姦通浄瑠璃﹃大経師昔暦﹄につ
意外な結末に見る近松の作意 いて
岡 田 守 正
はじめに
京の大経師家で起きた姦通事件は︑水谷不倒氏が﹃新釈挿図近松傑作全集﹄巻之四の解題で紹介された﹁京都諸司代密 べ 通者虞罰判例に供したる書留﹂などによって︑天和三年︵一六八三︶の出来事であったことが判明︵但し﹃西陣天狗筆記﹄
及び﹃中興世話早見年代記﹄は貞享元年三六八四﹈説︶したものの︑おさんと手代茂兵衛及びその仲を取り持った下女
たまの三人が同年九月二十二日粟田口で処刑されたことが分かる程度で︑姦通の理由やその他の詳細は不明である︒
諏訪春雄氏は﹃近松世話浄瑠璃の研究﹄の中で︑明らかに近松作に先行すると考えられる作品と近松作﹃大経師昔膨﹄
との関係について︑﹁近松作では︑夫の以春が下女の玉に懸想し︑しばしばその寝所に忍ぶのを︑おさんが辱かしめ懲らそ
うとして玉と寝所を取換え︑却て手代茂兵衛と思いもかけぬ不義に陥るのであるが︑犯した罪の重大さに恐れおののく二
人の男女には︑歌祭文や西鶴の作品にみられる恋愛の歓喜に酔い知れる大胆さもみられなければ︑それをとりまく以春や
助右衛門等の邪悪な意志と︑下女玉や赤松梅竜︑道順夫婦等との善意の対立も︑近松的世界を形成していて︑そこに歌祭
文の世界からの影響は毫もかげを落してはいない︒最後︑罪を犯した二人は︑黒谷の東岸和尚の法衣の徳で⁝命を助けら
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れるというやや唐突な解釈もあくまで近松的なもので︑それは︑先行する西鶴や歌祭文の非情な世界に対する近松らしい
抵抗の姿勢とみる事もできるのであが︒﹂と述べ︑近松の作家としての独自性と個性を認める評を行なっている︒
ところで︑ここで問題にしたいのは︑諏訪氏も述べておられる結末のおさんの菩提寺の僧による法衣の救済に関してで
ある︒その際に和尚の言う︑﹁助くるといふ義理は三世に渡る衣の徳︒﹂﹁二人が命下さるれば︒これ現世を助かる衣の徳︒﹂
﹁愚僧が弟子になすからは︑未来を助かる衣の徳︒﹂というお上のご威光を軽んずる余りにも唐突な︑取りようによっては︑
劇の進行を無視したような変わった印象を与えるこのことばは︑近松の只の作意であろうか︒それとも︑その時代の何ら
かの慣習を反映しているのであろうか︒それらを追求することによって︑近松がこの作品で力を籠めて描こうとしたもの
は何であったかが見えてくると思われる︒現実において救う余地のない哀れな二人を︑近松はなおも作意の力によって救
おうとするのである︒本稿では︑最後に加えられている仮構の筋から︑作者近松が︑いかなる意図のもとに本曲を構想し
たかについて言及してみたいと思う︒
さて︑本題に入る前に︑僧侶によって敢行される罪人の助命シーンについて︑諏訪春雄氏︑小山一成氏の傾聴に値する
意見を瞥見しておきたい︒
先ず諏訪春雄氏は︑﹁文学と宗教的救済ーー近世のアジールー﹂で︑結末の東岸和尚による二人の助命場面について︑
この助命という筋はもちろん近松の仮構である︒明治以来知られているこの姦通事件の実説によれば︑両人は京の粟
田口で処刑され︑関係者も多数罰せられている︒西鶴は実説どおりに両人を粟田口の刑場の露と消えさせている︒
近松はなぜこうした助命という結末を用意したのであろうか︒﹃大経師昔暦﹄の上演された正徳五年は両人が処刑死
した天和三年から三十三周忌めにあたっている︒これまでの通説では︑追善の年忌浄瑠璃として両人を救済する結末
をかまえたものであろうとするが・その説明で治定するものか・どう垣・
一70一
と述べ︑シンポジウム︵1前進座上演﹃おさん茂兵衛﹄をめぐってー︶の場では︑次のような指摘をされている︒
この場合の東岸和尚に限って言えば︑当時の︑ある裏付けがあってやっているのではないか︑というような気がする︒
と申しますのは︑淀屋辰五郎が改易になった事件が宝永二年頃に起きているのですが︑その中で﹁八幡僧正が命を貰
い受けた⁝⁝﹂と言うのと︑﹁難波の鉄元和尚が命を貰い受けた⁝⁝﹂と言うのとがあります︒当時の慣例法のような
もので︑ある程度の罪に落ちた者でも︑坊さんが命を貰いうける事が出来たのではなかろうか︒つまり当時実際にあ
り得た事件なのではないかと思うのです︒近松が全く架空の想像をめぐらして作ったのではないという気がいたしま
ハきザ す︒
ところが小山一成氏は︑﹁﹃大経師昔暦﹄について1東岸和尚登場に関する問題ー﹂で︑僧侶の罪人救済に関して︑
日本近世史の権威竹内誠氏に意見を求め︑次のような結論を導き出し︽追記︾しておられる︒
江戸においては小塚原・鈴が森両刑場︑京都にあっては粟田口等大都市における刑場で僧侶僧衣による罪人救済の事
実が現実に起こったのだろうか︑と伺ったところ︑そのような事実は全く存在しないとのことであった︒氏の教示に
よって結論を導けば︑﹃大経師昔暦﹄の結末は︑地方藩にはしばしばみられたものの︑大都市刑場では決して起こりえ
ぬ事実であり︑観客はそれを承知して作品の虚構に身を委ね︑三十三回忌に当たっておさんや茂兵衛らの菩提を弔っ
たのであった︒観点を変えれば︑近松作品における事実と虚構のありよう︑近松の創作方法を知ることのできる場面
であった︒
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本曲の結末に見る仮構物的叙述について
近松世話浄瑠璃二十四編の作品は︑同じ世話浄瑠璃に属するといっても︑その内容や形式︑戯曲作法にはかなり性質の
違う要素が錯綜していて単純ではない︒従って︑これまでの研究者は︑更に︑この二十四編の細部に立ち入って作品分類
を試みてきた︒正徳五年︵一七一五︶春︑竹本座初演の﹃大経師昔暦﹄は︑﹃堀川波鼓﹄︵宝永三年・一七〇六︶︑﹃鑓の権
三重帷子﹄︵享保二年・一七一七︶と共に近松姦通物と呼ばれ︑姦通浄瑠璃という呼称がこの三曲を指すことは定説化して
いる︒一方︑横山正氏は︑高野辰之氏が処刑物として一括されたグループ五曲に︑更に六曲︵本曲を含む︶を重複して加
え︑全十一曲を犯罪浄瑠璃の呼称で呼んでおられる︒理由としては︑﹁﹃大経師昔暦﹄の姦通は︑﹁京都所司代書留大要﹂に
よっても普通の密通であったらしいが︑本曲では暗闇中の過失である︒然し過失の生ずる状態の設定︵おさんと玉との寝 ザ室交換︶は十分計画的で︑おさん・茂兵衛は駈落ちまでする︒犯罪意識も大体︑本人にあったわけである︒﹂という点を挙
げておられる︒
ともあれ︑これより仮構物の分類について考えてみたい︒横山正氏の唱える仮構物の定義とは︑﹁実説にあまり拘束され
ないで︑作者が比較的自由に創作の筆をふるったもの﹂とされている︒最初に仮構物という名称を用いた高野辰之氏は︑
素材を中心とした分類で︑﹃薩摩歌﹄﹃丹波与作待夜のこむうぶし﹄﹃夕霧阿波鳴渡﹄﹃長町女腹切﹄﹃山崎与次兵衛寿の門松﹄
の五曲を仮構物に属させた︒その後︑横山正氏や鳥越文蔵氏もこの分類を踏襲されている︒一方︑諏訪春雄氏は︑戯曲構
成の類型性︑更には作劇法をもかなりな程度まで考慮に入れて︑﹃薩摩歌﹄﹃五十年忌歌念仏﹄﹃丹波与作待夜のこむうぶし﹄ ﹃夕霧阿波鳴渡﹄﹃山崎与次兵衛寿の門松﹄の五曲を仮構物として割り当てられた︒
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﹃大経師昔暦﹄の下之巻では︑刑場へ引かれたおさんと茂兵衛の生命が︑黒谷の東岸和尚の命乞いによって助けられるめ
でたい幕切れとなっているが︑三十三回忌興行とはいえ︑近松は突然和尚を登場させ︑﹁黒谷の東岸和尚衣の袖をまくり上
げ︒章駄天のごとく飛び来り︒出家に棒をあてたらば︑五逆罪五逆罪︒サアおさん︑茂兵衛︒この東岸和尚が助けた﹂と︑
歌舞伎的な手法を採入れている︒観客の意表を衝くこうした表現について︑荒木繁氏は﹁近松のいわゆる仮構物について﹂
の中で︑﹁作品の結末の荒唐無稽さにこそ仮構物の特色がはっきりあらわれているのではなかろうか﹂と述べ︑
この荒唐無稽さは︑上方歌舞伎の三番続きの下之巻に倣ったのではないか︒歌舞伎の場合︑上之巻︑中之巻とも独立
性が強く︑それぞれ見せ場を設けて興趣を盛り上げるよう工夫がこらされているが︑下之巻は戯曲的に見ると極めて
御都合主義で︑あわただしく悪人滅び善人栄えるという結末となり︑その代り役者による総踊りとか︑からくりを使っ
てのショウを見せるのが常であった︒浄瑠璃の仮構物も︑巻ごとの独立性が強いとか︑随所に歌舞伎的手法が見られ
るとか︑歌舞伎の脚色法に学ぶところが多いことから見ると︑下之巻の結末のつけ方にも歌舞伎の影響がないとは言
えない︒結末に至ってにわかに救い主が現れ︑めでたしめでたしとなるのは︑歌舞伎の下之巻で︑唐突に悪人方が滅
び善人方が栄える御都合主義的な脚色法と似ていると言えば言える︒
と解説される︒さて︑荒木氏は本論文で︑諏訪春雄氏の仮構物に数えられる五曲が︑それぞれ何を核として構想されたか
についての考察を行なっている︒その際注目されたのが︑黒木勘蔵氏の題材の二分法である︒黒木氏は世話浄瑠璃二十四
編を︑﹁その当時起った新しい事件を取扱ったもの﹂と︑﹁古き巷説によったもの﹂に大別された︒後者には﹃薩摩歌﹄﹃五
十年忌歌念仏﹄﹃丹波与作待夜のこむうぶし﹄﹃夕霧阿波鳴渡﹄﹃大経師昔暦﹄﹃鑓の権三重帷子﹄﹃山崎与次兵衛寿の門松﹄ の七編︑他の十七編は︑前者に属させている︒荒木氏もこの二種類に分け︑前者を﹁ニュース種物﹂︑後者を﹁仮構物‖古
伝承物﹂と呼び直し︑それらの全体像を次のように示しておられる︒
ニュース種物の場合︑構想の種子になるのは事実としての事件であるが︑仮構物の場合は人々に周知の歌謡や歌舞伎
などの巷説であった︒とくに歌謡の比重が大きく︑前記の仮構物五曲の中︑﹃薩摩歌﹄﹃五十年忌歌念仏﹄﹃丹波与作待
夜のこむうぶし﹄﹃山崎与次兵衛寿の門松﹄の四曲が歌謡を下敷きにしている︒これらの中には︑歌謡以外には実説に
ついてはほとんど不明となっているものが多かったと思う︒そこで︑近松は歌謡自体を構想の種子としつつ︑道行な
どの詞章の中にできるだけこれを効果的に生かすやり方で作劇したと思われる︒歌謡は詞章を色どるものとして修辞
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の上に生かされるだけではなく︑一曲の構想を導く核の役割も果たしていた︒そのことは︑これらの作品の結句に必
ず歌謡の一部を取り入れていることで示されている︒但し︑﹃夕霧阿波鳴渡﹄は仮構物の中で唯一歌謡に基づかない作
品であり︑夕霧の事跡を伝える﹃濡標﹄によると︑藤屋伊左衛門は架空の人物だったらしい︒近松は本作を︑歌舞伎
の夕霧物を核として構想したと思われる︒
こうして諏訪氏が仮構物として挙げられた五曲の戯曲構想を検証された荒木氏は︑ここに至り︑﹃大経師昔暦﹄の分類の
位置づけに疑問を覚えたと言われる︒この疑問の意味する所とは何なのかを見ておきたい︒
それは︑﹃五十年忌歌念仏﹄を仮構物とするならば︑おさん茂兵衛の三十三回忌の追善に因んだ﹃大経師昔暦﹄も仮構
物に数えてもいいのではないかという問題である︒﹃大経師昔暦﹄は歌謡に基づいた作品ではないし︑夕霧物のように
歌舞伎種でもない︒その意味では︑仮構物に属する他の五曲とは少々違いがある︒しかし︑﹃五十年忌歌念仏﹄が西鶴
の﹃好色五人女﹄の巻一を粉本にしているように︑﹃大経師昔暦﹄も﹃好色五人女﹄の巻三を換骨奪胎して出来た作品
である︒﹃大経師昔暦﹄はふつう﹃堀川波鼓﹄﹃鑓の権三重帷子﹄とともに︑姦通物に分類される︒しかし︑他の二作
がニュース種物であるため︑主人公の男女の死という事実を動かしていないのに対して︑この作品では︑実説のおさ
ん茂兵衛は刑死したはずなのに︑あたかも命が助かるような期待を抱かせて終っている︒つまり事実の情報性から開
放されている点で︑仮構物的である︒しかも二人の死の土壇場になって︑にわかに東岸和尚という救い主が現れ︑強
引にめでたしめでたしの祝言に持っていく手法が︑仮構物に多い荒唐無稽さと共通する︒諏訪氏の分類だと︑姦通物
と仮構物とが二者択一なため︑姦通物に数えられているが︑この作品は主題からいえば姦通物︑方法からいうと仮構 り 物と言ってもよいのではなかろうか︒
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同様に︑諏訪春雄氏も﹁戯曲作法とその類型﹂で︑従前の分類法に拠り世話物二十四編の戯曲構成を吟味された結果︑
姦通物では﹃大経師昔暦﹄の分類に問題がある︒古伝承物と称す新しい分類を施すべきだ︑と次のように主張される︒
﹃大経師昔暦﹄が︑姦通物のなかにあって︑異色なのは︑素材そのものが︑古い伝承の世界に属することであって︑
かなり自由に構想をかまえることができたことによる︒その結果として︑姦通という罪を犯しながらも︑一曲の最後
をハッピーエンドで締めくくるという︑他の二曲といちじるしく異なる結末をつくっている︒この結末は︑じつは︑
﹃薩摩歌﹄︑﹃五十年忌歌念仏﹄︑﹃丹波与作待夜のこむうぶし﹄︑﹃夕霧阿波鳴渡﹄︑﹃山崎与次兵衛寿の門松﹄など︑古
伝承に取材した作品に共通にみられることで︑近松の戯曲作法上の重要な手法の一つであった︒この手法を重視すれ じ ば︑いわば古伝承物とも称すべき分類を設けて︑これらの作を一括してふくめるべきことになる︒
二 近世における僧侶による宗教的救済の痕跡
近松の﹃大経師昔暦﹄では︑土壇場で里⁝谷の東岸和尚が現われ︑二人に僧衣をかけて命を救うことになっている︒
持つたる衣をうち掛けうち掛け︑肱を張つて立ち給ふ︒役人頭腹を立て︒罪科極つたる囚人を助くるとは︒上を軽し
めたる御坊の仕方︑叶はぬ叶はぬ︒それ衣引つ剥げと︑どつと寄れば︑アアこれこれ︒出家︑侍悟りは同前︒助くる
といふ義理は三世に渡る衣の徳︒
ところで︑このような罪人の救済に関して︑ヨーロッパにはアジールという概念がある︒このアジールと同じ内容のも
のは日本においても認められ︑﹃国史大辞典 第一巻﹄︵吉川弘文館・昭和五十四年︶の﹁アジール﹂の項目には次のよう
に記されている︒
中世罪人の逃れ場所として治外法権的に認められた社寺の聖域︒遁避所︒わが国では︑戦国時代にそのことがみられ︑
遁科屋といわれた︒たとえば徳川家康がその鎮圧に苦しんだ三河の一向一揆の発端は︑彼の家臣が︑真宗寺院に逃げ
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込んだ嫌疑者の引渡しを強要し特権を排除しようとしたことにあった︒しかしこのアジールも︑世の秩序が回復して
来ると︑諸大名の分国法においても︑次第に否定されるに至り︑江戸幕府は社寺のこの特権を認めなくなり︑鎌倉の
東慶寺︑上野の満徳寺にその名残をとどめたが︑明治政府になると︑全くこのことを廃止した︒
近松は﹃大経師昔暦﹄を主人公の三十三回忌追善の意味をこめた作品に仕上げるにあたり︑社寺のこの伝統的な特権と
してのアジールを持ち込んだものと推定される︒日本のアジールの研究については︑平泉澄教授の著書﹃中世に於ける社
寺と社会との関係﹄︵至文堂・大正十五年︶に詳しい︒平泉氏はこの文献で︑宗教的庇護権は中世において行われたが︑織
田︑豊臣︑徳川氏の宗教政策によって全国的に否定されていった事実を取り上げ︑﹁かくてアジールは中世と共に起り︑中
世と共に亡びた﹂と結論付けておられる︒こうして近世の初めにアジールが禁止されると︑寺入りの風習は変化して刑罰
の一種又は謹慎の一方法となったのである︒だが︑そこには自然の理による例外も存在する︒一部においては近世的な変
容を遂げながらも︑僧侶による犯罪人の助命という風習が存続していたのである︒
近世アジールの研究者伊東多三郎氏は﹁近世における政治権力と宗教的権威﹂︵﹃国民生活史研究 第四集 生活と宗教﹄
﹇吉川弘文館・昭和三十五年﹈所収︶において︑その問題点を次のように指摘されている︒
特に上代後期から中世に至る長い歴史の過程に︑仏教がこのような権威を振い︑国民生活の発展に深い痕跡を残した
ことは日本史上の特色であり︑近世ではこの仏教の権威が打破もしくは縮少されて武家政権の統制下に服したことに
劃期的意義を見ることができる︒併し教権が政権に服したと云っても︑幕府諸藩の制法の許容する範囲及び制法の干
渉の及ばない社会慣習などに広く仏教の権威が存在して居た︒
因に︑伊東氏は事実を確認すべく︑幕府諸藩の寺院法度の中から︑そうした現実の上に生れた禁令を探し出され︑それ
らの資料を踏まえた上で︑次のような結論を導き出しておられる︒
僧侶が主君の勘気を受けた者を救解し︑罪人の刑の軽減・宥免を乞い︑自ら死刑の場に出向いて命乞をすることは︑
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慈悲救済を旨とする仏教界で広く行われた請謝の慣習であり︑罪人の家族縁類は法衣の袖にすがって嘆願することに︑
最後の希望を託したのである︒請謝を行う僧侶は大てい学徳優れた高僧善知識︑格式の高い寺の住職である︒刑罰の
一種たる寺預けも︑寺僧の救解嘆願を予想して行った場合が多かったようである︒
ここで︑伊東氏が本論文で紹介された法度の中で最も注目される︑米沢藩の正保三年︵一六四六︶の禁令を引用してお
こう︒米沢藩では領主の権力確立のため︑
一︑到二罪人成敗之場一︑掛二袈裟衣一︑不レ可レ請二身命一事
という僧侶の介入を否定した厳しい掟を定めている︒今はの罪人に僧侶が袈裟をかけて斬罪を免れさせるという風習︵法
衣がけ‖法衣のサンクチュアリ︶が︑厳しく禁止されたのである︒氏はそうした事実を直視され︑逆に︑僧侶の請謝が近
世では広く行われていた︑との確信を得られたのである︒
ところで︑氏家幹人氏は﹁死の領域﹂︵﹃江戸藩邸物語 戦場から街角へ﹄﹇中公新書・平成八年﹈所収︶で︑﹁近世にお
ける僧侶による罪人救済﹂に関する豊富な事例を紹介されている︒近松の世話浄瑠璃﹃大経師昔暦﹄が大坂竹本座で初演
されたのは正徳五年︵一七一五︶の春であるが︑事例は︑延宝三年から寛保三年︵一六七五〜一七四三︶の時代を対象と
しており︑興味深い叙述が多く見られる︒近松は本曲でなぜ法衣による救済という結末を用意したのだろうか︒氏家氏が
﹁死の領域﹂で取り上げた諸藩の御仕置例や僧による助命行動の事例は︑本稿の論点を明らかにする資料として相応しい
ばかりか︑近世におけるアジールの実態をつかむ手掛かりになると考えられる︒以下にその一例を掲げてみる︒
寛保三年︵一七四三︶のある日︑会津郷戸村の喜三郎の家に武州豊島郡長崎村生まれの光雲という諸国行脚の旅の僧
が訪れた︒その際に喜三郎から︑息子が博突の折の口論で相手を傷つけ︑傷害致死の罪で近々死刑に処せられようと
していると打ち明けられる︒次いで︑口論の相手は実は傷が直接の死因ではなく疫病で死んだという風聞があること
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をも語った︒これを聞いた僧は︑早速助命行動に踏みきる覚悟を固める︒処刑の当日︑会津若松城下の御仕置場で見
物の群集に紛れ込んでいた僧から︑袈裟が投げかけられた︒役人が﹁何者﹂と答めると︑僧は﹁但馬の者に候︑罪人
に袈裟を懸け︑貰受度﹂と身柄を要求した︒そして剃刀を取り出し︑要求が容れられなければ自決も辞さない姿勢を
示した︒ところが︑長いやりとりの末︑藩の役人たちは︑もはや助命はならぬといって処刑を断行してしまう︒
なお︑藩の役人とやりとりした際の︑僧の確信に満ちた陳述は次の通りである︒
光雲は︑罪人に袈裟をかけるのは﹁仏法第一の所作﹂と断ってから︑自分は前にも加賀藩の近習で中島円治という者
を助けたことがあるし︑但馬の国で城山の木を盗伐して死罪を宣告されていた伊八という者をもらい請けて出家にし
たこともあるといい︑これらの実績をもとに︑﹁袈裟をかければ命を助けられることは子供でも知っている﹂
と畳みかけ︑この﹁法﹂11慣行の全国性を主張する︒藩の役人が﹁御家の法度﹂11藩法を楯に袈裟がけの行為の合法性を否
定すると︑それはあくまで﹁御家の法﹂であって︑﹁天下の法﹂では袈裟をかければ助命がかなうことになっていると突っ
ぱね︑﹁御家﹂n藩を超えた﹁天下﹂を持ち出して︑これを論駁するのである︒
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三 観客の願望に支えられる救済のモチーフのリアリティ
近松がいかに同情をもって道義的に弁護しても︑罪はやはり罪である︒それにもかかわらず﹁愚僧が念願相叶ひ︑二人
が命下さるれば︒これ現世を助かる衣の徳︒もしまた罪に沈んでも︒愚僧が弟子になすからは︑未来を助かる衣の徳︒未
来でも現世でも︑助かるといふ文字二つはなし︒サア助けた﹂と︑おさんの檀那寺の東岸和尚によって救わせる︒この和
尚のことばには︑当時の檀那寺と檀家の強い関連性を見て取ることができる︒近松が敢えて結末にこうした仮構の筋を仕
組んだのは︑本曲が事件終結後三十三年の正徳五年︵一七一五︶に至って初演されることになったためかもしれないが︑
当時の観客は二人が処刑されたことを熟知している︒近松は多分︑﹁﹃大経師昔暦﹄のおさん・茂兵衛の救済は追善曲の約 ハ り束事にすぎぬ︑﹁機械仕掛けの神﹂︵デウス・エクス・マキーナ︶ならぬ仏のからくりにすぎぬ︒﹂というような意見が出る
ことを前提で︑演劇として二人を助けたい願望をもっていたのではなかろうか︒
松崎仁氏は︑﹁﹃大経師昔暦﹄の再吟味﹂︵﹃元禄演劇研究﹄﹇東京大学出版会・昭和五十四年﹈所収︶の中で︑救済の一点
に向って集中する中之巻以下の劇的構造について︑次のように述べている︒
おさんを近松は中之巻以下で救済しようとする︒三十三年忌の追善というだけなら︑結末に救済を暗示すればそれで
もすむところである︒しかし︑本作では︑おさん茂兵衛の悔恨の涙による浄化と周囲の人々の骨身を砕く努力︑要す
るにほとんどすべての劇的行為が︑処罰からの救済の一点に向けてなされるのである︒この構造は︑おさんの過失を
きびしく否定せざるをえない時代的制約︑本人の悔悟だけでは制裁を免れがたい社会の現実の中で︑なおかつこれを
救おうとする作者の姿勢を示している︒まともに時代の常識的倫理感覚にあらがうのでなく︑情に訴えて救済に対す
る観客の熱望をかき立て︑高め︑同時に劇中人物をしてその熱望実現の努力を代行させてゆくのである︒
このように見てくると︑本作の構造がひたすらおさんの無垢・無罪を強調しつつ姦通後の人々の苦悩を描き︑これ
を処罰する制裁の苛酷さを訴えるというものではないことがわかる︒おさんの危険な︑しかし極めて人間的な罪の可
能性を巧みに形象化しつつ姦通へと導き︑しかるのち観客の救済への願望を激しくかき立てる︒その願望が高まれば
高まるほど︑劇場の虚構の外にある﹁天下の法﹂の苛酷さが思い知らされる︒これは単におさんの無垢・無罪を主張
するよりも︑もう一つ深い意味で人間主義的ではなかろうか︒
だから東岸和尚による救済のリアリティは実はさして問題ではない︒それはあまりにも強引すぎる救済宣言であっ
て︑われわれはここから︑観客の熱望に応えて救済のモチーフをむりやり﹁完結﹂させる高僧ーデウス・エクス・
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マキーナーの声だけを聴けばよい︒本作にとって必要なのは現実的な救済のリアリティではなくて︑観客の願望に
支えられる救済のモチーフのリアリティだったのである︒
ともあれ︑この苦悩の犠牲者に対し︑近松自らが︑最初から同情の眼を注ぎかけてペンを取っていた事は確かであろう︒
一方︑白方勝氏は︑﹁錯誤の悲劇﹃大経師昔暦﹄﹂︵﹃近松浄瑠璃の研究﹄﹇風間書房・平成五年﹈所収︶で︑不義の誤りの
微塵程もない二人の駈落ちを取り上げ︑そこに仕組まれる近松の趣向﹁天下の法﹂を検討し︑詳説を行なっている︒
近松は︑意志なき姦通の二人をただ一度肌触れたということで不自然な駈落ちをさせ︑天下の法によって裁こうとし
ている︒しかしここまでくれば︑不自然なのは駈落ちした二人ではなくて︑実は天下の法そのものであることに気付
くであろう︒﹁劇場の虚構の外にある﹁天下の法﹂の苛酷さが思い知らされる︒これは単におさんの無垢・無罪を主張
するよりも︑もう一つ深い意味で人間主義的ではなかろうか︒﹂という松崎仁氏の御意見もそこを突かれたものである︒
観客にそのように思い知らせるのが二人の駈落ちという行為であり︑逆に言えば︑天下の法の苛酷さが駈落ちという
不自然な行為を生んだ︒天下の法という絶対的な網の下では︑人々は一寸した過誤も逃れることができず右往左往せ
ざるをえない︒おさん茂兵衛もそうした人々でしかない︒天下の法と自からの過誤との矛盾を生き抜いて︑天下の法
自体の矛盾を暴き出そうとするのではなくて︑天下の法に操られている人間の姿なのである︒それは矛盾的状況を生
き抜く主体の悲劇ではないが︑天下の法に縛られて存在することで︑逆に天下の法の苛酷や矛盾を告発している︒近
松は積極的にそれを告発しようと意図したのではなかろうが︑天下の法に操られて行為する二人の不自然にならざる
をえない姿を描いていく過程で︑おのずからそういう意義が生まれてきたものであろう︒
続いて氏は︑本曲の人物造型についても︑上述のごとく︑作者の意図を明かすような結論付けをされている︒
本作における人物造型は︑天下の法や体面意識︑義理に縛られ︑操られて生きるさまを意図してなされているのであ
り︑そういう人物の織りなす人生画図は︑当然のことながら無理なるさま︑不自然なものにならざるをえない︒むし
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うそれが近松の意図したところでもある︒
こうした両氏の論考は︑深い読みから導き出された卓見であり︑
ある︒ これによっても作者近松の制作意図が窺い知れるので
ともかく︑京の町人の人生観は︑その当時大いに栄えた朱子学の影響もあり道徳的なものであった︒おさんにしても︑
未熟ながら︑室町時代の応永年中以来続く名家の奥様としての自覚と道徳的な気質を︑多分に持っていたと思われる︒そ
の点については︑駈落ち後も︑主従のけじめを強く守り︑手代の茂兵衛に対し決して敬語を使わずにいることや︑自分の
軽率な行動を﹁女の格気故﹂と反省し︑﹁ただ忘れぬは二人の親︒さていとしいは幼馴染の以春様︒こなたもわしも微塵濁
らぬこの心︒言訳して死にたい﹂と言わせている言葉によっても理解できる︒つまり︑本曲の大団円も︑おさんが道徳心
と純真さを併せ持つ美しい若妻として造型されているからこそ︑観客も一層納得がいくのである︒
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おわりに
﹃大経師昔暦﹄は︑一種の受難劇であり︑おさん・茂兵衛を中心にして︑おさんの両親その他の周囲の悲歎が︑深く幅広
く表現されるに至っている︒横山正氏は︑この﹁周囲表現の手法﹂について︑次のように述べておられる︒
当時の社会意識から考えて︑姦通事件がその周囲に及ぼす反響を表現する場合︑いかに社会的悲劇として描いても︑
決して不自然となることはなかった筈である︒一般社会の道徳観が姦通に対して抱いていた恐怖にも似たものをその
まま描くだけで︑悲劇性は容易に醸成されたわけである︒これが︑姦通物に於いて︑悲惨を主とすることを意図した
と思われる近松をして︑本人中心よりも︑その周囲の悲劇的表現に力をそそがせた理由の一つであったと考えられる︒
この周囲の描写を行なった理由には︑この外にも︑小説類と異なる浄瑠璃の戯曲性構成上の技巧も関係している筈で
あり︑西鶴に比して︑近松が封建性を濃くもった作家であったと言われる性格の存在も︑否定出来ないが︑その反面︑
近松は当時の社会に及ぼした姦通の恐怖の忠実な写実的作家であったとも言いうるであろう︒
結局︑近松が姦通を悲惨的立場から表現しようとしたため︑このように周囲にかなりの重点をおく構成をとらざる
をえなかったとも考えられ︑一姦通事件を題材とする場合︑当事者達を出来るだけ悲惨に描くよう努力すると共に︑
それが中心となって︑それから周囲の社会に広がって行く悲劇的波紋の様相を描き︑姦通曲全体を悲劇的情緒によっ ヨ て統一している︒こうした点に於いて︑近松姦通物に於ける周囲の表現に重要な意義を認めなければならない︒
つまり︑本曲の中之巻岡崎村の設定は︑主人公に最も身近な人物の被る内面的葛藤を︑より深刻に描きあげる情緒的場
面中心の展開となっている︒近松は何が観客の同情を誘い︑更に深い感動を呼び起こすかを熟知していたと見る事ができ
よう︒ ところで︑藤井学氏は﹁近世仏教の特色﹂︵﹃近世仏教の思想﹄﹇岩波書店・昭和四十八年﹈所収︶で︑﹁近世の民衆は︑ すべて寺檀制度と寺請け制度により︑それぞれ自己の宗旨と檀那寺を持っていた︒かれらは︑死ねば庄屋五人組の立会い
のもと︑檀那寺の出家から検死をうけ︑死後の頭剃刀を頂戴し︑また戒名を受け︑そして︑僧侶立会いのもとで葬式を行
うということが︑江戸初期から次第に全国的に︑法令によって定められていた︒﹂と記される︒例えば︑この法令について
は︑安丸良夫氏が﹁総論−歴史のなかでの葛藤と模索﹂︵﹃大系 仏教と日本人111近代化と伝統﹄﹇春秋社・昭和六十
一年﹈所収︶の中で︑
慶長十八年︵一六一三︶に幕府から日本諸寺院にあてたという形式をとる﹁邪宗門吟味之事︑御条目宗門檀那請合之
掟﹂は︑近世的な寺檀関係を寺院の側から規定した偽文書であるが︑地方文書のなかにしばしば発見されるもので︑
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近世後期の民衆には実効性をもった掟であったといわれる︒この﹁掟﹂では︑キリシタンと不受不施派と悲田宗とが
邪宗門とされ︑﹁三宗共に一派なり﹂とされて︑キリシタンについてデマゴギー的な恐怖心をかきたてて邪宗門と怪し
まれるような行為を戒め︑その対極で仏事を勤め寺役を奉仕するようにと規定している︒たとえば︑
一︑先祖之仏事︑他寺へ持参致し法事勧申事︑堅禁制︒︵中略︶
一︑先祖之仏事︑歩行達者成者二参詣不レ仕︑不沙汰に修行申もの︑可レ遂二吟味一︒︵中略︶ め 一︑相果候時ハ︑一切宗門寺の指図を蒙り︑修行事︒︵以下略︶ ︵﹃徳川禁令考﹄第五峡︶
などというのは︑邪宗門でないかという嫌疑をもちだすことによって︑檀那寺の権威と檀那寺に依存することの重要
性を︑ほとんど脅迫的な文脈で強調しているといえよう︒ と述べられる︒近世においては檀家制を基盤として各宗派で庶民との接触が図られており︑檀那寺の僧による罪人の助命
行動が︑取り立てて世間を驚かすほどの事でもなかったことが︑このことから察せられるであろう︒
さて︑多くの世話浄瑠璃の結末が︑追善回向型と呼ばれる詞章で結ばれていることは︑一般によく知られていることで
ある︒そして︑古くより浄瑠璃には︑或る一定の性格を持つ特定の場を重んじる傾向があった︒それは濡場・愁歎場・舞
踊場・残酷場などである︒浄瑠璃は早くから世阿弥の能における﹁序破急﹂の三段階︑ないし細分した五段階の構成法の ロ影響を受け︑各段との関連において︑こうした性格が問題にされていた︒但し︑近松の仮構物は︑作者の構想を思う存分に
巡らした戯曲のため︑従来の定型を打破する試みがなされ︑他の世話物とは一味違った創作態度が認められるのである︒
何よりも娯楽性を重視した脚色︒そうした傾向は︑高野辰之氏が考案し仮構物として一括された﹃薩摩歌﹄﹃丹波与作待夜
のこむうぶし﹄﹃夕霧阿波鳴渡﹄﹃長町女腹切﹄﹃山崎与次兵衛寿の門松﹄の五曲を︑上演順︵宝永元年〜享保三年・一七〇
四〜一七一八︶に考察することで窺い知ることができる︒仮構浄瑠璃の筆を執るに当っての近松のこうした創意と工夫は︑
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斬新な舞台を期待する当時の観客の要望に応えたものであり︑﹃大経師昔暦﹄
才にしてこそ発揮しえた重要な見せ場であったということができよう︒ の結末の仮構物的場面構成の展開も︑彼の筆
A A A A A A
A A A A A A A A A A 注
17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1
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引用は︑諏訪春雄﹃近松世話浄瑠璃の研究﹄︵笠間書院・昭和五十七年︶一〇二頁に依る︒ 本曲に関する引用は︑新編日本古典文学全集75﹃近松門左衛門集2﹄︵小学館・平成十二年︶に依る事とする︒ )水谷弓彦︵不倒︶校註﹃新釈挿図近松傑作全集4﹄︵早稲田大学出版部・明治四十三年︶解題︑一〜二頁参照︒﹃文学︵第49巻 第2号︶﹄︵岩波書店・昭和五十六年︶所収︑諏訪春雄﹁文学と宗教的救済﹂参照︒
﹃近世文芸 第二十三号﹄︵日本近世文学会・昭和四十九年︶所収︑﹁シンポジウム﹃大経師昔暦﹄﹂参照︒
小山一成﹃近松浄瑠璃の研究﹄︵双文社出版・平成十二年︶所収︑一〇一〜一〇二頁参照︒
引用は︑横山正﹃浄瑠璃操芝居の研究﹄︵風間書房・昭和三十八年︶所収︑﹁皿犯罪浄瑠璃﹂五三七頁に依る︒
諏訪春雄﹃近松世話浄瑠璃の研究﹄︵笠間書院・昭和五十七年︶所収︑﹁第十三章 戯曲作法とその類型﹂参照︒
黒木勘蔵﹃浄瑠璃史﹄︵青磁社・昭和十八年︶二九九頁参照︒
﹃論集近世文学1 近松とその周辺﹄︵勉誠社・平成三年︶所収︑荒木繁﹁近松のいわゆる仮構物について﹂参照︒
諏訪春雄﹃近松世話浄瑠璃の研究﹄︵笠間書院・昭和五十七年︶所収︑三五四頁参照︒
﹁国文学 解釈と鑑賞 一九七四年九月号﹄︵至文堂・昭和四十九年︶所収︑野島秀勝﹁愛と死の弁証法﹂参照︒
引用は︑横山正﹃浄瑠璃操芝居の研究﹄︵風間書房・昭和三十入年︶所収︑﹁n姦通浄瑠璃﹂五三二頁に依る︒
キリシタンの転びを檀那寺が確証するという実際的な目的で始まった制度︒
石井良助﹃徳川禁令考 前集第五﹄︵創文社・平成二年︶七九頁参照︒
信仰内容とかかわりなく︑ただキリシタン禁制のために全国民が寺院に登録された制度︒
横山正﹃浄瑠璃操芝居の研究﹄︵風間書房・昭和三+八年︶所収︑﹁w仮構浄瑠璃﹂参照︒ ︵博士後期課程二年︶
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