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二代利長の城下町・高岡

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Academic year: 2021

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著者 栗山 雅夫

雑誌名 金大考古

59

ページ 15‑18

発行年 2007‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/2297/9791

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金大考古 59:15-18, 2007 栗山 二代利長の城下町・高岡

はじめに

 「鳳ほ う お う凰鳴な く矣、 干かの彼高たかおかに岡」 

 高岡の名前は、 『詩経』 の一節にちなみ、 高岡城を築 いて城下町を開いた前田利長が命名したとされた。 慶長 14 年 (1609) 5 月の史料で 「高おか」 の名が確認されて おり、 近世初頭に形成された城下町に位置付けされるもの である。 現在、 高岡市は 「近世高岡の文化遺産群」 とし て世界遺産候補へ名乗りを挙げているが、 その中核を成し ているのが城下町開町以来の文化財である。 また、 平成 21 年 (2009) には開町 400 年を迎えることから、 さまざま なイベントの準備が進められている。

二代利長の城下町 ・ 高岡

栗山 雅夫 (高岡市教育委員会)

第 図 高岡市街地ガイドマップ

治) を務めており、 この間に城下町の整備が進んだようで、

紺屋町 ・ 鉄砲町等城下町にちなんだ地名が残っている。

また、 木舟城については、 天正 13 年 11 月の天正大地震 で城主夫妻が落命し、 城下町も大きな被害を受けた。 翌 年中には、 秀継嫡男の利秀が小矢部市の今石動城へ居 城を移し、 木舟城は廃城された。 能越自動車道の建設に 伴う発掘調査により、 16 世紀を主体として広範囲に広 がる城下町の遺構が検出されている。 なお、 守山城と同 様の地名は、 木舟城下町にも残されている。

第 図 二上山城跡へ御登山道筋図 嘉永 5 年 (85)

第 図 木舟城下町遺構図  城下町開町前夜

 天正 13 年 (1585) 8 月、 前田利家と佐々成政の争いに 端を発して、 前田利家を支援する形で羽柴秀吉が越中を 平定すると、 砺波 ・ 射水 ・ 婦負の 3 郡が前田利家に与え られ、 守山城に前田利長、 木舟城には前田秀継が入った。

守山城については、 慶長 2 年 (1597) に富山城へ居城 を移すまで利長が城主 (実質的には城代、 前田長種が統

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第 図 関野之古図 (写) 明治期

第 5 図 慶長期高岡城下町 ( 文政 0 年絵図上)

城下町開町後

 慶長 2 年 (1597)、 前田利長は守山城から富山城へ居 城を移した。 富山城は、 もともと神保 ・ 佐々の居城であっ たが、 佐々成政の降伏後には廃城された。 その後、 利長 が富山城に居城を移し、 まもなく藩主を継ぐために金沢に 戻ることになるが、 慶長 10 年 (1605)、 利常に藩主を譲っ て隠居する際には、 再び富山城へ戻り本格的な築城と城 下町の整備を進めたと考えられている。 しかしながら、 慶 長 14 年 (1609) の大火によって城と城下町が焼けたため、

緊急避難先として魚津城に移った後、 高岡城と城下町を 築いて入城した。 3 月 18 日に火災が発生し、 4 月 6 日に は幕府の許可を得て速やかに普請にとりかかり、 9 月 13 日には入城を果たすという異例のスピードで高岡城と城下 町は築かれた。 ただし、 入城後も作事関係を中心に築城 工事は続いていたことは、 史料の上からも明らかとなって おり、 書院の畳の注文などがなされている。

 城は関野台地上に立地しており、 小矢部川に流入する 千保川が城下の外縁を流れている地形を選地している。 こ の千保川は、 城下の領域を区画するだけでなく、 築城に 伴う資材運搬ルートとして大活躍した。 築城に際しては、

富山城及び守山城下にあった木町の舟方を集め屋敷地を 新たに与え、 高岡木町が作られている。 また、 千保川対 岸には鋳物師を集住させ、 後に高岡銅器発祥の地となる 金屋町を作られたほか、 城から西へ連なる高岡台地上に は武家地が設けられ、 北側に一段下がった部分に町人町 を設け北陸街道を通過させるなど、 計画的な城下町が速 やかに形成されていった。

 こうした矢継ぎ早の城づくり ・ 町づくりがなされた背景とし ては、 守山城在城時から眺望がきくこの場所を認知してい たことや、 既存の城館遺跡を改変せず、 原野に一から築く ことができたことによる部分も大きいと思われる。

 「関野之古図」 は築城以前の高岡周辺の様子を記して おり、 当時関野と呼ばれたこの地の 「源野坂」 付近に城 が築かれ、 「矢部」 付近の台地に武家地や町人町が設け られた。 また、 木町の成立に守山城下町が関わっている ように、 城下中心部にも木舟町、 守山町が存在しており、

木舟城下町 ・ 守山城下町の旧住民が住まわされた場所と されている。

高岡城廃城後

 慶長 19 年 (1614) 5 月 20 日、 高岡城内において前田 利長が死去 (享年 53 才) する。 大阪冬の陣を間際という タイミングや、 「我死なば、 すなわち天下自ずから統一して 太平ならん」 という遺言から、 利長が自ら命を絶った可能 性も指摘されている。

 翌年、 豊臣氏が滅亡し、 一国一城令が出されると高岡 城も廃城されたと考えられている。 廃城によって家臣団が 金沢へと引き上げ、 当初、 570 人余り家臣と 630 戸の戸数 で開町した城下町は、 急速にさびれていった。 こうした状 況に手を打ったのが 3 代藩主前田利常で、元和 6 年(1620)

に高岡町人の転出を禁じ、 高岡町奉行管理下にあった城 跡内に米蔵や塩蔵や煙硝蔵を置くともに、 城の基本的な 縄張りを残す措置を施した。 また、 寛永 6 年 (1629) に は、 北陸街道のルートを城の大手前を通過するルートに変 えることで、 旧武家地の広がる台地上に人の流れを呼び 込む方策をとった。 さらに、魚問屋や塩問屋の創設を認め、

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金大考古 59:15-18, 2007 栗山 二代利長の城下町・高岡

本 町:開町時に無償支給された 役地に営まれた町

地子町:廃城後、旧武家屋敷地等 を借りた地子地にできた町 散 町:周辺の村の土地を借り受

けた請地にできた町

第 6 図 高岡之絵図 天保 6 年 (85) 月写

7 図 高岡城下町 ( 文政 10 年絵図上)

第 表 町の分類 綿市場や布御印押人の設置や鋳物産業を奨励するなど、

利長が作った城下町を商工業のまちへと転換を図ることに 成功している。

 高岡の町は、 本町、 地子町、 散町に大別される。 このう ち、 本町は開町時に無償支給され、 地代も免除された場 所の町で、 開町時には 35 町を数える。 地子町は、 廃城 に伴い空地となった武士の屋敷地などの地代を支払って

借り受けた場所で形成された町を指している。 散町は、 周 辺の村々の土地を借り受けて請地とした場所に営まれた町 である。 歴史的な変化を追うと、 開町時の本町から廃城後 の地子町、 そして人口増加に伴って出現する散町へと町 が拡大したといえよう。

明治維新後

 「利長が生み、 利常が育て、 町衆が護った」 まちが高岡 である。 加賀藩による保護政策を受け、 570 人、 630 戸で 始まった城下町は明治元年には 22,298 人、 4961 戸にま で増加している。

 明治維新後、 廃藩置県に伴い高岡は、 金沢県→七尾 県→新川県→石川県→富山県と変遷し、明治 22 年(1889)

の市町村制実施により、 高岡市となっている。 県庁所在地 ではない市として全国に先駆けるものである。

 また、 近世を通じて古御城として高岡町奉行の管理下に おかれた高岡城跡は、 全国の多くの城がそうであったよう に、 払い下げから破壊の危機に瀕することになった。 払い 下げの落札者は、 伏木港の発展等に努めた実業家として 知られる藤井能三で、 明治 5 年 (1872) の落札後のもの として、 347 人 81 区画に区分けされた開墾予定と思われ る図面も残されている。 しかしながら、 明治 6 年 (1873)

の公園条例を契機として、 当時第 17 大区区長 (現在の 高岡市長に相当) であった、 服部嘉十郎を中心として公 園指定請願運動が起こり公園化によって城跡の保存を図る 活動が展開されます。 その結果、 明治 8 年 (1875) には

「高岡公園」 として城址公園としては全国初の指定を受け た。 その後、 各種公共施設が設置され昭和 26 年 (1951)

には産業博覧会が開催されるなど、 古城公園の名で現在 まで市民の憩いの場として親しまれている。

 また、 木舟町や守山町など城下町の中心に位置する山 町筋は、 国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され ている。 この町並みは土蔵造りの町並みとして知られ、 明 治 33 年 (1900) に市街地の大半を焼失した高岡大火後

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年  代  人  口  戸  数  慶長 14 年(1609)  570 人  計 630 戸  元禄 3 年(1690)  ―  計 2,616 戸 

本  町 1,353  地子町 755  請  地 341  その他 169  元禄 12 年(1699)  13,085 人  ―  明和 8 年(1771)  ―  本  町 1,613 

地子町 1,704  文久 3 年(1863)  ―  計 4,661 戸  明治元年(1867)  22,298 人  計 4,961 戸 第 表 開町以後の人口 ・ 戸数の変遷

第 8 図 高岡公園改良設計図 明治 年 (9)

に防火を主眼として建てられたもので、 近代における高岡 の商工業の隆盛を物語るものである。 さらに、 開町以来の 歴史を有する金屋町の鋳物産業は江戸中期以降に銅器 生産を開始し、 明治時代には美術銅器を海外の万国博覧 会に出品し受賞を重ねた。 全国シェアの 90%を占めると 謳われる高岡銅器は、 ものづくりの町高岡の象徴である。

 このように、 利長が開町した城下町の諸要素は、 今もま ちのそこかしこに息づいており、 高岡市民の誇りの源泉と いえるものである。

三代利常の城下町 ・ 小松

宮下幸夫 (小松市立博物館)

Figure 複製利常画像 1. はじめに

 小松の城は三代前田利常が寛永十七年 (1640) に隠 居して入ることを契機に面目を一新し、 城下も利常に従う 藩士たちが移住によって城下町としての体裁が整えられる ようになった。

2. 前田氏以前の小松

 小松城については、利常が隠居城として寛永16 (1639)

年に整備するまでのことはよくわかっていない。

 この頃の小松は北國街道沿いに点々と城や堡 (おそらく 一向一揆頃より) が築かれていて、 三湖を望める台地に 御幸塚城 (堡)、 本折城等があり、 その周辺に町が形成 していたものと考えられる。 利常が整備するまでは、 小松 は九龍橋川を境に南は本折、 北は小松と呼ばれていた。

 藩政期の郷土史家で小松城番も勤めていた富田景周 は 『越登賀三州志』 の中で天正4 (1576) 年に一向一 揆の指導者の一人の若林長門が繁茂する笹藪を切り払っ て小松城を築いたという説を書いている。 おそらくこの時は 城といっても堡といったもので、 砦に近いものであったろう と思われる。 柴田勝家により一向一揆が鎮圧され、 天正 8 (1580) 年、 織田信長は村上勝頼 (義明) に能美郡 6万6千石を与え小松城に置いた。

参照

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