三九 駒澤大学仏敎学部研究紀要第七十六号 平成三十年三月 1.はじめに 中 国 撰 述 の 偽 経 と さ れ る ﹃ 楞 厳 経 ﹄︵ 全 経 名 は ﹃ 大 仏 頂 如 来 密 因 修 証 了 義 諸 菩 薩 万 行 首 楞 厳 経 ﹄。 略 し て ﹃ 首 楞 厳 経 ﹄ や ﹃ 大仏頂経 ﹄、 ﹃ 仏頂経 ﹄ とも称される ︶ は 、 宗密や延寿による受容を経て 、 宋代になると 、 宗派 、 僧俗を問わず読ま れる経典となった 。 そこで増加したのが本経の注釈書である 。 宋代には 、 華厳宗 、 天台宗及び禅宗の仏者や王安石 、 張 商 英 な ど の 士 大 夫 が 注 釈 書 を 著 わ し た が 、 そ れ ら は 現 存 す る だ け で 二 〇 種 を 超 え る が 、 後 世 の 流 通 の 面 か ら 述 べ れ ば 、 宋代の ﹃ 楞厳経 ﹄ 注釈書の代表的著作と呼べるものは 、 長水子璿 ﹃ 首楞厳義疏注経 ﹄ と温陵戒環 ﹃ 楞厳経要経 ﹄ だと思 われる 。 温 陵 戒 環 ︵ 生 没 年 未 詳 1 ︶ は 北 宋 末 か ら 南 宋 始 め 頃 に 泉 州 開 元 寺 に 住 し た 僧 で あ る 。 そ の 著 書 に は ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ 二 〇 巻 の 他 に 、﹃ 法 華 経 要 解 ﹄ 二 〇 巻 ︵ あ る い は 七 巻 ︶、 ﹃ 華 厳 経 要 解 ﹄ 一 巻 が 伝 わ る 。 戒 環 の 注 釈 書 の 流 通 は 広 範 に わ た 1 戒 環 の 生 没 年 に つ い て は 、﹃ 仏 書 解 説 大 辞 典 ﹄︵ 大 東 出 版 社 、 一 九 九 九 ︹ 縮 印 版 ︺︶ ﹁ 楞 厳 経 要 解 ﹂ 項 目 や 崔 昌 植 ﹁ 戒 環 の 楞 厳 経 要 解 に つ い て ﹂︵ ﹃ 大 久 保 良 順 先 生 傘 寿 記 念 論 文 集 仏 教 文 化 の 展 開 ﹄、 山 喜 房 仏 書 林 、 一 九 九 四 ︶ で は 、 そ の 没 年 を 宣 和 頃 ︵ 一 一 一 九 │ 一 一 二 五 ︶ と し 、﹃ 仏 書 解 説 大 辞 典 ﹄ の ﹃ 法 華 経 要 解 ﹄ 項 下 で は そ の 没 年 を 宣 和 二 ︵ 一 一 二 〇︶ と し て い る 。 一 方 、 水 野 弘 元 ﹁ 戒 環 の 法 華 経 要 解 の 研 究 ﹂︵ 坂 本 幸 男 編 ﹃ 法 華 経 の 中 国 的 展 開 法 華 経 研 究 四 ﹄、 平 楽 寺 書 店 、 一 九 七 二 年 ︶ で は 、﹃ 仏 書 解 説 大 辞 典 ﹄ の 説 の 推 定 の 根 拠 は 不 明 で あ る と し 、 戒 環 の 著 作 の 序 跋 の 記 載 か ら 、 そ の 没 年 を 建 炎 二 年 ︵ 一 一 二 八 ︶ 上 元 日 ︵ 一 月 一 五 日 ︶ か ら 建 炎 三 年 ︵ 一 一 二九 ︶ 八月二 〇 日の間としている 。 生年及び世寿は未詳 。
温陵戒環禅師
﹃
楞厳経要解
﹄
初探
│特に泉州開元寺に着目して│
大
澤
邦
由
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四〇 り 、 以後の中国や朝鮮の仏教に比較的大きな影響を与えた 。﹃ 楞厳経要解 ﹄ について述べれば 、 例えば 、﹃ 楞厳経 ﹄ 研究 の先駆である明末清初の碩学 、 銭謙益は ﹃ 楞厳経 ﹄ の注釈書を主に天台系統 、 華厳系統 、 禅系統に分類しているが 、 そ の 中 で 禅 系 統 の 注 釈 書 を 温 陵 、 す な わ ち 戒 環 2 に 代 表 さ せ て い る 。 こ れ は 、﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ の 流 通 の 広 範 さ 、 他 の 注 釈 書 へ の 影 響 、 及 び そ の 独 創 性 な ど を 鑑 み て の こ と と 思 わ れ る 。﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ は 、 明 代 に 広 範 に 流 通 し た 元 の 惟 則 撰 ﹃ 楞 厳 経 会 解 ﹄ に も 収 録 さ れ 、 明 末 の 殷 邁 は そ の 注 釈 書 と 思 わ れ る ﹃ 温 陵 要 解 輯 補 ﹄ 一 〇 巻 ︵ 散 佚 ︶ を も 撰 述 し て い る 3 。 ま た 、 戒環の本経に対する科判は 、 明代の多くの注釈書に依用されるところとなっている 。 戒 環 に 関 す る 先 行 研 究 と し て は 、 水 野 弘 元 ﹁ 戒 環 の 法 華 経 要 解 の 研 究 ﹂ 4 と 崔 昌 植 ﹁ 戒 環 の 楞 厳 経 教 判 に つ い て ﹂ 5 及 び 黄 国 清 ﹁ 宋 代 戒 環 的 法 華 思 想 ﹂ 6 が あ る 。 水 野 氏 は 戒 環 の 伝 に 関 す る 基 礎 的 な 整 理 と ﹃ 法 華 経 要 解 ﹄ の 科 文 及 び 注 釈 の 特 徴などを論じている 。 崔氏は朝鮮の僧侶の必読書となった ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の内容について 、 その教判について整理して いる 。 黄氏は ﹃ 法華経要解 ﹄ を中心として戒環の思想を論じている 。 し か し 、 彼 の 生 涯 に つ い て は 明 代 ま で の 高 僧 伝 や 禅 宗 の 灯 史 の 類 に は 立 伝 さ れ て お ら ず 、 伝 記 は わ ず か に 、﹃ 開 元 寺 志 ﹄﹁ 開士志 ﹂、 及びそれを踏襲しつつ戒環の著作の内容を増補した ﹃ 新続高僧伝四集 ﹄ 巻三に記載があるのみで 、 後述 するように具体的な記載に乏しい 。 また 、 戒環には育王介諶の門人であったという説も存在するがこれは検証が必要だ と思われる 。 以上のような状況を鑑み 、 本論は戒環の ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の特質を探るため 、 戒環に関する従前の研究を再確認し 、 そ の伝の不足を補うため 、 泉州開元寺との関係に焦点を当てて検討し 、 さらに ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の特徴について若干の検討 を行うものである 。 2.戒環の生涯及びその先行研究 こ れ ま で の 戒 環 に 関 す る 評 価 は 様 々 で あ る 。 水 野 弘 元 氏 や 崔 植 昌 氏 は 禅 宗 に 属 す る 禅 僧 と す る 一 方 、 荒 木 見 悟 氏 は ﹁ 天 4 台 系 の 学 僧 4 4 4 4 4 温 陵 戒 環 は 、﹃ 華 厳 経 ﹄ の 大 要 を の べ る に あ た り ⋮﹂ 7 ︵ 傍 点 は 筆 者 ︶ と 記 し て お り 、 戒 環 を 天 台 系 の 学 僧 で あると断じている 。 また 、 明末の銭謙益は後述するように戒環を 、 李通玄を引く華厳系の僧だと論じており 、 稲荷日宣 氏は戒環を ﹃ 法華経 ﹄ 注釈者の五大家としたうえで 、﹁ 華厳 ・ 禅の立場から法華を解釈し 、﹃ 法華経要解 ﹄ を著述してお
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四一 り 、 そ の 科 に は 独 自 性 が み ら れ る ﹂ 8 と す る 。 歴 史 的 に 見 れ ば 、 戒 環 は ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ の 跋 文 撰 者 の 行 儀 か ら は ﹁ 禅 師 ﹂ と呼称されているが 、﹁ 法師 ﹂ と呼称されることもあり 、 一定しない 9 。 まず 、 水野弘元氏の戒環評を見てみよう 。 戒環は福建省泉州開元寺 ︵ 白蓮寺 ︶ 内の宝勝院に住した禅僧であって 、 実際家としての活動よりも 、 むしろ学者 としての研究生活を送っていた 。 しかし禅宗に属していたために 、 彼の研究は教宗の人たちのような理論的な教理 研究ではなく 、 実践に役立つための実学的研究であった 。 もっとも傾倒したのは楞厳経であり 、 法華経や華厳経に も 意 を 用 い た 。 華 厳 の 研 究 に お い て も 、 澄 観 よ り も 李 通 玄 を 重 ん じ た こ と は 、 彼 が 実 践 を 重 視 し て い た こ と を 物 語 っ ている 10。 2 銭 謙 益 は 長 慶 道 巘 禅 師 ﹃ 楞 厳 説 文 ﹄ の 解 説 中 に お い て 、﹁ 唐 人 以 禅 宗 解 経 者 、 自 長 慶 始 。 於 振 沇 二 師 之 外 、 別 標 一 宗 。 即 温 陵 諸 師 之 祖 也 ﹂︵ 銭 謙 益 ﹃ 楞 厳 経 疏 解 蒙 鈔 ﹄ 巻 首 之 一 、﹃ 卍 続 蔵 ﹄ 第 一 三 冊 五 〇 三 頁 下 段 ︶ と 述 べ る 。﹁ 振 沇 二 師 ﹂ と は 唐 代 の 慧 振 ︵ 華 厳 系 注 釈 で あ る 長 水 子 璿 が 依 用 し た ︶ と 弘 沇 ︵ 天 台 系 注 釈 で あ る 孤 山 智 円 が 依 用 し た ︶ の こ と 。 温 陵 と は 泉 州 の 古 称 で あ る 。 戒 環 が 泉 州 開 元 寺 に住したゆえに 、 銭謙益は戒環を温陵と称する 。 3 明 末 に お け る 戒 環 ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ の 受 容 の 一 端 に つ い て 、 筆 者 は ﹁ 殷 邁 と 管 志 道 の ﹃ 楞 厳 経 ﹄ 修 証 論 解 釈 │ 銭 謙 益 ﹃ 楞 厳 経 疏 解 蒙 鈔 ﹄ の 引 用 を 中 心 と し て │ ﹂︵ ﹃ 駒 澤 大 学 大 学 院 仏 教 学 研 究 会 年 報 ﹄ 第 四 九 号 、 九 一 │ 一 一 四 頁 ︶ に お い て 論 じ た 。 殷 邁 と 管 志 道 は ﹃ 楞 厳経 ﹄ を受容するにあたり 、 戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ を解釈の基礎とした 。 4 水野弘元 ﹁ 戒環の法華経要解の研究 ﹂、 坂本幸男編 ﹃ 法華経の中国的展開 法華経研究四 ﹄、 平楽寺書店 、 一九七二 。 5 崔昌植 ﹁ 戒環の楞厳経要解について ﹂、 ﹃ 大久保良順先生傘寿記念論文集 仏教文化の展開 ﹄、 山喜房仏書林 、 一九九四 。 6 黄国清 ﹁ 宋代戒環的法華思想 ﹂、 ﹃ 揭諦 ﹄ 第二 〇 期 、︵ 台湾嘉義 ︶ 南華大学哲学與生命教育学系 、 二 〇 一一 。 7 荒木見悟 ﹃ 中国心学の鼓動と仏教 ﹄、 中国書店 、 一九九五 、 一四九頁 。 8 稲荷日宣 ﹃ 法華経一乗思想の研究 ﹄、 山喜房仏書林 、 一九七五 、 五八頁 。 9 た と え ば 、 行 儀 の ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ 跋 文 で は ﹁ 温 陵 宝 勝 戒 環 禅 師 4 4 ﹂︵ ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ 巻 二 〇、 ﹃ 卍 続 蔵 ﹄ 第 一 一 冊 八 八 五 頁 下 段 ︶ と 称 し 、 南 宋 の 天 台 系 学 僧 で あ る 思 坦 は ﹁ 温 陵 戒 環 禅 師 4 4 ﹂︵ ﹃ 楞 厳 経 集 註 ﹄ 巻 一 、﹃ 卍 続 蔵 ﹄ 第 一 一 冊 一 六 八 頁 下 段 ︶ と 称 し 、 元 の 天 如 惟 則 は ﹁ 温 陵 禅 師 4 4 諱 戒 環 ﹂︵ ﹃ 楞 厳 経 会 解 ﹄ 巻 一 、﹃ 永 楽 北 蔵 ﹄ 第 一 八 五 冊 一 六 八 頁 上 段 ︶﹂ と 称 す る が 、 明 末 の 無 尽 伝 灯 ﹁ 温 陵 法 師 4 4 諱 戒 環 ﹂︵ ﹃ 楞 厳 経円通疏 ﹄ 巻一 、﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一二冊六九三頁下段 ︶ と称する 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四二 このように水野氏は戒環を禅宗に属する禅僧であって 、 禅宗の実践的立場から ﹃ 楞厳経 ﹄ などの三経に対する研究活 動を送った僧であると評している 。 水野氏が戒環を禅宗に属する禅僧と評する理由については当論文においては説明が されていないが 、 おそらくは次のような理由が念頭にあったと思われる 。 まず 、 後述の戒環伝と釈経の内容 、 次に 、 行 儀 ﹁ 楞厳経要解跋文 ﹂ において彼が ﹁ 宝勝戒環禅師 ﹂ と称されること 、 さらに 、 同じく禅僧と思しき ﹁ 前住福州上生禅 院嗣祖沙門及南 ﹂ に ﹃ 法華経要解 ﹄ と ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の序文を依頼していることである 。 しかしながら 、 戒環は注釈書の流通によって比較的名が知られた僧であったにも関わらず 、 禅宗の灯史類には名が記 されず 、 後述する伝記にも嗣法や機縁の語といった記録は収められない 。 このことから 、 実際的には 、 戒環が果たして 禅僧として嗣法を受けていたか 、 あるいは 、 戒環が自らの所属を禅宗であると認識していたかは不明であり 、 したがっ て戒環を禅宗に属する禅僧であると断定することは 、 後述する史料から見た場合 、 困難のように思われる 。 ところで 、 崔昌植氏は 、 戒環が臨済宗の無示介諶の門人であったという説が朝鮮の普幻の ﹃ 楞厳経環解刪補記 ﹄ 巻上 ︵ 至 元 一 六 年 ︹ 一 二 七 九 ︺ 自 跋 ︶ に 見 え る こ と を 指 摘 し 、 こ れ を 認 め て い る よ う で あ る 11。 た し か に 、﹃ 楞 厳 経 環 解 刪 補 記 ﹄ には 、﹁ 温陵環師 、 育王諶公之門人也 。﹂ 12と記述されている 。 育 王 諶 公 と は 、 無 示 介 諶 の こ と で 、﹃ 嘉 泰 普 灯 録 ﹄ 巻 一 三 等 に そ の 行 状 が 載 る 。 こ の 行 状 に 拠 れ ば 、 彼 は 臨 済 宗 黄 龍 派 の 長 霊 守 卓 の 法 嗣 で 、 宣 和 六 年 ︵ 一 一 二 四 ︶ に 臨 安 ︵ 浙 江 省 ︶ の 顕 寧 寺 に 出 世 の 後 、 廬 山 や 瑞 岩 寺 ︵ 寧 波 ︶、 阿 育 王 山 に 住 し 、 紹 興 一 八 年 ︵ 一 一 四 八 ︶ 五 月 一 三 日 に 卒 し た 。 世 寿 は 六 九 歳 と 載 る こ と か ら 、 そ の 生 年 は 元 豊 三 年 ︵ 一 〇 八 〇︶ と推測される 。 と こ ろ が 、﹃ 嘉 泰 普 灯 録 ﹄ に は 無 示 介 諶 の 法 嗣 と し て は 戒 環 の 名 を 挙 げ て い な い 。 そ れ で は 、 普 幻 の 説 に よ っ て 戒 環 を 無示介諶の門人として認めてよいだろうか 。 まず 、 確認できるところの両者の行跡を表にして整理すると次の通りとな る 。 宣和元年 ︵ 一一一九 ︶ 戒環 、 及南に ﹃ 法華経要解 ﹄ の校正を依頼 。 宣和六年 ︵ 一一二四 ︶ 無示介諶 、 顕寧寺に出世 。 宣和八年 ︵ 一一二六 ︶ 戒環 、 再度 、 及南に ﹃ 法華経要解 ﹄ の校正を依頼 。 建炎二年 ︵ 一一二八 ︶ 一月一五日 戒環 、﹃ 華厳経要解 ﹄ 自序を撰述 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四三 建炎二年 ︵ 一一二八 ︶ 一月一五日 ∼ 同三年八月二 〇 日 戒環示寂 。 紹興一八年 ︵ 一一四八 ︶ 無示介諶示寂 、 世寿六九歳 。 通常 、 嗣法があったとすれば 、 無示介諶の出世後と考えらえるが 、 戒環はその没年からすれば 、 無示介諶の出世時は 戒環の晩年にあたり 、 注釈書の撰述活動を行っていたと考えられる 。 また 、 無示介諶と戒環の思想的関連性という面か ら考察しても 、﹃ 嘉泰普灯録 ﹄ 巻一三に載る介諶の行状からは経典を重視したというような記載は見られない 。 以上のような点から勘案すれば 、 介諶と戒環との関係をそのまま史実として認めることは困難だと思われる 。 戒環が 無示介諶の門人であったという説は朝鮮のみに伝わるものであり 、 この説はあるいは禅宗の注釈者として戒環の地位を 顕示することを意図として附加されたものかもしれない 。 前述のように 、 水野弘元氏や崔昌植氏は戒環を禅僧とみなし 、 銭謙益や稲荷日宣氏は禅 ・ 華厳系とみなし 、 荒木見悟 氏は天台系の学僧とみなし 、 戒環の属性についての評価は定まっていない 。 では戒環とはどのような人物であったのだ ろうか 。 改めて明の元賢編 ﹃ 泉州開元寺志 ﹄︵ 以下 、﹃ 開元寺志 ﹄︶ に載る彼の伝を見ると次のとおりである 。 戒環は温陵 ︵ 福建省泉州 ︶ の人 、 性格は簡潔で穏やかであり 、 世の味わいに染まらず 、 空寂の修行をして 、 深く 妙 な る さ と り に 至 っ て い た 。﹃ 楞 厳 経 ﹄、 ﹃ 法 華 経 ﹄、 ﹃ 華 厳 経 ﹄ そ れ ぞ れ の ﹃ 要 解 ﹄ を 撰 述 し た が 、 そ れ ら は み な 文 字 の表層的煩雑さを取り去り 、 枝葉の論にこだわらなくさせ 、 仏知見に入らしめ 、 まさに秘要の隠されたものを明ら かにしたものであった 。 今に至るまで多くの人はこれを宗としている 。 当初 、 開元寺の千仏院の主は ﹃ 法華経 ﹄ を誦えることを業としていたが 、 一羽の鳩が毎日聞きに来ていたが 、 あ る 日 、 来 な か っ た 。 主 は こ れ を 訝 し ん だ 。 夜 、 人 が 告 げ る に 、﹁ 私 は 鳩 で す 。 師 の 読 経 の 力 を 得 て 、 転 身 し て 人 と な り ま す 。 ど こ の 家 に 生 ま れ る か 、 腋 に 白 毛 で 見 分 け ら れ る で し ょ う 。 私 を 見 つ け ら れ ま す か 。﹂ 主 は そ の 夢 の よ う に それを探し求めたところ 、 果たして見つかった 。 父母はそこで出家を許し 、 彼は幼きより彼に仕え 、 得度して戒環 10 水野弘元 、 前掲論文 、 四 〇 一頁 。 11 崔昌植 、 前掲論文 、 二八八頁 。 12 普幻 ﹃ 楞厳経環解刪補記 ﹄、 駒澤大学図書館蔵 、 明代刊本 、 巻上 、 一丁右 。 及び ﹃ 韓国仏教全書 ﹄ 巻六 、 四一八頁 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四四 となったのである 。 ︵ 釈 戒 環 、 温 陵 人 。 性 簡 靖 、 不 溽 世 味 。 以 空 寂 自 頤 、 而 深 造 道 妙 。 嘗 作 ﹃ 楞 厳 ﹄﹃ 法 華 ﹄﹃ 華 厳 ﹄ 三 経 要 解 、 皆 能 痛 去 名 相 繁 蔓 、 使人無泥枝葉 、 入仏知見 、 真発明秘要蔵者也 。 至今学者多宗之 。 先 是 、 開 元 千 仏 院 有 主 者 業 誦 法 華 、 一 鴿 日 至 聴 之 。 一 日 不 至 、 主 怪 之 、 夜 夢 人 告 曰 、﹁ 我 鴿 也 、 得 師 経 力 、 転 身 為 人 矣 。 生 某 氏 、 而腋有白毛可識 。 能一視我乎 。﹂ 主如其夢 、 求視之 、 果然 。 父母遂諾以出家 、 少長来従之 、 得度為戒環云 。︶ 13 ここでは 、 前半では戒環の人柄や事跡が 、 後半ではその出生譚が記されている 。 文中 、 戒環が少なくとも得度まで過 ごしたという千仏院は ﹃ 祖堂集 ﹄ の序文撰者である浄修禅師省僜 ︵ 一説に文僜とも作る ︶ の住した寺院である 14。 この伝記から見られる戒環の印象は 、 世俗に染まらずひたすら禅定を養いつつ書物に向き合い注釈書を撰述した実践 的修道僧の姿である 。 また 、 千仏院の主者が ﹃ 法華経 ﹄ を誦えるのを毎日聞きに来ていた鳩の生まれ変わりが戒環であ るという説が 、 戒環の生前に作られたものか 、 あるいは死後に作られたものかは定かではないが 、 このような説が作ら れた背景として戒環が経典注釈に励んだイメージがあったことが予想される 。 ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ の ﹁ 前 住 福 州 上 生 禅 院 嗣 祖 沙 門 及 南 ﹂ の 序 文 ︵ 建 炎 元 年 ︹ 一 一 二 七 ︺ 撰 ︶ に 見 ら れ る 及 南 の 戒 環 に 対 す る評価は前述の伝記にほぼ一致する 。 及南序文には次のように見える 。 温陵環師は生涯 、 閉じこもって禅定に励んだ 。 世間一般とは好みが異なり 、 ひとり 、 仏典の聖者や賢者に寄り添 い 、 眼を閉じて思いを巡らせ 、 それら経典の手段を借りて 、 如来蔵を探り 、 知海を遍く巡り 、 一切畢竟の地に到達 した 。 ︵ 温陵環師一生掩関 。 与世異好 、 独陪黄巻聖賢 、 冥捜博訪 、 藉其筌筏 、 以探如来蔵 、 游遍知海 、 而造乎一切畢竟之地 。︶ 15 この序文の作者 、 及南に関しては 、 その伝記は見られずその生涯は不明であるが 、 その撰号から福州上生禅院に住持 した禅僧と見られる 。 なお 、 及南は戒環と交流があった 16ため 、 この序文の記載は信頼してよいものと思われる 。 戒環の事跡に関しては 、 さらに 、﹃ 開元寺志 ﹄ に支院の項としてその名が次のように出る 。 宝勝院 、 興創は未詳である 。 戒環はここに居して 、 三経の要解を作った 。 ︵ 宝勝院 、 興創未詳 。 戒環居之 、 作三経要解 。︶ 17 ﹃ 開元寺志 ﹄ において宝勝院に関する記載はこれのみであり 、 わかるのは開元寺の支院であったことだけである 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四五 ま た 、 戒 環 の 交 遊 関 係 に 関 し て 知 ら れ る の は 、 上 述 の 及 南 の 他 に 、﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ の ﹁ 住 湖 山 万 安 比 丘 行 儀 ﹂ の 跋 文 ︵ 建 炎 三 年 ︹ 一 一 二 九 ︺ 撰 ︶ に ﹁ 泗 州 長 老 行 璿 、 長 く 戒 環 に 従 い 交 遊 し た ︵ 泗 州 長 老 行 璿 、 久 従 之 游 ︶ ﹂ 18と あ る こ と で 、 泗 州とは開元寺の支院を指すものと見られる 19が 、 行璿に関しても詳細は不明である 。 以 上 を 整 理 す れ ば 、 戒 環 の 生 涯 に つ い て 確 認 さ れ る の は 次 の 五 点 で あ る 。︵ 一 ︶ 幼 い こ ろ 、 開 元 寺 の 千 仏 院 の ﹃ 法 華 経 ﹄ を 誦 す る 住 持 に つ い て 出 家 し 、 得 度 後 、 戒 環 を 名 乗 っ た 。︵ 二 ︶ 北 宋 代 末 か ら 南 宋 の 初 め に 活 動 し 、 建 炎 二 年 か ら 同 三 年 に 示 寂 し た 。︵ 三 ︶ 生 涯 の 大 半 を 泉 州 開 元 寺 内 に 過 ご し た 。︵ 四 ︶ 開 元 寺 の 支 院 で あ る 宝 勝 院 に お い て ﹃ 法 華 経 要 解 ﹄、 ﹃ 華 厳 経 要 解 ﹄、 及 び ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ を 撰 述 し た 。︵ 五 ︶ 交 遊 関 係 と し て は ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ と ﹃ 法 華 経 要 解 ﹄ の 序 文 の 撰 者 である及南と 、﹃ 楞厳経要解 ﹄ の跋文に出る泗州長老行璿が知られる 。 このうち 、︵ 一 ︶ と ︵ 三 ︶ に関しては明代成立の ﹃ 開元寺志 ﹄ に見えるものであるので 、 確定はできない 。 このように 、 戒環の生涯について知られる事実はかなり限定的である 。 ならば 、 泉州開元寺の当時の状況を把握する ことが戒環の行状や彼が ﹃ 楞厳経要解 ﹄ を撰述した背景を探る手掛かりになるのではないだろうか 。 3.北宋代の泉州開元寺について 戒環が住した泉州開元寺は現在 、 福建省泉州市街地に位置する広大な敷地を有する寺院となっている 。 寺名は唐の開 13 元賢撰 ﹃ 泉州開元寺志 ﹄、 ﹃ 中国仏寺志叢刊 ﹄、 江蘇広陵古籍刻印社 、 一九九六 、 第一 〇 六冊 、 九一頁 。 14 僜伝については石井修道 ﹁﹃ 泉州開元寺志 ﹄ の招慶省僜伝について ﹂︵ ﹃ 印度学仏教学研究 ﹄ 六七 、 一九八五 ︶ がある 。 15 及南 ﹁ 首楞厳経要解序 ﹂、 戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄、 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一一冊七七六頁上段 。 16 及 南 ﹁ 妙 法 蓮 華 経 解 序 ﹂ に よ れ ば 、 戒 環 は 宣 和 元 年 ︵ 一 一 一 九 ︶ と 丙 午 ︵ 一 一 二 六 ︶ の 二 度 ﹃ 法 華 経 要 解 ﹄ の 撰 述 に あ た っ て 、 校 正 や検討を及南に依頼している 。 17 ﹃ 開元寺志 ﹄、 前掲書 、 四五頁 。 18 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一一冊八八六頁上段 。 19 ﹃ 開 元 寺 志 ﹄ に 支 院 と し て ﹁ 泗 洲 律 院 ﹂﹁ 東 泗 洲 院 ﹂﹁ 泗 洲 院 ﹂﹁ 泗 洲 東 院 ﹂﹁ 西 泗 洲 院 ﹂﹁ 花 泗 洲 院 ﹂﹁ 北 泗 洲 院 ﹂ の 名 が み え る ︵﹃ 開 元 寺志 ﹄、 前掲書 、 四二│四八頁 ︶
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四六 元二六年 ︵ 七三八 ︶ に天下の諸州に一寺を建て 、 その年号を取って開元寺と名付けたことに由来する 。 このため 、 開元 寺 と い う 名 の 寺 は 中 国 の 各 地 に 存 す る が 、 泉 州 開 元 寺 は ﹁ 開 元 寺 ﹂ の 中 で 最 も 有 名 な も の で あ る 。 広 大 な 敷 地 を 持 ち 、 重なる火災などによって興廃を繰り返したが 、 東西の二塔と 、 鄭芝龍によって再建された荘厳な大雄宝殿や清代再建の 甘露戒壇は往時のたたずまいを残しており 、 泉州市の観光の中心となっている 。 ちなみに泉州が近世 、 港湾都市として 栄えたことはマルコポーロ ﹃ 東方見聞録 ﹄ に記録されている 20。 泉 州 開 元 寺 は 、 そ の 始 め 、 唐 の 垂 拱 二 年 ︵ 六 八 六 ︶ に 創 建 さ れ た 。 寺 志 に よ れ ば 、 創 建 は 次 の よ う な 説 話 に 由 来 す る 。 垂拱二年二月 、 州民の黄守恭は 、 昼間 、 ある僧がその地を寺としたいと請うたのを夢見た 。 守恭は桑の木から白蓮が 生じたならばそれを認めると僧に告げた 。 すると僧は喜んでお礼をし 、 ふと姿を消した 。 その二日後 、 果たして桑の木 に白蓮が生じた 。 役所はその事を瑞祥として皇帝に報告し 、 道場を建立することを願い出た 。 そうして寺院建立が果た さ れ 、 蓮 花 寺 と の 名 を 賜 っ た 21。﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ の 撰 号 が ﹁ 温 陵 開 元 蓮 寺 比 丘 戒 環 ﹂ と あ る の は こ の 説 話 に 由 来 す る も の と思われる 。 この後 、 蓮花寺は唐の長寿年間 ︵ 六九二│六九三 ︶ に興教寺 、 神龍年間 ︵ 七 〇 五│七 〇 六 ︶ に龍興寺と改名し 、 上述 のごとく 、 唐の開元年間に開元寺と名を改める 。 その後 、 五代 、 宋代を経て開元寺は隆盛し 、 元代には一二 〇 あまりの 支 院 が 存 す る に 至 っ た 。 こ の 支 院 と 開 元 寺 と の 関 係 は ﹃ 開 元 寺 志 ﹄ に 拠 れ ば 、﹁ 離 れ ば な れ で 、 そ れ ぞ れ が 属 さ な い ︵ 支 離 而 不 相 属 ︶ ﹂ と あ り 、 そ れ ら は 開 元 寺 の 支 院 と の 位 置 づ け に は あ る の も の 、 そ れ ぞ れ が 独 立 的 に 運 営 さ れ て い た よ う で ある 。 この間 、 北宋代に開元寺は蘄守喬郎中によって禅林となされ 、 子琦 ︵ ? │ 一一一五 ︶ が第一世となっている 。 こ の 時 期 に つ い て 、 は っ き り し た 記 載 は な い が 、 の ち に 崇 寧 元 年 ︵ 一 一 〇 二 ︶、 全 国 に 崇 寧 寺 を 建 て た と き 招 か れ て 第 一 世 となっており 、 その前に泉州の承天寺に二 〇 年あまり住持したと ﹃ 開元寺志 ﹄ の子琦伝にあるから 、 元豊年間 ︵ 一 〇 七 八│一 〇 八五 ︶ 前後と推測される 。 そ の 後 、 元 の 初 頭 で あ る 至 元 二 二 年 ︵ 一 二 八 五 ︶、 僧 録 の 劉 鑑 義 の 上 奏 に よ り 支 院 を 合 わ せ て 一 寺 に す る こ と が 奏 上 さ れ 、 認 め ら れ て 大 開 元 万 寿 禅 寺 と の 寺 額 を 賜 り 、 禅 風 を 挙 揚 し た 。 こ の 時 に 一 一 七 箇 所 22あ っ た 支 院 は す べ て 廃 さ れ た が 、 尊勝院 、 東塔院 、 極楽院の三院は名前のみ残った 。 戒環が住した北宋代にも多くの支院が存在したことが知られ 、 戒環の得度した千仏院や 、 住した宝勝院もそのうちの
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四七 一 つ で あ っ た 。 そ れ で は 、 そ こ で は ど の よ う な 僧 が 住 し 、 ど の よ う な 仏 法 が 行 わ れ て い た の で あ ろ う か 。﹃ 開 元 寺 志 ﹄ の ﹁ 開 士 志 ﹂ に は 、 開 元 寺 内 に 住 し た 唐 代 か ら 明 代 ま で の 歴 代 の 高 僧 の 伝 記 が 載 せ ら れ る 。 彼 ら は 禅 宗 に 限 ら ず 、 教 、 律 を 含めた三宗の僧侶である 。 ま ず 、 示 寂 の 年 を 基 準 と し て 、 時 代 別 に 分 け て み る と 、 唐 代 九 人 、 五 代 四 人 、 北 宋 代 二 二 人 、 南 宋 代 四 人 、 元 代 四 人 、 明代二人 、 年代未詳一人となる 。﹁ 開士志 ﹂ における記載から見れば 、 開元寺は特に宋代に隆盛したことが知られるが 、 宋代の中でもそのほとんどの僧は五代末から北宋終わりころに集中している 。 この時期に開元寺が隆盛した背景としては 、 当地の施政者の援助があったことが考えられる 。 五代十国の閩王 、 王審 知 ︵ 八六二│九二五 ︶ が仏教を厚く保護したことはよく知られているが 、 開元寺の興隆に尽力したのは 、 唐末から五代 にかけての仏教居士であり 、 泉州刺史などを歴任した王延彬 ︵ 八八六│九三 〇︶ など当地の統治者であった 。 王延彬は ﹃ 五 灯 会 元 ﹄ で は 雪 峰 義 存 の 弟 子 で あ る 長 慶 慧 稜 ︵ 八 五 四 │ 九 三 二 ︶ の 法 嗣 に 数 え ら れ て い る が 、 開 元 寺 の 支 院 の 建 立 に あたっては 、 禅宗だけではなく教院 、 律院の建立も行っている 。 彼の建立した支院を ﹃ 開元寺志 ﹄ の ﹁ 支院 ﹂ の項に記 録から見れば 、 慈恩院 ︵ 禅 ︶、 東金身院 ︵ 禅 ︶、 清吟院 ︵ 教 ︶、 新法華院 ︵ 教 ︶、 清涼精舍 ︵ 教 ︶、 建法院 ︵ 律 ︶、 報劬戒律 院 ︵ 律 ︶ の七院が数えられ 、 禅二院 、 教三院 、 律二院となっている 。 この点から見れば唐末以後の中国仏教は禅教の統 合の趨勢に向かうが 、 開元寺においては 、 禅教律の相互影響関係が物理的条件として整っていたという事もわかるだろ う 。 そ こ で 行 わ れ た 仏 法 の 内 容 に つ い て は 、﹁ 開 士 志 ﹂ に 記 録 さ れ る 唐 末 か ら 五 代 の 頃 の 僧 の う ち 、 そ の 宗 派 の 系 統 が 比 較 的明確に記されているものには以下の僧がいる 。 まず 、 教宗では 、 叔端とその徒弟道昭がいる 。 叔端は諸経に通達し律 20 時 代 は 少 し 下 る が 、 マ ル コ ・ ポ ー ロ ︵ 一 二 五 四 │ 一 三 二 四 ︶ の ﹃ 東 方 見 聞 録 ﹄︵ 愛 宕 松 男 訳 注 ﹃ 東 方 見 聞 録 二 ﹄、 東 洋 文 庫 、 平 凡 社 、 一九七一年 、 一一三│一一六頁 ︶ には泉州の港湾都市としての繁栄が記録されている 。 21 ﹃ 開元寺志 ﹄、 前掲書 、 一三│一四頁 。 22 一 二 〇 箇 所 と い う 支 院 の 数 字 は ﹃ 開 元 寺 志 ﹄﹁ 建 置 志 ﹂ の 冒 頭 に 載 る 数 字 で あ る が 、﹁ 建 置 志 ﹂ 中 の ﹁ 支 院 ﹂ に 列 せ ら れ る 支 院 の 合 計 は 、 実際には一一七箇所であり 、﹁ 支院 、 旧有一百一十七区 ﹂︵ ﹃ 開元寺志 ﹄、 同上 、 四九頁 ︶ と記される 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四八 を 守 る こ と 厳 格 で 、﹃ 宗 鏡 録 ﹄ や ﹁ 四 縁 ﹂ な ど の ﹁ 鈔 ﹂ が あ っ た と い う 。 道 昭 は 叔 端 の 下 で ﹃ 弥 勒 上 生 経 ﹄ や ﹃ 成 唯 識 論 ﹄ を学んだとされ ﹃ 大智度論 ﹄ など三乗に通じており 、 著書に ﹃ 成唯識論 ﹄ の注釈があったという 。 以上から 、 その 法系は法相唯識を中心としたものだったと考えられる 。 禅宗では 、 襲礼や省僜などが記載される 。 彼らはともに雪峰義 存 法 系 下 に 連 な る 。 襲 礼 は 灯 史 に は 記 載 さ れ な い が 、﹃ 開 元 寺 志 ﹄ に 拠 れ ば 、 雪 峰 義 存 に 道 を 問 い 大 悟 し た 後 、 王 廷 彬 に 招 か れ て 慈 恩 院 に 居 し た 。 省 僜 は ﹃ 景 徳 伝 灯 録 ﹄ 巻 二 二 に 立 伝 さ れ 、 雪 峰 義 存 の 法 嗣 で あ る 保 福 従 展 に 法 を 承 け て い る 。 一方 、 律宗では ﹃ 四分律 ﹄ を学んだ弘則が立伝されている 。 北宋代に入ると傾向としては 、 禅僧が多くを占め 、 他に数名の講僧が記されている 。 教から禅へ転向した僧も確認で き 、 禅 宗 の 伸 長 と い う 宋 代 の 傾 向 が こ こ に 表 れ て い る 。 一 方 、 律 に つ い て は 低 調 だ っ た よ う で 、 南 宋 に 入 っ て 間 も な く 、 建炎二年 ︵ 一一二八 ︶ に敦炤が戒壇の再建を行っている 。 禅宗に関してその嗣法の法系から見れば 、 記されるのは雪峰 系 、 及 び 臨 済 宗 、 黄 龍 派 や 法 眼 宗 、 雲 門 宗 の 法 系 の 僧 が い る 。 講 僧 に つ い て み れ ば 、 法 周 ︵ ? │ 九 九 八 │ ? ︶ や 宗 已 ︵ ? │一 〇 六六 ︶ や有朋 ︵ 後述 ︶ がいる 。 法周は ﹃ 維摩経 ﹄ や ﹃ 法華経 ﹄、 ﹃ 楞厳経 ﹄ を講じていたと記され 、 宗已は ﹃ 法華 経 ﹄ や ﹃ 楞 厳 経 ﹄、 ﹃ 大 乗 起 信 論 ﹄ を 講 じ て い た と 記 さ れ る 。 こ の よ う に 開 元 寺 で は 戒 環 も 注 釈 を 施 し た ﹃ 法 華 経 ﹄ や ﹃ 楞 厳経 ﹄ などが講僧によって講じられていたことがわかり 、 その中で戒環も学んでいったと推測される 。 本論では 、 戒環とほぼ同時期に開元寺に住した禅僧として 、 本観と子琦 、 及び有朋に注目したい 。 彼らは戒環と対照 的に論ずることができると思われるからである 。 子琦と有朋には師承関係があり 、 有朋と戒環には後述するように交流 があった可能性がある 。 本 観 ︵ ? │ 一 一 〇 〇︶ は 、﹃ 開 元 寺 志 ﹄﹁ 開 士 志 ﹂ に 立 伝 さ れ る が 、﹃ 嘉 泰 普 灯 録 ﹄ な ど の 灯 史 に は 記 載 さ れ ず 、 清 代 の 超永撰 ﹃ 五灯全書目録 ﹄ 巻三に 、 弥勒法超の法嗣として 、 記録されているが 、 機縁の語などは見られない 。﹃ 開元寺志 ﹄ に 拠 れ ば 、 本 観 は 泉 州 晋 江 の 生 ま れ で 、 得 度 後 、 宗 己 に つ い て ﹃ 法 華 経 ﹄ や ﹃ 楞 厳 経 ﹄、 ﹃ 起 信 論 ﹄ を 学 ぶ も 、 あ る 日 ﹁ こ れ は 酒 か す ︹ の よ う に 取 る に 足 ら な い ︺ だ ︵ 此 糟 粕 也 ︶ ﹂ 23と 言 っ て 教 学 を 棄 て 開 元 寺 の 支 院 の 弥 勒 院 に 住 し て い た 法 眼 宗 の法超 24に謁した 。 そのときの問答は次のように載る 。 法 超 は 拳 を 立 て て い わ く 、﹁ 一 塵 が 少 し で も 挙 げ れ ば 、 大 地 は 全 て 収 ま っ て い る 。 古 人 に は 指 を 竪 て れ ば 悟 入 が あ っ た 。 あ な た は 今 ど う す る か 。﹂ 本 観 は 礼 拝 し た 。 法 超 い わ く 、﹁ あ な た は ど の よ う な 道 理 を 見 て 、 礼 拝 し た の か 。﹂
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 四九 本 観 い わ く 、﹁ 一 塵 が 少 し で も 起 こ れ ば 、 大 地 は 全 て 収 ま っ て い る 。﹂ 法 超 い わ く 、﹁ こ の 鈍 根 は 師 に お も ね っ て い る 。﹂ 本観は諾々として退いた 。 ︵ 超 竪 起 拳 曰 、﹁ 一 塵 纔 挙 、 大 地 全 收 。 古 人 竪 指 便 有 悟 入 、 汝 今 何 為 。﹂ 師 礼 拜 。 超 曰 、﹁ 汝 見 甚 麼 道 理 便 礼 拜 。﹂ 師 曰 、﹁ 一 塵 纔 挙 。 大地全收 。﹂ 超曰 、﹁ 者鈍根阿師 。﹂ 師喏喏退 。︶ 25 法超と本観との問答はこの段のみである 。 法超の問いに対し 、 礼拝し 、 問いをオウム返しに答えた本観は 、 ののしら れても諾々と引き下がっており 、 法超と本観はこの問答で機縁がかなったとは言えないだろう 。 一方 、 法超伝の中では ﹁ 本 観 と 有 聆 の 二 人 の 長 老 は 、 よ く 法 超 に よ っ て 修 行 し 、 法 超 に 謁 し て 悟 り が あ っ た 。 法 超 は 同 志 だ と 思 わ な け れ ば 、 拒 ん で 受 け 入 れ ず 、 面 と 向 か っ て 至 面 に 糾 弾 し た ︵ 本 観 、 有 聆 二 長 老 、 常 依 度 夏 、 参 叩 皆 有 所 悟 。 非 同 志 者 、 拒 不 納 、 至 面 斥 之 ︶ ﹂ 26 とあることから 、 法超も本観をある程度は認めていたことが示唆される 。 法超が本観に印可を与えたかは 、 記録から言 えば定かではないが 、 その後 、 本観は支院であった粥院が泉州太守の陳枢によって興福禅院となり 、 甲乙制から十方制 禅院に改められたとき 、 本観は第一世となり 、 のち法華院などに住した後 、 紫衣と円覚の師号を賜い 、 元符三年 ︵ 一一 〇〇︶ 示寂した 。 著作に ﹃ 法華箋 ﹄ や語録があったという 。 子琦 ︵ ? │ 一一一五 ︶ は ﹃ 開元寺志 ﹄﹁ 開士志 ﹂ や 、﹃ 嘉泰普灯録 ﹄ 巻四や ﹃ 補続高僧伝 ﹄ 巻八などに立伝される 。 泉 州恵安の人で 、 始め多くの経典を講じ 、 特に ﹃ 楞厳経 ﹄ や ﹃ 円覚経 ﹄ に通じたが 、 経典が ﹁ しかし 、 心を明かすももの で は な く 、 言 句 に 執 着 し 、 た だ 自 ら の 障 害 と な る も の だ と 思 い ︵ 然 以 為 不 明 心 、 而 泥 言 句 、 秪 自 障 蔽 耳 ︶ ﹂ 27、 経 典 へ の 研 鑽 を 棄て 、 江淮の禅匠を訪ね巡り 、 はじめ翠巖可真を訪ね 、 続いて黄龍慧南 ︵ 一 〇〇 二│一 〇 六九 ︶ に参じて法を得た 。 慧 南の没後 、 五祖法演に命じられて 、 黄龍にて首座をつとめたのち 、 蘄守喬郎中が開元寺を禅林に変えたときに 、 招かれ 23 ﹃ 開元寺志 ﹄、 前掲書 、 八 〇 頁 。 24 法超は ﹃ 開元寺志 ﹄﹁ 開士伝 ﹂︵ ﹃ 開元寺志 ﹄、 前掲書 、 八六頁 ︶ に伝記が載る 。 法眼宗の清化志超の法嗣 。 25 ﹃ 開元寺志 ﹄、 前掲書 、 八 〇 頁 。 26 ﹃ 開元寺志 ﹄、 前掲書 、 八七頁 。 27 ﹃ 開元寺志 ﹄、 前掲書 、 八二頁 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 五〇 第一世となった 。 その後 、 承天寺や崇寧寺に歴住し 、 朝廷から紫衣と照覚大師の号を賜い 、 政和五年 ︵ 一一一五 ︶ 示寂 した 。﹃ 五会語録 ﹄ があり 、 世に行われたという 。 有朋 ︵ ? │ 一一二四 ︶ は ﹃ 開元寺志 ﹄﹁ 開士志 ﹂ に載るほか 、﹃ 嘉泰普灯録 ﹄ 巻六などの灯史類などには ﹁ 泉州尊勝有 朋講師 ﹂ として立伝される 。 字を成之といい 、 泉州南安の生まれで 、 上述の宗己について経典を学び名声が高まり 、 太 守 の 陳 枢 に 請 わ れ て 開 元 寺 の 支 院 で あ る 尊 勝 院 で 経 を 講 じ た 。﹁ し か し 心 宗 を 根 と み な し 、 名 相 を 葉 と み な し 、 そ し て 教 の 外 に 留 意 し た ︵ 然 以 心 宗 為 根 、 名 相 為 葉 、 而 留 意 于 教 外 ︶ ﹂ 28と 、 講 僧 で あ り な が ら 教 外 別 伝 の 禅 宗 に 心 を 惹 か れ 、 つ い に 承 天寺の子琦に謁して 、 次のような問答をする 。 あ る 日 、 承 天 寺 の 子 琦 に 謁 し た 。 子 琦 は 詰 問 し て い わ く 、﹁ 一 日 中 ﹃ 華 厳 経 ﹄ や ﹃ 般 若 経 ﹄ を 読 ん で い る の は 、 こ こでは問わない 。 当今の一句とはなんであるか 。﹂ 有朋いわく 、﹁ 太陽はまさに正午です 。﹂ 子琦いわく 、﹁ むだな言 葉 だ 。 さ ら に 述 べ な さ い 。﹂ 有 朋 い わ く 、﹁ 普 段 は 忠 信 に よ っ て お り ま す が 、 今 日 は 風 波 に 任 せ て お り ま す 。﹂ 問 答 が 首尾往復すること五回 、 子琦はそこで認めた 。 ︵ 一 日 謁 承 天 琦 、 琦 詰 曰 、﹁ 朝 看 ﹃ 華 厳 ﹄、 暮 看 ﹃ 般 若 ﹄、 則 不 問 、 如 何 是 当 今 一 句 。﹂ 師 曰 、﹁ 日 頭 正 当 午 。﹂ 琦 曰 、﹁ 閑 言 語 。 更 道 。﹂ 師曰 、﹁ 平生仗忠信 、 今日任風波 。﹂ 首尾往復五番 、 琦肯之 。︶ 29 有 朋 は こ の 後 に 子 琦 の 法 を 嗣 ぎ 、 本 観 の あ と を つ い で 興 福 禅 院 の 住 持 と な る 。 元 祐 元 年 ︵ 一 〇 八 六 ︶、 紫 衣 を 賜 い 、 元 符 二 年 ︵ 一 一 〇 〇︶ 、 蒋 長 生 の 招 き に よ り ﹁ 清 果 ﹂ 30に 住 し 、 崇 寧 四 年 ︵ 一 一 〇 五 ︶ に 引 退 し 、 宣 和 六 年 ︵ 一 一 二 四 ︶ 九 月一一日に示寂した 。﹃ 開元寺志 ﹄ に載るこれらの事跡のほかに 、﹃ 嘉泰普灯録 ﹄ 巻六有朋伝には 、 二 〇 歳にて試経得度 し 、 多く教肆をめぐり 、﹃ 楞厳経 ﹄ や ﹃ 維摩経 ﹄ などの疏を著わしたことが記されている 。 筆 者 は こ の 有 朋 が 戒 環 と 交 流 の あ っ た 可 能 性 を 指 摘 し た い 。 戒 環 撰 ﹃ 華 厳 経 要 解 ﹄ の 自 序 ︵ 建 炎 二 年 ︹ 一 一 二 八 ︺︶ に は ﹁ 継 沿 綴 緝 清 果 明 4 4 4 禅 師 所 集 修 証 儀 、 略 解 聖 号 表 法 ﹂ 31と あ り 、 戒 環 は ﹁ 清 果 明 禅 師 ﹂ の 編 集 し た ﹃ 華 厳 経 ﹄ の ﹁ 修 証 儀 ﹂ を引き継いで ﹃ 華厳経要解 ﹄ を編纂したのであるが 、﹁ 清果 ﹂ は有朋の住した ﹁ 清果 ﹂ と一致し 、﹁ 明禅師 ﹂ とは ﹁ 朋禅 師 ﹂ の誤写の可能性がある 。 有朋は上述の子琦との問答からわかるように ﹃ 華厳経 ﹄ を読んでいた 。 これも ﹁ 清果明禅 師 ﹂ と有朋が同一人物である可能性を示すものである 。 以上 、 本観と子琦 、 及び有朋の伝を概観したが 、 この三人に共通することは 、 はじめ ﹃ 楞厳経 ﹄ や ﹃ 法華経 ﹄、 ﹃ 円覚
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 五一 経 ﹄ などの経典を学び講じていたが 、 後に 、 経典を棄てて禅宗に転向した後 、 朝廷から紫衣や大師号を賜い 、 施政者な どの招聘によって禅院の住持となっていることである 。 これは見方を変えれば 、 禅宗の法を嗣ぐことは立身出世のため の手段だった側面があり 、 禅宗の法を求めるためには経を棄てることが当時の禅宗思潮として求められたという可能性 を指し示す 。 この事を踏まえて ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の行儀跋文を読むと 、 そこには戒環が ﹃ 楞厳経要解 ﹄ を執筆した理由と し て 、﹁ 以 前 、 中 止 の 徒 を 誘 い す み や か に 宝 所 に 登 ら せ よ う と 思 い 、 そ こ で ﹃ 要 解 ﹄ を 撰 述 し た ︵ 甞 欲 誘 中 止 之 徒 径 登 宝 所 、 乃 為 ﹃ 要 解 ﹄︶ ﹂ 32と の 語 が 見 ら れ る が 、﹁ 中 止 の 徒 ﹂ と は 、 彼 ら 経 を 棄 て 禅 に 奔 っ た 人 達 を 指 し て い る と 読 む こ と が で き る 。 こ の 意 味 に お い て 、 先 に 見 た ﹃ 開 元 寺 志 ﹄﹁ 戒 環 伝 ﹂ の ﹁ 世 味 に 溽 うるお わ ず ﹂ と の 語 や 及 南 ﹁ 楞 厳 経 要 解 序 文 ﹂ の ﹁ 温 陵 環 師 一 生 掩 関 、 与 世 異 好 、 独 陪 黄 巻 聖 賢 ﹂ と い う 語 の 意 味 が 一 層 明 確 と な ろ う 。 つ ま り 、 戒 環 が 世 間 と 異 な っ て い た の は 、 紫衣や大師号 、 禅寺の住持といった世間的名誉を求めない点にあったと推測できるのである 。 このように見れば 、 戒環 が 禅 宗 の 法 を 嗣 い だ 形 跡 が な い こ と も 、 そ の 必 要 が な か っ た か ら だ と 見 る こ と が で き る 。 ま た 別 の 側 面 か ら 述 べ れ ば 、 戒環は禅に近い立ち位置にはいたが 、 権力には近づかず 、 禅宗の正統的立場から見れば異端だったともいえる 。 以上 、 戒環が注釈書を撰述した背景を探るため北宋代を中心として泉州開元寺について検討した 。 福建の地は閩国の 仏教保護や雪峰義存など高僧の輩出によって仏教文化は栄えた 。 その中で泉州という一大港湾都市の代表的寺院であっ た開元寺は 、 五代から宋代にかけて多くの支院が建立されて隆盛し 、 禅教律の揃った一大仏寺となっていた 。 戒環の処 し た 北 宋 代 末 に は 時 代 的 趨 勢 に よ っ て 禅 宗 が 勢 力 を 拡 大 し て い っ た よ う で あ る が 、 禅 と と も に ﹃ 楞 厳 経 ﹄ や ﹃ 法 華 経 ﹄ 28 ﹃ 開元寺志 ﹄、 前掲書 、 八五頁 。 29 ﹃ 開元寺志 ﹄、 前掲書 、 八五頁 。 30 ﹃ 開 元 寺 志 ﹄ の 原 文 は ﹁ 元 符 二 年 、 大 夫 蒋 長 生 復 延 以 清 果 。﹂ ︵ 前 掲 書 、 八 六 頁 ︶。 ﹁ 清 果 ﹂ は ﹁ 清 果 院 ﹂、 あ る い は ﹁ 清 果 寺 ﹂ だ と 思 わ れ る が 、﹃ 開 元 寺 志 ﹄ や ﹃ 泉 州 府 志 ﹄ な ど に は 見 え ず 、 所 在 地 や 名 称 な ど の 詳 細 は 不 明 。 こ の 事 は ﹃ 嘉 泰 普 灯 録 ﹄ の 有 朋 伝 な ど に は 見 えない 。 31 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第八冊四五一頁上段 。 32 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ 巻二 〇、 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一一冊八八六頁上段 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 五二 などの経典研究も行われていた 。 本観や有朋の問答からは禅の形式化の様子もうかがえ 、 経典研鑽を棄て禅宗の嗣法を 得 、 紫衣などを賜り 、 禅寺の住持になるというような風潮が禅宗にはあった 。 これに対して戒環は経を棄て禅宗の法を 嗣ぐことはなく 、 禅宗の隆盛の中に身を置きながらひとり禅定と経典研鑽により仏法を究めていったとものと推測され るのである 。 4.戒環『楞厳経要解』について 戒環の ﹃ 楞厳経要解 ﹄ は 、 明末の ﹃ 楞厳経 ﹄ 流行において注目を集めることとなった 。 たとえば 、 明末の殷邁 ︵ 一五 一二│一五八一 ︶ は ﹁ もろもろの注釈者はそれぞれ深い境地に達しているが 、 つまるところ ﹃ 楞厳経 ﹄ をよく説いてい る の は 、 温 陵 の 右 に 出 る も の は い な い よ う で あ る ︵ 諸 家 雖 各 臻 玄 奧 、 要 之 善 説 ﹃ 楞 厳 ﹄、 似 無 出 温 陵 之 右 者 ︶ ﹂ 33と 戒 環 の 注 釈 を 称 え て い る 。 ま た 、 銭 謙 益 は ﹁ 近 頃 ︹﹃ 楞 厳 経 ﹄ を ︺ 学 ぶ 者 は こ の よ う に し て 温 陵 を 宗 と し よ う と し て い る ︵ 近 世 学 者 遂 欲宗温陵 ︶ ﹂ 34と述べ 、 明末に ﹃ 楞厳経要解 ﹄ が流行したことを述べている 。 明 末 の 仏 教 復 興 の 要 因 と し て は 、 陽 明 学 の 動 向 が 関 係 し て い る よ う で あ る 。 明 代 中 期 に 興 っ た 陽 明 学 は 右 派 、 左 派 、 正 統 派 に 分 か れ た が 、 そ の う ち 、 左 派 ・ 泰 州 学 派 を 中 心 と し て 仏 教 や 禅 へ の 社 会 的 関 心 が 高 ま っ た 。 そ の 中 で 、﹃ 楞 厳 経 ﹄ が流行したのは心識論や修証論の文脈において注目を集めたことに端を発するものと思われる 。 それでは 、 多くの注釈書がある中で 、 何故 、 戒環の ﹃ 楞厳経要解 ﹄ がこのように受容されたのであろうか 。 それは戒環の注釈書の特徴が明末の思想潮流に合致したことに関連すると思われるが 、 先行研究では戒環の思想につ いて 、 水野弘元氏は ﹃ 法華経要解 ﹄ の研究から ﹁ 華厳経の宗旨も法華経の趣旨も 、 ともに一仏乗を説くことにあるので あ っ て そ こ に 些 少 の 相 異 も な い と い う の が 戒 環 の 見 解 ﹂ 35で あ る こ と を 指 摘 し 、 黄 国 清 氏 は 、 戒 環 の 仏 教 思 想 を ﹁ 簡 約 的 一致性を具有し 、 真心仏性観念を中心としてひとつの大乗仏教教理体系を構築した ﹂ 36と指摘している 。 それでは 、 そのような戒環の思想において ﹃ 楞厳経 ﹄ はどのように位置づけられ 、 それがどのように明末の流行に結 び付いたのであろうか 。 本節では少しく ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の跋文や銭謙益の論 、 及び戒環の教判論を手掛かりとして ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の特徴につ いて初歩的考察を試みたい 。 筆者がここで銭謙益の論を用いるのは現時点において銭謙益の ﹃ 楞厳経疏解蒙鈔 ﹄ は ﹃ 楞
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 五三 厳経 ﹄ 研究における最大の成果と考えるからである 。 まずその特徴として挙げられるのは 、 その経題 ﹁ 要解 ﹂ のごとく 、 簡明に経の要点を解き明かしたことであったと思 われる 。﹃ 楞厳経要解 ﹄ の行儀の跋文には次のように述べる 。 ︹﹃ 楞 厳 経 ﹄ は ︺ は じ め 南 海 に 伝 わ り 、 訓 釈 す る 者 は 数 家 あ っ た が 、 た だ 長 水 子 璿 師 の 疏 、 及 び 蘇 臺 元 約 師 の 鈔 が 、 世間に盛行した 。 しかしそれらは文義が浩博であり 、 学ぶ者は其の波瀾にうかび 、 ますます原本に暗くなり 、 閲読 するのに疲弊した 。︵ 中略 ︶︹ 戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ は ︺ 言葉は簡潔で内容は豊富であり 、 表現は流暢で理路整然とし ている 。 その解釈を閲覧すれば 、﹃ 楞厳経 ﹄ の真意が見える 。 文理は明らかで 、 たなごころを指すがごとくである 。 ︵︵ 前 略 ︶ 初 方 達 南 海 、 訓 釈 者 数 家 、 唯 長 水 子 璿 師 疏 、 及 蘇 臺 元 約 師 鈔 、 盛 行 於 世 。 然 文 義 浩 博 、 学 者 泛 其 波 瀾 、 益 昧 源 本 、 疲 於 披 覧 。 温 陵 宝 勝 戒 環 禅 師 、 少 達 妙 理 、 深 悟 大 乗 。 而 ﹃ 首 楞 厳 ﹄ 尤 謂 得 意 。 甞 欲 誘 中 止 之 徒 径 登 宝 所 、 乃 為 ﹃ 要 解 ﹄。 ︵ 中 略 ︶ 言 約 義豊 、 詞暢理詣 。 披其解則見其経 。 文理昭然 、 如指諸掌 。︶ 37 行 儀 は 、 世 間 に 流 通 し て い る 長 水 子 璿 の ﹃ 首 楞 厳 義 疏 注 経 ﹄ や 蘇 台 元 約 の 疏 鈔 ︵ 散 逸 ︶ と ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ を 比 較 し 、 前 者 が 煩 雑 で あ る の に 対 し 、 戒 環 の ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ は 、 簡 潔 か つ 明 瞭 で あ る と 称 え て い る 。 な お 、 試 み に 長 水 子 璿 の ﹃ 首 楞厳義疏注経 ﹄ と戒環の ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の文字分量を比較すると 、 前者が約二二万字なのに対して 、 後者は約一五万字 となっており 、 割合にして七割弱ほどとなっている 。 一方 、 その内容的特徴については 、 銭謙益はまず次のように評価する 。 この経は天台の観諦によってがんじがらめになった後 、 その束縛から解放して 、 はるか遠く 、 その見識は大いに 33 銭謙益 ﹃ 楞厳経疏解蒙鈔 ﹄ 巻末三 ﹁ 仏頂枝録 ﹂、 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一三冊八五八頁中段 。 34 銭謙益 ﹃ 楞厳経疏解蒙鈔 ﹄ 巻首之一 ﹁ 古今疏解品目 ﹂、 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一三冊五 〇 四頁下段 。 35 水野弘元 、 前掲論文 、 四 〇 四頁 。 36 黄国清 、 前掲論文 、 一二一頁 。 37 戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ 巻二 〇、 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一一冊八八六頁上段 。 38 銭謙益 ﹃ 楞厳経疏解蒙鈔 ﹄ 巻首之一 ﹁ 古今疏解品目 ﹂、 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一三冊五 〇 四頁下段 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 五四 他の人を超えている 。 ︵ 是経則於台家観諦膠纏封執之後 、 解黏釈縛 、 迢然自遠 、 其識見有大過人者 。︶ 38 銭謙益はこのように天台注釈家とは異なる戒環の注釈を称えたうえで 、 経文を分析して次のように批評する 。 わたし ︵ 蒙 ︶ が思うに 、 戒環の注釈は 、 長水子璿を 椎 つい 輪 りん とし 、 密かにその義門を用いて 、 巧みにその面目を隠し ている 。 はなから長水子璿を超えることは決してできないのである 。 長水子璿は禅によって教をまとめ 、 文字を用 いて解脱を目指すゆえに宗趣が深いが 、 戒環は禅を用いて教を判じ 、 文字からの解脱を主としたために 、 その宗趣 は 捷 はや い 。 華厳宗の中では 、 長水子璿は清涼 ︵ 澄観 ︶ の流れを受け継いでいるが 、 戒環は棗栢 ︵ 李通玄 ︶ を受け継い で い る 。 こ れ が 長 水 子 璿 と 戒 環 の 差 異 の 理 由 で あ ろ う 。 戒 環 は ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ に お い て 自 ら ﹃ 長 水 子 璿 、 泐 潭 暁 月 、 孤 山 智 円 の 三 師 や 長 慶 道 巘 、 閩 中 可 度 、 舒 王 ︵ 王 安 石 ︶、 張 観 文 ︵ 張 商 英 ︶ の 説 を 見 た が 、 す べ て 基 準 と は で き な い ﹄ と述べているが 、 その主張は過ぎたものというべきである 。 しかし近世の学者はあろうことか戒環を尊重して 長水子璿を抜かしている 。 これは浅はかな考えである 。 ︵ 蒙竊謂 、 温陵之解 、 以長水為椎輪 、 闇用其義門 、 而巧遮其面目 。 初非能絶出於長水也 。 長水由禅綜教 、 能用文字解脱 、 故其宗 趣 深 。 温 陵 用 禅 判 教 、 主 於 解 脱 文 字 、 故 其 宗 趣 捷 。 在 華 厳 宗 中 、 長 水 遠 紹 清 涼 、 温 陵 別 承 棗 栢 、 斯 其 所 以 別 與 。 環 師 自 敘 謂 、﹁ 及 観 璿 月 円 三 師 、 及 長 慶 巘 閩 中 度 舒 王 張 観 文 之 説 、 皆 不 足 為 準 繩 。﹂ 其 主 張 未 免 太 過 。 而 近 世 学 者 遂 欲 宗 温 陵 而 祧 長 水 、 此 則 目 睫 之 論也 。︶ 39 銭 謙 益 は こ こ で 、﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ の 特 質 に つ い て 、 長 水 子 璿 と 比 較 し て 、 論 を 進 め て い る 。 こ れ を ま と め れ ば 、 戒 環 ﹃ 楞 厳 経 要 解 ﹄ は 李 通 玄 の 実 践 を 重 ん ず る 注 釈 を 受 け 継 い だ が ゆ え に 、 文 字 の 精 密 な 解 釈 よ り も 速 や か な 実 践 的 解 脱 を 求 めるものであり 、 加えてその簡潔明解な文章表現によって人々に尊ばれるところとなった 。 内容としては独自性を発揮 しているものの 、 根幹としては長水子璿に依拠するものであった 。 このような銭謙益の主張は 、 彼が東林党に属し 、 簡 に流れる当時の風潮に批判的であったことや 、 彼自身が長水子璿に依拠して ﹃ 楞厳経疏解蒙鈔 ﹄ を注釈しており 、 それ ゆえに ﹃ 楞厳経要解 ﹄ に対しても批判的だったことを差し引いて考慮しなければならない 。 戒 環 が 李 通 玄 を 継 い だ と 述 べ て い る こ と に 関 し て は 、 戒 環 は ﹃ 華 厳 経 要 解 ﹄ の 序 文 に お い て 自 ら 、﹁ わ た く し 戒 環 は 以 前 、 華 厳 海 蔵 が 果 て し な く 究 明 し が た い こ と か ら 、 そ こ で 三 回 、 方 山 長 者 の 疏 論 読 ん だ ︵ 戒 環 嚮 以 華 厳 海 蔵 汗 漫 難 究 、 遂 三
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 五五 復 方 山 長 者 疏 論 ︶ ﹂ 40と 述 べ 、 ま た 、﹃ 華 厳 経 要 解 ﹄ の 撰 述 に あ た っ て ﹁ 李 通 玄 を 正 と し 、 清 涼 澄 観 を 助 と す る ︵ 以 方 山 為 正 、 清 涼 為 助 。︶ ﹂ 41と 述 べ る こ と か ら も 明 ら か で あ る 。 宋 代 か ら 明 代 に か け て 李 通 玄 が 大 い に 尊 重 さ れ た こ と は 荒 木 見 悟 ﹁ 明 代 における李通玄 ﹂ 42に詳しい 。 このような銭謙益の戒環に対する評価は非常に参考に資するものであるが 、 注意すべきは銭謙益もまた 、 戒環の主張 を曲げている点である 。 銭謙益の引用した戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の原文は次のとおりである 。 ﹃ 楞厳経 ﹄ の唐から宋までの科判疏釈に 、 十家余りあるが 、 愚 わたくし の見られたのは 、 長水子璿師 、 孤山智円師 、 閩中 可度師 、 長慶道巘師 、 泐潭暁月師 、 王安石 、 張商英の説である 。︵ 中略 ︶︵ それらは ︶ みな 科判の 4 4 4 基準とするに値し ない 。 ︵ 楞 厳 自 唐 至 宋 、 科 判 疏 釈 、 十 有 余 家 、 愚 及 見 者 、 若 長 水 璿 師 、 孤 山 円 師 、 閩 中 度 師 、 長 慶 巘 師 、 泐 潭 月 師 、 舒 王 、 張 観 文 之 説 。 ︵ 中略 ︶ 皆未足為科判准繩 。︶ 43 すなわち 、 戒環は科判についてのみ 、 長水子璿などの科判が基準とはならないと述べているのであって 、 注釈につい て述べているのではない 。 銭謙益は ﹁ 科判 ﹂ の語を削除して引用しているのである 。 それでは戒環が長水子璿などとの差異を強調する科判について彼はどのような意見を持ったのだろうか 。 現存する中 で戒環が見えたであろう主要な科判と戒環のものを大科において比較したのが本論末尾に示した表である 。 その基本的構造としては銭謙益の述べる通り 、 一見異なるように見えて 、 実際には長水子璿の科判を基礎として 、 名 称をより簡明したうえで多少の改変を加えていることが見受けられる 。 つまり 、 長水子璿の科判は正宗分において七科 に 分 か れ 、 戒 環 は 五 科 に 分 け る が 、 戒 環 は 長 水 子 璿 の ﹁ 明 修 行 方 便 ﹂ と ﹁ 辨 離 魔 業 行 ﹂ と を 統 合 し て ﹁ 修 道 分 ﹂ と し 、 39 銭謙益 ﹃ 楞厳経疏解蒙鈔 ﹄ 巻首之一 ﹁ 古今疏解品目 ﹂、 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一三冊五 〇 四頁下段 。 40 戒環 ﹃ 華厳経要解 ﹄、 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第八冊四五一頁上段 。 41 戒環 ﹃ 華厳経要解 ﹄、 ﹃ 卍続蔵 ﹄ 第八冊四五一頁上段 。 42 荒木見悟 ﹁ 明代における李通玄 ﹂、 ﹃ 中国心学の鼓動と仏教 ﹄、 一九九五 、 一四一│一八一頁 。 43 戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ 巻一 、﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一一冊七七七頁上段 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 五六 ﹁ 辨趣生因果 ﹂ と ﹁ 陳禅那現境 ﹂ とを統合して ﹁ 助道分 ﹂ としたのみである 。 また 、 長水子璿と戒環が異なる点として 、 波斯匿王とその子琉璃王が出現することや 、 摩登伽女 、 耶輸陀羅の授記といった ﹃ 楞厳経 ﹄ 自体の内容的矛盾によって 長水子璿は前後二会に分けるのであるが 、 戒環は一会であるとする 。 しかしこれも 、 長水子璿の ﹁ 請益再陳分 ﹂ を ﹁ 助 道分 ﹂ としたに過ぎない 。 この意味においてはやはり銭謙益が主張するように 、 戒環の注釈の基礎に長水子璿の注釈が あるということはできる 。 そ れ な ら ば 戒 環 は 何 故 前 代 の 科 判 を 強 く 批 判 し な け れ ば な ら な か っ た の で あ ろ う か 。 そ れ は ﹃ 楞 厳 経 ﹄ が 見 道 、 修 道 、 証果 、 結経 、 助道という首尾一貫した修道論の理論的経典だと強調することにあったと思われる 。 戒環は正宗分の科判について次のように述べ 、 長水子璿の科判を批判している 。 そ も そ も 、 見 道 の 後 に 修 道 し 、 修 道 の 後 に 証 果 し 、 修 証 の 事 が 終 わ る と 、 そ こ で 経 を 結 ぶ 。﹃ 楞 厳 経 ﹄ の 法 の 要 は ただこれのみである 。 しかし世尊は大慈心によって 、 ふたたび持戒の衆生をして謹み清く過ごし戒を犯すことを無 くさせるため 、 真の修行者を岐路に迷わせないために 、 助道の法を説いて 、 最後の垂範とし 、 そこで流通分入って 会が終わる 。 これは一経の一筋の理論であって 、 連環しており途切れがない 。 判じて異会となし 、 科して異義とな すことはできない 。 ︵ 夫見道然後修道 、 修道然後証果 、 修証事畢 、 於是結経 。 楞厳法要止此而已 。 而世尊大慈 、 復欲持戒衆生謹潔無犯 、 真修行者不 遭枝歧 、 故説助道之法 、 為最後垂範 、 遂入流通而終会焉 。 此乃一経綸貫 、 連環不断 。 不可判為異会 、 科為異義也 。︶ 44 そして 、 この科判における主張は 、 その教判論と密接に結びついていると考えられる 。 戒環は長水子璿と同様に天台 五時教判を用いて 、﹃ 楞厳経 ﹄ の説時について解釈を行った 。 長 水 子 璿 は 次 の よ う な 解 釈 を 行 っ て い る 。﹃ 楞 厳 経 ﹄ は 説 時 か ら 言 え ば 、 ば ら ば ら に 説 か れ た も の で あ っ て 一 時 の 説 で はないが 、 文義から言えば 、 法華後涅槃前である 45。 これに対して 、 戒環は上記のように批判したうえで 、﹃ 楞厳経 ﹄ を般若後法華前と位置づけ 、﹃ 楞厳経 ﹄ を実践におけ る終極の経典であると 、 次のように述べる 。 そもそも 、 法王の説法は 、 有 み だ れ が な い 條不紊 である 。 始めに一乗頓教を説いて本を立てるのは 、 即ち華厳である 。 次に三 乗漸教を説いて機を与えるのは 、 即ち阿含 、 方等 、 般若である 。 後に一乗円教を説いて以て一乗真実をあらわした
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 五七 のは 、 即ち法華である 。 楞厳は即ち般若と法華の間であり 、 実に大乗終極の教である 。 故に如来密因菩薩万行修証 の法は一切畢竟にして 、 これより以後は 、 ふたたび進修することは無く 、 直接一乗円妙の道をなすのである 。 この ゆえ 、 法華会上ではまったく地位の論は説かれず 、 純粋に妙法を談じ 、 根機に随って印可や授記し 、 作仏している のである 。 ︵ 夫 法 王 説 法 、 有 條 不 紊 。 初 説 一 乗 頓 教 以 立 本 、 即 華 厳 也 。 次 説 三 乗 漸 教 以 逗 機 、 即 阿 含 、 方 等 、 般 若 也 。 後 説 一 乗 円 教 以 顕 実 、 即 法 華 也 。 楞 厳 即 般 若 法 華 之 中 、 実 大 乗 終 極 之 教 。 故 如 来 密 因 菩 薩 萬 行 修 証 之 法 一 切 畢 竟 、 自 此 已 往 、 無 復 進 修 、 直 造 一 乗 円 妙 之道 。 故法華会上更無地位之説 、 純談妙法 、 隨根印可授記作仏而已 。︶ 46 上述のごとく 、 先行研究により戒環は根源的に ﹃ 華厳経 ﹄ や ﹃ 法華経 ﹄ が一仏乗として同一性を有することを強調し たことが明らかになっているが 、﹃ 楞厳経 ﹄ に関しては 、 これを五時中の法華前に位置付け 、﹃ 華厳経 ﹄ や ﹃ 法華経 ﹄ に 共通する一仏乗へ登らしめる究極の経典として体系への位置を行った 。 そして科判において本経の内容を修証論として 明確かつ簡易に示した 。 ここに戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の特徴が存すると思われる 。 上来 、 戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ について初歩的考察を試みた 。 戒環は李通玄の影響を受け 、 語句の難解な穿鑿を避け平易 簡潔な表現により注釈した 。 また 、 五時教判を依用して本経を実践における究極の経典と位置付けた 。 このようなとこ ろに明末に陽明学の隆盛によって修証論に対する関心が高まる中において ﹃ 楞厳経要解 ﹄ が受容された理由があったも のと考えられる 。 当然ながら本論ではその梗概を示したのみであり 、 この点について注釈本文への検討は必要である 。 5.まとめ 本論では明代において受容された戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の特質を探るため 、 戒環に関する先行研究 、 戒環の住した泉州 開元寺の環境 、 そして ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の特徴を論じた 。 44 戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ 巻一 、﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一一冊七七七頁下段 。 45 長水子璿 ﹃ 首楞厳義疏注経 ﹄ 巻一 ﹁ 七教迹前後 ﹂︵ ﹃ 大正蔵 ﹄ 第三九冊八二五頁中段 ︶ を参照 。 46 戒環 ﹃ 楞厳経要解 ﹄ 巻一 、﹃ 卍続蔵 ﹄ 第一一冊七七七頁上段 。
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 五八 戒環の住した泉州開元寺は五代閩国のころから宋代にかけて 、 施政者などの保護を受けて発展し一一七もの支院を有 する大寺院となった 。 支院としては禅教律や浄土教などの各院が林立し 、 諸宗融合という中国仏教の思想史的趨勢に対 して 、 その物理的条件がそろっていた 。 北宋末のころの開元寺では 、 教から禅に転向する僧が見られ 、 ここにおいても宋代における禅宗の躍進を見ることが で き る が 、 禅 宗 に お い て は 経 典 を 軽 ん じ 否 定 す る 風 潮 が あ っ た 中 で 、 開 元 寺 の 環 境 に お い て 戒 環 は 経 典 へ の 研 鑽 を 深 め 、 独 自 の 一 大 仏 教 理 論 を 構 築 し た 。﹃ 法 華 経 ﹄﹃ 華 厳 経 ﹄﹃ 楞 厳 経 ﹄ の 注 釈 を 撰 述 し た の は 、 経 典 研 鑽 を 放 棄 し た 同 志 を 導 く という目的もあった 。 では戒環をどのように評価するべきか 。 戒環の生涯は資料の不足により明確ではない部分が多いが 、 禅僧と接点を持 ち 、 同世代の行儀からは禅師と呼称されていたのであるから 、 禅 ・ 教 ・ 律の区分としては水野氏の説くような学者的禅 僧という評価が妥当である 。 しかし 、 崔氏の指摘する戒環が無示介諶の門人だったという説は 、 両者の生没年代や思想 的関連性から考えれば妥当性を欠くように思われる 。 経を棄て禅に転向する僧が続出する中 、 戒環はそのような当世の 主 流 た る 禅 の 思 潮 と は 一 線 を 画 し 、﹃ 楞 厳 経 ﹄ 等 の 経 典 の 力 を 借 り て 解 脱 を 求 め る 思 想 を 有 し て い た 。 こ れ は 思 想 史 か ら 見れば 、 圭峰宗密や永明延寿 、 長水子璿などの禅教調和論の延長線上に位置付けられると考えられるが 、 このような思 想は 、 祖師禅隆盛にあって ﹁ 禅宗 ﹂ から見れば異端と目されたとも見られるが脈々と受け継がれていた 。 戒環がこのよ う な 思 想 を 有 す る よ う に な っ た 背 景 と し て は 泉 州 開 元 寺 が 禅 教 律 具 備 す る 大 規 模 の 寺 院 で あ っ た と い う 環 境 の 影 響 も あ っ たと考えられる 。 本論ではほとんど ﹃ 楞厳経要解 ﹄ の内容に立ち入らなかったため 、 今後はさらに本注釈の内容的分析 、 長水子璿など の注釈書との関係や 、 受容の方面などにつき考察が必要である 。 また 、 同じく禅や李通玄の立場から ﹃ 楞厳経 ﹄ を注釈 したものに覚範慧洪 ﹃ 尊頂法論 ﹄ があるが 、 これが受容されなかった理由もまた今後の検討課題としたい 。 ︿ キーワード ﹀ ﹃ 楞厳経 ﹄、 戒環 、﹃ 楞厳経要解 ﹄、 ﹃ 泉州開元寺志 ﹄、 宋代仏教
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤)
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 六〇 宋代『楞厳経』主要科判対照表(略図) 『楞厳経』巻次 分段位置 『大正蔵』『楞厳経』 第19冊頁段行 惟愨科(閩中可度撰『楞厳経箋』に 拠る) 長水子璿『首楞厳義疏注 経』科判 孤山智円科判(無尽 伝灯『楞厳経円通疏 前茅』に拠る) 呉興仁岳『楞厳経薫聞記』 科判 戒環『楞厳経要解』科判 卷一 如是我聞 106b12 ○序分 ○序分 ○序分 ○序分 ○序分 ●説法時処 巻一 時波斯匿王 106b24 ●発起序 卷一 阿難見仏頂礼悲泣 106c16 ○正説分〔酬問正説分〕 ●阿難悲恨請修三昧 ○正説分 ● 依常住真心 以開円解 ○正宗分 ●阿難啓請 卷一 於時復有恒沙菩薩 106c19 ●同時大衆 欲欽聞 ● 於時下大衆願聞経 卷一 仏告阿難汝我同気 106c21 ○正宗分 ●釈密因 △簡妄 ●如来乗機広為開演 △顕如来蔵心 ●仏告下如来演説 △開楞厳解心 ○正宗分 ●見道分 卷二 阿難即従座起礼仏 110c05 △見相 卷二 阿難汝猶未明一切 114a20 △会相 卷四 爾時富楼那弥多羅尼子 119c07 △了妄 卷四 阿難及諸大衆聞仏示誨 122a10 △決択 △明修行方便 ● 依常住真心 以起円行 △顕楞厳行法 ●修道分 卷五 阿難及諸大衆蒙仏開示 125b27 ●明修証 △明慧観円通修証分 卷六 阿難整衣服 131c01 △二力加持修証分 △辨離魔業行 卷七 阿難即従座起頂礼仏足 138a24 △万行円資修証分 △示地位階差 ● 依顕密両行 以分円位 △示楞厳地位 ●証果分 卷八 爾時文殊 利法王子 142c29 ○流通分 ●請号流通 △出聖教名殊 ● 承三法既備問名受持 ●結経分 卷八 説是語已即時阿難 143a09 ●防邪護正 〔請益再陳分〕 △辨趣生因果 ● 広辨七趣戒 備失錯 ●助道分 卷九 即時如来将罷法座 147a21 ●除魔保定 △陳禅那現境 ● 無問自説預明禅境 ○三流通分 卷十 阿難若復有人遍満十方 155a13 ●運教弥興 ○流通分 ○流通分 ○流通分
温陵戒環禅師『楞厳経要解』初探(大澤) 六一 宋代『楞厳経』主要科判対照表(略図) 『楞厳経』巻次 分段位置 『大正蔵』『楞厳経』 第19冊頁段行 惟愨科(閩中可度撰『楞厳経箋』に 拠る) 長水子璿『首楞厳義疏注 経』科判 孤山智円科判(無尽 伝灯『楞厳経円通疏 前茅』に拠る) 呉興仁岳『楞厳経薫聞記』 科判 戒環『楞厳経要解』科判 卷一 如是我聞 106b12 ○序分 ○序分 ○序分 ○序分 ○序分 ●説法時処 巻一 時波斯匿王 106b24 ●発起序 卷一 阿難見仏頂礼悲泣 106c16 ○正説分〔酬問正説分〕●阿難悲恨請修三昧 ○正説分●依常住真心 以開円解 ○正宗分 ●阿難啓請 卷一 於時復有恒沙菩薩 106c19 ●同時大衆 欲欽聞 ●於時下大衆願聞経 卷一 仏告阿難汝我同気 106c21 ○正宗分 ●釈密因 △簡妄 ●如来乗機広為開演 △顕如来蔵心 ●仏告下如来演説 △開楞厳解心 ○正宗分 ●見道分 卷二 阿難即従座起礼仏 110c05 △見相 卷二 阿難汝猶未明一切 114a20 △会相 卷四 爾時富楼那弥多羅尼子 119c07 △了妄 卷四 阿難及諸大衆聞仏示誨 122a10 △決択 △明修行方便 ●依常住真心 以起円行 △顕楞厳行法 ●修道分 卷五 阿難及諸大衆蒙仏開示 125b27 ●明修証 △明慧観円通修証分 卷六 阿難整衣服 131c01 △二力加持修証分 △辨離魔業行 卷七 阿難即従座起頂礼仏足 138a24 △万行円資修証分 △示地位階差 ●依顕密両行 以分円位 △示楞厳地位 ●証果分 卷八 爾時文殊 利法王子 142c29 ○流通分 ●請号流通 △出聖教名殊 ●承三法既備問名受持 ●結経分 卷八 説是語已即時阿難 143a09 ●防邪護正 〔請益再陳分〕 △辨趣生因果 ●広辨七趣戒 備失錯 ●助道分 卷九 即時如来将罷法座 147a21 ●除魔保定 △陳禅那現境 ●無問自説預明禅境 ○三流通分 卷十 阿難若復有人遍満十方 155a13 ●運教弥興 ○流通分 ○流通分 ○流通分