宗教的行為と刑法
\
︒ 前 田 雅英
はじめに
・ 一 宗教活動と詐欺罪
二 宗教活動と故意︑
1 ﹁教祖﹂め予言を信用することと故意
2 オウム真理教集団リンチ殺人事件と期待可能性
3 シャクディ治療と殺意
4 加江田塾ミイラ事件
ノはじめに ・ °−︑
渕倫彦教授の退職をお祝いするに当たって︑刑法と宗教に関する小論を準備してきた︒その最終段階で︑オウム真
︐宗教的行為と刑法 ︐ ︑ ︵都法四十五−一︶ 七
\
八
︑理教︵*現在︑﹁アレフ﹂に改称︶の教祖の犯罪行為に関する有罪判決が出された︒﹁地下鉄サリン事件﹂︵平成七年
三月︶という毒性物質サリンを用いた無差別大量殺人事件を代表として︑多くの凶悪な犯罪行為が実行され︑その首
謀者の刑事裁判の第一審判決が平成一六年に︑ようやく言渡されたのである︒この事件が我が国の刑事法に与えた影
響は︑多方面に及ぶし非常に大きなものがあると思われる︒
そしてなにより︑運の犯罪行為は︑その実行主体の特殊性の故に・大きな不安を国民に与えたといえ圭・﹁宗
教団体﹂の危険性を我が国のみならず︑国際社会にも意識せしめたといってよい︒もとより︑オウム真理教を宗教の
中に加えることには︑さまざまな議論が予想される︒そしてその宗教性を論じることは︑筆者の能力を超えている︒
そこで本稿では︑最近の宗教に関連する刑事事件に見られる裁判所の﹁被告人の特殊性﹂についての取り扱いを概観
することにより︑現代における宗教と法の関係の一断面を瞥見することにしたい︒特に︑行為者の主観面の評価に︑
信仰的なものがいかに影響するのかを検討してみたい︒
︵1︶ これらの事件の後︑オウム真理教に対し︑宗教法人の解散命令を始め︑破産宣告がなされるなど︑同教団の弱体化が図ら
れたが︑公安審査委員会により解散指定処分の請求が棄却されたのを境に︑オウム真理教は︑各地で新たな土地・建物を確
保し︑その活動拠点を築くなど︑再びその活動を活発化させ︑国民に強い不安を与えることとなった︒かかる状況の下︑こ
うした過去において無差別大量殺人行為を行った団体の実態を明らかにし︑また︑再び無差別大量殺人行為が引き起こされ ることのないよう︑団体の活動を規制することが強く求められた︒
このような国民の求めにこたえるため︑平成一一年一二月︑﹁無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律﹂が
成立した︒同法は同年末に施行され︑平成一二年二月には︑同法に基づき︑オウム真理教に対する行政処分︵観察処分︶が なされた︒そして︑同法も︑平成一六年には見直しの時期を迎えている︒
一 宗教活動と詐欺罪
現代社会における宗教活動と犯罪という視点からは︑まず詐欺罪に触れておく必要がある︒現代社会で最も宗教と
の接点の多い犯罪は︑詐欺罪だからである︒最近重視されるよべつになった消費者保護の観点からは︑﹁宗教﹂﹁心の問
題﹂が非常に重要な局面にさしかかっているのである︒
国や地方公共団体の消費者行政は︑不十分な面を残しつつも︑着実に進展していると評価することはできよう︒た
だ︑﹁取引であれば︑駆け引きも当然存在するのであり︑騙される消費者が悪い﹂どいうような︑﹁近代市民社会型﹂
︑の取引観を脱し︑﹁実質的に対等な関係にはない消費者の保護﹂という観点が認められるようになったのは︑さほど
以前のことではない︒そして︑その点に関してはなお一層の努力が要請されている︒ただ︑消費者保護という観点か
ら見ると︑現代の日本社会は︑さらに新たな視点を持つ必要があるように思われる︒°
わが国の戦後経済は︑大多数の国民に一定の物質的充足を与えるだけの発展を示したといえよう︒しかし︑その反
面で︑国民の一部は︑経済的効率性を探求することなどにより生じる閉塞感などに不満や不安を感じ︑宗教にその解 .消や自己実現の場を求める人が増えているといえよう︒特に︑﹁新しい宗教﹂﹁自己啓発講座﹂に魅力を感じる人々が
増えている︒特に若者にそのような傾向が強いといえよう︒そのような流れの延長線上に︑オウム真理教の存在も位
置づけ得るのであろうが︑その宗教的な動きの裏面で︑﹁宗教﹂に名を借りた悪徳な商法の存在が大きな問題となっ
てきているのである︒宗教団体を名乗る団体への入信を勧誘すると同時に高額な壷や印鑑を売りつけたり︑水子の霊
を祓う等の役務の対価として︑高額の祈祷料を支払わせられる︒その額が莫大なものであることに加え︑精神的な障
害が生じる場合が指摘されるなど︑社会的に放置し得ない問題となっているのである︒このような消費者被害は︑裏
側から見ると︑課税め対象とならない相当な資金が︑﹁宗教組織﹂に短時間に︑容易に集積することをも意味する︒
宗教的行為と刑法 ︵都法四十五ー一︶ 九
、
一〇
しかし一方で︑日本国憲法は︑基本的人権を重視し︑中でも精神的な自由を尊重している︒思想・信条の自由︑宗
教活動の自由は保障されており︑前述の﹁悪徳商法﹂と見られる行為も︑宗教活動一部と見られる範囲では︑法的規
制︑行政的介入は不可能だと考えられてきた面がある︒
しかし︑はじめから金銭を奪い取る目的で︑﹁宗教﹂などはその口実にすぎないことが明らかな場合には︑憲法上
の保護が及ばないことは当然である︒例えば真言密教を名乗り﹁水子の供養料﹂の名目で︑数百万円を騙取した﹁僧
侶﹂が詐欺罪で起訴されている︒従来は︑宗教活動ということで︑必要以上に法的関与が差し控えられてきたが︑オ
ゥム真理教の問題などもあり︑捜査機関も積極的な対応に転じたのである︒
さらに︑宗教活動であれば︑いかなる行為も許されるというわけではない︒例えば︑一九九四年一〇月に追加され
た東京都消費生活条例の施行規則七条は︑霊感・霊視商法に対応するため︑﹁消費者の不幸を予言し︑消費者の健康
又は老後の不安その他の生活上の不安をことさらあおる等消費者を心理的に不安な状態に陥らせる言動などを用い
て︑契約の締結を勧誘し︑又は契約を締結させること﹂を不適正取引としているのである︒
ただ︑この﹁契約﹂の対象は︑壷などの物品販売から︑祈祷などの役務提供までを含むものの︑宗教に名を借りて
全財産を寄進︒寄付させるような行為は含まれない︒さらに︑不適正取引と看倣されても︑被害者の法的救済が十分
にはかられるかは︑別個の問題である︒いわゆる宗教関連の消費者被害について︑その法的関与の可能性を︑民法︑
訪問販売法︑条例などに加え刑法の視角も含めて多面的な角度から検討していかねばなら缶・さらにその前提とし
て︑宗教活動に法的に干渉する場合の問題点を︑﹁セクト﹂とか﹁カルト﹂と呼ばれる新興宗教の問題状況を視野に
入れて検討していかねばならない︒
民法では︑宗教活動に関する取引であっても︑基本的には︑通常の民法原理に従うものとして︑消費者保護の可能
︐ 性が探られなければならない︒不法行為法の領域において︑取引行為が社会的に相当であるか否かは︑もちろん宗教
活動に関するものであるという事情も考慮されるが︑現在明らかにされている﹁宗教的活動に名を借りた活動﹂の実
態も踏まえた違法性判断でなければならない︒契約法の領域においても同様で︑﹁宗教の係わる事情は︑通常の経済
的取引とは異なるから︑民法の基準はあてはめ得ない﹂と考えるべきではないのである︒また︑訪問販売法によって
も︑宗教がらみの不適正取引の制御が︑一定の範囲で可能である︒
そして︑本稿が対象とする刑法の側面からは︑被害者が﹁効果を信じている﹂以上︑詐欺罪の成立は難しいと考え
られがちであった点が最も重要である︒ようやくこのような形での詐欺罪の理解が大きく変わろうとしているのであ
る︒宗教活動の外観を有しても︑実質的に財産侵害を意図することが︑客観的証拠から見て明白なものについては︑
・詐欺罪の成立が認められるようになった︒
そのような観点から特筆すべきなのが︑寺院の僧侶が病気治癒を願う相談者に供養料を支払わせた行為につき︑詐
欺罪の成立を認めた富山地判平成一〇年六月一九日︵判タ九八〇号二七八頁︶である︒
宗教法人甲寺の系列寺院である乙院の僧侶であるXは︑住職Yらと共謀の上︑A女の病気治癒を願って乙院を訪れ
た母親B子に対し︑﹁水子を供養したら病気が治る﹂﹁水子治療には五〇万円かかる﹂等と申し向けて︑さらに﹁先祖
供養が必要だ﹂などとして︑供養料の名目で合計一〇〇万円を︑Bから騙し取たという事案であった︒Xは︑自分に
は霊能力があり詐欺罪には該当しないなどとして争った︒これに対し︑富山地裁は︑﹁被告人Xは︑霊障︵因縁︑過
去業︶について啓示を受けるなどの方法で識別・鑑定する能力はなく︑Aの病気の原因について実際には分からない
のに︑分かったように装い︑水子が原因だと断言し︑かつ︑水子供養の効果についても分からないのに︑供養すれば
病気が治るが供養しなければ治らないと断定したものと認められる︒そして︑Bをして︑甲院の配布したチラシ︑被
宗教的行為と刑法 ︑ ︑ ・ ︵都法四十五ー一︶ 二
一二
告人の右言動やこれと同様のY住職の言動︑更に流水潅頂の紙塔婆などから︑被告人らに霊障を鑑定し供養して奇跡
の霊験︵病気の治癒︶をもたらす特殊な霊能力があると信用させ︑供養料名目で現金を交付させている︒Bは︑被告
人ら乙院僧侶にそのような能力がないと知っていれば︑乙院へ相談に訪れることもなく供養料も支払わなかった旨証
言しており︑Xの本件行為は詐欺罪に該当する﹂︒
﹁仏教の教学上︑財施供養が重要な意義を与えられていることは尊重されるべきであり︑また︑加持祈祷など宗教
行為は超自然的領域に属し︑その効果︵霊験︶があることについて自然科学上の証明を要しないことは性質上当然で
あるうえ︑効果について多少の誇張を伴っても直ちに違法とはいえない︒しかしながら︑単に過去業ないし因縁の転
換の必要性を説き﹁徳積み﹂により願いを成就するため供養を勧めたり︑相手方が供養の直接的効果までは期待して
いないような事案とは異なり︑本件では︑前認定のように被告人には病気の原因も効果も分からないのに︑特殊な霊
能力によって分かる旨装い︑紙塔婆を見せるなどし︑霊障が現に影響を及ぼしているため供養しなければ治癒しない
と殊更に断言する方法によって︑病気に悩み治癒を願っている相手方のBを不安と錯誤に陥れ︑病気治癒の効験が必
ずあると信じさせた結果︑数日内に高額の供養料を交付させている︒したがって︑供養の意義に関する乙院の教義内
容にかかわらず︑病気治癒などの効果に関して︑著しく誇張し虚偽に等しい宣伝や説明を行っていることが明らかで
ある以上︑社会的相当性を逸脱し違法というべきである︒﹂と判示したのである︒
最近ようやく︑宗教関連の詐欺行為の摘発が行われるようになった︒ただ︑寺院の僧侶が病気治癒を願う相談者に
対し供養料を支払わせた行為も︑病気治癒などの効果を著しく誇張し虚偽に等しい宣伝や説明を行えば詐欺罪が成立
する︒この点は︑古くから認められてきた︒すでに︑最三小決昭和三一年一一月二〇日︵刑集一〇巻一一号一五四二
頁︶は﹁祈祷師が自己の行う祈祷が実は全然治病の効能なく︑また︑良縁︑災難の有無︑紛失物の行えを知る効もな
いことを信じているにもかかわらず︑如何にもその効があるように申し欺いて祈祷の依頼を受け依頼者から祈祷料等
の名義で金員の交付を受けたときは詐欺罪を構成する﹂と判示していた︒
しかし︑宗教家を名乗る者が﹁霊的能力などないことを知りながち行った﹂という犯意の立証は非常に困難であ
る︒また実務は︑憲法に護られた宗教活動につき犯罪視することに慎重であった面もあり︑立件はほとんどなされて
こなかった︒詐欺罪における被害者保護の視点が強まったことにより本件が登場したともいえる︒その意味では︑病
気の原因も効果も分からないのに霊能力によって分かる旨装っていたことを︑証拠上明らかにし得た点が︑まず注目
されるべきである︒教団の研修︑各種手法の具体的内容を内部資料などから︑計画的に相談者を不安と錯誤に陥れて
治癒の効験が必ずあると信じさせ高額の供養料を交付させた行為を詐欺罪に当たるとした︒その後の宗教関連の詐欺
事犯の摘発にとって非常に重要な意味を持った事件であったのである︒ ︑
︵1︶ 詳しくは︑木村光江﹃詐欺罪の研究﹄二一二〇頁以下参照︒
二 宗教活動と故意
1 ﹁教祖﹂の予言を信用することと故意
東京地判平成八年一月一七日︵判時一五六三号一五二頁︶︑は︑オウム信者が教祖の預言を信じて行った逮捕監禁行 為について︑判断した判例である︒ ㌔
被告人Xは︑宗教法人オウム真理教に属し℃いた者であるが︑他の教団員Y︑Z︑Wと共謀して︑Xの長女A子︵当
時一九歳︶の意思に反してでも教団施設内に連行しようと企て︑M市路上を歩行中のA子に︑Zが運転する自動車で
宗教的行為と刑法 ︵都法四十五ー一︶ ︐=二
一四
接近し︑YがA子の背後から両腕ごと抱き抱え︑Wが両手を掴んで押さえ︑A子の動きに合わせて移動していた自動
車内から︑XがA子の手を掴んで引っ張るなどの暴行を加えるなどして無理やり自動車後部座席に載せて逮捕し︑Y
県K村内の教団施設まで自動車を疾走させ︑A子を車内から脱出することを不可能にして監禁するとともに︑教団施
設内において︑電話連絡を阻止するなどしてA子を監視し︑施設から脱出することを不可能にして監禁したという事
へ 案であった︒
弁護人は︑親権者である被告人が︑未成年者の娘A子を不良な生活環境から引き離そうとして実行したものであ
り︑多少の有形力の行使を伴ったとしても︑正当な親権の行使として違法性が阻却されると主張し︑さらに︑被告人
は行為当時︑教団教祖の﹁平成七年=月に日本に地震が起こる﹂という予言を信じていたため︑A子の生命に対す
る現在の危難を誤信し︑それを避けようとして本件行為に及んだものであるから︑いわゆる誤想避難として故意が阻 ︑
却されると主張した︒
それに対し東京地裁は︑﹁関係証拠によれば︑①A子は︑本件被害当時約一九歳九か月と成年に近い年齢であった
上︑保母になるための学費を蓄えようとして︑吉祥寺のクラブでホステスとして働いていたというものであり︑弁護
人の主張する非行事実は︑過去にあったものか単なる被告人の推測に過ぎないこと︑②教団施設は︑一般社会から隔
絶された劣悪な環境であり︑未成年者の健全な育成にとって決して好ましい施設でないこと︑③被告人は︑本件犯行
当時︑本人の意思に反してでも教団施設で修行させることが本人のためになるという教団特有の教義や一一月に地震
が起こるという予言を信じていた結果︑親権者として有すべき健全な判断能力を欠如しており︑右①のようなA子の
本件被害当時の生活状況や②のような教団施設の環境について十分な理解︑理性的な判断を欠いた状態で本件犯行に
及んでいること︑④本件犯行の手段は︑判示のとおり複数の教団信者が暴行を加えて強引に教団施設に連行した上︑
教団施設内では︑外部との連絡を遮断し︑絶えずその行動を監視していたとい︑う悪質なものであるということなどの
事実が認められる︒以上の事情からすると︑被告人の本件行為は正当な親権の行使とはいえず︑違法性は阻却されな
い︒﹂と︐判示した︒ ︑
° 誤想避難の主張に対しては﹁関係各証拠によれば︑被告人は︑平成七年=月に地震が起こるとの教団教祖の予言
を信じており︑教団が地震を避けるためいついつ信者を海外に脱出させるかも知れないと考え︑その際︑A子を日本
に残していくことのないようにA子を手元に置いておきたいとの思いもあって本件犯行に及んだことが認められる
∵ が︑このような荒唐むけいな予言を信じて︑将来地震が起こるとの主観的予測を持ったからといって︑危難を誤想し
たとは言えず︑いわゆる誤想避難として故意が阻却される場合に該当しない︒よって︑被告人に本件犯行の故意とし
て欠けるところはない﹂としたのである︒
本件は︑二連のオウム真理教関連事件の内︑実母が未成年の娘を路上で拉致し︑教団施設内に連行した︒﹁元日劇ダ.
ンサー事件﹂と呼ばれるものの第一審判決である︒被告人等の行為が︑監禁罪の構成要件に該当する点については︑
問題はないといってよい︒争点は一娘を地震から救うために行ったという主張が誤想避難と解し得るかという点であ
る︒ ︑ ︑
なお︑オウム事件に類似する事案に関する先例としては︑津地判昭和三六年四月二八日︵判時二六二号四頁︶があ
る︒昭和二八年ころ︑京都府において︑﹁自然と人為の調和をはかり︑豊富な物資︑健康︑親愛の情に充ち︑安定し
た快適な社会を人類にもたらすこと﹂を目的として結成された山岸会が︑会員を増大するため内容虚偽の呼寄せ電報
で会員の親族や知人を呼びよせ特講を受講させようとしたが︑その受講を拒絶したり帰宅する者が続出したため︑こ
れを防止する目的で監視専従者をおき不法な監禁をした行為に︑監禁罪の成立を認めている︒ただ︑本件では︑実母
宗教的行為と刑法 . ︵都法四十五−一︶ 一五
一六
の監禁行為の可罰性が争われており︑刑法的評価の基礎となる事情は︑かなり異なる︒
本判決でも︑﹁被告人は︑教団教祖の予言を信じており︑教団が地震を避けるためいつ信者を海外に脱出させるか
も知れないと考え︑その際︑A子を日本に残していくことのないようにA子を手元に置いておきたいとの思いもあっ
て本件犯行に及んだ﹂ということは︑認められている︒それでは︑このような被告人の認識は︑誤想避難に該当する
のであろうか︒
たしかに︑違法阻却事由が存在しなくとも︑存在すると誤信すれば︑故意が否定される︒誤想防衛の場合に故意が
否定される点は判例も認めているが︑誤想避難の場合も︑基本的には同様に考えうる︒正当化事由が存在すると誤信
した場合を事実の錯誤とする判例・多数説は︑違法性阻却事由が存在すると認識して行為する以上︑故意が欠けると
する︒故意の成立には︑正当防衛・緊急避難であるという認識があってはならず︑﹁急迫な侵害が存する﹂﹁現在の危
難が存在する﹂と思った以上正当防衛の認識があり故意はないとする︵曾根﹃刑法総論新版﹄二二二頁︶︒そして︑﹁正
当化事由があると信じた以上︑規範に関する問題は与えられない﹂とする説明が有力になされている︒
判例も︑誤想防衛行為には故意が欠けるとする︒広島高判昭和三五年六月九日︵高刑=二巻五号三九九頁︶は︑暴
行傷害等の前科二二犯を有する被害者が深夜被告人宅に押しかけ﹁今日は日本刀でも何でも持つて来い︒一発で射ち
殺すそ﹂等と怒号し︑被告人が立ち現れて訪問したところ︑﹁はじきあげてやろうか﹂と言いながら右手をオーバー
. のポケットに突込んだので︑被害者が凶器で襲撃するものと誤想し防衛のため有り合わせの木刀で被害者の手首等を
殴打し負傷せしめた場合︑被告人の行為は誤想防衛と解すべきであるとしたが︑その中で﹁正当防衛の成立に必要な
客観的条件たる急迫不正の侵害がないのに︑これが存するものと誤信して防衛する意思をもってした行為︑すなわち
講学上いわゆる誤想防衛行為と解するべきであって︑しかも被告人の右錯誤については記録上これが同人の責に帰す
べき過失によるものとは認められないから︑被告人の本件行為は︑錯誤により犯罪の消極的構成要件事実即ち正当防
衛を認識したもので故意の内容たる犯罪事実の認識を欠くことになり従って犯意の成立が阻却されるから狂罪は成立
しないものと言わざるを得ない﹂と判示している︵さらに広島高判昭和四四年五月九日判時五八二号一〇四頁参
照︶︒ ︐︐
これに対し︑故意は構成要件事実の認識であり︑違法性阻却事由が構成要件事実でない以上構成要件の錯誤ではあ
りえず︑犯罪事実をきちんと認識して行為した以上︑法的に許されるか否かを誤ったに過ぎないとする法律の錯誤
︵禁止の錯誤︶説も存在する︵大谷實﹃刑法講義総論四版﹄二七四頁︶︒﹁構成要件事実を認識している以上︑規範の
問題に直面しているので︑法律の錯誤である﹂とするのである︵福田平﹃全訂刑法総論﹄一九六頁︶︒さらに︑構成
要件は類型的なものであるのに対し︑違法性は非類型的で︑前者は故意の対象たり得るが後者はたり得な︑いともす
る︒ ︐ 法律の錯誤説は︑構成要件しか故意の対象になり得ないとするが︑広義の故意の成立のための認識の対象はもっと
実質的に判定されなければならない︒そのような事実を認識すれば一般人は自己の行為を正当と考えるか否かこそが
問題である︒﹁規範に直面するか否か﹂という言い方はコ般人ならばその罪の違法性を意識し得るか否か﹂という
ことに置き換え得る︒そして︑急迫不正の侵害があると信じて防衛行為を行う以上︑一般人ならば違法性の意識を持 ︑ ち得ないと解すべきであろう︒それ故︑誤想避難などについては︑故意責任は問い得ない︒
そこで︑本件でも︑被告人の認識内容が客観的に実在したとすれば︑緊急避難に該当するのか否かが問題となるよ
うに見える︒ただ︑ここでまず注意しなければならないのは︑違法性阻却事由の錯誤といっても︑違法阻却事由の評
価についての錯誤と︑違法阻却を基礎づける事実の錯誤を分けて論じる必要があるという点である︒前者について
宗教的行為と刑法 ︵都法四十五−一︶ 一七
一八
は︑法律の錯誤であるということで争いはない︒後者に関してのみ事実の錯誤としうるのである︒ ノ
本件は︑﹁緊急避難を構成するだけの客観的事実が存在すると誤信した事案﹂と整理されているが︑﹁被告人の宗教
上の確信から︑やむを得ず許される行為であると思いこんだ事案﹂とみることもでき︑そうだとすれば﹁違法阻却事
由を基礎づける事実に関する錯誤﹂ではないとも解し得る︒このような被告人の妄想的な内容が︑現実に発生したと
想定することには問題があり︑﹁被告人は単に緊急事態だと思いこんでいるに過ぎず︑事実の錯誤とはいえない﹂と
考えうるのである︒
東京地裁は本件事案に関し︑﹁このような荒唐むけいな予言を信じて︑将来地震が起こるとの主観的予測を持った
からといって︑危難を誤想したとは言えず︑いわゆる誤想避難として故意が阻却される場合に該当しない﹂としてい
る︒この結論は︑もとより妥当であるが︑その趣旨にはかなりの含みを読みとることができよう︒単に︑緊急避難を
成立させるだけの事実についての誤信がなかった旨指摘しているともとれるが︑そもそも︑誤想避難の類型に該当し
ないとする趣旨にもとれるし︑誤信の程度が故意を阻却するほどのものではないと指摘しているとも解し得る︒
いずれにせよ︑故意の成否が争われており︑被告人の認識内容が故意を否定するだけの事情とはいえないと判断さ
れた点を確認しておかねばならない︒そして︑このことは︑﹁いかなる事実が存在していると誤信すれば故意が阻却
されるのか﹂︑﹁故意を阻却する誤信の程度﹂という点につき︑一般人を標準に考えることを前提にしていると思われ
る︒もちろん︑本人標準説でも︑同様の結論に至り得ないわけではないが︑被告人が︑被害者を救済するにはやむを
得ない行為だと真摯に信じていたことはほぼ間違いない以上︑本人の主観を基礎に本人の視点から判断すれば︑故意
非難は向け得ないとするのが自然なのである︒
︵1︶ 関連する先例として︑津地判昭和三六年四月二八日︵判時二六二号四頁︶がある︒山岸会は︑昭和二八年三月京都府乙訓
郡向日町上植野において結成され︑山岸巳代三によつて提唱された﹁自然と人為の調和をはかり︑豊富な物資︑健康︑親愛
の情に充ち︑安定した快適な社会を人類にもたらすこと﹂を目的どし︑そσ理想とする社会の実現が人類が行う最終の革命
・であるとして︑これをZ革命と称しているものである︒この会員を増大するため内容虚偽の呼寄せ電報で会員の親族や知人
を呼びよせ特講を受講させようとしたが︑その受講を拒絶したり帰宅する者が続出したため︑これを防止する為監視専従者
をおき不法な監禁︑暴行︑脅迫を加え︑︐帰宅を不可能にするなどした事件で︑一部の被告人に対し証拠不十分で一部無罪を
認めたほかは︑被告人全員を有罪とし︑執行猶予を言い渡した︒ ・ ︐ ・
2 オウム真理教集団リンチ殺人事件と期待可能性
オウムの教団内での極限状態における殺人行為について判断したのが︑東京地判平成八年六月二六日︵判例時報一
五七八号三九頁︶であった︒
オウム真理教に入信し︑その後脱会していた被告人Xは︑同教団に入信し教団附属医院に入院して治療を受けてい
たB子︵Xの母親︶に関し︑附属医院において薬剤師をし︑B子の治療等にも携わつでおりB子と親しい関係にあっ
たAから︑教団の治療方法ではB子の病状は悪くなる一方であるから︑教団施設から同女を連れ出し︑別途治療した
︑ 方がよいと持ちかけられ︑B子を附属医院に入院させた責任の一端があること被告人は︑やむなくこれを承諾し︑
A.Eとともに︑Aの用意した催涙スプレーや火炎瓶等を持グて︑Bが寝ている建物に忍び込んだ︒そして︑被告人
とAは︑同建物三階の医務室でB子を発見し︑二人で連れ出そうとしたが︑信者らに発見され取り押さえられ︑それ
それ両手に前手錠を掛けられ︑ガムテープで口を塞がれるなどされたうえ︑別の教団施設三階に連行され︑同所で信
者らに囲まれたまま待機させられた︒
Yは︑教団信者で幹部でもある妻のZ子︑Jのほか︑K︑H︑Lらの集まったところで︑はじめは︑教団に敵対す
宗教的行為と刑法 ︐㍑ ︵都法四十五ー一︶ 一九
二〇
る教団破壊行動をとった被告人及びAは殺害するしかないという趣旨の意見を述べたが︑被告人にAを殺させてこの
件を処理するとの考えを示し︑教団幹部の中で︑この意見に反︐対する者はいなかった︒
Yは︑口のガムテープは取っていたものの依然として両手に前手錠をされた被告人に対し︑AはB子と関係を持っ
ていたなどとA及びB子のことを悪し様に述べ立てたうえ︑﹁お前はちゃんと家に帰してやるから︑心配するな︒大
丈夫だ︒﹂﹁ただ︑それには条件がある︒﹂﹁お前がAを殺すことだ︒それができなければ︑お前もここで殺す︒できる
か︒﹂などと︑被告人を解放する条件としてAを殺害するように言い︑さらにYは︑黙っている被告人に対し︑A殺
害の教義上の正当性を説明し︑殺害を説得した︒この間︑ただちに被告人が殺害される危険性まではなかったもの
の︑あくまでもA殺害を拒否し続けたならば︑身体を拘束されている状態であった被告人自身も殺害される危険性の
ある状態であった︒
このような状態下において︑被告人は︑Yから︑さらにA殺害の決意を促されたため︑これを拒否してもただちに
自己が殺害されることはないと思いつつも︑Aを殺害しさえすれば︑自分は無事にこの場から解放されて自宅に戻れ
るものと考え︑Yに対し︑本当に自宅に帰れるのかどうかの念を押し︑Yから約束する旨の回答を得たことから︑A
の殺害を承諾する旨の返事をし︑Y及びその場にいた教団幹部との間で︑Aを殺害する旨の共謀が成立した︒
被告人Xは︑教団幹部が準備したビニールシート上に前手錠を掛けられて座らされていたAに対し︑同じく教団幹
部が準備したガムテープをAの顔面に張り付けて目隠しをし︑頭部にビニール袋を被せたうえ︑Yの指示により︑ビ
ニール袋内に催涙スプレーを噴射し︑苦しがって暴れるAの身体をその場にいた教団幹部が押さえ付ける中︑Yの指
示により︑教団幹部が準備したロープをAの頚部に巻き付けたうえ︑殺意をもって︑前手錠をされた両手で締め付 −
け︑続いて︑ロープの一方に右足をかけ︑他方を両手で引っ張るなどしてAの頚部を絞め続け窒息死させた︒
東京地裁は︑被告人とY及びその場にいた教団幹部との間に︑Aを殺害することについての事前の共謀が成立して
いたことは︑十分にこれを認めることができるとした上で︑緊急避難の成否について︑以下のように判示した︒
﹁被告人は︑Yらに不法に監禁された状態下で︑Aの殺害を決意し︑その殺害行為に及んだものであるから︑右時
点において︑少なくとも︑被告人の身体の自由に対する現在の危難が存在したことは明らかである︒﹂としつつ︑生
命に対する危難については︑﹁緊急避難における﹃現在の危難﹄とは︑法益の侵害が現に存在しているか︑または間
近に押し迫っていることをいうのであり︑近い将来侵害を加えられる蓋然性が高かったとしても︑それだけでは侵害
が間近に押し迫っているとはいえない︒・また︑本件のように︑生命対生命という緊急避難の場合には︑その成立要件
について︑より厳格な解釈をする必要がある﹂とし︑﹁被告人があくまでもAの殺害を拒否し続けた場合には︑被告
人自身が殺害された可能性も否定できないが︑被告人がA殺害を決意し︑その実行に及ぶ時点では︑被告人は︑Yか
ら口頭でAを殺害するように説得されていたに過ぎず︑被告人の生命に対する差し迫った危険があったとは認められ
ないし︑また︑この時点で︑仮に被告人がA殺害を拒否しても︑ただちに被告人が殺害されるという具体的な危険性
も高かったとは認められないのであるから︑被告人の生命に対する現在の危難は存在しなかった﹂として︑被告人の
行為は緊急避難行為には該当しないと判示した︒また︑﹁Aの殺害を拒否し続ければ自己の生命も危うくなるという
認識は有していたとしても︑Yが被告人にAを殺害させようとして説得し・ている状態であったことからして︑その時
点で︑Aの殺害を断っても︑ただちに被告人が殺害されるような状態にはなかったことは十分に認識し得た﹂とし︑
﹁自己の生命に対する侵害が差し迫っているという認識までは有していなかったと認められるから︑この点について
被告人に誤想はなかったというべきであり︑誤想避難も成立しない﹂とした︒
次ぎに東京地裁は︑身体の自由に対する現在の危難が存在したことから︑殺害行為につき過剰避難が成立するか否
宗教的行為と刑法 ︐ . ︵都法四十五ー一︶ 二一
二二
かに関し︑検察官の﹁Yに対しA殺害を翻意するよう働きかけるなどAを殺害せずに済ませるための努力を全くして
おらず︑結果を回避するため十分な手だてを尽くしたとはいえないのであるから︑被告人の行為が補充性をみたして
いるとはいえないし︑被告人の身体の自由に対する現在の危難を避けるためにAの生命を奪うということは︑法益の
権衡を著しく失しているのであるから︑被告人の行為は︑避難行為の相当性をも欠いている﹂との主張を退け︑﹁補
充性の要件についていえば︑被告人が避難行為に出る以前にどれだけの行為をしたかということが重要なのではな
く︑客観的にみて︑現在の危難を避け得る現実的な可能性をもった方法が当該避難行為以外にも存在したか否かとい
う点が重要﹂だとして︑﹁被告人は︑Yの意思によって身体の拘束を解かれる以外に監禁状態から脱するすべはなく︑
Yの意思によって身体の拘束を解かれるためには︑Aを殺害しなければならないということに帰するのであって︑結
局︑被告人が身体拘束状態から解放されるためには︑Aを殺害するという方法しかとり得る方法がなかったものと認
めざるを得ない﹂とし︑﹁次に︑相当性の要件について検討するに︑本件では︑侵害されている法益が被告人の身体
の自由であり︑避難行為によって侵害される法益がAの生命であることから︑これを単純に比較すれば︑当初より法
益の均衡を著しく失しているともいえ︑自己の身体の拘束状態を脱するために他人の生命を奪う行為に出るというこ
とは︑条理上これを肯定することができないというべきである﹂としつつ︑﹁被告人があくまでもこれを拒否すれば
被告人自身の生命に対しても侵害が及びかねない状況も他方では認められる﹂とし︑﹁当面被告人が避けようとした
危難が被告人の身体の自由に対する侵害であったとしても︑その背後には︑危難の現在性はないとはいえ︑被告人の
生命に対する侵害の可能性もなお存在したといい得るのであるから︑このような状態下で︑被告人の身体の自由に対
する侵害を免れるためにAの殺害行為に出たとしても︑このような行為に出ることが条理上肯定できないとまではい
えない︒したがって︑被告人のA殺害行為について︑避難行為の相当性も認められるというべきである﹂として︑被
告人のA殺害行為は︑被告人の身体の自由に対する現在の危難を避けるために︑巳むことを得ざるに出でたる行為と
は認められるが︑他方パ被告人は︑自己の身体の自由に対する危難から逃れるために︑Aを殺害したのであって︑法
益の均衡を失していることも明らかであるから︑結局︑被告人の行為には︑過剰避難が成立するといわなければなら
ないと判示した︒ ︐
なお︑弁護人の︑本件当時の客観的状況及び被告人の主観的心理状態に照らせば︑被告人には適法行為の期待可能
性は存在しないとの主張に対しては︑﹁期待可能性の理論による責任の阻却は︑厳格な要件の下に認められるべきで 輪
あり︑客観的にみて当該行為が心理的に抵抗できない強制下において行われた場合など︑極限的な事態において初め
て責任が阻却されるにとどまるというべきであろう﹂とし︑本件状況は︑﹁身体の自由を拘束され︑また︑被告人の
.生命に対する危険性も全くなかったとはいえない状況であったことは認められるものの︑⁝被告人に凶器を突き
付けるなどして有無を言わせずAの殺害を迫るといった状況にもないのであるから︑当時の被告人が心理的な強制下
にあったとは認められない﹂とし︑﹁被告人としては︑これを拒否するなどしてA殺害を回避しようとすること︑あ
るいは︑Yに対してAの助命を嘆願し︑翻意を促すなど︑その場でAを殺害しないでも済むような努力をすることが
できたと考えられ︑被告人に対し︑A殺害行為に出ないことを期待することは可能であったと認められるし︑被告人
の立場を一般通常人に置き換えても︑本件の具体的状況の下では︑A殺害行為に出ないことを期待することは可能で
あったと認められる﹂とし︑責任が阻却されることはないとし︑懲役三年︵執行猶予五年︶を言い渡した︒
刑法三七条の現在の危難とは︑法益に対する侵害ないしその差し迫った危険のことをいう︒東京地裁は︑Xの生命
に対する現在の危難は存在しないが︑身体の自由に対する危難は現在したと認定した︒生命対生命の場合には︑より
厳格な解釈を要するとしたのである︒この点︑現在性の判断は危難の種類に関係なく行われるべきであるとの批判も
宗教的行為と刑法 ︵都法四十五−一︶ 二三
二四
考えられえる︒たしかに︑避難者にとって侵害行為の切迫性の程度は︑単一である︒しかし︑同じ危難でも︑生命ま
で危険にするものと︑身体の一部にしか及ばないものとはあり得る︒その意味で︑生命に対する危難は現在しない
が︑自由については現在の危難が認められるのである︒
さらに︑緊急避難として正当化される避難行為の法益侵害性が重大ではない場合には︑補充性等の要件が︑生命に
対する場合より緩やかに解される余地はあり得る︵前田﹃刑法総論講義三版﹄二六〇頁︶︒﹁現在性﹂も︑実は︑程度
のある概念で︑生命対生命の場合より緩和されることはあり得る︒
問題は︑本件における生命に対する危難の現在性である︒Aを殺さなければ︑自分が殺される可能性の高い状況
で︑Xに緊急避難が認められないとすると︑緊急避難の成立の余地は︑事実上︑否定されるようにも思われる︒しか
し︑東京地裁の﹁Yの意思として︑XがA殺害を拒否した場合には︑ただちにその場でXの殺害行為に移ろうという
ことまで意図していたとは認められないというべきである︒してみれば︑﹃できなければお前も殺す︒﹄というYの言
葉も︑XにA殺害を決意させるための脅し文句の一種と理解すべきものである﹂という認定を前提にすれば︑生命に
対する緊急避難を否定し︑自由に対する過剰避難として︑執行猶予つきの有罪判決を認めた判断は︑決して酷なもの
とはいえない︒
期待可能性論による責任阻却は︑法規範が弛緩してしまう危険があり︑その適用は慎重でなければならない︒東京
地裁も︑﹁客観的にみて当該行為が心理的に抵抗できない強制化において行われた場合など︑極限的な自体において
初めて責任が阻却されるにとどまるというべきであろう﹂するが︑妥当である︒
3 シャクティ治療と殺意 千葉地判平一四年二月五日︵判タ=〇五号二八四頁︶
被告人は︑共犯者Kの父Vが脳内出血により重度の意識障害の状態にあり︑︑医師による治療を打ち切れば死亡する
危険が大きいことを知りながら︑Kらと共謀して︑Vを兵庫県伊丹市内の病院から連れ出し︑航空機等を利用して被
告人の居住する千葉県成田市内のホテルまで運び込み︑生存に必要な措置を講じないまま放置したため同人を翌日死
亡するに至らせたという事案である︒その後もVは魂の再生の過程に入っている上称して︑Kや家族らに介護を続け︐
させ︑約四か月後にミイラ化したVの写真をマスコミに公表したことから本件が発覚するに至ったという事件であ
る︒ 被告人は︑インドの宗教団体創始者サティデ・サイババに指名されたシャクティパット・グルと称して︑自分の掌
で患者の体を叩くことで自己治癒力を最高限度に高める﹁シャクティパット﹂と称する治療行為を行っていたが︑被
告人の支持団体であるシャクティパット・グル・ファンデーションの構成員であるKからVの治療についての相談を
受けており︑Vの病状を詳細に認識しながら﹁シャクティ治療﹂を受けさせるために本件を敢行したものであり︑被
告人は殺人罪︑・共犯者Kは保護責任者遺棄致死罪でそれぞれ起訴された︒Kについては︑懲役二年六月︵執行猶予三
年︶が確定している︒ ︑
問題となったのは︑殺人の実行行為性である︒Vの病状からすると点滴装置および酸素マスクを取り外して病院外
に連れ出すことはVの生命に対する重大な危険を学んだ行為ではあるが︑この段階までの行為のみでは︑まだ殺人の
実行行為としての十分な具体的・現実的危険性が存するとは認められないものの︑その後︑航空機等を利用して医療
設備のないホテルに運び込み︑Vの生存に必要な措置を一切行わなかったという一連の行為を併せ考えれば︑Vの生
命に対する現実的具体的危険性を生じさせるに十分なものであり︑殺人罪の実行行為に該当するとしている︒
そして︑殺意の有無については︑被告人がVの病状についてKから詳細な報告を受けて︐Vに医学的治療を受けさ
宗教的行為と刑法 ︵都法四十五ー一︶ 二五
ノ
二六
せないことの危険性や死亡させることになるかもしれないとの認識を有しており︑さらに︑﹁シャクティ治療﹂で治
癒するものでないことを認識しながらもやってみせる立場上の必要性があり︑また︑治療の対価である八〇〇万円が
収入源として必要であったこと等を総合して殺意を認定した︒
ただ本判決は︑被告人とKは客観的には殺人の実行行為を行っているが︑KはVの回復を強く望んでいたことか
ら︑Vの死に対する予見はあったとしてもこれを認容する意思はなく︑殺人の故意までは認められないとして︑共犯
者Kについては保護責任者遺棄致死罪を適用した︒
被告人の殺意に関し︑﹁弁護人は︑﹁シャクティ治療﹂はまやかしなどではなく︑被告人はこの有効性を信じていた
ものであるから︑これにより太郎を死亡させるとの認識はなかった旨主張する︒しかし︑関係各証拠からはべ上記の
とおり︑治療時以降の被告人の言動自体が太郎が死亡するであろうことを認識していたと窺わせるものであり︑それ
ゆえ﹁シャクティ治療﹂で太郎が治癒することはないこと︑被告人もそれを認識していたことを窺わせるものである
ことが認められるが︑加えて︑掌で幹部を叩くのみで治療効果が存するということ自体通常信じ難いものであるとこ
ろ︑弁護人らの主張するシャクティ治療の有効例の多くが︑腰痛が和らいだ︑むくみが取れた等の症状緩和といった
類のものであり︑例えば救急車を呼ぶような︑緊急性のある危険な患者︑太郎の如き生命に対する危険が存し予断を
許さないような重篤な患者に対する実施例は全くみられないこと︑次郎以上に被告人と﹁シャクティ治療﹂とを信じ
ていたとも思われる秋子の供述においても︑﹁シャクティ治療﹂は救急車を呼ばなければならないような患者に対し
て行われた例はなく︑その治療効果はもっぱら精神的側面に関するものであると思う旨述べていること等の事実も認
められる︒
してみると︑﹁シャクティ治療﹂なるものは︑その効果を信ずる者に対する精神的影響等までは否定はできないま
でも︑太郎のような脳内出血により生命の危険がある患者に対しては︑何らの治療効果も有するものではないことは
現代社会の一般通念上明らかであり︑被告人自身がそれを認識していたことも明らかというべきである︒
以上を総合すれば︑被告人は次郎から太郎の病状について詳細な報告を受け︑太郎の病状と︑連れ出して医学的治
療を受けさせないことの危険性︑死亡させることになるかもしれないとの認識を有しながら︑そして﹁シャクティ治
療﹂では治癒するものではないことも認識しながら︑太郎に対して﹁シ︑ヤクティ治療﹂を行ってみせる立場上の必要
があり︑また︑その治橋賛が収入源でもあったこと等の事情から︑敢えて本件に及んだものと認められる﹂として︑
被告人には太郎に対する殺意を認めることができるとしたのであるの
4 加江田塾ミイラ事件 宮崎地判平一四年三月二六日︵判タ一一一五号二八四頁Y
3の判例と類似するのが︑ミイラ化遺体事件である︒難病に罵っている男児の治療を親から引き受けた上︑祈祷類
似行為などを繰り返すのみで︑その生存に必要な医療措を施さなかったため︑死亡するに至らせた行為について保護
責任者遺棄致死罪を︑その後の死体の処置について死体領得罪の成立を認めだものである︒
︑・ 本件は︑祈祷類似行為を施していた被告人両名が︑難病に罹っている六歳男児の病気治療と重度の未熟児で生まれ
た乳児の保育を︑それぞれの親から引き受けた上︑︑祈膚類似行為などを繰り返すのみで︑その生存に必要な医療措置 ︐ ︑
を施さなかったため︑いずれも死亡するに至ちせた保護責任者遺棄致死と︑その各死体を領得又は隠匿したという事
案である︒本件の争点は多岐にわたるが︑主たる法律上の争点は︑難痛に罷っている男児に付する保護責任者遺棄の
保護責任の有無と︑不作為ないし間接正犯による死体遺棄の成否である︒ −− ︐
本判決は︑被告人両名が︑難病に罹患している男児の親に対し︑現代医療の害悪を説き︑波動療法と称する祈躊類 ゾ シ 宗教的行為と刑法 . ︵都法四十五ー一︶ 二七
、