御
室
と
教
学
研
究
堀
内
規
之
一は
じ
め
に
御室 と教 学 研 究 (堀内)弘
法
大 師 空海
の 入 定 以 後 し ば ら く 、墓
言宗
で は 教相
研 究 は ほ と ん ど進
展 せず
、事
相 面 の み が 発 達 し て き た 。 そ し て 、 十 一 世 紀 末 ・ 十 二 世紀
初 頭 に 、 済 暹 ( 一 〇 二 五 〜 一 一 一 五 ) ・ 興 教 大師
覚 鑁 ( 一 〇 九 五 〜 一 一 四 三 ) 等 の 出 現 に よ っ て 、 教 相研
究
が 復 興 し て き た と 一 般 的 に は 理 解 さ れ て お り 、 ま た 概 説 書 に も 同様
に 記 さ れ て い る こ と が 多 い 。 果 た し て 、 そ の 通 り な の で あ ろう
か 。 こ の よう
な 理解
に 対 し て 、様
々 な 角 度 か ら 検 証 が な さ れ る べ き と筆
者 は 考 え て い る 。例
え ば 、 こ れ ま で 空 海 撰 述 で は な い と いう
理 由 か ら 、 異 本 『即
身 成 仏 義 』 や 『 四種
曼 荼羅
義
』 の 価値
を 低 く 見 る よう
な 傾 向 がう
か が え る 。 だ が 、 そ の 評価
は 本 当 に 正 し い の で あ ろう
か 。 現在
『 秘 藏記
』 は 、 空 海 の 撰 述 で は な い と ほ ぼ 認 識 さ れ て い る が 、事
相 面 に お い て 今 日 も 重 要 な 扱 い を 受 け て い る 。 こ の 『 秘蔵
記
』 と 同様
に 、 異 本 『 即身
成
仏 義 』 や 『 四 種 曼荼
羅義
』 も 、 空海
以 降 の真
言
密 教 の 教 学 展 開 の 重 要 な 成果
で は あ る が 、 そ れ が 空 海 撰 述 と 仮託
さ れ た だ け と い う 具 合 に 、 そ の視
点 を 変 え て見
る こ と も 可能
で は な い だ 283 一智山学報 第五十六輯 ろ
う
か 。実
際 に 異 本 『 即 身 成 仏義
』 に 説 か れ る 三種
即 身 成 仏 、 『 四 種 曼 荼 羅義
』 所 説 の曼
荼
羅
観
は 、 そ の後
の教
学
研究
に 大 き な 影響
を 与 え 、 さ ら に 現 在 の 真 言 教 学 ・ 教 化 の分
野 で 重 き を な し て い る 。 こ の よう
に 異 本 『 即身
成 仏 義 』 ・ 『 四種
曼 荼 羅 義 』等
で 示 さ れ る 概 念 が 、 空 海 入定
か ら済
暹 ・覚
鑁 が 活 躍 す る ま で の 問 に 発 展 ・ 構 築 さ れ た も の と 位 置 づ け 、 教 相 面 で も 大 き な 進 展 が あ っ た と捉
え る こ と が で き る 。 い や、 そ の よう
に 捉 え て 、 再 評 価 を す べ き で は な い だ ろう
か 。 こ の よう
な考
え の 延 長 上 に 、 な ぜ 十 一 世 紀 末 ・ 卜 二 世 紀 初 頭 と いう
時 代 に済
暹 や覚
鑁 が 活 躍 し 、 そ れ ま で決
し て 盛 ん で あ っ た と は い え な い教
相 研 究 が 復 興 す る の か 。 そ の 要 因 に つ い て 、 こ れ ま で あ ま り取
り 上げ
ら れ る こ と が な か っ た 。 そ の た め 、 そ の 要因
に つ い て 、 些 か 考察
を 加 え て み た い と 思う
。 二仁
和
寺
と
いう
環
境
南 岳 房 済 暹 、 興 教 大 師 覚鑁
、 宝 生 房 教 尋 、 禅定
院 阿 闍 梨 宀 疋 尊 、真
乗 房 永 尋 、 そ し て 成 就 院 大 僧 正善
巧
房 寛 助 、 こ れ ら の 僧 は す べ て 仁 和寺
に 関 わ り の あ る 学 匠 で あ る 。 済 遲 や 覚鑁
の 教 学 活 動 等 を 考 え る 場 合 、 こ の 十 一 世 紀末
・ 十 二 世 紀 初 頭 、 い わ ゆ る 白 河 院 政 期 に お い て 、 前 述 の 人 々 が身
を お い た 仁 和 寺 と い う 環境
に つ い て 、 先ず
注 目 し て み た い 。 そ も そ も 仁 和寺
の 建 立 は 、光
孝 天 皇 ( 八 三 〇 〜 八 八 七 ) が 、京
都 ・ 大 内 山 の 南 麓 に 一 寺建
立 を 発 願 さ れ て い た の に 始 ま る 。 し か し 、 光 孝 天 皇 は そ の 完 成 を 見 ず に 崩御
さ れ て し まう
。 皇 位 を継
が れ た 宇多
天 皇 ( 八 六 七 〜 九 三 一 ) が 、 遺 志 を 継 ぎ、 傍 ら に 山 陵 を築
く
と と も に 、 造寺
を 進 め た 。 そ し て 、 仁 和 四 年 ( 八 八 八 ) 八月
十 七 日 、完
成 し た 金 堂 の落
慶
供 養 が 光 孝 天皇
の 一 周 忌 の御
斎
会
を 兼 ね て行
わ れ 、 一284
一御室と教学研 究 (堀 内)
導
師 は 、 空 海 の甥
で東
寺 長者
で あ る 中 院僧
正 真 然 ( 八 〇 四 〜 八 九 一 ) が務
め た 。 そ の 後、 仁和
寺
別 当 の 幽 仙 が 、 同寺
に年
分度
者 二名
を置
く
こ と を 求 め た 上 表 に は 、 如今
聖 主陛
下近
為
荘 厳 山 陵遠 為 興 隆 仏 法
建 立
精
舎 於 山 陵奉
廻白 業
於
聖 霊 廻向
之 志既 期 万
却
紹 隆 ( 1 ) 之 誠 豈 限 一
代
と、 仁和
寺 が 亡き
光
孝
天皇
の 山 陵荘
厳
の た め と 、 興 隆 仏 法 の た め と いう
二 つ の 目 的 を も っ て 建 立 さ れ た も の で あ る こ と を 示 し て い る 。 こ の 目 的 を も っ て 建 立 し た宇
多
天 皇 ( 寛 平 法 皇 ) は 、 二 入 の 皇 子 を 仁和
寺
に 入 れ ら れ た 。 そ れ が 、 法 三 宮 真寂
法
親
王 ( 八 八 六 〜 九 二 七 ) と敦
実 親 王 ( 八 九 三 〜 九 亠 ハ 七 ) で あ る 。真
寂 は 、 宇多
法
皇 の も と で 落 飾 し 、 宗叡
( 八 〇 九 〜 八 八 四 ) の 法 流 を 継 承 し て い る 。 ま た 、 『 仁 和寺
諸 堂 記 』 に 引 ( 2V 用 さ れ て い る 『 北院
御
記 』 に よ れ ば 、 空海
の 夢 告 に よ っ て 観音
院 を創
建
し 、 千 手観
音 を 安置
し た と あ り 、 さ ら に は 『 諸 説 不 同 記 』 等 を は じ め と す る 数多
く
の 著作
を あ ら わ す な ど 、 法皇
の後
継者
と も く さ れ て い た と 思 わ れ る 。 が、85
2
し か し 延 長 五年
( 九 二 七 )宇
多 法 皇 に 先 立 っ て真
寂
は 入 滅 し て し ま う 。 も う 一 人 の皇
子 が 、 敦 実 親 王 で あ る 。 こ の 親 王 は 、宇
多
法 皇 が 譲 位 し た 醍 醐 天皇
の 同 母弟
で あ り、 宇多
源
氏 の 祖 で あ る 。敦
実 親 王 と 左大
臣
藤
原 時平
の 娘 と の 間 に は 、 左 京大
夫
寛信
・ 遍 照 寺 僧 正寛
朝
・ 一条
左 大 臣 雅信
( 雅 信 の 娘 ・ 倫 子 は 道 長 室 に し て 彰 子 ・ 頼 道 の 母 ) ・ 六 条左
大臣
重 信 ・ 勧修
寺
長 吏 雅慶
ら の 男 子 が い た 。 親 王自
身
は 、 天 暦 四 年 ( 九 五 〇 ) 二 月 に落
飾
さ れ 、 仁和
寺 に 入 寺 さ れ覚
真 と 称 し 、 仁 和寺
宮 と も 尊 称 さ れ て い た 。宇
多法
皇 の 法 流 は 、 先 ず 蓮台
寺
僧
正 寛 空 ( 八 八 四 〜 九 七 二 ) が相
承
し て い る 。 寛空
は 、 文 屋 氏 で 宇多
法 皇 の 侍 童 と し て 仕 え 、 十 九歳
の時
に 愛 宕 山白
雲寺
上綱
神
日 ( 八 六 〇 〜 九 一 六 ) に 従 っ て 出家
し て い る 。 寛 空 は 延 喜 十 八 年 ( 九 一 八 ) 、法
皇 よ り 大覚
寺 に て 灌 頂 を 受 け 、後
に仁
和
寺
別 当 を は じ め と し て 東寺
長者
・ 金 剛 峯 寺 座 主 を務
め て い る 。 ま た 、 香 隆寺
を 建 立 し て い る 。 こ の法
皇 に付
き 従 っ た 寛 空 よ り 法 流 を 継承
し た の が 、 法 皇 より
見 れ ば孫
に当
た る寛
朝智 山 学報第五 卜六 輯 で あ る 。
敦
実 親 王 の息
・ 遍 照 寺 大僧
正 寛 朝 ( 九 一 六 〜 九 九 八 ) は 、 天 暦 二年
( 九 四 八 )律
師 寛 空 を 大 阿 闍 梨 、寛
静
を 教 授 と し て 、 讃 衆 八 人 ・ 持 金 剛 衆 四 人 に て灌
頂 を 受 け て い る 。 後 に 、仁
和寺
・東
大
寺
・ 西 寺 の 別 当 、 東寺
長 者 ・ 金 剛峯
寺
座 主 を 歴 任 し 、 朱 雀 ・ 円 融 ・ 花 山 の 三 天 皇 の 受戒
の 戒 師 、 円 融 ・ 花 山 天皇
の 出 家 の 戒師
・ 灌 頂 の 阿闍
梨 を 勤 め て お り 、 大 僧 止 に 列 せ ら れ て い る 。 さ ら に 、 花 山 天 皇 の 勅 命 で 広 沢池
畔 に 遍 照寺
を 開 創 し 、 密 教 を ひ ろ め た 。 そ の 寛 朝 か ら法
流 を 受 け た の が 、敦
実 親 王 の息
で あ る 左 大 臣 源 雅 信 の 子 に あ た る 仁和
寺 北 院 大 僧 正済
信 ( 九 五 四 ー 一 〇 三 〇 ) で あ る 。 つ ま り 、寛
朝 か らす
れ ば済
信 は 甥 に あ た る 人 物 で あり
、 永祚
元 年 ( 九 八 九 ) 遍 照 寺 に お い て寛
朝 を 大 阿 闍 梨 と し て 灌 頂 を済
信 は 受 け て お り 、 後 に 東 寺 長者
・東
大 寺 別 当 ・勧
修 寺 長吏
・ 仁 和 寺 別当
を 勤 め て い る 。 以 上 、 こ れ ま で 仁 和寺
に 関 係 し て き た 人 物 の 中 で 寛 空 を 除 い た 人 々 は 、宇
多
法 皇 の 皇統
に 属 す る者
で あ る 。 そ し て 、法
皇 の 孫 ・寛
朝 、 曾 孫 の 済 信 を 経 て 、 仁 和 寺 二 世 の 性信
へ と法
流 が 継 承 さ れ て い っ た の で あ る 。 大御
室 性 信 法親
王 ( 一QO
五 〜 一 〇 八 五 ) は 、 三 条 天 皇 ( 九 七 六 〜 一 〇 一 七 ) と 大 納 言 藤 原 済時
の 娘 ・ 城 子 と の 間 に 誕 生 し て お り 、 同 母 兄 に か の 小 一 条 院 が い る 。 性信
の 出 家 の 要 因 は 、 こ の 兄 ・ 小 一 条 院 の 政 治 的 失 脚 に よ る も の と 推 測 さ れ る の で あ る 。 小 一 条 院 と は 、 三 条 天 皇 の 第 三 皇 子 ・ 敦 明 親 王 の こ と で あ る 。敦
明 親 王 は 、 三 条 天 皇 が 一 条 天 皇 の 皇 子 で あ る後
一 条 天 皇 ( 藤 原 道 長 孫 ) に 譲 位 す る と き に 、 皇 太 子 と な っ た 。 し か し 、 父 で あ る 三 条 天 皇 と時
の権
力
者 ・藤
原 道長
( 九 六 六 〜 一 〇 二 七 ) と の 折 り 合 い の 悪 さ は か な り の も の で あ っ た 。 そ の結
果 が 、 三 条 天 皇 が た ま た ま 眼 病 を わず
ら っ た こ と を 理由
に 、 道 長 が 自 ら の 娘 ・ 彰 子 が 生 ん だ後
一条
天 皇 に 強 引 に 譲 位 を さ せ た こ と に 現 れ てく
る の で あ る 。 唯 一 、 三 条 天 皇 が 道 長 に 抵 抗 し た の が 、 敦 明 親 王 を東
宮
に た て る こ と を 譲 位 の 交 換条
件 とす
る こ と であ
っ た 。 と こ ろ が 、 三 条 天 皇 は 譲 位 の 翌年
に 四 十 二 歳 で 崩 御 さ れ て し まう
。 東宮
に は な っ て い た が、 敦明
親 王 に は後
ろ 盾 が 全 く 一286
御 室と教学 研究 (堀 内) な く な っ て し ま っ た の で あ る 。 母 ・
城
子 の 父 ・ 済 時 は 、 道 長 の 祖 父 師輔
の弟
・ 師 尹 の 子 で あ っ た が 、 も は や そ の時
故 人 で あ り 、 た と え存
命
で あ っ ても
道
長 に対
抗 す る 程 の相
手 で は な か っ た 。 そ し て 、敦
明 親 王 は 、 三 条 天皇
崩
御
か ら 三 ヶ 月後
に 東 宮 の地
位
を 退 い た の で あ っ た 。 代 り に 、東
宮 に 就 い た の は彰
子 の 生 ん だ 後 一条
天皇
の 弟 ・ 敦良
親
王 、 つ ま り 道 長 の 外 孫 であ
っ た 。東
宮
を 退 い た 敦 明親
王 に 対 し て 、道
長 は厚
遇 を も っ て接
し た 。 太 上 天皇
に 準 ず る 小 一 条 院 と いう
院号
を おく
り
、 さ ら に 道 長 の 娘 ・寛
子
( 安 和 の 変 の 源 高 明 の 娘 ・ 明 子 と 道 長 と の 娘 で あ り 、 能 信 の 妹 ) を 嫁 が せ た の で あ る 。敦
明 親 王 は 道 長 の 娘 婿 と な り 、待
遇
も 最 上 級 を得
た の で あ る が 、 政治
的 に は 完 全 な る失
脚 で あ り 、 屈 辱 そ の も の で あ っ た 。 こ の 兄 を 間 近 に み て い た の が、 同 母 弟 で あ る 師 明 親 王 で あ る 。 師 明 親 王 の 出 家 の 様 子 を 『 栄 花 物 語 』 は 次 の よう
に 伝 え て い る 。 か く て 三條
院 の 四宮
( 11 師 明 ) は 、 ま だ 童 に て お は し ま せ ば 、 院 ( −ー 小 一 条 院 ・ 敦 明 親 王 ) ぞ 御 子 に し奉
ら せ給
て 、 御 元 服 な ど お ぼ し め し 掟 て さ せ給
程
に 、 中 務宮
( 11 敦 儀 親 王 ) の御
た め に 、 院 の御
情 な く 見 え さ せ 給事
あ
り て 、 い み じう
恨
み き こ え さ せ給
け れ ば 、 こ れ を 御 覧 じ て 、 四 宮 「 い み じ く 頼 み奉
り た る 院 の 御 心掟
さ ば かり
に こ そ お は し ま し け れ 」 と 、 心憂
く お ぼ さ れ て 、 忍 び て 仁 和寺
に お は し ま し に け り 。 僧 正済
信 の御
許 に お は し ま し て 、 「年
頃 出家
の 本意
深 く 侍 る を 、 な さ せ給
へ 」 と聞
こ え さ せ給
べ け れ ば 、 僧 正 「 と も か く も 聞 え さす
べ き に も あ らず
と て 、 な し 奉 る 。 院 や 宮 な ど や 、 び ん なう
お ぼ し め さ ん 」 と 聞 え給
へ ば 、 「 そ れ 苦 しく
お ぼ し め さ る べ き 事 な ら ず 。 た だ疾
く
い か で なり
な ん と な む 、 思 ひ侍
る 」 と 宣 は す れ ば 、 「 若 き 御 心 に かく
宣
はす
る 事 」 と 、 い み じ く 泣 き 給 ひ て 、 我御
衣 ども
の ま だ 着 給 は ざ り け る を 、 と り 出 で で 奉 り 給 ひ て 、 な し奉
り 給 ひ て け り 。 こ の こ と ど も 聞 え て 、宮
宮 ・ さ る べ き 殿 ば ら、皆
お は し て 見奉
り 給 。 院 も お は し ま し て 、 い み じ く泣
か せ 給 。 皇 后宮
( 11 誠 子 ) に は 、 「 さ て も い か に お ぼ し と ら せ 給 に け る ぞ 」 と 悲 し く い み じ く て 、 泣 く 泣く
御
装
束
一287
一智山学報 第五 十 六輯 し て
奉
ら せ 給 。 い み じう
あ は れ な る 御事
ど も な り 。 皇 太 后 宮 ( 11 妍 子 ) よ りも
、御
装
束 し て奉
ら せ 給 。 僧 正 ( 11 済 信 ) い み じ き 物 に 思 ひ き こ え さ せ給
へ り 。 「 猶 こ の 寺 に 、 さ る べ き や む ご と な き 人 の 絶 へ さ せ 給 ま じ き 」 ( 3 ) と 、嬉
しう
お ぼ さ れ け り 。 [ ( )内
の 註 ・筆
者 ] 三条
天 皇 の 第 四 皇 子 で あ る 師 明 親 王 は 、 元 服 し て い な い子
供 で あ っ た た め に 、 小 一 条 院 は自
ら の 養 子 と し て 元 服 を さ せ よう
と し た 。 が 、 し か し 三 条 天 皇 第 二 皇 子 ・ 中 務卿
敦
儀 親 王 が 妬 ん だ た め に 、 師 明 親 王 は 小 一 条 院 に も 幻 滅 し て 、仁
和 寺 で 出 家 す る こ と を 決 意 し た と い う 。 北 院 大僧
正 済 信 は 、 ど の よう
に 説 得 し て も 出家
の 決 意 が強
固 な の で 出家
さ せ る が、 小 一 条 院 や 母 親 の 娠 子 皇后
は 不 都 合 な こ と と 悲 し む と い う と 、 親 王 は そ う い っ た こ と は少
し も気
に 懸 け ら れ る こ と で は な く、 ひ た す ら 早 く 出 家 し た い と 思 っ て い る と 述 べ て い る 。 実 際 に 親 王 の 出 家 が皇
后
の 知 る と こ ろ と な る と、皇
后
は 泣く
泣 く法
衣 等 を 調 整 し た 。 そ し て 済 信 は 、 や は り仁
和寺
に は 然 る べ き 高 貴 な方
が あ と を 絶 つ こ と な く 入 る こ と に な っ て い る の だ と 述 べ て い る 。 こ の 栄 花 物 語 の 記 述 に 対 し て 、 『 三外
往
生 伝 』 で は ( 4 ) 天 皇 晏 駕 之 後不 堪 恋
慕
遂
任
素
意於
仁 和 寺 出家
と 、 父 ・ 三 条 天 皇 の 崩御
が師
明
親 王 出 家 の 要 因 に な っ て い る こ と を 伝 え て い る 。 ま た 『 仁 和 寺 御 伝 』 ・ 『 御 室 相 承 記 』 等 の 性 信 伝 に お い て も 、 『 三 外 往 生 伝 』 と 同様
の 性信
出
家
要 因 が 述 べ ら れ て い る 。 『 栄 花 物 語 』 や 『 三 外 往 生 伝 』等
の 記 述 を 総 合す
れ ば、 父 で あ る 三 条 天 皇 の 崩 御 と 、 そ れ に と も な う 兄 ・ 小 一 条 院 の 皇位
継
承
の 完 全 な る 消 滅 が契
機
と な っ て 、 師 明 親 王 は 出 家 し た と 考 え ら れ る 。寛
仁
二 年 ( 一 〇 一 八 ) 八 月 二十
九 日 、 北 院 に て 仁 和 寺 北 院 大 僧 正 済 信 ( 九 五 四 〜 一 〇 三 〇 ) を 戒 師、 禅 林寺
大 僧 正 深覚
( 九 五 三 〜 一 〇 四 三 ) を 唄 師 と し て 親 王 は 出 家 し た 。 法 名 を性
信 と い い 、 後 に 弘法
大 師 の 再 誕 と ま で 称 さ れ た 高 僧 の 誕 生 で あ る 。 時 に 親 王 十 四 歳 で あ っ た 。 さ ら に 、 性信
十 九 歳 の 治 安 三 年 ( 一 〇 二 三 ) 仁 和 寺観
音 院 に お い て 、 一288
一御 室と教 学研 究 (堀 内) 同 じ
く
七 十 歳 の 済 信 を 大 阿 闍 梨 と 仰 ぎ、 灌頂
を 受 け て い る 。 そ の 際 の嘆
徳
を 七 十 一 歳 に な る 小 野 僧 正 仁 海 ( 九 五 一 〜 一 〇 四 六 ) が 、 さ ら に 教 授 を 延 尋 、 護 摩 を 平救
、 諸 役 を円
堂 僧 正 成典
が 勤 め て い る 。 そ の後
、 『 御 室相
承
記 』 に よ れ ば 性 信 が 公 家修
法
等
を 勤 め た記
録
が 治暦
二年
( 一 〇 六 六 ) よ り 示 さ れ て い る 。 こ の 治 暦 二年
以 降 の 主 な 政 治 的 動 き を あ げ て み る と 次 の よう
に な る 。 治 暦 三 年一 〇 六 七 四 年
一 〇 六 八 延 久 元 年 延 久 四
年
五年
承
保 元年
二年
三年
承
暦 元年
一 〇 六 九 一 〇 七 二 一 〇 七 三 一 〇 七 四 一 〇 七 五 一 〇 七 六 一 〇 七 七 二年
一 〇 七 八
永
保 二年
一 〇 八 二 三年
一 〇 八 三 応 徳 元
年
一 〇 八 四 藤 原 頼 通 、 関 白 辞
任
。 藤 原 教 通 、 関 白 就任
。後
冷泉
天 皇 崩 御 、後
三条
天皇
践 祚 。寛
徳 二年
以 降 の 新 立荘
園
停 止 、 い わ ゆ る 延 久 の荘
園 整 理 令 が だ さ れ る 。後
三 条 天 皇 譲 位 、白
河
天 皇受
禅 。後
三 条 上 皇 崩 御 。藤
原 頼 通 、 上 東 門 院彰
子
死 去 。 藤 原 教 通 死 去 。 藤 原師
実
を 内覧
・ 関 白 と す る 。 石清
水 八幡
宮 ・ 賀茂
社
に 行 幸 、 以 後毎
年 恒 例 。白
河 天皇
御
願 の 法 勝寺
金 堂 ・ 講 堂 ・ 阿 弥 陀 堂 天 皇 臨 席 の も と 供養
す
。 法 勝 寺 大乗
会 始 行 さ れ る 。 後 三 条 天 皇 御 願 の 円宗
寺
に お い て 最 勝 会 始行
さ れ る 。 天 皇 臨 席 の も と 法 勝寺
九 重 塔 ・薬
師 堂 ・ 八角
堂 供養
さ れ る 。 中宮
賢
子 死 去 。 一289
智山学 報 第五 十六輯
宇
多
法
皇 以 来 、 一 七 〇年
ぶ り に 藤 原 氏 、特
に 御 堂 流摂
関 家 を 外 戚 と し な い 天皇
と し て 即位
し た の が 、 有 名 な 後 三 条 天 皇 で あ る 。 そ の 後 三 条 天皇
の 母 は 、 三条
天 皇 の 皇女
・ 禎 子 内 親 王 で あ る 。 政治
史 的 に は 、 藤 原 氏 出 身 で は な い 内親
王 を 、 母 に も つ 後 三 条 天 皇 の 即 位 と いう
点 に 注 目 を し て い る 。 し か し 、 筆 者 が こ こ で注
目 す る 重 要 な 点 は、 後 三条
天 皇 の 生 母 ・ 禎 子 内 親 王 が 、 小 一 条 院 や 性 信 に と っ て 異 母妹
と いう
こ と で あ る 。 す な わ ち 、性
信 に と っ て後
三 条 天 皇 は甥
に 当 た り 、 三条
天皇
の 血 統 が 復 活 し た わ け で あ る 。 後 三 条 と いう
諡 が ま さ に 象徴
的 で あ る 。 兄 ・ 小 一 条 院 が東
宮
の 座 を 追 わ れ た と き 、禎
子 内 親 王 は わ ず か 五 歳 で あ っ た 。 そ れ か ら 四 十 六年
後
、 そ の 禎 子 内 親 王 ( 陽 明 門 院 ) は 国母
と な っ た わ け で あ る 。 そ の前
年 で あ る 治 暦 三 年 ( 一 〇 六 七 ) 、 そ の 当 時 は ま だ東
宮 で あ っ た尊
仁 親 王 、 後 の後
三条
天 皇 御 薬 御 祈 の た め に 、性
信 は 閑 院 殿 で 孔 雀 経法
を 修 し て い る 。 こ の 孔 雀 経 法 は 「 皇 太 后宮
陽 明門
院令
旨 」 、 す な わ ち 禎 子 内 親 王 か ら の 依 頼 に よ っ て 、 性 信 が 勤 仕 し た も の で あ る 。 時 に性
信
六 十 四 歳 で あ っ た 。 こ の あ た り か ら性
信 の 立 場 は 、 そ れ 以前
と 大 き く 異 な っ て い く の で あ る 。 政治
史
か ら み れ ば 、 性 信 出 家 の 要 因 を 作 し た 藤 原 道 長 ( 九 六 六 〜 一 〇 二 七 ) の後
継者
で あ る 頼 通 ( 九 九 〇 〜 一 〇 七 四 ) は 関白
を 辞 し、 弟 の 教 通 ( 九 九 六 〜 一 〇 七 五 ) に 譲 っ て 宇 治 に 隠 退 し た 。 そ の後
、 即位
し た 後 三 条 天 皇 は 、 荘 園 整 理令
の発
布 と 記 録 荘 園 券 契 所 を設
置 す る と い う 摂 関 家対
抗 策 を 打 ち 出 し て い く の で あ る 。 も は や性
信 の 立場
は 、 政 治 の表
舞
台 で 御 堂 流 摂 関 家 に 葬 り 去 ら れ た 一 族 で は なく
、 今 や 皇 統 の 中 心 に 近 い 立 場 へ と変
化
し た の で あ っ た 。 そ の性
信
の 活 躍 を 『 御 室 相 承 記 』 で は 、 治暦
二年
に 教 通 の た め に 孔 雀 経 法 を 修 し た こ と を か わ き り に 、孔
雀
経 法 だ け で合
計
卜 七 回 、 あ る い は 二 十 一 回 修 し た と 記 さ れ て い る 。 そ し て 決 定 的 に 性 信 の 立 場 が 変化
す る こ と と な っ た の が 、永
保
三 年 ( 一 〇 八 一. 一 ) に実
質
的 に 法親
王 の 始 ま り と 捉 え て い い 「 叙 二 品 」 の待
遇 を 得 た こ と で あ っ た 。 『 御 室 相承
記 』 で は、 こ の 性信
に 対 す る 叙 品 は 、 摂 政 藤 原兼
家
( 九 二 九 〜 九 九 〇 ) が出
家
後 に、 准 三 宮 宣 旨 を 与 え ら れ た先
例 に 准 じ た 処 遇 で あ っ た と 述 べ ら れ て い る 。 こ の叙
品 に よ っ て 権 威 を与
え ら れ た 性 信 は 、 そ の 血 縁 関 係 か 290 一御室と教学 研究 (堀 内) ら は 王 家 と は ミ ウ チ で あ り つ つ 、
後
三 条 天 皇 や国
母
・ 陽 明 門 院 ( 禎 子 内 親 王 ) の い わ ば 護 持 僧 的 立場
と な り 、 王 家 と の結
び つ き を 強 固 な も の に し て い た っ た の で あ る 。性
信
も そ う で あ っ た よう
に 、 後 の 仁 和 寺法
親 王 は後
七 日 御 修 法 の 大 阿闍
梨
等
を
勤
仕 す る こ と は な か っ た 。 ま た 、 真 言宗
の 宗 の長
者 職 で あ る東
寺
長 者 に も 就任
す る す る こ と は な か っ た 。 し か し 、 そ の 東寺
長者
に 任 じ ら れ た 人 物 の 多 く を 、 自 ら の 法 流 の 弟 子 と し て 、 そ の 傘 下 に 位 置付
け る こ と に よ っ て 、真
言宗
全 体 を統
括 す る 立 場 の東
寺
長 者 や 他 の真
言 寺 院 より
超 越 し た存
在
と し て 、 仁 和寺
と 御 室 の 権 威 を た か め て い っ た の で あ る 。 御 室 の 果 た し た 役 割 は 、 法会
や 護 国 修 法 に よ っ て 王家
を 護 持 す る こ と で あ っ た 。 そ れ を 強力
に押
し進
め る た め に、性
信 よ り も さ ら に 皇 統 に 近 い 立場
の 人 を 、 御 室 と し て 王 家 は 仁 和寺
に 送 り 込 ん で き た の で あ る 。す
な わ ち 、 原 則 と し て 院 あ る い は 天 皇 の 子 息 が 、法
親 王 ・ 御 室 と な っ て 、 王 家 を 護 持 し て い く と いう
特 殊 な シ ス テ ム が 、 仁和
寺
に は 院 政 期 よ り 確 立 さ れ て き た 。 そ の 意味
で 、 性信
が 六 十 四 歳 の と き 陽 明 門 院 ( 禎 子 内 親 王 ) の 依 頼 を受
け て 孔 雀 経 法 跚 を修
し た 時 点 よ り 、 仁 和寺
の 性格
は 変 り 始 め 、 さ ら に 一 世 皇 親 た る 中御
室 覚行
が 法 親 王 と し て 王家
護
持 に あ た っ た こ と よ り 、特
殊 な性
格
を も っ た 仁和
寺 御 室 が確
立 し た と考
え ら れ る 。 そ の 覚 行 に 対 す る 法 親 王 宣 下 に 関 し て 、 『 今 鏡 』 で は 次 の よう
に伝
え て い る 。仁
和 寺 に 覚 行法
親
王 と き こ え た ま ひ し は 。白
河 の 院 の御
こ に お は す 。 御 ぐ し を う さ せ給
て 。 やう
や う お と な に な ら せ 給 ほ ど 。 い と か ひ が ひ し く お は し け れ ば 。 さ ら に 親 王 の 宣旨
か う ぶり
給 と そ き こ え は べ り し 。 お ほ 御 む う と し お は し ま し し は 。 三 條 の 院 の御
こ 師 明 の親
王 と き こ え給
し 。 ま だ ち こ に お は し て 。 み こ の御
な え 給 け れ ば 。 ほ う し の の ち も 親 王 か は り給
はず
。 そ の み や に つ け た て ま つ り た ま へ り し に 。 御 で し の 宮 ( 11 覚 行 ) は わ ら は に て 。 親 王 の 御 な を え 給 ね ど も 。親
王 の宣
旨
かう
ぷ り 給 へ り 。後
二 條 殿↑
藤 原 師 通 ) 。 出 家 の の ち 例 な き よ し 侍 け れ ど も 。 白 河 の院
。 内 親 王 と い ふ こ と も あ れ ば 。 法 親 王 も な ど か な か ら ん と て 。 は じ め て ほ う し の の智山学報 第五十六輯 〔 5 ) ち
親
王 と き こ え 給 し な り 。 [ ( )内
の 註 ・筆
者
] 関白
. 藤 原 師 通 は 、 出 家 後 の 親 王 宣 下 は前
例 が な い こ と と し て 異 を 唱 え た 。 師 通 の 意 見 は 、前
例 を 重 ん じ る 公 卿 か らす
れ ば 当 然 の こ と で あ る 。 し か し、 白 河法
皇 は 内 親 王 と い う 称 号 も あ る か ら 、 法親
王 と いう
称 号 が あ っ て も よ い と し て 、 師 通 の 反 対 を 押 し 切 っ て 、 覚 行 に 法 親 王 の 称号
を与
え た と、 『今
鏡 』 は伝
え て い る 。 こ こ に 、 白 河 法 皇 自身
に よ る 仁 和 寺 ・ 御 室 の 権 威 を 高 め よう
と す る 意 図 が読
み 取 る こ と が で き る 。 こ の 御 室 と い う 強 力 な 後 ろ 盾 を 受 け て 、仁
和 寺僧
に お い て 教 学 研 究 が 盛 ん に な っ て い っ た こ と が 指 摘 で き る 。後
の 分類
で は あ る が 、 事 相 の 分 野 に お い て 、 小 野 ・ 広 沢 と いう
二 法 流 を た て る 。 小 野 流 は 醍 醐寺
に 関 係 す る 三 流 ( 三 宝 院 流 . 理 性 院 流 ・ 金 剛 王 院 流 ) と他
の 三 流 ( 安 祥 寺 流 ・ 勧 修 寺 流 ・ 随 心 院 流 ) の計
六 流 とす
る の に 対 し、 広 沢 流 は 全 て 仁 和寺
、 そ れ も 全 て 性 信 付法
の 弟 子 で あ る寛
助 の 弟 子 に よ る 六 流 ( 覚 法 ・ 仁 和 御 流、 信 証 ・ 西 院 流 、 永 厳 ・ 保 寿 院 流 、 聖 恵 ・ 華 蔵 院 流 、 寛 遍 ・ 忍 辱 山 流、 覚 鑁 ・ 伝 法 院 流 ) と 全 く 様 相 が 異 な っ て い る 。事
相
の 流派
の 成 立 は、 様 々 な 要 因 が92
2
考 え ら れ る が、 基 本 的 に は 活 発 な 研 究 が な さ れ て い た こ と は 容 易 に 察 せ ら れ る 。事
相 と は、 そも
そ も 実 践修
行
の内
容 に 対 す る 教 学 的 な 解 釈 を い う の で あ る 。事
相 の 流 派 の設
立 は 、 そ こ に 活 発 な 教 学 研 究 が な さ れ て い た 証 で も あ る 。 そ の 事 教 二 相 の 研 究 に は 、 経 済 的 裏 付 が 必 要 で あ る 。 そ の点
、 特 に 御 室 は 王 家 ・ 院 と ミ ウ チ と し て 直 結 し て い る存
在 で あ っ た 。 こ の 院 の 政 治 的 台 頭 と 、 摂 政 ・ 関白
を 独占
し て き た 藤 原 氏 の 衰 退 が 、 そ の ま ま 仁和
寺 御 室 の隆
盛 に も つ な が っ て い る よう
で あ る 。 ( 6 ) 教 相 面 で い え ば 、寛
助 が 仁 和寺
に 伝 法会
を 興 し た の も 、 白 河 法 皇 の後
押 し を受
け て の こ と であ
っ た 。 ま た済
遲 が 、 空 海 の 『 遍 照 発 揮 性 霊 集 』 の 巻 八 ・ 九 ・ 十 の 散 逸 を 歎 き 、 『 遍 照 発 揮 性 霊 集 補 闕 鈔 』 を編
じ る こ と が で き た こ と 、 さ ら に は 空 海 の 著作
目 録 を 済 暹 は 『 弘 法 大 師 御作
書 目録
』 と し て 編 じ て い る こ と等
は 、 ま さ に御
室 の 後 ろ盾
が あ っ ( 7 ) た れ ば こ そ で あ ろう
。御室と教学研 究 (堀 内)
済
暹 が そ の散
逸
を 歎 い て作
り
上 げ た 『 遍 照 発揮
性 霊集
補 闕鈔
』 三 巻 を 編纂
す る の に あ た っ て 、様
々 な 場 所 ・ 蔵 、 そ れ が 王 家 の 宝 蔵 で あ っ たり
、 あ る い は 藤 氏 長者
の 宝 蔵 等 に 、 所 蔵 さ れ て い る 証 本 ・ 写 本 を見
た 上 で検
討 し 、 作 り 上げ
た も の で あ る こ と は想
像
に 難 く な い 。 こ こ に 注 目 す べ き 目 録 に 、龍
門 文 庫 所蔵
『 小 野経
蔵 目 録 』 が あ る 。 こ の 目 録 の奥
書 に は 「仁
安 三年
十 月 廿 五 日 於 ( 8 ) 醍醐
寺
辺 書 写 了 、範
呆
」 と あり
、 仁 安 三年
(=
六 八 ) に 書 写 さ れ て い る こ と が示
さ れ て い る 。 こ れ ま で 、 こ の 目 録 は 小 野 僧 正仁
海 の 入 滅直
後
に 編 纂 さ れ た 、 随 心 院 ( 曼 荼 羅 寺 ) に あ る経
蔵
に納
め ら れ て い る 聖 教 目 録 と 考 え ら れ て き た 。 し か し 、 栄海
( = 一 七 八 〜 一 三 四 七 ) 撰 『 真 言伝
』 巻 六 「 範 俊伝
」 の 記 述 ( 9 )範
俊 ノ 相承
法 門 十 二 合道
具 等 ヲ 以一 ア白
河
院 二 進 シ テ 、 鳥 羽 宝 蔵 二 納 メ リ 。 を も と に 上 島享
博 士 は 考察
を 加 え て、 当 該 目 録 所 載 聖 教 は 目録
が 書 写 さ れ た 仁 安 三 年 に は 随 心 院 ( 曼 荼 羅 寺 ) に ( 10 ) 保 管 さ れ て い る の で は な く 、鳥
羽 の 宝 蔵 、す
な わ ち鳥
羽 勝 光 明 院 宝 蔵 に 納 め ら れ た と し て い る 。 当 該 目 録 で は 、 弘法
大 師御
書
が 六手
筥
、法
光
大師
真
雅 ( 八 〇 一 〜 八 七 九 ) に よ る も の が 一 手 筥 、 般若
寺
僧 正 観賢
( 八 五 三 〜 九 二 五 ) に よ る も の が 二手
筥
、 そ し て 仁 海 に よ る も の が 四 手 筥、 他 に 四 つ の厨
子 が あ っ た こ と が 示 さ れ て い る 。 さ ら に 、 こ の 目 録 で は 空 海自
筆
の 聖 教 に は 「御
手 跡 」 と註
記 が な さ れ 、 経 論 儀軌
を 中 心 に そ の数
四 十 五 を超
え て い る 。 そ の 「 御手
跡 」 と 註 記 が な さ れ て い る 中 に 、 い わ ゆ る 空 海 の教
相
著 作 は 目録
に は あ げ ら れ て い な い が 、 四 つ の 厨 子 の 中 に は 「 顕密
二 教論
」 ・ 「 弁 顕密
二 教論
」 ・ 「真
言 即 身 成仏
義
」 ・ 「 秘 蔵 宝鑰
」 ・ 「 般 若 心経
秘
鍵 」 ・ 「 三 教 指 帰 」 ・ 「 遍 昭 性 霊 集 一 帖復
七巻
」 ・ 「 弘法
大
師 請 来表
」 ・ 「 吽 字義
」 と い っ た 空海
撰 述 の も の が 所 蔵 さ れ て い た こ と が 示 さ れ て い る 。 こ れ ら が所
蔵 さ れ て い た 随 心 院 ( 曼 荼 羅 寺 ) は 、 仁海
相
承 の寺
で は あ る が 、 あ く ま で も 真 言 宗 の 拠点
寺
院 で は な い 。 こ れ に対
し て 、 金 剛峯
寺
や 東寺
と い っ た 真 言 宗 の中
心 寺 院 に は 、 さ ら に多
く の 空 海自
筆
の 著作
等 が所
蔵 さ れ て い た か も し れ な い 。 一 293 一智山学報 第五 十六輯 こ こ で 、 『 小 野 経 蔵 目 録 』 に 記
載
さ れ た 聖 教 が 納 入 さ れ た 鳥 羽 の 宝 蔵 と 称 さ れ て い る 鳥 羽 勝 光 明 院 の 宝 蔵 に は 、 他 に どう
い っ た 聖 教 等 が 納 め ら れ て い た の で あ ろう
か 。 宝 蔵 が併
設
さ れ て い た勝
光 明 院 は 、鳥
羽 上 皇 御 願 に し て 保 延 二 年 (=
三 六 V に 供 養 さ れ る も 、 残 念 な が ら 仁治
二 年 ( 一 二 四 二 ) に 焼 亡 し て い る 。 勝 光 明 院 は 、 藤 原 頼 通 建 立 の 宇 治 . 平 等 院 を模
し て 造 ら れ た と い わ れ 、 宝 蔵 に は 「 顕 密 之 聖 教 、古
今 之 典籍
、 道 具 、書
法
、 弓 剣 、 管 弦 之 類 、 是 皆 往 代 之 重 宝 也 」 ( 『 本 朝 世 紀 』 久 安 二 年 八 月 二 + 三 日 条 ) と 述 べ ら れ て い る よう
に 数 多 く の 宝 物 が 納 め ら れ て い た 。覚
鑁 も 、 鳥 羽 上皇
の 許 し を得
て 、 こ の 宝 蔵 に 納 め ら れ て い る 聖教
を 閲 覧 し て い る 。 で は 、 こ の 宝 蔵 に は 実 際 ど の よう
な も の が 納 め ら れ て い の で あ ろう
か 。 竹 居 明 男 氏 の 研 究 に よ れ ば 、 宝 蔵 に収
蔵
さ れ て い た と考
え ら れ る 空 海 に関
す る も の を あ げ て み る と 、 恵 果印
信 ・ 空 海 筆 灌 頂 歴 名 ・ 弘法
大 師 可 被 授 灌 頂 於 伝 教 之官
符
・ 空 海筆
東
寺
請 曳 材 状 ・ 空海
筆
講 堂 図 帳 一 巻 ・ 高 野 絵 図 一帖
・ 山 絵 図 一 帖 ・ 承 和 二 年 三 月 十 五 日御
遺 告 一 通 ・ 伝 空 海 筆御
遺
告 ・ 飛 行 三鈷
・ 空 海 自 筆 御 影 ・ 空 〔 11 ) 海筆
善 女 龍 王 像 ・ 空 海筆
八 幡 大菩
薩 画 像 ・ 空 海 相伝
如 意 宝珠
・ 空 海筆
聖 教 二 合 で あ る 。 こ の よう
に 、 「 空 海 筆 灌 頂 歴 名 」 や 「 飛 行 一 二 鈷 」 、 俊 乗房
重源
も 欲 し た と さ れ る 「空
海 筆 八 幡 大菩
薩
画
像
」 、 院 の 近 臣 で も あ っ た 鳥 羽 僧 正 範 俊20
三 八 〜 一=
二 ) ・ 勝 覚 ( 一 〇 五 七 〜 一 一 二 九 ) と の 関 わ り が指
摘 さ れ て い る 「 空 海 相 伝如
意
宝 珠 」 な ど が 所 蔵 品 と し て あ げ る こ と が で き る 。 さ ら に 、 「 空 海 自筆
御 影 」 ・ 「 空 海筆
善女
龍 王像
」 を 、覚
鑁
が 鳥 羽 上 皇 よ り 賜 っ た と 「 上 人縁
起 』 は 述 べ て い る 。 『 上 人 縁起
』 で は 、 そ の 「 空 海筆
善 女 龍 王 像 」 は 紛 失 し て し ま っ た が、 「 空 海自
筆
御 影 」 は 、 三月
二 十 一 日 の 正 御 影 供 の 本尊
と し て の み 出 さ れ 、 伝 法 院 に今
も安
置 さ れ て い る と 伝 え て い る の で あ る 。 そ し て 、 さ ら に 宝蔵
に は 空 海筆
〔 12 ) の 聖 教 が 二 合 あ っ た と いう
。鳥
羽 の 宝 蔵 は 、 済 暹 入 滅 後 の 建 立 で は あ る が 、済
暹 が 活 躍 し て い た 時 代 に も こ れ ら の 聖 教 は お そ らく
存 在 し て い 一 294 一た は ず で あ る 。 そ の よ
う
な 状 況 の も と で、 済 遲 が 宗 祖 の 著 作 目録
を 著す
場 合 に は 、 か の 『 遍照
発 揮性
霊 集 』 が 散 逸 し て い る 状 況 を考
え れ ば 、済
暹 は数
多
く の 証 本 ・ 写 本調
査 を お こ な っ た 上 で あ る こ と は 十分
察
せ ら れ よう
。 そ の 調 査 研 究 に 、 御 室 の名
・ 権威
を 用 い る こ と が で き る と いう
こ と は 、済
暹 に と っ て 非常
に 有 益 な事
柄 で あ っ た と 思 わ れ る 。 ま た 、著
作 目 録 を 編纂
す る と いう
こ と は 、 す な わ ち、 教学
の 広 が り を 限定
す る こ と で あ り 、 空 海教
学 を確
定
す る と いう
こ と で も あ る 。 特 に 、済
暹 、 さ ら に は 御 室 が 空海
の 著 作 を 聖 典化
し よう
と す る 意 図 や機
能 が、 こ の 目 録 編纂
に は 込 め ら れ て い た と も 推測
す
る こ と が で き る 。 御 室 と教学研 究 (堀内)三
御
室
と
義
天
版
高
麗
続
蔵
経
( 13 ) さ ら に 教 相 研 究 を
御
室自
身
が 後 押 し し て い た こ と が 、義
天 版 高 麗 続蔵
経 の請
来 に よ っ て窺
い 知 る こ と が で き る 。義
天 と は 、 高 麗 王朝
第
十 一 世文
宗
の第
四 王子
で あ り 、 こ の 王 子 を 中 心 と し て高
麗 の 仏 教 は 大 き な 発 展 を 遂げ
た の で あ る 。 そ の 義 天 が 、宋
版 一 切経
の 影響
を受
け
て 一 〇 九 一年
よ り 逐 次 刊行
開 始 し た の が 、 高麗
続
蔵 経 で あ る 。 こ の高
麗続
蔵
経 を 刊 行 す る の に あ た っ て 義 天 は次
の よう
な 書状
を 日 本 に 送 っ て き て い る 。寄
日 本 国 諸 法 師求
集 教 蔵疏
啓
白 、 諸 善 友 縁 、 本 国崇
奉
仏 教 日 已久
矣
、其
開 元釈
教
録
、 智 昇 所 撰 、 貞 元 続 開 元 釈 教録
、 円○
所
撰 、 両 本 所収
( 14 )
経
律
論 等○
大宗
新 翻 経
論
、 総 六 千余
巻 並 巳 彫 口施
行
訖
、 自古
聖 ( 以 後 欠 ) と 、書
状 の 後 半 部 分 が 伝 わ っ て い な い の で詳
細 は 不 明 であ
る が 、義
天 が 日 本 の 仏 教 界 に 「教
蔵
疏 」 を 求 め て い た こ と が わ か る 。 こ の 書状
に よ っ て 、 日 本 仏 教界
は義
天 に よ る高
麗 続 蔵 経 の 刊 行 が 計 画 さ れ て い る こ と知
り 、 そ の 刊 行 一295
一智山学報 第五十六輯 に よ っ て 新 た な 経
論
の 輸 入 が 考 え ら れ て い た の で あ る 。 実際
に 、 現 在 日 本 伝 来 の高
麗 続 蔵経
に つ い て 八 本 の 論 書 が確
認 さ れ て い る 。 そ の 中 に 、 そ の 伝 来 に注
目 す べ き も の に 『 釈 摩 訶 衍論
通 玄 鈔 』 ・ 『 釈 摩 訶衍
論 賛 玄 疏 』 が あ る 。 い ま こ こ に 、 当 該 書 の 東 寺 観 智 院 所 蔵 本 と高
山 寺 所 蔵 本 の奥
書
を各
々 あ げ て み た い 。 ◎ 『釈
摩
訶 衍 論 通 玄 鈔 』 観 智 院 所 蔵 本 倉 . 九 函 一 三 号 ) 巻第
四 奥 書 「 嘉 応弐
年
四 月 二 凵 」 正 二 位 行 権 中納
言 兼 大 宰 府帥
藤 原 臣季
仲
依
仁
和 寺禅
定
二 品 親 王仰 遣
使
高
麗
国 請 来即
長 治 二年
五 月 乙 酉 五 月中
旬 従 太宰
差専
使 奉 請 之 行 ◎ 『釈
摩
訶 衍 論 賛 玄 疏 』 観 智 院 所 蔵 本 ( 二 九 函 六 号 〉巻
第
五 奥 書 正 二 位 行 権 中納
言 兼 大 宰 府 帥 藤 原 臣季
仲
仁
和
寺
禅 定 二 品 親 王 仰 遣 使 高 麗 国 請来
即 長 治 二 年 五 月 乙 酉 五 月 中旬
従 大 宰差
専
使 奉請
之 ◎ 『釈
摩
訶 衍 論 賛 玄 疏 』 高 山 寺 所 蔵 本 巻第
五 奥 書点
本
云 正 二 位行
権 中 納 言 兼 太宰
帥 藤 原朝
臣 季 仲依
仁 和( 15 )
寺
禅
定 一 品 親 王 仰 遣 使 高 麗 国 請 来即
長
治 二年
五 月 乙酉
五 月 中 旬従 太 宰 差 専 使 奉 請 之 ( 以 下 略 ) と 、
奥
書 に は 請 来 に 関 し て 同 一 の 内 容 を伝
え て い る 。 す な わ ち 、 『 釈 摩 訶 衍 論 通玄
鈔
』 と 『 釈 摩 訶 衍 論 賛 玄 疏 』 は 、 一296
一御室と教学研究 (堀 内) 長 治 二
年
(=
〇 五 ) 五 月 、 仁 和寺
の第
三 世 中 御 室覚
行
法
親
王 の依
頼 に よ っ て 、 太 宰 府帥
藤
原季
仲 が 太 宰府
より
高
麗 に 使 い を 遣 わ し て奉
請
し た も の で あ る 。 そ も そ も 『 釈摩
訶衍
論
通 玄鈔
』 は志
福
が 、 『釈
摩
訶
衍
論
賛
玄 疏 』 は法
悟
が 、 遼 ・ 道宗
の 命 に よ っ て 各 々著
し た 『 釈 摩訶
衍 論 』 の 註釈
書 で あ り 、 一 〇 九 八 年 に 刊 行 さ れ て い る 。 そ れ が 、 七 年 後 に は 日 本 に 伝 来 さ れ 、 し か も そ れ を 御 室 で あ る覚
行 法親
王 自 ら求
め て い た と いう
の で あ る 。 ま た 、 遼 の覚
苑 が著
し 、 一 〇 九 五 年 に 刊 行 さ れ た 『 大 日経
義
釈 演 密 鈔 』 も 刊 行 ま も な く 請 来 さ れ て い た と 考え
ら れ て い る 。 こ の 『 大 日経
義
釈 演密
鈔
』 は 、 華厳
教 学 か ら 『大
日 経義
釈 』 を 解 釈 し た も の で あ り 、済
暹 も そ の内
容
に つ い て注
目 し て い た の で あ る 。 す な わ ち 、 済 暹 の著
作 ( 『 真 言 + 六 玄 門 大 意 』 ) に は 、 「 此 れ 演 密 鈔 の 師 の説
也 」 ・ 「演
( 16 ) 密 の 義 門 」 と済
暹 が 『大
日 経 義釈
演 密鈔
』 を披
見
し て い る こ と が 示 さ れ て い る 。 さ ら に 、 『大
日経
義
釈
演
密
鈔
』 の 請 来 に つ い て 、 高 山寺
蔵
『 秘 宗 教相
鈔 』 巻 八 の奥
書 追筆
に は ( 17 ) 演密
抄 覺 苑 師 作也
東
南 院僧
都
覺 樹 請 来 也十 帖 文 也 と
東
南 院 僧都
覚
樹 ( 一 〇 八 皿 〜 一 一 三 九 ) が 『大
日 経 義釈
演 密 鈔 』 を 請 来 し た と伝
え て い る 。 そ の 覚 樹 は 『 上 人縁
起 』 に よ れ ば 、覚
鑁 が師
事
し た 人物
と し て 挙げ
ら れ て い る 。 覚 樹 が住
し た東
南 院 は 、 三 論宗
の 本 所 で はあ
る が 、 理 源大
師
聖 宝 ( 八 三 二 〜 九 〇 九 ) に よ っ て 開 か れ た 東 大 寺内
の 三 論 ・真
言 兼 学 の 院家
であ
る 。 東南
院 主 か ら は数
多
く の 東大
寺
別 当 を 輩 出 し 、 東 大寺
で の 真 言宗
僧
の 足 場 と な っ て い た 。無
論 東南
院 第九
代
院
主 た る覚
樹 も 三 論 ・真
言 教学
を修
め た 学僧
で あ っ た こ と は 想 像 に 難く
な い 。覚
樹 は 、 六 条 右 大 臣 ・源
顕 房 の息
で あ り 、 三 宝 院 大僧
正定
海
( 一 〇 七 四 〜=
四 九 ) や 、白
河 院 が そ の遺
体
に とり
す が っ た と い わ れ る ほ ど寵
愛 し た賢
子 ( 堀 河 天 皇 生 母 ) 、 覚法
法
親 王 の 生 母 であ
る 師 子 ら と は 兄弟
であ
る 。 つ まり
、 仁 和 寺第
四 世 高 野 御 室覚
法
法 親 王 ( 一 〇 九 一 〜 一 一 五 三 ) は 覚 樹 に と っ て甥
で あり
、 さ ら に覚
樹
の別
の 甥 の源
顕 重 に は実
際 に 『 釈 摩訶
衍 論 通玄
鈔
』 を求
め た 藤 原季
師
の 女 が 室 と な っ て い る 。 一297
一智山学報 第五 十 六輯 さ ら に 、 藤 原 宗
忠
( 一 〇 六 二 〜=
四 こ の 『 中右
記
』 長 治 二 年 十 一 月 十 九 日 条 、 覚行
法
親
王 の 入 滅 に 際 し て 、抑
親
王 誠 是 仏 日之
光
華 、 法 門 之棟
梁 也 、 加 之 言 語 分 明 、 文章
優 妙 也 、 云容
体 、 云心
性 、 誠 叶 大 器 、依
之 威 満 天 下 、 名 聞 海 外 と 、 藤 原 宗 忠 は 覚 行法
親
王 の 遺 徳 を高
く 讃 え て い る が 、 そ の 中 で 覚 行法
親
王 の名
が 海外
に ま で 及 ん で い た と 述 べ て い る 。 こ の 記 述 に よ っ て 、覚
行 法 親 王 が 海 外 と 交 流 し て い た こ と を 、真
言 教学
や 仁 和寺
と 直 接 関 係 の な い藤
原 宗 忠 ま で も が 知 っ て い た こ と を 示 し て い る 。 こ れ は 、 そ れ だ け 当 時 の 入 々 に 、 御 室 ・ 覚行
法
親 王 に よ る 真 言 教学
振 興 が 認 知 さ れ て い た 証 で も あ る 。 こ の よ う に 、 仁 和寺
に 係 わ り の あ る あ る 覚 樹 、 そ し て御
室 た る 覚 行法
親
王 に よ っ て最
新 の 教相
研 究 の 成 果 が 輸 入 さ れ 、 そ れ をす
ぐ に済
暹
は自
ら の著
作
に 取 り 入 れ て い る 。 ま た 、 こ の高
麗
続蔵
経
請 来 に 際 し て は 、 相 当 の費
用 が か か っ た と 考 え ら れ 、 そ の 費 用 を 御 室 が 負 っ て お り 、 経 済的
後
押 し を も御
室 が お こ な っ て い た と 思 わ れ る 。 さ ら に 、 「 御 室相
承 記 』 の 覚 行 法 親 王伝
で は 同 院 令 居住
修 学者
事
( 18 )康
和 四年
四 月 十 九 日 癸 卯、 令 居住
修 学 者 、 宛行
日 供 、学
頭 厳 意 得業
と 述 べ ら れ て い る 。 す な わ ち、 覚 行法
親 王 の 住 房 で あ る 北院
に 「 修 学 者 」 が 置 か れ 、 そ の 学 頭 に厳
意 と いう
者
が あ た っ て い た と い う の で あ る 。 こ の こ と は 、自
ら の 院 家 に 「修
学 者 」 ・ 「 学頭
」 と いう
教学
的 な 立場
の 者 を 置 き 、修
学
の 整 備 を 覚行
法
親 王自
身
が行
っ て い た こ と を 伝 え る も の で あ る 。 こ の よう
に自
ら の 住 房 に お い て 、 修 学 の シ ス テ ム を 構 築 し た り 、 こ れ ま で 述 べ て き た よ う な 様 々 な 形 で 、御
室 が 仁 和 寺 圈 で の 教学
研 究 の 振 興 に 寄与
、 そ し て指
導
し て い た の で あ る 。 次 に 、 高 麗 大 蔵 経 の輸
入 、す
な わ ち 、 大 陸 と の い わ ば貿
易
と 御 室 と の 関 わ り 合 い を見
て み た い 。 仁 和寺
第 四世
高
一298
一御室と教学研 究 (堀 内) 野
御
室覚
法
法 親 王 の行
状
を 伝 え て い る 『 御 室相
承
記 』 に は 、自
院 被 進 鸚 鵡
事
久
安
三年
十 一 月 廿 日 庚 辰、 被 進 之杵
嶋
庄 進 孔 雀事
( 19 )
久
安
四 年 三 月 廿 七 日 乙 酉進 之
仍
令
進
院
依
御 召 也而
叡 覧 以 後 返 給仍 賜
真
慶 了 と 、鸚
鵡 と 孔 雀 に つ い て の 記 述 が あ る 。 こ の記
述 に よ っ て 、 日 本 国 に は 生 息 し な い 鸚 鵡 や 孔雀
を 院 、 す な わ ち 鳥 羽( 20 ) 法 皇 や
覚
法 法 親 王 が 強 い 関 心 を 抱 い て い た こ と が わ か る 。服
部 英 雄 博 士 の 研 究 に よ れ ば、 保 元 の 乱 の 藤 原頼
長
の 日 記 『台
記 』 や 、 平 治 の 乱 の 信 西 ・ 藤 原 通 憲 ( 一 一 〇 六 〜=
五 九 ) が 編 纂 し た 『 本朝
世 紀 』 の 記 述 な ど か ら 、 久 安 三 年 か ら 四年
の 二年
間 に 三 羽 の孔
雀
が 日 本 に伝
来
し て い る こ と 、 ま た 、 『 御 室 相 承 記 』記
載
の 杵 嶋 庄 が 、 有 明 海 に 面 し た 肥 前 国 杵嶋
庄 で あ る こ と 、 そ の杵
嶋 庄 に 日宋
貿易
の宋
船
が 到着
し て い た こ と を 明 ら か に さ れ て い る 。 こ の 杵 嶋 庄 は 肥 前 国 杵嶋
郡 に あ っ た 荘 園 で 、 平 安 か ら鎌
倉
時代
を 通 じ て 仁和
寺 の 支 配 が な さ れ て い た 。 こ の 有 明海
に面
し た 仁 和寺
関
係 の 荘 園 に は 伊佐
早庄
・ 高 来 庄 、 そ し て 鹿島
津 を有
す る 藤 津庄
な ど が点
在 し て い た 。 特 に 藤 津庄
は 、 覚 鑁 の 誕 生 の 地 で 有名
で あ る が 、 日宋
貿
易 の 観点
か ら す れ ば違
っ た姿
が 見 え て く る 。 服 部博
士 の指
摘 で は 、寧
波
・ 杭 州 を 出帆
し た 宋 船 は 、 五島
列
島 に到
着
す る が 、 玄界
灘 は 元 寇 が 示 す よう
に 波 が 高 い 難 所 で あ っ た 。 太宰
府管
内
広
域 で の交
易
をす
る 者 や 、 博多
に 入港
で き な か っ た宋
船 は 、 内 海 の 穩 や か な有
明 海 に 入 港 す れ ば 問 題 は な か っ た 。 そ の 有 明海
の 重 要 な 地 点 に 、 仁和
寺 は荘
園 を 有 し て い た の で あ る 。 そ の荘
園 か ら 仁 和寺
は 、様
々 な富
、 情 報 を手
に し て い た の で あ る 。 御 室 は 、自
ら に益
を も た ら す 海 を熟
知 し て い た の で あ る 。 ま た 、仁
和 寺 に と っ て孔
雀 は 重 要 な 意 味 を持
っ て い た 。す
な わ ち 、 大 御 室 性信
法 親 王 が 得 意 と し た修
法
に 、 孔 雀 経 法 が あげ
ら れ て い る 。前
述 の よう
に 治 暦 三年
二 〇 六 七 ) そ の 当時
は ま だ 東 宮 で あ っ た 後 の 後 三条
天皇
御
薬 御 祈 一299
一智 山 学 報 第五十 六輯 の た め に 、 閑 院 殿 で 性 信 が 修 し た の が 孔