• 検索結果がありません。

佛教大学総合研究所紀要 2006(別冊)号(20061225) 109髙山秀嗣「真宗聖教書写史における存覚の位置 (浄土教典籍の研究)」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "佛教大学総合研究所紀要 2006(別冊)号(20061225) 109髙山秀嗣「真宗聖教書写史における存覚の位置 (浄土教典籍の研究)」"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

高 山 秀 嗣

は じ め に 存覚(1290∼1373)という中世を生きた浄土教者はある意味でまことに稀有な人物 であると同時に,優れたバランス感覚をもちあわせた仏教学者でもあり,なおかつ真 宗史においてさまざまな意味で欠かすことのできない存在であったと考えられる。し かしながら,真宗史上における存覚が有した意義については, これまでほとんどク ローズアップされてこなかったといっても過言ではないように思われる。 演田隆氏は,「存覚こそはむしろ真宗史上に於て,教団史の面でも信仰史の面で も,親驚から蓮如への橋渡しを行った蔭の功労者であり,真宗発展の上に不可欠の人 物であった」(漬田[1960] 75頁)と存覚の位置付けを行っている。このように評さ れている存覚は,真宗聖教書写史上においても確かに大きな役割を果たしている。 真宗史における聖教書写の歴史,すなわち真宗聖教書写史の推移を顧みた場合,法 然 、 (1133∼1212)から親驚(1173∼1262)への『選択本願念仏集』(以下,『選択集』) の付属がやはりその淵源にあったと見てよいであろう(参考 高山[2003] 149∼150 頁)。 また親驚自身にも,さまざまな聖教を書写して門弟らに下付するという明確な意識 があり,その活動によって真宗の教えが地域を超えて広く浸透していったのである。 親驚におけるその意識は「消息伝道」に顕著に示されているが,他の著述も聖教書写 を意識して書かれたものが多く,そのやり方は真宗史的には覚如 (1270∼1351)や存 覚にも受け継がれていったのである1。) また蓮如 (1415∼1499)の時期に大きく発展した教団の伝道スタイルは,基本的に は親驚や覚如らが行ったような前代までのものを適確に継承しつつ,時代に即応した あり方をそこに付加していったものであると見ることが可能であろう2。) 本論は,総合研究所研究プロジェクトによる研究成果の一環として,真宗における 聖教書写史上で存覚がどのような位置にあり,なおかついかなる役割を果たしそれ

(2)

110 イ弗教大学総合研究所紀要別冊 浄土教典籍の研究 が 後 世 へ と 繋 が っ て い っ た の か と い う こ と に つ い て , 聖 教 書 写 及 び 転 写 な ど の 事 例 を 紹介しつつあらためて検討を加えていくものである。

存覚と彼の著作について

存 覚 は 覚 如 の 長 子 と し て 誕 生 し , 父 覚 如 の 本 願 寺 を 中 心 と し て い こ う と す る 施 策 を 視 野 に 入 れ つ つ も , さ ら に 広 い 通 仏 教 的 立 場 か ら 多 数 の 著 述 を 次 々 と 著 し , 真 宗 教 学 の 基 礎 作 り に 貢 献 し て い っ た 。 こ こ で 一 つ 注 目 す べ き 点 と し て は , 存 覚 の 著 作 類 い わ ゆ る 教 義 関 係 書 が 門 弟 や 周 囲 の 人 物 か ら の 依 頼 に よ っ て 著 さ れ た も の が 多 い こ と で あ る。それは『存覚一期記』(以下,「一期記』[『集成l』864∼880頁])や『浄典目録』 (『集成1』1034∼1035頁 ) を 見 る こ と に よ っ て も 知 ら れ る が , 初 め に 存 覚 が 取 っ た 立場を示し本論の導入に代えておきたい。 ま ず 存 覚 自 身 の 思 想 的 な 立 場 で あ る が , 存 覚 は 覚 如 に 比 べ 広 く 通 仏 教 的 な 立 場 か ら ・『真聖全』…『真宗聖教全書』 ・『集成』…『真宗史料集成』 1) こうしたあり方は覚如の頃にも既に活発であり 『口伝紗6]j(『真聖全3』9頁)「本尊・ 聖教をとりかへすこと はなはだしかるべからざることなり」との記事や『慕帰絵詞』に 『親驚伝絵』が「門流の輩,遠邦も近郭も崇て賞翫し,若齢も老者も書せて安置す」(『真聖 全 3』786頁)と述べられているように 聖教を書写することやそれを安置し礼拝の対象と するという活動が真宗門弟らの間で広範に広がっていたことが知られるのである。 また『最須敬重絵詞 7j](『真聖全 3』861頁)にも,「本願寺聖人の化導の始終を記せられ たる一巻の式文あり,『報思講式』となづく。本所の例事として毎月の御忌に勤行せられ, 当流の聖典に加て諸国の道場にこれを安置す。又同聖人一期の行儀を録せられたる二巻の縁 起あり,旨趣を言葉にしるし形状を後素にあらはす。これまた門下に賞翫して処々に流布せ り」との記事が見られている。 さらに平松令三氏も,「本願寺がそういう末寺を統制し,管理していく重要な手段の一つ が聖教の伝授であったろうと思う・・・大事な聖教というのは,本寺の許しがなければ他に写し て与えることはできないと考えられていた…聖教の伝授,書写させるというのは, これは本 寺が末寺を管理する一つの手段として使われていた」と,存覚当時の聖教書写を位置付けて いく(平松[1997] 134∼136頁)。 2) 参 考 武 邑 [1996]・平松[1997]・岡村[2004]。 蓮如以降の歴代門主においても,「末寺への絵像下付授与は門主の権限であり,門主が署 名して裏書を記すことは,本願寺の末寺・門徒の免許公認を行ったものと理解してよい。ま た,末寺・門徒にとって本願寺門主の裏書のある絵像類を所持し荘厳することは,門主との かかわりを示す保証であり地位確認の証拠・依拠するものであった。いいかえれば,授与さ れた裏書の『願主』は教団構成員の一員として認められた本末関係をもつものとして意味す るものであった」(上場[2005] 158頁)と位置付けられているように,法然と親驚の間での 『選択集』付属に類するようなあり方が 本願寺教団の組織としても行われていくのであ り,特に存覚の聖教書写はそのことが組織的になされていったごく初期の一例であったと見 ることができるのである。 また聖教書写と密接に関わる活動で,『存覚袖日記』(以下,『袖日記』)に見られるような 本尊や影像の裏書をどのように位置付けるかという興味深い問題も残されているが,この検 討は本論では行っていない。なお『袖日記』の内容については,積田[1960]を参照のこ と。

(3)

真宗思想を捉え返すことを試みていった。そのことは,存覚が『六要紗』において 「真宗とは浄土宗である」(『真聖全2』213頁。参考 同292頁)と述べている表現 にも直接的に繋がっているといえよう。 そのことについて,神子上恵龍氏は「覚如上人は対内的,即ち非協調的であるに対 して,存覚上人は,対外的即ち協調的であ」り,「存覚上人は寛容な所があって, よ い考へ方や,よい思想があったら,取り容れるだけとり容れて真宗教義を荘厳して行 きたいと云ふ態度であったから…研究態度の相違と云ふことが(覚如の存覚−引用者 註)義絶の原因になった」と,存覚の姿勢について述べている3。) このような存覚の仏教観の背景としては,存覚自身の修学過程がどのようなもので あったのかを探っていくことによってある程度まで明らかになってくるであろう4。) 存覚は13歳の時,「乾元元 (1302)年10月日,和州中河成身院貞範住持寺,東北 院円月上人慶海と同宿す」と当初,密教系にて修学を開始する。続いて翌年 14歳の 時,出家し東大寺で受戒し,引き続き経恵や玄智に師事し 15歳の折に比叡山で受戒 した。 18歳の時に祖父覚恵(?∼1307)の死去に伴って十楽院を離れ,秋からは覚 如も教えを受けた彰空から浄土門の教えを学んでいく。 19歳の年から21歳まで証聞 院に所属し, 21歳の 10月頃に大谷へ同宿するようにとの覚如からの指示に応じて, 聖道門の修学を終えていったのである。 存覚のこのあり方は,当時教団としての独立を果たしていなかった本願寺としては 至極当然の勉学過程であったといえる。存覚は著作からも窺われるように真宗に止ま らない普遍的な仏教者としての自覚も見られ,それが先述したような覚如との立場の 3) 神 子 上 口987]214∼215頁。 これについては小山法城氏が,覚如は「専ら対内的に伝承護持するに努力せられた…全く ー宗守成の位置に立たれたる故,宗義の正当を伝ふるに務められた」,存覚は「他に向ひ て,ー宗を振起するに力められた…対他的方面に於て,常に与奪の二門を以てし,巧に誘導 の任を全ふせられたる」とし両者の立場の違いについて述べている(小山[1918]284∼ 285頁)。また浅野教信氏も,存覚は「本願寺草創における寺基の確立と対外的・対内的教学 面における基盤の確立に活躍したことは,その著作の上に窺うことができるJと存覚と彼の 著述の関係についてまとめている(浅野口987]500頁)。 このように存覚の行った伝道活動は 必ずしも多くの民衆を直接的に対象としたものでは なかった。むしろ他宗を意識した上で,真宗の立場を仏教全般の中に位置付けようとする立 場に立っていたといえよう。 そのことは『持名紗』(『真聖全3』91頁)においても 「仏道においてさまざまの門あり。 いはゆる顕教・密教,大乗・小乗,権教・実教,経家・論家,その部八宗・九宗にわかれ, その義千差万別なり。いづれも釈迦ー仏の説なれば利益みな甚深なり。説のごとく行ぜば ともに生死を出づべし,教のごとく修せばことごとく菩提を得ベし」と述べられているよう に全ての仏教が覚りに通じるものであるという見方を存覚は示している。 4) 存覚の修学過程について見ていくためには『一期記Jが基本史料となるが,この点につい ては重松明久氏(重松[1987])や千葉乗隆氏(千葉 [1982])・坂爪逸子氏(坂爪[1996]) による整理がある。

(4)

112 イ弗教大学総合研究所紀要別冊 浄土教典籍の研究 違いにも繋がっていったように思われる。 後に覚如によって存覚は義絶されていくことになるが,この義絶には両者の思想的 立場の違いが大きく関わっていると考えられ,覚如が抱いていた留守職のイメージが 「親驚の正統教義の伝持者としての資質を有するもの」(千葉[1982] 354頁)であ り,存覚の姿勢がその思いにそぐわなかったためであろう。覚如と存覚の間で起こっ てきた義絶の問題についてここでこれ以上詳述する余裕はないが, このこともまた覚 如と存覚の聞の姿勢の違いに由来するものであろう(参考 重松[1987])。 さてここで,存覚が一連の著述を著していった状況についても目を向けていきた い。存覚の撰述による『浄典目録』には,存覚の手になる彼自身の著作一覧が付され ている。ここからは,存覚の一連の著作のほとんどが他者からの依頼に応じて著され たものであることが見て取れる。この『浄典目録」には親驚や覚如の著作などを含め て,存覚の著述が19記録されている。そして各著述にはそれぞれの願主,すなわち その書物が誰からの依頼によったものであるかが記されている。これを見ると存覚の 著作はそのほとんどが他者からの依頼に応じてのものであることがわかる。このこと は,存覚の著述に見られる大きな特徴の一つで、ある。なお下記文献の右の人物名は, この著述を著すことを要請した願主の名であり,ここでは『浄典目録』記載のものを 参考のため基本的にはそのまま記しておいた(参考「解題」[『集成1』])。 ・「持名紗』:了源 −『浄土真要紗』:了源 .『弁述名体紗』:了源 −『破邪顕正申状(破邪顕正紗)』:了源 .『諸神本懐集』:了源 −『女人往生聞書』:了源 ・『顕名紗』:明光 −『歩船紗』:慶元(慶空?) ・『決智紗』:慶元(慶空?) .『報恩記」:願空 .『選択註解紗』:慶願 ・「緩解記』:出雲(乗智?) .『謝徳講式

J

:空遅 −『嘆徳文』:善如(俊玄)

(5)

−『信貴鎮守講式』:叡空 .『浄典目録』 ・『法華問答』:慶元(願空?) −『法語(存覚法語)』:契縁禅尼 .『六要紗』 実際にはこの『浄典目録』ではいくつかの遺漏も見られるが,ともかくも願主名が ほとんどの著述に対して付されており,この一覧から見ても存覚の著作が対外的な要 請に基づいて著されていったことが理解できる。 この一覧で目に付くのは,やはり冒頭の6書の執筆を要請した了源 (1284/1295∼ 1335/1336)という人物であると思われる。存覚とこの仏光寺の了源との親交は特に 深く,了源からの度重なる依頼が存覚の著作の大きな背景となっていたことが知られ る。 これはそもそも了源が教えを請うために京都にやってきた折に,覚如が存覚へ了源 の指導を命じたことに始まる関係である。この当時,了源は当初覚如のもとに真宗教 義の教授を願って来訪したが,覚如はその依頼に対して存覚に命じて指導を行わせる ことにした。そのため了源は存覚に直接師事することとなり,その後の了源の活動の 教義的根拠は存覚によって形成されていくわけである。そのことは,『一期記』「31 歳の項」に「其の後連々(了源が−引用者註)入り来たり,所望によって,数十帖の 聖教或いは新たに草し,或いは書写する」という記述があり,実際に存覚が了源のた めに多くの聖教を著していたことが知られる。またここには,了源の希望によって多 くの著述を著したという記事とともに,本願寺に伝わる旧来の聖教をしばしば書写し て彼に与えたということも述べられている。 そのあたりの事情は「一味和合契約状」(『集成4

J

572∼573頁)によると,「かね ては坂東よりも相承せす,関東よりもたまはらすして,了源が発起として,あらたに 所持する聖教少々これあり,いわゆる浄土真要銑諸神本懐集,持名紗,破邪顕正の 申状等なり,これらの書籍にいたりでは,ある当流の智者にあつらへて,まふして, 自身用心のために選集安置するところによりて,一味同心のしるしのために, この連 判契約にくみせられんひとひとにおきでは,これらの聖教等,所望にしたかひて,ゆ るしたてまつるへきむね契約しをはりぬ, しかれはもしこの契約をそむかれは,いま 了源かゆるされるをもて書写せらるところの浄土真要紗以下の4部においては,こと ことくかへしわたさるへし,了源にあひつるるところの同朋等においては,違背のこ

(6)

114 イ弗教大学総合研究所紀要別冊 浄土教典籍の研究 とあらんとき, くたんの聖教等にかきらす,ひころ相承流布の聖教等にいたるまで, かへしとりたてまつるへき条,勿論のうへは,子細にをよはす」という表現が見ら れ,存覚の著した一連の書物が,了源の流派において師弟関係の認可のために用いら れていたことが窺えるのである。これは了源が, これらの書物をそのように使用して いたという事実とともに,初期真宗教団の中で聖教自体がこうした役割を担うもので あったことも明らかに物語っているのである(参考 高山[2003])。 また了源との出会いは存覚自身の生涯においても大きな影響を与えており,それ以 降の『一期記』の記述中にも了源はたびたび登場し,了源は覚如との関係の悪化に 伴って経済的に困窮した存覚の援助を行っていく。 1327 (嘉暦 2)年には,了源が存 覚のために住坊を建てるなどしている。このように存覚は,大谷退去後はかなり長い 期間にわたって了源の庇護のもとに生活していたと見ることができょう。かえって言 えば,了源との関係が継続したことによって存覚の聖教執筆も急激に促進されてい き,存覚による聖教書写の基盤がなされその後の展開があったことが指摘できるので ある。 ここで本論に関連する存覚の著述と執筆時の年齢を一覧にして示せば,下記の通り である。この一覧によって,存覚の著作執筆がおおよそ3つの時期に分かれているこ とが窺える。 第1期 ・『浄土真要紗』(35歳) ・『諸神本懐集j(35歳) ・『持名紗』(35歳) −『破邪顕正紗』(35歳) −『女人往生聞書』(35歳) 第2期 ・「顕名紗』(48歳) ・『決智紗』(49歳) ・『歩船紗』(49歳) ・『至道紗』(49歳) ・『選択註解紗』(49歳) ・『報恩記』(49歳)

(7)

−『法華問答』(49歳) この間(49歳∼67歳頃) 祖師先徳著述の書写多数 第3期 ・『浄土見聞集』(67歳) ・『嘆徳文』(70歳) −『六要紗』(71歳) ・その他(執筆時期不明書など) 法会の作法次第を定めた講式−『信貴鎮守講式』(叡空)・『最勝講式』(玄智)・ 『源海講式」(空運) 先ほどの繰り返しになるがこれらの著述を通して存覚の特徴として指摘できるの が,存覚の著作のほとんどが他者からの求めに応じて著されているという点である。 著述を他人からの要請によって著していくというのは,もちろん覚如らにおいても先 行形態は見られるところであるが,存覚の場合ほとんどが相手のその時々の必要に応 じて行われているというところに,一つの特色が見られるのである。著述を求めた相 手は,存覚の兼学の姿勢や学僧としてのあり様を既に高く評価していたであろうし 存覚の著した著作は彼らにおいである種の教学的権威として仰がれ,その書かれた内 容からしても対外的な説得力を十分にもつものであったと思われる。 また存覚の著した著述のほとんどが仮名書きのものであったことも,内容的にも理 解がしやすいものであったことを物語っているであろう。書かれた時における即時的 効果をあげ得たという意味で存覚の著述は特徴的であり,存覚自身の著述活動が教え の伝播と不可分なものであったことを示している。 さらにここで「現存聖教目録」(『集成1」)に基づいて,存覚の著述がどのような かたちで書写されていったのかという点を考えるために,それぞれの著述についての 書写の本数について概観しておきたい。順序は,書写が多いものから順番に記した。 −『浄土真要紗』: 24本 .『破邪顕正紗』: 20本 .『諸神本懐集』: 20本 ・『持名紗』: 17本

(8)

116 {弗教大学総合研究所紀要別冊 浄土教典籍の研究 本 A 生 、 六 ﹂ る ト l 仇 n 川 d ワ t 室 田 叢 本 益 口 学 大 時 本 向 日 本 本 本 本 パ : 日 本 本 本 5 3 1 ヰ 一 ﹄ : 日 本 7 本 本

5

: 本 本 本 3 ニ 三 巨 ﹄ ・ ・ 9 ・ ・ 7 5 ・ ・ ﹄ 5 4 3 J J l 聞 集 ﹄ ﹄ ﹄ 製 4 記 記 ﹄ 生 聞 語 ﹄ 答 ﹄ ﹂ 録 体 ﹄ ﹄ ﹄ 期 日 紗 往 見 法 紗 問 紗 文 目 名 紗 記 記 一 袖 名 人 土 覚 船 華 要 徳 典 述 智 解 恩 覚 覚 顕 女 浄 存 歩 法 六 嘆 浄 弁 決 緯 報 存 存 P H U P H U P H U P H U P H U P U U P H U P H U P H U P H U P 川 u p リ u p H U P H U P H U また『真宗聖教全書』掲載のもので,正確な書写本数などは不明であるが以下のよ うな存覚の著述も残されている。 −『選択註解抄』 ・『至道紗』 その他,前掲『浄典目録

J

所収のもの −『謝徳講式』 ・『信貴鎮守講式』 上の一覧を見ると,『浄土真要紗』・『破邪顕正紗』・『諸神本懐集』などの著作の転 写が特に多く行われている事実が窺える。これらはその内容からも窺われるように存 覚の思想を典型的に現した書物で、あるといえ,存覚が了源からの要請に基づいて著し た書物類でもある5。) こうした特に了源との関わりの中で進展していった聖教書写は,それ以降もさまざ

(9)

まな機会を通して行われていくのである。次項では存覚の生涯に起こったいくつかの 事柄を取り上げ,それらと存覚の聖教書写や執筆活動及び真宗教義の伝播という問題 についてあらためて考えてみたい。

存覚の著作と真宗教義の伝播

存覚の著作が,他からの求めに応じるかたちで、次々と著されていた事実を鑑み,ま たいくつかの著述は多く書写・転写されていることから,特にそれらに焦点を当てな がら存覚の著作と当時の真宗教義の伝播の状況について見ていきたい。 まず真宗教義の伝播ということについてであるが,『一期記』「22歳の項」を見る と, この年5月に存覚が越前に住む大町如道に『教行信証』の伝授を行ったという記 事が掲載されている。この伝授は覚如の越前下向に存覚が同行した折に行われたもの であるが,存覚が既にこの年令で『教行信証』の伝授を行えるまでの教学的水準に達 していたこと,また「教行信証』の伝授が留守職に就任した覚如の許可によって行わ れ,存覚が名代としてなされていることから「教行信証』の伝授は真宗の正統な継承 者によってなされる行為であり,門弟たちにとっては大変意義深いものであったと想 像される6。) 存覚の第1期の著作であり,多くの写本も残されている「諸神本懐集』と『破邪顕 正紗』は当時の真宗に対する外からの非難に対する反駁の書であり,了源の依頼に よって著されたもので,書写され受容されていく中で真宗教義を全国各地に広く浸透 させるのに役立つていった書物で、ある。 また存覚が第 2期に執筆したものの中では,法華宗との対論の中で著されていった 著述が多く見られ,存覚の力点が真宗の立場の対外的宣揚にあったことが知られる。 5) この他,浄土教典籍目録データの進捗状況としては刊本等についても調査を進めているの で(参考 安達[2006]),それらの流布状況も参照すべきではあるが,ここでは写本に限定 して論じていった。なお刊本に関しては 佐々木[1973]・禿氏[1976]を参照のこと。 6) このことは明石光麿氏が 門弟に対する『教行信証Jの講義が覚如の頃から行われ,「教 行信証が宗典として,早くから,門弟,孫弟の間で読請されて」おり,「覚如は講談を行う ことによって宗主としての立場を強調した」ことを指摘している(明石[1966] 459∼460 頁・ 462頁)。また明石氏は,「六要紗の成立によって,本願寺教団は,浄土宗教団と対等 に,初めて宗祖の伝記と宗典註釈書を兼ねそなえることができた」と『六要紗』の真宗史的 意義を明らかにしていく(明石[1966] 470頁)。 また平松令三氏も,「記録に出てくるこういう伝授の一番初めは,覚如上人が越前へ下っ て如道という人に『教行証』の伝授を行ったということなんですが,その時は今の『鏡の御 影』をもっていって その前でやったということが分かるんですが,聖教伝授にはそういう 様な一種の儀式作法というものをちゃんと伴っていたらしい」と当時の聖教伝授の様子につ いて述べている(平松[1997] 139頁)。

(10)

118 イ弗教大学総合研究所紀要別冊 浄土教典籍の研究 1338 (暦応 1)年の備後における法華宗との語論は,次々と著作を著していく契機と なり,また周囲の門弟らも存覚に対してそうした内容の書物を要請していったので あった。 この対論に関する『一期記』「49歳の項」(『集成 1j 873頁)を見ると,「備後国府 において守護の前にて,法花宗と対決し了わんぬ−一法花衆屈し,イ乃て当方弥繁盛す」 とあり,『鑑古録』「49歳の項」(『真宗全書 68』373頁)には「備後国にして…日蓮 派の僧輩と法問あり−一彼僧輩と対論。逐ーにこれを砕きてー・これによりて真宗いよい よ繁昌し。当流ますます弘興して…同年 7月帰京あて…先師上人(覚如−引用者註) へ御和睦の事を申上られけれは。今度備之後州にをひて。日蓮之党閉口退席の事きこ しめし。これによりて当流ますます盛隆の義。存師の功他に異なりとて。御和睦子細 に不及との仰せにつき」との記述がある。 こうした『一期記』や『鑑古録』の記事からは,法論の実際的意味が信徒の争奪に あったことを窺わしめるものがあろう。そうした本願寺の教線があまり伸張していな かった中園地方(特に備後)において真宗教義が広まっていったことは,覚如にとっ ても大きな喜びであったと思われる。存覚はそれまでの明光らとの交際上,悟ーとい う変名までして法華宗との対論に臨んだのであったが,結果としてそれは真宗教義を 決してそれまで浸透していたとはいえない地域にまで広げていくこととなった。その 報を聞いた覚如は,それまでの義絶を一旦解除することにし,存覚もそれをありがた く受け入れていったのである。 この第l期と第2期を見ると,存覚は対他宗を意識したと見られる著述を多く著し ている。これは,当時の真宗教団が置かれていた社会的位置を物語るものであるとも 思われるが,同時にどのような批判が山伏や法華宗などの外部から真宗に対して寄せ られていたかを窺わせるものである。 また,存覚が第3期のほぼ最後の時期に書いた『六要紗』が『教行信証』の流伝に おいて有した意義については中井玄道氏の論文に詳しいが,中井氏はさらにこの論文 で,「教行信証』延書本についてもふれている(中井[1922] 90頁)。中井氏は,『教 行信証』延書本は存覚を嘱矢とすると類推しているが,『教行信証』が漢文で難解な 書物であって,それまで『教行信証大意』しか注釈書が存在していなかった事実から しても,『六要紗』という解説書とともに「延書」を作成したと仮定するならば,そ れこそが親驚の教えを広く伝えていこうとする存覚の姿勢の現れであると見ることも できょう。 存覚自身の手による『六要紗』の奥書(『真聖全2j 441頁)を見ても,「被覧猶お

(11)

制を加う,況や書写においてをや。然るに,志仮令にあらず望んで態敷を表さば早く 師資の契約を成し,宜しく相伝の譜系を募るべし。その礼を諾せざるにおいては,そ の実なしと知るべきなり」(参考 平松[1997] 135頁)とある。ここでは閲覧以上 に書写には厳しい制限を加えつつも師資相承というかたちで、契約を結ぶので、あれば, 『六要紗』の書写を許諾するということが明確に述べられ, この当時の聖教書写の状 況を窺うことも可能なのである。 この『六要紗

J

は必ずしも願主名は明確ではないが,いずれにしてもこのような親 驚の『教行信証』の注釈書が必要とされてくる背景が当時の教団の中にあったのであ る。実際に先述したように大部の『六要紗』にでさえ7本の写本が残されているとい う事実からしても,当時の真宗教義が存覚の著作あるいは聖教書写活動を通して広く 伝播していた状況を探ることができるのである。

まとめにかえて

こうして真宗聖教書写史を概観した上で,存覚の聖教書写やその特徴について考察 を行ってきて思うことは,存覚が本願寺内で、置かれていた複雑かっ微妙な立場につい てである。覚如との関係が必ずしも良好とは言えなかった理由として一つ考えられる のは,やはり存覚の思想的立場であろう。存覚は,通仏教的立場の中で真宗教義の位 置付けを目指していったのである。その立場に立った教義伝授が,同時に存覚の聖教 書写や伝道の特徴ともなっていき,さまざまな立場の人を真宗の教えにおいて包括し ていくことに繋がっていったのである。結果として見れば,覚如は対浄土異流などを 強く意識し存覚は対他宗を主な対象として,真宗の位置付けを図ろうとしていった のであった。 また先述したように,存覚の著した著述はそのほとんどが他律的なものであり,周 囲からの求めに応じて書かれたものである。その内容を見ていくことによって,当時 の真宗に対していかなる批判が寄せられていたか,またそれをどのように援用しつ つ,真宗の立場からそれらの論難に対して存覚が回答を行っていこうとしていったか が明らかに示されているのである。存覚の生きた時代状況と当時の現場における喫緊 の課題が,彼の著書によってある程度まで解消されていったと考えてよいであろう。 存覚の姿勢は,端的にいうならば対他宗意識が前面に押し出されたものであったと 見ることができる。そして南北朝という時代状況を背景として,この時期が覚如主導 による本願寺教団の本格的な萌芽期であったことも含めて,存覚は著作を通じて柔軟

(12)

120 イ弗教大学総合研究所紀要別冊 浄土教典籍の研究 な説き方をすることによって,広い範囲の人たちに対しても聞かれたかたちで真宗へ 導いていったのである。 つまり存覚は,真宗教義の通仏教的な位置付けを目的としていたといえる。また法 華宗への対応などに窺われるように,存覚の姿勢は非常に柔軟性のあるものであった のである。そうした姿勢は他宗との関わりにおいて成立したものであり,他宗や周囲 からの真宗への批判に対応するためになされていったのである。さらに存覚は多数の 聖教を執筆し,その大部分が仮名聖教であった。それらの著述のほとんどが他律的に なされていることや,その著作が次々書写されていったことからも,存覚の聖教書写 が真宗教義の伝播において大きな意味をもったものであったことも事実である。 以上のように,真宗聖教書写史上において存覚が果たした役割は多大なものがあっ たといえる。それは親驚や覚如らの前代までのあり方を継承しつつ,時宜に応じたア レンジを加え,直接の門弟などの周囲のさまざまな人物からの依頼に応じるかたちで なされていったものである。また『教行信証』の伝授や『六要紗』の執筆に見られる ように,教義の伝承という観点からも存覚の意義は大きく,それが聖教書写というあ り方とリンクしつつ行われ,その後の真宗教学の基盤となっていったのである7。) 存覚の有した真宗史的意義を明らかにすることによって,覚如と蓮如の聞にやや埋 没していた観もある存覚が再認識されることを願い,そのことを聖教書写の観点から 取り上げ,存覚の思想、が真宗教義としていかなるかたちで浸透していったのかという ことについて考察してきた。ただし残念ながら本論では,存覚の『浄典目録』などに 記載された文献を中心的に取り上げたため,伝存覚とされる書物などをはじめとする 真偽未詳分についての検討は本論では行うことができなかった。 親驚以降展開した真宗(教団)史上に存覚を適確に位置付け,彼以降の真宗諸派に おける聖教書写の歴史を文献学などの成果を踏まえつつ辿っていくことは,真宗教団 による伝道の歴史的変遷を豊かに描き出すことに繋がってくる問題であると思われ る。これらのことを含めて,今後の課題としていきたい。 7) 蓮如がそのような面からも存覚を深く尊敬していたことは,『蓮如上人御一代記聞書・ 158』にある次のような記事によっても知られる。「前々住上人(蓮如−引用者註)南般にて 存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候をいかがとて,兼縁,前々住上人へ御目にかけられ候 へば,仰せられ候ふ。名人のせられ候物をばそのま hにて置ことなり これが名誉なりと仰 られ候ふ也」(『真聖全3』570頁)。参考潰田[1960]75頁。 また山田雅教氏は,「存覚の著作は,効果的な説話の引用と印象的な文章表現で,人を惹 きつけるものと言うことができる」とし,「存覚は各種の文献を渉猟し, しかもそれを丸写 しにするのではなく, 自分の言葉で表現している。その文章は説得力に富み,以って民衆に アピールするところ大であったものと思われる…蓮如が存覚を高く評価しているのは…文章 表現の巧みさと,様々な方面の造詣の深さによるのではないか」と蓮如が存覚を尊敬する背 景について類推している(山田[2001]73頁・ 83頁)。

(13)

く参考文献一覧〉 ・宇野円空・編『存覚上人』(国書刊行会, 1987年[再刊]) ・坂爪逸子『存覚』(青弓社, 1996年) ・佐々木求巳『真宗典籍刊行史稿』(伝久寺, 1973年) ・重松明久『覚如』(吉川弘文館, 1987年[新装版]) ・谷下一夢『存覚一期記の研究並解説』(永田文昌堂, 1969年[改訂版]) ・千葉乗隆,他『存覚上人一期記・存覚上人袖日記(龍谷大学善本叢書3)』(龍谷大学, 1982年) ・名畑 崇『破邪顕正紗序説』(真宗大谷派宗務所出版部, 1997年) ・普賢晃寿『中世真宗教学の展開』(永田文昌堂, 1994年) ・普賢晃寿,他『破邪顕正紗・顕名事!?(龍谷大学善本叢書7)』(龍谷大学, 1987年) ・明石光麿「初期本願寺教団における宗典成立について一六要妙の史的意義 」(『小笠原・ 宮崎両博士華甲記念史学論集』龍谷大学史学会, 1966年) ・浅野教信「破邪顕正抄 概説」(『龍谷大学善本叢書7』龍谷大学, 1987年) ・安達俊英「悌教大学総合研究所共同研究『浄土教典籍目録の研究』」(『日本歴史』 692号, 2006年) ・上場顕雄「本願寺東西分派史論一黒幕の存在一」(『真宗教団の構造と地域社会』清文堂出版, 2005年) ・岡村喜史「『御文Jによる伝道」(『民衆の導師 蓮如(日本の名僧13)』古川弘文館, 2004年) ・川添泰信「破邪顕正抄の書誌について」(『龍谷大学善本叢書7』龍谷大学, 1987年) ・小山法城「破邪顕正紗」(『六条学報』 200号, 1918年) ・高山秀嗣「聖教書写から見た親驚の伝道」(『イ弗教大学総合研究所紀要』 10号, 2003年) ・武邑尚邦「蓮如上人に学ぶ 伝道と教学一」(『龍谷教学』 31号, 1996年) ・玉置轄晃「諸神本懐集」(『六条学報』 200号, 1918年) ・千葉乗隆「解説」(『龍谷大学善本叢書3』龍谷大学, 1982年) ・禿氏祐祥「真宗聖教刊行年表」(『真宗全書』 74巻, 1976年) ・中井玄道「『教行信証』流伝史上に於ける存覚上人の位置」(『仏教大学論叢』 242号, 1922年) ・平松令三「蓮如上人の書写聖教と本願寺伝統聖教」(『龍谷教学』 32号, 1997年) ・漬田 隆「滝上寺『真宗八高僧像』と『存覚袖日記』」(『奈良国立文化財研究所学報』 8冊, 1960年) ・神子上恵龍「浄土真要紗」(『存覚上人

J

国書刊行会, 1987年) ・山田雅教「唱導僧としての存覚」(『東洋の思想と宗教』 18号, 2001年)

参照

関連したドキュメント

 英語の関学の伝統を継承するのが「子どもと英 語」です。初等教育における英語教育に対応でき

司会 森本 郁代(関西学院大学法学部教授/手話言語研究センター副長). 第二部「手話言語に楽しく触れ合ってみましょう」

信号を時々無視するとしている。宗教別では,仏教徒がたいてい信号を守 ると答える傾向にあった

レーネンは続ける。オランダにおける沢山の反対論はその宗教的確信に

 履修できる科目は、所属学部で開講する、教育職員免許状取得のために必要な『教科及び

山本 雅代(関西学院大学国際学部教授/手話言語研究センター長)

 履修できる科目は、所属学部で開講する、教育職員免許状取得のために必要な『教科及び

山階鳥類研究所 研究員 山崎 剛史 立教大学 教授 上田 恵介 東京大学総合研究博物館 助教 松原 始 動物研究部脊椎動物研究グループ 研究主幹 篠原