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経営学の方法の問題 : 「経営経済」学説の対象構成の原理 (江頭恒治博士還暦記念論文集)

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,一七〇

経営学の方法の問題

一﹁経営経済﹂学説の対象構⋮成の原理一−

安 次 郎

序言−1問題の提起

 1 経営学本質論と方法論 経営学をその本質的構造において理解するには、これを方法的に把餐する以外に道はない。方法は学問の 観点を示し、方法的理解こそ学問の全構造的理解を意心するからである。われわれの経営学本質論が経営学方法論の形をとらざるを得な いこと繰返し述べる如くである。もちろん、そこでは、単に経営学の﹁方法﹂だけが問題となるのではなく、その科学的全構造の方法論 的解明が問題となる。 つまり、方法論とい弓とき、広く学問の﹁方法問題﹂ ︵罎①昏。α。昌肩。σ一①ヨ︶を全体として統一的に取扱弓方法論 (]?渚ィ。山。一〇αqδ︶と狭く﹁方法の問題﹂ ︵℃﹃o巨①日α臼H≦o野。α①︶を単なる方法の問題として取扱弓方法論 ︵H≦o昏。島①巳①耳①︶とが 区別せられる。われわれのこれまでの問題は広い意味での方法問題の解明であった。けれども、その経営学方法論も正に方法の問題を中 心とするから方法論と呼ばるべく、かくてここではその方法の問題を取扱5狭義の方法論が取り上げられ、われわれもいよいよ経営学本 質論の中心点に迫ることとなるのである。  ところで経営学の方法も、前に述べたように、単なる研究の方法︵竃①爵。αΦ画臼国。房。プ巨αq田口αd暮霞ωロ。ゴ§ぴQ︶  それは経営学        ① の問題である一と学問の方法︵竃。窪。山。自9毛誇Φ房。訂臨け一それは経営本質論・方法論の問題である  とが区別せられる。 ここ では前者ではなく後者の解明が中心課題をなす。

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 2 対象論から方法論へ 経営学方法論においても対象と方法、方法と対象との関係の認識が最も基本的な問題をなしている。この点 については前に論じたよう匹・客観説と主観説との対妾あるが・われわれの見るところによれば、それらは対象か方法かの一方的簿 を説く形式論に止り、その関係を存在に即して正当に把握するものではない。両者の関係はむしろ相互決定の関係と見なければならな い。このような理解によって、われわれは対象から方法へ、方法から対象への展開を論じ、かつ対象において方法を、方法において対象 を見ることも出来る。焦る意味では、対象は方法であり、方法は対象である。学問は所詮対象と方法、方法と対象との統一に外ならず、 対象と方法との区別と共に同一性をも理解することが大切である。 われわれは対象と方法との関係を静的な形式論理的なものと考えるの ではなく、これを認識主体の実践行為として動的な存在論的、弁証法的なものと考えねばならない。主観説、客観説に対して主体説に立 たねばならない。この意味にて前に問題とした対象論は実は方法論であった。 いわゆる経験対象と認識対象との区燭も実は同時に方法の 問題であった。対象規定︵︵︶σ一〇犀θげOωけ一目PbP旨旨oq︶の問題は対象規定の方法の問題︵嵐。号。α①昌嘆。江。旨︶である外はないからである。し かし、対象論はどこまでも対象論であって方法論ではない。そこで、われわれは、いま、対象論から方法論へ進むことによって却って対 象論の意義を方法的に明確ならしめ得るのである。       ヘ  ヘ  ヘ  へ  3 問題の提起と限定 このよ弓にして単に論理的に見る限り、対象論と方法論とは明らかに同等の権利と、価値をもつ。それにも拘 らず、学問における方法や方法論の中心性ないし優位性を否定することも出来ない。このよ密な矛盾は如何に解決されるのか。形式的、       ③ 論理的同等性も実質的、存在的には相異性を示し得ることによって説明し得よう。 いうまでもなく、方法は旨①昏。濫造。爵。山①の語源 一需↓3昌舘げ§島ざきの”司①αQlが示すように、道に従って行くこと︵①ぎ①ロ窯⑦σqαQ①ゲ①o鳩Z。魯αq①﹃①昌︶行き方、一般的に処理の方 法︵﹀昌巨α薯。囲ωρ①ぎ⑦轟σq①αQoσ魯90①αQ窪ω訂口ONロσ99。コOoぢ︶を意味し、本来的に主体的実践と離れ難い関係にある。実践との        ヘ  へ  も  へ  も  ヘ  へ 結びつきを考え主体的実践的に見る限り、方法論の優位性が承認せられざるを得ないのである。方法が対象を貫き、単問の性格を規定 し、自律性の根拠を明らかにするのはこれがためである。 この点これまでなお十分に理解されていない。例えば、有名なかのシェンプル ークの如きも、﹁方法問題﹂から﹁認識対象﹂の問題へ後退することによって、いわば主観説から客観説への動揺を示し、むしろ方法の        ④ 優位性を放棄する結果となっている。その根本見地の抽象性のゆえに、方法の、いな学問そのものの存在論的構造を十分に理解し得な いからに外ならない。その他の方法論者についてもほぼ同様にい5ことが出来る。われわれは主観説や客観説に対して主体説を主張する が、それは当然に実践の優位、方法の優位を承認するものである。  さて、それでは、 そのよ5な経営学の方法、経営学に自律性の基礎を与え、経営学に必然的な対象規定の原理となり、経営学限界づけ 経営学の山力法の問題︵山 太Ψ︶ 一七一

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一七二 の規準となるような経営学に固有な方法はどのよ5なものであろ弓か。われわれは上述の立場からこの問題を考察し、これまでいろいろ な機会に述べて来た見解を明白に解したいと思5。  いうまでもなく、経営学説の多様性と対立性は深くその方法に根ざしている。もちろんここでこれを全学説に亘って取扱弓ことは紙面 の関係上不可能である。 ここではただ典型的なドイツ経営経済学説の対象構成の方法的原理の批判的考察に限定せざるを得ない。その経 営学的観点の問題の考察、積極的な経営学方法の展開は別の機会に譲らねばならない。 ①Qり。まε穿ぴユ冠凋‘切09Φσ。・鼠昌ω9。⊃誹δ再p=露げ&窪邑卿国磐冥の笥α目5ゆQ①PN≦巴けρ2≦色8二①︾照臨・︿o昌燭b自。ω竃①さ&81  0﹁OσN①日ぎ負①﹁国ぎN巴毛阿房。ゲ四脚巴①げ﹁O.、び①﹁麟ロω伽q.︿O口ω①60げPぴ℃μOqら・ψH浦.一般的にいえば、前者は論理学の問題であり、後  者は科学論の問題で哲学と交渉するものといえよう。 ②拙稿、経営学の対象の問題、本誌六五、六六、六七合二号、参照。 ③ωoま巷隔ピσq▽帥・斡●○・噛ω・困. ④ シェンプルークの二主著の関係については、拙稿、経営学本質論の回顧と展望、本誌四八・四九合併号、参照。

二経営学説の系統

 1 学説と方法 経営学の本質構造について如何に雑多な見解があり、多様な学説があり、学派が対立しているかは人のよく知るとこ ろで、 一人一説とさえいわれるほどである。ところで、学説の対立も方法の対立に帰着し、方法学説即経営学説ともいえよう。そこで われわれの課題に入る前に経営学そのものの問題状況を知らねばならない。それには、先ず、シェヤーやシェンプルークがやったよ弓に        ① ω甘げε畠巨αO同α昌琶ひQによって整理を試みる必要がある。対立する諸学説の申から一定のメルクマールに従って主要なものを﹁選抜﹂ し、これを﹁系統﹂づけ大観することが問題となる。もとより、分類も系統づけも研究の便宜のためであり、相対的意義をもつにすぎな い。学説の解釈が相対的なものであるのに、学説自体が発展変化し、どの段階で見るかによって異り得るからである。詳細はこれを基礎 に個々の学説の直接的研究を望む外はない。そこで、われわれのω8耳自噴Qロ昌ユO重量⇒瞬であるが、われわれはその規準としてゼルハイ       ② ムの昔から経営学方法論の基本問題とせられる次の三をあげる外はない。すなわち、第一は、経営学の自律性或いは独立性︵︾980日δ 09の巴σω薮昌巳婆①貯︶と科学性︵ぐ﹃一ωoロΦ昌ωOず曽胤8一一〇罫①一け︶の問題、具体的には、経済学との関係如何一上位︵¢σ20a2ロαQ︶か、同位

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(一 iOO﹁ユ一昌曽θ一〇昌︶か、下位︵q馨臼Oa量轟︶かの問題。第二は、経営学の対象の問題︵O玄。鉾只〇三①旨︶、つまり経営学に固有にして必 然的な対象は何か。 ﹁経営経済﹂か、 ﹁経済経営﹂または単に﹁経営﹂か。第三は、経営学の方法の問題︵]≦①昏O庫①昌O吋〇三①日︶、すなわ ち、対象規定の方法、経営学的認識体系化の方法、経営学的観点はどのよ弓なものか。 ﹁個別経済﹂学的或いは﹁経営経済﹂学的観点で あるか、それとも﹁経営﹂学的観点でなければならないか。 これは互に密接な関係にあり、われわれもこれまでいろいろな機会に論じて   ③ 来た。ただ順序として諸学説の系統を文字通り概観しておかねばならない。  2 経営学説の系統 先ず、ω自律性の問題、経済学との関係如何であるが、この点につき各説の説くところ必ずしも明確でなく、ど のような解釈も可能な場合もあるが、典型化して見れば、経営学説は先ず包摂説と独立説、否定説と肯定説、の二つが大別せられる。前 者は経営学は経済学に対し下位関係に立ち、 これに包摂せられる一分科にすぎず、独立科学たり得ないと見る学説で、この系統に属する       ④ ものとしては、シェヤー、ワイヤーマン・シェニッツ、リーガー、シュミットなどをあげ得よら。マルクシズムに立脚する中西寅雄博士       ⑤ の旧説は論理の透徹せる点において否定説の典型といえよろ。後者は経営学は経済学と同位関係にあり、二つの経済学として相対的に独 立すると見る学説で、 この系統に属するものはシュマーレンバッハやニックリッシュを初めゼルハイム、ジーベル、シェンプルーク、メ       ^       ⑥ レロウイッツ、レッフェルホルツ、グーテンベルク、モクスダー、ヒルなど、要するに、ドイツ経営学の主流派、正統派であって、前者 は異端者ないし反対者といわれる。 この二説は一見根本的に異るかの如くであるが、実は対決ずべき経済学を如何に解するかの栢異であ ワて、何等かの経済学としてのみ科学化し得ると見るにおいては同様である。       ⑦  これを学史的に見れば、第一次方法論争以来、否定説と肯定説とが対立し、ニックリヅシュの経済学と経営学との並立宣言以来次第に 肯定説が麦配的となって来た。しかし、今日の問題は単なる肯定説を越えて真に自律性・独立性の根拠を明らかにするところにあり、そ れも経済学説に対する経営学説の根拠の解明による独立説の確立にある。  なお、この自律性の問題が科学性の問題と密接な関係にあることは指摘するまでもなかろ弓。理論学派は否定説たらざるを得ず、按術 学派、規範学派は肯定説たらざるを得ないからである。しかし今日の問題は実践理論科学としての自律性を明らかにするところにある。 そしてそれは対象の問題、方法の問題を通して深められる。        ⑧  ② 自律性、独立性は先ず対象の問題となる。対象からは、経営学説は前述のように四つに大別せられる。第一は広義の経営経済学説 で、主どしてドイツ経営学がこれである。 これもその対象の構造や範囲によって私経済学説︵企業学説、私企業学説、個別資本学説を含 む︶、個別経済学説、経営経済学説に細分せられる。第二は﹁経営管理﹂学説で、その代表はアメリカ経営学である。第三は﹁経営組織﹂ 経営学の方法の問顯厚︵山口本︶ 一七三

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一七四 学説で、その代表者は馬場敬治博士である。策四は﹁経営﹂学説で、これにも藻利教授、山城教授の説など種々の考え方があるが、私見       ヘ ヘ      コ     ヘ へ によれば、経営学の対象は経営経済︵しσ①8藤野①σω≦一HけロoOげ国剛け︶ではなく経済経営︵≦艮。・oげ節津ωび①自同①び︶すなわち事業経営或いは単に経営で あって、経営学はドイツ経営学の経済的側面の客観的把握とアメリカ経営学の管理的側面の主観的把握を統一するものとして成立つ。こ﹂        ⑨ の経嘗学が組織学に近、いことは明らかであろう。  いま、この対象学説と自律性学説との関係  否定説は当然に問題の外に立つ一を見るに、経営経済学説は肯定説で、経済学内にお ける国民経済学との同位関係を説き、経営経済学の相対的独立を認めるのであるが、管理学説、組織学説、経営学説は何れも経済学との 同位関係を説き、それに対する独立説を主張するのである。  ㈹ しかし、対象も方法によって決定せられる。方法からは如何なる学説が認められるか。方法は互に密接に関連する二つの意昧をも       ⑩ が、ドイツでも必ずしもこの点明らかではない一は対象構成の原理︵選択原理、同一性原理︶、他は経営学的認識の体系化原理︵経営の学 的観点、立場︶を意味する。 ところで、上述せる対象と方法との関係から明らかなように、第一の意味での方法による学説、つま方法学 説は対象学説に対応する。従って、われわれが前に述べた対象学説はそのまま方法学説と読み替えることが出来る。例えば、ドイツ経営 学ではニックリヅシュの﹁商事経営論﹂以来、対象構成の原理は経済学の﹁一般性﹂﹁金体性﹂の見地に対する﹁個題経済﹂﹁私経済﹂の見     ⑪      . 地であった。それが具体的に何を意味するかに争いがあり、それぞれ選択原理として営利性または収益性︵菊O昌什帥げ=搾瞭辟︶、経済性︵類一吐亨        ⑫ の魯母葺。黒鉱け︶、生産性特に共同経済的生産性︵αQo日①ぎ鼠昌ω臼島島魯①中&鼻晋圃感θ︶の三が主張せられ、或いは後二者を同義として収       ⑬ 益性と共同経済性の二が主張せられる。われわれは一定の理由から営利性または収益性︵私経済学説︶、経営性︵個別経済学説︶、生産性ま たは経済性︵経営経済学説︶の三つに区別して批判的に考察し、新しい意味での﹁経営性﹂ ︵経営学説︶を確立したい。  第二の羅宇・の方法によれば、経営学説は規範学説︵ZoH日芝一。・ω①ロω07白日︶と存在学説︵ODoぎω白けω①旨ωo犀”︷け︶︵規範的と経験・実在的︶の  ⑭      ⑮ 二、或いは理論学説、規範学説、実践学説の三に大別し得るであろ弓。この意味での方法の問題は別に論ずる。  以上はドイツ経営学すなわち経営経済学説における方法学説を概観したのであるが、 これに対する方法学説としてアメリカ経営学すな わち管理学説が対立する。そして両者の批判によってその統一を狙5ものとして組織学説、経営学説が成立するが、その論述はここでの 課題の外にある。いま、便宜上、これまで述べた主要な経営学説の系統を表示すれば次頁の如くなるであろ弓。 それは学説の論理的系統 を示すにとどまらず、歴史的発展をも暗示するものである。  3 学説の対立と統一 以上経営学説の系統について考察し、諸学説が如何なる点において如何に対立しているかを示した。しかし、

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経営学説系統表

自 律 性 対

(経済学との関係)

象 

法1代表者

経営学の方法の問顯一︵山本︶ 1 経済学としての経営学(広義の経営経済学説) (1)無条件包摂説(否定説)=経済学説

(有機体観)商   業経済性・理論的シェヤー

(新…派的)私灘・企業営利性・理論的劉㌃募∠’シエニッ

(有 機 観) 経営・経済循環 経済性・理論的 シュミット

(マルクシズム)個別資本営利性・理論的中西・北川

② 相対的独立説(肯定説)=経営経済学説一ドイツ経営学 (新カント派白熱) (新カント派白勺) (新カント二三勺) (カント哲学的) (マルクシズム) (存在論的)

済済営題業環済済本属

     循

 経経問 近経経論経

蚤  ●   面

ま      イ

 営業用 

・営営出営

     営

私経企費企経経血温経

営禾il・「生 ・理論白勺

生産性・実践的

弄径済・i生 。規範目引

理 

論 

的 営禾IJ,「生 ・ 実践白勺 維…営ilts 。 規範白勺 経済性・’実践的 縞…済’l/生 ・理論白勺 営禾山[生 ・ 実践白勺 営禾晒性…● 理論自勺 ニジクリッシユ(1) シユマドレソバジハ ニックリッシユ(5) ゼルハイム ホフマン、ジドベル .ニックリッシユ(7) メレロウィッツ、ハック ス、モクスター一、古川 ・ グーテソベルク、ヒル 馬場(克)

池 

内 E 独立の学としての経営学(独立説)=広義の経営学 〔1)管理学説=アメリカ経営学:

(実用蟻的)経営管理壁面僕践的;移7三卵胞劣.

(2)組織学説経営組織組織理論的馬場(敬)

㈲ 経営学説=狭義の経営学 (存在論的)i事 業 経 営1経営性・実践理論的塵利、山城、山本など われわれの課題はただ対立の事実 を示せば足るというものではな く、この対立を通して統一を試み、 現代経営学を確立することにあ る。この点については前に詳説し        ⑯ たので繰返さない。しかしその課 題は如何にして遂行せられるか。 先ず、対立そのものの意義の理解 が大切である。この点につき、ハ ックスはい5。 ﹁しかし面白いこ とには、非常に鋭く論争される問 題が必ずしも学問上の真の聞題で はないことがしばしばあるのであ る。意見の対立は、表面に現われ ているほど重要なものでないこと もある。⋮⋮ところがこれとは反 対に何の論争もされずに学問上の 重要な変化が起り、しかもこの変 化が議論の余地のない当然の事柄 のよ5に思われて、この分野に関 心をもつ人々の大部分が、ほとん どこの変化を意識しないことも非        ⑰ 常にしばしばある。﹂ このハック 一七五

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一七六 スの言葉は決して方法や論理を無視するものではなく、むしろ方法や論理の根抵に存在があり、経営存在の発展、経営問題の変化が必然 的に経営学の変化をもたらし、かくて対立の統一も現実を基礎にして可能であることを示さんとするもので、上述の私見とそう遠くはな いのである。われわれも経営の現実を考慮しつつ、ドイツ経営学−経営経済学説一の方法理論を批判的に考察し、その一面観にすぎ ないことを指摘することによって対立を越えて統一への道、すなわち経営経済学説から経営学説への展開の必然性を指摘したいと思う。  ①Qっ。置さ臼●喝4≧貫①日①ぎΦ四白山色。・げ①三①げ。。︸①聞①噂F諺龍 H旨H唖oD.N9ω6ま冷風言ゆq噂ppO‘QD●①ρ  ②QDOま似β周4N貫筈①§oαoδσq6巨山替り旨8日p二百匹①N田口N巴註昌ω6冨h邑①ぼΦ噛︾目重く山9周。詳。。。冨犀①ぴ①晋。σω三昌切。冨︷岳1   6げ頸閏。屋。ず鑑昌αq賃昌山い。び同P♪H⇔訂αQ4HO卜⊃﹃●ω.H9  ③拙稿、経営学の立場と経営の立場︵経営学論集第二十一集︶、経営学か経営経済学か︵PR、第五巻第九号︶、拙著、経営管理論、拙   稿、経済学、組織学と経営学︵PR、第十巻第九号︶、その他本誌連載の経営学本質論に関する諸論文、参照。  ④ωo録5p9。.O‘QりQD’し。り一お・嘘芝29寒き〒oDoま巳貫○唇aδ空昌ぴq§亀QQ器8日鉾一三①ぎ重書。・ω8ω。匿︷葺。ゴ窪頃ユ︿鉾言菖ωI   oび四障巴①寓。鎧昌α8屋℃h一〇αqo昌四ロq巳く臼巴品85ロ昌α国9コ。ぴ1国ooげロ。oげ巳oPHΦ匿粕ω.①ら臣■噸園陣①αq①さ毛4国ぎ毎聞二旨ぴqぼ集①   ℃ユ︿簿≦冒房。びロ津巴①町Φ︾同りb⊃QQ噂ω・﹃bQ臨..ωoず目圃鳥篭閃こ﹀=αQ①旨Φぎ①じdΦ霞δσo。区署貯ωoげ9。津。D冠げNΦuも◎■︾=自℃困OαρUo窃.”U①﹃   bd①茸8σ一日閑吋①げ冨自h山①﹃ぐ5詳ωOず餌h♂N﹄切一鱒O.H帥げ﹃ぴq●H㊤㎝O。ただし、シエヤーは独立説の先駆者[ともいえないことはない。  ⑤中西寅雄、経営経済学︵昭和六年︶、参照。なお、この旧説の自己批判の上に立つ新説については、経営学の回顧と展望︵PR第九   巻第一二号︶ の疹昭︷o  ⑥ω9旨巴9σ8F国4嘗。国一爵薯三ω9臥邑。再①四一ω国琶・。けδ訂ρN密戸①・﹂㊤ずお4お目i旨4Z8譲ω。戸国●−∪6毛昇。。9㌣   h二言ず。切。けユ①房δ訂ρ㎝.諺珪 噂H8b﹂●∪①屋﹂Uδbd①θ二〇σω≦ヰけ・陰。げ既r刈.レ鼠ポHOb。OlしQb⊃.e。・窪.Oこω2ぎ虫目b●pO40っ冨95国.国.”   Oσ冨葬自三巴ゆ①嘗凶。げ9μσqの乏①尻oO臼切①けユ①σω≦凶詳ωoげp津巴①び目ρお⊆QN遣Qり。ゴOp風εぴq”p鎖・O二︼︶臼ωこd葺霞宥。げロ旨西①目麟σ曾ユ。昌   国鱒①口暮巳ωαQ①ゆQo昌。。3pα鐸臼9Ω目ぴq①日ΦぽΦp¢p匹爵oo﹃Φ萬の。﹃①揖bコ曾誌Φぴ。。≦冒梓ωo﹃餌鳥し。δ蒔①巴ωい。訂①ぐ。コ飢①口甫マヨ6ぴ鋒象。ず。昌   O①σ=創①PH㊤しQ①■L≦①=㊤o≦ざ斜﹀=㎝QΦ目①ぎ①切①けユ①σω≦マ房∩ずp。重慶①耳ρ﹃.︾乱 ”H¢認こい。、凍①ヨ。亘︸←O①ω〇三〇げ辞①島2切①㌶7   ①σωミ巴里。ゴ母θ滞積鳥餌合切。げ二①σロ。芝貯θ。。oげ帥三巴①び﹁o℃日8㎝召O暮Φ昌σoぴq”国己Ω腕ロp巳曽αq①ロα臼切①需嗣げω毛一誹ωoげ四津ロ。訂昨⑦H●ゆPHO㎝H.噂   竃。×8♪諺← 蜜。夢。鳥oHoo⊇﹃9㊦O凄口色農寒山9bd⑦羽翼。σω鼠詳ωo冴緯邑9噌ρH8刈‘ 口許℃≦こ切oq一〇σω≦耳・・o冨博ωδ畔。帥一ω   ≦訂器旨。。oげ既♂お鵯●

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⑦拙稿経営学本質論の回顧と展望、本誌四八・四九号、続経営学本質論の回顧と展望車醐五〇号なξ参照。 ⑨ 拙稿、経営学の対象の問題、本認六五・六六・六七合併号、参照。 ⑨拙稿、経営組織概念と組繊の論理、本誌、五三号、参照。 ⑩例えばワイヤーマン・シェニッツは牢5Nぢ山2諺場≦三田.ジーペルはω①θ冨。耳琶ゆQω毛似ωo、ホステットラーぱ局冨0。oα霞  09Φ簿σΦω誠日日口口ぴ⊇として対象規定の方法とし、シェンプルークはδぴqδ91Φぢげ鉱昏。ず。﹃Ooω8鐸ωE口鐸噸目α㊦葺一薮房室ぎ巴ロモク  スターは国蒔。昌葺三の鼠9として体系化原理と解するだけで、両者の関係は問題にしてはいない。 ⑪経済学と経営学との対象は同一でただ見地が違うというのが、0り。冨ひPロ・O‘2ざ毒断。封事り≧にΦ日Φ5①囚磐剛ヨ晋口一。。魯Φ  切卑艮。σ巴。耳①巴ω℃臨く隅け≦算ωoげ螢坤巴。腎⑦傷Φω国語昌自凪ω︵に”庫αo﹃ぎΩロg。什ユ。︶㌦切。コ山炉H紹bo以来の伝統といえよう。その後の発展  は、いわゆる主観説から客観説へであったといえよう。例えばO暮oPげ曾民国4局ぎh鱗ぼ二型伽亀ぎao切①8臥。σω≦眸梓ωoげ①津ωδ町ρ  這切QQ鳩の.㊤●参照。われわれの問題が更にご.れを越えるところにあること上述の如くである。

@@@@@@

QDーσoさp9。.ρ噛QD●り㎝h陥.山国。馨曾二日uUδ閏量αqo山。吋090写σ⑦の口日日鋸口αQα臼じdoθ甑。σω零同日ωoゲ入津巴①寓。︾同逡伊ω.課砂 嵐。×8び国.孚04ω,①O諏. 凱。げ03⇒寓ぎΦq’Pβρ●O﹂Qり.“G⇔凍. 罎。㌶oび。・pρ℃QD.ω㎝︷︷. 拙稿、続経営学本質論の回顧と展望、本誌五一号、一六頁以下、参照。 ハヅクス、第二次大戦後におけるドイツ経営経済学の問題と傾向、ビジネスレビュー、第廿巻 第四号、五一六頁。 三 経W宮経済学岬説の方法理論

 1選択原理先す、対象構成の原理としての選択原理、同一性原理を申心に考察しよう。かって論じたように、経営

学の対象は何等かの意味で﹁与えられたもの﹂でなければならないが、それと同時にまた﹁作られたものしという意

昧をもたねばならない。経験対象と認識対象との関係は正にとのととを示す。その意昧にて選択原理は方法の問題

経営学の方法の問題︵山本︶ 一七.七

(9)

       一七八

コ       

の中心をなす。当時の常識的な考え方に対して、 リッケルト・ウエーバーの科学理論に立脚する﹁選択の原理﹂

︵牢ヨNσα臼跨ロ睾帥巨︶を自覚的に経営学方法論に取り入れて、その科学化の努力を初めて試みたのは周知の通り、ワ

イヤーマン・シェニッッであった。それはその学問にとって本質的なものと非本質的なものとを区別する原理であっ

て、歴史における﹁価値関係づけの原理﹂︵中ぎN骨α霞毒霞9①Nδぽ巨σq︶に当る。彼等はとのような原理を﹁私経済の

     

利益の観点﹂に見たのであった。これが私経済学論争と呼ばれる第一次方法論争の中心問題として取上げられるので

あるが、当時はリッケルトの価値判断ど価値関係づけ︵毛①含§oq琶α薯。暮σo臨9¢コぴq︶との区別が理解できす、誤解さ

      

れたのも止むを得ない。その後における経営学方法論の展開はこの問題を中心に激しく対立し、統一的理解を困難に

するかに見える。しかしまたそれだけにそれは常に新しい問題として方法論に課せられているのである。果して経営

       

学に必然的な選択原理の統一的理解の道はないであろうか。この問題はよく経営目的とか企業目的とかの問題とぜら

れるが、それは方法的誤解であろう。われわれのωざ暮§mq臼託Oa口¢畠は次の如くである。営利性・収益性の

テーゼに経営性のアンティ,・テーゼ、生産性または経済性はそのジンテーゼ。その代表者はリーガー、 ニッタリッ・ン

ユ、シュマーレンバッハである。そしてこのようなジンテーゼの薪形成として真の意味での経営性を考えたいと思う。

 2収益性と経営性歴史的出発点をなす営利性ないし収益性原理は﹁資本家または企業者の利益の立場﹂といわれ、私

経済学説、企業学説、個別資本学説の選択原理である。同じ原理に立ちしながら、ワイヤーマンーン一報ッツ、リーガ

ーなどは理論学説を、ホフマン、ジーベルなどは実践学説を主張する。ととでは典型としてリーガーを代表せしめる。

      

 リーガーの見解については前に述べたから繰返さない。収益性原理は何も資本主義特有の現象ではなく、前資本主

義的でもあり得るが、ともかくこれによって経営学の対象を厳密に私企業、その資本循環︵陽物O証冒巨帥無︶に限定し、

      

経営学をして﹁精密科学、つまり経験、計数、計算に立脚する科学﹂たらしめ得る。資本生壁に必然的な見解として

(10)

特質をもつが、歴史の進展と共に訣陥も現われる。第一に、ホモ・エコノミクスの上に理論科学化するととは経済学

       

化であり、それは自律性を自ら放棄するもので、方法論上の自殺論法というの外はない。次に、資本主義そのものの

      

発展を認めす、十九世紀的資本主義と二十世紀的資本主義との差を無視し、収益性原理の妥当の限界を忘れる。要す

るに、論理性に偏し、歴史性を無視し、経営学の歴史をも顧みない。今日までの歴史はある意味では収益性原理の発

      

展、ヵ①素雪σまけ馨自①。。囚簿O算簿δから燭①コ母び吐け馨α①目︾Nσ虫叶への発展であるともいえよう。とれを学史的に見れ

ば、前世紀末以来ドイツにおいて﹁古い﹂商業学から﹁新しい﹂商業学へ、更に経営学への努力は、古い金儲け主義、

       ⑫

荒越たる金儲け術︵α号勺8多日舘げ90ご、利潤論︵津。捧♂芹①︶からの脱皮であった。 その第﹃の道がワイヤーマン・シ

ェニッッ、リーガーの科学化の道、しかし経営学否定の道であった。とれを肯定しながら脱皮する道がシェヤー、 シ

ュマーレンバッハ、ニックリッシユその他経営学の正続派の主張である。とこでは前のテーゼに対するアンティ・テ

      

ーゼはニックリッシユである。ニックリッシュといえば経済性を思うのが常であるが、われわれはむしろ経営性とい

う。改めて説くまでもなく、ニックリッシュの主著﹁商業の私経済学としての︸般商事経営論︵第一版、一九一二年︶か ら﹁向上の道・組織﹂︵一九二〇︶﹁経済的経営論﹂︵第五版、一九二二年︶を経て﹁経営経済﹂︵第七版一九二九−一九三二年︶

に至る見解の発展は正にドイツ経営学の発展史そのものである。ととろで、ここでの問題たる選択原理は前の系統表

       ⑭

の示す通り、収益性原理︵第一版︶←経済性原理︵第五版︶←経営性原理と展開している。だから、われわれは発展の

最後の段階をなす経営性原理をあげねばならない。もちろん、彼は経営経済学者であって方法学者ではない。彼の方

       

法論が弱いからとて非難するには当らない。

       ⑯

 彼の見解によれば、経営学の対象は﹁経済の単位の生活すなわち経営︵しu①三。ぴ︶である。 その際、価値の生産をす

る個別経済だけでなく、家計経済もまた経営と見られる。しかし経営の生活は経済の生活である。経済は経営におい

    経営学の方法の問題︵山本︶       一七九

(11)

       一八○

てでなければ生活し得ないから。それゆえ、対象としては経済に着目せねばならないが、注意深く観察すれば、再び

経営に帰着するのである。けだし、経済の生活は入間が価値を把握し生産することとその価値をその欲望充足のため

に用意することに尽きる。との全過程は入間の欲望とその充足との間の間隙の架橋を意味する。この架橋は経営の形

      

に器いて行われ、そしてそれが経営という構成体の生活の目的と意義である。L然らば、その選択原理、経営をして経

営たらしめる経営性は何であるか。 ﹁とれらの構成体がもし経営であるべきであるとすれば、それらすべての構成体

       

の主要特質は:⋮・﹁価値循環﹂ ︵ぐ﹃O戯け丁目一四=h︶ である。これは経営に固有なものである。しこのように﹁価値循環﹂を

      

原理とするととによって、 ﹁彼は﹃収益面一経済性﹂という困難を回避する。L彼の原理によれば、すべての個別経済

が経営を意味し、経営経済学は個別経済学に外ならない。シェンプルークが﹁企業概念の排除によって、 ニックリッ

シュは広汎にして普遍的な個別経済学への道を開いた。ゴンベルクの失敗に帰した試みの後三十年中とこに、言葉の

      

最も広い三昧における個別経済学の問題は再び論議せられるとととなった﹂というのももっともで、その方法論こそ

ゼルハイムやシェンプルークの問題であった。ここでは彼の経済の本質、深さ︵艮心︶の問題、適応価値の問題、組織

法則の問題、経済性の問題、要するに規範的見解にふれる余裕はない。それは後の観点の問題となろう。

       ち  る  へ   も   も

 さて、ニックリッシュの経営性原理とリーガーの営利性原理とは経営学の対象について広狭の両極をなしている。

前者は価値循環の見られる個別経済がすべて対象に属するといい、後者は資本循環の行われる企業のみという。わが

     ⑳       ⑳

国でも平井博士はいわゆる意志経済説に立ち結果的にはニックリッシュ説の支持者であるが、経営学の対象理論とし

ては無理と思う。現に、今日この見解の支持者は存在しない、そとで第三の原理が問題となる。

 3共同経済的生産性 シュマーレンバッハの原理はこれまでの両者に対するジンテーゼを意味する。 シュマーレンバ

ッハの地位については説明を要しまい。リーガーの原理が資本家の立場、 ニックリッシュのそれが生活者一般の立

(12)

場、人間の立場であったとすれば、シュマーレンバッハのそれは社会的責任を考慮する経営者、いな社会的経営の立

    ⑳

場である。彼はいう。 ﹁著者の属する学派にとっては経済的経営はただ共同経済の機関としてのみ興味があり、私経

済的な営利の施設としての経営は魅力をもたない。との故に、われわれの見解にとっては・⋮:私経済学という名称自

体全くの矛盾である。⋮⋮そとで、われわれの経営経済学の意義は誰が財産や所得を得たか、如何にして得たかをで

はなく、ただ経営が如何にしてその共同経済的生産性を示すかを研究するととである。﹂

 との原理は自らいうように]方では﹁観察領域の拡大﹂ ︵野島①岸9巷帥q山。ωゆ890算琶ぴ亀ω鵠。匡。ω︶を他方ではコ観察領 域の縮小︶ ︵田gおq凝号。。口d8σ年算q5暢ぽ銭。ω︶をもたらす。 ﹁所有者を考慮することなく、経営を経営として見﹂

公企業をも共に対象とするが、私経済的行動も共同経済的に作用しない限り、除外せられるからである。しかし、そ

の共同経済的生産性とは何を意味し、如何に測定せられるか、収益性と如何なる関係にあるか。この古くから論じ尽

      

された問題を繰返するを止め、この共同経済学派の原理に対するジーベルの﹁倫理的に純化せられたる収益性﹂

︵①θ置巴﹃σ9包巳αq8園ゆ昌3σ薫聾︶ ﹁またシェンプルークの﹁偽装された収益性原理﹂ ︵ぴqΦ旨旨8開魯9菖護梓︶という批

評を指摘するに止める。他方からいえば、シュマーレンバッハの批判は誰にでも出来る。,しかしモクスターのいうよ

うに、彼のい①σ①しω≦Φ降を研究した後に、誰があの観察方法が彼にとっての願望であったことを疑い得るであろう 斗噸 ユ刀 L

 われわれは彼の原理に単に﹁偽装された収益性原理﹂を見るべきではなく、むしろ新しい時代に即応する新収益性原

理を見るのでなければならない。経営が自主化する時代では、収益は収益性原理によってではなく、むしろ社会的機

      ⑱      蓼

能の発揮によってもたらされる。ドラッカーその他のいわゆる社会的職能性原理、フォードの奉仕主義もとれに外な

    経営学の方法の問題︵山本︶      一八一

(13)

      一八二

らない。シェヤーやシュマーレンバッハの原理もまたとれを意味する。そとで、収益性原理と生産性原理は一面対立

ではあるが、他面発展を意味している。ζれを明瞭に示すものがニックリッシュの経済性原理である。もちろん、経

      ⑩

済性は生産性と同義にも解されるが、ニックリツシュにおいては特別な意味をもつ。それは根源的経営 ︵蔑ωo昏躍− 一♂び霞bu①藍。げ︶︵家計︶ではなしに、派生的経営︵普αq巴①一団簿臼じd簿ユ①σ︶︵企業︶について考えられ、﹁経済的経営学﹂︵第五版︶

       ⑳

の対象構成の原理を意面するからである。それは生産過程の最適形成の原理であるばかりでなく、分配過程の最適

形成の原理でもある。 ﹁経.済性は、形成の法則と維持の法則︵O。ω⑦訂α霞O①の9言誤量α国昏巴9昌σq︶が経営経済的生産

       ⑫

過程において支配していることを意味する﹂という。ニックリッシュとシュマーレンバッハは対立すると見れば明ら

かに対立と見えるが、との段階では.非常に近いといわねばならない。モクスターがシュマーレンバッハのひqΦ日。︷午 毛マ叶ωoげ費目財。び①℃No山ロ閃旧く紫簿とニックリッシュの薯二日ωoげ叩打=67冒①まとを結びつけて○①B①営≦貯叶の6げ.9即=; oロ酎①騨という概念を形成して、とれを謁①昌8び自壁代と対立せしめ、ハンクスに徹って経営学を≦、ヰ房6げ緯二討ず吋9けω1

       ⑬

下げ﹃o島①層q暮①﹁コ⑦び8自⇒αqと呼ぶのも理由のないことではない。彼もシュマーンバッハに従いとの原理によって経         、 、 、 、       ⑭

営経済学の対象を生産経営として規定するのである。それは内面的にはニックリッシュの﹁全協働者の利益﹂の立場

       も   も   も   も   た   も   も   も   し   も   も   し   セ   し   し   し   し   も   と   し   も   も   も

である。つまり資本の収益性、労働の収益性から全協働者の収益性への発展、経営の立場を暗示するものである。要

するにシュマーレンバッハからその規範性をとるときそれが今日のドイツ経営経済学の通説であり、またわが国の経

       ⑮ 営経済学の通説をなすものである。  ①霜醸曾冨昌pあ魯。,巳霞餌.鐸ρ℃ω.繰  ②≦亀臼ヨき〒QDo暮巳貫四.国・ρ”ω匿。。O・  ③中村常次郎私経済学時代の独逸経営学︵馬場敬治編集経営学全集第六巻︶=一八頁以下参照。

(14)

④市原季一、ドイツ経営学、第亡章参照。 ⑤U霊。ざジや岡.℃目げ①即8θ圃80︷竃き斜①日①ロ戸。・認︷︷. ⑥本誌四八・四九合併号拙稿参照。 ⑦Qり。ま呂旨ゆ⊇堕国美2ヨ三。・αQΦσq魯即き山α臼切①旺①σ。・惹諄ωo冨︷邑。び冨”ψH㎝︷︷.属・おhh・ ⑧QD繭。ぴ①き即恥・O‘ω﹂も。Q。● ⑨本誌五九・六〇・六一号拙稿参照。 ⑩ω09暑旨αq噂ピ㊦爵巳①8同。話。βQD.ωO鳶 ⑪国。ω8窪⑦さ9。ψm.ρ噸ρω9 ⑫ それは﹁安く買って高く売る﹂という昔ながらの原理である。拙著、経営管理論、二四八頁、∪讐。奔Φき。唱・o罫”℃●Q団.ミΦ矯07  ヨ帥旨51匂DOゴO巳冒矯騨翁。。ρ鳩ω・艀0など謬照。 ⑬ω♂σ①び。♪.鱒04ω﹂し。O臣.この本はニックリッシュの第七版が完結する前のものであるから、かく見るのは止むを得ないが、そ  の後もなおかく見るのはニックリッシュに忠実ではない。・市原、上掲書参照。顕Oω8巳曾は私見に近い。 ⑭ニックリッシュ学説の研究は多いが、かかる展開がなぜ、どのように行われたか興味ある問題であるにもかかわらず、まだ誰によ  っても試みられていない。経営学の発展として進歩か退歩か問題であろう。 ⑮彼の第七版における対象論と方法論とはバラバラで必ずしもわれわれのいう内面的関係を示していない。 ⑯ 経営経済学の対象を初めて﹁経営﹂と規定したことは形式的にせよ注目に値する。その意義を深く考うべぎである。 ⑰密6窪ω。賞頃‘コ¢切。窪一①げ署耳ω。冨P刈・諺‘自・﹂Ob⊃O一。。卜⊃℃ω●①● ⑲害。罠ω。買弾・掌。’○‘匂D.HΦゆ● ⑲頃。ω5巳①5PPO・殖QD■$.彼は循環思考が経済学に地盤をもち、経営学の聞題をこれによって有意義には説明し得ないと評す  る。これはニックリヅシュにだけではなく、ドイツ経営経済学の対象理論・方法理論に対する根本的批判といえる。 ⑳ω9曾ロ自轟L≦①匪&①昌℃﹃o⊆。βQD。戸課. ⑳平井泰太郎、経営学の対象としての消費経済、国民経済雑誌、第百巻第六号、参照。− ︵⑫ わが国では古くから、意志説が行われている。作田荘一、経営学と経済学の対照、山口商学雑誌第一号︵昭二︶、自然経済と意志 経営学の方法の聞顯一︵山本︶ 一八三

(15)

一八四  経済︵昭四︶、谷口吉彦、商業組織の特殊研究︵昭六︶参照。その批評については、中西上掲書、参照。

⑳○∩凶①げ3四・鱒Poo・りメ       ,

⑳ω魯ヨ巴窪冨。戸国遭∪旨国目凶。。。冨b⇔ぎ嵩”↑諺三ポおNρω●置● ⑳ωδσ⑦朗麟.pρQっ・δ㎝・ ⑳ ω070旨嘗εぴq・p卑O﹂ω・卜σQQH. ⑳罎。×け。びp帥・Oこω●唖ω・ ⑳ U醤。胃①﹃︾o℃.ユ斡O.卜。㊤hhはこれを示すものである。なおQりδげ①びP騨ρりψHOド ニヅクリッシュが﹂d葺㊤昌Φげ日①畦①口鼠σ7  一澤9,θとd昌け⑦ヨΦげ旨口窃㎝qq巨屋ロ冨ぼ一閃鋒を区別するのも乗る意味ではこれを指すQα・︾鼠7ω’N・ ⑳ 閏。﹃P国・L≦鴫U岸①9。山斗毛。﹃賀Uo‘↓oα塁国罫α円。営。霞。≦.ドラッカーのネオ。フォーディズムについては、藻利重隆、ド  ラッーの経営学説の研究、参照。 @ aj os @@@ この問題については、市原、上掲書、小島昌太郎、経営学序論など参照。 28匹ぼ6鐸国4芝冒房。び帥h岳。冨切卑二①ぴ。。δ寓①”α.︾乱rH8bこ矯もり・H. Z8置﹃oFP鐸ρ℃ω。QQH齢形成の法則と維持の法則は組織法則に属する。 ]≦o×号詳帥’β。’O二〇Dの①gQ’ もりuげ①ひ帥●pOごω’Oメ 古川栄一、経営学、参照。 これについては、高田馨、経営共同体の原理、参照。

四 結 言一経営性深化の問題

 以上われわれはドイツ経営学における対象構成の原理をリーガーのをテーゼ、 ニックリッシュのをアンティ.テー

ゼ、シュマーレン。バッハのをジンテーゼとして収益性原理の発展の形で取扱い批判して来た。たしかにそれらの原理

は互に異っている。しかし経営において﹁経済﹂を見ようとするにおいては同一である。しかも彼等は同じく経済と

(16)

はいっても国民経済と経営経済とは海のシュロス︵城︶と戸のシェロス ︵錠︶ほで違うというだけで、一一つの経済学

      

の独立を説く。ドイツ経営学が遂に経営﹁経済学﹂を脱却し切れないゆえんである。なるぼど、彼等は言葉では経営

﹁経済﹂とか単に﹁経済﹂とかいうし、わが国でも芝ぼ駐。ず①津や芝冒80ず9。坤⑦コを直訳的に読むのを常とする。

しかし言葉を表面から内面に入って見れば、その﹁経済﹂はコ経営しというより外ないことが分る。先の国民﹁経

済﹂と﹁経営﹂経済との対立は、経済と経済との対立ではなく、実は明らかに﹁経済﹂と﹁経営﹂との対立なのであ

る。ととろが、不幸にしてドイツの切Φ貯冨びは ︵経営と訳されるが︶ゾンバルト以来技術的なものと解され、われわれ

の言葉でいう﹁経営﹂を意味しないととから悲劇が始まる。しかし、ドイツにおいて﹁経営﹂は次第にその意味を拡

大しつつある。先ず、 ニッタリッ・ンユが大胆卒直に﹁経営﹂を対象と規定するに至ったけれども、それも言葉だけ

で、その原理︵価値循環︶の形式性のゆえに無内容なものとなったこと上述の通りである。しかし、とれをシュマーレ

ンバッハ的に限定し、内に潜在する﹁経営﹂ への方向を自覚的に顕在化するとき新しいジンテーゼが可能となるので

はないか。その方向が経済に蔚ける主体性の問題、経営性の問題に外ならない。

 古くシェンプルークは﹁経済的関連の観察において純粋に経済的な契機の外に他の見地がどこまで共に問題とされ

ねばならないかは、それに興味をもつ人の心,情を躍動せしめるところの、そして今日までなお一義的な解決を見たこ

      

とのない一つの方法論的問題である﹂といい、更に、とれにニックリッシュと同様に﹁経営﹂を形式﹁経済﹂を内容

       

と把握し、いわば経営社会学的に新展開を試みたが、ドイツ経営経済学の伝統を越えるととが出来なかった。戦後に

      

なってレーマン、入玉ゼナック、ハックスなどによってとのような方法の徹底的追求が試みられておるが、果して、

       も  し  も      も  し

伝統を破り得るかどうか。翻って思うに、とれを真になし得るのは、ドイツ経営経済学の客観性とアメリカ経営管理

学の主観性を批判して共に摂取し得る主体性の立場に立つ経営学でなければならない。ドイツ経営経済学が一応暗示

    経営学の方法の問題︵山本︶       一八五

(17)

一八六

しながら、その方法論のゆくえに常に回避して来た経済に聴ける﹁主体性﹂を、アメリカ経営管理学の主観性の具体

化によって真に﹁経営性﹂として確立し得るものでなければならない。それはわれわれがとれまで経営構造の発展を

      ⑤

基礎に論じて来た経営の立場、経営構成の立場、経営主体の立場は正にとのような経営性原理の問題であった。それ

は明らかにリーガーの立場、シュマーレンバッハの立場を含み、 ニックリッシュの立場をも可能ならしめる現代経

営の構造に対応する経営全体の立場である。収益原理というならば、上述の如く経営全体の収益性︵國自邸σまげ鐸α①ω        ⑥       ⑦ 切。㌶ぽび。・帥﹃O麟慧。︶を意味する。われわれが資本主義や労働主義に対して経営主義というのはこれを意味する。 モク        スターの経営過程の最適形成︵oo二旨巴霞b⇔9ユ①び器σ一碧隔︶の立場も結局とれを意昧し、ととにて初めて可能となるので ある。理論経営経済学派の愚闇型といわれるグーテンベルクにも経営性の理論を見得るのである。  ①害巴臼。書oN惣国4諺目転読①首①しd①鼠。冨鼠昌ω。訂︷け。・δぼ①植S>ロh 噛Hり認L●切9ωQり.HO凸ρ  ②匂ゆ9。昌O讐轟L≦o昏。α魯只。σ一〇琶”Qり.①伊  ③GOo客80冨豊国犀Φ戸昌9置四ΦσQO房5昌Fω.Q。以h.9ω.同O開炉拙稿、組織学と経営学、本誌三〇号、一四頁。  ④い⑦ぼ三碧P>閏翌日①ぎ。切興﹃δびの≦算ω。ロ籠邑①畔。鳩。。・b嘗P”お蟹,その他の論文についてば鈴木英寿、ドイツ経営学の方法、参   昭︷。 田︻餌ω①〇四〇吋りdく4ぞ一①eゴ。Ω①ロi弱目山国旨け≦剛。犀一qロひqωO﹁oσ一①ロp⑦ ︹凶①﹁ ︼WΦけユ①σωノく冒枠opoゲ国陣ω一〇げ﹁o 一口 ⋮ N山鼠醗口①目。 一W①混一①一︶ω≦一昌ωoげ餌   ︷邑⑦耳ρ呵①馨ω3ユ津︷図鑑。資践冒。コ。δ≦ぎN’お総.調畏”国ごω富⇒〇二昌O︾鼠αq昏魯α曾ゆ簿ユ①げ田岩狸弓けωoゴ甘露①耳①ぎ餌霞   O①σq①口類溝♂N穿戸◎o’HゆQ。﹁おαρ国①津ω.  ⑤ 拙稿、経営存在の主体的構造について、本誌創刊号、経営構造の発展と主体性の問題︵平井泰太郎編、経営目的の達成と経営構造   所収︶、経営濫ずの立場⋮と経冨冨の立場︵経営論集第二十一集︶など参照。  ⑥藻利教授の営利性原則もこのように解し得るであろう。経営学の基礎、ドラヅカー経営学説の研究など、参照。  ⑦拙著、経営管理論、二八頁、参照。  ⑧竃。斡3曽・餌●O‘ω。①ρ

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