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大聖寺城下町の寺町 : 山の下寺社群

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Academic year: 2021

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著者 田嶋 正和

雑誌名 金大考古 = The Archaeological Journal of Kanazawa University

64

ページ 4‑8

発行年 2009‑06‑30

URL http://hdl.handle.net/2297/23954

(2)

大聖寺城下町の寺町 山の下寺社群 田嶋正和(加賀市歴史文化課)

1 . はじめに

 石川県の南端に位置する加賀市は、藩政期、県内で 唯一加賀藩以外の藩が置かれた地である。安土桃山時 代には豊臣秀吉の家臣、溝口定勝(秀勝)や山口宗永 などが配されていたが、慶長六年(1600)加賀藩二代 藩主前田利長によって山口宗永が滅ぼされ、以後加賀 藩の一部となっていた。大聖寺城は前田方の城として 修築されたと推定され、城代が置かれていたが、元和 元年(1615)の一国一城令により破却されている。

 廃城になって 24 年後の寛永 16 年(1639)、加賀藩 三代藩主前田利常の三男利治によって、大聖寺藩が 7 万石をもって分封された。一旦壊された城の再建は、

幕府の許可が得られず、麓に藩邸を構えるに留まった が、城跡の山は入山禁止され、緩急の際には活用する ことを計画していたと推定される。

寺社名 宗 派 移建年代

実性院 曹洞宗 万治4年(1661)

蓮光寺 日蓮宗 寛永 21 年(1644)

久法寺 法華宗 天和元年(1681)

全昌寺 曹洞宗 正保元年(1644)

正覚寺 浄土宗 元和年間?(1615 ~)

宗寿寺 日蓮宗 寛永 19 年(1642)以前 本光寺 法華宗 寛永 19 年(1642)

慈光院 真言宗 元和2年(1616)

山の下寺社群移転年代一覧

2. 寺町 (山の下寺社群) の形成

 大聖寺城下町の南西端に寺院群が配置されている。

わずか8ケ寺で構成されており、決して多い数ではな いが、このうち浄土宗正覚寺と真言宗慈光院(現山下 神社)の2ケ寺は、大聖寺藩分藩以前に現在地に移転 していたことが明らかである。その他の禅宗系2ケ寺 と日蓮宗系4ケ寺は分藩以後に寺地が与えられ移転し ている。

 溝口秀勝が大聖寺城主であった当時はこうした寺町 が形成された痕跡はまったく残っておらず、山口宗永 が城主であった時も、全昌寺を菩提寺にしていたと伝 えられるが、当時は城下町から北に約1km近く離れ た極楽寺村に移転したと伝えられており、それが事実 であれば城下町で寺町を形成しようとする意図も兆候

も確認できない。

 大聖寺藩分藩以前に移転していた2ケ寺も、前田家 による加賀藩時代になってからの移転であり、まして 一国一城令で大聖寺城が破却されて以後のことである から、分藩以前に防衛を意図した寺町形成を計画して いたとは考えにくい。

 浄土真宗寺院の専称寺(西派)願成寺・慶徳寺・本 善寺・豪摂寺(以上東派)は町内に分散して寺地を与 えられており、かつて一向一揆を引き起こした浄土真 宗は、金沢城下町と同様、意図的に寺町に加えられて いなかった。こうした浄土真宗寺院の城下町移転は、

小松城下町同様、加賀藩三代藩主前田利常の施策によ るものであろう。領内の有力寺院を門徒地盤と切り離 すことで団結しにくくするとともに、監視しやすい距 離に置いて、一向一揆のような反逆行為を起こさせな いようにし、さらに周辺地の人々が頻繁に城下町へ往 来することでの経済効果を狙ったと推定されている。

他にも浄土宗松縁寺や、今は廃寺となった真言宗慈福 院などは、浄土真宗寺院とともに町内に分散しており、

成立事情にも拠るであろうが、浄土真宗寺院以外がす べて寺町に集中しているわけでもなかった。

 寛永 16 年の大聖寺藩分封後、寛永 19 年(1642)の 本光寺移転に始まり、以後寛永 21 年(1644)蓮光寺、

正保元年(寛永 21 年改元)に全昌寺、同年頃に宗寿 寺が相次いで移転していることから、藩の意図による 計画的移転であったと考えられる。やや遅れて久法寺 が天和元年(1681)に移転しており、最後に藩主の菩 提寺となった実性院が、万治4年(1661)に寺社群南 端に創立されている。この寺はもと宗英寺と称し、家 老玉井市正の菩提寺であったが、初代藩主利治が没し た時、いまだ菩提寺が定められていなかったため、急 遽菩提寺となり、寺名も利治の法号実性院殿から付け られた。その時はまだ城下町の北に隣接した岡村に あったという。万治4年(1661)二代藩主利明の時に、

正式に藩主の菩提寺として現在地に建立されている。

3. 墓制 男墓と女墓

 山の下寺社群にある寺院の檀家はもと武家が多い が、日蓮宗系の寺院では町人の門徒も多かった。現在 は無くなったようであるが、かつて武家の中には禅宗 系の寺院に男墓、日蓮宗系寺院に女墓と分けて墓所を 設けていた家も少なくなかった。主に藩の直臣で中級

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以上の武家に多かったようである。近年まで 残っていた旧大聖寺藩士土田家の場合、男墓は 曹洞宗の全昌寺にあり、女墓は日蓮宗の宗寿寺 にあった。現在は全昌寺にまとめられている。

これは男女による信仰の差にも起因しているだ ろうが、こうした二墓制は、前田利常の生母寿 福院の墓が羽咋市の妙成寺に建てられたよう に、金沢の武家でもあったと思われ、武家の墓 制を知る上で興味深い。

 各寺院の墓地は背後の尾根上に営まれてい る。この丘陵はかつて二代藩主前田利長が大聖 寺城を攻めた時、慈光院背後の石堂山に本陣を 置いたように、城攻めの本陣や向城を築くには 格好の地であった。寺院群を藩邸防衛の意図で 配置したとすれば、墓地を背後の丘陵に設けた のも、敵に適地を与えない工夫であったのかも しれない。後世には本堂周辺の境内地にも数多 くの墓が営まれた。裏山から移されたものも多 い。

4. 寺社の由緒

 北側にある慈光院から順に紹介する。

真言宗 大聖寺慈光院(山下神社)

 山代温泉薬王院にある十一面観音像(県指定 文化財)は、明治の神仏分離令まで慈光院の本 尊であった。この仏像は平安時代まで遡る古仏 であり、寺名からみても白山五院の大聖寺の後 身であったと考えられるが、薬王院と同様、こ とさらにこれを伝承していない。由緒書には越 前滝谷寺の僧が室町時代に開創したことになっ ている。これは江戸時代に再興する際、天台宗 の白山信仰の拠点であったことを、意識的に消 去したものと解される。逆をいえば前田家領内 では、白山系天台宗寺院としては再興が叶わな かったということであろう。もとは錦城山背後 の荻生村の山中にあって、元和二年に現在地に 移転している。慈光院は別当として白山・神明 両宮を祀っていた。明治の廃仏棄釈で慈光院が 廃され、山下神社となった。現在の拝殿はもと 慈光院神明宮の拝殿であり、白山社は南側の丘 陵上に建っている。

法華宗 鳳栄山本光寺

本光寺 宗寿寺

正覚寺

全昌寺

久法寺

蓮光寺

実性院

山の下寺社群配置図

全昌寺 (奥) と正覚寺 (手前)

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 越中高岡本光寺六世日韻が金沢本光寺とともに開創 した寺で、寛永 19 年(1642)に現在地で建立された。

同寺文書に「白山(慈光院)と宗寿寺の間ニ塚原並ニ 山畠」に境内地を拝領したい旨の願出書が残されてい る。塚原という地名から、この辺りに古墳があった可 能性が高い。現在も山門脇に古墳状の高まりが残って いる。

日蓮宗 久昌山宗寿寺

 永禄元年(1558)真言宗から日蓮宗に改宗し、法華 坊と称したという。大聖寺川の改修で度々水害に見舞 われるようになり、大聖寺藩に願い出て現在地に移転 している。旧地は町名になっている。寛永 19 年の本 光寺文書には当寺が現在地にあったと考えられる内 容で記されていることから、それ以前に現在の境内を 賜っていたと考えられる。

この寺は町人の門徒が多かったが、大聖寺藩家老生駒 家の菩提寺でもあり、他の藩士でもこの寺の檀家が多 く、女墓のみこの寺の境内に設けられた例も多かった。

なお山門は大聖寺関の関所門を明治初年に移築したも のである。

浄土宗 幽谷山正覚寺

 天正元年に大聖寺法華坊に草庵が結ばれ、同年能美 郡の仏ケ原で、平清盛から仏御前が拝領した阿弥陀如 来像を、霊夢によって勧請し、元和年中に加賀藩より 現在地を賜って移転したという。同像は三国伝来の伝 承を持つ清涼寺式釈迦如来像の模刻像で、頭は螺髪で はなく荒縄状で、足は履ばきとなっている。なお清涼 寺式如来像は通常釈迦如来像であるが、当寺では沓履 きであることから、履行(くつばき)阿弥陀如来像と 称している。

曹洞宗 熊谷山全昌寺

 寺伝によればもと真言宗で山代にあり、大勝寺と称 したという。天正四年(1577)曹洞宗に改宗し、慶長 三年(1598)大聖寺城主となった山口宗永の帰依を受 け、大聖寺郊外の極楽寺村に移築されたと伝えている。

わずか2年後に大聖寺城落城とともに山口氏は滅び困 窮したが、大聖寺城代となった加賀藩家老津田氏の帰 依を受け、元和三年(1617)には大聖寺領内各宗派の 触頭という、最高の寺格を確立していた。現在地に移

転したのは正保元年(1644)である。この寺は松尾芭 蕉が「奥の細道」の途次に宿泊しており、完存した 五百羅漢像の残る寺としても知られている。

法華宗 長昌山久法寺

 もと真言宗から改宗したと伝えており、当初は神明 町の北端(現在の時習庵の辺り)にあったという。天

慈光院神明宮拝殿

本光寺門前

宗寿寺山門

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和元年(1681)現在地に移転したようである。日蓮宗 不受不施派の弟子がこの寺の住職になっており、同派 の信徒がこの寺の門徒に吸収されたりしている。不受 不施派はキリスト教と同様邪教として禁教された宗派 であった。檀家に士族が多かったため、明治維新後門 徒が減少し、庫裏を売却したり境内に水田を作ったり して、命脈を保った時期もあったようである。昭和 23 年の福井地震で本堂が倒壊し、長く本堂が無い状態が 続いたが、同 60 年に至ってようやく再建されている。

日蓮宗 華徳山蓮光寺

 大聖寺初代藩主前田利治が開基となり、寛永 21 年

(1644)境内・建物が寄進されて創立したという。開 山は羽咋の妙成寺から日然が招聘され、その別院とし て開かれたと伝えられる。一向一揆を起こした浄土真 宗勢力に対抗するため、日蓮宗の導入を図ったともい われるが、妙成寺はその伽藍建立に加賀藩三代藩主利 常と、その生母寿福院が深くかかわっていた。加賀藩 における妙成寺と同様に、大聖寺藩でもこの寺を藩主 家子女の寺として創立した可能性が高い。そのためか 檀家に町人は少なく、大半が藩士の家であった。江戸 後期に住職不在が 10 年間も続き、その間大聖寺五代 藩主の側室円成院が 8 年間この寺に居住して仏像修復、

什器寄進が行なわれたという。現在の本堂は金沢城再 建の残材で建てられたといわれているが、金沢城の文 化五年(1808)焼失以降の再建にかかわるものと推定 され、円成院滞在中のことであろう。

曹洞宗 金龍山実性院

 大聖寺藩主前田家の菩提寺である。もとは家老玉井 市正が、父親の菩提を弔うために岡村に建立した宗英 寺で、万治三年(1660)初代藩主利治が亡くなった時、

宗英寺で葬儀を行った。以後この寺を菩提寺と定め、

利治の法号から寺名を実性院と改めている。翌年二代 藩主利明が現在地に造営を命じ、伽藍が整えられた。

本堂は創建以来の建物であるが、書院・庫裏等は江戸 後期の建替である。山門は福井地震で倒壊し再建され ていない。裏山には大聖寺藩主および子女の墓地があ る。歴代藩主すべてがここ一箇所に葬られており、こ

うした例は全国的にも少なく、墓塔も建てられた当時 のままである。明治以降神道に改宗した本藩の墓地は、

仏教的墓塔が撤去されているといわれており、そうで あれば県内では唯一江戸時代の様相を伝えた大名墓地 ということになる。

5. おわりに

 小規模ながら、8ケ所の寺社が山の下沿いに立ち並 ぶ景観は独特の雰囲気を醸し出している。通り沿いに

正覚寺境内

全昌寺正面

久法寺全景

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土塀を巡らした寺院は少なく、生垣であったり、通り から内側に下がって塀が作られているため、全体に厳 めしさがなく、柔らかな雰囲気である。こうした山の 下寺院群の成立事情は、少なくとも前田家による分藩 以降に意図的に集められたと考えられる。逆にいえば、

山口氏以前には寺院群を形成していない。こうした点 は城下における寺町が、江戸時代になってから形成さ れたということであり、これまで語られてきたような、

防衛目的で形成されたのかも含めて、今後さらに検討 する必要があろう。

(e-mail: [email protected])

蓮光寺全景

大聖寺藩歴代藩主墓地

実性院本堂

良渚文化「耘田器」の使用痕と機能 原田 幹

はじめに

 良渚文化は長江下流域の新石器時代後期の文化であ る。大規模な土台状建造物、階層分化の進んだ墓葬、

精緻な玉器に代表される手工業生産の発達など、諸方 面において研究者の注目を集めている。

 良渚文化の経済的基盤は、稲作を主体とする農耕生 産にもとめられる。この段階には、石鎌、耘田器、破 土器、石犁など、特徴的な石器が盛行し、農耕技術の 一定の到達度を示す資料として評価されている(厳 1995、中村 2002 など)。しかし、個々の石器の具体的 な機能・用途については諸説があり、見解の一致をみ ていないこともまた事実である。

 本稿では、「耘田器」と呼ばれている石器をとりあげ、

高倍率の顕微鏡を用いた使用痕分析により、その機能 および使用方法について検討する。

1 使用痕分析調査の概要

 本分析は、日中共同研究「良渚文化における石器の 生産と流通」(2000 ~ 2002 年度、研究代表中村慎一)

の一環として実施したものである。浙江省・江蘇省の 各研究機関において、主に農具としての機能・用途が 想定されている石器約 60 点の使用痕分析を実施した。

予備調査   2000 年 9 月  浙江省文物考古研究所ほか  第 1 回   2001 年 9 月  浙江省文物考古研究所、 湖州

  市博物館、 馬嶴博物館、 舟山市博物館  第 2 回   2002 年 2 ~ 3 月  上海博物館

 第 3 回   2002 年 9 月  浙江省文物考古研究所、 昆山   市文物管理所、 良渚文化博物館

2 耘田器について

 「耘田器」とは、左右対称のV字形の刃部をもつ薄 身の石器である。その他、背部に突出部をもつ(ない ものもある)、中央背部よりに穿孔がある(ないもの もある)、刃部断面は両刃で刃角は小さい、といった 形態的な特徴がある。

 「耘田器」の機能・用途については、A直交する柄 を付け、中耕除草具とする説(劉軍・王海明 1993)

参照

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