• 検索結果がありません。

大聖寺藩の城下町

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "大聖寺藩の城下町"

Copied!
4
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

大聖寺藩の城下町

著者 田嶋 正和

雑誌名 金大考古

巻 59

ページ 23‑25

発行年 2007‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/2297/9793

(2)

− −

金大考古 59:23-25, 2007 田嶋 大聖寺藩の城下町

Figure  現在の河岸端通 Figure  河岸端古写真

Figure  京町交差点 Figure 0 九龍橋界隈

地名の由来

 白山五院の大聖寺からはじまる。

大聖寺城の成立

 記録上では 『太平記』 に登場するのが初見。 以後加賀 の一向一揆で登場するが、 緊急時にのみ活用されたよう で、 氏族歴代の居城ではなかった。 織豊政権に侵略され て以後は織豊政権の大名居城となる。 現在残る縄張りは 天正 11 年溝口秀勝が入城して以後の構築と推定され、 城 下の町割りもこの頃形成されたと思われる。

大聖寺の町割

 現在残る大聖寺の町割りは、 寛永 16 年に加賀藩3代藩 主前田利常の 3 男利治が分封されて大聖寺藩を創設した 頃に整備されたと考えられるが、 一部福田町あたりは溝口 秀勝や山口玄蕃が城主の頃から存在していた可能性が高 い。 前田氏の大聖寺藩邸は城山の東麓に置かれ、 城下 町はその東側を中心として、 北と南側に広がっていた。 一 部新たに設けられたり拡張された道路もあるが、 現在でも 基本的には町割り、 道筋とも江戸期を踏襲している。 藩邸 周辺には家老級上級武家屋敷が取り囲んでいたが、 中級 武士の屋敷はその周辺に少なく、 多くは北東部の耳聞山 町周辺に集中していた。 商人は中央部の福田町や中町あ たりであり、 職人等は弓町や鍛冶町など職種に応じて分散 していた。 中級武士の多くが耳聞山町に多く居住していた のは、 水害に遭いにくく地盤が良かったからであろう。 藩 邸近くの家老屋敷近くの中町に商人が多く居住していた が、 このあたりは地盤が悪く、 常に水害に遭いやすい場所 であった。

大聖寺藩の城下町

田嶋 正和 (加賀市教育委員会)

Figure  大聖寺町絵図 (金沢市立玉川図書館蔵)

(3)

− −

金大考古 59:23-25, 2007 田嶋 大聖寺藩の城下町

家老屋敷の発掘

 加賀市中央病院増築に伴う事前発掘調査で江戸全期の 武家屋敷跡と桃山期の大聖寺城跡に伴う総構堀と推定さ れる遺構を確認している。 初代藩主の頃には脇田家、 二 代藩主以降は佐分家の屋敷であった。 近世の土層は 10 面以上あり、 北側の地盤の悪い部分に建替えの度に盛土 を繰り返して造成していたことが理解された。 各層から当時 の生活を示す貴重な遺物が多く出土している。 陶磁器で は他地域に比べて磁器の消費率が高く、 肥前磁器の優品 に混じって地元の九谷産磁器片もわずかに出土している。

水分の多い地盤が幸いして木製品も多量に出土している。

Figure  町絵図を現況図に重ね合わせた図

Figure  錦城名所所収の大聖寺藩邸 (江戸末期頃)

Figure  藩邸跡周辺の現況俯瞰

Figure 5 佐分家屋敷境の水路 (江戸前期 ・ 八間道遺跡)

Figure 6 佐分家屋敷跡発掘遺構図 (八間道遺跡 ・ 下層)

(4)

− 5 −

金大考古 59:23-25, 2007 田嶋 大聖寺藩の城下町

Figure 7 大聖寺要害重合せ図

Figure 8 錦城名所所収の佐分家屋敷図 (江戸末期頃)

Figure 9 八間道遺跡石垣

参照

関連したドキュメント

[r]

Figure  第Ⅰ調査区 SK9 土坑出土遺物  第Ⅰ調査区 SX3075 土坑は、 覆土に黒色の炭化物を大 量に含んだ不整形な土坑で、

[r]

[r]

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ

町の中心にある「田中 さん家」は、自分の家 のように、料理をした り、畑を作ったり、時 にはのんびり寝てみた

鉄)、文久永宝四文銭(銅)、寛永通宝一文銭(銅・鉄)といった多様な銭貨、各藩の藩札が入 り乱れ、『明治貨政考要』にいう「宝貨錯乱」の状態にあった

問い ―― 近頃は、大藩も小藩も関係なく、どこも費用が不足しており、ひどく困窮して いる。家臣の給与を借り、少ない者で給与の 10 分の 1、多い者で 10 分の