取締役会への参加よりも管理以下の執 行への参加︵協力︶を重要視する論拠となる︒即ちあるべき経営参加︑
中の如何なる機能に於てなさるべきかの観点よりすれば最高決定におけるそれが理想であるとしても現実の認識 に於て経営者独裁の弊害を認める場合︑正しき企業形態を形成する為の過渡的形態としても決定参加以外に団体 交渉にせよ︑管理以下への参加にせよ或いは従業員持株制による株主総会参加にせよ目的論的に効果的ならば可 能な各種の方法を考える事は当然と云はなければならない︒後者の中心論点が経営参加のみに終始するものでな
︑︑
︑︑
い限りあるぺき経営参加の態様を明かにするのみでは猶問題は残るであらう︒而して弦に採る立場も理論として
の経営自主体の正当さ︑
又は利害関係者の利害調節は経営活動の それへの努力の怠るべからざるを認めつ
4猶現状を経営者独裁への過程と視るが故に当
面の方策としては先︑弱者としての労仇者︑出資者の地位の向上より出発し︑最終的には消費者其他総ての利害 者集団をも含めた経営自主体制度の確立に至るべきものと理解し度い︒斯く解すれば経営参加の理解には誤りあ りとしても管理以下への協力︑参加を考えねばならない︒蓋し既述した如く現在の取締役会に於ては到底︑労仇 者の最も希求するとこるの日常的︑経常的要求は採上げられる機会がなく又創意と責任とを以て協佑意思を発揮 せしめる為に十分な機関としての機能を果さず︑決定機能に対る事実過程としてのスタフ機能の影響の重要性と 労使関係の二面的性格の中︑利害関係の対立は最高決定機関に於て調整されて後も猶︑執行的管理面に於ける対 立に重要な問題が残り︑且又後述西独の例に見るが如く管理に参加するも敢えて経営を破壊せず︑諮問的機関に
経営
参加
と労
使協
力︵
鯰江
︶
113
註
(1
)
前 掲 誌 第 五 巻 第 四 号 六
︑ 七
︑ 八 頁
( 2 ) I I第 九 号 三 七
︑ 三 八
︑ 三 九 頁
( 3 ) 1 1第 八 号 八 頁 (4)
山城教授は「紐営者」(-橋大学産業経営研究所ピジネス•Vピュー第一巻第二号)三九頁に於て「
. . . . . .
ここで相互
支配的なあらそい関係は経営体の成果についての分配詞係である。•…••この成果の質菰ともに大なることが緯営の目概であると共に社会的︑公共的各利害者への役立ちの某礎になる⁝⁝﹂と遮べられ対境的利害者対立を主として分配胴係
にありとし︑且諾堂体の目標を﹁生産﹂成果の充実に於て統一されんとしてゐる︒
( 5 )
前褐誌第五巻第八号八頁及び同第九号三七頁
( 6 )
ホールデン﹁トップ・マネージメント﹂訳本一︱
10
五頁三ーニ頁参照
以上の様な経営参加に対する理解の相異は従って又︑その適用如何に付ての政策面に於ても表面的には異る主
張を導き出して居るが如くである︒即ち対境説に於ては経営参加を以て現代的企業に於ては当然に承認せらるべ
きものであるが現下当面の企業現実を見るに去る昭和二十六年の商法改正により人的︑資本的企業観に立つ株式
会社が現代的企業に切替えられ取締役会が機能上︑最高決定機関となり執行︑管理は別の社長以下の執行機関が
担当する事となったに不拘︑我国企業の殆んどは新取締役会を執行機関的に理解するが故にか4る取締役会に参
加を許す時は執行管理機能への参加となると共に他方︑経営参加主体たる労仇組合の政治的理念偏向が強く経営
労使関係的洗錬が不足であるが故に経営参加は時期尚早なりと結論され︑之に対して後説は経営参加は不可能で 於て之が解決は十分可能と考えるものである︒
紐営
参加
と労
使協
力︵
鯰江
︶
も時期尚早でもないとされるがその経営参加の内容は取締役会に対する労組代表の参加ではなく︑経営協議会︑生 産委員会職場委員会の如き諮問機関的性質のものへの参加を云はれるのである︒随つて両説は異るが如きであり 乍ら生産性向上の為の労使の協力︑ひいては企業の繁栄と労仇者の地位の向上確保を目的とする経営参加︵協力︶
一方はあるべき企業体制としての経営参加を論じ︑他方は 現実の労使関係の調整を考えるものであるが故に即時必要と云い︑時期尚早とするも之又何等根本的に対立があ るものではない︒随つて次に斯かる意味での労使協力体制︵或いは謡常参加︶の内容︑方式は如何にあるべきか︑
葱に於て経営参加はその理論を探ねると共に現実への適用に付ての情勢︑諸条件の考察を必要とするに至る︒我 国に於ては曽て敗戦直後︑昭和二十一年以降︑経営協議会︑労使協議制度が採られながら失敗した歴史を有して ゐる︒当時は労佑組合側に産業社会化なるイデオロギー実現の為の手段とする考え方があり︑労仇権と財産権と の調和に対する認識不足と当時の社会情勢を反映した労組側の行過ぎと又一方経営者側も唯︑自己の階級利益の 主張にのみ捉はれ︑経営協議会は労使闘争の場となり団体交渉と同一の性格のものとなった為︑特に之を設置する
事の必要性を失ひ︑且労組側は経営参加を主張しつ
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も実質的にその能力なく主として賃上げ闘争にのみ終始した事︑或いは急進的︑過激な労仇運動に対する批判及び︑その規正措置としての経営協議会の三分化方針の指導に 伴ひ︑賃銀︑労仇時間等の労佑条件︑労仇協約の締結︑改廃に関する事頂は団体交渉により︑協約の解釈︑適用︑
個人的苦情に付ては苦情︵紛争︶処理委員会に於て︑業務並に生産に関する事項は経営者の権限︑責任に於て行
ひ︑生産委員会は助言︑協力機関となったのであるが︑未だ生産性の向上︑労使協力に付ての積極的機運なく︑ に付ては意見の相違を見るものではない︒而して又︑
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執行しなけれならない﹂ 要するに之を発展せしめる基礎的条件を欠いた為その所期の目的を達するに至らず漸次衰微して現在に至ったのである︒然るに最近のデフレ政策に基く経済難局を打開する為︑単に企業合理化のみならず︑国民経済の立場からの生産性向上︑生活水準︑雇用の維持増加策としての労使協力体制の必要が再認識され︑昨年二月には日本生産性本部が設置されたが之等に対して労組側の見解は国民経済的立場に於ける生産性の向上に付ては︑総同盟が六月二十四日の中央委員会で八原則の確認の上での参加を決定したが総評系の労組は不参加を主張し︑又企業単位に於ける労使の協力体制︑経営参加に付ても賛否両論があるが何等かの労使間の新しい秩序が単に時代的要請としてのみならず企業論的にも是非必要である︒
︵ 註︶
醗つて之を西独に於ける経営参加立法に付てその特徴を見るならば西独に於ては一九五一年特定基礎産業部門
の企業に対し﹁共同決定法﹂が五二年に其他一般私企業に対し﹁経営組織法﹂が制定されてゐるが︑前者は労使
の企業社会関係︑生産手段の支配をめぐる利害対立的社会関係に於てその対等の共同決定を意図し︑監査役会に
於ける労使同数の代表者による共同決定と労務担当取締役による共同指揮を規定する︒而して労佑者代表の構成
には労仇組合の直接の影響があるが如くに規定されてゐる点は後者の経営組織法が経営社会関係の共同化を目的
とする故に︑特に労仇組合の影響を極力回避する様に規定されてゐるのに対比して労仇組合が重要視される事に
特色がある︒乍然之等労使双方の代表者及び労務担当取締役と雖も﹁企業及び全国民経済の繁栄の為に﹂
条二
項︶
﹁労務担当取締役は瀕余の法律上の代表機関の構成員と同じく令機関と最も緊密に協力してその任務を
︵第十三条二項︶と規定される如く対立的に行動するものではなく集合的指揮機関の一員
又相互に影響される事は当然であらう︒ として行動しなければならない︒之に対して経営組織法は最初より利害対立的社会関係を除外し︑労使を経営内社会共同者とするものであり︑労仇組合の出先機関でもなく︑又従業貝の資本に対する利害代表機関でもないが故に経営参加の主体としては労仇組合の代表者でなく従業貝自身となってゐる事は特に注意を要する︒又同法第四九条に於て相互協力︑平和義務が規定され︑更に五二条に於て﹁経営協議会と共同して行はれた議決は使用者之を実施する⁝・・・経営協議会は経営指導に付一方的行動によって侵害を行ってはならない﹂とある様に経営指揮執行権は飽迄経営者の手中にあり︑従業員の経営参加によって共同指揮又は経営指揮の二重性が生じるものではなくその統一性が規定されてゐる︒即ち使用者の行ふ決定の過程に従業貝が参加する事によって従業員の社会的利益のセ場から使用者の決定自体に影響を及ぽす事の出来る事が噴要な点である︒即ち経営組織法は飽迄経営内社会共同関係を規定するものであり企業的対立的関係に立入り交渉する事は許されないが第四九条第二項但害に﹁但し労仇協約締結能力ある当事者間に於ける労仇闘争は之によって影響されないものとする﹂とある如く労仇闘争は否定されるものではない︒唯之は労仇組合によって為さるべきだとされてゐるものである︒又従業貝は特定作業の担当者ではあるが︑経営参加はか
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る組織的職能に介入するものではなく異る共同的社会関係を目標と するものである︒唯然し企業的対立関係と云い︑組織的作業機能担当機能と云い︑或いは社会的共同関係と云ふ も何れもその構成者は同一人であり異る社会的関係のカテゴリーに区分されるに過ぎないが故に之等の諸関係は 要するに西独の経営組織法は経営協力の為の機関であり労仇者の利益擁護の機関でもあるがその根底には労使
経営参加と労使協力︵鯰江︶
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を対等のものとし社会的協力者︑生産共同体と視る思想を有し︑又労使双方共︑社会的使命乃至責任感を有する 点︑労仇者は政治的には左翼的偏向なく現実的である事等我国とは幾多の相異点を有し殊にその国民性よりして 労使関係を法律によって規定する事に付ては一概に之を我国に比較適用を考える事は誤であるとしても︑猶我国 現在の労使協力体制並びに経営参加の諸問題に対し︑経済的条件に於て敗戦による領土喪失︑人口過剰︑資源の 不足︑而して労仇力︑工業力を充分に活動せしめる為には輸出に頼らざるを得ない事等多くの共通点を有する西 独の経営参加立法は幾多の示唆に富み︑経営組織法に於て経営参加主体を労仇組合の代表者とは全然別個の労仇 者より選ぶ点︑決定の過程に参加を認め執行権は経営者に確保する点︑労使の利害対立的関係は全く別個の組織 たる労佑組合に譲り︑生産共同社会的関係にのみ限定する点︑作業に於ける組織的職能には介入せざる点等は前 節の諸論に対比して直接関係ある問題であらう︒
乍然か
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る労使協力的経営参加立法に対しても猶伝えられるところによれば必ずしも労使共之に満足せず一昨 年七月末には全国的規模の労仇争議が発生し︑或いは経営参加立法によって逆に会社全体の利益の為に労仇者側 の行動が制限され︑且労仇重役も労仇者の利益のみを一方的に主張し得ないのみならず労組の中央機関より派遮 された者は当該企業についての智識経験が浅く実際活動には不適であり或いは田杉教授が曽て危惧された︑
争議が生じた場合労務担当重役は両者の間に挟つて動きがとれない事が実際に指摘され︑要するに労仇者側から も経営参加の方法によるよりも飽迄経営者と一線を劃し対立的立場に於て交渉する方が有利だとの見解も生じつ つあり︑他方経営者もその所有権︑企業の自由なる運営に労仇者を介入せしめる事に反対の機運が伝えられ更に
註
向しながらも取敢えず労使が相互に自己の立場︑ 又西独の経営参加は戦後の独産業の上昇期に施行されたのであるが枇界的屎気後退期に於ては経営責任を分担する事は経理内容悪化︑経営の困難︑賃下げ︑解雇等の問題に付て労仇者に不利に作用する事が西独に於て現れてゐると報ぜられてゐる︒唯然し経営参加は団体交渉︑特に争議権を弱化せしめるか否かに付ては西独の例に於ては斯様な心配はなく︑経営参加と団体交渉とは全く別個の関係であって経営に参加する事によりその基本的権利を放棄するものではない事が強調されてゐる事は特に注意を要する︒
以上の如き経営参加制度と労使関係を取巻く諸偕勢並に西独の例よりしても何等かの労使間の新しい秩序が企 業論的にも将又時代的要請としても是非必要であり︑又その理論と現実よりして究極的にはあるべき経営体を指
主張のみに閉込もる事なく理解し合ふ機会を有つべきであり 先︑経営協議会より出発して労使の対立を克服し漸次之を高度化して終には企業に於ける総ての利害関係者の調 和に至るべきである︒乍然その過程︑適用︑具体的な政策に付ては論理的究明を要すべき幾多の問題とその為に は更に労使関係の本質にまで渕らざるを得ないが弦に於ては経営参加と労使協力との関係に於ける問題の所在の 一端と実際への適用に付ての若干の問題を暗示的に採上げるにとゞまった︒
労働省労政局編﹁経営参加制庶﹂棗料︑共同決定法︑経常莉織法︑腑訳条文参照
経営参加と労使協力︵鯰江︶