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夫餘國考 : 特にその中心地の位置に就いて

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

夫餘國考 : 特にその中心地の位置に就いて

日野, 開三郎

https://doi.org/10.15017/2339086

出版情報:史淵. 34, pp.1-104, 1946-01-25. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

−少

夫餘國考 緒言

一︑夫餘族の住域と夫餘國の中心︑

二︑夫餘なる地名の遺存地と夫餘國の中心

三︑三國志.魏志.夫餘傳の解程と夫録画の中心

I地理に閥する記事の解稗

Ⅱ物産に閥する記邪の解稗

四︑周函諸勢力との關係より見た夫餘國の中心・

I支那との開係・ノ

Ⅱ鮮卑との閥係

Ⅲ商句麗との開係

五︑領土の伸縮まり見た夫餘國の中心

I夫餘國の最大版岡

夫餘國考

1判にその中心地の位世に就いて11

日野開三

一一

(3)

I

口延延︑︒

lIlllⅡⅡ日■■■■■■■■■■iIlIII︲︲︲︲ロロ■口回

Q

1

夫餘聞は通古斯系に脇する夫除放の建てた王國で︑迦古斯放の建てた図としては︑史に徴し得る限り↑

蛾も古いものである︒夫餘の名は戦闘時代己に史に現れ︵尤も未だ種族名か國名かははっきりしない︶

後魏の孝文帝の太和十八年︵岡九四︶︑新興の勿吉に逐はれた國王及びその一族が高句麗に亡命して副

琵喪ふ迄︑少くとも七百餘年の國運逓保ち︑その最廉期には厳大な版圃と擁して通古斯族妓大の勢力莚

餘閣考

Ⅱ抱婁の離反Ⅲ束夫除の喪失

Ⅳ鹿山の喪失とその位澁

V勿吉の勃興と夫偉の滅亡

六︑浦洲史の大勢より見た垣夫餘國の中心

I遊牧民族と迩古斯族との分銅地としての農安の歴史と夫餘國の中心

Ⅱ迩古斯族發逹史上に於ける隆安地方の地位と夫除國の小心

七︑夫除國の輝濟︑祇愈︑政治

I經濟 Ⅱ牡︑合 Ⅲ︽政治 除言

に1

I

− 型

(4)

I

成して居た︒かかる國蓮の長久とその隆禺とは︑夫餘國及びその中心種族となった夫除族の測洲史上に

於ける地位逓極めて高からしむるものであり︑從ってその研究は凡ゆる角度から徹底的に行はる可きも

の●である︒本稲は塒に夫餘國の中心︑・從って此と表塑不可分の關係に在る夫除族の中●心地の究明を主︑

的として起草したものであるが︑此の口的の遜成に聯關して謝方面の問題にも畷れろ豫定である︒

夫餘王國の中心︑即ち王都の所在地に就いては從米巳に我が剛の騏蒋に依って考究せられ︑その紬果

鮎1陸ろの學説莚生んで脇る︒輔一は今の仙通河畔の挫妾の地なりとする松井等氏の説︑雛蔵此を否定

し今の阿什河同勒楚噂凹畔の阿勒楚喀岡城︶なりとする池内先生の純である︒尤も︑池内先生の

説を詳しく云ふならば︑農安の地も亦剛部と価關係であったのでは価砿︒即ち先生の御縦に依れば︑夫

鹸は阿勒楚喀の地に興り︑そこ駐根滕としたが︑來苛の︑水卸一年︵三川六︶以前の或る年︑商州寵の俊

辿を火へ符ずして膿愛地方に従り︑M年そこで鮮叩の纂容氏に襲蠣せら肌致命的火打蠣逓被り︑作批を〆醇菟れた餘衆は商刎腿の許可を得て叫び阿勒楚喀に遡り︑尚句腿に縦脇して餘命を保つ巾︑何じく阿勒楚

辻 甜 一

喀に興った勿古に逐はれて滅亡したものであると蓋ふ︒

.此の附読に對する批判はしばらく描いて出秀の納果注率直に云へぱ︑夫除剛及び夫餘族の中心は股安

の地であり︑夫餓族の仇域︑從って夫除側の本土とも稲す可きは︑大燗︑北流松花江の本支全流域︵但

し雌下流城を除く︶及び東遼河流域︑即ち略掩後ちの栗求職鞠の化城に倣って階たと解せられる︒挫安

誼を採る迩味に於いて︑泄老は松井説に刺す匂わわけであるが︑松井氏の考詑は除りに簡取で︑挫安読逓

夫録剛考・墨三

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■︐乙邑

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(5)

I

夫一餘図考四

確立するに充分で稚く︑そこに池内先生の異説荘生む冊隙があった︒不幸︑本稿は恩師の論と祁芥肌ざ

・凸二

︑ろ結果に陥ったとは云へ︑水稲の完成は︑史料に就いては云ふに及ばず︑・研究方法より論考の批進に韮

ろ迄悉く先生の御野作﹁夫餘老﹂に誘導啓發せられたもので︑恩師先導の餐に外ならぬのである︒以下

車︽恥を分って憩見の論隙牡冊陳することとする︒

1︑滿洲歴史地蝿錐二巻︑松井等氏﹁滿洲に於ける遼の塊域﹂

2勺浦鮮地理歴史研究報僑十三巻︑池内先生﹁夫除考﹂

附杏に初めて現れる所謂韓細七部︵七極の緋縄の意︶の中の菜末韓蝿は店代に入って後ち尚扶除絲物

なる別名牡もち︑明かに夫餘族の青と認む可きものであるが︑その蚊大の中心は避安地方で︑伊通河

との合流鮎附近以南の北流松花江及び繩發測・伊辿刈・東遼洲等の流域に跨る一帯の地を住域としてゐ

た︒粟末韓報の北境は伊通河逓容虹た後ちの北流松花江流域と拉林河下流域とを住域とする伯咄韓帆と

接し︑伯咄秣幡の東方阿勒楚喀方面には安車骨韓綱が居た︒此の雨蛛概は減蒙混血の夫餘族とは異り︑

一︑夫餘族の性域と夫餘國の中心

~

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ロ序

。町

(6)

1

純通古斯系であったと推測せられる︒即ち此の叩部は夫除族の商とは認められないのである︒

夫餘を逐った勿吉は阿勒楚喀・拉林河流域の通古斯族逓中心民族とし︑從って此の地方を勃興の地と

しⅡつ本土とした勢力であるが︑私見に依れば︑此の勿吉の中心雌族も亦純通古斯族であり︑然もそれ

は嘗て久しく夫餘に戦脇して居た此地方の土茄雌であった︒されば安車骨妹靭や伯咄秣細︑特に前粁は

恐らく勿吉の商であらうと忠は伽る︒即ち夫餘族の青たる架末戦蝿の北隣︑詳言すれば伊通河と北流松.●花江との合流軸附近を境としてその東北は純通古斯族の住地であり︑そ肌は夫餘國畔代からの状態であ

ったのである︒尤も︑夫除閏は︑後述する如く久しく此の地方涯恢有してゐたのであるから︑その間に

多敷の夫餘族が入り込んだのではないかとの老へが一唯抱か虹るが︑私老の結果に依れば︑夫餘族の入

住は糊然考ふべきではあるが︑それは夫餘閏の支剛を確保して行く上に必嘆な粋度で︑数に於いては杣

めて少く︑此の地方の主住此となる秘の布力なものでは無かった様である︒

粟末絲蝿の四隣は東胡系の契丹族が任して鵬た︒所で夫除剛の四は︑魏志唯一一夫餘傅に

.西與鮓卑接

とある如く︑Mじ東胡系遊牧災族鮮卑と接して居た︒而して鮮卑も契丹も時代を異にしてシラムレン河

流域逓根擁としてゐたものである︒かく考察すると︑架末妹蝿がその西境に於いて東胡系の遊牧此族と

接して鵬たのは随分古くからのことで︑そのⅢ族たる夫除族の朧時に於てUに此の形勢や拙來上って居

たことが知られる︒

夫録閏考五

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(7)

︑夫除固考六

粟末妹帆の南境は︑その西方に於いては略共今の附原︑鐵敬地方より輝發河と沌河との分水櫛に至る

線と限界とし︑更に輝發︑松花叩水と鴨維︑侈惟︑豆猟諦水との分水山脈を連ねて長白川に至る線睡東

部荊境とし︑以て商刎肥に接してゐた︒所で魏志の夫餘体逓兄るに

︾夫除在長城之北︒去玄菟千里︒南與商句班接︒

とあり︑今の州原の北方を走ってゐたと推測せら鯉ろ長城を塊として今の奉天附近に比定せられる支那

の玄蒐郡の地と境遼接し︑その東方は蘇子河流域に進川して隅た商句蝿に接してゐたと云卦︒して兇ろ

と︑架末菟柵の住城の南界城そのⅢ族たる夫餘族の時代と殆んど鍵り無かったことが察せられろ︑叉粟

末秣帆の來界は北流松花江の東方症南北に走る牡丹領・新關徹術山脈と辿る一線であったと想はれる

が︑夫餘放の東界も略迂此と同じで︑︾此の山系涯界どして沃汎︑抱婆に接してゐた︒︑

以上を要するに︑夫餘族が主牲災と芯ってゐた地域︑即ち彼等の本擁とも云ふ可き地噂北︿後箭たる

後年の架末妹帆の住城に紺乃地域︑即ち伊迩河及び此との合流鮎附近より源流地に至る北流松花江︑輝

註1發河︑ゞ束遼河等の流域一群であったのである︒夫鈴剛涯姓謎し︑その支配階級として剛迩の降稗逓搬っ

て鵬た薪が夫餘族であったことは云ふ迄もあるまい︒國勢の降呂と共にその征服する所となり新に夫除

図民に加へられた種族も少くなかつたが︵後文参照︶へ彼等は結局被祉服稀として屈從して隣たにすぎ

ず︑機會あらぱ離叛獅立せんとし︑叉猫立甦遂げた春もあった︒夫餘王剛の眞の支柱として運命を共に

︑す可き國民は夫餘族であり︑従ってその地盤として嵐に依擦し得た本土は夫餘族の住域であった筈であ

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(8)

るやかぐ槻するに︑國家の中心︑王城の地と夫餘族の住域外に比定するは稚當と云ひ難い︒即ち王城の

候補地として呵勒楚喀︑農安︑鬼を一示されて居る現在︑その何奴を選ぶかと云へぱ︑夫餘族の住域内

に在って古来の要地たる農安の地を採り︑阿勒楚喀症棄てざるを得ないのである︑

新唐苫吟奉津渤海傳の一節に

・扶餘故地爲扶徐府︒常屯勁兵︒汗契丹︒

とて渤海の扶餘府は挟餓︵夫餘︶の故地なりとある︒渤海の扶餘府は契丹の黄龍府となった所で︑今の

L股安の地に當ろo松井氏が夫除國王都の地逓今の農安に比定せられた妓大の諭擦は右の記事に在る︒所

が池内先生は右記事莚以て夫餘國王郡の地猛決定する参考とは鰯し難しとせら鯉た︒その理川は

①伊迩河流域の地は︑歴史上︑束方迩古斯族と西隣の蒙古系の來胡民族との分乗地であるから︑

此所が迩古斯趣たる夫餘族の勢力の中心であったとは老へ難い︒

夫餘國考七

i︑以上粟末妹鶏に蝿する細い考説は別に發表する拙稿︑﹁商句麗時代に於ける粟末戦鵜の對外關係﹂︑一妹鵜七

部の住域﹂︑一・銃輻七部成立の由來﹂等を参照

↓二︑夫餘なる地名の這存地と夫餘國の中心

IIjlIJdl閂1﹁jⅡPdP︒

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(9)

I

夫除國考八

②新暦書渤海傳の府名とその奮居勢力との比定は必ずしも悉くが當を得たもので無く︑多くの過

誤失當を含んでゐるから︑扶餘府と夫餘との比定もそのまま即信ずる必要無く︑或は新唐普の撰

粁が︑扶除府なる名稚から︑測って此所逓夫除の故地なりとした勝手な比定かも知伽ない︒

③扶餘府が夫除族と關係ありとしても︑府の所在地が必ず夫餘族の中心であったとは限らない︒

④夫餘が滅亡した五世紀の末から渤海の建阿迄二仙紀の間隔の存することも考慮に入れねばなら

ぬ︵年数が開きすぎてその間に迩趾の批傳を生ずる除地ありとの意味であらう︶︒

かく︑て先生は右新店諜渤海傳の比定を否認し︑夫除の中心は別に他の地に索む可しとの立場荘とられ

進んで阿勒楚噂地方こそその故地なりとの結論を導き拙さ知てゐるのである︒されば挫安説を立てる爲

めには︑右凹條の否認論搬が事置何れも否認の諭搬にならぬとと荘立誇しなけ飾ぱならぬ︒・但し右の第

一條は後文.︵第六章︶に詳老するので︑本章では第二條以下に就いて論究する︒

渤海の建倒は則天武后の時代であるが︑此の渤海図が扶畭府の地遼完全に支配下に澄いたのは︑魁考

践1の結果に依れば︑早くとも玄宗の天蚕末︵七五六︶以後のことと解せられ︑此を夫餘王岡が滅んだ年と

↑云はれる北魏の太和十八年︵四九四︶より計ふ肌ぱこ批紀半以上も後ちのこととなる︒かかる年敷を挾

んでの比定は︑若しそれが新唐普の瀧肴によって爲されたものであれば︑先生の説かれる如く︑餘り信

用のおけないものと云は心ぱならぬ︒然し此の比定が果して新暦書撰者の渦獣に成るものかどうかの妓

も肝心な検討は行はれてゐない︒

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(10)

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さて夫餘王國減亡より渤海建國に至る迄の滿洲に關する史料を渉猟するに︑管見内では︑地名として

の夫餘︵扶餘・浮楡︶の名を傳へたもの蛮剛後四回ある︒その・一は養治迩鑑唾一一店紀・總亨兀年︵六六八︶f

二月壬午の條に

雑︒恋仁蛍既破高歴於金山︒乘勝將兵一〒人︒將攻扶餘城口諸將以批墓少止之︒〃仁恥以日︒丘︿不

︑在多︑願用之何如耳︒逢爲前鋒以進︑與高歴戦大破之︒殺推寓除人︑途抜扶触城︒扶餘川割鍵・

四十餘城c皆望風諦降︒

とあるもので︑此と同記事は冊府元躯確却外臣部・祉討門︑新店北口塞八及び推画唐書︽奄一の昨仁蛍傳にも

兄え︑只此等の諸史は迩鑑の兵力一下塗二Fとしてゐるのみである︒右記事に依恥ぱ高伽腿の勢力内に

扶餘州なる州があって数卜城を管轆し︑その流所は扶餘城に在ったことが知られる・憩老の結果に依れ

ば此の挟餘城の位世は今の挫安附近に比定せられ︑その管下の数十城とは伊迩河流域に性む架末韓報の

諸部族の城砦である︒即ち總章元年︵六六八︶髄時︑伊迩河の流域は尚刷歴に属して挟鹸州と呼ばれ︑

坐 雌

その中心扶餘城は今の挫安の地に在ったのである︒/

雄一底一一画史記喧一地理志・銘凹細・商句一腿の章に﹁鵬維江以北未降十一城﹂として梁げられた城名の

筆頭に﹁北扶除城州﹂とあるもので︑此の北桃雌城州とは商伽腿討伐に向った勝將李釧がその攻蝦側標

の一として猫げたもの︑私蒋に依れば︑此れ亦今の挫安の地に比だせられ︑先描註治通鑑の扶餘州及び

写挟餘城と側一の城州である︒尚李劫が此の城を攻螺目標の一として群定したのは乾封二年︵六六七︶九

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夫餘國考一○

駐鮒月豊肌のことであると云ふ︒因みに云︽が︑沓店書罎二地理志・旗州の條に

恢州︒武徳初世︒隷糠州︒価沌沫︵粟末︶秣靭烏素川部群︒側

︑とあり︒︑黎・州の條に・

黎州︒減初二年析旗州紐︒虚浮流︵扶餘︶秣細烏素間部落︒隷螢州︒

とあるは︑別に詳考せる如く︑架求職秘が挟鹸秣細とも呼ぱ肌て階たこと莚示す打力な史料であり︑殊

に此の烏索間部落は伊迩河方面莚原住地としてゐたものと推測せられ︑快除人の名が良§城初二年︵六

性j九○︶の醜迄礎存して届た乙と駐碓證する或要な所体である︒

第三は薔唐書準一碗一尚勿雅博に

唾建武識封惟伐並闘︒乃築長城︒東北自扶除城西南至海千打餘里︒

とあり︑新厭書塞宰尚句歴傳にもⅢ様に傳へられてゐる扶餘城である︒此の扶餘城の位低に就いては學

宍○説多岐であるが︑私老に依肌ぱ紛恥もなく今の避安の地である︒そして此の長城が出来上ったのは略全

.姓昂

貞観八年︵六三四︶唖と推定せられる︒

第四は太平蓑字記華七河北逆・燕州の條に引く所の階の北恭風俗記に︒|

初開皇中P粟末妹報梁励脆戦不勝︒有臓稽部渠長突地稽首者︒唖率八部勝丘数千人︒自挟餘↓

城西北梁部落向關内附︒云云︒

とある扶餘城で︑此れ亦別に詳考せる如く噌一今の農安の地に比定せら熟︑その開皇中とあるは略麦附皇

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居る︵先表参雌︶︒即ち扶餘なる地名は城に絡んで傳はってゐたのである︒このことは︑たとへそ肌が

己に破損した逝趾であったとしても︑當時の通古斯族の城砦としては特に優れた名城であったこと逓弛

はしめる︒想ふに︑そ硯は夫餘國の王城として並びなき規拱をもち︑その城趾が永く存綾した爲め︑此

の蛮艘の存練は扶餘なる名稲逓もそのまま︑永く惇へしめたのであらう︒要するに︑農安の地は減亡當時

の夫餘國王城の地で︑その城趾と共に扶餘の名も長く此の地に地名と.して通︑り︑高何班が此の地を慨し

た時は此の傳來の名をそのままに︑扶餘城州逓逓き︑渤海も亦此莚踏襲して扶餘府逓置いたのである︒

新唐書・渤海傳の比定は正しく︑從ってそ郡は撰若の渦断に非ずして有力な史料に基ゐたものと云ふ可

きである︒池内先生が新店雀の比定一と疑はれた四簡條の諭鰈の中︑鋪二條以下の三簡條は︑以上によっ

て総て繩然としたことと思はれる︒要するに︑挫安の地に於ける挟餘なる城地名の迩存はそこが夫除岡

滅亡當時の王城であったとと廷不してゐるのである︒

1︑此の事に就いては別に渤海の建國輿隆史の一節として論考したい老へでゐる

2︑別に菱表する拙稿︑﹁商句麗時代に於ける粟末妹鵜の對外開係に就いて﹂の附記﹁總章元年詳仁賞の攻焔せる

扶餘域に就陸L﹂参照3︑滿鮮地理歴史研究報告鋪十六冊︑池内先生﹁商句麗討減の役に於ける唐軍の行動﹂及び碇2の拙摘参照

4︑別に發表す可き拙抽﹁陥唐に歸喝せる架末妹鵜人突地稽一派〃研究﹂参照

5︑前出﹁商句腿時代に於ける粟末味鵜の對外開係﹂参照

6︑註4及び5の諸研究琴照

夫除図一毛・三一

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(15)

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三國志の魏志礎三夫除傳は夫像のことを鱒へた記事としては城も詳しく︑夫餘史研究上の批亜な史料

である︒をの一節に・

正始中︒幽州刺史豚脈倹討句歴︒遥玄菟太守王願詣夫餘d彗苓

とて幽州刺史母丘倫が高句班を討つだ時︑玄菟の太守王碩逓夫餘に遥し魏の閏威を示さしめたと云ふ︒

雁脆倹の高句腿遠征は正始五年︵一三四︶より翌年にわたったのであるから︑王臓の夫餘に對する示威的

入國も此の間のことであらう︒魏志・夫餘傳の詳しい記事は此の時魏人が親しく見聞して持鰄つた知識

を盛ったもので︑それ丈に︑口︿詳しいのみでなく︑其史料的慨値も極め壬画向いのである︒此所に朧られ

た記事の内容を大別すると︑地理・風土・官職制度・物産等逓記した後ち支那との關係に及んでゐる︒此

の由︑特に國都の位世探究に手掛りとなり︑從って池内先生によっても重要脱せられてゐるのは︑地理と物産とである︒本稿も亦此の胴部面から王都の位世逓推定して見る︒

至邑

夫餘鬮考

7︑註6に同じ

I地理に鮒する記事の解騨 三︑ゞ三國志堅魏志︒失餘傳の解繰と夫餘國の中心

1

1

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(16)

日三

づ︒︷ 』

夫餘傳の地理に願する部分は冒頭に記さ師た左の一節である︒説明の便宜上︑此逓適宜に瞳切り︑番

・號逓.附して掲げる︒

︸①夫餘在長城之北︒︑去玄菟千里︒

②南與高句麗︒東與拒婆︒西與鮮卑接︒

⑧北有弱水 〆︐④方可二千里︒戸八蕊︒噺マ ⑤多山陵・庇澤︒於東夷之域簸平敞︒︑

右記事の中略部分は地理以外の事柄である︒叉此の五域の中︑第一項に塞げられた隣境諸勢力は淡大

へ空

な夫餘の傾土の末端に於いて此と接してゐたのであるから︑此等隣境諸勢力の名から夫餘の中心を探り・

附すことは出來難く︑第四條の面械・戸数も右力な手掛りとはなり得ない︒残るは第一・弗三︒鋪五の三

項である︒

先づ鋪一項を検討するに︑その内容は方位と距離とより成る︒長城の北に在りと云ふ長城とは恐らく︑

淵原の北方を走ってゐたもの︑﹁玄菟逓去る千里﹂の千里は︑商楜斑と遼東の東千里︑沃沮の南北の長

姓1賎印︸

↑・さを千里︑描婆を扶除の東北千里︑店の時商句班の築いた挟徐城より西南して海に至る長城を千皿と云

ふの類で︑大ざっぱな数字と解せられること︑己に池内先生の誰かれてゐる如くである︒從って千里の

文字に深く拘泥して扶除國都の地逓探ることは必ずしも確疵な結果に到達するものとは云へ︑ない︒然し

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となる︒彼は撫順の地に在った新城莚守って居たが︑高句麗の扶餘城州の兵が遼河の逵り︵恐らく今の

繊畿附近︶に來り陣しその一部蓮以て新城を夜襲したので︑此逓禦退すると共に進んで遼河の本隊莚破

り︑北げるを迫うて金山︵東遼河上流の北山疋今の懐徳方面の山系︶に戦ひ︑更に北進して扶餘城蒄攻

〆陥し扶餘城の救按に馳せ参じた右力な敵地と朧殻水︵松花江か跳辿河か明確にし難い︶に迩繋粉砕し︑

爲めにモの軍勢遼海を雄はしたと云ふ︒ルて兄ると︑今の撫順奉天方面︑即ち玄菟郡方面から股安に至

る行軍路は︑今の懐徳から新京方面にかけて連恒する山陵︑即ち上に云ふ金山︵此の金山は元末に細吟

出が擦った所として史上に名商い︶莚越へて北進する莚順路としてゐたのである︑此の東菌而の山陵

に對し︑農安の北西方面は低撚沼澤が多い︒從って﹁多山陵︒沼灘﹂は農安を中心とする伊迩汎流域の

︒地勢とぴたりと合ふ︒夫餘に遠祉した魏の玄菟郡太守王願の車は樹然の順路として後世に云ふ金山越え

の道を採ったであらう︒そして附近に沼澤多きを見て﹁多山陸釣仙澤﹂の報告逓禰したものと解して差

支へあるまい︒かく老ふるに﹁多山陵︒沼澤﹂は必ずしも阿勒楚喀地方の地勢蓮説いたものと推断す可

きで無く︑寧ろ伊迩洲流域の可能性が多いのである︒

次に﹁於束爽之域蚊平敞﹂とあるのも︑池内先生は︑阿勒楚喀・愛城間に一旦る北滿第一の大平原を説

明したものと説かれてゐる︒所で此所に考へ姫ぱならぬのは︑此の﹁最平敞﹂の比較對象として時人の

頭に入ってゐた・地域である︒王収の扶隙速祉と前後して行はれた滿鮮經略は︑高句麗・市北沃沮・拒婆

・減等である︒従って比較の對象となった東夷の地と云ふのも魏人が親しく致渉した彼等の住地︑即ち

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(19)

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夫偉國考一〃八

鵬絲・柊化二水の流域︑成典平野︑間偽︑江腺道︑瑚爾喀河流域等で︑﹁雄平敞︐﹂は此等の地に比して

のことでなければならぬ︑そして阿勒楚喀と鰹安との平原は比較せられては居ないのであるから︑此の

剛平脈の何れが磁大であるかは問題でな×︑只上述せる諸地方より版ければよいのである︒されば一I岐

平敵︲一・なる説明を阿勒楚噂・農安の何れかに決定す可き依搾は夫餘傳には求めら肌ないのである︒

以上地理に關する記事より得た絲果は︑挫安・阿勒楚曜の何れの説明とも確定し粂鰹ろ部分が多いが︑

弧ひてその適否を求めると

い阿勒楚喀説に右利な鮎

︒①﹁北打弱水﹂︵但し鰹安にも通川し得る︶︒︾

b回避安説に有利な軸

.①﹁在長城之北﹂︵方角と位世︶

②﹁去玄菟千里﹂︵距離︶

⑧﹁多山陵・吹洋﹂︵地勢︒阿勒楚畔にも通附し得るが︑玄菟より通交途上の形勢として避安説︲

に打利︶

・例何れにも沢し得ねもの

①﹁於東爽之域妓平敞﹂

となり︑此逓總括した結果は挫安説が確かに有利である︒

夫偉國考一〃八

鵬絲・柊化二水の流域︑成典平野︑間偽︑江腺道︑瑚爾喀河流域等で︑﹁雄平敞﹂は此等の地に比してのことでなければならぬ︑そして阿勒楚喀と鰹安との平原は比較せられては居ないのであるから︑此の剛平脈の何れが磁大であるかは問題でな×︑只上述せる諸地方より版ければよいのである︒されば一I岐平敵︲一・なる説明を阿勒楚噂・農安の何れかに決定す可き依搾は夫餘傳には求めら肌ないのである︒

以上地理に關する記事より得た絲果は︑挫安・阿勒楚曜の何れの説明とも確定し粂鰹ろ部分が多いが ︑

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(20)

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I物産に開する記報の解騨

地理に次いで掲げられてゐる官職制度・風土・押硲等はその倣世を戒ふ直接の参考とはならない︒地

〃理と共に亜要なのは物娠である︑体の物旋に關すゐ條は

其剛蕃養牲︒川名恥・赤玉︒鍋・脈α美珠︒珠大者如酸炎︒

とあるものであるが︑尚別に風土を記して〆

土地穴五殻︒不生五果︒

とあるのも物康に關するものである︑・所で戒の諦症仙叩︑江敷や賜等は王都附近の土床たること雛ひな︑

〆□

しゞとしても︑珠や王の如く郷致し易い財炎は或は伽内他地力の床であり乍ら王都の蛍族の手に集めら昼〃伽︑鰯めに魏人から王都附近の旅と川述へられる様な掛合が無かったとは保し雌く︑かかる鮎は物流の.︑

仙究に從ふ場合常に念蝋に瓶しおく可きで︑鳩の如きもそれが古来迦古斯族の敢要貿易州であった事溌

からして︑川様の誤った槻察が仲へられ易い心配は充分にある︒川で右の鳩・毛皮・珠玉は湖洲各地に

潅し︑又迩避地も多く︑肌つ迩古斯族は古来猟鯉生油花螢み︑内生物採取荘も生業の一亜要部門として

ゐるので︑右の記述から夫除剛王都の地を衆めろことは初めから蝋み薄である︒寧ろ右力な子掛りとな

るのは︑習俗を記した中に墨

男女源︒姉人姉︒倍殺之︒尤州妬︒辿殺況之幽揃山上︒韮櫛燗︒女家欲得︒輪牛賜︒乃與之︒

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録図諺

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(21)

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とあり︑

.又布耶事亦祭天︒殺牛槻蹄以宙古凶︒

とあり︑愉職を述べた脈に

皆以六帝名官︒有賜加︒牛加︒猪加・狗加・犬使・犬使考︒使者︒

とあって彼等が牛を布し︑Ⅲつ脇に次ぐ双要家帝となってゐたことである︒牛は勿論耕作に川ひられて

ゐたものと解せられる︑肌で魏誰Ⅷ確哩勿吉傅逓見るに

共剛無牛︒右車賜︒仙則偶耕︒車則沙推︒云云︒/・

とある如く勿古には牛無く︑従って牛耕逓知ってゐな陣此の記事は延典五年︵四七五︶北魏に入頁し

た勿吉の使者乙力支が蹄剛するに際し共起に勿吉に赴いた魏人の親しく兄側した報告に韮ゐて川来たも

ので︑史料的価仙は極めて商い︒樹時の勿吉の本脹は︑津川博士は五術附近と云ひ︑池内先生は阿勒楚

喀逓中心としてゐたと云はれ︑細かい地軸の一致は妖けてゐるが︑とにかく阿勤楚喀河流城より拉林洲

に至る大平脈が根椴となってゐたことは︑蝋老の結果に於いても確睡に認められる︒所で此の阿勒楚噂

平原を根擁とする勿吉は牛を右たす牛耕を知ってゐない︒魏普の勿吉仲と魏忘の夫餘傅との側には二両

G数十年の距りがある︒箔し夫餘が叫勒楚喀地方一と根撫として鵬た者ならば︑己にそこには勿吉門擴前二

百数十年の昔に於いて牛緋技術が取入れられ︑農業生産は高度に發述して居たことになる︒而して此の

土民の生活と深く結びつき︑土地に根を下した牛がたやすく絶滅し去る荷はない︒たとへ勿群が此の地

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(22)

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の占搾に儲って先住の夫除逓逐ひ桃つたものであると似定しても︑そこに鍵僻した者の手を誰て勿吉に

も牛が傳承せ.られだ詩である︒然し在際には勿吉勃興横畔の阿勒薙喀地方には牛無く︑從って牛耕を知

らす︑出耕技術は遥かに低級であったのである︒此の一事は夫松の中心が嘗て一度も阿勒楚喘地方に近

注部・一

かれなかったことを示す殆んど決定的な誰擴と云ふ可きである︒

所で魏北凹確壁尚御施傅に

正始中︵五○四五○七︶仙兼於東牽引見共使茜悉弗︒悉弗進刷︒商雅係誠天械︒果葉純誠︒地

潅土毛︒無術釜一皿︒価黄金川自夫餘︒鋤今夫餘鰯勿吉所逐︒云一壱

とあって夫餘に筑金を応し︑それが尚句歴に貢献せられ︑更に商州班より北魏に貢献せられて居たと云

鼻︒池内先生は此の﹁出自夫餘﹂を夫除の勢力が及んで居た或る地方からの意味で無く心此の剛の不擁

からの意であると解し︑一方北浦に於ける砂金派地として雁史的に雌も亦名なのが阿勒楚喀河︵金氷河

の意味をもつ河名である︶である川から︑此の黄金旅川の一事を以て夫餘の中心は阿勒楚堺なりとする

誠の妓大の松擁とせられた︒此に對し︑小川総人馳士は︑洲洲に砂金を旅する所は航る多く︑從って厳

姓剃金の一辨かららその本披を決定するの危嶮なることを指摘せられた︒縦粁の兄解では﹁菰金川自夫餘﹂の

黄金旅地はやはり阿勒楚喀刈であるが︑﹁川自夫除﹂とは夫除の仙内から川てゐたとの意味で︑本土か

らの意ではない︒机し此のことは正始中に北魏に入武した商句腿の使茜悉弗の使命︑從って﹁菰金川

自夫徽﹂なる彼の奏言に砿せられてゐる政治的意味涯充分に検討玩味した上でなければ解説川来ないの

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夫餘閥考二二

虹垂で︑後文の﹁夫餘と勿圭耐との關係﹂瞳論する條に於いて更めて論究することとする︒︵五牽五域参照︶

以上牡要するに︐夫餘本土の物瀧︑塒に牛の問題を中心として老祭する唯︑その楳捺は阿勒楚堺に非

歩︑明かに挫安方而と老へら伽ろ︒そして阿勒楚略説の妓大諭鰈たる菰金の応川は必ずしも夫餘の根搾

ヂジ

とは關係荘亦してゐないのである︒

さて魏志の犬餘傅の検討により︑上述の如く︑その王都の所在が股安の地であることは殆んど疑ひの

除地ない川と豚つたu此は正始通年う一両山︶醜のことである︒又先に夫餘なる地名の迩仔地の検討力B字

ら火献王剛減亡糊時の土梛が股安であったことを朔知し柵た︒此は北魏の太刺十八年︵四九凶︶醜のこ

とである︒剛時代に挾まれる一百五十年刑︑夫餘の王都は不動であったか︒そ恥とも動いたか︒又正姑

以前の王抑はとこであったか︒此等のⅧ鼬は尚地の方伽より解決して行かなければならぬ︒

1︐以上︑池内先生の﹁夫餘考﹂

2︑前出﹁商句麗時代に於ける粟末妹鞘の對外關係に就いて﹂

3︑魏志の※夷傳を見るに︑沃沮の醜に

宜五穀稗出穂︒人性質直騒勇︑少牛喝︒

とあって牛馬が敷は少い乍らも居たことを鱒へ︑又減の條に

其邑落相侵犯︒相罰責生口牛馬︒柘之責耐︒

とて銭にも牛馬が居たとあり︑商句麗の牛に就いては別に言及してゐないが︑後年の斫傳よりして之を有して

ゐたことは紛れのない裏戒と云ひ柵る︒して見ると夫餘・高句閲◇沃沮・機等の議額系諸族は拷牛︵馬も︶を有

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夫餘國の周幽は醜描の魏志・夫餘傳に在る如く︑酉の鮮卑︑南の商句麗︑束の描婆に接して居た︒但︶

し此は魏の時の壯態で︑前後不鍵であったのでは無く︑指婆の如きは瀧代迄夫除の脇災であった︒又夫

餘の南は東部に於いて高伽麗と接し︑西部に於いては遼東・玄菟涯中心とすら支那の勢力と接してゐた

夫・餘國考・一二一

︑・

してゐたことにな段︒尚一本魏志の博は何れも魏人が皆親しく一てこに遠征して鯉察した誌果を盛ったもので︑史

・料的価値は樋めて商いのである︒所で魏蒋の勿音惇には本文に云去如く牛が居なかった︒此れ亦親しく勿吉に

赴いた北魏人の報告で︑極めて碓演性をもつ︒所で抱婁に就いては二様の博がある︒即ち魏志の陣は︒

・言誰不興夫餘・句麗何︒右五穀牛馬麻布︒/

とあるに封し︑奇詳躍九湫恨氏一名拒婁の博には

有馬不乘︒但以爲財産而己︒元牛羊︒多畜潴食共肉衣共皮︒紙毛以爲布︒

とあって︑前者は有牛︑後者は無牛と僻へてゐる・魏志の博は魏人の親しく謹察せ起所︑池内先生の粛喚考に

伐れば︑晉審の博も亦晉人の親しく目賭せる所であると云︑毎共に目賭した結果が全く反對になってゐるのは

何故か︒時代の差に因るか︑観察の對象となった拒婁の擁地の差に因るのか︑或は肘れかに誤報があるのか︑

全く判らないが句若し晉書の博の如く︑拒婁に牛無しとすれば︑漢魏北朝時代の滿洲は最も南に蛾も進んだ農

耕民の支那人が居り︑|その北に牛耕を知る嬢鞆族が居り︑更に毛の北︑京流摂花江岸荊方の担に牛耕を知らざ

る純迩古斯が居たこと入なり︑浦蒙混血の機鞆が牛を有し︑純迩古斯は有営さる.頗る興味ある對象が生れて

来る︒詳しくは今後の研究に侯つ可きであらう︒

4・東洋史研究所載︑同氏﹁輔報史の軒究﹂琴照

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周園諸勢力との關係より見たる夫餘國の中心

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此れ亦魏志の夫徐傅に﹁夫齢在長城之北︒去玄菟千里﹂と︑ある如くである︒更に後年には勿士前が興起し

て此ともしばらく境を接して鵬た︒然し握婆や勿吉は嘗て夫餓の暁民であったので︑此等との關係は夫

餘の彼士の伸縮莚中心として老説することとし︑此所では支那・鮮卑︒商句腿との關係莚論究すること

とする︒︑

滿洲通古斯族の勃典症歴史的に通観するに︑必ずそれは支那の文化が南滿方面に孵別深く浸潤しそこ

に相當の支那人が進出して居た畔代の後逓受けてゐる︑商句腿の勃興が淡の滿鮮經管の後を受け︑渤海

の建國が府の滿鮮經螢の後を︑金が遊牧民族であるが支那的要素莚高度に探入れた遼の滿鮮維登の後を

︑浦が明の遼東維螢の異常な努力の後逓受けてゐるのは︑右の断定逓支へる史例である︒而して此は迩

古斯族の發展が直接間接の何れにせよ︑支那文化の雛取吸收に因って居たとと莚示すものである︑尚此

の通古斯族の發展と支那文化との關係は後文に亜めて詳述するので︑此所では以上に止めておく︒

通古斯族たる夫除の勃興奄亦支那文化︑特に南滿に浸潤してゐた文化の影裡に因るもので︑このこと

■﹄は現在の乏しい史料の上にも暗かに顯肛てゐろ︑即ち夫除に關する最古の史料は史記毒据貨殖傅に燕の

地の庭と莚述べて

北隣鳥桓・夫隙︒東紺浅狛・朝鮮・眞番之利︑

l支那との關係

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とあるもので︑夫餘の勃興が河北より南瀧にかけて發展した燕との接鯛︑特に交通・貿易莚通じて流入

し来れる︑支那文化の影響に在った事逓暗示して賎ろ︒前漢時代には夫餘に關する記事無く︑後淡時代に

入って後漢書毒垂東唆傳に夫除の項があり︑史料粘左蝉・かとなるが︑・その大部分は後淡の肯都及び遼東

方面との交渉に關するものである︑即ち

④桓帝延喜凶年︵ニハご遥使朝齪貢献︒

⑤至蕊帝嘉平三年︵一七W︶復奉章貢献︒

等は彼等が錘凌後淡朝に直接入貢してゐたこと逓仰へたものである︑此等の入貢ば︑一之キー細かく考喋す↑

れぱ各同毎に夫堂の動機があった様であるが︑その根本に支那文化への欽韮錐その將來への執望が作川

してゐたことは疑島可くもない︒

後淡の時︑南滿方面の維播に軍要な役割をなして居た機關に玄菟郡があったJその満所憾前漠・昭

帝の元肌六年︵前七五︶以来典京附近に在ったが︑後淡︒和布の一九梁兀年︵一○五︶高句麗の促進を受

けて奉天附近に退却した︒夫除は此の後淡の東北狸管掌機關たる涌苑郡にも往来した︑後漢土肌の傳に

夫餘本暁玄菟︒献帝時︒典王求脇遼東零︑ 夫餘國老ニーユ

①建武中︒東夷諸國皆來献見︒一卿千五年︵Ⅶ九︶夫餘王泄使杢且︒

③②

順永 帝寧 永元 和年

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六乃

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共耐 王子 來尉

孤台︒詣閲貢職︒天子賜尉仇台印綬金緑︒

朝京帥︒帝作黄門鼓吹角抵戯︒以遥之︒

光武厚答報之︒於弛使命歳通︒

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夫除閣老二六:|

とある−1脇玄菟﹂と云ふのは︑池内先生の御説明に依恥ぱ︑夫餘の朝貢筵管掌する遥郡が玄菟郡であっ

たとの意であると云ふ︒然し玄菟郡の任は朝宜の管掌のみでは無く︑版く夫除の動獅を朧脱し︑その撫.︒︑

御控制に就いて全面的黄任を有ってゐた櫛である︑そして朝貢の管掌は此の撫御控制上の一主要手段と

してであった︒︑朝貢は夷狄の中原國家に對する親善順服の意志表示であり︑此の貢献に對する中原の回

賜は恩寵税蕎の意志表示であり︑此の回賜が夷狄に與へる魅力が夷狄の懐柔撫御に役立ってゐたのであ

る︒遥為と後淡朝に迄獺頁した犬除は必ずや当菟郡とも頻楽な父渉莚被けたに相連雅く︑その間に支那

文化の影響と大きく一堂けたであらう︒魏志喧二夫齢傳に

漠時︑夫餘王葬川玉匝︒常鍛以付玄菟郡︒王死期迎取以葬.公孫淵伏離︒玄菟硴猫有玉肛一具︒

今夫餘唯有玉壁・珪・識︒数代之物︒傳枇以窟変︒者老言︒先代之所賜也︒

とあろは國王・蛍族等の生活が玄郡菟との接鯛筵通じて支那的と.なりつつあったこと筵示す一證例であ

る︒.又右記事は︑そg錐に引か伽た魏略の文に忍薗嚥紬︒自先世轆以來︒悉一披壌﹂・とあるのと相

俟って︑夫餘の王都が淡代から三闘隆且って移動せず︑同一前所に平和な繁柴逓絨け︑頗る職宙であっ

たこと註暗示するもので︑そのことは己に池内先生の指摘せられてゐる如くである︒

/夫餘は叉玄菟郡を潅掠したこともあった︒

後漢普の傳に

i至安帝永初五年︵二一︶夫餘王始將歩騎七八千人︒︲准紗樂浪︒殺傷吏民︒後復蹄附o魂諏誌睦

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雑呼謹蝉辨恥壁︶

とあり︑

︑氷座九年︵ニハ七︶王夫台將一湧人遥玄苑︒玄菟太守公孫域耀破之︒蛎首千餘級︒

とある︒さうかと恩へぱ︑玄菟郡の危恐を救ったこともあったC後淡潜塞垂高句麗博の建光元年︵一二﹃

一︶・の條に

秋︒宮藤封途率馬韓・澱顎数千騎園玄菟︒夫餘王遥子尉仇台︒將二餌餘人︒與州郡井力討破之︒

・斬首五百餘級︒

とある︒かかる遥抄・順服︑時に唯じての豹鍵はそいそれの特殊事怖に飛ゐてゐること勿論であるが︑|

その根本にはやはり玄菟郡の支那文化査財莚欲する熟持ちが働いてゐたのである︒蓋し和戦雨様の方法

によって支那の文化養財を推得せんとしたのは彼等夫除に限ったことで無く︑北方氏族の歴史を通じて

共通せる所である︒

後漢の末から三脚の初めにかけて巾閏に兵飢の絶えなかったⅢ陳に采じ︑遼東郡の治所蕊平︵述陽︶睡〆

本擴として遼東地方蓬占有し︑併せて棚鮮小脇に於ける樂浪・帯方二郡の地莚領して脳たのは公孫氏で

ある︒・公孫氏の政椛を碓立した公孫度は玄菟郡の小吏より牙莚起し︑嚇坐帝の中平六年︵一八九︶遼東太

守.となり︑献帝の︾初め︵一九○唖︶自ら遼東侠乎州收と稲した︒かくて東挺は皆公係氏に服脇すること

となった︒夫除も楜様で︑後漢書の博に

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一$内怖が初めて支那人に知られ︑魏忘︒夫餘傅の詳細な記事か州米上ったのであって︑このことは先に一

言した如くである︒

〆司馬炎︵武帝︶が魏に代って西晉逓創めると︑彼は泰始十年︵一石川︶︑遼東・遼西︒玄菟︒帯方・樂浪

の五郡珪以て平州とし︑州の治所逓妥平︵遼陽︶に低き︑そこに東夷校尉z駐せしめたbそこで東夷の

諾幽は辿りに入貢し︑晉普礎九四爽傳の夫除國の條に

武帝時瀕來朝武︒︾

とある如く︑夫餘も遥迂晉朝に入貢した︒平州の東爽校尉や玄菟郡太守の下に嫌に出入したであらうこ

︒とは想像に難くない︒術此の後も夫餘と支那との關係は縦くのであるが︑そ虹は漸く中原に向って南下

一しつ叉あった鮮卑との關係を中心として論述するのが便利である︒即ち西音の初め以後に於ける夫餘の

對外關係の中心は支那よりも鮮卑︑縦いて商伽寵に移って行くので︑支那との關係と中心とする老説は

ゞ一唯此所で打切っておく︒

以上︑夫除と支那との關係に就いて老諭し來つた所を要するに︑夫餘は

︑①迦古斯諸族の勃興に於いて共通的に見られる支那文化の影響によって簸も早く發展し︑

②従って支那本剛︵竹都︶及びその邊境に在る所管機關に朧に出入した︒

〆⑧此の夫俳の袴掌に倣ったのは奉天附近の玄菟郡で︑遼東郡︵後ち平州︶も關係があり︑

③夫餘は此所に出入して親善浴賜の方針蓮採り︑時に進抄したこともあるが︑直ちに親讐に復し

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⑤遼東に搾った公孫氏は夫徐と結んで商句歴・鮮卑に共同の陣を張り餅又高伽歴を征した魏の母

丘倣は同時に玄菟郡太守を泄して夫除に兵威逓示した︒

のである︑此のことから︑夫餘の本搾逓探るに就いて次のⅢ條件を得る︒

Ⅶ玄菟郡︑即ち今の奉天附近より逹ぐなかつたこと︵前描第一條乃至弗五條より︶

回夫餘の本擦と玄菟郡との間にはその排來交渉逓妨ぐ可き右力な勢力は介在しなかったこと︵前/

描第一︑鋪二︑第凹條より︶妾

一右二箇條は︑先に椎討した魏志︐夫餘傳の

・夫餘在長城之北︒去玄菟r里.︸

Lとある一柵の内容と正に一致する︒從って此@.篠よりするも︑己にその本態の農安なる可きことが想

察せられる︒

n支那本國の首都との往来が比較的便利であったらしいこと︵雛一篠より︶

奉天︑遼陽方面に近い夫餘として健此所逓経て支那に入る便利に悪まれてゐたわけであるが︑後述

する様に︑挫安からは西行して後ち西剛木倫を渡って南下し︑支那の東北維誉の簸大基地朝陽に注する

古來の歴史的大幹線路のあったことをも老臘に入れる可きである︒・

㈲奉天︑遼陽等遼東の雄大中心部筵保術し殊に高棡歴筵控制伐準する危めには夫餘を雌服してお

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.く必要があったこと︵鯵五條より︶

此の遼陽︑奉天方面確保の鰯め︑及び高刎麗伐準の篤めに雌服しおく↑莚必要とした杢云ふ關係は︑夫

餘の本搾をどこに決定せしめるか︒此の問題は理浦や勝手な想像で解決す可きでなく︑後年の歴史の中

より類似の關係を拉し來って比較参考す可きである︒そこで唐の時階以来幾度か攻めあぐんだ商刎腿

を一學に屠り去った名僻李鋤の遼東作戦逓概る︒・・

″李劫の遼東作戦は先づ勝の全速祉兵力を集中して新城︵撫順︶を破り︑それより數車に分れ︑・李劫は第

一軍を率ゐ︑略荏今の安奉鐵路沼ひに瓜鳳城︑安東を経て平竣に東進し︑第二車は海河︑︑蘇寸河に沿ひ

鋪京地方を経て騨安方面に向ひ︑而して第三鞭は恋仁炎が率ゐ︑遼河を測り金山荘越えて今の没安なるロ廷夫餘城︵當時高何歴の恢土︶を攻破し︑此地と平定して後ち引き還し︑李釛の後迩追うて平壊に急行し

てゐる︒即ち李劾の作戦は先づ新城莚とって此所を根擴とし︑恥の主力症敵都平壌に向けると共に︑別

軍を雅安なる夫餘城の攻略に向はしめた︵此の進耶に就いては先に説明︶のであって︑此夫の餘城攻略

は明かに新城の側而脅威筵除いてその保術莚確立し︑高句腿の価土深4侭入した逹祉飛主力に後顧の愛

へなからしめんとしたものである︒測って舞丘侭の商句歴征伐註見る︒

母脈倹の高句雁迷祉は一旦凱旋の後ち︑更に沃沮・澱・抱災等の経略に發於した︒此は岡川麗王が沃汎

の地に逃入し︑高句麗賊厄の背後に此等の勢力のあることが碓認せられた鰯め企測せられた作戦で︑恐

らく母丘倹の高句歴逵祉後︑商刎歴王の沃沮逃入なる事態から新に老へ付かれたものと思はれるが︑玄

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魏志の夫餘傳に明記して居る如く︑その西隣は東胡系の鮮卑と接し︑從って鮮卑の發展と共に此と重

大な關係甦生することとなった︒彼等はもと興安纐東シラムレン河流域に遊牧生活逓螢み︑初め旬奴に

役甥し︑後ち甸奴が漢との手ひに疲誇衰頽するに伴って奔放の自山を得︑次策に控頭した︒後洩の桓帝

誼の時︑酋長梗石槐︵一五Q砿より約三○年︶立つに及んで勢力念張し︑東は遼東より西は倣煙に至る伽

旭蚕盛期の版岡筵誰く領有して塞外に湖を稲へた︒後漢書華↑鮮卑体に

鍵因南抄総逢︒北拒丁零︒束却夫餘︒西準烏係︒識推何奴故地︒︑

とあるによれば︑此の時早くも夫餘と鮮卑と對立的な關係逓生にてゐたことが知られる︑然し綴いて

自分其地爲三部︒從右北平東至遼東接夫餘減湘二十除邑爲東部︒︲

とある如く鮮卑に役賜したのではない寧ろ前掲記事によ肌ぱ︑鮮卑は東の夫餘︑北の丁零に對しては

防勢ととり︑専ら南の支那︑及び西方の遊牧民族に向って菰極的活動逓綾けてゐた様に解せら肌ろ︒

夫餘國考一二一 跡がない︒︑

等の諸黙に於いて不穏當叉は矛楯一錘感ぜさせら飾る︒尚本項は後丈の満洲發逹史の大勢論︵錐六章︶とも少からず聯關を有してゐるので彼是對照参老せられ度い︒

I鮮卑との關係

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参照

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