写3‑1 電照菊 の フレーム群
写5‑1 匡l頭 の漁船群
「 」 ‑ .'・ '7 .・.
̲ミウシ 二一
写2‑9
農 作物の作付状況
そ の 内
部
干上 った港
写71 1 雨 水 潮
写8‑8
写5‑2
重網 (干潮時 )
写8‑5
天 井 にかけ られ たは しご
写8‑7
前庭 に始 られ た井戸
写8‑9 南面 に設 け られた土堺
写 9‑ 1 三郎 島の ミカン園 と雨水溜
写912 英 田を痛 む老^
1
自 然1 .
寄 島L b
T鑓 地 区 の 自然環 嘘(1)地 形 と 地 質
寄島町の 中心部か ら西へ約 5払歩 くと笠岡市 大島と接 する寄 島町 鍵地区に入るO北の鉢 山 (海抜242・7m )と南の 甘佐山 (同249.4,,L)那,潮風を受けなが ら瀬戸内海を見 守 って いる。昔 は瀬 戸内海を航 行 する船にと って重要 な 目印 とな っていたであろ うOその 両 山の山脚がゆ るやかに傾斜 して 伸び,あたか も儀 に抱 くかの よ うに 鍵地区を とI)囲 んで いるoこのあた l)の地形で巌 も特徴的 なのは .見申一面丸坊主にされた嬢傾 斜 の山脚 と淡 い谷が連 続 して いることであるo l▲波浪状の地形 "と言 うのか .ち 上うど伐い皿 を伏せた ような格好で ある。 この程傾斜 の山柵斜面 を さしてペデ ィメン トと称 して いるo このあた l)の模式析面 図を示す と次の図の ようになる;
図1‑ 1 寄 島 町 株 式 断 面 図
このPedimerLtな る地形 に雅 味を もち.寒風の 中を歩 いてみたO と ころで. このあた り⊥幣は.花 輪岩ない し花 組閃緑岩 の地域で一部に古 生屑がみ られる ̲これ らが風化 した 畑の土は・うす茶色 ない し黒茶 色で粒径 は大 きいD畑仕事に和 を出 して いた老人が . 「こ の辺は硬い所で一尺 も掘る と硬 くて もう掘れない
。
」 と.話 しなが ら鍬 を振る と.な るほ ど5DCm位掘 ったところで花 他省 の湛盤 にぶつか って しまった。さ らに老 人は. 「土地 の 硬 い所 は高 くて こんな畑で.軟い と ころは よく削 られ るか ら低 くな り田ん ぼにな って いる。」と.低地 の水 田と段 々 と続 くあ た ()の畑 に 白をやl)なが ら.大地a)風化 ・俊蝕の具合 とそ
‑ 106‑
の利用法の説 明を続け て くれた。
さて.話 は元に戻 るが, この畑 に利用 されている媛傾斜部 こそPedimentと称 される所で あろ う。尾根 に上 ってみ ると平担部を思 わせる程平な所 さえあ るO (写兵 1‑2)
援傾 斜 とい うその傾 斜 勾配 は,どの位であ ろうか。そ して, Pediment とは,一 体 どの よ うな地形 を吾 うので あろ うか.少 し考 えて みた い。Thonbury
,〟
. (1954)に よる と傾 斜は.0.
50‑ 70;King.L.C.(1982)に よると.多 くは50以下で最大150ま で ;Dresch. I.(1969)は.乾換地で70‑ 80.湿潤地で150以下 としてお り学者 に よ ってその 数値が異 るが.だ いたい0.50‑ 150の勾配で あるといえるO朝倉地理学訴座5,「自然地理学 "」に よると, 「面状侵蝕 に よる地形」 と壌 して .次の ような図及び説明が記さ れてある。
卜 \
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二二 : ‑ ≡ 手篭
図1‑ 2 山 地 斜 面 の 一 般 的 縦 断 面 図
r‑ 乾県地域の地形は,水系の発達が 悪いため.内陸流域が広 く,盆地が形成 され やすい0
㌧ また.面状健 蝕が盛 んたため平担な地形 が広 くみ られる。 ‑ Pedimentは,急傾斜 瓦 傾 斜変換 点 を‑だ てて続 く侵蝕面で あ リ.又 ,堪盤 がその まま蕗 出 している こともあ る0
日本 では.DaviS,W.M.が使用 した仙rock floor''の択語 . 山岩石床Hが使用 され ることがある 。 」 そ して, さらに 「地 形学入門」に よる とこうであ る。
r‑ Pedimentは .乾燥 地形a)最 も亜要 な構成嬰兼で あ り,乾性地 域a)山地 の基底部へ 向 って上昇す る侵蝕 された洗液面 を意味 して いる。 1880年.G.冗.Gilbertに .
1897年に
W. ∫.
McGeeに よ って使 わ れ 1922年にはKirk Bryanに一時的な 水流に よる侵蝕及び堆鍬 こよ って形成された面に対 して正式 に与えられた。 この定義で .彼は.ベデ ィメy トは運搬斜 面で あ t).普通は高所か ら低所へ移 動 しつつあ る沖棟 層a)薄板 でおおわ れて い る点 を強調 した。地形学の一般的な禽物にPedimentを加 えるこ との正当性は .そ
一107‑
れが乾換気侯下の見化 と侵 蝕 こユニークに適応 した運弛 料率 と して強調 されて いる点 にまさし くある 。 」
これ らの説明に もある ようにPedimentの条 件は ,乾免 気候 とその もとで の見化 と水流 侵蝕であ る。 この点に おいて ,鏡地区 付近 の地形 にPedimentの名称が適当 な表現である か.考慮 する必要があ るように思わすlる 。確かに壌債斜面 と凹地形 とい う点において鏡 地区は
Pedimentに該 当 しよう。しか し.本当に .この付 近の地形がPedimentな る名称に 適 した ものであろうか。今後 .この地域の地形な らびに克典地形 に関 して研 究する必要が あ ろ
うo最後に. 中野専正書 「日本 の地形 」か ら引用 して その方向 と問傍点 を示す ことに する。
r‑ 日本各地 の 20 0‑ 50 0.n前後の軸 面は.基韓侵蝕面 の形成後 においてお こ っ た造地形迎 動にみ ちびか れた山脈 といえようOその形成時期は.更新世のあ る時期 とい うこ とがで きる。中国山地な どで赤木祥考な どによ って.Pedimellt又は.Pediment状 地 形 として報告されている ものの 中には . こうして形成され た山鹿階 と背後山 地 と堵 界付近の 地 形を原形 として いる もの が .含 まれて いる可 能性が強 い。 こう したPedimentは,よ ()高
位の侵蝕 面とその背後 山地 との境 界都に も分 布 しうる可能性 がある。形 成期 の気 候条件 とあわ せて検討することが のぞ ましい。
」
(2)水
と ころで,山が 海岸に追 I)平地 に乏 しい寄 島町には,河川がみ られ ない。もちろん.甘佐の 防潮埠まで 1Km余の当地 区に河川は み られ ないo水田のあ る低所のその 中で もさらに一段低 い ところに 山小川"というよ l)も仏ほれ淋 〃の表現の 方がよ く似合 うほ どa)水路が あ るだけ であ る。 12月とい うこの時期 に水 はみ られない。従 って. この地域 は .水不足 に悩 まされ るので あろ うか。畑には.井 戸の設 揃が あ るし,狭 い当地区 内に潜池が 7つみ られたOその 内 5つ は 次 に示 す通 りである。
L rJ 表 1‑ 1 鏡 地 区 内 の 溜 粕
場 所 】 溜 地 名 面 棟
集 束 中 菰 弛 占 畝 17歩
令 谷 前 他 5 畝
○ ○
鏡 銀 地 7 畝 2歩
(寄 島町 史 より )
‑ 108‑
これ らの他水は, ̀̀背任 ・片本 ・大浦 ガの水源とな る ので あ るD
さて,この ような鏡地区 を よく見 ると人家 は.凹地 の中の さらに浅 く細 い谷衝 上Iこ集 って い る傾 向が あ る。 これ は.地下水脈 を求 めた人間本能の 自然 の結果 とい えようQ近 く鴨 方方 面か ら水道が引かれ ると恥 いたが ,今後 も水 鵡 果題 は残るので は あるまいか0
2. 集 落
この ような 自然環境であるか ら.人 々は風が防 ぎや す く飲料水の得 やすい所に弟 まる。当地 区 の人家 の配列 も ̀水 'の制約が 作用 して いる ようであ るo
【1)井 戸
各家庭 は大体 自宅に井戸 をも .,て いる.その深 さは, 5‑ 4rTLの ものが7戸で 最 も多 く, rPには8‑ 10mの 深さの井戸 もみ られたC又.地区 内には,探 さ0.5‑ 1.5爪の共 同井 戸 が4ヶ所 にみ られ る O浅い 共同井 戸は渇水期で も水の枯れ ることが なく,人 々は.そ の恩恵 に浴するわけで あ るD現在 もその世羅に な っている家庭 もある oであ るか ら,当地区に とっ て天水 は食重であ るO屋根 に落 ちた雨水は一滴残 らず 娘め られ る0両 どいな伝 って廉等 矧 こ 見 られ るような設 JllJltiに保 存 され るのであ るO松尾でのある主桁 の話 に よると,渇水期 には大 体 こうで ある。 r風 呂水 は,同 じ水 を5‑ 5日炊 き直 して利用す るD洗面器 を風 呂水の 中に
、 牌かに沈め る と上に 仙アカナタだけ浮 いて くるoそれ を・す くい取 って畑に捨 てる。 J L 水の貴婁 さと生活の知恵 を一 度に知 らされた。
‑ (21 本 家 ・分 家 と 通 婚
簾地区 には
,
「原田」姓が多 い 。分家 して 次第 に多 くな ったものであ ろ う。当地区 の 純も とやh (元家 7)とい うべ き本家に相当する家 が二軒 ある。
「鹿 田悪右術 門秀家 」 と 「原 田 治郎右術門忠春」を祖先とす る家である。 これ らの銅係 を聞きとOか ら調査 してみ た。1・ 原甲悪右術 門秀家 (座 長 15年庚成天4月24日 ) 1
1 ヾ
原田KI→ 原田KE→ 原 田YU→ 原田HI
J
原田KU 叶
原 田TA→ 原 田→ YZ
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1
:原田KA
原†
田
0Ⅰ→ 原 田MO→ 原田KA‑ 109‑
2. 原 田治郎右術 門忠 春 (康長 元年 申 6月 15日 ) l
▼
原EB ?→ 原m IW→ 原田TOー 原 田ET 5.原田TO→ 原田GI
4 大 島M I‑う 大島 '
5.秀平
又 . 当地 に .嫁入 り して きた人 たちのltl身地 をみ ると次の通 t)で あ る・,これ を見る と比収的 . 近 くa)出身 方で あ る.
表1‑ 2 嫁 の 出 身 地
笠 岡 市 5 人 青 鯛 郡 1 人
井 li 諸 5 qt 方 町 1
旧 :玉島 市 1 市 島 町 1
岡 山 市 1 .B 取 1
(開 きと ()調 査 上() ) (3) 生 枯
当地 区 の全耕地面静 ま.水 田約 5町 .畑 約20町であ る。その耕地 の所 有繋が ,な ん と20 人位 と閃 いてび っくりした B極 々零細経 営 といえるb畑は 山地 の斜 面を利 用 し,低 地 の 水田に は . 「朝 日 ・あけぼの 」が作 られ るO老 人の話を遺 合 すると.昔か らの鹿村で .掛 こ出かけ る ことはな く. ただ塩 田に働 きに行 って いた人 があ る位 であ った とい うO初箱 も12月半ば頃 で あ().年 平均気温は他 所 より 5度 位高 い とい う当地 は ,まことに浪風の穏 かな所 と見受け られ たO今で は東に水 島,西 に福 山 ・笠間 の=繋地 域が発展 し.勧めに 出る人が増 え.村に残 るの は.子供 と老人だけ とい う傾 向が み られ る。 こ こに も工基 化 の波 と.過疎 の現象が .起 こ()つ
つあ るO ・
(淵 本 弘 道 )
ー110 ‑
2. 虚 業茎 ・
寄 島町は後 jiを竜王山 ・針山 ・甘佐山 な ど200爪前後 の山々に 踊 まれ .前方 は瀬戸 内海に面 して いて.憤斜 地がその大 部分 を占め .平垣地 は 海岸地 帯及 び谷 あ いに少 し見られ るのみで典型 的 瀬戸 内地域 a)多 鳥海塑農 菓地 域の一環 を構成 す る姓村な い し.単段 半漁村 であ るO
寄島町 細 れ る宮通JIlな どa)小 河川が天 井川で 「平 常水 ない し.濁 雨の頃 .時 々療 哲水 とな ら す」 といわれ る如 く.川 は離軌 こ役立た ず.農業 用水源 は尾焼池 ,金地 池 ,新地な どの溜池 に求 め られ .い くつか の丘陵 に区 切 られ た平 痩地 はしば しば 「揃中ひで り」 とい われ る単音 に悩 ま さ れ . また この地域 は砂質の花 組岩風化 土盛 が多 く,水稲耕 作 には否定 的条 件が 重な ってい たoか くのご とき 自無 的条件に よって,本 町にお いては .大部分 の地域 を 占め る殻 傾斜 地 を利 用 した 土 地利用 が 見られ ,襲 2‑ 1に示す通 り.田 と畑 の 占め る割合 は.60:50で あ り.畑 作 が好 色 あ る土地利用形態で あるO即 ち畑 作が 主で ,水 田耕 作が従 の形で あ る.
表2‑ 1
〔土地両横 〕(45‑ 44年 )(統計年報 に よる )単 位 ‑.‑ クタ‑ 〟
土地踏 面硬 経 営 耕 地 面 頓 草地珊 林 野 計 田 畑 樹 園地
表2‑ 2
〔遺営規 模別鹿家 数 〕 (曲集 センサ スよ() ) ̲ 卑 也 :戸
〜 0.5ノIa 0.5‑ 1.0/1a 1.0‑ 1.5ね 1̲5‑ 2.0lIa 合 計
昭和40年 698 92
6
‑ 796昭和45年 582 92 5 ‑ 684
まず股家 の夷態 をみ ると,経営 規模は表 2‑ 2か らわか る通 り.0,5‑ク クー ル以 下に全体出 家の約 88%が集 中 してお り. しか も0.5‑̲/)クー ル末蹄 の内で も5‑ 5 07‑ ルに451戸が 恥 仁一しているO (昭 和45年 )0 1.5‑ ククー ル以 上に おい ては全然見 られな く.一戸 当 ()の平 均経 営桝地面掛ま0.5‑ ククール末瀞で非常 に零 細で ある。
これ は産業分類別就楽音 の第 1次産果 .第 2次蔭第 ・第 5次産妓従 IJr留の 比較 を見て もわか る 通 り.典型的赴 蕉地域 (姓 糞 主に よ って生活 なす る )とは いえな い ことを表わ して いる o
(表2‑5参照 )
これ は表21 4にある よ うに兼共助 家が 多 いか らで あろ うと思 われ るO畑 地 利用が 当町におけ
‑ 111‑