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智山學報 第56 - 020堀内 規之「御室と教学研究」

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(1)

 

 

 

 

御室 と教 学 研 究 (堀内)  

大 師 空

の 入 定 以 後 し ば ら く 、

で は 教

研 究 は ほ と ん ど

展 せ

相 面 の み が 発 達 し て き た 。 そ し て 、 十 一 世 紀 末 ・ 十 二 世

初 頭 に 、 済 暹 ( 一 〇 二 五 〜 一 一 一 五 ) ・ 興 教 大

覚 鑁 ( 一 〇 九 五 〜 一 一 四 三 ) 等 の 出 現 に よ っ て 、 教 相

が 復 興 し て き た と 一 般 的 に は 理 解 さ れ て お り 、 ま た 概 説 書 に も 同

に 記 さ れ て い る こ と が 多 い 。 果 た し て 、 そ の 通 り な の で あ ろ

か 。 こ の よ

な 理

に 対 し て 、

々 な 角 度 か ら 検 証 が な さ れ る べ き と

者 は 考 え て い る 。  

え ば 、 こ れ ま で 空 海 撰 述 で は な い と い

理 由 か ら 、 異 本 『

身 成 仏 義 』 や 『 四

曼 荼

』 の 価

を 低 く 見 る よ

な 傾 向 が

か が え る 。 だ が 、 そ の 評

は 本 当 に 正 し い の で あ ろ

か 。   現

『 秘 藏

』 は 、 空 海 の 撰 述 で は な い と ほ ぼ 認 識 さ れ て い る が 、

相 面 に お い て 今 日 も 重 要 な 扱 い を 受 け て い る 。 こ の 『 秘

』 と 同

に 、 異 本 『 即

仏 義 』 や 『 四 種 曼

』 も 、 空

以 降 の

密 教 の 教 学 展 開 の 重 要 な 成

で は あ る が 、 そ れ が 空 海 撰 述 と 仮

さ れ た だ け と い う 具 合 に 、 そ の

点 を 変 え て

る こ と も 可

で は な い だ 283 一

(2)

智山学報 第五十六輯 ろ

か 。

際 に 異 本 『 即 身 成 仏

』 に 説 か れ る 三

即 身 成 仏 、 『 四 種 曼 荼 羅

』 所 説 の

は 、 そ の

に 大 き な 影

を 与 え 、 さ ら に 現 在 の 真 言 教 学 ・ 教 化 の

野 で 重 き を な し て い る 。   こ の よ

に 異 本 『 即

成 仏 義 』 ・ 『 四

曼 荼 羅 義 』

で 示 さ れ る 概 念 が 、 空 海 入

か ら

暹 ・

鑁 が 活 躍 す る ま で の 問 に 発 展 ・ 構 築 さ れ た も の と 位 置 づ け 、 教 相 面 で も 大 き な 進 展 が あ っ た と

え る こ と が で き る 。 い や そ の よ

に 捉 え て 、 再 評 価 を す べ き で は な い だ ろ

か 。   こ の よ

え の 延 長 上 に 、 な ぜ 十 一 世 紀 末 ・ 卜 二 世 紀 初 頭 と い

時 代 に

暹 や

鑁 が 活 躍 し 、 そ れ ま で

し て 盛 ん で あ っ た と は い え な い

相 研 究 が 復 興 す る の か 。 そ の 要 因 に つ い て 、 こ れ ま で あ ま り

り 上

ら れ る こ と が な か っ た 。 そ の た め 、 そ の 要

に つ い て 、 些 か 考

を 加 え て み た い と 思

。 二

 

  南 岳 房 済 暹 、 興 教 大 師 覚

、 宝 生 房 教 尋 、 禅

院 阿 闍 梨 宀 疋 尊 、

乗 房 永 尋 、 そ し て 成 就 院 大 僧 正

房 寛 助 、 こ れ ら の 僧 は す べ て 仁 和

に 関 わ り の あ る 学 匠 で あ る 。 済 遲 や 覚

の 教 学 活 動 等 を 考 え る 場 合 、 こ の 十 一 世 紀

・ 十 二 世 紀 初 頭 、 い わ ゆ る 白 河 院 政 期 に お い て 、 前 述 の 人 々 が

を お い た 仁 和 寺 と い う 環

に つ い て 、 先

注 目 し て み た い 。   そ も そ も 仁 和

の 建 立 は 、

孝 天 皇 ( 八 三 〇 〜 八 八 七 ) が 、

都 ・ 大 内 山 の 南 麓 に 一 寺

立 を 発 願 さ れ て い た の に 始 ま る 。 し か し 、 光 孝 天 皇 は そ の 完 成 を 見 ず に 崩

さ れ て し ま

。 皇 位 を

が れ た 宇

天 皇 ( 八 六 七 〜 九 三 一 ) が 、 遺 志 を 継 ぎ 傍 ら に 山 陵 を

と と も に 、 造

を 進 め た 。   そ し て 、 仁 和 四 年 ( 八 八 八 ) 八

十 七 日 、

成 し た 金 堂 の

供 養 が 光 孝 天

の 一 周 忌 の

を 兼 ね て

わ れ 、 一

284

(3)

御室と教学研 究 (堀 内)

師 は 、 空 海 の

寺 長

で あ る 中 院

正 真 然 ( 八 〇 四 〜 八 九 一 ) が

め た 。 そ の 後

別 当 の 幽 仙 が 、 同

者 二

こ と を 求 め た 上 表 に は 、     如

聖 主

荘 厳 山 陵

 

遠 為 興 隆 仏 法

 

建 立

舎 於 山 陵

 

 

  白 業

聖 霊 廻

之 志

 

既 期 万

 

紹 隆               ( 1 )     之 誠 豈 限 一

寺 が 亡

の 山 陵

の た め と 、 興 隆 仏 法 の た め と い

二 つ の 目 的 を も っ て 建 立 さ れ た も の で あ る こ と を 示 し て い る 。 こ の 目 的 を も っ て 建 立 し た

天 皇 ( 寛 平 法 皇 ) は 、 二 入 の 皇 子 を 仁

に 入 れ ら れ た 。 そ れ が 、 法 三 宮 真

王 ( 八 八 六 〜 九 二 七 ) と

実 親 王 ( 八 九 三 〜 九 亠 ハ 七 ) で あ る 。  

寂 は 、 宇

皇 の も と で 落 飾 し 、 宗

( 八 〇 九 〜 八 八 四 ) の 法 流 を 継 承 し て い る 。 ま た 、 『 仁 和

諸 堂 記 』 に 引                                                                                         ( 2V 用 さ れ て い る 『 北

記 』 に よ れ ば 、 空

の 夢 告 に よ っ て 観

院 を

し 、 千 手

音 を 安

し た と あ り 、 さ ら に は 『 諸 説 不 同 記 』 等 を は じ め と す る 数

の 著

を あ ら わ す な ど 、 法

と も く さ れ て い た と 思 わ れ る 。 が

 

85

                                                                                                     

2

し か し 延 長 五

( 九 二 七 )

多 法 皇 に 先 立 っ て

は 入 滅 し て し ま う 。   も う 一 人 の

子 が 、 敦 実 親 王 で あ る 。 こ の 親 王 は 、

法 皇 が 譲 位 し た 醍 醐 天

の 同 母

で あ り

氏 の 祖 で あ る 。

実 親 王 と 左

原 時

の 娘 と の 間 に は 、 左 京

・ 遍 照 寺 僧 正

・ 一

左 大 臣 雅

( 雅 信 の 娘 ・ 倫 子 は 道 長 室 に し て 彰 子 ・ 頼 道 の 母 ) ・ 六 条

重 信 ・ 勧

長 吏 雅

ら の 男 子 が い た 。 親 王

は 、 天 暦 四 年 ( 九 五 〇 ) 二 月 に

さ れ 、 仁

寺 に 入 寺 さ れ

真 と 称 し 、 仁 和

宮 と も 尊 称 さ れ て い た 。  

皇 の 法 流 は 、 先 ず 蓮

正 寛 空 ( 八 八 四 〜 九 七 二 ) が

し て い る 。 寛

は 、 文 屋 氏 で 宇

法 皇 の 侍 童 と し て 仕 え 、 十 九

に 愛 宕 山

日 ( 八 六 〇 〜 九 一 六 ) に 従 っ て 出

し て い る 。 寛 空 は 延 喜 十 八 年 ( 九 一 八 ) 、

皇 よ り 大

寺 に て 灌 頂 を 受 け 、

別 当 を は じ め と し て 東

・ 金 剛 峯 寺 座 主 を

め て い る 。 ま た 、 香 隆

を 建 立 し て い る 。 こ の

皇 に

き 従 っ た 寛 空 よ り 法 流 を 継

し た の が 、 法 皇 よ

見 れ ば

た る

(4)

智 山 学報第五 卜六 輯 で あ る 。  

実 親 王 の

・ 遍 照 寺 大

正 寛 朝 ( 九 一 六 〜 九 九 八 ) は 、 天 暦 二

( 九 四 八 )

師 寛 空 を 大 阿 闍 梨 、

を 教 授 と し て 、 讃 衆 八 人 ・ 持 金 剛 衆 四 人 に て

頂 を 受 け て い る 。 後 に 、

・ 西 寺 の 別 当 、 東

長 者 ・ 金 剛

座 主 を 歴 任 し 、 朱 雀 ・ 円 融 ・ 花 山 の 三 天 皇 の 受

の 戒 師 、 円 融 ・ 花 山 天

の 出 家 の 戒

・ 灌 頂 の 阿

梨 を 勤 め て お り 、 大 僧 止 に 列 せ ら れ て い る 。 さ ら に 、 花 山 天 皇 の 勅 命 で 広 沢

畔 に 遍 照

を 開 創 し 、 密 教 を ひ ろ め た 。   そ の 寛 朝 か ら

流 を 受 け た の が 、

実 親 王 の

で あ る 左 大 臣 源 雅 信 の 子 に あ た る 仁

寺 北 院 大 僧 正

信 ( 九 五 四 ー 一 〇 三 〇 ) で あ る 。 つ ま り 、

朝 か ら

れ ば

信 は 甥 に あ た る 人 物 で あ

、 永

元 年 ( 九 八 九 ) 遍 照 寺 に お い て

朝 を 大 阿 闍 梨 と し て 灌 頂 を

信 は 受 け て お り 、 後 に 東 寺 長

大 寺 別 当 ・

修 寺 長

・ 仁 和 寺 別

を 勤 め て い る 。   以 上 、 こ れ ま で 仁 和

に 関 係 し て き た 人 物 の 中 で 寛 空 を 除 い た 人 々 は 、

法 皇 の 皇

に 属 す る

で あ る 。 そ し て 、

皇 の 孫 ・

朝 、 曾 孫 の 済 信 を 経 て 、 仁 和 寺 二 世 の 性

へ と

流 が 継 承 さ れ て い っ た の で あ る 。   大

室 性 信 法

王 ( 一

QO

五 〜 一 〇 八 五 ) は 、 三 条 天 皇 ( 九 七 六 〜 一 〇 一 七 ) と 大 納 言 藤 原 済

の 娘 ・ 城 子 と の 間 に 誕 生 し て お り 、 同 母 兄 に か の 小 一 条 院 が い る 。 性

の 出 家 の 要 因 は 、 こ の 兄 ・ 小 一 条 院 の 政 治 的 失 脚 に よ る も の と 推 測 さ れ る の で あ る 。   小 一 条 院 と は 、 三 条 天 皇 の 第 三 皇 子 ・ 敦 明 親 王 の こ と で あ る 。

明 親 王 は 、 三 条 天 皇 が 一 条 天 皇 の 皇 子 で あ る

一 条 天 皇 ( 藤 原 道 長 孫 ) に 譲 位 す る と き に 、 皇 太 子 と な っ た 。 し か し 、 父 で あ る 三 条 天 皇 と

者 ・

原 道

( 九 六 六 〜 一 〇 二 七 ) と の 折 り 合 い の 悪 さ は か な り の も の で あ っ た 。 そ の

果 が 、 三 条 天 皇 が た ま た ま 眼 病 を わ

ら っ た こ と を 理

に 、 道 長 が 自 ら の 娘 ・ 彰 子 が 生 ん だ

天 皇 に 強 引 に 譲 位 を さ せ た こ と に 現 れ て

る の で あ る 。 唯 一 、 三 条 天 皇 が 道 長 に 抵 抗 し た の が 、 敦 明 親 王 を

に た て る こ と を 譲 位 の 交 換

件 と

る こ と で

っ た 。 と こ ろ が 、 三 条 天 皇 は 譲 位 の 翌

に 四 十 二 歳 で 崩 御 さ れ て し ま

。 東

に は な っ て い た が

親 王 に は

ろ 盾 が 全 く 一

286

(5)

御 室と教学 研究 (堀 内) な く な っ て し ま っ た の で あ る 。 母 ・

子 の 父 ・ 済 時 は 、 道 長 の 祖 父 師

・ 師 尹 の 子 で あ っ た が 、 も は や そ の

故 人 で あ り 、 た と え

で あ っ て

長 に

抗 す る 程 の

手 で は な か っ た 。 そ し て 、

明 親 王 は 、 三 条 天

か ら 三 ヶ 月

に 東 宮 の

を 退 い た の で あ っ た 。 代 り に 、

宮 に 就 い た の は

子 の 生 ん だ 後 一

の 弟 ・ 敦

王 、 つ ま り 道 長 の 外 孫 で

っ た 。  

を 退 い た 敦 明

王 に 対 し て 、

長 は

遇 を も っ て

し た 。 太 上 天

に 準 ず る 小 一 条 院 と い

を お

、 さ ら に 道 長 の 娘 ・

( 安 和 の 変 の 源 高 明 の 娘 ・ 明 子 と 道 長 と の 娘 で あ り 、 能 信 の 妹 ) を 嫁 が せ た の で あ る 。

明 親 王 は 道 長 の 娘 婿 と な り 、

も 最 上 級 を

た の で あ る が 、 政

的 に は 完 全 な る

脚 で あ り 、 屈 辱 そ の も の で あ っ た 。   こ の 兄 を 間 近 に み て い た の が 同 母 弟 で あ る 師 明 親 王 で あ る 。 師 明 親 王 の 出 家 の 様 子 を 『 栄 花 物 語 』 は 次 の よ

に 伝 え て い る 。     か く て 三

院 の 四

( 11 師 明 ) は 、 ま だ 童 に て お は し ま せ ば 、 院 ( −ー 小 一 条 院 ・ 敦 明 親 王 ) ぞ 御 子 に し

ら せ

    て 、 御 元 服 な ど お ぼ し め し 掟 て さ せ

に 、 中 務

( 11 敦 儀 親 王 ) の

た め に 、 院 の

情 な く 見 え さ せ 給

    り て 、 い み じ

み き こ え さ せ

け れ ば 、 こ れ を 御 覧 じ て 、 四 宮 「 い み じ く 頼 み

り た る 院 の 御 心

さ ば か

    に こ そ お は し ま し け れ 」 と 、 心

く お ぼ さ れ て 、 忍 び て 仁 和

に お は し ま し に け り 。 僧 正

信 の

許 に お は し     ま し て 、 「

頃 出

の 本

深 く 侍 る を 、 な さ せ

へ 」 と

こ え さ せ

べ け れ ば 、 僧 正 「 と も か く も 聞 え さ

べ     き に も あ ら

と て 、 な し 奉 る 。 院 や 宮 な ど や 、 び ん な

お ぼ し め さ ん 」 と 聞 え

へ ば 、 「 そ れ 苦 し

お ぼ し め     さ る べ き 事 な ら ず 。 た だ

い か で な

な ん と な む 、 思 ひ

る 」 と 宣 は す れ ば 、 「 若 き 御 心 に か

る     事 」 と 、 い み じ く 泣 き 給 ひ て 、 我

衣 ど

の ま だ 着 給 は ざ り け る を 、 と り 出 で で 奉 り 給 ひ て 、 な し

り 給 ひ て     け り 。 こ の こ と ど も 聞 え て 、

宮 ・ さ る べ き 殿 ば ら

お は し て 見

り 給 。 院 も お は し ま し て 、 い み じ く

か     せ 給 。 皇 后

( 11 誠 子 ) に は 、 「 さ て も い か に お ぼ し と ら せ 給 に け る ぞ 」 と 悲 し く い み じ く て 、 泣 く 泣

一 

287

 一

(6)

智山学報 第五 十 六     し て

ら せ 給 。 い み じ

あ は れ な る 御

ど も な り 。 皇 太 后 宮 ( 11 妍 子 ) よ り

束 し て

ら せ 給 。 僧 正     11 済 信 ) い み じ き 物 に 思 ひ き こ え さ せ

へ り 。 「 猶 こ の 寺 に 、 さ る べ き や む ご と な き 人 の 絶 へ さ せ 給 ま じ き 」                                           ( 3 )     と 、

お ぼ さ れ け り 。 [ ( )

の 註 ・

者 ]   三

天 皇 の 第 四 皇 子 で あ る 師 明 親 王 は 、 元 服 し て い な い

供 で あ っ た た め に 、 小 一 条 院 は

ら の 養 子 と し て 元 服 を さ せ よ

と し た 。 が 、 し か し 三 条 天 皇 第 二 皇 子 ・ 中 務

儀 親 王 が 妬 ん だ た め に 、 師 明 親 王 は 小 一 条 院 に も 幻 滅 し て 、

和 寺 で 出 家 す る こ と を 決 意 し た と い う 。 北 院 大

正 済 信 は 、 ど の よ

に 説 得 し て も 出

の 決 意 が

固 な の で 出

さ せ る が 小 一 条 院 や 母 親 の 娠 子 皇

は 不 都 合 な こ と と 悲 し む と い う と 、 親 王 は そ う い っ た こ と は

し も

に 懸 け ら れ る こ と で は な く ひ た す ら 早 く 出 家 し た い と 思 っ て い る と 述 べ て い る 。 実 際 に 親 王 の 出 家 が

の 知 る と こ ろ と な る と

は 泣

泣 く

衣 等 を 調 整 し た 。 そ し て 済 信 は 、 や は り

に は 然 る べ き 高 貴 な

が あ と を 絶 つ こ と な く 入 る こ と に な っ て い る の だ と 述 べ て い る 。   こ の 栄 花 物 語 の 記 述 に 対 し て 、 『 三

生 伝 』 で は                                               ( 4 )     天 皇 晏 駕 之 後

 

不 堪 恋

 

意  

仁 和 寺 出

と 、 父 ・ 三 条 天 皇 の 崩

親 王 出 家 の 要 因 に な っ て い る こ と を 伝 え て い る 。 ま た 『 仁 和 寺 御 伝 』 ・ 『 御 室 相 承 記 』 等 の 性 信 伝 に お い て も 、 『 三 外 往 生 伝 』 と 同

の 性

要 因 が 述 べ ら れ て い る 。 『 栄 花 物 語 』 や 『 三 外 往 生 伝 』

の 記 述 を 総 合

れ ば 父 で あ る 三 条 天 皇 の 崩 御 と 、 そ れ に と も な う 兄 ・ 小 一 条 院 の 皇

の 完 全 な る 消 滅 が

と な っ て 、 師 明 親 王 は 出 家 し た と 考 え ら れ る 。  

二 年 ( 一 〇 一 八 ) 八 月 二

九 日 、 北 院 に て 仁 和 寺 北 院 大 僧 正 済 信 ( 九 五 四 〜 一 〇 三 〇 ) を 戒 師 禅 林

大 僧 正 深

( 九 五 三 〜 一 〇 四 三 ) を 唄 師 と し て 親 王 は 出 家 し た 。 法 名 を

信 と い い 、 後 に 弘

大 師 の 再 誕 と ま で 称 さ れ た 高 僧 の 誕 生 で あ る 。 時 に 親 王 十 四 歳 で あ っ た 。 さ ら に 、 性

十 九 歳 の 治 安 三 年 ( 一 〇 二 三 ) 仁 和 寺

音 院 に お い て 、 一

288

(7)

御 室と教 学研 究 (堀 内) 同 じ

七 十 歳 の 済 信 を 大 阿 闍 梨 と 仰 ぎ

を 受 け て い る 。 そ の 際 の

を 七 十 一 歳 に な る 小 野 僧 正 仁 海 ( 九 五 一 〜 一 〇 四 六 ) が 、 さ ら に 教 授 を 延 尋 、 護 摩 を 平

、 諸 役 を

堂 僧 正 成

が 勤 め て い る 。   そ の

、 『 御 室

記 』 に よ れ ば 性 信 が 公 家

を 勤 め た

が 治

( 一 〇 六 六 ) よ り 示 さ れ て い る 。 こ の 治 暦 二

以 降 の 主 な 政 治 的 動 き を あ げ て み る と 次 の よ

に な る 。 治 暦 三 年

 

〇 六 七     四 年

 

一 〇 六 八 延 久 元 年 延 久 四

    五

保 元

    二

    三

暦 元

一 〇 六 九 一 〇 七 二 一 〇 七 三 一 〇 七 四 一 〇 七 五 一 〇 七 六 一 〇 七 七     二

 

一 〇 七 八

保 二

  一 〇 八 二     三

 

〇 八 三 応 徳 元

 

一 〇 八 四 藤 原 頼 通 、 関 白 辞

。 藤 原 教 通 、 関 白 就

天 皇 崩 御 、

践 祚 。

徳 二

以 降 の 新 立

停 止 、 い わ ゆ る 延 久 の

園 整 理 令 が だ さ れ る 。

三 条 天 皇 譲 位 、

天 皇

禅 。

三 条 上 皇 崩 御 。

原 頼 通 、 上 東 門 院

死 去 。 藤 原 教 通 死 去 。 藤 原

を 内

・ 関 白 と す る 。 石

水 八

宮 ・ 賀

に 行 幸 、 以 後

年 恒 例 。

河 天

願 の 法 勝

金 堂 ・ 講 堂 ・ 阿 弥 陀 堂 天 皇 臨 席 の も と 供

。 法 勝 寺 大

会 始 行 さ れ る 。 後 三 条 天 皇 御 願 の 円

に お い て 最 勝 会 始

さ れ る 。 天 皇 臨 席 の も と 法 勝

九 重 塔 ・

師 堂 ・ 八

堂 供

さ れ る 。 中

子 死 去 。 一

289

(8)

智山学 報 第五 十六輯  

皇 以 来 、 一 七 〇

ぶ り に 藤 原 氏 、

に 御 堂 流

関 家 を 外 戚 と し な い 天

と し て 即

し た の が 、 有 名 な 後 三 条 天 皇 で あ る 。 そ の 後 三 条 天

の 母 は 、 三

天 皇 の 皇

・ 禎 子 内 親 王 で あ る 。 政

史 的 に は 、 藤 原 氏 出 身 で は な い 内

王 を 、 母 に も つ 後 三 条 天 皇 の 即 位 と い

点 に 注 目 を し て い る 。 し か し 、 筆 者 が こ こ で

目 す る 重 要 な 点 は 後 三

天 皇 の 生 母 ・ 禎 子 内 親 王 が 、 小 一 条 院 や 性 信 に と っ て 異 母

と い

こ と で あ る 。 す な わ ち 、

信 に と っ て

三 条 天 皇 は

に 当 た り 、 三

の 血 統 が 復 活 し た わ け で あ る 。 後 三 条 と い

諡 が ま さ に 象

的 で あ る 。 兄 ・ 小 一 条 院 が

の 座 を 追 わ れ た と き 、

子 内 親 王 は わ ず か 五 歳 で あ っ た 。 そ れ か ら 四 十 六

、 そ の 禎 子 内 親 王 ( 陽 明 門 院 ) は 国

と な っ た わ け で あ る 。 そ の

年 で あ る 治 暦 三 年 ( 一 〇 六 七 ) 、 そ の 当 時 は ま だ

宮 で あ っ た

仁 親 王 、 後 の

天 皇 御 薬 御 祈 の た め に 、

信 は 閑 院 殿 で 孔 雀 経

を 修 し て い る 。 こ の 孔 雀 経 法 は 「 皇 太 后

陽 明

 

旨 」 、 す な わ ち 禎 子 内 親 王 か ら の 依 頼 に よ っ て 、 性 信 が 勤 仕 し た も の で あ る 。 時 に

六 十 四 歳 で あ っ た 。 こ の あ た り か ら

信 の 立 場 は 、 そ れ 以

と 大 き く 異 な っ て い く の で あ る 。   政

か ら み れ ば 、 性 信 出 家 の 要 因 を 作 し た 藤 原 道 長 ( 九 六 六 〜 一 〇 二 七 ) の

で あ る 頼 通 ( 九 九 〇 〜 一 〇 七 四 ) は 関

を 辞 し 弟 の 教 通 ( 九 九 六 〜 一 〇 七 五 ) に 譲 っ て 宇 治 に 隠 退 し た 。 そ の

、 即

し た 後 三 条 天 皇 は 、 荘 園 整 理

布 と 記 録 荘 園 券 契 所 を

置 す る と い う 摂 関 家

抗 策 を 打 ち 出 し て い く の で あ る 。 も は や

信 の 立

は 、 政 治 の

台 で 御 堂 流 摂 関 家 に 葬 り 去 ら れ た 一 族 で は な

、 今 や 皇 統 の 中 心 に 近 い 立 場 へ と

し た の で あ っ た 。   そ の

の 活 躍 を 『 御 室 相 承 記 』 で は 、 治

に 教 通 の た め に 孔 雀 経 法 を 修 し た こ と を か わ き り に 、

経 法 だ け で

卜 七 回 、 あ る い は 二 十 一 回 修 し た と 記 さ れ て い る 。 そ し て 決 定 的 に 性 信 の 立 場 が 変

す る こ と と な っ た の が 、

三 年 ( 一 〇 八 一. 一 ) に

的 に 法

王 の 始 ま り と 捉 え て い い 「 叙 二 品 」 の

遇 を 得 た こ と で あ っ た 。   『 御 室 相

記 』 で は こ の 性

に 対 す る 叙 品 は 、 摂 政 藤 原

( 九 二 九 〜 九 九 〇 ) が

後 に 准 三 宮 宣 旨 を 与 え ら れ た

例 に 准 じ た 処 遇 で あ っ た と 述 べ ら れ て い る 。 こ の

品 に よ っ て 権 威 を

え ら れ た 性 信 は 、 そ の 血 縁 関 係 か 290 一

(9)

御室と教学 研究 (堀 内) ら は 王 家 と は ミ ウ チ で あ り つ つ 、

三 条 天 皇 や

・ 陽 明 門 院 ( 禎 子 内 親 王 ) の い わ ば 護 持 僧 的 立

と な り 、 王 家 と の

び つ き を 強 固 な も の に し て い た っ た の で あ る 。  

も そ う で あ っ た よ

に 、 後 の 仁 和 寺

親 王 は

七 日 御 修 法 の 大 阿

仕 す る こ と は な か っ た 。 ま た 、 真 言

の 宗 の

者 職 で あ る

長 者 に も 就

す る す る こ と は な か っ た 。 し か し 、 そ の 東

に 任 じ ら れ た 人 物 の 多 く を 、 自 ら の 法 流 の 弟 子 と し て 、 そ の 傘 下 に 位 置

け る こ と に よ っ て 、

全 体 を

括 す る 立 場 の

長 者 や 他 の

言 寺 院 よ

超 越 し た

と し て 、 仁 和

と 御 室 の 権 威 を た か め て い っ た の で あ る 。   御 室 の 果 た し た 役 割 は 、 法

や 護 国 修 法 に よ っ て 王

を 護 持 す る こ と で あ っ た 。 そ れ を 強

め る た め に

信 よ り も さ ら に 皇 統 に 近 い 立

の 人 を 、 御 室 と し て 王 家 は 仁 和

に 送 り 込 ん で き た の で あ る 。

な わ ち 、 原 則 と し て 院 あ る い は 天 皇 の 子 息 が 、

親 王 ・ 御 室 と な っ て 、 王 家 を 護 持 し て い く と い

特 殊 な シ ス テ ム が 、 仁

に は 院 政 期 よ り 確 立 さ れ て き た 。 そ の 意

で 、 性

が 六 十 四 歳 の と き 陽 明 門 院 ( 禎 子 内 親 王 ) の 依 頼 を

け て 孔 雀 経 法   跚 を

し た 時 点 よ り 、 仁 和

の 性

は 変 り 始 め 、 さ ら に 一 世 皇 親 た る 中

室 覚

が 法 親 王 と し て 王

持 に あ た っ た こ と よ り 、

殊 な

を も っ た 仁

寺 御 室 が

立 し た と

え ら れ る 。 そ の 覚 行 に 対 す る 法 親 王 宣 下 に 関 し て 、 『 今 鏡 』 で は 次 の よ

え て い る 。

和 寺 に 覚 行

王 と き こ え た ま ひ し は 。

河 の 院 の

こ に お は す 。 御 ぐ し を う さ せ

て 。 や

や う お と な に な ら せ 給 ほ ど 。 い と か ひ が ひ し く お は し け れ ば 。 さ ら に 親 王 の 宣

か う ぶ

給 と そ き こ え は べ り し 。 お ほ 御 む う と し お は し ま し し は 。 三 條 の 院 の

こ 師 明 の

王 と き こ え

し 。 ま だ ち こ に お は し て 。 み こ の

な え 給 け れ ば 。 ほ う し の の ち も 親 王 か は り

。 そ の み や に つ け た て ま つ り た ま へ り し に 。 御 で し の 宮 ( 11 覚 行 ) は わ ら は に て 。 親 王 の 御 な を え 給 ね ど も 。

王 の

ぷ り 給 へ り 。

二 條 殿

藤 原 師 通 ) 。 出 家 の の ち 例 な き よ し 侍 け れ ど も 。 白 河 の

。 内 親 王 と い ふ こ と も あ れ ば 。 法 親 王 も な ど か な か ら ん と て 。 は じ め て ほ う し の の

(10)

智山学報 第                                           〔 5 )     ち

王 と き こ え 給 し な り 。 [ ( )

の 註 ・

]   関

. 藤 原 師 通 は 、 出 家 後 の 親 王 宣 下 は

例 が な い こ と と し て 異 を 唱 え た 。 師 通 の 意 見 は 、

例 を 重 ん じ る 公 卿 か ら

れ ば 当 然 の こ と で あ る 。 し か し 白 河

皇 は 内 親 王 と い う 称 号 も あ る か ら 、 法

王 と い

称 号 が あ っ て も よ い と し て 、 師 通 の 反 対 を 押 し 切 っ て 、 覚 行 に 法 親 王 の 称

え た と

鏡 』 は

え て い る 。 こ こ に 、 白 河 法 皇 自

に よ る 仁 和 寺 ・ 御 室 の 権 威 を 高 め よ

と す る 意 図 が

み 取 る こ と が で き る 。   こ の 御 室 と い う 強 力 な 後 ろ 盾 を 受 け て 、

和 寺

に お い て 教 学 研 究 が 盛 ん に な っ て い っ た こ と が 指 摘 で き る 。

の 分

で は あ る が 、 事 相 の 分 野 に お い て 、 小 野 ・ 広 沢 と い

二 法 流 を た て る 。 小 野 流 は 醍 醐

に 関 係 す る 三 流 ( 三 宝 院 流 . 理 性 院 流 ・ 金 剛 王 院 流 ) と

の 三 流 ( 安 祥 寺 流 ・ 勧 修 寺 流 ・ 随 心 院 流 ) の

六 流 と

る の に 対 し 広 沢 流 は 全 て 仁 和

、 そ れ も 全 て 性 信 付

の 弟 子 で あ る

助 の 弟 子 に よ る 六 流 ( 覚 法 ・ 仁 和 御 流 信 証 ・ 西 院 流 、 永 厳 ・ 保 寿 院 流 、 聖 恵 ・ 華 蔵 院 流 、 寛 遍 ・ 忍 辱 山 流、 覚 鑁 ・ 伝 法 院 流 ) と 全 く 様 相 が 異 な っ て い る 。

の 流

の 成 立 は 様 々 な 要 因 が

 

92

                                                                                                       

2

考 え ら れ る が 基 本 的 に は 活 発 な 研 究 が な さ れ て い た こ と は 容 易 に 察 せ ら れ る 。

相 と は

そ も 実 践

容 に 対 す る 教 学 的 な 解 釈 を い う の で あ る 。

相 の 流 派 の

立 は 、 そ こ に 活 発 な 教 学 研 究 が な さ れ て い た 証 で も あ る 。 そ の 事 教 二 相 の 研 究 に は 、 経 済 的 裏 付 が 必 要 で あ る 。 そ の

、 特 に 御 室 は 王 家 ・ 院 と ミ ウ チ と し て 直 結 し て い る

在 で あ っ た 。 こ の 院 の 政 治 的 台 頭 と 、 摂 政 ・ 関

を 独

し て き た 藤 原 氏 の 衰 退 が 、 そ の ま ま 仁

寺 御 室 の

盛 に も つ な が っ て い る よ

で あ る 。                                                                                         ( 6 )   教 相 面 で い え ば 、

助 が 仁 和

に 伝 法

を 興 し た の も 、 白 河 法 皇 の

押 し を

け て の こ と で

っ た 。 ま た

遲 が 、 空 海 の 『 遍 照 発 揮 性 霊 集 』 の 巻 八 ・ 九 ・ 十 の 散 逸 を 歎 き 、 『 遍 照 発 揮 性 霊 集 補 闕 鈔 』 を

じ る こ と が で き た こ と 、 さ ら に は 空 海 の 著

目 録 を 済 暹 は 『 弘 法 大 師 御

書 目

』 と し て 編 じ て い る こ と

は 、 ま さ に

室 の 後 ろ

が あ っ                 ( 7 ) た れ ば こ そ で あ ろ

(11)

御室と教学研 究 (堀 内)  

暹 が そ の

を 歎 い て

上 げ た 『 遍 照 発

性 霊

補 闕

』 三 巻 を 編

す る の に あ た っ て 、

々 な 場 所 ・ 蔵 、 そ れ が 王 家 の 宝 蔵 で あ っ た

、 あ る い は 藤 氏 長

の 宝 蔵 等 に 、 所 蔵 さ れ て い る 証 本 ・ 写 本 を

た 上 で

討 し 、 作 り 上

た も の で あ る こ と は

に 難 く な い 。   こ こ に 注 目 す べ き 目 録 に 、

門 文 庫 所

『 小 野

蔵 目 録 』 が あ る 。 こ の 目 録 の

書 に は 「

安 三

十 月 廿 五 日 於                 ( 8 ) 醍

辺 書 写 了 、

」 と あ

、 仁 安 三

六 八 ) に 書 写 さ れ て い る こ と が

さ れ て い る 。 こ れ ま で 、 こ の 目 録 は 小 野 僧 正

海 の 入 滅

に 編 纂 さ れ た 、 随 心 院 ( 曼 荼 羅 寺 ) に あ る

め ら れ て い る 聖 教 目 録 と 考 え ら れ て き た 。 し か し 、 栄

( = 一 七 八 〜 一 三 四 七 ) 撰 『 真 言

』 巻 六 「 範 俊

」 の 記 述                                                                 ( 9 )    

俊 ノ 相

法 門 十 二 合

具 等 ヲ 以

院 二 進 シ テ 、 鳥 羽 宝 蔵 二 納 メ リ 。 を も と に 上 島

 

博 士 は 考

を 加 え て 当 該 目 録 所 載 聖 教 は 目

が 書 写 さ れ た 仁 安 三 年 に は 随 心 院 ( 曼 荼 羅 寺 ) に                                                                               ( 10 ) 保 管 さ れ て い る の で は な く 、

羽 の 宝 蔵 、

な わ ち

羽 勝 光 明 院 宝 蔵 に 納 め ら れ た と し て い る 。 当 該 目 録 で は 、 弘

大 師

が 六

雅 ( 八 〇 一 〜 八 七 九 ) に よ る も の が 一 手 筥 、 般

僧 正 観

( 八 五 三 〜 九 二 五 ) に よ る も の が 二

、 そ し て 仁 海 に よ る も の が 四 手 筥 他 に 四 つ の

子 が あ っ た こ と が 示 さ れ て い る 。 さ ら に 、 こ の 目 録 で は 空 海

の 聖 教 に は 「

手 跡 」 と

記 が な さ れ 、 経 論 儀

を 中 心 に そ の

四 十 五 を

え て い る 。 そ の 「 御

跡 」 と 註 記 が な さ れ て い る 中 に 、 い わ ゆ る 空 海 の

著 作 は 目

に は あ げ ら れ て い な い が 、 四 つ の 厨 子 の 中 に は 「 顕

二 教

」 ・ 「 弁 顕

二 教

」 ・ 「

言 即 身 成

」 ・ 「 秘 蔵 宝

」 ・ 「 般 若 心

鍵 」 ・ 「 三 教 指 帰 」 ・ 「 遍 昭 性 霊 集 一 帖

」 ・ 「 弘

師 請 来

」 ・ 「 吽 字

」 と い っ た 空

撰 述 の も の が 所 蔵 さ れ て い た こ と が 示 さ れ て い る 。 こ れ ら が

蔵 さ れ て い た 随 心 院 ( 曼 荼 羅 寺 ) は 、 仁

承 の

で は あ る が 、 あ く ま で も 真 言 宗 の 拠

院 で は な い 。 こ れ に

し て 、 金 剛

や 東

と い っ た 真 言 宗 の

心 寺 院 に は 、 さ ら に

く の 空 海

の 著

等 が

蔵 さ れ て い た か も し れ な い 。 一 293 一

(12)

智山学報 第五 十六輯   こ こ で 、 『 小 野 経 蔵 目 録 』 に 記

さ れ た 聖 教 が 納 入 さ れ た 鳥 羽 の 宝 蔵 と 称 さ れ て い る 鳥 羽 勝 光 明 院 の 宝 蔵 に は 、 他 に ど

い っ た 聖 教 等 が 納 め ら れ て い た の で あ ろ

か 。 宝 蔵 が

さ れ て い た

光 明 院 は 、

羽 上 皇 御 願 に し て 保 延 二 年 (

三 六 V に 供 養 さ れ る も 、 残 念 な が ら 仁

二 年 ( 一 二 四 二 ) に 焼 亡 し て い る 。 勝 光 明 院 は 、 藤 原 頼 通 建 立 の 宇 治 . 平 等 院 を

し て 造 ら れ た と い わ れ 、 宝 蔵 に は 「 顕 密 之 聖 教 、

今 之 典

、 道 具 、

、 弓 剣 、 管 弦 之 類 、 是 皆 往 代 之 重 宝 也 」 ( 『 本 朝 世 紀 』 久 安 二 年 八 月 二 + 三 日 条 ) と 述 べ ら れ て い る よ

に 数 多 く の 宝 物 が 納 め ら れ て い た 。

鑁 も 、 鳥 羽 上

の 許 し を

て 、 こ の 宝 蔵 に 納 め ら れ て い る 聖

を 閲 覧 し て い る 。 で は 、 こ の 宝 蔵 に は 実 際 ど の よ

な も の が 納 め ら れ て い の で あ ろ

か 。 竹 居 明 男 氏 の 研 究 に よ れ ば 、 宝 蔵 に

さ れ て い た と

え ら れ る 空 海 に

す る も の を あ げ て み る と 、     恵 果

信 ・ 空 海 筆 灌 頂 歴 名 ・ 弘

大 師 可 被 授 灌 頂 於 伝 教 之

・ 空 海

請 曳 材 状 ・ 空

講 堂 図 帳 一 巻 ・     高 野 絵 図 一

・ 山 絵 図 一 帖 ・ 承 和 二 年 三 月 十 五 日

遺 告 一 通 ・ 伝 空 海 筆

告 ・ 飛 行 三

・ 空 海 自 筆 御 影 ・ 空                                                                       〔 11 )     海

善 女 龍 王 像 ・ 空 海

八 幡 大

薩 画 像 ・ 空 海 相

如 意 宝

・ 空 海

聖 教 二 合 で あ る 。 こ の よ

に 、 「 空 海 筆 灌 頂 歴 名 」 や 「 飛 行 一 二 鈷 」 、 俊 乗

も 欲 し た と さ れ る 「

海 筆 八 幡 大

」 、 院 の 近 臣 で も あ っ た 鳥 羽 僧 正 範 俊

20

三 八 〜 一

二 ) ・ 勝 覚 ( 一 〇 五 七 〜 一 一 二 九 ) と の 関 わ り が

摘 さ れ て い る 「 空 海 相 伝

宝 珠 」 な ど が 所 蔵 品 と し て あ げ る こ と が で き る 。   さ ら に 、 「 空 海 自

御 影 」 ・ 「 空 海

龍 王

」 を 、

が 鳥 羽 上 皇 よ り 賜 っ た と 「 上 人

起 』 は 述 べ て い る 。 『 上 人 縁

』 で は 、 そ の 「 空 海

善 女 龍 王 像 」 は 紛 失 し て し ま っ た が 「 空 海

御 影 」 は 、 三

二 十 一 日 の 正 御 影 供 の 本

と し て の み 出 さ れ 、 伝 法 院 に

置 さ れ て い る と 伝 え て い る の で あ る 。 そ し て 、 さ ら に 宝

に は 空 海

                    〔 12 ) の 聖 教 が 二 合 あ っ た と い

。  

羽 の 宝 蔵 は 、 済 暹 入 滅 後 の 建 立 で は あ る が 、

暹 が 活 躍 し て い た 時 代 に も こ れ ら の 聖 教 は お そ ら

存 在 し て い 一 294 一

(13)

た は ず で あ る 。 そ の よ

な 状 況 の も と で 済 遲 が 宗 祖 の 著 作 目

を 著

場 合 に は 、 か の 『 遍

発 揮

霊 集 』 が 散 逸 し て い る 状 況 を

え れ ば 、

暹 は

く の 証 本 ・ 写 本

調

査 を お こ な っ た 上 で あ る こ と は 十

せ ら れ よ

。 そ の 調 査 研 究 に 、 御 室 の

・ 権

を 用 い る こ と が で き る と い

こ と は 、

暹 に と っ て 非

に 有 益 な

柄 で あ っ た と 思 わ れ る 。   ま た 、

作 目 録 を 編

す る と い

こ と は 、 す な わ ち

の 広 が り を 限

す る こ と で あ り 、 空 海

学 を

す る と い

こ と で も あ る 。 特 に 、

暹 、 さ ら に は 御 室 が 空

の 著 作 を 聖 典

し よ

と す る 意 図 や

能 が こ の 目 録 編

に は 込 め ら れ て い た と も 推

る こ と が で き る 。 御 室 と教学研 究 (堀内)

 

                                 

 

 

 

 

                                         

 

 

 

 

    ( 13 )   さ ら に 教 相 研 究 を

が 後 押 し し て い た こ と が 、

天 版 高 麗 続

経 の

来 に よ っ て

い 知 る こ と が で き る 。

天 と は 、 高 麗 王

十 一 世

四 王

で あ り 、 こ の 王 子 を 中 心 と し て

麗 の 仏 教 は 大 き な 発 展 を 遂

た の で あ る 。 そ の 義 天 が 、

版 一 切

の 影

て 一 〇 九 一

よ り 逐 次 刊

開 始 し た の が 、 高

蔵 経 で あ る 。 こ の

経 を 刊 行 す る の に あ た っ て 義 天 は

の よ

な 書

を 日 本 に 送 っ て き て い る 。    

日 本 国 諸 法 師

集 教 蔵

   

白 、 諸 善 友 縁 、 本 国

仏 教 日 已

開 元

、 智 昇 所 撰 、 貞 元 続 開 元 釈 教

、 円

撰 、 両 本 所

                                 

 

 

 

 

                      ( 14 )    

論 等

 

新 翻 経

、 総 六 千

巻 並 巳 彫 口

、 自

聖 ( 以 後 欠 ) と 、

状 の 後 半 部 分 が 伝 わ っ て い な い の で

細 は 不 明 で

る が 、

天 が 日 本 の 仏 教 界 に 「

疏 」 を 求 め て い た こ と が わ か る 。 こ の 書

に よ っ て 、 日 本 仏 教

天 に よ る

麗 続 蔵 経 の 刊 行 が 計 画 さ れ て い る こ と

り 、 そ の 刊 行 一

295

(14)

智山学報 第 に よ っ て 新 た な 経

の 輸 入 が 考 え ら れ て い た の で あ る 。 実

に 、 現 在 日 本 伝 来 の

麗 続 蔵

に つ い て 八 本 の 論 書 が

認 さ れ て い る 。 そ の 中 に 、 そ の 伝 来 に

目 す べ き も の に 『 釈 摩 訶 衍

通 玄 鈔 』 ・ 『 釈 摩 訶

論 賛 玄 疏 』 が あ る 。 い ま こ こ に 、 当 該 書 の 東 寺 観 智 院 所 蔵 本 と

山 寺 所 蔵 本 の

々 あ げ て み た い 。 ◎ 『

訶 衍 論 通 玄 鈔 』 観 智 院 所 蔵 本 倉 . 九 函 一 三 号 )   巻

四 奥 書     「 嘉 応

四 月 二 凵 」     正 二 位 行 権 中

言 兼 大 宰 府

藤 原 臣

   

和 寺

 

二 品 親 王

 

仰 遣    

使

国 請 来

長 治 二

五 月 乙 酉 五 月

旬 従 太    

使 奉 請 之 行 ◎ 『

訶 衍 論 賛 玄 疏 』 観 智 院 所 蔵 本 ( 二 九 函 六 号 〉    

五 奥 書     正 二 位 行 権 中

言 兼 大 宰 府 帥 藤 原 臣

   

禅 定 二 品 親 王 仰 遣 使 高 麗 国 請

    即 長 治 二 年 五 月 乙 酉 五 月 中

従 大 宰

使 奉

之 ◎ 『

訶 衍 論 賛 玄 疏 』 高 山 寺 所 蔵 本 巻

五 奥 書    

云 正 二 位

権 中 納 言 兼 太

帥 藤 原

臣 季 仲

仁 和                    

 

 

 

 

                                         

 

 

 

 

      ( 15 )    

定 一 品 親 王 仰 遣 使 高 麗 国 請 来

 

治 二

五 月 乙

五 月 中 旬

 

従 太 宰 差 専 使 奉 請 之 ( 以 下 略 ) と 、

書 に は 請 来 に 関 し て 同 一 の 内 容 を

え て い る 。 す な わ ち 、 『 釈 摩 訶 衍 論 通

』 と 『 釈 摩 訶 衍 論 賛 玄 疏 』 は 、 一

296

(15)

御室と教学研究 (堀 内) 長 治 二

〇 五 ) 五 月 、 仁 和

三 世 中 御 室

王 の

頼 に よ っ て 、 太 宰 府

仲 が 太 宰

麗 に 使 い を 遣 わ し て

し た も の で あ る 。 そ も そ も 『 釈

通 玄

』 は

が 、 『

玄 疏 』 は

が 、 遼 ・ 道

の 命 に よ っ て 各 々

し た 『 釈 摩

衍 論 』 の 註

書 で あ り 、 一 〇 九 八 年 に 刊 行 さ れ て い る 。 そ れ が 、 七 年 後 に は 日 本 に 伝 来 さ れ 、 し か も そ れ を 御 室 で あ る

行 法

王 自 ら

め て い た と い

の で あ る 。   ま た 、 遼 の

苑 が

し 、 一 〇 九 五 年 に 刊 行 さ れ た 『 大 日

釈 演 密 鈔 』 も 刊 行 ま も な く 請 来 さ れ て い た と 考

ら れ て い る 。 こ の 『 大 日

釈 演

』 は 、 華

教 学 か ら 『

日 経

釈 』 を 解 釈 し た も の で あ り 、

暹 も そ の

に つ い て

目 し て い た の で あ る 。 す な わ ち 、 済 暹 の

作 ( 『 真 言 + 六 玄 門 大 意 』 ) に は 、 「 此 れ 演 密 鈔 の 師 の

也 」 ・ 「

                                                                    ( 16 ) 密 の 義 門 」 と

暹 が 『

日 経 義

演 密

』 を

し て い る こ と が 示 さ れ て い る 。 さ ら に 、 『

』 の 請 来 に つ い て 、 高 山

『 秘 宗 教

鈔 』 巻 八 の

書 追

に は                                                   ( 17 )     演

抄 覺 苑 師 作

 

南 院

覺 樹 請 来 也

 

十 帖 文 也 と

南 院 僧

樹 ( 一 〇 八 皿 〜 一 一 三 九 ) が 『

日 経 義

演 密 鈔 』 を 請 来 し た と

え て い る 。 そ の 覚 樹 は 『 上 人

起 』 に よ れ ば 、

鑁 が

し た 人

と し て 挙

ら れ て い る 。   覚 樹 が

し た

南 院 は 、 三 論

の 本 所 で は

る が 、 理 源

聖 宝 ( 八 三 二 〜 九 〇 九 ) に よ っ て 開 か れ た 東 大 寺

の 三 論 ・

言 兼 学 の 院

る 。 東

院 主 か ら は

く の 東

別 当 を 輩 出 し 、 東 大

で の 真 言

の 足 場 と な っ て い た 。

論 東

院 第

主 た る

樹 も 三 論 ・

言 教

め た 学

で あ っ た こ と は 想 像 に 難

な い 。  

樹 は 、 六 条 右 大 臣 ・

顕 房 の

で あ り 、 三 宝 院 大

( 一 〇 七 四 〜

四 九 ) や 、

河 院 が そ の

に と

す が っ た と い わ れ る ほ ど

愛 し た

子 ( 堀 河 天 皇 生 母 ) 、 覚

親 王 の 生 母 で

る 師 子 ら と は 兄

る 。 つ ま

、 仁 和 寺

四 世 高 野 御 室

法 親 王 ( 一 〇 九 一 〜 一 一 五 三 ) は 覚 樹 に と っ て

で あ

、 さ ら に

の 甥 の

顕 重 に は

際 に 『 釈 摩

衍 論 通

』 を

め た 藤 原

の 女 が 室 と な っ て い る 。 一 

297

(16)

智山学報 第五 十 六輯   さ ら に 、 藤 原 宗

( 一 〇 六 二 〜

四 こ の 『 中

』 長 治 二 年 十 一 月 十 九 日 条 、 覚

王 の 入 滅 に 際 し て 、    

王 誠 是 仏 日

華 、 法 門 之

梁 也 、 加 之 言 語 分 明 、 文

優 妙 也 、 云

体 、 云

性 、 誠 叶 大 器 、

之 威 満 天     下 、 名 聞 海 外 と 、 藤 原 宗 忠 は 覚 行

王 の 遺 徳 を

く 讃 え て い る が 、 そ の 中 で 覚 行

王 の

が 海

に ま で 及 ん で い た と 述 べ て い る 。 こ の 記 述 に よ っ て 、

行 法 親 王 が 海 外 と 交 流 し て い た こ と を 、

言 教

や 仁 和

と 直 接 関 係 の な い

原 宗 忠 ま で も が 知 っ て い た こ と を 示 し て い る 。 こ れ は 、 そ れ だ け 当 時 の 入 々 に 、 御 室 ・ 覚

親 王 に よ る 真 言 教

振 興 が 認 知 さ れ て い た 証 で も あ る 。   こ の よ う に 、 仁 和

に 係 わ り の あ る あ る 覚 樹 、 そ し て

室 た る 覚 行

王 に よ っ て

新 の 教

研 究 の 成 果 が 輸 入 さ れ 、 そ れ を

ぐ に

ら の

に 取 り 入 れ て い る 。 ま た 、 こ の

請 来 に 際 し て は 、 相 当 の

用 が か か っ た と 考 え ら れ 、 そ の 費 用 を 御 室 が 負 っ て お り 、 経 済

押 し を も

室 が お こ な っ て い た と 思 わ れ る 。   さ ら に 、 「 御 室

承 記 』 の 覚 行 法 親 王

で は     同 院 令 居

修 学

                                                              ( 18 )    

和 四

四 月 十 九 日 癸 卯 令 居

修 学 者 、 宛

日 供 、

頭 厳 意 得

と 述 べ ら れ て い る 。 す な わ ち 覚 行

親 王 の 住 房 で あ る 北

に 「 修 学 者 」 が 置 か れ 、 そ の 学 頭 に

意 と い

が あ た っ て い た と い う の で あ る 。 こ の こ と は 、

ら の 院 家 に 「

学 者 」 ・ 「 学

」 と い

的 な 立

の 者 を 置 き 、

の 整 備 を 覚

親 王

っ て い た こ と を 伝 え る も の で あ る 。 こ の よ

ら の 住 房 に お い て 、 修 学 の シ ス テ ム を 構 築 し た り 、 こ れ ま で 述 べ て き た よ う な 様 々 な 形 で 、

室 が 仁 和 寺 圈 で の 教

研 究 の 振 興 に 寄

、 そ し て

し て い た の で あ る 。   次 に 、 高 麗 大 蔵 経 の

入 、

な わ ち 、 大 陸 と の い わ ば

貿

と 御 室 と の 関 わ り 合 い を

て み た い 。 仁 和

第 四

298

(17)

御室と教研 究 堀 内) 野

法 親 王 の

を 伝 え て い る 『 御 室

記 』 に は 、  

 

 

院 被 進 鸚 鵡

 

 

十 一 月 廿 日 庚 辰 被 進 之  

 

庄 進 孔 雀

 

 

 

 

 

                                         

 

 

 

 

                  ( 19 )  

 

四 年 三 月 廿 七 日 乙 酉

 

進 之

 

 

院  

御 召 也

 

叡 覧 以 後 返 給

 

仍 賜

慶 了 と 、

鵡 と 孔 雀 に つ い て の 記 述 が あ る 。 こ の

述 に よ っ て 、 日 本 国 に は 生 息 し な い 鸚 鵡 や 孔

を 院 、 す な わ ち 鳥 羽  

 

 

 

 

                                         

 

 

 

 

      ( 20 ) 法 皇 や

法 法 親 王 が 強 い 関 心 を 抱 い て い た こ と が わ か る 。

部 英 雄 博 士 の 研 究 に よ れ ば 保 元 の 乱 の 藤 原

の 日 記 『

記 』 や 、 平 治 の 乱 の 信 西 ・ 藤 原 通 憲 ( 一 一 〇 六 〜

五 九 ) が 編 纂 し た 『 本

世 紀 』 の 記 述 な ど か ら 、 久 安 三 年 か ら 四

の 二

間 に 三 羽 の

が 日 本 に

し て い る こ と 、 ま た 、 『 御 室 相 承 記 』

の 杵 嶋 庄 が 、 有 明 海 に 面 し た 肥 前 国 杵

庄 で あ る こ と 、 そ の

嶋 庄 に 日

貿

が 到

し て い た こ と を 明 ら か に さ れ て い る 。 こ の 杵 嶋 庄 は 肥 前 国 杵

郡 に あ っ た 荘 園 で 、 平 安 か ら

を 通 じ て 仁

寺 の 支 配 が な さ れ て い た 。 こ の 有 明

し た 仁 和

係 の 荘 園 に は 伊

・ 高 来 庄 、 そ し て 鹿

津 を

す る 藤 津

な ど が

在 し て い た 。 特 に 藤 津

は 、 覚 鑁 の 誕 生 の 地 で 有

で あ る が 、 日

貿

易 の 観

か ら す れ ば

っ た

姿

が 見 え て く る 。 服 部

士 の

摘 で は 、

・ 杭 州 を 出

し た 宋 船 は 、 五

島 に

す る が 、 玄

灘 は 元 寇 が 示 す よ

に 波 が 高 い 難 所 で あ っ た 。 太

域 で の

る 者 や 、 博

に 入

で き な か っ た

船 は 、 内 海 の 穩 や か な

明 海 に 入 港 す れ ば 問 題 は な か っ た 。 そ の 有 明

の 重 要 な 地 点 に 、 仁

寺 は

園 を 有 し て い た の で あ る 。 そ の

園 か ら 仁 和

は 、

々 な

、 情 報 を

に し て い た の で あ る 。 御 室 は 、

ら に

を も た ら す 海 を

知 し て い た の で あ る 。   ま た 、

和 寺 に と っ て

雀 は 重 要 な 意 味 を

っ て い た 。

な わ ち 、 大 御 室 性

法 親 王 が 得 意 と し た

に 、 孔 雀 経 法 が あ

ら れ て い る 。

述 の よ

に 治 暦 三

二 〇 六 七 ) そ の 当

は ま だ 東 宮 で あ っ た 後 の 後 三

薬 御 祈 一

299

(18)

智 山 学 報 第五十 六輯 の た め に 、 閑 院 殿 で 性 信 が 修 し た の が 孔

経 法 で あ る 。 以

、 仁 和 寺 に と っ て 孔 雀 経

は 重 要 な 修

の 一 つ に な っ て い く 。  

( 一 〇 九 七 〜

六 四 ) の 『 勝 語 集 』 に は 、 仁 和

に は

原 道 長 が 施 入 し た

本 の 孔 雀 明 王 像 一 幅 が あ っ た が 、 陽 明 門 院 ( 禎 子 内 親 王 ) の

経 読 経 の

に 、 不 注 意 で

し て し ま っ た こ と を 伝 え て い る 。 父 二 二 条 天 皇 と し っ く り い っ て い な か っ た 道 長 が

入 し た 孔 雀 明 王 像 が 、 後 三 条 天 皇 の 国 母 で あ る 陽 明 門 院 ( 禎 子 内 親 王 ) の 読 経 の 際 に 焼

し た い

の は 不 思 議 な 巡 り 合 わ せ を 感 ず る こ と が で き る 。   こ の 道 長 施 入 の 一

が 焼 失 し て し ま っ た た め に 、 お そ ら く

し い 孔 雀 明 王 像 が 求 め ら れ た の で は な い だ ろ う か 。 そ し て そ れ が 、 現 在

蔵 で 、 国 宝 に 指 定 さ れ て い る 十 一 世 紀 、 北 宋

の 中 国 画 の 孔 雀 明 王 像 で は な い だ ろ

か 。 新 た な

雀 明 王 像 は 、 羽 を 広 げ た 孔

は き わ め て 写 実 的 で 、 図 像 的

味 合 い か ら 一

抜 け 出 し た 名 品 と さ れ て い る 。 ま さ に 、 院 政 期 に

室 の 意 図 に よ っ て 、 こ の

雀 ・ 鸚

、 そ し て 孔

明 王 像 も 日

貿 易 に よ っ て 仁 和

に も た さ れ た 富 の 一 つ で あ っ た の で あ ろ

。 一

300

 

 

 

  以 上 の よ う に 教 学 研 究 に お い て 御 室 の 果 た し た

は 大 き い も の が あ っ た と 思 わ れ る 。 政 治 的 ・

済 的 に も 御 室 は 、 院 の 宗

的 分

で あ り そ の 庇

の 許 に 済 暹 ・

助 ・ 覚

と い っ た 学 匠 が 、

相 ・ 教

に わ た っ て 様 々 な 研 究 を お こ な い 、

を の こ し た の で あ る 。 そ の 研 究 を ま さ に

に 陽 に 支 え た の が 、 御 室 で あ っ た 。 大 御 室 性

王 の 政 治 的 立

の 変 化 が 、

和 寺 御 室 の 性 格 を 大 き

変 え た こ と に な っ た と い え よ

々 な 修 法 を 行 い 、 王 家

持 を

っ た

は 、 弘 法

の 再 誕 と 称 さ れ る ほ ど で あ っ た 。

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