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Kyushu University Institutional Repository
浄瑠璃の一限界
横山, 正
大阪学芸大学助教授
https://doi.org/10.15017/12396
出版情報:語文研究. 1, pp.67-78, 1951-03-10. 九州大学国語国文学会 バージョン:
権利関係:
浮 瑠 璃 の
一 限界
横 山
正
目
浮瑠璃には作中人物の性格とか個性とかいふものが殆んど
書かれてみないと言はれる︒これは浮瑠璃だけに言はれ︐るこ
とではなくて︑陥徳川町人交感の全般について見られる現象で
もあらう︒然し浮瑠璃に個性が描かれてみないことは事実で
ある︒徳川町入丈攣中に於て︑最も個性を描き得たかと思は
れる西鶴でも︑深い人間性探求といふ方面では決して十分と
ばいへないが︑浮瑠璃方面では世話物に於て最もよく個性ら
しいものを描いた近松でも︑西鶴程度迄及んでをらない︒.浮
瑠璃に終る入物の性格は類型的で︑人物個々の感情表現の相
遽も殆んど見られない︒これに関し︑内海繁太郎氏は
入形は性格に応じセ固定的に形態色彩等が適当に作られた
わけで︑悪を象徴する入形︑善を象徴する人形︑美男を象
徴する入形︑武勇を象徴する人形といふやうに︑一見其の
性格に見得る人形を作っておいて之を使用し︑毎作品には
様々同一型な人物を出し︑此の入形を多少変化させて使用. してみたのである︒之は古浮瑠璃時代に於いて窓同様であ る︒かういふ理由から近松の描く人物に類型的なところが あるのは︑人形関係から止むを得ないことであって︑之を 以って近松の義母の類型的なことを批難するのは︑⁝当を得 たことではない︒ ︵﹁人形芝居と近松の浮瑠璃﹂四一四頁︶と述べてゐられる︒ 一応この論を肯定すみとし・ても︑ここで嘗はれてるるやうに︑潭瑠璃中の入物の類型の原因が人形の大まかな何々型といふやうな類型的製作にあるのであるならば︑人形の型の種類を極度に豊冨にすれば︑浮瑠璃に於ても個性が描き・得ることとなる︒果して︑かうした相対的原因のみに依るものであらうか︒浮瑠璃に於て個性表現が行はれてるないのには何かの絶対的原因ともいふべきものが︑人形芝居自身の中にひそんでゐ光ので鳳なからうか︒以下かうした観点から浮瑠璃○個性表現の開題を考へてみたい︒
一
様瑠璃に登場する入物の類型的性格についてぱ既にしばし
六七
ば言はれてるることであるから︑今更こ﹂で多言を要しない
であらう︒類型的性格はあらゆる点に穿て現れてみるが︑今
試みに近松の世話浮瑠璃に出る遊女の性格を見てもそれがよ
く窺はれる︒即ち︑それら遊女が男を死ぬほど愛するも︑自
由にならぬ女の躬さを共通的に持ってみることは︑当時の封建性と︑遊女といふ境遇とを考へれば当然であるが︑彼女建
の多くは自己犠牲的であり︑最初は男よりもむしろ理性的
で︑男に対し︑しばしば指導的立場に立つが︑後には全く感
電的となうてみる︒例へば曾根崎心中のお初︑軍曹出世滝徳
のあづま︑冥途の飛脚の梅川︑夕霧阿波鳴渡の夕霧︑生玉心
中のさが︑博多小・女郎浪枕の小女郎︑心中天網島の小春な
ど︑最初は何れも途方にくれだ男の気持をはげまし︑一応の
髄後策を与へて︑男より窓積極的で︑冷静讐ある︒これが経
りは皆一様に全く感惰に溺れ︑男に対して文字通りの従順で
全く無策の女と変ってみて︑.これら遊女聞に性格の相違とい
ふものが全く見られない︒ 殊に曾根崎心中の語初と生玉心中のさがと︑或は夕霧阿波
鳴渡め夕霧と博多小女郎浪枕の小女郎とは全く同一の性格
で︑五に入一瞥へても不都合を生じ・ないほ妻である︒ こ玉では遊女にヶいてだけ言ったが︑かうしだ同じ性格は
男主入公にも︑墨入の女主人公にも多く見受けられ︑或る人
物の個性が深く掘下げられてみない︒允讐女殺油地獄の与兵 六八
衛のみは例外で︑性格的に追求されてや曳特異な個性が浮上
ってみる︒ところがこの稀に見る特殊例の作配は皮肉にも当
時の操興行に於ては﹂好評でなかったらしく︑再演も殆んどさ
れてみない︒
潭瑠璃に於ては︑このやうに入物の個性の相違が殆んど描
かれず︑た穿類型的性格があるのみであるが︑同時代の灘⁝つ
た演劇形式を持つ歌舞伎の方ではどのやうであったらうか︒
浮瑠璃との比較の便宜上︐作者︑時代︑題材が同じである
﹁夕霧七年忌し.︵近松作歌舞伎脚本︑真心元年︑夕霧死後の
物語︶と﹁三世相﹂︵近松作潭瑠璃︑貞享三年︑同じく夕霧
死後の物語︶とに描かれてみる男主入公の蓑現を比較じ㌃み
ると﹁夕霧七年忌﹂では夕霧の客であっ掩伊左衛門は夕霧亡
き後も放蕩心止まず︑夕霧でなくても︑それに似た遊女であ
れば大休満足してをり︑夕霧其物に恋してみたのでなく︑夕
霧的類型に恋することに徹底してみる彼の特殊な個性がよく.描かれてみる︒即ち極左衛門は夕霧亡き後︑萩野を相手に
し︑妻に身請までしてもらってみるが︑難波津が夕霧によく
似てみることを知ると︑︒ぞれに夢申になり︑そり揚代支佛の
ためには︑夕霧と彼との問に冊来た娘器せきまでをも.母親
夕霧が死ぬ迄醗ることを願ってみた廓に再び売らうとするほ
どである︒伊左衛門の⁝難波津に対する態皮を引用すると
﹁ξ・﹂されば大阪屋の難波といふ女郎が︑微︐塵潔 はぬとい
ふ︒何をいふ︑夕霧に似た者は無いものちや芝取合は識し
て︑密に行って見た21ぼ︑夕霧にそのま﹂ぢや︒さて逢う
て見たれば︑心いきが夕霧よりもよいし久古聞き﹁それは
隠れが御座りませぬ︒夕霧が兇たくば難波ぢや︒瓜を二つ
に割った様なと申します﹂﹁いや罰らすに其儘ぢや︒何が
面白うて︑萩野もはたらかして通ふ程に⁝⁝⁝﹂︵元藤歌
舞伎傑作集による︒︶
これに対し︑ コニ世相﹂の方では夕霧のかつての客︑左京進
は夕霧との聞に一人の娘暮姫をまうけ允程の深い仲であP︑
相当の遊蕩者であっ掩筈であるが︑いくら時代物で︑舞楽の楽入として書かれてみるとはいっても︑廓惰緒を解する性格
が少しも描かれす︑準々凡々充る一個の武家的性格の類型に
外ならない︒こyでの左京進の措写では︑華かな過去をもつ
人物として・の性格が壷く重てをらタ︑個性らしい何物も現れ
てみない︒
この二作口mは作者︑時代︑題材すべて同一であるにも拘強
ず︑これだけ登場入物の表現態度を異にしてみる︒このこと
は歌舞伎脚本と漂瑠璃との相違を作齎近松が意識して書きわ
けたものと考へざるを川得ないであら︑り︒貞山口一頃に於て︑﹂既に
歌舞﹁伎脚本と嘱障瑠璃との闇には︑これだけの個性表現の違ひ
があったのである︒ 更に﹁夕霧七年忌﹂の樫左衛門と後の近松の世話浮瑠璃 ﹁夕霧阿波鳴渡﹂の俘左衛門とを比較してみても︑後考は普
通の色男としての類型を示してみるに過ぎないで︑前功のや
うな特殊の個性表現は見られない︒
次に﹁東海道四谷怪談﹂︵丈政八年︑鶴麗南北︶では男主入
公︑伊右衛門の冷酷な個性がかなり深く描かれてみる︒吊し
て逃げた下入小挙を処罰することに関しては
出来心であらうが︑忠菱であらうが︑入の物を盗まば︒盗
人︒忠義で致す泥棒は︑命は助けるといふ天下の掟がある
か︒距はけ面め︒ 一旦も取返し︑取替への金子さへ償は
ば︑助けて遣らうが︑その代りに︑誇のれが指は一奉つつ
折って了ふわ︒ ︵二幕目︒日本名号塗集による︒︶
と細流ってを翫リ︑これより前︵一幕目︶に・も妻お岩︸の件で暇罪︑
左門を何の感情もなく殺してみる︒叉二幕目に︑お岩の言葉
に依って︑伊右衛門の冷酷を描いてむる︒
常から邪樫な伊右衛門どの︑男の子を藤んだと云5て︑さ
して喜ぶ様子もなう︐何ぞと嚢ふと︑穀つぶし︑足手纏な
餓鬼産んでと︑朝夕にあの悪口︒それを耳にもがければζ
そ︑針の蒲のこの家に︑生疵さへも絶えばこそ︑非道な男 に添ひ途げて︑辛抱するも︑父さんの敵を討って貰ぴた
さ︒⁝⁝
更に同じ幕で︑産後聞もないお岩に対して︑次のやうにさへ も言づてみる︒
六九
誇岩 ⁝⁝モシ︑こちの人︑お前︑妾が死んだなら︑よも
や当分︒
伊右衛 持って見せるの︒
誇岩 工︑︑・︑︒
伊右衛 女房ならば貫きに持つ︒而も立派な女房を︑俺ア
持つ気だ︒持つたらどうする︒世間にいくらも手本があ
るわえ︒ ︵以上何れも日本名著全集による︒︶
と言って親の敵討の件も無情に断ってるる︒そして他の女の
ためには︑お岩との闇の子をはっきり邪魔物扱にすることを
お岩に向って言明してみて︑このやうに伊右衛門の冷酷な性
格が色々の方面から浮彫にされてみる︒
勿論かうした性格描写は歌舞伎に於ても決して多く見られ
るわけではないが︑少なくともこの程度の︑.漂瑠璃よりは深.い性格の特殊性が描かれてみる︒歌舞伎のかうした傾向にも
拘らす︑浮瑠璃では何故に類型的性格の表現に絡領して満足
してみたのであらうか︒この原因のありさうな点を捜してみ
ると︑次の諸点が先づ一応考へられる︒
一 個性表現に対する作者の無意識
二 個性描写に対する一観客の能仰度 三 浮瑠璃の構丈 四 入形芝居の構成形式
︼については︑既に見たやうに︑歌舞﹁伎脚本の方では︑十 七〇
分ではないまでも︑とにかく一応は浮瑠璃以上の個性表現が
行はれてるるのであって︑このことは︑歌舞伎作者には多少.
とも個性表現に対する意識があったか︑或はそれ朦どはっき
りした自⁝覚がなかった・としても︑とにかく︑かうした方向へ
の意慾は無意識の中にも持ってるたことを示してみる◎歌舞
伎と人形芝居とは難波土産の序の曹葉を借りれば︑軒を並べ
て互に競演してみたととでもあり︑同じ大衆を相手にした演
劇である︒かうした類似的性格を持つ二つの演劇脚本作家の
一方に個性蓑現の意識があるにも拘らず︑他方︵浮瑠璃作家﹀
にそれがないといふととは︑常識的にも考へられないことで
あり︑殊に近松のやうに︑両方に執筆してをりながら︑これ
を描きわけてみる如きは︑無意識といふことよりも︑何か他
に理﹂田があったと考へる以外に方法がない︒従つ・て︑偲一性﹂表
現に対する作者の無意識のためにΨ浮瑠璃に於てこの褻現が
行はれなかったとは考へられ胤ない︒
二については︑当時︑歌舞伎の観客と入形芝居の観客とは
全く同じ範囲の民衆であっだ︒従って︑.同一の観客が歌舞伎
に性格描写を多少とも希窮し︑人形芝居の方に希望しなかっ
たとは到底考へられない︒従って人形芝居の観客.のみが特に
個性描写に対して無関心であったとは言はれす︑これが浮瑠
璃の類型椀性格⁝の原因であるとは勿論言はれない︒
三につVては︑歌舞伎脚本が珍く少部分のト書を除けば︑
他はすべて対話形式の台詞から出来てみるのに対し︑浮瑠璃
では︑初期のものば地○丈が多く︑時代が下るに従って︑地
の部分が減少し︑対話による詞の部分が多くなって︑その形
は歌舞伎脚本に近づいてみる︒然し地の文も対話も︑さうし
た表現形式そのものが登場人物の個性を表現することに不都
合である理山は何ら考へられす︑従って︑この両者の増減の
如何が個性表現の難易に関係したとは思はれない︒従って︑
構文的方面が浮瑠璃に於ける性格描写否定の原因であるとは
考へられない︒
結局柱舞瑠に於て︑類型的個性しか見られない原因は︑四
の人形芝居の角筆形式の申に求めなければならなくなる︒
胴顧
浮瑠璃に於け獄個性の類型化の原因を人形芝居の講成に求
●める場合︑言ふ迄もなく︑入形芝居は人形︑太夫︑三味線より講成されてみるが︑このうち三味線はその曲が相当複雑化
した後期に於ても作奏書楽に外ならず︑滞瑠璃中に出る人物
の性格描写を考へる場合︑先づ除外して差支ないであらう︒
残るものは人形と太夫とであるが︑先づ入形︸の関係を考へ
てみよう︒
人形は近松在世当時の未だ不完全な機能しか持たなかった
亀のは勿論︑近松死後關もなく吉田文三郎等に依って著しい 発建をし始め︑非常に入間に近い程度に迄動作出来るやうになった後期の入形に於ても︑入形の機能の駆使に依って︑人間の感情を愛すことが不可能であることはいふまで愚ないことである︒如何に人間の動作︑表惜⁝に近づいても︑それはあくまで魂のない入⁝間のイミテーションに過ぎない︒これに対して︑歌舞伎.役者は生きた人車である︒歌舞伎は泰西の近代劇などに比する場合︑写実よりは甚だ遠い様式的な演劇ではあつだが︑人形の全くの無感情に比べる場合は︑役者の個々の感情の自然的流露は当然見られたのである︒かうした人形と役者との根本的相違を先づ考へて闘いて︑前に挙げた澤瑠璃と歌舞伎脚本との表現の相違を考へてみたい︒ 一澤瑠璃が演劇隔一本である限り︑浮瑠璃の内容は人形に依って舞台上に表現し得るものでなければならない︒近松は浮瑠璃に依って人形に魂を入れるといふことを言ってみる︵難波土産の序︶が︑それは人形に類型的な心理・表現を附加することを意味するのであって︑ ﹁此ゆへに同じ武家也といへ共︑或は大名或は家老その外線の高下に付て︑その程々の格をもつて差別をなす︒﹂ と言ってみるのでも︑そのことは明かである︒個々の性格の相違でなく︑かうした類型的区別程度なら︑当時の人形に依っても表現出来たであらうが︑個々の性格の区珊など︑到底︑表現禺来る筈はなかったのである︒入
形の轍発達と共に︑細徴細⁝な動作や顔面の動きに依る或る程度の
七一
人馬的表現も禺来るやうになつ艶が︑所詮︑人形は人形で︑
魂の搾つ掩壕の感激的表現が出來る筈はなく︑⁝発達し艶入形
の機能を駆使すればするほど魂に裏づけられることのない外
面的細かい写実的表現は︑徒らに室盧感を増すのみである︒
人形の機能は癸達しても︑そこには魂の発蓮は全く見られな
いからである︒殊 に表現すべき事柄が﹁性格﹂的なもので.あ
る場・合には︑その表現には生きた感情︑意志を伴ふ演技に依
って裏づけられることが絶対に必要である︒入形の外面的O
みO細かい一動作だけでは決︸して表現される可能性はない︒か
うした性質の人形に依って︑浮瑠璃が表現されるものである
限︐りは︑如何に浮瑠璃に登場人物.の性格を書きわけ海として.も︑それが完全な個性表現として舞台上に表現されないこと
は明かである︒だだそこに表現されるものは魂のない個性の
模倣的演出に外ならす︑かうした個性の描写等を浮瑠璃に入
れることは︑徒らに人形の不自然さを暴露するのみであら
﹂フ︒ これに対し︑歌舞伎に於ては︑如何にそれが様式美的な演
劇であったにしても︑脚本の一語一句は生きた役者の灘波に
依って轟口づけられて上演されるのであって︑個一別的︑特一律的
表現を行ふことも出来︑或.る程慶の個性表現の如きも可能で
あっだわけである︒ ︑ 吹に問題となるものに太矢がある︒歌舞伎では役響自身に 七二
依って台詞が言はれるのであるから別に⁝問題はないが︑人形
芝居では︑浮瑠璃は晋霊的には︑一度太夫を通さなければ表
現することが出来ない︒而も登場入物一人に対し︑一入の太
夫が当る研謂掛合形式は比較的稀であって︑多くの場合︑多
数の魯轟場入物を一人.の太夫で表現するのを普通とする︒従っ
て如何に黙照した太夫であっても︑唯一入の人間が多数を語
り分ける能力に限度があるこ・とは当⁝然考へられる︒それ故︑
登場入物の各個性を語り分けるなどと︐いふことには非常な困
難が律ひ︑これは表現不可能といふべきである︒そこに蓑現
される各登場入物の個性は︑太夫の一性格を通し︑それに俵
って解釈され充ものであって︑どうしても登場人物の各個性
は太夫の性格⁝に依って色づけら熱︑真の意味での各賦性の深
刻な対立的里預といふ如きは︑人形芝居に於ては成立し得な
いといふべきであらう︒
以上のやうに人形芝居に於ては︑覗畳的には人形︑聴覚的
には太夫といふ絢束があり︑ 登⁝場入物の個性など影し蓑現しょ
うとしても︑人形︑太夫による一定の制隈された範囲内に於
ける表現しか許されなかつ禿︒従って︑近松典他のすぐれた
一浄瑠璃作者達が︑その範囲内での個性的衷現に努力しても︑
猫.その結果は個性の類型的表現となり︑一に於て見たやうな
浮瑠璃と歌舞伎脚本・との聞の性格表現の和⁝違を生じて来だも
のと考へられる︒
次匹浄瑠拙⁝の実際の表現の面から︑以上のことを裏づけて
みよう︒慣揮瑠璃に於ては︑歌舞伎などの一般演劇とは異なる
一種の個性描写が行はれてるる︒それは類型性を持つた性格
描写であり︑乙の最もよくまとまった代表的な形の︼つが所
謂﹁くどき﹂の形であらう︒﹁くどき﹂に撃ては︑入形の動
きのリズム︑太夫の語り方量を.十分に考慮された上で︑さうし
た類型的拘束を認めた上で︑ ﹁くどき﹂をする人物に心ゆく
ばかり独白的︑傍白的に語らせ︑蓮懐させて︑その心理状態︑
性格を描き出さうとしてるる︒この形式は謡曲の﹁くどき﹂
の影響を多く受けたものであらうが︑浮瑠璃としての特徴を
最も多く持ってるる部分の一つで︑歌舞伎脚本の独白などと
はその惰緒に於て︑雰囲気に於て︑全く異なるものである︒
従って︑浮瑠璃が歌舞伎に上演されるやうな場合は︑この
﹁くどき﹂は緬︸粋な台詞に消化されないで︑多くの場合︑嘱伊
瑠璃のま玉に残され︑チョボに依って語られてみる︒今その
一例として︑艶容女舞衣︵安永元年十二月二十六日︑豊竹座
初演︶の下の巷︵酒屋の段︶でのお園の﹁くどき﹂の一節を
同じ作晶が歌舞枝脚本として書直されたものに比較してみ
る︒ 詞今比ハ孚七⁝様が︒桐所にどふしてござらふぞ︒地今更返
らぬ事ながらわしといふものないならば︒牟兵衛様も訟通
に興じ翠煙なしたる三勝ッどのを︒とくにも呼ヒ入レさしや んしたら牟七里の身持竜直り︒御勘ン当亀有ルまいに思へば
一膳園が︒去年の秋の煩ひに︒いっそ死で仕廻ふだら︒
斯し掩難ン義ハ出来まいもの︒お気に入フぬとしりながら︒
未練なわたしが輪廻ゆへ︒添臥ハ叶ぐず共訟傍に居だいと
辛抱して︒是迄居流のが器身の仇︒今の思ぴにくらぶ沼ば
一チ年ン.前に此ぞのが︒しぬるこ玉うがつかなんだ︒こらへ
てたべ孚七様わしゃ︒此やうに思ふて居ると:::︵原作︶
薬園今頃は傘七さん︑どこにどうしてムらうやら︑
へ今さら帰らぬ事ながら︑わしと去ふものないなら
ば舅御さま竜おつうにめんじ
子までなし亙る三勝どのを︒
へとくにも呼び入れさしやんしたら︑孚七さまの・身
持も直り︑御勘当もあるまいに︒
思へばく此の園が︒
へ去年の秋のわづらひにいっそ死んで仕舞ふだら︑
斯うした難儀は出来まいもの
お﹂気に入らぬと知りながら未練のわたしが︒
へ輪廻故添ひぶしは叶はずとも︑器傍に居たいと辛
臥して︑是までみたのが
お身の仇︒
へ今の思ひに比ぶれば︑ 一・年前に此の園が︑死ぬる
七ヨ
心が付かなんだ︑こらへてたべ孚心様︑わしゃ此
のやうに思ふてるると︑⁝⁝⁝︵世話狂言傑作集
﹁艶姿女舞衣﹂による︒以下同じ︒︶
こ曳で﹁チョボ﹂なるものを一応考へてみたい︒起源的に
は読経節にまで遡るが︑一般には後の義太夫節が歌舞伎に影
⁝響し︑それが歌舞伎として上演される場合に︑その間に於て
役者の動作︑諾意︑述・懐等を三味線に合して語るものをい
ふ︒こ工でもこの一般的の意.味の範囲でのチョボを問題にす
る︒ 歌舞伎脚本申︑チヨポとなってみる部分には︑単純に入物
の動作などを示すのみで︑ト書と同じやうなものや︑対話の
一部等も見られる︒例へば
宗岸孕兵衛殿はお宿にか︒
へ娘を連れて打通れば妻は門の戸引立て︒
或は お園 父さまの一徹で︑無理に蓮れられ帰りしが︑一旦殿
御と極った牟七さま︒
へ嫌はれるは翻心が不調法︑鈍に生れた既の身の
科︒
今から随分お気に入るやうに⁝⁝
然⁝●し︑かうしたものよりもチヨポとして更に艦隊すべきも
のとして︑さきに挙げ掩﹁くどき﹂の外にも︑心理描写的性 七圏
質を多分に持つものがある︒例へば
三人 国財押せうわいのう︒
へと三人はしほく奥へ泣きに行く︑心のうちぞ裏
れなり︒
ト是にて三人はお園へ心を残し奥へ入る︑是を
初夜の鐘鳴る︒
へ後には園が憂き思ぴ︑か護れとてしも烏朋玉の︑
世の・味気なさ身一つに︑結⁝ぼれ解けぬ片糸の︑く
り返したる独り言
チョボの部分と︑その間に入ってみる下書とを比較すれは
一見してその相違が明かなやうに︑ト書はただ人物の行動と
舞台数果とを指定してみるにと璽まり︑人々の心の動きはす
べて︑浮瑠璃其儘がチヨポとして残されてみる︒即ち︑浮瑠
璃の地の文には人形に読明をつけるために︑心理的読明の要
素を持つ部分が多分にあり︑かうした部分は︑前記の﹁くど
きしと同じく歌舞・伎脚本化される場合︑対話的台詞にも︑峯
鍛冨にも齢嘗きかへることが困難州な笛一所である︒ このやうな心理表現を含む人物の動きや﹁くどき﹂の表現
は︑入形芝居に於て相手が入形であP︑太夫であるが%め
に︑浮瑠璃に書くことが必要となった傾向を多分に持ってを
り︑これは役者の直接的感.憐表禺に代るものとして挿入され
てるるのであるが︑結局それは役者自身による感情表現のや
うな︑演技に対しての直接性を持つものではなく︑あくまで
人形の外部からの読明づけに露ならない︒従って︑歌舞伎の
場合︑役者梱凹々の感情表出によって各特殊表現が且ハ体的に︑
直接的に行はれるに反し︑澤瑠璃のかうした部分が︑どうし
ても抽象的︑類型的︑函南的となることは止むを得ない︒か
うした性質を持つ部分が歌舞伎に入る場合︑完全に溝化し切
れないのは当然であって︑こ玉に人形芝居と歌舞伎との二形
態の矛盾の解決として︑ ﹁チョボ﹂なる形式が活用されたと
見るべきであらう︒歌舞伎に於けるチヨ蕃の挿入といふこと
は︑当時非常な流行を見た義太夫趣味を歌舞伎に導入して︑
大衆の意を迎へるといふ意味が多分にあっ海ことは勿論であ
るが︑かうした理由の外に︑猴上記のやうな二演劇形式の矛
盾の解決としでの役割を見得るのである︒即ち︑チョボにな
ってみる潭瑠璃の部分が如何に細かい設明づけを行ってみて
も︑個々の俳優に依る︑その時その時の特異な表情︑身振等匿比すれば︑概念的︑磁H蓮的︑他よりの説明であること故︑
このチョボに合せて演技する俳優は自己の感情︑動作を抑圧
して︑無表情に近い所謂人形ぶりに依ってチョボに調和する
やうに演出を行ったのである︒ ︵人形ぶりも人形芝居的味を
歌舞伎に入れるための一つの試みであったが︑又一方人形ぶ
りに依らなければチヨポの出す情緒︑雰囲気に調和しなかっ
たのである︒︶ 斯くて歌舞一郭に於ける﹁チョボ﹂の存在は︑他に竜理由があったとしても︑浮瑠璃の抽象的︑類型的︑闘接的表現を解決するに役立つたものであると一応考へられ︑浮瑠璃に於けるこれらの表現傾向は︑人形と太夫とに依って生じたものであることがわかるのであって︑この﹁チ旨ぷ﹂の方面から考へても︑浮瑠璃の個性の類型的表現が︑人形と太夫との人形芝居構成形式そのものから生じてみることが窺はれるのである︒
p一一一
入形芝居と歌舞伎とは︑時代が下るに従って︑互にその影響を他に及ぼして︑密接となって行ったのであるが︑そのだ
め浮瑠璃の詞章も歌舞伎脚本的となP︑人形舞ムロも歌﹂舞伎舞
台的傾向を持って来たことは周知の疑りである︒澤瑠璃では
いよノ\地の丈は少なくなり︑詞本位の対話形式による﹁せ
りふ劇﹂としての脚本形式をとって来る︒そして︑その描写
は写実的に細かくなり︑一挙一動をも描出する巴いつだ態度
となる︒近松孚二の作晶など︑これをよく示してみる︒かう
した部分的な細かい写実的表現は単に歌舞伎からの影響に依
つ・ただけではなく︑当時の町人交芸の一般的傾向に︑かうし
た特微が見られる︒例へば︑安永︑天明頃から寛政の改革後
にかけての全盛時代の酒落本にも︑かうした局所的な非常識
七灘
なほどの写実が見られるなど︑その例であるが︑かうした風
潮も幾らか浮瑠璃に影⁝響を及ぼしてみると考へられる︒とに
かく︑かうした表現の変化を来たし禿漂瑠璃が入形によつて
操舞台にかけられる場合を考へると︑歌舞伎であれば︑その脚本の表現が如何に細かい写実的表現となって行っても︑そ
の台詞の一つ一づ︑或は動作の一つ一つが役者の表情︑動作
に依って肉づけられて︑特殊な性格の如きものをも次第に盛
り上げて行くことが出来るが︑入形の場合は写実的に細かく
なった漂瑠璃の詞を裏づける感情が存在せす︑即ち︑この場
︐合の漂瑠璃の写実は心の写実とはなり得す︑感箭のない人形
を対象として︑か量る対話形式によって個性を浮き出させる
ことが不可能であることはいふまでもないであらう︒このや
うな浮瑠璃は徒らに人形の外面的写実の細かい技巧のみを要
求しそこに表現されるものは︑⁝発達しπ人形機能の見⁝世物的
誇示といふ凡そ性格描写的方向とは反対の方向に向って行っ
たのであP︑叉かうした状態にある入形芝居に於て︑個性表
現を求みるなどは到底整まれないことであった︒ ︵この人形
の見轍物的表現の傾向は既に早く享保十七年の壇浦兜軍記第
三の.﹁阿古屋琴責﹂で︑次々と楽器を演奏させるあたりにも
現れてみる︒︶ 従りて︑との頃の漂瑠璃と歌舞伎脚本とは︑
一見したととろ︑その形賎よく似てみるやうであるが︑それ
らが舞台にかけられた議定は︑非常な表現の相識を来たした 七六
のであり︑歌競〃伎脚本から影響をうけた後の浮瑠璃に生じ潅
この見世物性は︑俳優と人形との相違から来た窓のである︒
この頃の作品として︑歌舞伎と相五に関聯を持ち︑最も密
接な影響を受けてみる浮瑠璃作品であろ仮名手本忠臣藏︵寛
延元年八月︐十四圖︑竹本座初演︶を例にとってみる︒
大序から第四のあたり迄の加古川本藏と大星由良之助とを
比較するに︑前者ぱ処世術にたけたへっらぴ武士として描か
れ︑後者は堅い一方の武士として癩かれてるて︑表面の表現
形式は正反対であるにも拘ら・ず︑.その性格はどちらもあくま
で忠義に厚く︑糺節を重ん・ずる当時の典型的家老型であり︑
両者の間に個性上の根本的相違は見られない︒殊臓第九に於
ては︑全く倉入の.性格は同一である︒
次に︑第六の旗挙切腹の場に於ての勘畢︑彌⁝五郎︑郷右衛
門の三入は表面の表現こそそれム\違ってみるが︑個性の相
蓮は全く出てみない︒
第九の戸馬瀬と語源とは外面的にも内面附にも侮ら二つだ
ところがなく︑全く同じ類型的武士の妻の型である︑
これらは何れも同じ場に出るか︑或は掘る場は違っても︑忠臣藏では対照的に描かれた人物であるが︑それにも狗ら
ず︑上記のやうな状態である︒さきに覧た近松世話物の遊女
表現では︑個性的描写は勿論︑表面的表題三共に類型的であ
っ潅が︑歌舞伎からの影響を受けて写実的蓑現の方向に向つ
た後の潭瑠麟︸は︑外面的写実に煽ては相Wヨ進歩し︑それぞれ
違った姿の人物を描くに至ってみるけれども︑性格等の内面
的方面に於ては︑依然として類型を一歩も出てみないで︑性
格の書きわけといふ聖壇は筆が及んでみない︒その著しい例
は﹁近頃河原蓬引﹂である︒とれでは︑あまりに滋藤の変化
にのみ走り︑会話等も写実的で︑衷面的にあまぐるしく取交
され︑さうした方面での変化はあるが︑各人物の個性の写実
的表現の方向には殆んど向ってみない︒歌舞伎脚本なら︑か
うした部分的﹂写実の連続葡表現も役者の生きた魂に徹って裏
づけられるために︑舞台上では個性的上演敷果をも亘る程度
持つたであらうが︑人形では︑た野めまぐるしい入形の動き
あるのみで︑これらの外面的細かい写実表現からは︑性格の
特殊性を描擁することは不可能である︒ ﹁堀冊の段﹂のやう
に舞台数果はあがる場合があっても︑それは主として外面的
行動的面に於ける写実︑並びにそれに作ふ情緒に過ぎナ︑人
聞の個性描写には殆んど何も見られない︒
次に︑この期の作品になると︑本心を隠した儒りの写実的
裏現といふやうな描写が特に目立ってるる︒例へば︑ 仮名手本忠臣藏の第七︑一力茶屋O場の由良之助の相当長
い遊蕩兇らしい︑いきノ\した写実的翌夕︵それはかなり特
異的性格とも見えるものであ偽︶は実は敵を欺く海めの心に
もない﹁仮装﹂であり︑この仮装的写実に技巧をこらしてみ る︒しかし︑この場の維噸の本心を親した由良之助は︑特徴のない一個の忠義な武士になり終ってみる︒ ヤ も 伽羅先代萩第三の熊川源五兵衛のにせの狐つき︑並びに貝 も ゐ へ田源之介のつくり阿房の描写など︑前記の由良之助の場合と同じ趣味である︒ 更に同じ作晶の第六︑政岡忠義の場に於ける政岡は我が子が目前惨殺されるのにも全く感情の動画を示さず︑ために栄御前がその本心を間云ふほどの︑調建社会の当時に於てさへ稀に見る気性の烈しい性格を蒔いてみるが﹂これも封建道徳がもたらした本心に反する一つの表面的萎であり︑政岡の真の姿は直ぐ次に示されてみるやうに︑子に対する感情にもろい母親としての類型以外のものではない︒ かうした同形の趣向申︑最も著しいものは﹁静粛合邦辻﹂下の巷の玉手御前の表現であるゆ一部分例示すれば︑ 母様のお直なれどいかなる過去の閃縁やら︒俊徳様の御事・ ニがれ ハ嫌た閥も忘れす恋憧︒酔ひ鹸って打チ付ケに︒言フても親
子の道を立・・臨監返・害い程・猫いやまさる恋の淵・い かちせだし つそ沈まパ何所迄もと︒跡を慕ふて歩徒足︒⁝⁝
地娘ハ飛退キ顔色かへ︒詞エ︑訳ヶもない纂喧しやんすな︒わ
しや尼に成ル恥いやじや!\︒折角艶よふ硫込.だ面懸が︒ もホ どふむごたらしう剃れる物︒今迄の屋敷キ風口最取り置イて9
地是からハ色町風随分端手に身を持ヅて︒詞俊徳様に逢フた
七七
らバ。あっちからも惚て賓ふ気。怪我にも促にも。尾の坊
主の。育イ田して下クさんすなとけんもほろ1に寄七付ケず。
とのや‑な玉手御前の悪に狂ふ描写は'浄瑠璃では稀に見る
烈し5個性的表現であ‑'二見徹底した性格揃等(何物にも
屈せず'た2二途に恋紅走る激楠的性格輔等)とも見え'且現#・の舞台から考へても'初演当時相当の流刑的成功をしたと思はれる。これは初沢後も何回も繰返し
て
'主として下の餐(合邦内の段)のみが帯封されてゐることでも明かであち.か‑した成功の原田の主要瓦ものの1つが'玉手御前の轟現であったことはいふまでもなSであら‑。然し'この成功は人形芝居に於てこそ.・#目すべき任どの程度であったとし
でも'先金な意味での舞台上に放ける佃性表現ではなかった
啓である。既に述べたや‑に'如何なる性格捕等的脚本も'
それを上演する際'俳優の生きた衆情'拭汝を伴はなくては到底先金に再現し得るも打ではない。如何に人形が等適して
ゐたとしても'それが人形である限り'人形に依る性格表現は結局'高庇に素案化された性格のイミテーションに過ぎな
い。然も玉手御前が枕を負ってから本心を語る場合の性格怯当時の類型的貞女の範囲を出るものではな‑、それ以前の彼00000女の性格は仮鼓的性格であったわけでt.佃性表現としては非常に弱‑な‑'性格描写よ‑も表面の変化に中心が置かれてゐて'さきに挙げた山鹿之助、瀕末兵衛'政岡等の場合に於ける仮装的表現と査・J同一であiQ。然も.Iそれらの中で最も代表的のものであごQ.これ経ど烈しS表現も「仮装」であるとすれば'その情熱的性格には幾らかの不自然さを伴って表 七八
現されてもよいわけであり'これなら人形の「個性のィ,,)チー・bヨン的表現」でもよ二を乙に人間とは異なる「人形」000にょる性格表現の逃相場があつたと考へられなSであらう.
か。かうした考が許され渇とすれば、人形芝居に於ては'そ
の芝居蘭成上から'純粋孜個性の描写'演刑を行ふよりも、むしろ表面的技巧や趣向の面白さに依る舞台数巣をねらった
方が合理的で'成功率も高く.挿瑠璃作者連も白銀にこの鰐劇形態的特質を概会してゐ兜と考へるべきであらう。
勿論か‑した玉手御前の表現にこは'当時'揮瑠鞘作者が個
性の表現な
ど
は問題にせず'ただ物めづらしS趣向的変化のみを迫ったとSふ理由も考へられるがiとにか‑3応披議事御前群度の烈しい特典な性格表現に迄進んでをり改がら、■それが単なる仮装に終って'寅の性格表現までのあと]歩の進展としてむらなS等英には'人形と3,ふ芝居構成形式上の梶
本的傭件が関係してゐるものと考へられる。そして既に最初
見たや‑に'歌舞伎には或る程度の性格表現が行はれてゐるにも拘らず'樺瑠璃では同じ作者の場合にも'それが行はれなかつたとSふことを考へる時'一屠このことが償金されると思ふのである。即ち'揮瑠璃に桐性表現が行ほれてゐなS原因としては'人形の本質並びに太夫とSふ人形芝居構成そのものが'第7に考へられなければ漁らないと恩ふ。従って'歌舞使脚本とは異な‑'挿瑠璃では桐性表現敏行牲‑にも行仏得なかったわけで'・こ1に人形芝騎脚本としての揮珊璃の1つの隈鼎を見たSと思ふ。
らバ。あっちからも惚て賓ふ気。怪我にも促にも。尾の坊
主の。育イ田して下クさんすなとけんもほろ1に寄七付ケず。
とのや‑な玉手御前の悪に狂ふ描写は'浄瑠璃では稀に見る
烈し5個性的表現であ‑'二見徹底した性格揃等(何物にも
屈せず'た2二途に恋紅走る激楠的性格輔等)とも見え'且現#・の舞台から考へても'初演当時相当の流刑的成功をしたと思はれる。これは初沢後も何回も繰返し
て
'主として下の餐(合邦内の段)のみが帯封されてゐることでも明かであち.か‑した成功の原田の主要瓦ものの1つが'玉手御前の轟現であったことはいふまでもなSであら‑。然し'この成功は人形芝居に於てこそ.・#目すべき任どの程度であったとし
でも'先金な意味での舞台上に放ける佃性表現ではなかった
啓である。既に述べたや‑に'如何なる性格捕等的脚本も'
それを上演する際'俳優の生きた衆情'拭汝を伴はなくては到底先金に再現し得るも打ではない。如何に人形が等適して
ゐたとしても'それが人形である限り'人形に依る性格表現は結局'高庇に素案化された性格のイミテーションに過ぎな
い。然も玉手御前が枕を負ってから本心を語る場合の性格怯当時の類型的貞女の範囲を出るものではな‑、それ以前の彼00000女の性格は仮鼓的性格であったわけでt.佃性表現としては非常に弱‑な‑'性格描写よ‑も表面の変化に中心が置かれてゐて'さきに挙げた山鹿之助、瀕末兵衛'政岡等の場合に於ける仮装的表現と査・J同一であiQ。然も.Iそれらの中で最も代表的のものであごQ.これ経ど烈しS表現も「仮装」であるとすれば'その情熱的性格には幾らかの不自然さを伴って表 七八
現されてもよいわけであり'これなら人形の「個性のィ,,)チー・bヨン的表現」でもよ二を乙に人間とは異なる「人形」000にょる性格表現の逃相場があつたと考へられなSであらう.
か。かうした考が許され渇とすれば、人形芝居に於ては'そ
の芝居蘭成上から'純粋孜個性の描写'演刑を行ふよりも、むしろ表面的技巧や趣向の面白さに依る舞台数巣をねらった
方が合理的で'成功率も高く.挿瑠璃作者連も白銀にこの鰐劇形態的特質を概会してゐ兜と考へるべきであらう。
勿論か‑した玉手御前の表現にこは'当時'揮瑠鞘作者が個
性の表現な
ど
は問題にせず'ただ物めづらしS趣向的変化のみを迫ったとSふ理由も考へられるがiとにか‑3応披議事御前群度の烈しい特典な性格表現に迄進んでをり改がら、■それが単なる仮装に終って'寅の性格表現までのあと]歩の進展としてむらなS等英には'人形と3,ふ芝居構成形式上の梶
本的傭件が関係してゐるものと考へられる。そして既に最初
見たや‑に'歌舞伎には或る程度の性格表現が行はれてゐるにも拘らず'樺瑠璃では同じ作者の場合にも'それが行はれなかつたとSふことを考へる時'一屠このことが償金されると思ふのである。即ち'揮瑠璃に桐性表現が行ほれてゐなS原因としては'人形の本質並びに太夫とSふ人形芝居構成そのものが'第7に考へられなければ漁らないと恩ふ。従って'歌舞使脚本とは異な‑'挿瑠璃では桐性表現敏行牲‑にも行仏得なかったわけで'・こ1に人形芝騎脚本としての揮珊璃の1つの隈鼎を見たSと思ふ。