昭 和 42.43.44
年 度巡 検 記
寸山 村 と 海 村 の 地 理 ' '
岡 山 大 学 教 育 学 部
地 理 学 研 究 室
絢一 昭 挿、 y
榊 首 席﹃虹ド絹
票
ト音酢.レユ▲l・.ヽ一̲=
21101170844
岡 山大 学 附 属 園暮 館
他姓巡検記 も数 えて第6稗 を迎 えるo 今臥 ま肺和42年度の蕃 水 ,日本原 ,阿 43年度の東 城 ・帝釈映 ,同44年度 の寄島 ,すなわ ち,中h]背黒山地南旭の村 ・カルス トの村 ・瀬戸内海 沿岸の漁菜の村 を中心に ,卒米生 の論揃 を収勾 した
。
「山村 と漁村の地理」 と呼 ぶゆ えんであ る。 ささやかで はあるが . 「地域研究」 とともに ,岡山大 学教育学部社会科研 究室 の年輪 とと もにつ ちかわれた伝統 としたい とひそかに念耕 し,努力 してきた成果 であ る)「伽 ̲・TL巡検」 を作 T).そ して fI'てて くだ さった石田 発先生 ,宗 田克 巳'k生 がこの地理巡
検記
に桃極的に御指と二i.下 さ った こ とはまこ とにあ りがた く史跡 こ付 くflrコ礼 申 し上けたいO宗 田先生 には昨年還暦 を迎 えられ ,ます ますお元気 で旭 埋学 界のため ,岡山大教育学部 のために御宿柑
・符牒 助いただいているこ とは改 めて云 うまでもたいが ,この報告満 も先生の献身的な飼jk:戊 に よるものである。I'fS別に鰐典 を考 える こ とがいろいろな
三 i
H汗でで きなか ったが ,第6抑 ま 「 方三田克 巳先生還勝記念号」 である と考 えていただきたい,
また ,それぞれの巡検 にF,TLま しては関係各位のあた たかい御配席 ・御Ig情 をいただ いた こ とを忘れるこ とはで きないっ御家癌そ ろ って迎 えて下さ った民招gj夕 ,桁泊や 交渉 ・㌍柑 こつ いてを師己膿 を下 さ った学校や役場の方 々,播 映 りに俊おそ くまでお じゃま した.foJ宅 ,すべてこ の巡検記 とともに よみ がえ って感謝 の念 で
‑
はいであるO改 めてお7Lを申 し上げたい.ところで .】rRl・近地理 学の方法輪 に摘す る出版叫 を検討す る弦を会 をもつ ようにな っては Lめて 近 々5‑ 6年来急増 しているこ とに改 めて謬故 をFrたに した0滴良 を除 けば,摘
f I
弟彦 「地理 学方法論」 (昭10)。に旧年 来にな くな った広擬浩 二氏 の 「地理 学批判」 (昭22)をは じ め とす る一連の君‑3を脚 ナば ほ とん どなか った とい って よか った, それが昨今では宮川普 造 「 現 代他姓学原論」 (耶 37),/.I‑ツ不‑ ン ・野 付正七訳 「地捜学方法論lをかわ き りに ウール t・.)ッ
・ )
・イース ト。企崎懸 訳 「地理等のふ榊 とEI的」 く耶 42).,.'ノジ 。西村恭助訳 「 ljE紺 色理学」 (昭45
.1,ソール .射弘 げ
「地相芋 と社会竿L ' ) 執 三
り (附43
),ン ヨレーーb山不 ・正井 ・田中訳 r地‡望学くつ方法折 的考察」 (・'昭!'2、)等k と一つの 7'‑‑ムであ ろ とい って よい。 これは出政界の好況の反映 であることに p,よるが,わが 国のiq1理 学榊 )如 きを反映 して7 いる とも考 えられ よ う.その一つ きよ収後 q)grしい研究括hbが25年 を純 色して維 しは じめ・
それに ともな って地壇学 とは どの よ うな学問 であ るべ きか とい うこ とが改 めて考 え られ るよ う にな ったこと,第2には
uS ・ . i
了をは じめ とす る加地紙
幅 ・じil発Bhti71への地理学 の参加の し‑)J‑と関 連 して近々10年来応 用地埋草 の方法緬にIhjする論議が 宿敵 こな ったこ ととをあげて よい と思 ぅO これ まて地地割 恨 者 にはや や ともす ると 「実際の学」 を 自負す るあま り祭料や情報 の席 料 ことらわれす ぎて力法論 的な検肘が少なか った/J)ではなか ろ うか。hhnrice le La710u がq)べているJ:うに 「輝 か しい点綴や尖甥的なb}紗 こもかかわ らず ,その 諸方法 ,その侶J11, ぉそ らくその対象 さえも鰍かで決定的 な株式で は保 .址され るに亘 って いない という感伯 を与 え られている」
「不遇な学問」 としないためにもこの際 ,地地学の‑^一法Bl‑的検融 が行 なわ れてよ い と思 う。 これまでの方匪論は一部 の学者 のテク トリーであ った し・多 くの他 の出 生学研完も はまかせ切 った気指が弓如 、つた','ではたか ろ うかQ しか し,それだか らとい って ・地理巡蚊に 帆す る新 しい方法論 的鯛櫨 をも っているのではないUわれわれはこれまでの良 き伝ふしと丑 かな 成果 がある。 こうもをま とめ一つの定出 にまで昇零 させ るこ とが現在必軌 ので はなか ろうか・(高 韮 進 )
トー 1483
序
目 次
第
1
賦 昭和42
年度巡検 レポー ト 1 人 口 ・一一‑・・一・,‑・・1 ‑・・・‑・ 2 娘 落 ・・‑・一・‑・‑・・・‑‑‑I 3 日本原の蹄柘 ・‑・・・‑・・・4 広戸風 ・‑‑=‑‑・・・・・・・‑ 5 泉 ・・・‑a‑・・.‑・・一・r一一一・‑・・‑‑一・一 6 曽木の兼輿盤家 一一一一一・‑一一・
トrL ‑r 1 l l‑(
森田孝一
高山琢三 ,:松本邦
光
′」、野健忘 ‑・・・‑ ‑・
1 1 5 ll 岡瞭明宏 ,河不充昭 ,億劫 敢 ・一一一・・・‑17 万成通子 ・.‑一・・・‑・一・‑A‑ ・1‑‑一‑I.‑I‑r・・‑ 25 福江限子 ,・・一・‑一一・‑‑・・・・・‑・一一サ・‑I‑‑‑・‑‑‑・27 7 「煽状地における土地利用」 ‑・東上敏夫 ,大損/」、裸子 ,山下草子 ‑‑130
岩略 威 ・・・‑一・・‑一・日‑‑・・・‑I‑・・‑・一・‑・・‑ 番 田由紀子 ,性篠澄子 ,中村哲子
淵本弘道
・‑‑38
・一日42
‑‑窮〇
・・・50
‑・・藤井正夫 ‑‑‑・‑・・‑・‑‑‑A.・・・・・・小 目‑‑‑・一・55 岡 部子
弟田孝‑ ・・‑ B
畜
産 ‑・.一・一‑‑‑・‑ .・・・‑・9 常座について ‑‑一日・・‑・・
‥ 折2編
r
闘 口43年度巡検 レポー ト 1 哲西盆地 一・・‑・・・一・一一一一一‑・・・1 2 人 ロ ー‑・・・‑‑・‑‑・‑・・‑・‑I 3 牧育 (千千の放牧 )I‑・・‑ 4 林 茄 ・・・・・=一・・‑‑・・・・・・‑I 5 不地師について 一一・・‑1・・‑・1 6 カルス ト地形 ‑・・一一一‑=・・ 7 たた らと鉄穴地形 ‑‑・‑ 8 盛 業 ‑一・日・一・‑‑・・・・一日・・・一・一国分鑑仁
‑・・山下孝子
・・‑ 大崎 穀
・・・'JJ力こ典子
y J T
S編 昭和 44年度巡検 レポー ト ・・・ l 自 然 ‑・・・.‑‑I‑‑‑・・‑・・・・・.・叶・・・・ 2白
糸 ・‑.・・一・一一一‑‑I‑‑‑‑一・・‑・・・・‑‑. 3 園 芸 ・一・・・・・‑‑一・・‑・‑‑.・....I.A /. 術中杜氏 ・・一・一‑1・‑,・・・・・‑・・・一・ 5 漁 某 ‑=・・・・・・‑・・‑‑〜.‑:・・‑・一・6 塩 m ・・.・・・‑・・‑ ・
7 民 家 ・・・・;・・‑‑・1.・・・一・一・・・・‑A‑I 8 家 屋 ・‑‑・・‑=・・一・・‑・・‑・一・・
・ ・
9 鳥の社会 ・・・‑‑I‑1・:‑‑I 第4
前 投 相 論 文 ‥ .1 何 もかも珍 しいものだ らけ ・‑ 2 備中町雑感 ‑・‑‑‑・・一・一一・‑I‑・一・‑ 3 雑 感 ・・一・一‑‑I‑‑一・・・‑・・‑・‑・‑ ・1 4 ヨー ロッパ旅 行で考 えたこと
棚不弘道 渡辺成人
62 72 78 r82
・一一一92 96 106 106 111 三宅榊一 ,協 力者 .相沢一正 ‑.‑一一,̲〜121 涙山伸一,園外寛仁
森田孝一
桔本玲子 一・・‑・‑ ‑ ノト好利朗
小野い く江
‑一・・.,,‑‑‑一132
沼不荘子 ,谷tl訃#実
巳息弥仁
党文一耶
Ea
田
川票森塩山
146 151 158 165
・‑・‑1‑‑∴一・・一・‑・‑176
l
第 一 編
昭和 42年度巡検 Vポー ト
写51 1 中島来 しおか き様
写5‑2
しおか き様 か ら連 な る溝
写7‑1 北吉 野村 の滝本 の西 の地 区 国道 rF)tの苗床
トラク ターで耕 作 してい る
写8‑ 1 野 川地区 の牧場
写9‑ 2
第‑編 昭和 42 年度巡検 レポ ー ト
1 . 人 口
近年 .人 口の都市集中が国家的を間
組
にtでなってい るが ,岡山県は労働力の移出県 として 阪神地域 に多量の人口流出をみる。 当県の労働))移 出の中心比県北に あるが.われわれの訪れ た勝田郡 の状況はいか なるものであろ うか。奈 義 町
(1) 出稼 ぎ仕.昭和58年 まで削合少なか ったが.同年来襲 した台風 の韻書に 上る集作物の 滅少 を補 うために息故に増加 した。工場の少ない当地 にあ.)て相.出稼 ぎが現金収入の不 足を補 う唯一 の方法 であった。 出稼 ぎ先は主 として阪神地域 の工事現場の労務者 としてで あるが ,最近は加古川 .姫路を中心 とす る掃磨工業地帯 .又.水島の工場進出に伴 う土木 工事の労務者 としての就業 も増加 しているn 出稼 ぎの古い ものとしては .井の酒造業の杜 氏がある。その教比少丑く 20人海産であった。現在の出稼 ぎ人 ロは多い時 で4 00人程 度であるが.短糊の者 が多いので流 出流人が散 し(.その正確 を数枚役場 で もつかみがた い との ことである。
出穣 ぎが顕著にな り始めたのは .昭和58年か らで ある。 56年の米作は豊作 .57年 壮普通作 , 58年比台風
に
よる我音大で不作 となってお り,風水書に
よって現金収入の道 を断たれた農家仕 .その解決法を出穣 ぎ忙求 めたので あるo農家は水害 の救済措定 として 国か ら放億円にのぼ る災専融軟を うけたが .その遁辞 も出稼 ぎを促 した. この出硬 さ●農家 比広範岡にわたってかb.水田を1町内外所有する曲家で も,
農閑期には軒並み季節労働 者 として主人 を阪神地域に送 b出 している. しか し.出凍 ぎ農家の平均水田所有両横比 7 反であるO主人の出稼 ぎの結果 ,俗 にい う■さち十ん鼻薬 ̀が ここで もみ られ ることにな る。 しか し,工業の発達 した地域の'5ち ゃん&業 'とちが )ところは .農家の主婦に過 大 を負超 がかかるところで あろ う。つせ り.サ ラ リーマンとなってい る都市部の焦家の主 人の ように, ■今 日典英 を散布 して下さい "とい って主婦が頼むわけに̲けいか75いか ら。出稼 ぎ壮余剰労働力の過度の放出と夜9 .本収である煉巣生産に支 障を きたす ように 凍 った。 この解決兼 として.現在皆木の梯 8,J、さな谷 あいの濃家に も,異常 とい って よいほ ど鼻糞機械が普及 している。 もっとも,点村特有の凍争意識に よって.農家の夷の必要性 以上に新型の鹿業機械が耕人音わた とい う両 も否めをい と考え られ るo現在の米麦中心の
一・・1‑
鼻薬では .商品軽帝の農村への便透 の敢 しい今 日にあっては .農家の家計 を推持する こと は非常に むつか しい. それ乱 出稼 ぎが,すす tナ盛んにを bうっあるO
では .出稼 ぎに出ない農家の状況は ど うであろ )か。 当町の鹿家赦吐 1,560戸 (1反
■■
以上)であるが ,この半数がキ 葉並家 で ある0年薬良家 の平均耕作両横比1.5ノ1町 とな って いるが .これ比平均で あるか ら,その耕作両横が数町 の ものか ら 1町 を削 る ものまで多岐 にわた っている こと仕 もちろん であるo そ して.出碑 ぎにい く鹿家 の平 均耕作面疎が7反 で あるo尊楽曲家の うち.梓営両横が少 々せ ま くと も出潅 ぎに出てい ないのVi.タバ コ.
果 樹等 の園芸作物 を栽培 してい る鹿家 であるo これ らの農家が出稼 ぎにあせ b出をいのは 決 して家計が裕福 であるか らとい うのでな く.園芸作物栽培が労働集約的 で あるために . た とえ短期間にせ 工.出場 ぎに行 くことが頬理 だか らで ある。 タバ コ栽培は米作 エb収入 は多いが.広 戸風に 上ってその品兜が大 き く左右され る とか ,地力の急激 な消耗を伴 うの で連作 に 上 くない とかの条件 が あるので . これ らの農家 も出棟 ぎ予備軍的存在 である とみ
ることがで きよう。
出稼 ぎは .家庭生活 .子 弟の教 育等多方面にわ た って好 せ しくない面を内包 してい る。
従 って .この出稼 ぎを境′J、限に くい とめ る帝 として当然企集誘致が考え られ るが ,道路網 の不整備 .工渠用水の不足等企巣に とって魅力的 なところが ないの ヤ計画倒 れにな って し ま っている。現在おぼ しき工業 としては .′J、規模 を練物工場が教 ヶ所 あるにす ぎをho
L2) 農家 の離鹿瀬村
工業後進県の各地 で典家の雑村現 象が激 しく走 っているが .奈義町 もその例であるO 稚 村 の原因 として大 きく2つにわけ られ る。
(i) 農業後継者 (多 くは長男) が都 市に出て しま .>て帰免せず .年 老いた両親に とって農 薬が負轟過 重 とな .>て息子 の所へ 出てい くo
(.,) 出稼 ぎ中 に エい職 をみつけ .農薬収入
上
b上い安定 した収入が得 られ る ようにな った。又 .触村す る場合の土地 の処分の仕方には次の5型式 がみ られ る。
(j) 事象僻村 のの ちも田地 を手げ をさす .農繁期 (田稚.収稚) の時以外 打 .他人 にその 管理 をせかせ る。
(p) 親類に小作 として土地 を預け .小作料 と して米 を もら)●
レう 土地 を売却す る。
今の ところ(Faの型が1番多い。レ寸の型 比昭和40年頃か ら次第に増加 してお 9.年間約20 軒 の農家が この方法 を とって離農 してい る.
(
イ).(ロ).ともに土地 を売却 しない で離村す る型‑2‑
であるが .売却 しない理 由 として次 の ことが考え られ る。 その第一は島民の ・土地 こそ本 当の財産で ある 一とい う観念 である。 その 2昧現在農業以 外の職につ くことが有 利で あっ て も.彼 らがその職 を得た もともとが手帝労津者 であったため ,不貴気 になった時に仕他 の1.7巧者 と企業 とのク ,シ ,ンの勧 さをさせ られるよう/ll不安定 を立 場 に ある とい う志織で ある。 そ して .その時にそをえて徹 底隈の生活保 障 とな る田地 を確/# してお こ うと ぐろた めで あるo しか し.とと赦年間の安定 した東泉に ,t少柵良す る者は fZく.その結果 として.
昭和40年頃か ら田地 を売却 して散村す る ものが漸増 してい る.又 ,行 きさ き昧大臥 兵 庫が圧倒的に多く 2/5以上 を 占め てい るが ,とれ比俄が阪神地 域に多いせい もあろが , 先に離村 して安定 した生活 を営ん でい る者が .同郷の者 を よび 上せ てい る影尊 も大Cある との ことであろo又 ..表 1‑1 1に み られ る・rうに 5. 4, 9月に
転
出か多 くみ られ るのは, 挙豪放村 を行 な う場合 .子 弟の入学の ことを考えねは 食 らぬか らであ 少.中 .鳥卒者の媒 外乱磯 も多いか らで ある。 (転入者が予想外 に多いのは , 日本原 に 自衛隊の演習場 が :jろ 為)未 1‑ 1 4 1年度月間丹1純銀人 rj衷
1月 2月 5 月 4月 5月 i̲月 7月 8月 9月 1D月 11月
男 I8両 .l.d J25122140回 2.l2A 9I22125128125110回 25I14̲115125l'2l'!18 女
計
4 ll 9 4 15 10 9 9 8 15 10 7 15 5 10 4
(注) 1. との表の転入 壮煉内外 .転出壮県外 のみの故 を示す duo
500 400 500
200
100
0
/
が \ 5,447 ・
結
7 転 出■●
. ・ ・
・‑ 227 275 2?5 転入 16057 58 59 40 41年 (注)転入 .転出 とも煉 内外 を含 むo
ll‑3‑
図 1‑ 1 奈義町 の転出 .転入 人 口
離兼離村兵家の多 くは分家である。 これけ本家が比戟的広い鼻地 を保布 してい るに比 し.分家統裁地が狭 く,収入の増加をはか ることが困難 であるか らで あるO もう1つの 理 由は .前述の エ)に本家は比軒的大農である故 に.後継者が都市に出ていて も.後 々 には帰姓する ものが あるの忙対 し.分家の場合には長男です ら零細的な鼻糞に見切 りを つけ.都市に出たまま帰農 しないか らである。 この傾向は属桑 .′J、攻等の山間部落に お
いて原書である。
以上
.
兵家の減少についてのみ述べて きたが.農家の増加が全 くみ られ なか ったわけ で比をい。 日常戦争後軍備拡張に ともなって.那岐山ろく
に東西8kb.南北 dkn.総 面 疎 1a.1K
Aに及ぶ 日本原浪習場が設定されたが .第2次大戦後開拓営団に払い下げ られ 大陸引揚げ者な どか ら成る約7 0戸が入植 した。 しか し.その後 自衛隊の沸習場が拡張 された こと,苦 しい開拓地の見業に従事せず とも,産業の額輿
に 上って他に就瀬の通 が ひらけたこと等が あい せって.次々と離農 して しまい.現在わずか18故 戸が裁 ってい るVCす ぎず,村 としての機能は マヒ寸前である。 図1‑ 1にみ られ る転入の大半は 自席 勝負 とその家族であるO昭和40年乾を除いて転入転出に大 きを差が ある ことは .青年, 兵家などの流 出が多い ことを示 している。(3)青年層の流 出
山間地におけ る甘年層の流出現象は普遍的である。 当町 も毎年数 百人にのぼ る中,高 卒者 を出しなが ら.当町に残 る老壮.わITか数十人にす ぎない。 次代を背負 ってい くべ き甘年属の流 出は町の将来にとってゆゆ し車間藍で ある。 4 1年には高卒者 の )ち.男 子10人 ,女子20人が当地に残 ったが .姓協 .役場 をどの公務員 となっている者が多 い。 しか し.この うちには♯業鹿家の後継者 も何人か か り.洗米後継者 ク ラブをつ くゥ て,町に 上る鼻薬構造改普番巣 と歩調をあわせて近代的曲集経営の発展をはか ってい るO 当町の発展は敬少をい甘年属 をいかに効果的に生か してい くか とい うことにかか ってい る とい って も.退官では あるまい。
‑4‑
表1‑ 2 奈藻中学校卒業生の進路 57年 58 59 40141
就
職 男 54人 54 50 17 14 女 55 51l 211 19 25 計 69 65 51 5ム 57
追
学 罪 8〔) 9占 8占 75 68 女 81 95 99 89 87
象
事 輿女 45
1 0 1 D 0
1 5 2 5 総 ■計 257 255 240 200 175表 1‑ 5 就 職 先
57* ・58年 59年 40在 41年 県内 20 18 15 1よ 17 県外 49 49 5占 20 20
(注)奈在 中攻料に 上る
(注)奈蔑中封料 に よるo
勝北町 日本 原地 区
当町 の鹿家の平均耕作面積は奈戊町に比 して狭く . 5反に も満 たない。そ してそ の耕地 の大半 が畑 で ある。に も拘 らず当地 で仕 出穣 官がほ とん どみ られない。 これは .魚閑期に は男女共 日本原建設の労務者 として道路舗装等の土木=車に従車 してい るか らで ある. こ こで も甘年層は・ 1部津山方面‑就職す る者を除いて,他地区同様 阪神間へ 出てい る。 阪神 方面‑ 出てい く青年には ,次男,5男 .女子が 多い。 艮努には .役場 .典協磯風 とか .教 職についてい るものが多い。 日本原地 区には 出稼 ぎはほ とん どをいが .同 じ勝北町 内 で も 大吉 .大岩 ,西村 .市場 ではか な Dの
故
にの摺 る とのことであ る。森 田 孝 ‑
2 .
集 落 (北 舌野村西 分の近世村帯 について)美作 の国主 となった森氏は , 1a04年 (足長 9年)(個 ltjの酬 同の丈丑検地 に‑着手 し長い 期 間 を要 して1656年頃 (明正年間) に完成 しJt。 文 禄の検地 と異 を 9,この検地 では六 尺五寸四方 を以 って一 歩 とし56D歩 を一反 と したので.村の反 別壮滅少 したが ,石高は増 加 した。 これは技術の進歩が あった ことを物帝 るのは もちろん であるが .一 方は封建制 の確
・‑5‑
立に 上って支配者が良民か ら収奪 を巧妙に行 ったことを示すのであろ う。
17世紀初
取
に#藩体制確立に 上って幕府や大名の凸政は .前代か ら大 きい土地 を所有 し た土 豪 を押え.土兼の下人的隷属農民の 自営泉化を支持推進 しようとした。 しか しをが ら辺 境地域 で比,しば しば これ らの土蘇原が反抗す るので ,これ を緩和する一方 策 ともなるので.彼等を庄屋 ・名主その他の村役人に とりたてて利用す るとい う巧妙な手段が とられたのであ った。 Tiた検地 に 上IDて この時土地 を所有 していた首 姓比南岸首姓であり.そ うで75い もの は隷属の程度によって水春宵姓.名子官 姓 と身分の差がついたのであった.同 じ高持首姓で あって も土地所有高の差や家柄に よって長官 姓 と水春 名子 を含 めて′ト前官姓に区別され .長 百姓が庄屋 ・百姓代をるいは組罰になることができたO との身分 の毒総長 くつづいて .門閥 の原因 となったが .考えてみると門閥bT.t人為的73:もので しかなか った ことは明 らかであろ う。
非沖体制の初めにたまたまその頃狂にあった状津が .由来長 く人I.'J的に鮭持され て因 った も ので あろ う。
tた この村 の池は.徳川期の初期に大部分の ものが僻 された 少,あるいは改修されてい る。 森氏統治時代 に検地が行なわれた外に .山席の故地に上って同 じく山林が課税の対 決 と された. あるいは平野部の人家を丘陵上に強制的に移転させて水田の増加 を計 った. (移動 村)
こ うして池の構築 ・改臥 人家の移転に よって耕地の増加を計 り.厳重を換地に 上って年貢 の増収 を求め ,か くし田を摘発 し.遂には山林 の検地に上って多 くの御用林 を作 り.合わヰ て課税 したのてあった。
r 部落 名 地 名 j#集又比改修の年 中 島 東 早 々池 15.97(座長2) 中 島 酉 院内池 1642(寛永9)
∫
I 宮後池 1646(正傑 2)
′ 東
∫
中 島 酉∫ 福本池 (松神池) 1648(康安元) 略谷池 1651 ( , 4)
矢田谷池 t
院内新池 :i
野 田池 ‑t r. . 1654(乗応5)
中 島 東′
荒 内 西∫∫ 1日 9∫ (寛文9) 安春池 1672( . 12) 内松池改修 1684(兵事 3) 天神野地 1688(元禄元)
戴 滝本上町川の池 の構集年は不詳
表2‑
1
に示す 上)に多数の他の構築托耕地面攻の拡大 と収棲増加 を もた らし,従 って領主 の収入の増加 をもたらした。 この頃村 の戸浄人 口は漸次増加 してh lDたo耕作地面鏡の増加が大 きい原因であろ う。○
表 2
‑
215 90年代 (文枝) 15戸 65人
16 90 25 95
18 10 (文化) 77 275
荒 内 村 の 戸 潜 人 口
次に村 を苦 しめたのは
,
謂群体制 に よる訂.怨 み峻 だけで▲た く,天災が大 き く村にかぶ さって 囚紅を増加 した。‑ 崇
に記鐘された災音の超戊とその発生年 を記す と表 2‑ 5に示す通bであ る。乗 2 ‑ 5 1545年 (天文14)
1595 (文禄 2) 16 D7 (座長12) 16 12
(
. 1 7 )16 17 (元和 5 )
18 2 1 ( 〝 7) 1654 (寛永15) 164 2 ( . 19) 1649 (塵安 2) 16 54 (東応 5) 1667 (寛文 7) 1675 (延宝 元) 1674 ( ・ 2) 18 75
( ・ 5
) 16 90玩 t :嘘 5)
17 02
( .
15)大 串 不 作 供 水 早ばつ .洪水洪水
∫
洪水大風 冷 音 大 早 大風洪水
この村の災事は もっと多 くあ り.領主の搾取 と共
に.
村民は甚 しく苦 しんだ ことだろ う。次
に.
1日 9 (寛文元生)勝田郡 の長氏が.領主森氏の苛税に絶えかねて.多数の ものが 祖先伝来の鮭地 を椅てて逃散 しようとした。 これは 「伊勢抜参」といわれ るもので あって,農 民はか伊勢様に参 るといって村 を立 ちのいてい った0 1占97(元禄・11年)森家は断絶 した。 元禄12年松平氏が津山城に入 り美作の約半分 を領 し.他の半分は天領 となり明治維新まで続 いた.1726年 (‑享保11年) げ ,夷島郡で大 きな首姓‑探 (山中昏動) が起 ったが .それ よ
b
軌 1697年 (元禄11年)本村か らほ ど速か らぬ高倉 ・高野村の典民が重税にたえかねて年 貢の城免を求めて立 ち上が り.領主の弾圧をはねかえそ うとしてついに希 い血 を流 した。 この 一線 i.徳川時代 の首姓‑探の内で も全国でははやい ものであった。
1759年 (元文4年)2月,那岐山の向 こう側 .因幡 ・伯 者において農民壮領主池田氏の 重税に反対 して立 ち上が り,藻鐘 ・役人 をおそい.ついに典民比鳥取城を取 りまいて飯主か ら その礎求 をかちとった.因幡
・
実作 を結ぶ主賓道路,因幡往来 に沿 5本村地区にその うわさ拭三石二門 と酵九即は,目の あた りに見.ある程度 まで参加 したのであった。二月因幡か ら帰 っ た与三右 工門 ,藤九邸は.ひそかに談合 して この窮状か ら脱す る兼を封 じた.近藤村の有志 と
も莱 b.ついに三 月二 日に決起 Llc,o
「#肘買租三割 を増徴せん とすO青徒撃破子流離を免れず .近著因州の民強訴を以 って歪謀 を免れた b.宜 しく之に倣 うべ し。若 し応ぜ ざる者 .家 を教其 身を屠らん と
ナ
」 (勝田郡誌)「来三 月二 日.北野村長谷野‑寄合致候間若御出不破成候村方多人数取喰参可 申候 ,尤御出 破成候方 々,荷駄牛御入れ御持 出可被成
候
」 (勝北太平記)こうして立ち上 った百姓は遂月そのい さかい,%増 し所在の穀乱 庄屋 をおそい横仙55ケ村 の大半が参加 して毅 も盛んになった時は
5 .
0 0 0名以上に逢 した。近隣の庄屋や代官手代 など の説得に も応ぜずついに津山藩松平氏の藩兵 が鉄砲を持 って これを鎮圧するに至 b. 5月7日しず
まD
首謀者与三右工門 ・藤九郎の死罪を初め として多数の処罰者を出しておさま った。Et.〜A̲'‑1.‑▼l‑・.lJ ・・rf;∫5 I̲I, ノー‑ . /‑耕
▲
表 2 ‑ 4
・寛 政5 (1795) 寛 政 11 (1779) 文 化 2 (1805)
人 数 d S+ 5 2‑ 118男21‑...‑医者..女.入社男 人 74+ 6 0= 154 6 8+4 4‑ 15 2
午 24 疋 24 15
局 1 ー
軒 数 5 2軒 5 2 1払持 2 1 27軒 (碗持 1d
無 福 1 ー 無高 1 1
村 丁璃 2 14石5斗9升 5合 20 5 .5 .
a
.4 177 ●4 ●7 ●5(束雷宗 .宗門人 放改 順.福村継 夫氏所蔵)
泰 2‑ 4に示 す よ うに 12 ・5年間に人 口比横 ばい .軒数 比やや減 り,牛馬の数 壮減少 して お D.塊家 の苦 しさを示す.
田畑畝名寄
帳
に よる と (文 化2年 )北野村西 分の総 石高 28 8 ・56石 百 姓の持 高 177 ・4 75石 耕地 の面 鎌 19町 9反d畝24歩下t f
1 15 ・5 ・9上 田 7 ・7 ・7 其 の他
耕作 面械 戸数を見 る と表表2‑ 52‑ 5の ように なる。
2町 .‑ 1町 5反 2戸 1.5 ‑ 1 2 5反 ‑ 1町 5
5 ‑ 5反 8
5 .‑以下 8
上記の如く. 180 0年前後 の北野村西分の兵家 の姿で ある。 レ、かに零細典葉経常で あるか がわか る0 1戸平均5反余 b.1年収錘米 8石。 5公5民 として収種高の半分 を年貢 と して上 納 した とす ると, 4石で家族約5人が何 もか も生活 しをければ な らなか った とh bことになる。
文 化2年の 「京 門人簸改削 り 両神右脚 懐 を作れ ば表2‑ 6の ようになる.。 1,
表 2 ‑ d l
持 高 午 家族 1. 家族
蕃 右 エ門 2 2石8斗 5升2合 2疋 6人 敵兵術 無高 (水帝) 1人 勘十 郎 2 1 8
0
d 1 5 専 轡d
(音右 エ門の名子) 5反 助 18 1 1 2 1 A 庄 七
,
(京 助名子) 5 礎石 エ門 17 2 9 4 1 8 三 助一 一
(長二 郎名子) 8 辞茂御家 15 7 2 7 1 a 任 七▼ ( .
) 5長三郎 9 6 4 4 1 4 文 試
′
(農兵 両名子) 4 I千 右エ門 8 5 5 4 1 a 次郎右エ門. ( ,
) 5 長兵循 7 9 5 2 ll 7 春 作〝
(審右 エ門名子) 2 常 吉 7 7 4 9 1 5 太 郎兵 術.
(水呑 ) 1六右エ門 7 5◆6 2 1● 5 正 見 医者
.
6オ五郎 7 2 7
0 0
4 帝 仙.
. 5l.勘四郎 6 5 8 7 1 4 主 命 社人
5
助右エ門 5 9 ■2
0
1 4熊之助 5 2
0
60
7音右 工門 勘十郎 儀右工門 助右二門 友 助
(文化 2)
( 充 政5
百 姓代 ,藤 蔵 の家族)1 7 石1 斗
0升 1合着 苧 丁和 姦4占
‑ll:Eg7).tU た か
助 17オ
29わ ね 21
! 長九郎1
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I ‑ I
' J Il 一
「寮 門人数改帳」 をみれば
.
「他所 よ り抱‑下男下女等 .委紳相改装教書 壱人茂無御座候」
とある0 1家族 の中に .いわ ゆる 「抱 ・門 ・門之者」 と示 され る評常 杓労働 力 を兄い 出す とと ht出さないが .家来 ‑下人がお b.彼 らがそ のか b わを してい た ことと思 う.
門之者のtH=Jgl的性格は宗門帳上 で主人の家族の一 見 として扱われ ,独立 して1家族 とな らない ことで示されてい る。主人が 「門之者 ・下人」 の家族各成
j i
に対 して人 身的支配 を行 うことが 示‑されてい る.同時t,C門之者 ・下人kt主人 の謀族 の中にあって女房子 供 を持 ち小家族 を形成 . 柏 と下人 とけ一 応相 異なるもの とされてい ・'jo抱は凍常女JjjLをもらえるのに .下人仕 7Eか 夜か 女T/;・持 ち]:C‑なれず ,夫QA.Tl下^蛇特例的
にのみ 「指
」に転化 しうろことであ るo下人ljtは ,少年 子供‑,.'∴LJ・いo しか し両者()tli;lil,C壮本 旋的には差 iL、仕 ない。
「柏」比文字通 り主人家族 に抱え ら れ ,主人 と同一一二三族 に住 ま っていて ,独立 した繰J3主 体 とfEりえて ′ゞい。169 0年 (元 禄 5年) 校地 の後宗F17封 〔は 「門之者」 の記湖がな くな i)「泊」は長 く残 るO参考文献 「北 舌野村史」
「日本経済 史大系」 東京大学 出版 会
( 高 山 琢 三 , 松 本 邦 光 )
5.
日 本 原 の 開 拓日本原は .那岐山の南山
鼓
にひろがる広大夜
原野 であったが .鵠二 次大戦後 ,引揚者へ の土 地提供 ,食溢緊急増産の一 環 として阿拓が行 ‑/Eわれ .成功を収 めつつ あったのであるが .昭和 59年に至
b. 自衛隊の演習地 として使用 されることとな b.その開拓事築け挫折 を余義 な く されたので ある。(い 自 然 条 件 イ 土 地
日本原開拓地 仕
,
那岐 山南銘
にひろが る丘陵性 の高台で .傍高200mか ら25 0mの 間に位碇 してい る。地質は ,第三 紀層に残 し.表土比 50仇 内外 の火山灰焦土 (黒 ポク.鼎77(コと呼ばれ る)で強i・液性 (平均PH 5.d)を示 し,地 味 も乏 しい。放 浪状 の地形 で あ る為 .傾斜が1度 7thL 5鮭 とい う利用 しやすい所 もあるが .場所 に よっては15度 ない し20皮 .さ らには50度 に及ぶ地所 もある。土塀 が強 酸性 i・示す ととか ら.多丑 の石灰 を没入 し,土壌の中和 をはか る ことが必零 であ ったO
ロ 気 候
との地にかける年間平 均気温 枕 .15℃をhL 14℃で岡山市 工少 2℃余 り低いの托す
. 11‑
ぎないが .冬期 にかい ては ,‑ 10℃まで下 るこ と もあ D.か を b低い といえ る. しか し, 環高気温は5 5℃ (長嘆 月は8月 で5 1.5で) で岡山市 と大差 ない.
峰水盤仕. 17 D Om余 で .岡山市 の1.100棚 内外 と比べ る と8 0帝以上 多い ので あ るが .この地 の水利 は悪 く.用水 昭の多 くは池がか りで ある。
さ らに この地 の気候条件 と して無視 で きない車は .広 戸風 の存在 で あ る。広 戸風結,台風 が 四国の南方海上 を通過す る時に発生 し.長大風 速は
5 0m /
BeCを越 え る こともまれ で比 75:い。 広 戸風 は ,作物 .住居へ 多 くの裡書 を与え .住居 は防風林 を 備え てい るot2
l
Bi三拓地 の歴史日本原仕 ,古
く
代作
腸詰等 に もそ の地 名&.と見え るが .拍地 としての利用 価値 は低 く.わず かに入 会刈場 として利用 されて い るLです ぎ‑Jrか ったO この原野 に対 す る開墾に仕 .明治初年 に安達 (I‑17l'風に エ b行 T=われ た もe)と,al,二 次大TfA繁(,C行 われ た もの とに大 別す る ことが 出来 る。イ 安 漕析風 の
鋸
3‑gi::5安達 清JJAは .明治11年 9月Pl,6・北 部良に任ぜ られ fCが .その時彼は この原 野 に讃 目 し, そ の閉B を意図 した。 そ こで明治15時徳凪社Jtr起 し.又同年末失 禄士族 の救済 を 自的 と す る開成社 を創立 し
,
岡山 ,JA田 ,詳山 ,.払取Z )
鰭士 1占5名 を集 め .‑‑人 あたb1.1町 も!,コき.計179.5町 の耕地 モ造 成す る計 好 をi
..は した。 明治1 4年 5月勧盛 局 ⊥9 10万 円のJ,lf与 を受け,L i l J
tq: T T菜
に具佑化 され 九が .卒 業 の進展 は期 待 され た程 で壮 布 く, 15 年5月にlr
t,
「40余町 歩qJ地 モ亀柁 し,乗苗5 0万金株 を先摘 し.漸次 自活 の崇に
は tLt ん と」 しつつ あったが .一 方 で(.iコ.r4喝 にブヨの コ用 f̲贋 し.金 約両か らの圧迫 を受け .脱 姐 濃は しだい に行 きづ まって IJlったのし;l三㌔ そ しで jqLlt'台 17年 9月T,Li瓶が投す る と.fJ:.され ,Lc開 拓民は詣371Rの支柱7:ir か ハ才::Ia ‑⊥rT三の 自竜 を失 fj=い、揖 'ii=:・}Lらず して髄 放 し たの で.rlWJ:lLlj想士FJLは子に絹 し,閏拓 B蒜 かrL1‑8丘は真肋.1'clIl;っ71,Jで ある。
前 虹技 .この他
G l j
閃むに
L'::して .水B j U こ
,:Tr‑i
llに三人茄 ナ る ことせ く畑 作を行 /rh ,誰 蛮菜 を主体 と した開塾 を行 夜い ,莱 ,桐 .ブlク等の黙増 を試 み .さ らに放て 好
事議 を行 か bん としてい る. この ようか 汀.1作 中心 の方法 は .現在 の開瀬 棚 こも小 てはか凍り見 られ る もの でLL'39るが ,右JT遠に とって報い の」,7F.:い もので あった。 そ の第‑ の理由
tlt.自然発作 ・・‑ 特 に土 切 と‑/3(.刺 ‑ が悪 く,当時の昆折借地紅か
ハ‑CQi,畑作 物の価 格Q二t低 く,畑 作 のみ にで 諸般 す るこ とには慌 階注が存在 していた.,又 ,当時 日本原 の ごとを辺 韻 の地 に あって 仕 ,経済活勅 の中‑け入れ 表か ったので あろ う。 又入 植者拭 .緒耕 耽読 をモ ・, トー とす る‑15‑
知識階級に崩 し.自ら開塾をせ ず .ml人に依存 していた とい う開拓精神の欠如 も.車莱逮 行 を困難に した要因の〜つであった と考え られるo
ロ 陸軍浜習功
明治4 0年陸軍省 上b原知車 を通 じて,原野の大部分を故習地 としてpTi収 したい とい う 旨の内示があ り,地元代表者は補J駅を再訂操 として .軍の意向を了承 したoそ して明治4 5 年末をもって只収李菜は完了 し.これ以後 .昭和20年8月まで陸軍碩習地 として.地元 ー■
一 也茨 との関係を一・応断絶 され ,渡英生産の姐外におかれる ことと在った.,
」ヽ」
‑ 第二次大戦後の脱柘
昭和20年8月帯粉に 上り,元陸lTl狭智地が解放され ると同時に ,gL人禰各会に
上
Ib
組 浄書れた人々が .元度 合に合宿 し.甑力 して閃塾を開始 した0 20年の話にはその数20 0戸以上 に壊 し,国道以南15 0町歩 .国道以北1口 0町歩の隣母 音計画 したo Lか し,この捕縛会は隠司令部 よ9解放を命ぜ られたO しか し.昭和20年 より見地開発営団 が車菜主体 とそ り.開重職 を行な うことと凍 ったO をお この時解放演習地の うち国道以 北打 ,進駐軍慣習地 と して再rF壌供され る ことに浸ったの で.国道以南の147町歩 につ ト ‑‑ いて開墾が行希われ ることと在 ったo 多数 の希望者の中より88戸が選ばれ .日本原地区 へ55戸.滝本地区へ5i,i ll‑‑I、精 し.各々‑ 戸当 り1町及び1.5町の耕地 の開塵 をめ ざ
した。当初においては .協同開銀が行われていたが .土地の割当完了に よ.る経営権 の個人 へ の移行 .住宅の建設 に伴 なって ,生活面の個人化が進んだo しか し.住宅の接殻等 も労 力を出し合 っての鼠同作薬であった。昭和25年 に 日本原開拓姓協が設立されて以後は , 個人経営 と個人生活を主体 とし.外部経済の協同化 む推 し進めてい くとい う形へ移行 して
いったoその中で一 部に経営 の完全協同 を実施 していた光組の存在 比特遇で ある。 開拓曲 軌(vjは こしT=役 刺は,多 くの艶拓蝕 乱 と大釜 なく,当抑 ま入植者への婚 軌
奨
助 か行 ,:H加II.が . 領 fr坐臥流
浪の仲立 ちとしての役割 をば こしてきたoしかし個 々のEi家の狂態の
値 入化 にともな い次第に有名無爽化 し,さ らに他の条件 も加わ り現在ではその括効 fLtはと/し
伽 ない。(5)人橋者の構成
入植者比 .終掛 こ上る息散 在境遇の変化に より,開拓入植の意 を固めた者 が大部分である が.罪人禰帯金の時代 においては ,百姓はいやだが米が あb.食べてい くことが出来 るとい うような.開拓出家 としてやる気 の夜い者 もいたのであるが ,加 地開発営団へ の移行に際 し て.奥に開拓蝕家をめざそ うとした者が襲 った とい うことが 出来 上う.
入植者88戸中で壮戦災者が52戸 (56.4帝) と最 も多 く,次いで外地引揚者24戸
‑14‑
1
(27.5殉 復員15戸 (17.0
吟
と続 き分家入植は7戸にとどま るo峨災.引揚等直接戦争の被 等 を受け ,
裸‑I r
llで入植 した人 の圧LF肌 に多い ことld,故後悶 狩 出として当:.器の ことといえるO又 .これ らの人々の入魂宝前甥 芸
は ,
.ご用こ莞 17戸(19.5CjoDで,S
,
畏淫牧者 と目され る ものは表 5‑ 1
入棺動恐 別個款 1 前 戟 別 個 教
戦 災 5 2 工 24
宅空 且 15 商 兼 12
分 家 7 】 公掛 軸
町 1
2計 88‑ そ の 他 15 」
比較的少なく,工兼 ,曹::;,令
務 自由芸等の惣菜米産 読者が大部分を しめ る。 しか し.良案経験者 の少をか った ことはかえ って 辛 し.水田虚業 に繁 々とす る こと凌 く,畑作有 畜鹿骨 を唯一 の 日原 として.経営粗放 を形作 った ことが非常 な好鰭 束 を もた らしたC,
(4)経 営
イ 経 営
表 5‑ 2 繕 常 面 班 別 El 家 戸 数
経営両横 0‑d反 4.‑ 8反 8一一 1∩反 10‑‑15反 計 1
「
と く初期の茸料 では あるが ,耕地面1i'i別丑森戸故 は上表 の ととく ,大部分の幾家が8反 前後に娘中 してい る0 6反以下はわずか に一 戸であ りその後の開拓に 上り, より広い耕地 を持つ ようにな った と推測され るが ,一・町以上の耕地 を持つ者 も少 ない。 故初の縄拓 目倭 が 日本原地区において‑戸当 り 1町 .滝本地区 で 1.5町 であ 9.椴終的には 1‑ 1.5町 の 耕地 と7tったのであるが.相当央約的 を畑作樺常 を行 な うことを余儀 な くされ た。土地条 件の劣忍 を土地 において ,この程鑑の両横 では安定 した耕作 を行 を うこ とは困難 で.後に 多 くの制約 を ともな うことに走 ったo
ロ 作 物
開苑地の土壌が強酸性 の 「愚 がク」地階であったので ,開塾審美は大変困難 な もので あ ったが .以後熱畑化す るに従 って収丑 を増 し.石 灰CLT・投入 に よる酸性土の中和 .髭甫頭数 の増加に伴 希 う推厩 肥の施用 ,化学肥料 の周穀に よって収稚拙 飛躍的に増加 した といえ る
‑15‑ ⊥
て あろ う。
初期 において壮陸稲 .甘 満 席鈴繁等 の栽培が行なわれ .年 とともにその収盈壮増 加 してい った。 昭和28年以降に行 なわれ た乳牛の導入は栽培作物 に影埠 を及ぼ し.
5 4年以 降においては属 銘乳 甘 梢の碗少が苦 しく.それに代 って レンゲ,デン トコ ソ ライ麦 ,カブラ.イタ リアン ・‑ イグラス等 の飼料作物の増加が著 しいO
(5) 現 況
以上述べて きた こと比 ,車乗 であるがそれがそのまま∵現在の 日本原開拓
i
立の姿である と は言い きれ をい。 いせ‑まで述べ た通 りであれば .日本原開拓地壮職後開拓地 の中で も成功 した封拓地の一 つに数え られ る托すで あったo Lか し.一 方において開拓地 の姓菜経常 が 軌道に束b
出 した頃 ,他 方 でht今 までの苦労 に耐えか ねて脱落 してい く鍵髭が でて きた。この こと仕 ,一 博の統括 を必苛 とす る開拓地においては墓賓 7tことと思∫】る。 この他 に 店ればイ汀金が増えるだけだ し,それ な らば土地 を売 って他所に出 エ9に も一一反当 り5プJ一円 全部売 って も占 0万円余 りに しか な らをい よ うでは他 所へ行 くことも出来 ないので.他 に 仕事 を求 めるように希ってい った。怨薬で身 ':r立て るべ くして入植 した人 々が兼業化へ の 道を頻 き始めた ことになるO
さ ら忙 中JL的存在で あったCli3'r"一過が財政的 に行 きづせ りつつ あった時期に蕊大 夜間怪 が起 った。白子コ練 が 日本 LTを軌若場 と して使用するに際 して .開拓地の大 部分 を只収 した い旨のi.rB知.Jくあったのである。 この ことばは
1 露
地に見切 りをつけて他所へ 出 ⊥うと してい た人 々に とって壮由 って もない ことであった とい うことが出来 るで あろ う。 さ らに 自称‑A I:lfJの出 した条件の中には . 「土地 を売 ら夜い人がいれば .他 の土地 も異わ 禄いo 」 とレ うことがあったので ,開拓地に触 っ てb:謀 を続けてい こ うとす る人 々との間に間近が生 じた が .肖 句 ,土地の交換 を行 をい 1 1戸が開拓地に残 る ことに なったので あるo こ うして , 昭和 59年4月再出発 したのであるが ,乳 牛 'r中心に して経営 を:● 竺めて きた。 しか し.良 黄8・英 といえる凸家は少 な く.中心労a・)者の・‑.綻設化 .あるいk子弟の他 蔑集への従車 とい
・
)形がか な りみ られ るO 乳牛の飼 育を行 なってい る7戸の良家 についてみる と,その うち 4戸仕個人理菅 で平 均5預 の乳牛 (ホルス タイン) を飼育 してを 9,他 の5戸は共同で40 融の乳 牛を調音 してhん. 栽培・,‑E物 も馬領空 .甘緒は少 モ く. レンゲ,デ ン トコン,ライ 麦 . トウモ ロコシ等 の頂料作物が大 糾分 を しめてい るO
IJ・l■
第二 次大 戦後 日本 原において行表われた開拓が .多 くの凶 性を克服 して,乳牛 を中心 と
‑ 1占‑
A
した生産活動が軌道にの 少.一部では将来へ の予想 が立 った時 に .‑自衛隊 の演 習地 として買 収され .日本原開拓地は大 きを転換 を余義 な くされたわけで ある。 日本原開拓地の今後を考 える時 ,常 に問題 と/t1‑包加 ;自衛政 の演習地 としての日本 軒 であ る。日本 際は演 習地 としてIC)規執 <t 中規模であるが ,その地形 は射笹 洪習 には過 して).i),中国地 方 卓d‑3J、ては,こ
柑 : t
ナ適 した土地HイLb には見あ7こ恥 、といわれている。現 在 日本原に駐 と/JJn 、る自t.都荻は ,機 中大隊 ,僻 料大臣知二約 60U 人象りであるb.;,奈義町民 の柳 ヨま,
「同 じ土地 を使 うな ら, 規模 の大 きい方 が よい。 そのほ うが ,奈義町に落 ちる金 も大 き く.町に とってため にそ る。 」 とい うよ う75考 え方 も存在 して い る。 そ して現在姫路市にある連庫本部 を 日本原‑移 してほ しい とい う考 えが 出されてい る。
これ らの考えが実現 されたそ らば.つ ま り. 日本原に牡 とんす る自術隊の規模が大 き くな る な らば .演習地の広 さが現在の規模 で十分 であろ うか。 演習地 の拡大打十分 に考 え られ る。
又 .自禰陳の規 模が大 き くな らをいに して も.演習地が拡大 され ない とい う保障は希いの である。 この次に演習地の拡大 とい う間壇が持 ち上 った時 .それけ 日本原朗拓地 の終末 を意 味す るとすれば .言い過 ぎであろ うか。
Ejを転 じて問態 を内側に見れば ,狭い土地にLlけ る乳牛中心の経営 とい う点 も問題 にな る であろ う. 寒冷地濃集復興の救世主 の ごとく習 われ る こともある乳牛で あるが . 自給 しうる 飼料のみて牛 を飼育す ることは不 可能 であるo そ こに比当然購入飼料 の利用 が行 なわれ る。
それ も現在の よ うに規模が小さいな らばたい して負担にな らないVCして も.経営規模 の拡大 を図れば ,それ杜 とDもをかさす購入飼料 の増加 を意 味す る. しか も飼料の価格は年 々上 昇 してい るO それに対 して乳価の上 昇壮微 々たる もので ある。 そ
こに
おいては当然利益 の減少 が あ らわれて来 るo そ うなると経営拡大壮行 き話9
.収入の増加 を他 の方 向に兄い 出そ うと す る。そ こに卦いては .現在 も見 られ る兼 濃化が進む ことに在るて あろ うO参 考 簸 料
o
中国山地 (上) 中国新㈹社(小 野 優 志 )
4 . 広 戸 鼠
(1) 広戸風 とは
広戸風 とは那岐 山南雑の東萩町 .勝北町におい てみ られ る局地的 た暴風 であ り,そ の発生 は低気圧が四国沖 .特 に室戸沖 を通過す る均合においてみ られ るものであるがその原田扶令
‑17‑
日において も解明されていない。 この様を局地風は広戸風の他に山形県の 「汁川 だ し」愛 媛県の 「ヤー じ風」兵庫県の 「六 甲おろし」滋賀県の 「比 良八乗」奈良県の 「平野風」 な どが あるが特 に愛媛県の 「やせ じ
見
」は気圧配億が広 戸嵐 の丁度逆になってい ることは興 味深いもので ある。そ してまた当地におt^て比古 くか ら大 きを故事を与えるこの風 をおそ れ種 々の伝臥 宗軌 そ して風に対す る兼 もつくb
出 してお 9,それ らはいずれ も興味 あるものであるo歴史上の記鐘 として綻奈良朝か ら平安朝Ln:かけての国の記領の年表
に
「美 作飽軌を喝 う。
」 とい う記事がでている。 しか し12世紀以後武家政治 の時代捌 まとん ど 記録 として仕残されてな く牧園時代 の終 b頃か らけ多少残 ってい るo そ して徳川期におい ては相当襲 ってお 9.嘉永2年の近藤村 (現在の滝本) の明細啓上帳に「当村之俵‑詰仙 卜申北 二両山並 二風 ノ宮 卜申広戸仙 二風穴山御座候故 二福々大風 二両難艶仕候 尚又大雨ノ 節‑諾仙 ヨ リ落合洪水出来来 水損モ御座贋村 方・・‑・‑・ ・
」 とあb更に同年北野村 の差 出明細 胤 Ir̲妨 「当村 ノ義北 二高山御座候而山仲之村故北大風厳敦風韻村 二御座候陣統之節‑右高 .r̲ 山 ヨ1)一時洪水二耐 見地等 出来仕之義モ御座候 ・・‑・・‑」 と記 してある.以上 の記舟 で諾仙 とは那岐山.‑2た北大風 とは現在用いてい る広戸風の ことで あるO尚こ.の広戸風 とい うこ とI,i仕大正期に走 ってか ら用い られてお りそれ以前比北大風 といわれていた。次̲に北大風即 ち広戸風の,
㌻‑ ‑
1f.j であるが明治時代 まではは っき Dとは知 り得 ない。 し か しなが ら大正元年発刊 の 「岡山県勝田郡史」 を見ると元 禄時代か ら明治時代におけ る災 零 として第 1表の示す ととく記 してありこれ らが台風発生期 とも一致す るので広戸風の発 生 と考えて よ,かろ うOそ して これ らは被害の穣めて大 きを もの と思え る. この記希か ら規 .. 葬 4‑ 1 元禄〜明治朋の記録 岡山県勝田郡史 より ' .年 元 草 元 ‑3E 完 文
J
L一明代 禄 保 文 暦 ■ 政 政 治
年
月日 五七
●
六八 六八 一八 九六●●● 二
六 七画、■五四■ 一六二
七三
九● ●●
七五●
十六 八一八 六 五 六 八 五 四 一
・東 盃 盃
盃
盃 意 志 盃意
志 意 志 盃 歪 盃横の大 きな広戸風比だいたい5‑ 6年に‑鹿は ある と言 って エいたろ う.更に比軟的小 さ い広戸風 を含める走らは 昭和20年〜 58年tでのおよそ10年間において第2表の大阪
ニメl・ ‑18‑ し∴I‑111・ l I
管区気 象台の灸科が示す ように 1年の間に 4回 も発生 してい ることがわか るo tた広 戸風の 強さを表 した記魚 として同 じく大阪管区気象台の泥舟 (昭和 9年 9月21日)が あb.それ には次の様に記述されてい る。 「5時か ら10時まで大暴風雨 .風速約60汀レ僧 .この暴風 雨の禎音吐稲作は5割減収が50町歩.5軋以上が150町歩. 1
割
以上が14 0町渉。住表 4‑ 2 広 戸風の状況 (昭和20年‑50年) 大阪管区気象台食料 より
年 月 日 : 状 況
拭強かつた○
F終 日器風 雨襲来するC
25. 9.14 台風7イオンに よる広戸風襲来 ,乱速 25‑ 28
m/8
互鼓拭 ll.19果風雨荘来す.各地に坂寄 ありo24.7‑8̲..5015 台風へスターに よ
b
那岐川 .滝川 .鵜殿川
,岩針 目の各河川氾渡 し,流失.追 終決軌 遜岸等崩襲せ り.風に よる被害 も多 し広 戸風辞来 ,歩行田搬
1D.27夜来 上b風強 く′ト枚折れ落発多 し.糊 あ b
ll.25 風強 く窓 ガラス破損 2‑5日にわたb降雨 を ともない停屈す ..
25. 8.25風強 く窓ガラス破損の程度 水稲 .晩生相当の娘等 あ b
台風 キジ了の影鞍を受け1時 とろか ら5時 とろまで風速20‑ 25汀レ/B 那岐 .池 台風ル
ビ ー
にT̲り猛烈 を広戸胤 を超 し,早味 より襲来 Li胤 ‑ゼ,凍 ぐ>'等大 半 を倒す○26. 7. 2倉風ケイ ト通過に 上り暴風雨袈丸 .)ンゴ,ナ シ等落果 ,水田冠水家屋床下浸水 相 当あ b
28.9.25台風第15号に よ り猛烈を広 戸鼠がかこ b家屋の倒班蕗作物の被署甚大 ‑.
29. 9.18t台風第14号 四‑ を通過.‑ なる も水稲‑ 介の被‑ .り e
lI50.10.ll台風第25号に よb夜半 上り吹 き初め昼 とろ7Eで続 く.水和倒れる もの多 Lo
‑19‑
宅の被害は倒凍家屋が 19戸であって各家屋は犬 走 り小 走 り韻書 あ
D
。 森林 の被害直径 5尺 ぐ ぐらいの大木 も根 もとか ら倒れ たO 立木はほ とん ど南南東に傾く.
」 をお.広 戸風 の発生原 因は現在 において も前述 した 上 うに 明 らか に されてほい毛い. しか し.本生 rFJ山地方気 象台 が中心 と凍って行75:つている調査に よって何か新 しい ことが発見で きるてあろ う。 I. (2)風 の官の伝説について広戸風 即ち北大風 についての伝説 として名 高い ものに 「風の宮」 の伝説が ある。風 の宮 と は龍山のふ もと日本原野の北端に ある古い宮であるが .前に述べた近藤村の明細帳t'C示 して ある 上うに古来 当地 をおそ う広戸風 は風の官境 内に ある洞穴 ‑ 風穴‑ か ら起 ると信 じら れていた。 即 ち風 の官の風穴 は因幡国 まで続 いてお り風の宮の神の怒 りで広戸風 が起 る とい うのである。 そ して神が怒 るとい うのは人が風の官境 内にみ た bに入 った時 とい う話 と.又 一方では風 の宮の松の木 を切 った時 とい う言い伝 えが ある. しか し村 人適は神が怒 って も風 穴 を うめて しまえば広 戸風 は起 こらをい と考 え風穴 を盤め エうと試みたが仲 々 うせ くゆかを か ったOそ こでいつの時代か明 らか では ないが当地 の人 々が ことごと く出動 し
格
川の石 を運 び .それ らの一つ一 つの石に法華経の一字一 字 を啓等 しそれ を もって風穴 を埋 めて しせ った とい う. 現在風の宮 には石が高 く横 もられ てい る所が あ り.それ らの石 の中に
は河石 も多 く 時には草刈人が焚字が鎧甘 してある石を見ることが穀近まで あった とい うO徳川朋 の初頃当地 を支配 していた 津山帯森氏は虎民連が風の宮にみた Dに入 ることを禁 じ 宮を厚 く尊 崇 したO森氏の後は#桁直轍地天領 とそ ったが幕府 も社域に入 る.ことを堅 く禁 じ 村人に命 じて侮年 8月1日か ら9月15日までの1ケ月半の間2人づつ昼夜4交代 で監 守 さ せ .見張/ト屋に什 日の丸の旗をたて#府御用 として人 々をおそれ させていた。 これは明治 に 至 り廉されたが人 々はおそれて杜域 には入 らなか った とふ う. また8月1日か ら9月15日 に見張 させ た とい うが この期閲が広 戸風の最 も上く発生する時 であ り興味深い ものである.
明治4 1年 日本 原野が陸軍演習地 と
なD
風 の宮は しば しば実 弾射撃の頭的 とな り,村 人連 I.(i胤 の宮が怒る とおそれた。 しか し師団長の一 戸兵軌 あえて風の宮を標的 とし大砲卵 を う ち こせせ次の様 な辞 を読ん だ と伝 え られてい る‑
.迅嘗紫屯迭滑空 日本原頭煉武中 祈我王 師柑且健 弾丸千 百舞風宮 ■ この 上 うに して教官生来村人連の誤 っ,た信仰 と壮い うものの長い間 崇め られていた ところ はかいかい軍隊に 上って破壊 され現在の様にを っている。一方北大風は相変 わ らず当地 の人 々を現在 も恐 れさせ てい るのである0
1
‑20‑
5)故事 と対策
今年 も広 戸風は襲来 した0 9月12日長す ぎか ら14日夕方tで台風2 2号 の影響 で平均 風速11m (群間最大風速5 5m)の風が生 じ勝 田郡奈肢町 と勝北町の射 下物 に大 をる被害 を与えた。風は さほ ど強 く仕をか ったが台風の足がおそか ったのが原因 で2日間以上吹いた ためで あ b・地元で も「こん を しぶ とい風 は壮 じめて‑‑」 とあ きれ てVlた。 両町 でま とめ た被害状況は稲 田で4 5 5LAが倒伏 した b糞ずれ ‑稲 ずれ韻書 を うけ約5.20 0万円の狭軌 奈岐町 では造林用甫畑の豊並樹 苗生産組合 を中心に約500万本のス ギ, ヒノキ首が穂先 を とば して約5 0 0万 円の被害○その他出荷貴盛期の特産20世紀ナ シが約4kAで4口車の溝 果 ・ク リは8 05が実 を落 した。共同 出荷 中のキ ユー ,)や インゲン豆は根元か らや られて抜 き捨てる よb手がない と言 われ破書総坂は約4千百余万円に のぼ った。更に 10月27‑ 28
日VCは台風5 4号が四国沖に接近 したため今年2皮 目の広 戸風が発生 し.その規 模は昭和40 年9月10日の大広 戸風 に匹敵す る ものといわれてい る.約15時間にわた って強い 雨を伴 った風速 50‑55mの強い風 (顔 間食大風逮 4 7m)が吹 き家屋 については全半壊 5戸 と 一 部破損 を入れて2 4 4 9戸が硬等 を受け
.
農作物 において相補の収錘が9割方片付い てい たため約5 0 0LAの田に残 った稲 はぜが倒伏 し水び た しにを った程鮭で鹿 作物へ の被害は比 較的軽 くてすんだ。 しか し出荷前の‑クサイやダ イコンお よそ20 0LAが葉 っぱ をち ぎられ て全滅に近い被害 を受けた。 そ して奈乱 勝北両町 で家臥 裁作物 に総頓 .億4千万 円の被 害が出た。 しか し峨後最大 の広 戸風 といわれる絹和28年9月の台風 15号の時の被苔 は第 5表 に示 す如 く今年のそ れ 上b捷めて大 きな ものであ b広 戸風 の戦 きを示す ものであろ う。表 4‑5 昭和28年 9月25日台風第 15号に 上る広 戸風 の故 事 (各村役功調套)
村 名
区分 倒 壊 半壊家 屋破損 倒 壊 # #納 屋 そ の 他故損 J水和l# 収 蕃果樹の音 倒電柱 の沸 山林 ,立木 の折 損 そ の 他 59 405 57 127 550(】 505 40 1700勝加茂村
0
ll 458‑
‑ ‑ 4PD〔】 2 20 1POO新 野 村 4 4 500 ll ll 500 5400 15 50 5000‑走 しの落ちた もの5 5 0耳 豊 田 村 1 5 158 10 0 50 2500 1
‑
dDOO遭 並 村 2
0 0 0
10 55 1500.
0 10‑21‑
以上 の様なる広 戸風に対 して地元民は次の様 を対策で防風.防災に備えている。
い) 木 背 (こぜ)
家屋 を風か ら守るのに木背 といわれる防風林 を風 の吹 く方向に設けている。 昭和28年 の台風15号の場合木背の有無が牢屋の破音に覇薯 を結果 となって現われてい るO木
骨
に 使われ ている樹種 あるいは木背の規模比地域に 上ってか な b異 をってい る。(p) i S
木背 を設け る耳性頼近の新 しV}家には困難を番であるo そ こで概後 開拓滞比風の方向に 誘き 1‑ 2mの土手を集いたが ,この方法 も効果 あるものである。 次の図比その実例であ
上手高さ ム尺
r 2 iy
++
1+
+j
ij‡ 二
千るo北普野村閃布団の家屋 である。土手のない畜舎は昭和 2 8年 15号台風の時.屋根 をふ きとばされ朋旅 した0
1 1・,
+4
‑L̲
図 4‑ 1
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レう 盛作物の収種期 を多面的にす,Lo
家屋 について比.前述の ような防風林 .土手等によって等 を防い でいるが,鹿作物 に対 しては ,何 らの防風設備 もなされずに現在 に至 ってい る。広 戸風の最 も蓮 こbやい9‑ 10 ., 月は稲作の主賓時期にあた b,一皮広戸風がふけばその彼等は非常に大である。そ こで , 早 .中,晩手の 5準の稲 を植えるとれ 比巌的茎の じ上うぶ な稲の種類 を鼠 ぶとか ,稲を 乾燥す る場合に稲架を南北に立てるモどの消極的 な方法が訴せ られ ているVLす ぎない。
I
また他の泉作物 に同様である(,
‑lr1‑J‑lI
(⇒ 酪曲中心にする !
水稲栽培では風害を防げる方法が困難を為最近 では.水田を牧草田
に
化 しTE離農 を主に
稲作比 自給程度に してい る姓家が増えつつ ある。 Ti九.稲作のかわ b忙たば こ栽培をす る 舞家 もあるが.いずれ も風音の少ない ものを選ん でおb今後の方向を示す ものではをいか
f
と思えるo r I ・
(4)奈鹿町5地区の夷態
我々が巡検で歩いた奄裁町の皆木 ・金沢 ・日本原の5地 区について広 戸風についての①風
‑22‑
向.⑦故事 .③膚仰 .④対兼の4項 目について述べてみ よう. 、
◎
嘗木地区 ・ Ii..Q) 風向 皆木地区仕だいたい南北に流れている馬桑川の谷に治 って風が吹 く。す なわ ち やや東 上Dの北風 であるo
③ 破専 谷底に位雁 しているため従来 .大 きな被害は受けず .稲鍵が落 され る春慶で あ る。
③ 信仰 別的:なし.
④ 対簡 各 戸とも木背 を轟いている. しか し木背の規模は′トさ く.家のE.・‑,さ 上り低い。
tた樹種は杉 .檎.あベ まきなどで ある。わ ら屋根は北側 に トタンを拭 ってい る家 もある。
◎ 逢沢地区
Q) 風向 奈義山の方向 (ほほ東北)
③ 被害 戦前壮家屋の娩嬢が あったが .JR近農作物の被零に とどtってい る。水稲紘10 7‑ル当 り平面 なら6‑ 8日糾え穣で きるが昭和40年には 多い家 で5鹸程度 で
あった。さつtい も.さ とい もの蓑がたびたび飛ばされる。
⑨ 信仰 豊沢にある龍田神社で毎年9月鶴め且 神祭が あD.部落の風害が75い エうに祈 っているo
④ 対策
o木背 樹軌 i杉.〜 ,つば き. くぬ ぎ. くす .竹を どであ り,幅があつ く木の高 さが 民家の屋根
上b
高い。 旧家ほ ど木背の規模が大 きく.元庄屋の木背は下図の ように巨大で
あ
る。2
5 〝I図 4‑ 2
‑25‑
昔は樺 力関係 も示 していた と思える。
最近 は等 4‑ 1の よ う尤プロ タク塀を北側 にめ ぐらせた家 もだん だんふえてい る. 5m玖上 の高さが標準 と75ってい る。
o農業 米作 はほとん どの農家が中心に してお り.その対 策 もか な り考え られている.
稲 の品種 を早〜晩まで 多種栽培 し,全滅のなレ、様 に してい る。早 稲の品種qj:竹 田とい う酒米が主に売 ってい る. また広戸風の吹 く頃に蛇田一面にあみをは b 稲がたかれないエ うにす る鹿家 もあるO又 ,穂が実 ってか らの広 戸風の来 た時 は .地
r m I l
に稲 を先に倒 して し7tう方法 もとってい る.更に稲作か らたば こ作 りや牧草 を作 b酪連に転換 してい る良家 もある。
◎ 日本原地区
⑦ 風向 奈我山 (北東) より
⑦ 被告 開拓団が入 ってお り木 背の完全 で食い姓家 もあ 9,昭和2 8年の時
に
は .開拓 洗家の2階の屋根が1DD叫 烹どとはされ た こと もあ った。典作 物はさ とい も.さつまい も等根 もとか らとげ された こともある。昭和4 0 年 には晩稲がほほ全液 とい う大被
害
にな ってレーる∩CS) 信仰 観 前壇では風 の宮を風 の神 として祭 っていたが現在 では風の宮は信仰の対冊 と は なってな く.秋祭 り等 で風等 が ない棲祈願 してい る程度 であるO
④ 対策 木背 の規模仕金沢地区 よ りやや′トさいが .家の高さ よ り高い ものが多い. 巾は 5‑ 4間か一般的で ある. しか し民家 の多い所 では木背の ない民家 も多い。
日本原地区の地形的環境か ら米 作 よりも蘭殺 中心鹿家が多い ことに特色が あ
り .特に牌拓地 におい て苦 しho米作は 自給的 で,主 に中手の桶 を栽培・してい る。
以上 .奈義地域に結い関係の広 戸風について概略 を述べ たが .地 理的現境 に 上って人 々は打 ち 砕か れなが ら.その環境に適応 し更に進んでい こ うとす る態度 も忘れ られ ない もので ある。 皆木 金沢 , 日本原の三地域 において も風音の多い豊 沢.日本原の如 く県北 に あ bが ちを陰気 さが貴 く 力強 ささえ感 じさせ る人 々の志気 ごみがその土地 に浸透 してViた と思 うので ある。
(岡崎 明宏, 河本 充昭, 馬場
敢 )‑24‑