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1および﹁日本的経営﹂の法と経済学1

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(1)

アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶

1および﹁日本的経営﹂の法と経済学1

大 杉 謙 一

はじあに 第一章 紹介︵以上︑三九巻二号一一七頁︶      ︐

第二章  ﹁日本的経営﹂の経済学︵以上︑四〇巻一号一七九頁︶

第三章 経営史および企業統治論・小史

 第一節 日本の経営史

  1 転換点としての一九三〇年頃

  2 戦時統制︵一九三〇年代から一九四五年まで︶

  3 戦後統制と主権の回復︵一九四五年から一九五五年頃まで︶

  4 一九五五年以降

 第二節 コーポレート・ガヴァナンス論の推移

   アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶      ︵都法四十四ー二︶ 一四五

(2)

一四六

  1 一九八〇年代末から一九九〇年代中頃まで

  2 一九九〇年代末以降

 第三節 アメリカのコーポレート・ガヴァナンス・小史

  1 主題

  2 社外取締役について

 ︑3 社外取締役制度を取り巻く環境の変化   一九七〇年代後半から一九八〇年代末まで

  4 小括︵以上︑本号︶

第四章 結語ーコーポレート・ガヴァナンス論が法律学に示唆するもの︵以下︑次号︶

※お断わりとお詫び

 本稿の﹁中﹂を発表してから四年が経過した︒その点とともに︑四年の間に本稿の構想が変化し︑したがって叙述

に若干の齪齢が生じている点について︑読者にお詫びしなければならない︒

 かつての構想では︑﹁下﹂は﹁第三章 解題﹂﹁結語﹂から構成され︑第三章においては歴史的視点を導入すること︑

結語においてはこれまでに紹介した諸報告と関連付けながら︑日米のコーポレート・ガヴァナンスを巡る論点を横断

的に分析することを予定していた︒しかし︑実際に多くの経営史文献を読むにつけ︑日本のコーポレート・ガヴァナ

ンスの歴史的変遷を丁寧に跡付けることは︑筆者の手に余る作業であることが痛感された︒そうして︑本稿を完結さ

せる作業を先送りしている間に︑商法は大改正され︑世界のコーポレート・ガヴァナンス論においても無視し得ない

(3)

変化が生じてしまった︒

 そこで︑全体の構成を﹁第三章 経営史および企業統治論・小史﹂﹁第四章 結語﹂と修正し︑三・四章の内容も

少し変更したい︒そして︑甚だ見栄えが悪いのであるが︑諸般の事情により︑今回は﹁下 その=のみを公表し︑

次回に﹁その二﹂を公表して全体を完結させる︒読者のご海容を乞う次第である︒

第三章 経営史および企業統治論・小史

 本章は︑三つの歴史を概説する︒第一節では日本の企業統治の歴史が︑第二節では世界の企業統治論の小史が︑第

三節ではアメリカの企業統治の小史が取り扱われる︒なお︑歴史の教訓は多くの場合︑多義的であり︑﹁解釈﹂に委

ねられる部分が小さくない︒本章の目的は︑次章において今後の議論の前提となる問題関心︵アジェンダ︶を析出す

る準備作業を行うことにある︒

 本章第一︑節は︑一九三〇年ごろから最近までの日本の企業統治の歴史を取り上げる︒これまでわが国の商法学界に

おいて︑商法ルールの変遷ではなく︑その背後の経済状況やその変化が︑真剣な学問的関心の対象となることは少な 

     ・      ︵1︶ かった︒本章第一節は︑その欠訣をふさごうとするするものである︒

 本章第二節では︑国際的な舞台における︑コーポレート・ガヴァナンス論の変遷を少し詳しく概観する︒多くの論

者が現在︑アメリカのコーポレート・ガヴァナンスは優れており︑他国においても参照すべき多くの点を含んでいる

と考えている︒しかし︑一九八〇年代においては︑世界の論調は︑アメリカの経済システムに対する懐疑論が中心で

あった︒アメリカ型システムに対する評価の変遷が︑第二節の主題である︒筆者はそのような変化は︑部分的にはア

メリカ経済の回復が少し遅れて国際的に評価されたことにより生じるとともに︑部分的にはコーポレート・ガヴァナ

   アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶      ︵都法四十四−二︶ 一四七

(4)

一四八

ンス︑法・制度︑経済システムに関する問題関心の変化によるものでもある︑と考えている︒

 本章第三節では︑アメリカのコーポレート・ガヴァナンスそれ自体の変遷を︑若干の憶測を交えて論じる︒アメリ

カのコーポレート・ガヴァナンスを特徴付けるいくつかの要素︵社外取締役︑活動的機関投資家︑敵対的企業買収︑

裁量的司法︑等々︶は︑個別要素に還元して論じられるべきではなく︑複数の要素の間の相互作用が現在のアメリカ

型システムの隆盛を導いたのであり︑そのように総合的な視野においてアメリカ型システムは把握されるべきである︑

というのが筆者の仮説である︒つまり︑﹁法︵会社法︶﹂はそのような変遷の中の重要な一要素ではあるが︑一要素で

しかなく︑あくまで法律外的要素との組み合わせ・相互作用において意味を持ち︑評価の対象となるべきである︒

 本章の内容はたしかに雑多である︒しかし︑本章は歴史的視点から︑日本的経営およびアメリカ型経済システムの

両方を︑相対化することを企図するものであるから︑本章の最大の欠陥は︑雑多であることよりも︑むしろ議論の視

角が限定されている︵たとえばアメリカと似て異なるイギリスについての考察を欠く︶点にあると思われる︒

︵1︶ なお︑宍戸善一﹁動機付けの仕組としての企業︵一︶﹂成蹟法学五二号三九頁︑五〇頁︵二〇〇一年︶が次のように述べ

  ることに︑筆者は土ハ感している︒﹁企業の国際比較を行うに当っては︑各地域における市場環境︵製品市場︑金融市場︑労

  働市場︑支配権市場︶︑社会規範︑および法制度の違いに着目しながら︑それらの総合的な産物としての企業の実態を描く

  必要がある︒﹂

(5)

 第一節日本の経営史

  比較的最近まで︑いわゆる日本的経営は︑世界の垂誕の的であった︒第二次大戦直後の平均的日本人が生命維持に

 充分なカロリー摂取すらままならなかった貧困状態から︑高度成長期を経て世界第二位の経済大国へと発展したこと

 は︑おそらく人類史上ほとんど類例を見ない偉業であったといえる︒第一節の目的は︑日本型経営が歴史的産物であ

︑ るとともに︑部分的には日本に特有な前提条件に支えられていることを明らかにすることである︒

  本稿の関心からは︑明治期の企業の勃興や商法典の整備などについての要約・検討はさしあたり除外される︒ここ

 で重要と思われるのは︑一九世紀末から一九二〇年代までの時期においては︑日本・ドイッ・アメリカの各国におけ.

 る各種制度は相似していることである︒そこで︑本章では︑転換の生じる前の日本のコーポレート・ガヴァナンスの

 状況を確認し︵1︶︑戦前・戦後における転換の過程を概観する︵2︑3︶︒﹁日本的経営﹂がいちおう完成した後の

 歴史については︑その劣化もあわせて︑ごく簡単に述べるにとどめる︵4︶︒

1 転換点としての一九三〇年頃

︵1︶ いわゆる大企業の発達においては︑アメリカが世界に先駆け︑日本やドイッは後発国に属するが︑一九二〇

年代においては︑大まかには日本・ドイッ・アメリカの大企業を取り巻く制度的状況は相似している︒たとえば︑銀

行の設立・営業や証券市場に関して︑規制は緩やかであった︵自由放任期︶︒その中で証券市場は急速に発達し︑銀

行は証券業務に次々と参入する︒そして︑設備投資負担の大きな鉄道会社などに関しては︑銀行は証券発行による資

金調達を推奨し︑自らの貸付債権のリスクを減少させようとしている︵﹁自らリスクを取って産業金融を支えた﹂の

ではない︶点でも︑各国は共通している︒自由放任主義の下で︑信用恐慌︵銀行の連鎖倒産︶が繰り返し発生した︒

   アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶    ︐     ︵都法四十四−二︶ 一四九

(6)

      一五〇

一九世紀には︑国民の多くは農村で農業に従事し︑そこで家族や地縁に守られて暮らし︑商業活動は家族を基礎とす

る小さな単位で行われるにすぎなかったのだが︑世紀の変わり目に大企業が誕生すると︑労働者への需要が増加し︑

農村から都市部へと労働力が流入すると︑これらの労働者から従来の家族・地縁による保護が奪われてしまった︒こ        ︵2︶ のように労働者の失業問題は深刻となった︒

 一九世紀末から一九二〇年代までの時期に勃興した大企業は︑特定の家族によって株式の大部分が保有されており︑ ︐       ︵3︶      . この点においても日本・ドイッ・アメリカの各国は類似していた︵日本については︑︵2︶で詳述︶︒

 企業経営に関しても︑当時の日本企業は次のようなアメリカ企業の特徴を共有していた︒企業の資金調達に占める

銀行借入への依存度は小さく︑株式・社債発行による調達が盛んであった︒利益配当に関しては配当性向が高く︑ま

た利益に対する感応度も高かった︒経営者に支払われる賞与は︑会社利益に占める割合においても利益との連動性に       ︵4︶ おいても︑戦後よりもはるかに高く︑経営者は株主利益の増進を強く動機づけられていた︒

︵2︶ ただし︑企業と従業員の関係をめぐっては︑この頃に後の日本的なる特徴の萌芽が見られる︒第一次大戦の

頃から雇用の長期化が見られ︑一九二五年以降は︑大企業における離職率は激減しており︑昭和大恐慌期を除けば︑

この数値は英米などと比べてもはるかに低い水準にあった︒しかし︑未だ職員︵ホワイトカラー︶と工員︵ブルーカ

ラー︶は峻別され︑後者の雇用は前者よりもはるかに短期的であった︒また︑賃金は徐々に年功的要素を示すように       ︵5︶ なるが︑これは能率本位の賃金体系の下で雇用の長期化に伴い事実上現れたものにとどまった︒

 当時の大企業の株式所有は︑大まかに次の三種類に分類される︒①大株主イコール経営者であった﹁準財閥・所有

型企業﹂︵新興財閥︶︑②株式が相対的に分散し︵しかし︑現在とは異なりある程度の大株主は存在した︶︑大株主で

(7)

  はない経営者︵専門経営者゜︒巴胃一①口日彗pσqΦ弓︶が戦略的意思決定に携わった﹁経営者企業﹂︑③財閥の傘下にあるが

  財閥本社からはある程度の経営の自由を有し︑やはり戦略的意思決定が専門経営者によってなされた﹁財閥直系企業﹂︒        ︵6︶   数の上では三種はほぼ同数であった︒これらの類型の間では︑財閥系企業は相対的に配当性向が低く︑安定配当志向

. であり︑各企業の経営者の財閥本社からの自律性が相対的に大きな範囲で認められ︑従業員雇用についても長期雇用

       ︵7︶ ・ が重視され︑工場委員会︵H企業単位での労働者の発言機会の保護︶の普及度も高かった︒

   ﹁取締役﹂という肩書きについても簡単に言及しておく︒明治時代末期までは︑経営トップが取締役社長という肩   −        ︵8︶   書きを用いたのを除いては︑むしろ他の業務執行者︵経営上層部︶の多くは支配人という肩書きを用い︑﹁取締役﹂        −       ︵9︶   という肩書きは大株主や︑現在でいう社外取締役︵非業務執行取締役︶に付されることが一般的であった︒明治末期

  から第一次大戦にかけて︑ほとんど株式を有しない専門職能人︵専門経営者︶は﹁支配人﹂に代わって﹁専務取締役﹂

  という肩書きを得ることが一般化し︑現在でいう社外取締役は次第に姿を消していく︒

︵2︶m↑σqξ﹇≦8﹂︒︒.肖99戸σq日︒︒︒︷留昆−bd知m昆p邑ζ①弓冨下田ω①江田95巳巴乙力ぺ︒︒けΦ日゜・一Ω2日巴さq碧9き江

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︵3︶臼Φ西︒蔓量・冨OP︒弓99﹂西戸霧︒︷Z︒昆ぴΦ蚕﹂○︒昌︒8汀Ω・ぐ①日巴゜ご5ΩΦ§p昌p昆﹄e9三日 ︒︒目畠§

  昏鴫︾窓︾窓己切︾︵国O°︶mξ日づ9Φ・︒°      −

︵4︶ 岡崎哲二﹁戦時計画経済と企業﹂東京大学社会科学研究所編﹃現代日本社会4歴史的前提﹄︵一九九一年 東京大学出

  版会﹀三六三頁︑三七一頁︑岡崎哲二﹁日本におけるコーポレート・ガバナンズの発展﹂青木昌彦・ロナルド・ドーテ編

  ﹃国際・学際研究システムとしての日本企業﹄︵一九九五年 NTT出版︶四三七頁︑四五二頁︒

︵5︶ 尾高煙之助﹁﹃日本的﹄労使関係﹂岡崎哲二・奥野正寛編﹃現代日本経済システムの源流﹄︵一九九三年 日本経済新聞社︶

  ﹈四五頁︑一五〇頁︑一五四頁︑一五六頁︒ .       ㌧

  アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶      ︵都法四十四−二︶ 一五﹈

(8)

      一五二

︵6︶ 宮島英昭﹁財界追放と経営者の選抜−状態依存的ガヴァナンス・ストラクチュアの形成﹂橋本寿朗編﹃日本企業システ

  ムの戦後史﹄︵一九九六年 東京大学出版会︶四三頁︑四七頁︒宮島英昭﹁専門経営者の制覇﹂山崎広明・橘川武郎編﹃日

 本経営史4 ﹁日本的﹂経営の連続と断絶﹄︵一九九五年 岩波書店︶七五頁︑七九頁以下が︑それぞれの特色をさらに詳し

  く述べる︒

︵7︶ 岡崎哲二﹁企業システム﹂岡崎・奥野編・前掲︵注5︶九七頁︑一〇八頁︒

︵8︶ 高橋美加﹁経営権限の委譲と包括的代理権︵1︶﹂法学協会雑誌一一八巻三号三四三頁︵二〇〇一年︶︒

︵9︶ 大橋敬三﹃社外取締役﹄五頁︑八頁︵二〇〇〇年 中公新書︶︒

2 戦時統制︵一九三〇年代から一九四五年まで︶

︵1︶ 経営史家の間では︑戦後の日本的経営の淵源をこの時期に求める見解と︑むしろ戦後の諸改革に重きを置く        ︵10︶ 見解とに分かれるようであるが︑次の点においては両者に対立はないであろう︒すなわち︑この戦時統制期の日本の

コーポレート・ガヴァナンスは︑直前期のレッセ・フェールの否定︵破壊︶と︑集団主義的・管理主義的な思想・制

度の誕生︑という二点に要約できる︒

︵2︶ 一九三〇年代初頭の昭和恐慌をきっかけに政府は経済活動への介入を積極化する︒臨時資金調整法︵一九三

七年九月公布︶が金融機関による設備資金の供給や会社の設立︑増資︑合併︑目的変更︑第二回目以降の株金払込︑

設備の新設拡張︑直接の社債募集︑等々︑つまり企業の設立やほとんどあらゆる形態の資金の調達や利用を政府の許       ︵11︶ 可にかからしめた︒同法は︑事業資金の基幹産業への重点的配分を狙ったものである︒

 戦時統制経済の一翼を担ったのは企画院であったが︑それを牛耳ったのはいわゆる革新官僚であった︒彼らの多く

は青年時に社会主義思想の強い影響を受け︑また当時のソヴィエト連邦の経済発展を驚異の目で眺めており︑計画主

(9)

       ︵12︶ 義経済イデオロギーと公平な所得分配への強い共感を抱いていた︒

 一九三〇年代初め以来︑減少傾向にあった労働争議参加人員数が︑一九三七年︵日中戦争の開始年︶に一挙に前年

の四倍に達したことが︑政府に大きな衝撃を与えたが︑これに直面した革新官僚は︑株主の利益追求を敵視し︑資本        ︵13︶ と経営の分離を推し進める︒すなわち︑利益配当の規制︵会社利益配当及資金融通令︹一九三九年四月施行︺︶︑役員

賞与の規制︵会社経理統制令︹一九四〇年一〇月公布︺︶などである︒この時期には︑取締役会メンバーにおいて現

場出身の技術系専門経営者の比重が増加している︒また︑職員と工員とを﹁従業員﹂と一括した上で︑従業員を企業        ︵14︶ の構成員として位置づける理念もこの流れに属する︒

 労使関係については︑雇入れ・就業時間・賃金が国家統制の下に置かれる︵一九三九年の従業者雇入制限令︑四〇

年の従業者移動阻止令︶︒これらの統制によって雇入率・解雇率はそれぞれ従前の三分の二にまで低下している︒し

かし︑これは権力による雇用の固定にすぎず︑高度な人的資本の蓄積につながるような従業員の組織的な教育・訓練        ︵15︶ がこの時期になされたとは考えにくい︒この時期︑賃金に占める能率給の割合が減少し︑さらに年齢別昇給による固

定給の賃金に占める比率が上昇することに三て・年功序列賃金が誕生趨・また・産業報国A葺慧において職工        ︵17︶       ︵18︶ の差別を否定したし︑実際にもこの時期に職員・工員間の分配の公平化が進展した︒

 社債市場においては︑金融恐慌時の社債デフォルトの多発により日本興業銀行を中心として一九三〇年代に社債浄

化運動が展開され︑社債には原則として担保を付けさせる有担保原則が確立していく︒臨時資金調整法による資金統

制は︑社債市場においては大蔵省︑企画院︑日銀及び興銀の首脳による起債計画協議会の場における起債統制として

現れ︵一九四〇年=一月︶︑社債発行は軍需産業の資金調達に集中した︒銀行が受託会社として社債発行に対して強        ︵19︶ い発言力を有する構造は戦後に受け継がれた︒

   アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶      ︵都法四十四ー二︶ 一五三

(10)

       一五四

 株式市場についても︑臨時資金調整法が統制の対象としたために公募増資もまた急減した︒とはいえ︑相場は太平        ︵20︶ 洋戦争勃発後は︑当初の好ましい戦況を受けて急騰し︑相場の活況は四二年末頃まで続いている︒しかし︑四三年以

降は株式市場は低迷した︒戦時期には総じて︑投資家の余剰資金は証券市場から銀行預金へ︑また半ば強制的な貯蓄        ︵21︶      ︵22︶ 奨励策により郵便貯金へと流れ︑間接金融の比重が高まった︒なお︑株式保有構造に大きな変化はなかった︒

︵3︶ この時期にはメインバンク制の萌芽ともいうべき動きも見られる︒一九三九年頃から銀行の自発的な行動と

して協調融資が増加した︒主取引銀行が幹事となって貸出先企業を審査し︑これに基づいて共同融資を行うというも

のである︒これは︑一九三九年のヨーロッパでの大戦勃発による企業リスクの上昇や︑融資先企業︵多くは国策会社︶

が国防上の見地からしばしば情報開示を拒んだことに対する︑銀行による自発的なリスク分散の努力によるものであ

る︒  政府による資金統制も銀行と企業間の関係に影響を与えた︒一九三九年四月の会社利益配当及資金融通令は︑政府

が日本興業銀行に対して軍需産業に生産力拡充資金を供給させることができ︑同行が損失を受けた場合には政府がこ

れを補償するという融資命令制度を規定したが︑この制度は四〇年一〇月の銀行等資金運用例によって市中銀行に拡

大された︒一九四四年一月に始まった軍需融資指定金融機関制度︵四五年三月より﹁軍需金融等特別措置法﹂として

法制化される︶は︑従来の融資実績・資本関係などを考慮して各軍需会社に対して原則として一行の金融機関を大蔵

省が指定し︑指定金融機関から簡易・迅速に資金が供給されることを企図したものであったが︑これは事実上の融資        ︵23︶ の義務づけであり︑銀行の貸付先に対するモニター機能を麻痺させた︒

 軍需会社法︵一九四三年一〇月制定︶は︑生産責任者の下での生産責任体制の確立を目指した︒生産責任者の選任・

(11)

解任は政府の許認可事項とされたが︑これは事実上︑株主総会に対して社長の地位を政府が保証するものであった︒

商法上の株主総会の特別決議事項は普通決議事項とされ︑また主務大臣の認可を受ければ総会事項であ?ても株主総

会の同意を省略できることとなった︒従業員には生産責任者に対する公法上の服従義務が課された︒同法は︑かつて

否定した企業による利潤追求を認め︑そのことによって生産の増強をはかろうとしたものであるが︑そこでの利潤は       ︵24︶ 株主に対してではなく︑むしろ従業員に対するインセンティブとされた︒

︵4︶ 以上︑戦後日本の企業システムを特徴づける外形の多くが︑この時期に原型を有するが︑システムとしての

効率性︑すなわち経営者の効果的なモニタリングはこの時期低下している︒たとえば︑戦前には存在した経営者の交       ︵25︶ 替と企業収益の間の負の相関関係がこの時期には失われている︒また︑当時軍需会社が全ての統制の枠から自由な特

権部門と見られており︑指定金融機関からの融資で料理屋等までを法外な値段で購入した軍需会社の例は︑企業金融       ︵26︶ を通じてのモニタリングがうまく働いていなかったこと︵゜︒o#ぴ巨西①・巳σq︶を示唆している︒

 戦前・戦後のコーポレート・ガヴァナンスが異なる形で高い経済性を実現していたことと比べると︑この時期のコー

ポレート・ガヴァナンスは戦争目的のために企業の収益性が犠牲にされたという点で︑コーポレート・ガヴァナンス

としては最低の時期であった︒

︵10︶ 前者としてたとえば︑岡崎哲二・奥野︵藤原︶正寛﹁現代日本の経済システムとその歴史的源流﹂岡崎.奥野編.前掲

  ︵注5︶一頁︒後者としてたとえば︑橋本寿朗﹁企業システムの﹃発生﹄︑﹃洗練﹄︑﹃制度化﹄の論理﹂橋本編.前掲︵注6︶

  一頁︒

︵11︶ 岡崎・奥野・前掲︵注10︶一八頁︑二〇頁︒

  アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶      ︵都法四十四i二︶ 一五五

(12)

一五六

︵12︶ 中村隆英﹁概説一九三七ー五四年﹂中村隆英編﹃日本経済史7﹁計画化﹂と﹁民主化﹂﹄︵一九八九年 岩波書店︶ 一頁︑

  九頁︒

︵13︶ 一九三九年四月施行の会社利益配当及資金融通令によって︑資本金二〇万円以上の企業について︑直近の配当を超える配

  当が主務大臣の許可にかからしめられ︑同令に代わる四〇年一〇月公布の会社経理統制令により︑資本金二〇万円以上の企

  業について︑自己資本の八%以上の配当もまた許可を要するものとされた︒

︵14︶ 岡崎・前掲︵注7︶一〇九頁

︵15︶ 尾高・前掲︵注5︶一六二頁︒

︵16︶ 尾高・前掲︵注5︶一六四頁以下

︵17︶ 橋本寿朗﹁日本型分業システムの形成﹂ビジネスレビュー︵一橋大学産業経営研究所︶四〇巻二号三二頁︑三八頁

  ︵一九九二年︶

︵18︶ 尾高・前掲︵注5︶一六八頁

︵19︶ 松尾順介﹃日本の社債市場﹄二六頁以下︵一九九九年 東洋経済新報社︶︒

︵20︶ 長谷部照正﹁第二次大戦の勃発﹂有沢広巳監修﹃日本証券史1﹄一七二頁︵一九九五年 日経文庫︹証券百年史︵一九七八

  年︶復刊︺︑谷村祐﹁株式市場の統制し有沢監修・前掲二三〇頁︒

︵21︶ 岡崎﹁戦時計画経済﹂前掲︵注4︶三八三頁以下︒

︵22︶ 宮島﹁専門経営者の制覇﹂前掲︵注6︶九三頁以下︒

︵23︶ 寺西重郎﹁メインバンク・システム﹂岡崎・奥野編・前掲︵注5︶六一頁︑七八頁︑岡崎﹁ガバナンスの発展﹂前掲︵注

  4︶四五八頁︑伊藤修﹃日本型金融の歴史的構造﹄︵一九九五年 東京大学出版会︶八五頁︒

︵24︶ 岡崎﹁戦時計画経済﹂前掲︵注4︶三九二頁︒

︵25︶ 宮島﹁財界追放﹂前掲︵注6︶五〇頁以下

︵26︶ 岡崎﹁企業システム﹂前掲︵注7︶一二〇頁

3 戦後統制と主権の回復︵一九四五年から一九五五年頃まで︶

︵1︶ 太平洋戦争終結後︑一九五二年四月二八日の対日講和条約発効まで︑日本は連合国総司令部︵ΩΦ5零巴

(13)

団Φ註ρ已p詳胃o﹇≧一一Φ口2巴一〇房HGHQ︶の統治下に置かれる︒当初の占領政策は︑︑日本の戦争遂行能力の除去︑

そしてさまざまな面での徹底した﹁アメリカ化﹂であった︒しかし︑米ソ対立・﹁冷戦﹂という国際情勢の変化は︑

霧に占領肇にも軌道修正をもた・りした︒GHQの経済科学局の専門家たちは経済政策万襲珊者であったのに対 して︑一九四九年に来日して経済政策を一変させたジョセブ・ドッジは古典的な自由経済の信奉者であったため︑企

業統治をめぐる占領政策もまた大きな振幅を持った︒

なお︑周知のよ﹂つに商法の昭和二五年改正は︑ドイッ法起源の呆の商法︵会社法︶を大幅にアメリカ化し仁棚・

筆者は︑この改正は戦後のコーポレート・ガヴァナンスに対しては推進・抑止いずれの方向でも限定的な影響しか与

えなかったのではないかと推測している︒

 ︵2︶ GHQは財閥家族あるいは大株主への株式所有の集中が経済の軍事化と密接な関連があったという認識の下

に︑個人への株式の広範な分散を促した︒とりわけ金融機関の株式保有︵独占禁止法等により制限された︶に代わる

従業員の株式所有が望ましいと考えられた︒企業の資金調達は︑長期資金は証券市場によって︑短期資金は銀行借入

によって︑というアメリカ型の金融システムが志向され︑証券取引法によって銀行・証券の分離がアメリカにならっ      ︵29︶ て定められた︒

 GHQによる諸改革のうちで日本のコーポレート・ガヴァナンスにもっとも大きなインパクトを与えたものは大企

業経営者の財界からの追放と働閥解体であった︒一九四五年末から四七年にかけて二回の財界追放が実施され︑まず

約二〇〇〇人の経営者が︑続いて財閥同籍者が財界から追放された︒この措置のインパクトの大きさは︑現在であれ︐︐

ば六大企業集団のメンバー企業︑あるいは各産業の上位企業の経営陣を︑常務取締役クラスまで一挙に追放するに等

.   アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論.再論︵下 その一︶      ︵都法四十四−二︶ 一五七

(14)

       一五八       ︵30︶ しいものであったという︒新経営者の選任には持株会社整理員会︵HCLC︶の承認が必要であり︑実際には従業員

や労働組合が大きな発言力を持ったために︑内部昇進の経営者が多く誕生した︒その多くは︑当該企業において現場       ︵31︶ 経験を持つが︑しかしそれまでには役員経験すら持たなかった︒        ︵32︶  財閥持株会社の保有株はHCLCへの譲渡が強制され︑後に個人投資家に転売されるまでの間︑HCLC自身が旧

財閥系企業の最大の株主となった︒のみならず︑制限会社令︵一九四五年=月︶によって指定された企業は︑配当

や役員賞与を含む広い事項について政府やGHQの規制に服した︒この規制の程度は戦時中のそれをも上回るほどで       ︵33︶ あり︑この時期旧財閥系企業は国有ないし国営企業に近接した性格を有したのである︒

 HCLCの保有する財閥関係株の売却処分は一九四八年初頭から始まり︑従業員︑地域住民︑一般公衆の順で主と

して個人に売却されていった︵証券民主化︒一九五一年に終了︶︒この際︑いかなる個人も発行済み株式の一%以上

を保有することのないように行われた︒売却は入札︑証券会社による引受︑従業員販売の三つの方法でなされたが︑

いずれにおいても販売価格は事実上HCLCによって設定された︒急速なインフレの進展は︑インフレに強い資産と

しての株式保有を有利にしたため︑HCLCの持株の処分は予想を上回るスピードで進展した︒また︑乗っ取り防止・

株主安定化の観点から企業自身が自社の従業員の株式所有に対して積極的であり︑購入資金を従業員に貸し付ける例       ︵34︶ も多かった︒売却がほぼ終了したのと同時に制限会社に対する規制も徐々に撤廃されていった︒

︵3︶ 戦時中は軍需会社法その他の法令によって日本政府が戦時中の軍需会社の損失補償を公約していたが︑GH

Qは﹁戦争は儲からないもの﹂と日本人に認識させるため︑一九四六年八月に戦時補償の打ち切りを決定し︑戦時補        ︵35︶ 償請求権に一〇〇%の課税がなされることになった︒そこで︑戦時補償を受けられなくなった企業の多くが倒産状態

(15)

 となり︑会社経理応急措置法︵一九四六年八月︶と企業再建整備法︵一九四六年一〇月︶の下で再建・民需転換が図

 られることになった︒特別経理会社と認定された約八千の企業は財務を復興部分︵新勘定︶と清算部分︵旧勘定︶に        分離する︒資産の分離及び旧勘定資産の管理は︑主務大臣の監督下で︑企業役員二名と旧債権者代表二名からなる特

別管理人が行い︑債権者代表の管理人はほとんどの場合︑最大の債権者であった旧指定金融機関が選任された︒企業

再建整備計画は経営者により作成されたのち︑特別管理人の承認および主務大臣の認可を受けることとされた︒株主・         債権者.労働組合には整備計画への異議申立てが認められた︒これは︑銀行の管理下での企業の再建といってよい︒     ・

 この時期に︑金融機関は借り手企業に関する情報をある程度蓄積した︒

 乏しい資金を経済復興に充てるため︑一九四七年一月から復興金融金庫︵復金︶が業務を開始し︵設立前の短期間︑

興行銀行復興金融部が任にあたった︶︑傾斜生産方式︑すなわち︑輸入を許可された重油をまず鉄鋼業に投入し︑生

産された鉄鋼を石炭生産のために投入し︑生産された石炭をさらに鉄鋼業の生産増加のために用い︑その鉄鋼をさら

に石炭増産に投入する︑という循環に重点的に融資を振り向けることになった︒復興金融金庫の設立の際には日本興

業銀行︵興銀︶は多数の行員を出向させた︒復興金融委員会が大口の融資案件を審査し︑小口の案件は復興金融委員

会幹事会︵関係省庁の行政官が陪席したが︑復金からの出席者のプレゼンスが大きく︑その多くは興銀出向者であっ

   ノ た︶が審査した︒興銀はこの過程で︑情報の蓄積・審査技術の維持︑さらに官庁および企業との人的関係の構築に成

        ヘシ 功した︒問題は︑復興金融金庫に資金を供給できる経済主体がこの時期には存在しなかったことであった︒復金が資

金調達のために発行した債券の七割がーそして市中銀行による消化分のかなりの部分が日銀借入の担保に使われ

たり日銀に売り渡されることによって︑実質的にはそれ以上が1日銀によって引き受けられた︒日銀信用の膨張

は通貨の増発に等しく︑激しいインフレを引き起こした︒

   アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶・         ︵都法四十四⊥一︶ 一五九

(16)

       一六〇

 一九四〇年代後半の協調融資のほとんどを日本銀行が斡旋したといわれている︒日銀営業局に四七年一月融資斡旋

課が設けられてから五四年五月に廃止されるまでの七年間が︑正式な実施期間である︵もっとも一九六〇年代半ばま        お  では︑外貨割当てを通じた計画的な資金配分が残った︶︒基幹産業向けに資金を優先的に配分するため︑融資に業種

別優先順位を設定した資金融通準則の実施が四七年三月に始まった︒復金融資については既存の融資は四八年中に市       ゆ  中融資に切り替えられ︑四九年三月には新規融資が停止されたため︑日銀の斡旋はより積極化した︒

 戦前の興銀を中心とした共同融資団←軍需融資指定金融機関制度は︑戦後には企業再建整備における特別管理人︑

復金融資︑戦後復興期の協調融資︑などに姿を変えた︒しかし︑この経過は︑戦前の統制の解除過程の過渡的な措置

であり︑協調融資において暗黙の契約に基礎を置く自主的ルールといえるものは未だ形成されていなかった︒戦場出

征により︑人材も失われ︑審査技術の継承に困難が生じていたために︑興銀を除いて︑一九五〇年代初めにおいても

邦銀の融資審査は未確立であった︵注38文献二七六頁︶︒

︵4︶ すでに戦時期に職員・工員の待遇差の縮小や両者をあわせて企業の構成員とする思想が見られた︒戦後︑G

HQの主導する民主化は︑このような文脈において企業内における処遇の平等を意味するものとして理解され︑本国

アメリカにおけるような産業別労働組合には帰結せず︑企業別組合を生み出した︒もともと株主を意味していた﹁社        れ  員﹂という言葉が職員と工員を併せて呼ぶ言葉となっていくのはこのような文脈においてである︒当初の企業別組合

は非常に戦闘的であった︒コ九四〇年代後半の労働攻勢は︑大量解雇反対闘争と︑能率と無関係に生活を保障する        ロ  賃金の要求とによって特徴づけられた﹂︒一九四六年秋の読売新聞に始まった労働組合による生産管理は︑その後一        ハ  年あまりに広範な産業の各社に広がった︒しかし︑四七年一月三一日午後︑二・一ゼネスト突入を目前に︑マッカー

(17)

サー連合軍最高司令官のスト中止の公式指令が発され︑この頃から流れは徐々に経営者に有利な方向へと変化し始め        \

る︒

︵5︶ ドッジ.ライン等による占領政策の変更期に︑後の日本的経営を特徴付ける諸制度の初期形を見出すことが

できる︒

  インフレのおかげで企業再建整備も完了に近づき︑生産も一応回復してきたこと︑および国際情勢の変化によりア     ︐ . メリカの対日占領政策が経済復興よりも早急な自立と安定に傾いてきたことで︑インフレの抑制が次の政策課題とし

  て登場してきた︒.一九四八年一二月には経済安定九原則の指令が出され︑企業統治との関連では︑企業経営三原則と

 して︑補助金の支給.統制価格の引き上げ・借入れによる賃金の引き上げが禁止されたことが重要である○これまで

 企業経営者は実質的な企業再建を回避しながら︑復興金融金庫等から赤字融資を受け︑補助金や統制価格の引き上げ       ゆ  ・ に期待して労働組合の要求をすべて受け入れる傾向が強かったからである︒次いで一九四九年二月に来日したジョセ

  ブ・ドッジにより超均衡予算︑補助金切り捨て︑復金の新規貸出停止が断行された︵ドッジ・ライン︶︒インフレー

 ションは休止したが︑代わりに資金の流れが滞り︑倒産︑合理化による賃金の遅配や失業の増大が生じた︒

  また︑ドッジ.ラインによる不況は︑HCLCの保有株式の売出しや特別管理会社の発行した新株による株式需給

 関係の悪化とあいまって︑証券取引所が再開した直後の四九年八月には株価の大暴落を招いた︒賃金の遅配欠配とイ       ゆ   ンフレの収束により︑小投資家の選好は株式から預金に移行した︒HCLCが従業員に売却した株式のうち約五〇%

 が︑結局二年以内に再売却されている︒当時の従業員層の資産蓄積水準の低さに照らしてこれは当然のことといえた︒

 その結果︑一九四九年半ばからの株価の暴落は株の買い占めを呼んだ︒経営者たちは商法二一〇条によって禁止され

    アメリカのコーポレート.ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶         ︵都法四十四ー二︶ 一六一

(18)

       二六二        ︵46︶ ている自己株式所有をさまざまな方法で潜脱して︑株価維持を試みた︒けっきょく︑一九四九年︑事業会社の株式保

有の禁止は緩和されることとなり︑それを契機に財閥系企業の間で株式持合いが進展した︒

 ほぼ同じ時期に︑都市銀行からの貸し出しはしばしば系列金融と呼ばれる特徴的なパターンを示すようになった︒

つまり︑日銀からの多額の借り入れを受けた都市銀行および日本興業銀行が︑系列を同じくする企業の資金需要の約

半分を供給し︑残りめ半分が系列を異にする銀行のシンジケート・ローンによって供給された︒また︑融資の額ない

し比率の高い企業に対して銀行が役員を派遣する傾向が明確に見られた︒旧三大財閥系銀行の貸し出しと株式保有の

間には有意な正の相関関係が見られ︑また倒産リスクが高いほど株式保有率が高くなる傾向が見られたので︑大口取

引先に対する銀行のモニダリングは株式保有によっても補強されたといえる︒もっとも︑この時期のメインバンクと        ︵47︶ 顧客との関係は固定的なものではなく︑三井系および非財閥系企業ではメインバンクの頻繁な変化が見られた︒

︵6︶ 補助金の廃止や緊縮財政のもたらす深刻な不況は企業に大量の人員整理を強いることとなった︒大半の大手

企業で二から四割の人員整理を出し︑四九年の述べ解雇者は五〇万人におよんだ︒当然︑各社で組合と使用者との間       ︵48︶ に激烈な争議が起こったが︑結果として組合側は︑争議においてことごとく敗北した︒

 ドッジラインによる不況から日本経済が脱出するきっかけとなったのが︑一九五〇年六月に勃発した朝鮮戦争であっ

たが︑休戦を経て五四年には再び不況を迎える︒この不況により多くの経営者が交替を余儀なくされている︒交替の  ・        ︵49︶ 率は昭和恐慌期と比べてすら高かった︒もっとも︑かつて追放された戦前の経営者の復帰はほとんどなかった︒社外        ︵50︶ 者が新たに経営者になった事例の多くでは銀行が人事に介入したことが確認できる︒

 一九五四年の不況期には︑石炭・鉄鋼業などで再び人員整理反対の大争議が発生したが︑やはり組合側は敗北を喫

(19)

した︒闘争は労使双方に深い傷痕を残した︒多くの経営陣が人員整理と争議の責任を取って退陣し︑従業員側も分裂︑

指導部批判等で戦闘性を喪失する︒ここから︑両者の間に会社の再建と協調的労使関係を築くための話し合いが始

  ︵51︶       ︵52︶ まった︒この時期は労働力過剰の時代であり︑労働者にとって職の保障が切実であったことが︑労使協調を促進した

    ︵53︶ のであろう︒

 GHQはアメリカ法そのままに︑日本で証券取引法を制定し︑その執行機関として証券取引委員会を創設したが︑

占領の終了後間もなく︑同委員会の任務は大蔵省理財局証券課および証券取引審議会へと移管され︑同委員会は廃止        ﹂

される︵一九五二年八月︒一九六四年六月には︑大蔵省証券局が発足︶︒

︵7︶ 以上︵5︶︵6︶で見たように︑一九五五年頃に︑現在の日本の企業システムの原型といえる新しいストラ

クチャーが定着した︒一九五〇年から五五年のデータにおいて︑経営者の交替と企業業績との間の逆相関がこの時期       ︵54︶ に再び見られるようになったことも︑経営者のモニタリングが回復されたことを意味している︒とはいえ︑安定株主

の比率は現在よりはずっと小さく︑株式保有がなお分散的であり︑配当性向は高く︑増資による借入金返済のような

間接金融からの脱却の動きも見られるなど︑なお﹁日本的経営﹂は成立途上にあった︒また︑メインバンク制がこの       ︵55︶  ︑ 時期成立したとしても︑まだ政府系金融機関の役割が大きかった︒

︵27︶ 独占禁止法・証券取引法・会社更生法の制定は︑GHQ担当者の間のニューディール志向を示している︒

︵28︶ この改正に関しては︑中東正文﹁GHQ相手の健闘の成果﹂浜田道代編﹃日本会社立法の歴史的展開ー北沢正啓先生古稀

 祝賀論文集﹄二一八頁︵一九九九年 商事法務研究会︶参照︒

︵29︶ 宮島英昭﹁証券民主化再考ーコーポレート・ガバナンスの視角から﹂証券研究一一二号五七頁4︵一九九五年︶︑宮島

  アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶      ︵都法四十四ー二︶ 一六三

(20)

一六四

  ﹁財界追放﹂前掲︵注6︶五七頁以下︒

︵30︶ 米倉誠一郎﹁経営と労使関係における戦後改革−鉄鋼業の事例を中心に﹂ビジネスレビュ⊥二九巻二号二七頁︵一九九

  一年︶︑宮島英昭﹁﹃財界追放﹄と新経営者の登場﹂森川英正編﹃ビジネスマンのための戦後経営史入門﹄︵一九九二年 日

  本経済新聞社︶八頁︑一五頁︒

︵31︶ 宮島・前掲︵注29︶六二頁以下︑宮島﹁専門経営者の制覇﹂前掲︵注6︶一〇一頁︒

︵32︶ 財閥解体措置を通じてHCLCに譲渡された株式の総額は九〇億円に達し︑敗戦直後の日本の総払込株式額の二四%と推

  定されている︒宮島・前掲︵注29︶六八頁︒

︵33︶ 宮島・前掲︵注29︶六九頁

︵34︶ 宮島・前掲︵注29︶七三頁

︵35︶ 宣在源﹁日本の雇用制度−復興期︵一九四五〜四九年︶の雇用調整﹂経済学論集六四巻一号二二頁︵一九九八年︶

︵36︶ 沢井実﹁戦前から戦後へ﹂宮本又郎ほか編﹃日本経営史﹄︵一九九五年 有斐閣︶二〇九頁以下︒詳細は宣・前注二六頁

  参照︒

︵37︶特別管理人に従業員代表を入れるかどうかを巡っては議論があり︑四七年一二月の企業再建整備法改正において︑代わり

  に労働組合への異議申立権の付与という決着を見た︒

︵38︶ 復興金融の中心から外れたことから当初の方針に反して普通銀行への道を歩むこととなった勧業銀行の経過と比べると︑

  興銀が得たアドバンテージの大きさが分かる︒以上︑杉浦勢之﹁戦後復興期の銀行・証券﹂橋本編・前掲︵注6︶二四九頁︑

  特に二六五頁以下︒

︵39︶ 橋本・前掲︵注10︶八頁

︵40︶ 以上︑杉浦・前掲︵注38︶二六八頁以下︒

︵41︶ 以上︑橋本・前掲︵注17︶三八頁︑四八頁注一八︒

︵42︶尾高・前掲︵注5︶一七一頁

︵43︶ 篠田徹﹁日本的労使関係の成立﹂森川編・前掲︵注30︶四二頁︑四七頁︒

︵44︶ 岡崎﹁ガバナンスの発展﹂前掲︵注4︶四六九頁︑岡崎・前掲︵注7︶一二九頁︒

︵45︶ 河合一郎﹁ドッジ・ライン﹂有沢監修﹃日本証券史2﹄前掲︵注20︶五〇頁︑岡崎﹁ガバナンスの発展﹂前掲︵注4︶四

(21)

  七一頁︑宮島・前掲︵注29︶七八頁︒       ︑       ︐

︵46︶ 宮島・前掲︵注29︶七九頁︒同様の二一〇条違反は︑次の時代にも大規模に生じている︒一九五八年には上場企業約一七

  〇社が違法に自己株式を取得しているとして摘発される事件が起きている︒増資に際しての株価の維持と株式買い集めへの

  対抗が取得の理由であった︒会社財産を危うくするに至っていないこと︑余りにも違反が広範だったことから︑結局は不起

  訴処分に終わっている︒細金正人⊇貝い占めと名義貸し﹂有沢監修・前掲︵注45︶=一七頁︒

︵47︶ 以上︑宮島・前掲︵注29︶八八頁以下︒

︵48︶ 篠田・前掲︵注43︶五〇頁以下︒

︵49︶ 宮島﹁専門経営者の制覇﹂前掲︵注6︶一L三頁︒

︵50︶ 宮島≒専門経営者の制覇﹂前掲︵注6︶=六頁︒

︵51︶ 篠田・前掲︵注43︶五三頁︑また参照べ岡崎﹁ガバナンスの発展﹂前掲︵注4︶四七三頁︒

︵52︶ ギルソンHローの指摘について︑商事法務一五〇五号七二頁を参照︒

︵53︶ 橋本・前掲︵注17︶三九頁︒

︵54︶ 宮島﹁財界追放﹂前掲︵注6︶七二頁以下︑宮島﹁専門経営者の制覇﹂前掲︵注6︶一一六頁︒

︵55︶ 宮島﹁財界追放﹂前掲︵注6︶七四頁以下︑宮島﹁専門経営者の制覇﹂前掲︵注6︶一一七頁︒

    4 一九五五年以降

    ︵1︶ 本稿﹁中﹂で論じた﹁日本的経営﹂の諸特徴は︑おおむね一九五五年から一九七五年ごろの日本のコーポレー

    ト・ガヴァナンスの︑やや単純化・様式化された典型例︵︒︒琶﹇NΦ位合・ひ︒︒︶である︒もちろんその間には︑ 一九五七        ︵56︶       ︐      ︵57︶     年・五九年の鉄鋼争議︑資本自由化︵一九六四年OECD加盟︶︑証券不況︑一九七三年・七八年の石油ショック︑

    などの大事件があり︑労使関係・株式所有・金融制度のいずれも継時的な変化を受け同じ所にとどまることはなかっ

    た︒﹁日本的経営﹂は一直線に生成したものではない︒

.    日本のコーポレート・ガヴァナンスの形成には︑偶然と必然・人為と無為の両者が作用したといえよう︒具体的な

       アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶      ︵都法四十四レニ︶ 一六五

(22)

       一六六

姿においては各社・各グループごとの違いを内包しつつも︑それでもなお最大公約数として存在する﹁日本的経営﹂

を︑上記の︒︒寸忌NΦ巳合9°︒によって把握することには十分な根拠があろう︒一九五五年以降の生成過程は複雑かつ多

岐に亘るが︑本稿ではその詳細は省略し︑若干の点のみを補足する︒

︵2︶ メインバンクは︑法律上は債権者であるにもかかわらず︑貸出先企業の残余性にプラス方向にもマイナス方

向にも参加する︒すなわち︑企業の発展・困窮は︑メインバンクが享受する経済的利益に相当程度の影響を及ぼす︒

メインバンク制度は︑株式の持合とあいまって︑経営者を頂点とする生産チームに一定の自律性を与える仕組みとし

て作用したが︑この自律性は無制限のものではなく︑外部︵主にメインバンク︶からある程度の規律が働いていたと

推測される︒この規律の大きさは︑貸し手と借り手の力関係︑換言すれば︑資金の供給余力と資金需要とのバランス

によって決まったのであろう︒貸し手側にカネ余りが存在し︑借り手側の資金需要が小さい場合には︑企業金融を通

じた経営者規律は弱くなる︵mo津ぴ巳σqΦ亘づσq︶ことが知られているが︑この時期の日本企業は一般的に自己資本比率

が低かったことに照らすと︑当時の規律効果は小さくはなかったのではないかと筆者は推測している︒この点は︑最

終的には実証により明らかにされるべき問題である︒

 家計の余資が銀行を介して企業に融通される間接金融制度が戦後の日本で長期にわたって存続したのは︑企業の自

然の選好によるものではなく︑むしろ証券市場による資金調達︵直接金融︶が政府の規制により制限されたからであ

る︒戦後の証券行政を所轄した大蔵省は︑省内の対立︵銀行局対証券局︶をときに内包しつつも︑全体としては投資        ︵58︶ 者保護に必要な範囲をはるかに超えて︑証券市場を抑圧することで︑資金を銀行というチャネルに集中することを意

図していた︒これは︑希少な資金を国家経済の成長にとって優先順位の高い産業に振り向けるために︑証券市場より

(23)

も銀行制度のほうが容易であったことによるものである︒もっとも︑このような﹁汐ーゲティング﹂が日本経済の高

度成長に寄与したか否かは︑その判断は実証に委ねられるべきであるが︑現時点では不明である︒  ︑

 社債の発行については︑発行後の社債権や担保物件の管理を行うトラスティーとなる銀行が必要であるため︑﹁起

債会﹂と呼ばれる銀行・証券会社・大蔵省の連絡会が定期的に催され︑各月の起債金額を割り振っていた︒国内債に

ついては︑一九九〇年ごろまでこの起債会が続いた︒銀行にとって社債は自分たちの業務と直接に競合するので︑高

い信用力を持つ企業が多額の資金二ーズを持ち︑これに都市銀行だけで応じられないという場合にのみ起債を認めた

が︑購入者の多くは地方銀行などだったので︑実質は゜︒春合︒暮9一〇きであった︵注19文献二三六頁参照︶︒

 株式の発行による資金調達については︑大蔵省︵当時﹁証券行政﹂とは流通市場行政を意味した︶による制限は普

通社債の場合よりも目に見えにくい形を取づたが︑行政指導は存在した︒たとえば︑一九六一年=月には︑供給過

剰で株式相場が値下がりしたことを受けて︑増資等調整懇談会が開かれ︑八幡製鉄・富士製鉄・東芝の多額の新株発

行が繰り延べられているし︑また一般的にも︑株式の新規公開時には︑公開価格について大蔵省はかなり強い指導を

行ってきた︵有沢監修注45文献=二八頁︑一四一頁︶︒       ︑       ︵59︶  株式保有構造の変化は一九六〇年には一段落し︑この時期に個人の持株比率が四六・三%にまで低下している︒証

券会社は株式持合いの進展を補助することによって︑銀行中心の金融制度を受け入れ︑その中の一要素として自らを     ︑

位置付けていったといえる︒たとえば︑たとえばA銀行のグループに所属するA︑会社とA︑会社の間で株式持合いを

行う場合には︑A証券会社の金庫の中にA︑の保有するA︑株とA︑の保有するA︑株とはワンセッパで預けられ︑相手

方の同意なしには保有株を引き出して売却することができないようにした︵本稿﹁中﹂一九四頁注58︶︒また︑証券  

会社は︑企業の新規上場の際にも熱心に安定株主工作を行った︒大蔵省や証券会社は公開価格を低く抑えるζとにも   ︑°

   アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論ほ︑再論︵下 その一︶         ︵都法四十四⊥一︶ 一六七

(24)

      一六八

注力した︒市場で資金調達をもくろむ事業会社にとっては迷惑であるが︑﹁新規公開株は儲かる﹂という慣行を作っ

ておくことは︑証券会社や大蔵省は投資家からの苦情を避けることができたからである︒しかも︑値上がり確実な株

式は証券会社の得意客に優先的に配られ︵﹁親引け﹂︶︑一般投資家の手には届きにくかった︒証券会社にとっては︑

証券市場を発展させ︑投資家・事業会社の利益を推進するという環境が存在しなかったといえる︒

 仮に証券市場を企業経済の発展をもくろむのであれば︑企業情報の開示は非常に重要な制度である︒わが国におい

ては︑GHQの置き土産としての情報開示制度は存続したが︑開示される情報をチェックする公認会計士の制度は長

い間機能しにくいものとされた︒公認会計士の質・量が小さく︑監査を受ける企業の側でも心理的抵抗があったので︑       ︵60︶ 一九五〇年代にはアメリカと同レベルの会計監査は行わず︑監査員の数と監査日数を絞るという方針がとられた︒

 このように戦後の日本では︑証券市場の発展は︑主に政府の規制によって妨げられた︒日本人は︑証券市場を誤っ       ︵61︶ て濫用したとか︑証券市場を生かすDNAをもたない︑といった印象批評は︑たしかに戦後の日本経済の現象を言い

当てているが︑その背景にある政府規制を見逃しているのではないかという疑問がある︒

︵3︶ 現社長が後継者を指名し︑社長は退任後に会長となる︑といった慣行はこの時期に確立している︒後継社長

の選考理由として労務に明るく現場経験を持つこと︑信頼感のあることなどが挙げられ︑文脈的知識が重視されるの

もこの頃に湖る︒内部者が新経営者に昇進する場合には企業業績との相関関係は観察されず︑業績悪化時には外部者

によって経営者が取って代わられる傾向が実証されている︵宮島・経済研究︵一橋︶四九巻二号︶︒

 3︵6︶で見たように︑労働供給が過剰な時期に︑企業の労働者に対する雇用の保障︵解雇の自発的制限︶が成立

するが︑一九六〇年代前半には早くも労働力不足が生じ︑そのため使用者は雇用を限定して多能工として育成せざる

(25)

をえない状況に置かれた︒企業内における職業訓練などが先行し︑そこから経験の蓄積・熟練という日本の企業シス        ︵62︶ テムの重要な要素が発展してくることになる︒関連して︑生活保障給と企業別組合︑他社からの労働力の受け入れの

制限︵外部労働市場の閉鎖︶という制度的要因︑労働者の会社への忠誠心という文化的要因も同時期に生成するが︑        ︵63︶ その生成のメカニズムの全体的把握は︑筆者の能力を超える難問である︒企業が従業員の利益を最大化すれば︑収益

性よりも成長性が重視され︑正味価値が負のプロジェクトであっても実施されてしまうという問題を通常は生じるが︑

ある時期までの日本には高収益の期待されるプロジェクトが豊富に存在したため︑成長性志向が収益性を犠牲にする

という弊害は大きなものではなかったと推測される︒

 高度成長期も後半に入ると︑日本型企業システムを構成するサブシステムはそれぞれ慣行として安定し︑一部は法

律により固定されるようになる︒たとえば︑退職金の減免税や︑一九七四年の失業保険法の全面改正による雇用保険       ︵64︶ 法の制定︵雇用調整給付金制度︶は︑長期雇用を制度化したものといえる︒

︵4︶ もっとも︑石油危機以降の経済成長の鈍化は︑さまざまな面で﹁日本的経営﹂に軌道修正を要請するもので        ︵65︶ あったろう︒一九七五年から二〇〇〇︐年までを﹁失われた二五年﹂とする見方には直感に訴えるものがある︒

 メインバンク制など︑日本的経営を特徴付ける制度は︑官庁が業界ごとに競争秩序を仕切り︑その仕切りの中で競        ︵66︶ 争が行われる︑という財界と官界の関係︵﹁仕切られた競争﹂.︑ロξ$唇﹂烏巴一゜︒日︒︶の下で形成されたものであった     ・

が︑このような関係は下記のように日本の金融制度の現代化の障害となった︒

 一九七五年以降︑金融の自由化が国際的に避けられなくなった︒旦ハ体的には︑銀行と証券の垣根の低下・撤廃︑預

金金利規制の緩和・撤廃︑企業の証券発行の自由化などであるが︑このことはメインバンク制の前提が崩れることを

   アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶      ︵都法四十四−二︶ 一六九

(26)

      一七〇       意味した︒制度はそれ自体慣性を有するだけでなく︑規制者を含む業界関係者の既得権が複雑に絡んでいたことから︑

金融分野の規制緩和は漸進的・段階的にのみ行われた︒たとえば︑ユーロ市場等︑海外における機関投資家へのエク

イティ社債︵転換社債等︶の発行は一九八一年以降解禁されたが︑銀行に代わって企業経営者を規律するはずの証券

市場については︑効率的市場の発展は遅れた︒

 銀行と証券の業際問題においても︑銀行は証券業務への参入を望んだが︑証券会社は銀行業務への参入から得られ

るものが小さいため相互参入案に抵抗し︑政治的妥協として︑大蔵省の中の銀行局と証券局の合意により︑銀行と証

券の業務障壁が極めて遅いペースで引き下げられることが選択された︒

 それまでの銀行は︑多額の預金を集めて優良企業に貸し出すことで利ざやを儲けるという量的競争を行っていた︒

M&A仲介や証券化︑証券の引受︑金融商品の開発など︑新しいビジネスモデルへの転換は模索されたが︑銀行には

証券業務への参入が遅らされたため︑これらに従事するインセンティブは︑組織としても各個人としても大きなもの

ではなく︑従来の量的拡大志向や大蔵省依存の行動原理は根強く残った︒総じて︑邦銀は自行を制御する能力ととも

に貸出先を制御する能力をも大きく減じたと考えられる︒一九八〇年代後半のいわゆるバブル経済期には︑多くの銀

行が与信審査を行う部署︵審査部︶を廃止ないし縮小して不動産金融を優先したが︑このことにより一般の事業会社       ︵68︶ に対する制御機能も大きく失われたことは間違いない︒

 いわゆるバブル経済期以降において︑メインバンク制・株式持合い・終身雇用制などの諸特徴は︑企業の生産性を

高めるよりは阻害しているのではないか︑と考えている経済の専門家は少なくないようであるが︑それではなぜ時代

遅れになった制度が二〇年ほどの長期にわたって存続することができたのであろうか︒第一に︑ある行動が銀行の利

益を最大化するとしても︑それが銀行の担当者の利益︵給与・出世︶に反するものであれば︑そのような行動は採用

(27)

されない︑という意味で︑各組織において組織利益に反する行動を担当者が取ったというエージェンシー問題が挙げ

られよう︒第二に︑かつて形成されだ不文の行動規範は︑法的には破ることが可能であったとしても︑実際問題とし   ︑

てこれに反することが組織や担当者個人に過大なエネルギーを要求したという点も存在するだろう︒たとえば︑メイ

ンバンクの有する債権が他の債権者のそれよりも劣後的に扱われなければなちないケースは︑法的には限定されるは

ずであるが︑メインバンクが責任を取るという社会規範と衝突するがゆえに︑責任の所在は不明確となり︑その結果

銀行の不良債権処理は先送りされて現在に至っている︒第一のエージェンシー問題と︑第二の非効率的な社会規範の

問題とは︑多くの場合に相互補完的に作用してきたように見える︒

︵56︶ 篠田・前掲︵注43︶五六頁以下︒

︵57︶ 一九六一年から六五年︒六五年五月二一日︑西日本新聞による山一諸券の経営危機のスクープにより絶頂に達する︒証券

  不況については︑坂野常和﹁証券恐慌﹂︑菅谷隆介﹁日銀特融﹂いずれも有沢監修・前掲︵注45︶ 一七七頁︑ 一八二頁︑橋

  本寿朗﹁証券会社の経営破綻と間接金融・長期雇用システムー一九六五年証券恐慌と山一謹券﹂証券経済研究一九号一一

  頁以下︵一九九九年︶を参照︒

︵58︶ しかし︑この点については法律家の間ではあまり認識されていないという印象がある︒この﹁証券規制による証券市場の

  抑圧﹂の問題を実証的に説く文献どして︑たとえば参照︑弓﹀民ロo=8田ぽ︾zF民﹀°︒エ︿﹀勺︾Oo胃o勾﹀昌呵毫>zgzO>zo

  ΩO<国国z>20国芝q>勺︾2弓工国國O>u弓○弓匡国呵c弓⊂国団︵﹈≦H弓勺﹃ΦωωNOO﹂︶°

︵59︶.以上につき︑川北英隆﹃日本型株式市場の構造変化−金融システムの再編成とガバナンス﹄︵一九九五年 東洋経済新

  報社︶三七頁から四〇頁を併せて参照︒

︵60︶ ある文献はこの対応を﹁現実主義的﹂として積極的に評価し︑また︑証券業者に対しては免許制により事前規制を行うの

  が当たり前である︵アメリカのように事前規制は小さくして︑違反忙対して厳罰を課すのは︑文化の違いであるyという意

  見を表明している︒飯田良︐一﹁証券行政﹂有沢監修・前掲︵注45︶九二頁︒

︵61︶ 上村達男﹃会社法改革﹄︵二〇〇二年岩波書店︶︒

  アメリカのコーポレート・ガヴァナンス論・再論︵下 その一︶      ︵都法四十四ー二︶ 一七一

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