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姉約

﹁戯

山時

代﹂

(保

HH

正夫

﹁微

光利

一の

戯 山時 代﹂

﹃悲 劇蒋 劇﹄ 平成

19

月号

)

いることから戯山性が高くなっている︒横光の

65 

といわれるこの時期︑第三章で詳述する︑

小説に戯山的性質をまたは戯山に小説的性質をもち込んでいることと

66 

関連があるだろう︒

‑昨は弘久こ︑

ifl 

まだ撒光にとってなぜクライストだったのかと問われれば︑横光がわずかながらクライストに関わっ て記していることを挙げるよりほかにないだろう︒後年︑横光は

﹁芥

川賞

選評

(﹃

文お

春秋

﹄附

和問

9

号︑

﹃定

全集﹄第川巻所収

のなかで八木義徳の

﹁劉

広一

愉﹂

(﹃

日本

文学

者﹄

昭和

同年

4月号)を評するのに際して︑

不用な枝葉を惜しげもなく切断し︑鮮明に幹の太さを浮き上らせたカットの手腕は︑

主材の庇まで眼力の届

いてゐることを証明してゐる︒クライストの短縮に似た︑

見 乱暴粗雑かと凡えるこの手法を選んだ裂の

繊細さ︑大胆さの︑

見事に定着した強さが︑熱しほとばしり︑読者の而を幣って来る︒

と述べており︑

クライストの短編に造調が深かったことをうかがわせるだけではない︒

クライストの短編は一般 1

'10 

﹁堅固な構成︑簡潔な描写を持ち︑

たたみかけるように事件が速なり展開しながら︑結末をめざして終始・緊

張し

た語

り口

で物

語ら

れる

︑と

言わ

れる

︒﹂

(高

備新

士﹁

クラ

イス

卜の

﹃型

ドミ

ンゴ

島の

締約

﹄に

つい

て﹂

(﹃

東北

伊院

大学

論集

(一

般教

育)

﹄昭

M9 月)とされている︒こうしたとらえ方とは異なるものの︑横光の言及はまったく見当違いともい えない近似性をもっているといえるだろう︒

その点で横光のクライスト短編に対する則

↑併のほどが組問みえる︒

第三章

受容者へのまなざし

観 客 と 読 者

本論は横光利一の文学における表象を主軸に︑メディアとの関わりからとらえ庇す試みであるが︑そ・もそもメ

68 

ディアを考えるには︑何と何を媒グしているのか︑ということもおさえておく必要があるだろう︒メディアの視

点からとらえれば︑

光の作品が4寛容者に向かってどのように表現されているのか︑ 一方は横光の作品であり︑

もう一方はその受存者であることはいうまでもない︒本来では横

その表象をとらえることにある︒

具体的には︑まず戯山代表作ともいえる﹁愛の技拶﹂を取り上げる︒﹁愛の挨拶﹂については︑航光の戯山全般

をたどる際︑言及されることはあっても巾独で論じられることはほとんどないT}︒したがって︑受容者との関わ

りでその表象が問題にされたことはない︒次に横光文学全体の代表作とされる

﹁機

械﹂

を取り上げ︑受容者(読

への通路という視点から語り論のアプローチを試みる︒荒川りの方法に若目した﹁機械﹂論はこれまでにも重

ねられてきた視点であるが︑これらは梢造論的な杷偲に主眼がおかれている点で︑

木市のめざすところとは異に

寸 ' る ︒

戯山と小説というジャンルの差異は︑それぞれが送り出されるメディアの速いとも関わる︒

発表時点が活字メ

ディアであるという点で戯曲も小説もかわらない︒しかし︑特殊な場合を除いて︑

小説とは異なり︑戯山の先に

は演劇化が忽定される︒

小説と戯山はそれぞれのメディアを通じて受容する読者と観客に別れていくことを事前

に想定して書き分けられる︒こうしたことを前提に︑﹁愛の挨拶﹂と﹁機械﹂それぞれの表象にみられる受容者へ

のまなざしを検討する︒

﹁愛

の扶

拶﹂

U1 1J h

JμσJIEJ1ι1

U

﹁愛

の挟

拶﹂

の問題性

ここでは

に見出せる戯山と小説という異なる形式の混布が︑受持者へのまなざしという視点から

﹁愛

の挨

拶﹂

とらえるとき︑どのように表現されているのか︑

wl

時の文学状況を考慮しながら検討する︒

﹁震

の校

拶﹂

は﹃文芸存秋﹄昭和二年の

﹁三

月戯

山号

に発表された︒

﹃ぃ

リ人

主春

秋﹄

が創

刊さ

れた

際(

大正

は年

ーバ仰向けて編集同人として横光も名を連ねていたの創刊号は本文わずか二十八頁︑一二千部の発行だったが︑関東

大震災を乗り越え︑大正十五年の新年号は発行十一万部に達し︑愉転機による印刷も幣い︑総合雑誌の色彩を備 えていく︒﹁愛の挨拶﹂が渇載された昭和二年には︑竣工したての大阪ピルに拠点を移し︑その現年︑株式会社に

第 三 軍 受'N布へのまなざし

発出する

2 0

こうした成長をみせる﹃文芸存秋﹄が昭和二年の三月号で戯山の特集を組み︑

はその

﹁愛

の挨

拶﹂

規制がはたらくなかで発表されたのである︒

ただ

し︑

これ以前にも大正十凶作ト一月号で

﹁一

幕物号﹂として戯 山の特集を行っていた︒こうした傾向は﹃文芸存秋﹄に限ったことではなく︑﹃新潮﹄でも大正十五年七月号で﹁特 集戯山号﹂と表紙に名打っていた︒また︑﹃中央公論﹄では附和二年四月号から十二月号まで﹁文芸時評﹂とは別

立てで

﹁前

芸時

一詐

このように大正後期からにわかに高まった戯曲・演劇流行の気運

の項目が設けられていた︒

69 

は︑雑誌の特集などに留まらず︑昭和初期にかけて﹃現代戯山全集﹄(問民凶書︑大正同年目月1

大正

同年

7月)や﹃世

70 

界戯

山人

上集

﹄(

股界

戯曲

全集

刊行

会︑

附和

2

同月

1昭

5

口月

)︑

﹃日

本戯

山全

集﹄

﹁現

代篇

﹂(

春陽

堂︑

昭和

34月1

昭和

5

4

月)

など

︑ 近代戯曲における多くの全集刊行に結びついた︒最後に挙げた﹃日本戯山全集﹄﹁現代篇﹂

の 第

‑五

帆﹂

(w

m3

年同

l

﹁横

光利

一枕

刷﹂

の項目があり︑

﹁愛

の扶

拶﹂

もここに所収された︒横光の戯曲発表が

集中するのは︑

およそ大正十三年から昭和三年にかけての五年間で

5

︑﹁新感覚派﹂時代と重っている︒

と司時 に戯山・前劇流行の気運とも辿動していたことがわかる︒

横光の戯山全般についての言及は

﹁一体氏の戯山の中心をなすものはそのテ

i

マではなくて︑新鮮な白によっ

て服

し山

され

る感

覚的

情調

であ

る︒

﹂(

﹁検

光利

一筋

解説

﹂﹃

日本

戯山

全集

﹄前

倒)

あるいは

彼の戯山には殆ど筋らしい筋は凡られないものが多い︒

それだけに構成はルーズで小説的平板さは免れない が

どこか独自の新鮮さが漂っている︒すっとぼけたような素朴なユーモアも漂っていてその感覚的情緒に

は来て難い味がある︒

(大

山功

﹁横

光利

一﹂

﹃近

代日

本戯

曲史

﹄第

2

﹁大

正篇

﹂近

代日

本戯

尚史

刊行

会︑

附和

付年

叩月

)

など

﹁新

感覚

派﹂

のニュアンスを漂わせたものが主流となっている︒

一方で初期の戯山についてのものだが︑﹁新感覚派の開始と自認した﹃御・身﹄に収録されている﹃食はされたも

の﹄

(大

口・

2)

︑﹃

男と

女と

男﹄

(大

口・

4)

︑﹃

一出

月﹄

(大

山・

5)

の戯曲三作の古風さは

︿新

感覚

﹀ とは無縁なものと

言っ

てよ

い︒

﹂(

関谷

一郎

﹁初

期微

光利

一小

考﹂

﹃閑

却と

国文

学﹄

平成

1年5

月)

とす

る︑

一見﹁新感覚派﹂

とは相容れないよ うな

言及もみられる︒

これも﹁新感覚派﹂時代を基制とした悦点からの

という解釈だといえ

﹁古

風さ

しか

し︑

これらの併し方は る

一側耐として妥当であろう︒ただ︑当然のことながら﹁新感覚派﹂を基制とする視点だけで︑

航光の戯山全般を

m

解することができない複雑さを側々の戯山作品はもっており︑

これまであまり着目されてこ なかった個々の戯州そのものにも眼を向けていく必要があるだろう︒

先に引用した問所で戯山に対して

﹁小説的平版さ﹂という一詳言がみられた︒

ここには表現方法としての小説形 式と戯山形式の混在する作品自体をとらえ抗してみる問脳性を平んでいる︒

とりわけ︑

こうした表現方法として 形式の交錯する特徴を端的にあらわしている戯山作品が

だと思われる︒

﹁愛

の挨

拶﹂

﹁昭

二年の作では﹃愛の扶修﹄を逸することができない﹂(保日正夫﹁航光利一

の戯

山時

代﹂

﹃悲

劇務

劇﹄

平成

19 )

ーとされ︑﹁心開軌を多同化した戯山としてかなりの成功を収めていると目される作品﹂(佐藤昭夫﹁償光利

一の

戯 山

第三車 受 存 者へのまなさし

︿四人称

への

ドラ

マト

ウル

l﹂﹃悲劇喜劇﹄同前)として重要視されている戯山でもある︒

﹁おそらく横光おの戯山としてはよいもの﹂

あるいは

﹁この作品には喜びをさまたげ

同時代一刊でも金子

洋文は

る惚

一さがない︑向山さがある︑立体的でしかもながれるものを感ずる︒﹂(﹁三

月戯

山評

﹂﹃

前刷

新削

﹄昭

24

月号

)と

林一

関雌

﹁芝山上手だ︒

作者の組ひどころ如何に拘ら

評価している︒

﹁新 潮合 作会

﹂(

﹃新 潮﹄ 昭和

24

では

ず推かだ︒﹂とし︑尾崎士郎も﹁この作品は技巧的に朗かな感じをうけた﹂と評価︒このような好評の

一方で︑林

71 

は﹁然し︑横光氏はかう一戸ふ方面だけに進んで行くべきではないと思ふJ

と言い︑尾崎も﹁これは僕がこの作者

72 

に求めてゐる作品ではない︒﹂と述べている︒こうした背尽には︑

たとえば川端康成が横光の

﹁青い石を拾ってか

ら﹂

(﹃

時流

﹄大

正日

3

号)

﹁横光氏の作品としては︑令一く珍らしい﹃私小説﹄である﹂︑﹁父を失った頃の不幸

と困

窮の

記録

であ

る﹂

(﹁

三月

諸純

誌創

作評

﹂﹃

文芸

附代

﹄大

M4月号)と評したのと同質的な意味を合んでいたとも忠

われる︒林や尼崎は︑芝居あるいは技巧の巧さとは違った小説(戯曲)︑とりわけ﹁私小説﹂的な資質に期待して

いたのかもしれない︒このような傾向は当時の

﹁心

境小

説﹂

理雌と同時に

﹁私

小説

論争

あるいは﹁心境小説諭

争﹂を背景として考えることができるのではないだろうか︒横光自身の立凶如何にかかわらず︑

川端も実際見出

したように横光の小説にもそのような傾向は波及していた︒

以上のような問題を踏まえて

﹁愛の挨拶﹂を考えてみたい︒

A4iLTErt 

﹁小

説﹂

の位相

まず﹁愛の投拶﹂作中の

﹁小

説﹂

を中心にその周辺の記述も考慮し︑川時代の文学状況と相関させながら︑

の小説形式について検討してみよう︒

﹁愛の挨拶﹂冒頭は︑戯曲の定石どおりト市による舞台設定が示されるところからはじまり︑

﹁校

正係

甲 乙

叩が声を上げて校正刷りを読み︑乙が原稿を見詰めてゐる︒﹂という状況が説明されたあと︑

﹁嫡

子は

ι

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