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龍谷大学学位請求論文2003.03.15 島村, 健司「横光利一の文学 ―表象とメディアの相関性―」

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二 年八月 二 十 一 日 提 出 博 士 山 子 位 申 請 論 文

横光利一の文学!表象とメディアの相関性

l

龍谷大学大学院文学研究科 日本語日本文学専攻 研究生 L02R526 島村健司

(2)

メ 文

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(3)

航光利 の 文 学 │ 表 象 と メ デ ィ ア の 相 関 性

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目 次

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第一章 は じ め 本 論 文

主 旨 第二章 第三章 投 稿 ー 文 壇 と の 結 節 点

l

10 選者とその評価軸 選評と投稿作との関連性 ﹃文章世界﹄の対・投書家戦略 四 ﹁ 文 枇 誌 友 ﹂ の投書家共同体 投書家共同体の転換点 31 /、 文岨との結節点 3/i 翻訳の受容と改編

l

﹁美しき裏切(クライスト作)﹂の典拠とその変容

l:

11 翻訳の受容と改編とを問う前提 翻訳をめぐる状況 16 発表媒体の小特集 50 四 翻訳の受容 53 五 翻訳の改編 59 _.1._ /、 改編の周縁 63 ー 観 客 と 読 者 │ 受容者へのまなざし 17 22 26 9 4:~ 67

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第 四 章 ﹁ 愛 の 扶 拶 ﹂ の背景と方法 6.9 ﹁ 愛 の 挨 拶 ﹂ 6.9 の問題性 作 中 説 72 の位相 戯山としての強度 78 四 戯曲と小説という異なる表現形式の交詑地点 ﹁機械﹂における

.

.

一 日 n H ﹂ 一 H K ﹁ 私 ﹂ の企図と読者への通路 ﹁ 私 ﹂ は何を語りたかったのか 88 ﹁私﹂が語ろうとした内容 .91 ﹁機械﹂と探偵小説との近接性 .95 読者への通路 .98 ﹁ 寝 闘 ﹂ 音 声 映 像 メ .ア イ ア と の 葛 藤 と 協 107同

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〉 ﹁声﹂を捕く機構 一 ・ 四 ー 新 聞 小 説 │ 107 112 を揃くことの問題性 対 照 さ れ る ﹁ 声 ﹂ と 116 ---, 文

.

﹁声﹂を描く方法 電話という音声メディアを通して描くこと 88 82 105 J19

(6)

第 五 章 第 六 章 ﹁声﹂を描くことの限界あるいは可能性 ﹁家族会議﹂を発 声 映嗣から考える

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﹁家族会議﹂映画化の背景

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劇的空間性とセリフの問題

m

A W J V , J

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-四 二 ・ 五 五 ﹁ 寝 間 ﹂ のなかの ﹁ 十 六 夜 ﹂ 121 129 111 ﹁ 家族会議 ﹂ 118 ノ、 電話を通した会話の構成 視覚と聴覚の表現の交差地点 メディア・イベントのなかの 婦人雑誌との交錯│﹃春圃﹂と﹃主婦之友﹄との関係性

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m M 存 閣 と =;J 主 婦 之 友 155b o と の 問 題 性 ﹁和国﹂成立の背景 四 ﹃主婦之友﹄に寄り添う﹁春園﹂ ﹃主婦之友﹄に絡みとられる 春 闘 173 ﹃主婦之友﹄と離反する 五 ﹁ 春 闘 ﹂ ヲ ' ' 勿 , , , J 文 学 の 再 生 産 読者へのまなざしの分岐点 ﹁薗﹂と﹁笑はれた子﹂の受容史

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.... /、 151 162 169

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お わ 210 り 1主 参 考 文 献 初 出 一 覧 ﹁ 失 は れ た 子 ﹂ 受 容 史 と し て の 問 題 性 新 た な 収 録 線 路 の 発 端 の 収 録 状 188況 H U J J -ifij 」 ー と 児 文 学 1.9.1の 相 隈

l

1"1: Ji ジ ャ ン ル の 狭 間 川 生 産 の 場 と し て の 出 版 メ デ ィ ア /、 182 186 18.9 1.95 ー 本 論 文 の 軌 跡 と め ざ し た と こ ろ

l:

198 26'0 216

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{?IJ 本論文で取り上げた横光利一の作品は、基本的に初出および初版を使用しているが、﹃定本横光利一全集﹄全日巻と補巻、河出 番一民一新社から山版されたものを参照している。第一巻・昭和田年 6 月、第二巻・同年 8 月、第三巻・同年 9 月、第四巻・同年叩月、 第五巻・同年日月、第六巻・同年ロ月、第七巻・習年 1 月、第八巻・同年 2 月、第九巻・同年 3 月、第十巻・同年 4 月 、 第 十 一 巻・同年 5 川、第十二巻・同年 6 月、第十三巻・同年 7 月、第十四巻・同年は月、第十五巻・翌年 4 月、第十六巻・昭和田年ロ月、 補巻・平成川年

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月発行。なお、本論中では﹃定本全集﹄第何巻に所収というかたちで略記した。 一、作品名・本文語句の引川を一不すのには一重鍵括弧を用い、紙誌ならびに単行本を示す場合には二重鍵括弧を用いて、それぞれ区 別した。主た、論者の強調語句ならびに使用された訴句の意味が一般と異なると思われるものについては、一重鍵括弧を用いた。 なお、木論中で引川文献を明記する場合ならびに論者の簡単な注解は一重丸括弧を用いた。 一、引用文献ならびに参考文献について記す場合、書物のときは著者(編者)・書名・出版社・発行年月の順とし、雑誌のときは論者 名・論題・伺載紙誌・発行年月ロヴ(新聞の場合は月刊)の制とした。なお、年号はすべて元号で統一した。 一、本文ならびに研究文献・資料の引用については、比較的短いものに関しては行中に一軍髄括弧をつけて引用し、三行以上にわた る場合は位一抗弧をつけず、れを改め一行あけて二字下げにして引川した。また、本文引用について、体裁等により改行箇所を圧縮 した部分についてはスラッシュ(/)を用いて明示した。 一、引用した本文の仮名遣いについては、引用文献のとおりとし、漢字については基本的には常用漢字表にあるものは、その字体に 改めた。また、本論中で注記したものもあるが、引用文献にルビのあるものはルピを省略した。 一、数字の災記について、本論中では漢数字を用い、一重丸拍弧内ならびに注、参考文献では基本的にアラビア表記を用いた。 注はすべて後世とした。 、 、

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は じ め に │ 本 論 文 の 主 旨 │ 航光利 一 の文学研究は、 人文系の研究モ

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ドと続接な関わりをもちながら、多備に展開している。 そのなかで も、とくに近年は文化研究との関わりから、社会学・照史学等の方法論と相まって、 文学研究のなかで横光の文 学をどう掬い上げてくるのか (掬い上げられないのか)、また、超克していけるか ( い け な い の か ) 、 といった問 題意識が般底にあるように忠われる。 現介刊の横光文学における研究情勢のなかで、考えてみなければならないのは、大正期から第 二 次世界大戦終結 庇後まで小説家として生きた横光の作品や言説を、当時の文化状況に差し戻して考察するということが最要なの で は な く 、 当時の文化状況に差し戻すことによって、現在から問えることより現在を問うことへと転換していく 方向性だろう。 本論文の目的は、 こうした問題意識に立ち、航光の文学をまずは ﹁ 表 象 ﹂ としてとらえることから出発する。 ﹁ 表 象 ﹂ と は 、

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口、再現・抽出・代表・現前などと訳され、思想的に最も古 い川訟の一つといわれるが、 その内容は賠史的に強調点が移行しつつ川いられてきた。さまざまな思想家・哲学 山本によって刑法も異なるが、 こ こ で は 、 ある物事・出来事が (再)現前化されたものとし、 対象と現前化された ものとの指示的関係に、意味作用がはたらく以前の段階としてとらえておきたい。この基盤となっているのは、 1

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スディ

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ヴ ン ・ J ・グリーンブラッドのとらえ方である(グリーンブラッド編﹃寓意と表象・再現﹄ ( 叢 書 ウ ニ ベ ル シ タ ス 仰 ﹀ 2 船 倉 正 憲 訳 、 法 政 大 学 出 版 局 、 平 成 6 年 3 月 ) 。 これを前提として、償光の文学が 言語 を通して物 事 を ( 再 )現前化して いる機榔を考えるということである。また、本論中でしばしば用いる ﹁ テ ク ス ト ﹂ ということばも多義的な解釈 を許すものという立場から、そうした解釈を許存ずる以前のものとして、表象の延長線上でとらえている 。 ﹁ 作 品 ﹂ については、 テクストに対してすでに何らかの意味作用がはたらいているもの、 とりわけ作者との関わりが意味 生成されたものとして用いている。

*

こうしたことを考えるに際し、 メディアの視角から意味作用のはたらく場を考える 。 というのもメディアはあ らゆる的報伝達に関わってくるものだが、当然、横光の作品も発表媒体を通して眼の前にあらわれてこない限り、 それを読むことも論じることもかなわないことか、りすれば、 メディアとの相関性を考慮する必要があると忠われ るからである。 メディアはまったく透明なものではない 。 システムとして立ち 上 がってくるメディアには、 それ に携わる者や社会的事象から特質がかたちづくられる。受容者の前に、 ある表象があらわれるとき、すでにそう した要素が加わっているのである。 こうしたことを述べる前に、 そもそもメディアとは何かという問題を杷擁しておく必要があるだろう。 一向民こ -AI メ J アイア ( 目 。 佐 川 凶

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の複数形) lま ﹁媒体﹂(情報術体)と訳されるところから、 ﹁情報を伝えるための﹃導 管﹄もしくは情報の﹃乗り物﹄﹂(渡辺武遥﹁メディア学とは何か﹂山口功二・渡辺武逮・岡満男編﹃メディア学の現在︹新版︺﹄世

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界 問 山 畑 山 社 、 平 成 川 年 4 刀 に 所 収 の 第 1 章)そのものとされる。 ただ、近年の解釈は多義的に広がり、定義自体もあいま いになってきているが、水野間介﹃メディア・コミュニケーションの理論│構造と機能 l ﹄ ( 学 文 社 、 平 成 凶 年 4 月 ) はそうしたことを断まえつつ、 メディアの多義的な使用をわかりやすく整即している。少々長くなるが、 本論文 とも関わる.史所なので引川しておく。 、 ︼ ノ r ﹄ 、 , 、 均 、 , , 日 ど い F , カ O -﹁発信者﹂。個人を主に考察するコミュニケーション論では、 ﹁情報﹂を創出・加工し、送出する 通例﹁送り手﹂ と呼ばれるが、集団や組織を念.頭に置くマスコミ論ではむしろ と呼ばれること ﹁ メ J プ ィ ア ﹂ * 、 , ﹂ y 、 。 4HM 必 升 J l v ②直接的に受け手が胤間作したり、取り扱ったりする﹁(情報)装置﹂(ハードコピーを含む)、言い換えれば﹁ハ l 品 、 ‘ 、 r t h 、 ‘ J 1 1 ﹂ J J l i v -- ﹁ イ ン タ ー フ ェ イ ス ﹂ 。 (受像機)や新聞(紙)や雑誌そのものを ﹁ メ J ア イ ア ﹂ 日常的に、テレピ と呼ぶことが多い。最近では、 インターネットなどのネットワークの一部を担う端末としての ﹁コンビュ! ク﹂・も﹁メディア﹂と呼ばれることが哨えてきた。 ③そのような情報装慨において利用される利用技術や情報内容、 つまり﹁ソフト﹂。これは、利用者(受け手) が発信者から送られることが多い。購入する場合も、実は発信者から流通経路を経て得たと考えうる。

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liじめに 山 り ヂ ﹂ 斗 ﹂ 問 、 , r a -- -- t u - - 町 ・ たとえば新聞・雑誌の記事やテレビ帯組、 コンピュータのプログラムなど 映画作品やグ

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ム 作 品 、 を指して ﹁ メ J ア イ ア ﹂ と呼びうる。 3

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@附開﹁発信者﹂と端末﹁装置﹂あるいは利用者(受け手)とを結ぶ﹁インストラクチャー(社会基盤ごもし 4 くはそれに市ずる﹁流通経路﹂。具体的には、電波回線や屯話同線、あるいは道路や鉄道などである。場合に よっては、人と人が出会う広場や都市のような﹁(物理的な)場﹂を指して、﹁メディア﹂と呼ぶこともある。 そ し て 、 これらの項目は密接に関わり合っているとされる。 本論文はメディアを視角とするが、前述引用の範鴫を逸脱するものではない。それを前提に、とくに活字メデイ ア(新聞・雑誌・書物・出版など活字に関わって伝達されるもの)を中心とし、これに影響を及ぼす範囲で音声(音響)メデイ ア ( 電 話 ・ レ コ ー ド ・ ラ ジ オ な ど 音 や 声 を 伝 達 す る も の ) 、 映像メディア(とくに映画)を取り上げる。横光と関わって後述 す る が 、 これらはとりわけ伝達内容の違いから分類されることの多い媒体であり、 一 九 二

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年代から三

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年代に

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亡 、 J ι ' t v マス化していくメディアであることに者目する。 ここには現在のメディア環境が整う基本的な状況が凡 出せると考えるからである。現在の I T ( F P E E D ロ J F n v g z 坦/情報妓術)環境の仰張をこれまでとは異なるメディ ア状況の山現ととらえる論調もあるが、 それらの技術的な基盤はまったく新しいというわけではない。改良・く みかえ・辿係が必本となり、 システムとして革新的な状況が立ちあらわれてきたものといえるだろう。

*

さ て 、 それでは横光の文学をメディアの視角から論じることの必然性は、 どういったところにあるのか。 文字によって伝達される文学は発表媒体なしには成立しえず、 近代化にともなう印刷技術の向上によって新

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4 間・雑誌・単行本など、分化した出版形態の普及を促す結果となった。これとともにレコードやラジオなどによ る音声・音響、 写 真 ・映耐のような映像によるメディアが発明される。これらが大衆的に認知され幣及していく 大正期から第二次世界大戦終結直後にかけて、 文字によって表現することを試みた横光が具体的な作家活動をは じめるのは大正中期からである。この頃から新聞・雑誌の発行部数は飛眼的に伸びる。運輸網の発達や高速度輸 転機、多色刷りオフセット印刷機などの整備から、大最印刷の技術が向上し、 出版物を消費する読者数も急噌す る。こうした出版物と関わるかたちで償光は懸賞小説に応募し、自作が活字となって流通することによって、 説家としての道を歩みはじめる。また、ガリ版・印刷請け負い業によった自費出版のものなど、同人誌発行のブ

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ムを呼び起こすのだが、 ここには大衆の消費欲をかき立てた ともいわれた時代背氏がある。航 ﹁ 出 版 資 木 主 義 ﹂ 光 は ﹃ 文 芸 時 代 ﹄ これによって として文学界での知名度をあげたのは周知 ﹁新感覚派の競将﹂ の同人に加わり、 のとおりである。 のち代表作ともされる の提供を論じ論争 ﹁心理主義﹂小説﹁機械﹂、﹁純文学﹂と﹁通俗文学﹂ を呼んだ﹁純粋小説諭﹂、戦中戦後に書き継がれナショナリズムに加但したものとして批判もなされる未完作﹁旅 注目される表現者である。また、航光は抑捕的な意味も含んでいたとはいえ、志賀政哉の 悌﹂をしのぎ、﹁文学の神様﹂と称された時期もあった。その方法論は新興芸術派などに受け継がれていく。近年 愁 ﹂ な ど 、 ﹁小説の仲 で は 、 たとえば大江健 三 郎や井上ひさし、筒井康降などが航光の方法論的な尖践を評価しつつ、実作に活かして I;lじめに いることも知られている。 こうしたところから横光とメディアとの関わりが浮上してくる。折に触れてのちに詳述するが、 メディアに関 5

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わる横光の先行研究は、映画理論の応用としてテクストをとらえるものや、菊池寛とのつながりから﹃文芸春秋﹄ 6 との関係に触れたもの、﹁新感覚派﹂の視点から﹃文芸時代﹄との関わりに 言 及したものなどがある。しかし、極 めて部分的であり十分に論じられたとはいえず、統 一 された考察になっていないと忠われる。というのも、映画 理論との関連で論じられた作品は﹁則﹂﹁機械﹂などを対象としたわずかばかりの論考にとどまっており、また活 字メディアに関わっても、﹁新感覚派﹂期を中心としたものが散見できる程度となっているの 本論文では、 こうした先行研究を踏まえながらも、 これまでの横光研究で試みのなかったメディアの発展や浸 透その交錯や協同という視角から、横光を統 一 主体として、体系的に横光文学を考察する。 その際、表象に見出 せる意味作用にとどまらず、 その表象の背後にあるものを探りながら論じていく。なぜそのような表象が見出せ 、 , 、 局 、 F ? 刀 どのような経緯でそのような表象が生み出されてきたのか、 といった側面についても考察する。 そ れ は 、 表象が単に表象にとどまらず、何らかの意味作用とともに関係性を築いていくからである。こうした立場から論 考を進めていく際、 主に作品の発表された当初の同時代性を問うことになる。既述の前提から、表象に意味作用 がはたらく初形式、 そこであらわになる表象とメディアの相関性に焦点化し、 あ る 種 、 生成論的にとらえる必要 がある。なぜなら前述したこととも関わるが、 一 九 二

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年代から三

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年代にみえるメディア環境に、現在のマス メディア状況の基盤が透けてみえ、現在に派生する問題につながると考えるからである。

*

このような立場から、第一章では、横光が文壇作家以前に小説家をこころざしたその時点より、 活字メディア

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との葛雌がうかがえる点を考察し、 メディアとの接点の端緒となる一局而をとらえる。第二章では、第一章で償 光に浮上する方法論的な打開策が、 外国文学の翻訳の受容にあったことを前提とする。これまでの横光と外国文 学の翻訳との論調に限界をみるところから出発し、中心に論じることになるのは、翻訳山版物が大量に出回るよ うになったメディア状況下で誤訳などの問題が注視されるなか、航光がどのように翻訳を受容し、それを改編し そ の 一 端を考察する。また、改編の傾向からのちの京で取り上げる作品との関連性に言及する。 ているのか、 第三取では、 メディアの双方向性、 つまり送り手と受け手双方の関わりをまず前提とし、テクストそのものに みえてくる受容者へのまなざしを読み取る。それは、第四章で音声メディアの進出や映像メディアの新局面によっ て、受容者の読書空間が変容していくことに対処する文学テクストのありょうを考察することとも関わる。第五 章では、第四章で不特定多数の読者を抱える新聞小説に着目するが、 それとは逆向きに読者を特定化する発表煤 体である婦人雑誌に連載された小説を取り上げる。 第六市では、 出版とその流通という視点から横光没後の作品収録状況に蒋目する。作者不在の作品が収録され 出版されていくことの意味作用を考える。 はじめに 7

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稿

文壇との結節点

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本市がめざすところは、横光利一が文壇作家をこころざしはじめた﹁習作期(習作時代)﹂

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から、投書家とい 10 う立場で否応なく活字メディアと格闘していくことになった場を浮び上がらせることである。 そこで、航光が頻 繁に投稿した﹃文章世界﹄を焦点化して検討する。﹃文章世界﹄と繊光との関わりは、これまで触れられてきたと ころでもあるが、後述するような視点で論じられたことはない 2 ) 。すなわち、投書家という立場を考慮すれば、 横光の投稿作が選考を経ることによってどのような影響をこうむったのか、 そして、横光の投稿作にどのような 展開を見出せるのかを考える必要があるだろう。また、横光がなぜこだわったように﹃文章世界﹄ へ投稿してい るのか。選考によって左右され浮き沈みする投稿作であっても、投稿を繰り返させる情勢を誘発する﹃文章世界﹄ の戦略が問題になるだろう。 そして、横光が投稿のみに留まらず、 同人雑誌の発行活動に参加していくのはなぜ なのか。当選することによって活字化され文壇で問われる場を提供する投書雑誌と、 文麿作家をこころざす投書 家の結びつきによって形成される共同体、 そして文摘という三項の関係が、 一而的であるにせよ浮び上がってく るなかで、横光をとらえ直すことになるだろう。 選者とその評価軸 横光が ﹁ 蛸 ﹂ ( ﹃ 文 芸 春 秋 ﹄ 大 正 ロ 年 5 月号)﹁日輪﹂(﹃新小説﹄同年同月号)をもって、文壇の世評にあがる大正十二年 以前には多くの投稿作が確認できる。また、投稿とも並行するかたちで同人雑誌の発行活動に参加している。 、 個 、 ー ・

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の時期を ﹁ 習 作 則 ﹂ 的素材が多い。と とするのは定説ともいえる。 ﹁初期航光の作品世界には、 案外に ︿ 私 小 説 ﹀ りわけ肉親を素材にした習作的諸作には、航光の成長した環境が点綴され﹂るという栗坪良樹の 言 及 ( ﹁ 横 光 利 一 の 人 と 作 口 問 ﹂ ﹃ 鑑 賞 日 本 現 代 文 学 ⑭ 微 光 利 一 ﹄ 角 川 書 応 、 昭 和 同 年 9 月)は、この時期についての論考を概括するものといえるだ ろ う 。 この頃の作品に向き合うとき、 たがらこそ、 石間仁志がまとめているように ﹁作品の原点に作家側人の心 的体験の存在を附き、作中人物の中にその体験の痕跡と変容、昇華を見ようとしている﹂(﹁横光利一 ﹃火﹄論│︿家 族 ﹀ と エ ク リ チ ュ l ル ﹂ ﹃ 東 洋 ﹄ ( 東 洋 大 学 通 信 教 育 郎 ) 平 成 印 年

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月)という傾向につながる

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し か し 、 こうした作家個人 のみを絶対視したかたちではなく、投書家たちのなかから横光をとらえ直すことによって、前述した問題を検討 することができるだろう。﹁案外に︿私小説﹀的素材が多い﹂という 表 現の背後には、そうした問題の 一 つ が あ る 。 このような表現は、 ﹁新感覚派﹂を標梯し ﹁ 私 小 説 ﹂ に反駁していく横光の股開をかんがみて、遡行した のちに 地点からとらえたものだろう。すると、なぜ﹁習作的諸作﹂にはとりわけ﹁︿私小説﹀的素材が多い﹂ のかという 疑問 一 が浮び上がってくる。 ﹁作家個人の心的体験﹂ ここには単に という内発的な問題としてのみとらえることの できない側而がある。まず、 現在明らかになっている微光の投稿作を確認してお この問題を考えるにあたって、 こ hフ 。 j吐f品 ①﹁神馬﹂﹃文京世界﹄大正 6 年 7 月号 佳 作 筆 名 摘光白歩 買1一前 ②﹁犯罪﹂﹃万朝報﹄大正 6 年

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月 四 日 一四六回懸賞小説当選作 横光白歩 築 名 11

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③﹁野人﹂﹃文市世界﹄大正 6 年 U 月号 @﹁音楽者﹂﹃文市世界﹄大正 6 年 は 月 号 ⑤﹁活火山﹂﹃文京世界﹄大正 7 年 2 月号 ⑥﹁泰絵﹂﹃文京此界﹄大正 7 年 4 月号 ⑦﹁姉妹﹂﹃文章世界﹄大正 7 年 6 月号 ③﹁骨哉師﹂﹃文章世界﹄大正 7 年 8 月号 ⑨﹁平安﹂﹃文章枇界﹄大正 7 年 叩 月 号 ⑩﹁伝説﹂﹃文京世界﹄大正 7 年 日 月 号 ⑪﹁春憂﹂﹃文常世界﹄大正 7 年 は 月 号 ⑫﹁火﹂﹃文市此凶介﹄大正 8 年 8 月号 準 佳 作 12 横光白歩 標題のみ掲載 筆 名 h E b b -ロ ド 河叫山 HUM 引 横光白歩 標題のみ掲載 筆 名 準佳作 横光白歩 標胞のみ掲載 筆 名 準佳作 償光白歩 標題のみ掲載 筆 名 準佳作 横光白歩 標題のみ掲載 筆 名 佳 作 横光利 標題のみ掲載 筆 名 佳 作 横光白歩 標題のみ掲載 筆 名 佳 作 横光白歩 標題のみ掲載 筆 名 佳作 横光白歩 標題のみ掲載 筆 名 佳 作 横光左馬 標題のみ掲載 筆 名 ⑬﹁踊見﹂﹃時事新報﹄大正印年 1 月 5 日﹁懸賞短篇小説﹂当選作 償光の投稿は大正六年からはじまる足掛け五年間で十三作が確認できる(主。新聞に投稿された②﹁犯罪﹂⑬﹁踊 見﹂の二作以外、すべて﹃文章世界﹄に投稿されている。﹃文章世界﹄は近代の書物における流通システムの基礎 をつくったといわれる附文館から

5

、﹃中学世界﹄の後身として青年の文章修練の場を目的に明治三十九年 三 月 に創刊された。初代の編集兼発行人は田山花袋であり、﹁自然主義文学﹂の活舞台となったことでも知られる。①

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﹁仲馬﹂は﹃文章世界﹄投稿初の全編掲載作であった。﹁仲馬﹂を﹃文

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附界﹄に投稿したことの契機については 詳らかではないものの、明治の末には﹁誰であったか、当今の文壊で、﹃文章世界﹄ほど青年文士(主を養成して ゐる雑誌はない、と 言 っ た が 、 確 か に さ う で あ る 。 ﹂ ( ﹁ 九 雑 誌 を 併 す ﹂ ﹃ 文 京 枇 界 ﹄ 明 治 刊 年 3 月 号 ) と 徳 川 ( 近 訟 ) 秋 江 も 納 得した投帯雑誌であったことを考慮に入れれば情けないことではない。 ﹁ 大正則、昭和初期に文胞に出た人で、 たびこの雑誌に稿を投じようとしなかったものがあろうか﹂(川刷国法﹁文

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一 界 ﹂ ﹃ 文 学 ﹄ 昭 和 叩 年 は 月 号 ) と も 帯 か れ 、 事実の真偽はともかく、 こうした認識が広まっていたことが市要だろう。 それほど投書雑誌として﹃文市世界﹄ の知名度は高かったといえるだろう。 このように頻繁に﹃文市限界﹄ へ投稿するとき、 当選・落選の決定権をもっ選者によって示された選一昨は、 以 降の投稿作に影響を及ぼしていく。 外発的な川胞として投稿作に反映していくことになる。 そこでまず つ ま り 、 選者とその評価軌をとらえておこう。 横光が投稿を開始した大正六年には、 かわって翠月から中 花袋が 一 月号の附点で ﹁ 小 説 ﹂ 部門の選者を降り、 村星湖がその任に就いた。 また ﹁ 少 年 行 ﹂ ( ﹃ 早 稲

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文 学 ﹄ 旦湖は ﹁ 盲 巡 者 ﹂ ( ﹃ 新 小 説 ﹄ 明 治 四 年 1 月号)が懸賞 一 一 等 を 、 明 治 仰 年 5 月号)が長編小説募集の一一等当選を果たしたことによって文刷デビューを飾り、投書家から文府作家に なりえたことは、﹃文京世界﹄の投書家でもすでに周知のところであった ? ) 。 選者にすり寄った記述でもあるが 役 稿 ﹁氏(昆湖)は我々の先端で常に我々文章世界の投 書 家には同情を持って出られ(中略)新主観主義文芸の急先錦で 第一衆 す 。 ﹂ ( { 日 崎 飾 ﹃ 説 者 通 信 ﹂ 大 正 6 年 3 月号)と書かれるように、当の投 書家 らにとって信頼のおける選者だったのであ 13

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る。そして﹃文章世界﹄側からすれば、まさしく投書家から文風作家への経路を体現した星湖は、 文培作家をこ 14 ころざす投書家に投稿をいざなううえでも格好の人物であったといえるだろう。 投書家によって ﹁新主観主義文芸の急先錦﹂ とも称される足湖の文学的内実、 あるいは選者としての評価軸の 一 端 に つ い て 、 上司小剣を評した際に星湖自身が次のように記しているところからうかがえるE)。 そ の 頃 ( 引 用 者 注 │ ﹁ 飽 の 皮 ﹂ ﹃ ホ ト 、 ギ ス ﹄ 大 正 3 年 1 月が発表された頃) ﹀ ム 士 、

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手 l た y 巧みに写すといふやうな事 には飽きを覚えはじめてゐた。それ故、その作(引用者注│﹁鰻の皮﹂)をそれまでになく円熟した物、それまで になく厭味の無い物として褒め上げながらも庇した。作者その人を規はせるやうな何物も無いと言ふ理由で。 (中略)私が注文するまでもなく作者はその後、 以前にもまして自己を露出して来た。 ( ﹁ 材 料 の 二 一 三 ﹃ 文 章 世 界 ﹄ 大 正 6 年 5 月号 この引用から﹁作品﹂ と ﹁作者﹂を結びつけた地点で評価を下していたことがわかる。 ま た 、 ここで注目したい の は 、 ﹁ た y 巧みに写す﹂ という﹁自然主義﹂ に取り込まれていった ﹁ 写 生 ﹂ { 9 ) へ の ﹁ 飽 き ﹂ が ﹁ 作 品 ﹂ 刊 さ 者その人を窺はせるやうな何物﹂ かを求めていった経純である。 こうした傾向はおそらく星湖個人にのみ帰され るものではない。 横光が投稿しはじめた頃は ﹁ 自 然 主 義 ﹂ から﹁人道主義﹂ の方向へと文壇の新たな編成が起こったとされる時

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期 で あ る 。 ﹁あるがま、こを附くことに充足する ﹁ 自 然 主 義 ﹂ から、自己の理想的な方向を目指 つまり、自己の す﹁人道 主 義 ﹂ へと転換が行われていく時期であった。 もちろん、歴然とした移行がなされたわけではなかった ものの、﹁生活態度﹂や﹁人怖﹂が問われ、これらが﹁作品﹂と直結されるようなコードができあがっていくので あ る { 帥 } 。 ﹃ 文 市 附 附 介 ﹄ を ﹁小説﹂選者を退任したのは、 こうした文埴 の活舞台としていった花袋が同誌の ﹁ 自 然 主 義 ﹂ の状況を反映した象徴的な山来事だったといえるかもしれない。 そして、新たな選者となった星湖がこうした趨 勢を厳常に体現してはいないにしても、﹁小説も芸術である以上は、表現の形式を重んじなければならぬのは勿論 f-e 、語 、 4 A 4 H H それよりも作者の態度とその態度が生み出す作の内容との方が大切である。(中略)無反省な迎合は生活及 び芸術の邪道である 。 ﹂ ﹁ 投 稿 家 諸 君 へ ﹂ ( 大 正 6 年 2 月 号 )と題する選者着任の際の意向には、 ﹁ 作 者 の 態 と記した 度﹂﹁作の内容﹂と ﹁ 生 活 及 び 芸 術 ﹂ へさし向けていく内容が読み取れる 。 を 問 い 、 ﹁ 投 山 家 ﹂ ただし、こうした移行は必ずしも﹁自然主義﹂を否定したうえに成り立っているのではない。﹃文章世界﹄の雑 誌摂間では、 たとえば読者の質疑に対する応答や文 章 指導の役割を果たす﹁文 章 顧 問 ﹂ ( 無 記 名 ﹁ 写 生 か ら 象 徴 へ ﹂ 大 正 6 年 2 月号) の文章中では次のように記されている。 第 一 京 投 稿 芸術的素養が深くなり、観賞眼が発達するに辿れて、 吾 等は単なる写生に満足することが出来なくなるの 吾等の芸術欲は単なる﹃自然の模写﹄に、甚しく不満を感じて来る。此の不満こそ、 吾等として、形態上の 15

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模写を来てしめて、自然に依って与へられた心の幻、 即ち、印象や気分をも、併せて、描写せる芸術の世界 16 に導き入れる。 こ L に於いて、芸術は模造の域を脱して、創作の域に達する写生の内容も、 同時に 一 段の進 歩を遂げる訳である。何となれば、印象や気分を描くことに依って、 写生本来の目的は、 一層有効に実現さ れるからである。随って、﹃あるがま﹀﹄とか、﹃自然﹄とかいふものも、従来とは異った意味を有って来る。 このように次の段階へ進むためのものとして﹁写生﹂をとらえ、﹁もっと複雑な、もっと高尚な成長をなして﹂い くために新たに必要視されるのが ﹁ 印 象 や 気 分 ﹂ であり、これによって二段の進歩を遂げる﹂という。﹁自然主 義 の基本邸念となっていた ﹁写生﹂を否定するのではなく、次の段階へと押し上げる操作がなされ、 そうした 行為を投帯家に向けて時発している。星湖の選評文もこれと離反するものではなく、﹁文章はすこし硬いが、観察 も細かいし、陥写も印象的である。﹂(大正 6 年 2 月号、山崎源太郎﹁自殺の幸福﹂評)、﹁粗野であるが勇健な気分の様つ た 作 ﹂ ( 大 正 6 年 7 月 号 、 鮫 胤 麟 太 郎 ﹁ 晩 露 骨 ﹂ 評 ) 、 二青年川家の孤独な生活を如実に揃いてしかも芳醇な芸術的気分を 様らせてゐる﹂(大正 6 年同月句、鈴木千久馬﹁商家・と野良犬﹂評)といった表現、また﹁気持﹂や﹁心持﹂といった術語 の 多 用 が み ら れ ( 日 、 こうした路線で投書家の態度や投稿作が裁断されていくのである。

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選評と投稿作との関連性 こうした評例制に対して横光の投稿作はどのように評されたのか、最初の活字化を果たした①﹁神馬﹂ から検 討してみよう。 昆 湖はこの号で七十作を佳作として挙げている。そのうち八作が席次をつけられて全編掲械となっ て お り 、 そのなかで の席次は 「 ー 」 その際の昆糊の選評は次のようである。 で あ っ た 。 ﹁ 神 馬 ﹂ 動物小説であり調刺小説である。動物の事を書いた作品はこれまでしば/¥見掛けたが、大方は外から見た ま﹀の記述であったの これは動物の心で周聞を見まはした風にしてある。もとより不自然ではあるが、 か や っ いふ行き方も好い。 そしてなかノ¥注意が行き局いてゐる。 昆湖は﹁不自然﹂とは記しながらも﹁外から見たま﹀の記述﹂とは違って、﹁動物の心で問聞を見まはした風にし てある﹂点を特に評制しているようである。ただし、﹁神瓜﹂を仔細に読めば必ずしも全編が﹁動物の心で附聞を 見まはした凪﹂ にはなっていないことは明らかだろう。 第一市 役 編 一 良台の上へ延ばしてゐた彼の鼻頭へ、府から流れた陽の光りが落ちてゐた。揺が彼の鈍った茶色の眼の上 17

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へ垂れ下ると、彼は首をもたげて振った。 そして又食った。/肋骨の下の皮が張って来ると、険が重くなっ 18 て来て、知らず/¥に居眠った、 と不意に雨でも降って来たやうな音がしたので、 服を聞くと黄色な立が一 ばい口元に散らばってゐた。 不特定な﹁彼﹂ という三人称の代名詞から書き起こされている冒頭の一文目は、続くこ文目に ﹁ 撮 ﹂ とあること から、標題と関わって ﹁ 彼 ﹂ と は ﹁ 神 馬 ﹂ のことではないかと予想させる。﹁彼﹂と繰り返される行為主が拙かれ る二文目までの文章に引きずられて、三文目も問機の視点で読める。 つ ま り 、 ここまでは ﹁ 彼 ﹂ のおかれている 状況や行為のみが、外而的・客観的に拙かれていると認められ、﹁動物の心で周聞を見まはした風﹂には読めない。 ﹁ 彼 ﹂ はあくまで観察されている対象である。 次の文章へ読み進むと﹁肋骨の下の皮が張って来る﹂﹁険が重くなって来て﹂﹁知らず/¥に﹂ということばが、 観察者には察知しえない﹁仲馬﹂の主観的な視点へと転換し、語り手が﹁彼﹂の内而へ介入したような叙述になっ ている。こうした語り手と ﹁ 彼 ﹂ の癒着は最後まで続くわけではない。 センテンス単位で語り手と﹁彼﹂ の離合 は急転を繰り返す。 眼の前の箱にもった一旦を食ひたいが口がと y か ぬ 。 っと榊の下に捨て﹀あった黄色な燈の皮に限がついた。 (何だらう、あれや?)彼は色々考へてみたが遂々分らなかった。然れ共食ひ物に違ひないとだけは思った。

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そして妙に気にか﹀つてならなかった。(食ひたいな) ﹁榊の下に体制て﹀あった﹂ものに﹁服、がついた﹂ の は ﹁ 仲 馬 ﹂ ﹁ 燈 の 皮 ﹂ だとは判 で あ る が 、

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1

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自身これが 断できないの﹁(何だらう、 あれや?)彼は色々考へてみたが遂々分らなかった﹂ という﹁神馬﹂ の状態が書かれ ることによって、判断できない存在であることが後説的に露呈している。祈り手が ﹁ 神 馬 ﹂ の認知できない物事 に対して判断を下しているのである。また、逆にも叙述される。﹁その時速くの方から馬の噺声が聞えた。彼は刺 されたやうに首をあげて耳を立てた。(おや! あれや牝馬の声だぞ。)﹂という筒所には、おそらく一般の人間に は雌雄の別が判断できない ﹁ 馬 の 噺 声 ﹂ を ﹁ 仲 馬 ﹂ は ﹁牝馬の戸﹂だと聞きわける。ここでは先の語り手と﹁神 馬 弘司同 の関係が逆転している。 以上のように ﹁動物の心で周囲を見まはした風にしてある﹂ 一 貫して ﹁ 神 馬 ﹂ の内部視 とは評されるものの、 点で叙述されているわけではない。 しかし ﹁ 仲 . 同 ﹂ の関わり方に対して詳言され ﹁不自然﹂というのは語り手と たものとは断定できない。﹁不自然﹂ であっても﹁神馬﹂を佳作の二府に取り上げたのは、昆湖が﹁動物の心で周 聞を凡まはした風にしてある﹂ と 読 み 取 り 、 ﹁動物の事を書いた作品はこれまでしば/¥見掛けたが、 大 そこに 方は外から凡たま与の記述であった﹂ものとは異なる ﹁ 材 料 ﹂ の処理の仕方をみたからではないだろうか。 第 一 章 役目高 ③﹁什市川﹂ ではこれを﹁或憐れな乞食の生活を附いたもの﹂ と概指し ﹁象牙の毛彫といったやうな精鰍な技 また@﹁平安﹂ 巧﹂を評価している。 ﹁いつものきちりと纏まったのとは違って、 で は 日常茶飯事をさりげなく 19

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書き抜べたやうには見えるけれど、さすがに、巧みに、人間生活の種々相を示してゐる。﹂と評し、﹁日常茶飯事﹂ 20 を附く方向へかわっているようすがうかがえる。 県湖はこれらに ﹁技巧﹂や﹁巧み﹂さを読み取っている。 こ h つ した足洲評から浮び上がってくるのは、﹁或一憐れな乞食の生活﹂から﹁日常茶飯事﹂ へと﹁材料﹂をより日常化さ せ る こ と で 、 ﹁ 材 料 ﹂ そのものではなく﹁材料﹂を描く技巧を際立たせる表現の方向性がうかがえることである。 しかし、位制の評価はそれ以上ではない。﹁材料は直ちに作の内容ではない。材料とそれを取扱ふ作者の態度と の間に作の内容と同時に形式が生れて来る。作者の態度に重きを置くと言ったのもこの為である。﹂(﹁湿の後に﹂﹃文 章 世 界 ﹄ 大 正 6 年 4 月 号 ) と 、 星湖が投書家へ向けた記述には、﹁材料﹂ の扱い方に﹁作者の態度﹂を問うことの草要 ト t t lし ミ -4 亡 、 k d o 恥 I 4 M -J H A に オ 寸 y 星湖は ﹁ほんとうに生活に苦しんだ人でなければ書けない心持が書いてある。﹂(大正 6 年 2 月 号 、 山 下 松 繍 ﹁ あ る 制 ﹂ 評 ) か ら 、 その作品を一席とする。 ま た ﹁揮然とした芸術品ではないけれど﹃彼﹄と呼ばれ た主人公の心川町解剖が可なり行き届いてゐる。恐らく作者が自らの心理をまつ正直に股げて見せたのであらう。﹂ ( 大 正 7 年 間 川 号 、 . A 野緑石﹁世間﹂評)というように、﹁主人公の心理解剖﹂を﹁作者﹂﹁自らの心理﹂と結びつける。 こ の よ ャ フ に ﹁ 作 者 ﹂ の経験が問えることを評価上の一基軸とすることから起こる ﹁不自然﹂さが 神 馬 こま付 帯されていたといえるだろう。 さ て ﹁仲瓜﹂が選考にさらされたことによって、次の投稿作にどのような影響を及ぼしていったのだろうか。 投稿作のなかで﹁神馬﹂ の次に全文掲載となった②﹁犯罪﹂ では、﹁私﹂が目白に対して向ける視線と心情が綴ら れ る 。 1 =1 l

カt ﹁彼女﹂というように女性に見立てて記述される点で、﹁神馬﹂を﹁彼﹂と記すことと対をなすとも

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4 f いえる。慌のなかの﹁彼女﹂と、﹁仲馬﹂として四われている﹁彼﹂、双方の状況にも類似性が見出せるだろう(日 )O し か し 、 ﹁ 仲 山 ﹂ のように内而に切り込んだような叙述は、 の内而を映す鏡とし 目白にみられない。目白は﹁私﹂ て、外而的に揃かれるだけである。﹁仲間拘﹂で 星 湖が評価したところの﹁動物の心で周聞を見まはした風﹂は装わ れ ず 、 完 全 に 観 ・ 副 知 対 象 の ﹁私﹂が設定され、語り手はこの ﹁私﹂とだけ同一化し、﹁私﹂ ﹁ 彼 女 ﹂ と切り敵されて の内而を開示していく。作中の一人称﹁私﹂とその ﹁作者﹂。このあいだに﹁作者その人を窺はせるやうな何物﹂ かや﹁作者の態度﹂が間われることによって、横光自身の私的事実と車ね合わされて論じられることにもつなが る。たとえば に拙かれる母子関係を横光自・身と重ねること、 目ヨの ﹁ 彼 女 ﹂ 犯 罪 を横光の初恋相手の象徴化 とみる試みなど、ここから派生する問題は往年の研究でもたどられてきたことである日、もちろん、そこには批 一 詐 方 法の川代的な趨勢があったことはいうまでもない。 表而上﹃文和平世界﹄最後の投稿作となった⑫﹁火﹂ に寄せられた星湖評の一節には ﹁この作者は細搬な客観的 な作風から、よほど主観的な作風に転回しようとして悶えてゐるらしい。﹂とある。﹁主観的な作風に松刷しよう﹂ とする試みには、﹁投 書 家 ﹂ のあいだでも周知になっていた﹁新 主 観 主 義の急先飾﹂とされる選者・良湖へのすり 寄りがうかがえる。少年・米が母に寄せる独占欲、 母の姦通を疑う心情が綴られながら、結局父不荘の母子関係 が修復する。 この米に﹁作者その人を窺わせる﹂悦線をそそぎ、航光自身の家庭環境や少年時の体験を参照して m---~ j世稿 読むことは符 u 初である。そうした評価軌にたえうる強度が内包されている。だからこそ﹁火﹂ は作品世界に作者 自身を問う論じ方がなされてきた。 21

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し か し そうした解釈が可能なのは横光の内発的な志向だけに関わるものではない。選者側の評価州に沿おう 22 とするとき、投稿作はそうした評価軸にすり寄った内容になるし、投稿作自体もそうした評価の枠組みで解釈さ れることを許容してしまう。 ま た 、 評価州は星湖に限らず、 ﹁ 散 文 ﹂ の選者を机当していた加能作次郎もおおむね問機であった。⑩﹁伝説﹂ は﹁作者が如何なる点に興味を感じ意味を認めたかが分らなかった。﹂、⑪﹁春憂﹂は﹁﹃春愁﹄といはずして特に ﹃春憂﹄といった気持もわかるが、割合に感じが、希薄である。それに全体が散漫に失して居る。﹂と評される。 ﹁ 作 者 ﹂ の ﹁ 興 味 ﹂ や ﹁ 感 じ ﹂ 、 ﹁ 気 持 ﹂ が 問 わ れ 、 それらは星湖の一昨言でもみられるキーワードと類似のもので あ っ た 。 こうした状況下で投稿を繰り返していくことは選者による評価の枠組みに、 より絡めとられていくこと に つ な が る 。 ﹃文章世界﹄の対・投持家戦略 選者の評価州、その影響圏に絡めとられていく横光の投稿作。 しかし﹃文章世界﹄誌上において、﹁神馬﹂以降 の投稿作は筆名と標題のみの掲載であった。 にもかかわらず横光が以降も﹃文章世界﹄にこだわったように投稿 を続けているのはなぜなのだろうか。 r i l -z f l i --﹃ 文 章此界﹄の誌而構成は文壇作家のための ここには投稿を誘発する﹃文章世界﹄の戦略が介在する。 ﹁ 本 欄 ﹂ と投書家のための ﹁文叢﹂欄という こ 層仕立てになって

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いた戸、横光が﹁神馬﹂を投稿した大正六年七月号より、編集兼発行人の名義は長谷川誠也(天渓)から加能作 次郎にかわり、この号から誌而構成の大幅な変更が行われる。﹁従来狭院を告げて居た本欄の方に三十余頁を増加 し、小説、評論その他に於て 一 層内容の充実を図り大に而目を 一 新することとした。﹂(﹁編輯雑信﹂大正 6 年 7月号) とあり、そのあおりを受けたのが投書欄﹁文指﹂である。二時文誰欄よりそれだけ頁数を減ずるの止むなきに歪 っ た ﹂ と さ れ る 。 ﹁九月号あたりより更に新たなる計阿を試むると 同時に各積投稿欄を従前よりも一層拡 ただし 張し、以て諸君に十分なる満足を与へんことを期してゐる。﹂と告げられる。﹁本欄﹂﹁文殻欄﹂というこ層立ての 誌而構成をつき破る企闘がなされるのである。 八 月 号 に ﹁ 短 篇 小 説 募 集 ﹂ ( の ち に 誌 面 で は ﹁ 特 別 募 集 小 説 ﹂ ( 同 ) と 記 述 さ れ る ) の告知が出る。﹁本誌は従来文殻欄に短 篇小説を募集し来りしが、今回之に 一 大拡張を行ひ 、隠れたる新しき作家を広 く文埴に紹介し、真に文培控竜門 たるの実を挙ぐる為め﹂﹁毎号短篇小説を募集す。﹂とある。選者はかわらず中村星湖。﹁文叢﹂ の﹁小説﹂櫛目は 九月号で廃止となる。﹁文叢﹂において﹁ 二 十字詰百五十行以内﹂とされた﹁小説﹂稲目から、新設される﹁短篇 小 説 募 集 ﹂ の規定では 一行二十字詰、二十枚以内 ﹂ と へと大きく拡張される。投書家に向けて、 ﹁ 一 枚 二 十 行 、 く ﹁短篇小説﹂をカテゴリー化していく傾向は、﹃文章世界﹄だけにみられる現象ではない。﹃新潮﹄もこの頃 毎号﹁文誰﹂という投書欄で﹁散文﹂﹁論埴﹂﹁短歌﹂﹁俳句﹂ の四つの柿目を設けており、短編小説は﹁散文﹂ 。〉 ;n-策 役f高 なかに合まれていたが、大正七年一月号に﹁散文﹂を廃して ﹁ 短 篇 小 説 ﹂ へ衣更えを行う告知があり、 二 月号か ら実胞する。こうした傾向は投書家側の志向に対応したものであったと同時に 一 般読者の読み物としても栴好の 23

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ジャンルとして囲い込まれていく。 24 横光が投稿をはじめた当初の﹃文章世界﹄では﹁募集作品種目﹂として﹁論文﹂﹁散文﹂﹁書翰﹂や﹁短歌﹂﹁俳 句 ﹂ ﹁ 絵 画 ﹂ な ど 、 全 部で九つの分別がなされていたにもかかわらず、⑩﹁伝説﹂と⑪﹁春憂﹂以外は﹁文叢﹂欄 の ﹁小説﹂積目、あるいはこの種目が廃止されて以降の ﹁特別募集小説﹂枠に投稿されており、 小説家志向の痕 跡がみえる。 ただし﹃文章世界﹄が行った﹁短篇小説募集﹂の企画には特別なはからいがあった。﹁当選作品は毎日ず一篇とし 之を本欄創作欄中に登載し、相当の稿料を呈す﹂とあり、﹁小説﹂種目がまず先行して、新たな企画が打ち立てら れる { 5 0 これによって投書家の当選作は文壇作家の作品と並置され、記名も肩を並べることになるのである。九 月号の ﹁ 編 輯 雑 信 ﹂ iま 知篇小説の募集は、 文慣に大なる反響を与へた。最も時宜に適した計画として江湖の大好評を問し、今や 一 般文埴の注目の焦点となって居るの観がある。(中略)〆切期間が煩かったにも拘らず三百数十篇といふ予想 外の多数の作品が集った、先づ非常な好結果だといはねばならぬ。中には文壇に知名の人の作も少なからず あ る 様 だ 。 とあり、当選作は十月号から喝載されることになる。﹁短篇小説の募集は、 文岐に大なる反響を与へた。﹂と記述

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されるが、実際に文闘で目立って取り上げられたようすは見当たらない。 つまり、誇張した表現になっていると いえるだろう。 また、投稿のなかに ﹁文檀に知名の人の作も少なか ら ず あ る 様 、 だ ﹂ と い う 、 その岡有名詞も当然 明らかにされず断定することはできない{げ}。注目したいのはこのように書かれることによって開成される意味で ある。事尖かどうかはともかく﹁文壇﹂ に注目されていると意識させ、多数の応募状況を記すことによって、投 書家に ﹁短篇小説募集﹂欄への投稿を誘発する内容となっていること。なかでも﹁文墳に知名の人の作も少なか らずある織だ﹂ そうした人物の作品と同列に投書家の作品が選考されることを意味する。投書家 とする記述は、 にとっては当選することが名実ともに自らを知らしめる価値あるものとなることを訴える表現となっていること が重要なのである。 ① ﹁ 神 馬 ﹂ は﹃文常世界﹄投稿初の全編掲載作であった。その後﹃万朝報﹄に②﹁犯罪﹂を投 A 制したあと、﹃文 章世界﹄に投稿されたものは筆名と標胞のみが誌上に掲載されるだけで、 本文の活字化はなされず、批評文も③ ﹁ 骨 哉 一師﹂までみられない。 から⑪﹁存憂﹂ つ ま り 、 大正七年末まで幾度も稿を それでも③﹁野人﹂ に か け て 、 帯せる つの動閃として、新たな誌而構成により ﹁ 特 別 募 集 小 説 ﹂ 枠が設けられたことによって促された側而が 関わっているだろう。 二ヶ月に一回、時には毎月のベ ースで﹃文章快界﹄に投稿が続けられてい く航光の動 向を 考 え れ ば 、 ﹁特別募集小説﹂枠がもっ誘引力の大きさがみえてくる 。 名tf,晶 また⑩﹁伝説﹂⑪﹁森憂﹂が ﹁特別募集小説﹂枠ではなく、﹁文殻﹂ の ﹁散文﹂積目に投稿された要凶の一つに 貫~.-理~ は、﹃文章批界﹄の編集兼発行人であり﹁散文﹂選者でもあった加能作次郎への視線があると推察される。大正七

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年の春頃から﹃文章世界﹄の読者を中心とした ﹁文芸会﹂を興そうという動きがあらわれる。これが ﹁ 静 雨 会 ﹂ 26 となって始動してから、加能やその補佐をしていた問問 三 郎などを州引致していた。﹁静雨会﹂が本絡的に始動する のは大正七年の十 { 月からだが、それ以前に横光も加わった投 書 家の集まりができていた。こうした投書家の集 まりから蹴成された加能への視線が共有されていったといえるだろう。 そして投書家側から興った誌友会 ﹁ 静 雨 会﹂の軌跡は、﹁文叢 ﹂欄ではあったが、 まるまる 一 ページを与えられ枠組み三段で ﹁ 静 雨 会 の 記 ﹂ ( 小 島 徳 弥 ) と して大正八年の三月号に掲載されるという待遇を得ている品、投書家側からの動きではあっても、それを抱え込 んでいく﹃文章世界﹄の対応ぶりが垣間みえる。 四 ﹁ 文 世 誌 友 ﹂ の投書家共同体 ⑪ ﹁ 春 一 畳 ﹂ 以降、投稿が頻繁になされないのは選考に漏れた結果、表而化してこないとも考えられるが、 おそ らく事情はそれだけではない。また、横光自身だけの﹁内而的な苦悩﹂に還元できるものでもない布、ここには ﹃文章世界﹄に集う読者らが自らを﹁文世誌友﹂と称する投書家共同体から生起する問題が関わっている。投書 雑誌の読者共同体は一般の向業雑誌と異なり独特の共同体をつくる。単に読み手/書き手という入れ替わり可能 な空間が形成されるという意味ではほかの雑誌の読者欄でも同様である。 しかし、投書雑誌の読者共同体はそう したことだけを共有するのではなく、自ら文学者をこころざす投書家によって形成される性格が強く、 そのあり

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方が互いに問われる場でもある。﹃文章世界﹄でも、たとえば﹁我々はもっと真而目に熱心に各自の道を踏んで行 かねばならぬ。所調投書家などと言って馬鹿にされて庇る事なしに、 さう言ふ端をして舌を巻かせる程になる為 に努力しなければならぬ奮闘しなければならぬ。﹂(宮崎飾﹁忙しい生活を約て﹂、﹁税者論地﹂大正 6 年 l 月号)という類の 文章が数多くみられ、投書家の運命を共有することばが交わされる。 こうした投帯家共同体のなかからその期待を背負う人物があらわれる。 しかし、投書家の託す期待は結局かな わない。﹁問機越平生氏(竺が認められないのは投書家だからださうである。(中断)中保百合子氏と塚越亨生氏と、 どちらが余計に天分を持ってゐるか﹂ 而して偏狭の文噴﹂ へ 向 け ら れ る 。 と、その矛先は ﹁ 頑 迷 に し て 回 附 な 、 そして ﹁白樺派の文成へ乗出したが如く、 いや白樺派などよりも、 もっと勢よくもっと元気よく文壇へ乗出し、 文埴を我がものとして御覧に入れるから﹂(宮崎飾﹁憤激と感動と﹂、﹁読者論繍﹂大正 6 年 2 月号)と書き放つ 一 投書家の 文 市 は 、 ﹁白神派﹂が注目された同時期の文廓状況を航日に、中陳(宮本)百合子が坪内泊遥の推挙によって ﹁ 貧 し き人々の群﹂ を﹃中央公論﹄大正五年九月号に発表する機会を得た結果、 文捕に認知されたことを知っている投 書家のあいだに {担 、 ﹁ 文 岨 ﹂ ﹁君は投書家を代表して、 こうした のあり方に対する疑問と反感を沸き上らせる。 極めて小さいながらも、私達の普遍的に有って居る不満を発表されたのです。﹂(花川夢朗﹁宮崎節君へ﹂、﹁読者総喧﹂ 大 正 6 年 4 月号)というように同調する文章をはじめ、穎似の言説を呼び込み反彼されることによって﹁文府﹂ J、、

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〉 役 稿 不信・反感が共同体内で共有されていくことになる。 第一章 しかし、こうした﹁文壇﹂ への不信 6 ・反感がまったく正論であったともいえない。﹃新潮﹄の選 者をしていた金 27

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子熊闘は ﹁選者の意に迎合するやうな作を巧みに書く﹂ と指摘している。 a a、 , 司 、 ー ト j 沼 市 主 H H リ L L 寸 d 士 d

h L H H u m ト h ﹁巧みに他人の模倣 28 をしたものなどは当選させる気にならない。﹂ と記しており、 加能作次郎も﹁模倣の多い事は移しい。﹂ としてい る

これら三者の言及は﹃文章倶楽部﹄大正八年五月号の拡大付録﹁投書に就ての新研究﹂ の な か で 、 選者の経 験をもっ文壇作家の文章が掲載された際のものだが、ほかに採集されていた文章も同様のことを指摘していた五、 つまり 、 投 書 家が創作に向き合う姿勢にも問題があったということである。もちろん、すべての投 書 家に選者へ の ﹁迎合﹂や﹁模倣﹂ が当てはまるわけではないにもかかわらず、 文府作家から一様に ﹁ 投 書 家 気 質 ﹂ として敬 達される場而があったことも否定できない。 し か し 、 たとえば中陳百合子の ﹁貧しき人々の群﹂ と塚越亨生の遺 作となった ﹁ 末 流の 子 ﹂とを比較してみても、後者の旧態然とした ﹁ 自 然 主 義﹂的な内 容 に対して、前者の 人 道主義﹂的ともいわれる作風が時勢的に受け入れられたことは行ける山来事でもあったさ。すなわち、投書家の あいだに醗成された ﹁ 文 壇 ﹂ への不信・反感が、 同属に肩入れした感情的な 一 . 而をもっていたといえるだろう。 ここには ﹁ 投 書 家 ﹂ と ﹁ 文 明 ﹂ 、 双 方 の偏見に彩 ら れたまなざしがあ っ たのである 。 さて﹁﹃今に文噴を乗取って見せる﹄など﹄力んでゐるのは、先輩の限には如何に滑稽なことであらう。そして またさうした言に無暗に雷同する者の如何に多いかを驚かざるを得ない。﹂(前悶存詩﹁所締役書家のすべてに与ふ﹂、﹁読 者 論 境 ﹂ 大 正 6 年

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月 号 ) という、﹁文瞳﹂への不 信 と反感に 一 辺倒な投 書 家らに再考を促す文 章 があらわれる頃には 、 この文章に関わる多少の応酬があるものの、 いったん沈静化をたどる。興味深いのは沈静化していくのが、前述 の﹃文章世界﹄の新たな誌而構成による﹁特別募集小説﹂枠が設置された時期と符合することである。﹁特別募集

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小 説 ﹂ の設慣が﹃文章世界﹄ への不満をそらすための対・投書家戦略としても機能していたということである。 しかし ﹁特別募集小説は号を追うて様況を民します而して毎日すの当選作は何れも一般文胞の岡目するところと なり、多大の喝采を附して庇ます。喜ばしきことですよ(﹁編制後記﹂大正 7 年 5 月号)というような編集側の文章と はうらはらに、当の﹃文章世界﹄における ﹁ 本 欄 ﹂ 目立った成 の月一許制でも当選作はほとんど取り上げられず、 果があがってこないふ)。この頃から﹁文墳﹂ への反感が再燃してくるのだが、傾めつけは次のような文京があら われてきたことである。 特別募集の小説が掲秘され初めてから、 十五回になるが、加雌牧担君が二度当選した外に、新作家が十三名 紹介された訳である。(中略)然しそれならば文域にどれだけ認められたであらうか。学問を背最に、若くは 機関雑誌を般拠として文摘に活躍し、 一 代の視聴をあつめてゐる新進作家に比して、如何に貧弱な事であら うか。少くとも貧弱である感じのする事を荷定できないのではないか。 否月評家からすらも黙殺の名誉を頂 戴してゐるのではないか果してそれだけしか側値のないものであらうか。またそこに何等かの認識されない だけの川町内があるのであらうか。 ( 大 川 野 美 ﹁ 特 別 募 集 小 説 の 成 績 に つ き て ﹂ 、 ﹁ 読 者 論 鳩 ﹂ 大 正 8 年 1 月 号 ) 第一市 役 稿 投書家の希望をつないでいた﹁特別募集小説﹂、その続過をみても結局﹁隠れたる新しき作家を広く文取に紹介し、 とされた目的がいっこうに達せられないことを、 真に文壇務竜門たるの実を挙ぐる為め ﹂ いわば告発するかのよ 29

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うな文章が投書家のあいだに﹁文壇﹂ への不信を再沸騰させる。﹁私は文世が常に読者の味方となって、新作家を 30 送り出さうとしてゐるのには感謝する↓。併し、 主義や系統で、 氷のやうに張りつめられてゐる現日本文壇に対し て、それが余り功を奏せないのも止むを得ないことである。﹂(小品宗一﹁カある沈黙士、﹁読者論壇﹂大正 8 年 3 月 号 ) と い うような文章が数多く見出せるようになる。この頃の文壇の ﹁ 新 機 運 ﹂ について、芥川龍之介は武者小路実篤 志賀直哉・有島武郎などの ﹁白樺派﹂、広津和郎・谷崎精二・加能作次郎などの ﹁新早稲田派﹂、菊池寛・久米正 雄・芥川などの ﹁新赤門派﹂、水上滝太郎・南部修太郎・小島政二郎などの ﹁ 新 三 田 派 ﹂ と、明快な整理を行い、 ﹁今度の連中は今までの運動のやうに同一旗臓の下に結束された団体の形を成してゐない。﹂ と し て い る ( お ) 。 要 するに大学機関を基盤とする文壇の新たな見取図が浮び上がってくるなかで、投書家あがりの新人は見当たらな い。こうした状況下でいくら投稿したところで ﹁文檀﹂には認められないという虚しさが蔓延する。 それととも に、﹃文章世界﹄は投書家の欲求を満たすことができない状況をあらわにしていく元)。 それは選者である中村星 湖にも投書家の嘆きが及んだ際、 いっそう明らかとなる。 特別募集小説の当選作が、文壇諸家の作品と同じゃうに批評の姐に乗らないのを嘆き訴へて来た人がある。 それは投書だからと軽蔑して無視してゐる批評家{包がわるいので、 わたしとしてはさういふ人から批評を 強請する権利もなければ理由をも持ち合せてゐない。けれども、投書だからと言って軽蔑しない作家批評家 はいくらもある。 中 村 星 湖 ﹁ 応 募 小 説 に 就 い て ﹂ 大 正 9 年 3 月 号 )

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自分に不平を訴えられでもお門違いと言わんばかりのこの文書早からは、投書・家の欲求に沿おうとする姿勢が読み 取れず、責任回避のそぶりさえもうかがえる。 そ し て 、 旦湖はこの年の十二月号かぎりで選者を降りるのだが、 ときを問じくして﹃文章世界﹄も投書欄を廃止するとし、誌名も﹃新文学﹄と改めることになるのである。 そ れ はすでに﹃文市枇界﹄が投書雑誌としての機能を果せないことの真返しでもあっただろう。 大正八作に入って償光の投稿もそれまでの勢いを潜めてしまう背景には、取に繊光個人の私的事情だけに還元 できない川題がみえてくる。﹁特別募集小説﹂枠が設置されてから頻繁になる投稿数、﹃文章世界﹄の誌友会﹁静 雨 会 ﹂ への参加とともに、横光が﹃文章枇界﹄ の対・投書家戦略に網汗されながら、投書家の動向と同調してい るようすをうかがわせる。 それはまた、後述する投書家の新しい動きとも関わっている。 Ji: 投書家共同体の転換点 ﹃文京世界﹄の投書雑誌としての性格は、創刊捌から受け継がれてきたものである。花袋らの志向によって文 市修練よりも文学的な啓蒙の場となっていったにしても、文壇作家によって苦かれたものを掲載する一方で、投 第一章 st稿 稿によって誌而を構成している性格は持続している。 こうした投書雑誌において、誌而を成り立たせていくため の対象となるのは当然投書家である。彼らは書き手であると同時に読者でもあり消費者でもある。彼らの欲求に 31

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応じながら誌而を構成し、需要を拡大していく必要があったことからすれば、投書家は投機の対象でもあった。 大正の中頃には、博文館の﹃文章世界﹄、新潮社の﹃文章倶楽部﹄、春陽世 ↑の﹃中央文学﹄など大手出版社から、 32 同じく文刷作家をめざす投書家を対象として誌而を成り立たせる投書雑誌が発行されていたことからしても、投 書家の欲・引をあおり投機の対象として、 その欲求に応じていくことは荒要であった。 し か し 、 この三誌のなかで 前述したようにいち早く後退してしまうのが﹃文章世界﹄である。投書家の欲求を満たすことができなくなって いくのである。 こうした状況は、﹃文章世界﹄内で形成されていた投書家共同体のあり方に方向転換をもたらす。﹁当地の書一民 文学堂から私達の純文芸雑誌を発行致します。(中略)皆様の後援を願上ます。﹂(長崎市 黒 船 社 ﹁ 読 者 通 信 ﹂ 大 正 7 年 7 月号)、﹁同覧雑誌を出して居る。演劇や音楽の研究、車両等の原稿の寄稿を望みます。また、同好の私の様な事を やってる人のお手紙を頂きたい。﹂(岩手 菅 原 俊 一 一 ﹁ 読 者 通 信 ﹂ 大 正 7 年 7 月 号 ) な ど 、 これ以前に ﹁読者通信﹂欄でわ ずかにうかがえる程度であった﹁地方雑誌﹂﹁回覧雑誌﹂ の存在が、ここへ来て急激に増加する。雑誌発行の告知 に際して必ずといっていいほど ﹁後援﹂や﹁寄稿﹂など助力をあおぐ内容が付されること。また ﹁地方雑誌を送 って下されば、私らの﹃雑木林﹄で出来る限り紹介して上げます。﹂(富山 上 坂 蕪 花 ﹁ 読 者 通 信 ﹂ 大 正 7 年 7 月 号 ) 、 諸 -君のうちで地方雑誌を出してゐる方があれば一部めぐんで下さいませんか。﹂(愛知県 中 野 草 保 ﹁ 読 者 通 信 ﹂ 大 正 7 年 8 月号)という類の文章の頻出。 これらによって各地で行われる投書家の雑誌発行活動それぞれが 、 ﹃ 文 章 世 界 ﹄ の ﹁読者通信﹂欄を媒介としてネットワーク化されていくのである。このような状況が前而化してくることで﹁種々

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な文芸雑誌が柿々な人に依って、種々な方而に於て活動されて居ます。(中断)私等も﹃鈍﹄と云ふ幼稚な回覧雑 誌を出して桁ます。(中前町)市内の同好者を歓迎致します。﹂(本郷区 尾 関 進 一 ﹁ 読 者 通 信 ﹂ 大 正 7 年 8 月号)というよ wフ な 時流に便乗した動きによってさらに加速し附加する。 ﹁ 投 書 家 ﹂ への不信・反感と辿 こうした の迎動が ﹁ 文 府 ﹂ 動したものであったことは次のような文章からうかがえる。 投書家

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何と云ふ悲しい名だらう。 弱き者よ。汝の名は投書家なり。文世よ。幸ひ投書家の味方になって大 いに働いてくれたまへ。 その弱い投書家が文壇に対する一 つの対抗として福島県安曇郡大槻村堤の七海白浪 氏が千名の同志を集めて﹃創作界﹄と一五ふ大雑誌(二十五銭) を発行しようと非常に苦心してゐる。投書家 の力の弱きを自覚した人々よ。什うか白浪氏の味方になってやりたまへ。 兵 服 県 小 島 宗 一 ﹁ 読 者 通 信 ﹂ 大 疋 7 年 7 月 号 ) ﹃文京世界﹄﹁特別募集小説﹂欄の当選者らを集結し、同人雑誌を発行しようというこの試みは同人間の行き違い を調整するのに手間取りなかなか実現をみない。 も ち ろ ん 、 とうした動向の背景には ﹁ 文 腕 ﹂ に認めてもらえな いという事情だけではなく、﹁学閥﹂を背景とする者たちが同人雑誌を発行した機運に触発された側而もあっただ 第 一 章 投fll ろう。明治問十 三 時 に は ﹃ 白 神 ﹄ 、 ﹃ 三

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文 学 ﹄ 、 ﹃ 新 思 潮 ﹄ ( 第 2 次 ) 、 大 正 一 川 年 に は ﹃ 奇 蹟 ﹄ 、 三 年には﹃新思潮﹄(第 五年には﹃新思潮﹄(第 4 次)と目立ったものが創刊される。同時にこうした刊行物を支える印刷業も第 一 次 3 次 ) 、 33

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世界大戦を契機に活況を 旦 し、輪転機や制捜本機など印刷周辺機器も帥常備され普及していく状況があった品、 34 一 方で投書家の雑誌発行の気運に連動しようとする﹃文章此界﹄側の姿勢もみられる。 東京を始め全国各地に於て、 それ戸¥文学愛好者によって結ぼれた団体結社が定めて多からうと忠ふ。機関 雑誌を発行してゐるのもあらうし回覧雑誌を出してゐるのもあらう。また時々文芸談話会といった織なもの を開いてゐる向もあらう。本誌は今後誌而の一部を開放して、 それらの地方的文壇の状況を広く一般文墳に 紹介したいと思ふ。 (﹁ A 地方文檀の消息を募る企﹂大正 8 年 4 月号) いわゆる文摘を 二般文噴﹂ と 呼 び 、 これに付随して ﹁地方文明﹂とし 統括していこうとする書きぶりが、投 書家をつなぎとめようする目論見であることはいうまでもないだろう。 し か し 、 この企耐が誌而に投影されるこ となく終わるところにも投 書 雑誌としての限界がみえる。 さて、横光はといえば﹃文章世界﹄の ﹁読者論壇﹂や﹁読者通信﹂ に文章を寄せている形跡はない。 し か し 、 早稲田時代の知過で投書家でもあった佐藤 一 英らの ﹁ 詩 歌 研 究 会 ﹂ に加わり、大正七年にはガリ版刷の﹃十月﹄ を発行したり、詩集﹃朗々﹄( 一 説に﹃浪々﹄)を月刊で出していこうとする動きがみえるのは大正八年三月頃で、﹃文 章世界﹄における投書家の雑誌発行の動きと時期的に合致する。こうした余波は同じく﹃文章世界﹄の﹁投書家﹂ でもあった藤森淳三らと大正十年に同人雑誌﹃街﹄を、翌年この後継誌として﹃塔﹄を発行することにもつながっ

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