• 検索結果がありません。

熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ"

Copied!
41
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ

著者 野村 幸正

発行年 2009‑12‑16

URL http://hdl.handle.net/10112/00020074

(2)

189  

10章   透明な動き

Ⅰ 

  図

1  行為と意図

  われわれがいま・ここで行為しているかぎり︑当然何らかの意図をもっている︒行為は意図を

具現するためのものであるが︑その意図が必ずしも当事者に意識化され︑それがつねに顕在化さ

れているとは限らない︒たとえば仏像を彫ろうとして部屋に入れば︑意志に基づいた意図の形成

はすでにある︒また︑仏像を彫り進めてゆく過程で︑次はこの部分を彫ろうとして刀を動かす時︑

そこには意図および実行がある︒しかし︑その際の意図は必ずしも明確な意識を伴った﹁彫る﹂

という意図ではない︒その意図は仏師のなかにあるのではなく︑むしろ仏師と仏像のあいだに埋

め込まれているというべきであろう︒

  このことは反省意識の消滅が顕著に見られる行為︑たとえば緊急事態での解放された行為では

いっそう明らかになる︵第

4ッォ等がアフ器ットの計ピクコ章参照︶︑はトッロイ︒パードしたも

のに依拠しながら︑必要な行為を順次遂行してゆく︒これらの過程は︑単に行為者の自動化が進

(3)

んだ結果ではなく︑むしろ行為が外界とのかかわりのなかに埋め込まれ︑環境の情報を積極的に

利用することができるようになった結果である︒意図がかかわりのなかに埋め込まれてゆくと︑

生態心理学でいうアフォーダンスに基づいて行為が生成されるようになる︒意図が意識に上らな

いままに外界からの制約と支援を受けることで︑必要な行為が必要な時に遂行しうるのである︒

これが可能なのは︑脳を含む身体が環境と同調し︑相即しているからである︒

  では︑なぜ脳を含む身体は外界に同調し︑相即しうるのであろうか︒そこには進化軸上で獲得

された生得的なメカニズムを想定しうる︒その一つが︑たとえば最近の脳科学研究で関心を集め

ているミラーニューロンの活動である︒サルの脳では︑特定の行為を行う時に︑あるニューロン

が活動するが︑他のサルが同様の行為を行うのを観察した時にも︑そのニューロンがおなじよう

に活動する︒そのような神経細胞はミラーニューロンと呼ばれ︑他者の行為を通して自己の置か

れている状況を理解してゆく︒ミラーニューロンは自己のとるべき行動を選択する際に重要な役

割を果たしていると思われる︒

  この神経細胞の活動から推測するに︑われわれの脳内では︑行為とその担い手が環境に埋め込

まれた形で表象化されていることになる︒いま︑相手がある行為をするのを見た時︑自分の脳の

中でも自分がおなじ行為をしているかのようなニューロンの活動が生じ︑また自分がおなじ行為

を実行する際にもこのニューロンは活動する︒とすれば︑ある意図の下でプランが表象化される

と︑相手がある行為をするのを見た時と同様に︑このミラーニューロンが活動し︑それに相即し

(4)

191  第 10 章 透明な動き

て行為が生成されることは充分にありうる︒

  脳科学研究の知見からすれば︑意図は行為レベルだけでなく︑生得的な行動︑さらには反射に

まで拡大されることになるが︑まともな心理学者なら反射に意図があるとはいわないはずである︒

確かに︑進化の初期の生命体の行動は単純なものであるが︑単純な行動であっても︑それはその

生命体が世界に適応し︑生き残るための手だてである︒とすれば︑そこに何らかの意図を感じな

い訳にはゆかないが︑その生命体が意図を内在させていると考える必要はない︒あたかも意図を

内在させているかに見える行為であっても︑それは進化の過程で種が獲得したものであり︑ある

条件下で解発したものである︒それは生得的なものであり︑その生命体がその行動を意識してい

る訳ではない︒

  一方︑人間の行為であれば︑その意図は個々人のうちにあるが︑その意図のすべてが行為につ

ながる訳ではない︒行為が生成されるかどうかはその状況に依存する︒行為が現在行われている

状況に整合しない場合では︑行為は当然抑制される︒逆に︑意図がなくとも状況がそれを要求す

れば︑必要な行為が生成されることも充分にありうる︒いずれにしても︑意図が即行為の生成に

直結するというものではない︒これが状況的認知論の基本的な考えである︒

  では︑状況に整合しえない場合とは︑いったいどのような事態をいうのであろうか︒それは単

に状況がそれを求めていないだけのことであり︑行動を支える豊かな環境︑つまりアフォーダン

スの集合としての環境が未だ整っていないだけのことである︒アフォーダンスを核にした生態心

(5)

理学の考えからすれば︑意図は表象ではなく外界とのかかわりのなかで立ち現れる行為としてあ

る︒それは環境が与えるアフォーダンスに︑身体が相補的に反応するなかで行為が生成されたに

過ぎない︒これが意図と行為を不可分のものとする一元論的な見方であり︑エドウィン・ホルト

の行為の捉え方である︒彼は一九三〇年代に活躍した行動主義者であるが︑その考えは独創的な

ものであり︑いまなお最先端を進んでいるといってよい︒幸いにも﹃生態心理学の構想﹄︵佐々木

と三嶋︑二〇〇五︶として我が国にも紹介され︑行き詰まった感のある認知心理学や生態心理学

に新たな光を与えている︒

  ホルトによれば︑﹁意図とは︑身体という機構が環境との関連を保ちながら実行する⁝⁝ひとま

とまりの行為である﹂︑さらに﹁意図とは身体の複合に基づいて世界の何かに出会うことであり︑

その何かをゴールとして︑それに向かう身体の組織を作り上げ︑組織の動きを熟させてゆくこと

である﹂︵佐々木と三嶋︑二〇〇五  頁一三︶︒ホルトは動物の移動と船舶の制御の違いを次のよ

うに喩えている︒たとえば船舶は︑スクリューのようなそれ自体は定位にかかわらないが︑一方

向への推進だけをもたらす器官が︑別だての機構である方向舵と組み合うことではじめて目的地

を定位できる︒しかし︑動物の推進器官は複数の感覚器官への入力と連動することで︑その動き

には目的に向かうことがはじめから埋め込まれている︒彼によれば頭に表象という意図があり︑

それを具現する行為があるという訳ではないのである︒

  意図と行為を二元論的に捉えるのか︒それとも一元論的に捉えて︑意図がかかわりのなかに埋

(6)

193  第 10 章 透明な動き

め込まれているとみなすのか︒ここではこれらを対峙させるのではなく︑いずれも習熟の過程で

見られる二つの側面と考える︒たとえば解放されたパイロットの行為は意図と分かちがたく一体

化しており︑これに対して初心者では表象としての意図があり︑その制御の下で行為がある︒と

すれば︑解放された行為は意図の外在化に︑初心者の行為は意図の内在化によるものである︒こ

れらの境界は曖昧であるが︑行為の拡がりの最先端がその境界である︒その拡がりが限られてお

れば意図は内在化し︑限りがなければ意図は外在化しているということになる︒

  そもそも行為は︑自己を未来志向的に析出してゆく手だてである︒われわれは行為を介して自

己を投企している︒それは︑現存在が自己に開かれている構造において︑能動的に自己を具現化

してゆくことであり︑それが即行為であるからである︒なかでも熟達者の行為は︑その外在化し

た意図からなる環境のなかで︑その意図を具現する身体の働きとしてある︒その行為は︑その環

境を特定する情報の知覚︑さらにはその特定のための機能的な働きかけとしての作動からなる︒

行為を支える豊かなその環境では︑人は相手の目的や互いの意図をその場に提供される手がかり

に依拠しながら︑自分の意図や目的に引き込んで理解し︑またその場でのかかわりを自分の意図

にあったものとして構成してゆく︒この環境は自然科学のいう環境ではなく︑歴史的な所産であ

って︑しかも濃密な意味の集合としての環境である︒この環境の下では︑人はその環境に支援さ

れ︑また制約されながら行為を生成してゆく︒

(7)

2  場

  意図を具現する行為はつねに固有の状況の下で生成される︒状況とは︑一方では文脈という言

葉と重なり合うように︑日常的な時間の経過を表す概念である︒また︑他方では︑その人の身体

が置かれた配置を含む空間的な概念でもある︒しかし︑これらは厳密には分けられるものではな

い︒増田︵二〇〇二︶によれば︑その人自身を含めてその空間にあるすべての人やものは︑それ

ぞれが独自の時間的な経歴をもっている︒それらがいま・ここでかかわることによって︑それぞ

れの状況が立ち現れ︑その状況に依存する形で行為が生成される︒状況とは︑つねにいま・ここ

というタイミングを含んだものである︒それゆえに︑その行為者は他者を含む道具や環境と対立

するものではなく︑それぞれが相補うことによってひとつのシステムを形成している︒そこには

自分がいるだけではなく他者がいて︑さらにはさまざまな道具がある︒そのなかで人は他者と協

力し︑それらの道具を使って行為を生成し︑生きている︒

  その状況の下では︑行為は明確な指示がないにもかかわらず︑そのつど必要に応じて生成され

てゆく︒しかも︑その行為が的を射たものであるからこそ︑さらなる行為を導き︑最終的に一つ

の熟達行為に︑また作品に至るのである︒そこには行為者の意図を超えた自己組織化の力が働い

ていると考えてよい︒この立場からすれば︑獲得される知識や技能についても︑あらかじめ教え

られるべきものが厳然としてそれ自体あって︑それが教授者から学習者へ移行してゆくのではな

い︒学習者は自分の所属する実践共同体のなかで︑自らの活動を通して知識や技能を獲得してゆ

(8)

195  第 10 章 透明な動き

くのである︒その具体的な姿を︑私は九世紀に造営されたというカイラーサナータ寺院に見た思

いがしたのである︒

  アラビア海沿岸の商都ムンバイ︵ボンベイ︶から東北部に五〇〇キロ︑デカンの大地にエロ

ーラがある︒近くにはアジャンタもあり︑ともに世界でも屈指の石窟寺院で有名である︒その

規模の大きさ︑精巧さには目を見張るものがあり︑なかでもカイラーサナータ寺院のそれは際

立っている︒この寺院では︑その建築物も内部の彫刻もすべて一枚の岩から丸ごと彫りだされ

たもので︑奥行き八一︑幅四七︑高さ三三メートルのまったく継ぎ目のない一つの巨大な彫刻

である︒着工から完成まで百数十年の年月を要したとも云われている︒何世代にもわたって石

工が毎日鑿と槌で彫りだしたものである︒もちろん︑基本的な図面はあったであろうが︑綿密

なものではなかったはずである︒自然の岩石を彫り出すのであるから︑いつどのような岩層に

出会うとも限らない︒実際には︑建築の途上でしばしば設計の変更があったことは否定しえな

い︒着工時点での設計はかなり自由度が高いものであったのであろう︑だからこそ︑あれほど

までの完成度を追求できたのではないかと思われる︒ ︵野村︑二〇〇五c︶   当時の寺院の建築現場を想像するに︑着工から完成までの何世代にもわたって︑途切れること

なく優れた棟梁が現れ︑彼らが幾多の石工たちを指示し︑さらにその石工たちが多くの弟子を使

(9)

って仕事を進めていったのであろう︒そのためには︑世代を超えて石工のわざを伝えてゆかなけ

ればならなかったはずである︒それが伝えられなければ︑あれほどの寺院は到底完成には至らな

かったはずである︒実際には︑寺院を彫り出すという作業を進めながら︑同時に弟子たちを石工

として育てていったと思われる︒

  見事なまでに完成度を高めた寺院のデザイン︑緻密な彫刻︑そしてその配列を見ると︑工事に

携わった棟梁や石工たちの技量の高さが推察される︒少数の優れたわざの持ち主が多くの石工を

差配したというよりは︑携わった多くの石工たちの技量もまた優れたものであったに違いない︒

石工たちは過去に彫り出されものに︑自分に割り当てられた仕事を単に付け加えてゆくというの

ではなく︑むしろ工期のいつの時点であっても︑またどの部分の彫刻であっても︑寺院建築の基

底を貫く思想︑コスモロジー︑設計概念に依拠しながらも︑いま・ここでの彫る行為それ自体に︑

未来の完成した姿を絶えず析出していたに違いない︒それだけの技量を備えた石工たちであった

からこそ︑彼らのいま・ここの拡がりのなかに︑おのずと完成した姿が立ち現れたのではないか︒

  われわれは外部観測の視点から︑寺院の造営を百数十年に跨がる時間の経過として捉え︑その

時間に沿った石工の働きを想定する︒そのため棟梁や石工のわざが次世代に伝承され︑かつ継承

されることが不可欠と考えたのである︒また︑棟梁の指示のもとで何千人もの石工が働いている

かのようにみなすこともできるが︑現場で働いている石工の内部観測からすれば︑互いを排除す

ることなく仕事を進めていたに過ぎないのではないか︒石工たちがすべきことは︑ただいま・こ

(10)

197  第 10 章 透明な動き

こで彫ることのみであったはずである︒その拡がりのなかで︑次世代の石工にわざが伝えられた

のであって︑それはあくまでも結果でしかない︒あるのはいま・ここの拡がりのなかでおのずと

立ち現れた彫るという行為でしかない︒だからこそ︑一つのまとまりある寺院として︑しかも共

有するコスモロジーの現れとしての寺院が完成したのであろう︒

Ⅱ  なめらかな動き

1  その定義と特性

  行為者の意図が表象として内なる世界にあるとしても︑それが状況に埋め込まれてゆくと︑そ

の行為は熟達者にふさわしいものになる︒それがぎこちない動きからなめらかな動きへの移行で

ある︒ただ︑いずれの動きであっても︑それはあくまでも行為者の動きであり︑観察者のそれで

はない︒しかし︑観察者を離れて行為はないともいえる︒現に︑われわれは他者のぎこちない動

きに接すると︑自分の身体がそれに同調しえず︑神経に障る違和感を覚える︒その動きの一つひ

とつが分断した事象として認識され︑それが一つの連なりとして観察者に捉えられないからであ

る︒とすれば︑たとえ行為者がなめらかな動きとして自覚していても︑観察者にそうは見えない

のであれば︑それは必ずしもなめらかな動きとはいえないように思われる︒

(11)

  なめらかな動きは行為主体の行為であるとしても︑行為者だけで完結するものではない︒むし

ろ観察者がなめらかな動きとして捉えて︑はじめてその動きはなめらかなものとなる︒観察者と

行為者の双方がかかわりあうなかで︑双方が一体化し︑次にそれが分化発展することで︑はじめ

て行為者がなめらかな動きを演じ︑また観察者もそのように捉えられるのである︒

  このことは演劇が舞台を介した演技者︑観客双方の産物であることからも明らかである︒演技

者には︑演じる役や状況にふさわしい演技が求められるが︑一方では自らの演技を観客の視点か

らモニターすることも必要である︒安藤︵二〇〇六︶は前者を役の視点︑後者を観客の視点と呼

び︑さらに俳優の視点を上げている︒これは役でも観客でもない俳優個人の視点であり︑熟達し

た俳優はこれらの視点を持ち合わせているという︒これら三つの視点は︑なめらかな動きが行為

者だけでなく観察者のそれも重要であることを意味している︒

  これらの視点を合わせ持ち︑しかも複雑な行為があたかも一つの無駄もない動きとして観察さ

れる時︑それをなめらかな動きと呼ぶことにする︒一見すれば︑その動きはルーティンワークの

所産であり︑単なる反復であるかのように思われる︒しかし︑その動きが現実のものであるかぎ

り︑完全な反復などはありえない︒微視的に見れば︑主体は環境に対して効果的に即応すべく︑

複数の動きのなかからしかるべき動きを絶えず選択しているはずである︒そこには中断に至らな

いにしても︑時には選択の誤り︵マイクロスリップ︶も避けられない︒このような選択の幅ある

いは誤りの可能性があるからこそ︑逆に状況の変化に即応しながら︑しかも的確に行為を生成し

(12)

199  第 10 章 透明な動き

うるのである︒そのような行為がなめらかな動きを伴ったものであることは充分にありうる︵第

4参照︶︒   このような行為が︑注意をあまり必要としない自動処理によって行われたものであるとしても︑

その行為は行為者の制御のうちにあると考えられる︒その制御は二つの相反するベクトルからな

り︑その一つは興奮であり︑いま一つは抑制である︒興奮は力を発揮することであり︑瞬発力等

と深く関係している︒一方︑抑制は力を抑えた形で発揮する際には重要である︒力任せは誰にで

もできるが︑力を抑えることは難しい︒なめらかな動きは︑興奮と抑制という互いに矛盾するも

のが統合した結果であり︑そこには主体の長期に及ぶ習熟の期間があったはずである︒

  なめらかな動きを身につけるためには︑一般には︑頭︵心︶で描いていることを身体で具現す

る道筋を徹底させることである︒そこには頭︵心︶による身体の制御や支配という考えがある︒

しかし︑この考えはたとえ自動化につながるとしても︑必ずしもなめらかな動きをもたらすもの

ではない︒なめらかな動きは主体と外界とのかかわりによるものであり︑主体が外界の変化を直

接的に捉え︑かつそれに的確に反応してゆくなかで立ち現れてくる︒そのためには心身の二元対

立を超えた濃密な一体性︵oneness︶を獲得し︑しかもそれを必要に応じて分化発展させてゆく

主体の力量が求められる︒﹁私が〜する﹂という人為を捨て去り︑﹁それが〜する﹂という境地に

至ることが重要なのである︒

  ところが︑人為を捨てることはそれほど容易なことではない︒そのためには練習や努力といっ

(13)

た人為が必要である︒われわれはこれらの人為を積み重ねることで︑はじめて人為を捨て去り︑

自分自身から離脱し︑心身の一体性に到達しうる︒荘子のいう無為自然に至るためには有為自然

を避けては通れないのである︵森︑一九七八︶︒

  伝統的な世界で重視されている型とは︑学ぶべき芸道の本質に至る道筋であるばかりでなく︑

その奥にある離脱を目指したものである︒それを身につけるためには修行が求められる︒ただ︑

修行を介して得られた一体化は持続するものでもなければ︑不変のものでもない︒それは外界の

変化に即応する形で絶えず分化発展し︑新たな局面を迎える︒とすれば︑人為を重ねることで獲

得された心身の一体性はあくまでも通過点であり︑一つの到達点でしかないことになる︒修行に

終わりがないのは︑結局このためである︒

  なめらかな動きのもつこれらの特性は︑近代社会を構成する基本的な概念︑つまり速さ︑量︑

正確さをもちながらも︑一方ではわれわれがそのなかで見失った何かの現れではないかと思われ

る︒その何かとは速さ︑量︑正確さを補償する新たな概念である︒現象としては︑⑴質の再評価

であり︑⑵結果ではなく過程を重視するものであり︑⑶なめらかな動きにスピリチュアリティ︵霊

性︶を感じ取る︑等である︒また︑その理論的背景には︑⑴主客分離から客体との調和︑関係主

義への移行があり︑⑵人為を排除した﹁自然︵じねん︶の思想﹂への回帰があり︑⑶身体知︑暗

黙知を重視する傾向がある︑と思われる︒

  これらの現象は必ずしも理論的に説明できるものではないが︑これらの意味するところは科学

(14)

201  第 10 章 透明な動き

の知︑近代の知のもつ限界を補償する︑さらにいえば代替する新たな知の可能性を内在している︒

それは︑ある意味で伝統的な東洋の知にもつながるものである︒たとえば︑東洋では自然との一

体化に重きを置いた思想があるが︑この自然は自然科学のいう自然とは随分違ったものであり︑

それぞれの種にとって生きられる固有環境としての自然である︒そもそも東洋でいう自然とは﹁じ

ねん﹂であり︑文字通り﹁おのずからそうであること﹂である︒そこには人間に対峙する自然︑

また人が制御すべき自然という見方はない︒

  いまやわれわれは︑数値では表すことのできない質や︑言葉で記述できない身体知︑さらには

暗黙知を排除しては︑心身の働きに言及しえないのである︒それだけでなく︑心身を超えて宇宙

と一体化した新たな概念である︑たとえば気やスピリチュアリティ︵霊性︶が心理学を含む諸科

学に積極的に取り入れられないかぎり︑新たな展開は望めそうもない︒なめらかな動きに関する

研究は︑現象としてはありふれたものであるとしても︑その深部には学問的な発展に貢献する何

かがある︒

2  なめらかな動きと心

  外部観測が主客分離の捉え方であるのに対して︑内部観測はかかわりの別称でもあるように︑

ものごとを関係として捉える︒後者のそれは伝統的な社会や人びとの日々のあり方の基底にいま

なお根強く見られる︒たとえば︑一体一体仏師によって彫られた仏像はその所産である︒また︑

(15)

前者を追求したのが自然科学であり︑現代社会ではその知見はもの造りに徹底的に活かされてい

る︒現に︑近代科学の粋を集めた技術を駆使して仏像を作ることも可能である︒気に入った仏像

を選びだし︑厳密に測定し︑それを再現すればコピーではあるものの︑それなりの仏像ができあ

がる︒手彫りと違ってマシンの動きは︑あたかもボルトを削るがごとく無駄のない︑なめらかな

ものである︒しかし︑これをなめらかな動きと呼ぶのはどうであろうか︒

  なめらかな動きと呼ぶには︑それが人の無駄のない行為であることが前提である︒としても︑

そのような行為でありさえすれば︑それが即なめらかな動きという訳でもない︒たとえば︑模写

や模刻に優れた人の行為は無駄な動きのないものであるが︑はたしてここでいうところのなめら

かな行為と呼ぶべきものか︑意見の別れるところであろう︒おなじことは波多野と稲垣︵一九八

二一九八三︶のいう定型的熟達者と適応的熟達者の違いにも当てはまるのではないか︵第

4章

参照︶︒模刻者や定型的熟達者のいずれにしても︑たとえその動きが無駄な動きのない手際のよい

ものであったとしても︑それが即なめらかな動きではないように思われる︒なめらかな動きには

表面のなぞりではなく︑その内面が表出したものでなければならない︒それは形の問題ではなく︑

あくまでも型の問題なのである︒だからこそ︑なめらかな動きと心の関係に人びとが関心を抱く

のではないか︒

  なめらかな動きには行為者と外界との調和が不可欠であるが︑その調和は受動的なものではな

く能動的なものである︒それは行為主体が外界とかかわることで︑自らのうちなるものを表現し︑

(16)

203  第 10 章 透明な動き

また具現したものである︒たとえば仏像彫刻でいえば︑仏師が対面した木とかかわり︑内なる世

界を彫ることで表現することである︒それは︑一方では素材に依拠しながら︑また他方では内な

る世界の創造的な表出であってはじめて可能である︒それだけでなく︑その仏像を見る人に︑そ

のなめらかな動きの背後にある心を伝えて︑はじめてその行為がなめらかな動きとなる︒

  では︑なめらかな動きの本質とは何か︒その何かを﹃荘子﹄の﹁養生︵ヨウセイ︶主篇﹂の庖

丁︵ホウテイ︶と文恵君︵ブンケイクン︶との遣り取りに見てゆく︵福永︑一九六六︶︒荘子のい

う天理への随順︑つまり無為自然とは己を虚しうして自然に随うこと︑天理に随順することであ

るが︑その無為とは単に何も為ないことではなく︑大いなる鍛練の果てに得られる無心の境地で

ある︒それは為さざるなきの無為であり︑一種の積極的な行としての無為である︒

  その真意は﹁臣の好むところのものは道なり︒技を進えたり﹂に集約される︒庖丁によれば︑

私が牛をはじめて料理した時分には︑目にうつるものは牛ばかりで︑どこから手をつけてよい

のか皆目見当さえつかなかったが︑やがて牛の体のそれぞれの部分が目につくようになり︑牛

刀の入れ所がここぞとつかめるようになり︑現在では形を超えた心のはたらきで牛をとらえ︑目

で視︑形に頼って仕事をすることはないという︒いまやあらゆる感覚知覚はその動きをひそめ︑

精神の働きだけが活発に行われ︑﹁天理﹂すなわち牛の体にある本来自然の理に従って︑つまり

見えてくるままに牛刀をいれてゆくのである︒ ︵福永︑一九六六︶

(17)

  無心の境地は熟達化の階梯を上るなかで獲得されたものである︒それ以前では︑階梯内あるい

はまた階梯間のいずれにおいても︑中断を余儀なくされるような明確な反省を伴った問題解決が

あり︑また一方では︑一見ルーティンワークのように見られるが︑実はそのなかで進行している

微細な問題解決があったはずである︒前者に関しては︑たとえばそれまで持続していた行為が中

断し︑そこに潜入していると︑それまで見えなかった情報を特定しうるようになり︑反省を伴っ

て問題を解決することがある︒この他にも明確な反省を引き起こす契機は多々ある︒道具の導入︑

外界の支援と制約の変更︑等による状況の変化がそれである︒そして︑たとえ当初は明確な反省

を伴った問題解決であるとしても︑それも確実に分散し︑微細化し︑やがてあたかもルーティン

ワークであるかのように行為を生成してゆくようになる︒これらは明確に二分しうるものではな

く︑双方は密接に関連している︒

  たとえば優れたテニスプレーヤーは︑ボールが来るところで待ち構えており︑余裕をもって事

態に対処する︒ボールを捉える行為が予測︑移動︑そしてボールの認知︑打ち返し︑といった形

に分散されながらも︑それらがあたかも一つの行為の流れであるかのように生成されてゆく︒そ

れは反復を繰り返すなかで︑問題解決の事態が分散され︑それにふさわしい形に微細化され︑ま

たマイクロスリップの可能性を内在しながら︑双方が一体となって働くからこそ︑彼︵彼女︶は

余裕をもってなめらかに動けるのである︒

  このように分散され︑細分される過程で︑熟達者はなめらかな動きを身につけてゆくが︑それ

(18)

205  第 10 章 透明な動き

は単に当該の行為を無駄な動きをなくして︑手際よく遂行するだけというものではない︒なめら

かな動きが状況の変化に即応している事実からすれば︑行為者は環境の微細な差異を的確に捉え︑

それに応じて必要な制御をしていることになる︒それを可能にするのが︑変化を的確に捉える感

受性であり︑さらには身体のあらゆる細部を制御する術である︒優れた感受性を持ち合わせた人

は︑時には微細な変化を的確に捉えうるが︑時にはその変化を変化として捉えないこともある︒

捉えられないのではなく︑あえて捉えないこともまた感受性のなせるところである︒状況に即応

したこの反応こそがなめらかな動きをもたらすのである︒

3  未完の行為

  あらゆるものは未完の途上にある︒たとえその先にしかるべき完成した姿を想定したとしても︑

未完と完成を分ける明確な基準は存在しないからである︒また︑完成した姿そのものが熟達化の

階梯ごとにそのつど違ったものになるからである︒実際には︑三分の出来には三分の姿が︑六分

の出来には六分の姿があるように︑どの時点であっても完成した姿があるともいえる︒それぞれ

の完成を全体とすれば︑それに応じてそれぞれにふさわしい部分がある︒その部分もまたさらな

る下位の部分からなり︑部分と全体はつねに相対的である︒いずれにしても︑われわれが直接関

与できるのは部分であって全体ではないが︑部分はそのまま全体でもある︒

  仏像彫刻にしても︑たとえレベルに差があるとしても︑その彫る行為はすべて部分である︒部

(19)

分を超えて全体を彫ることはできないが︑彫るべき箇所は全体との関連でおのずと決まってくる︒

彫る行為はつねに部分から全体へと移行する︒このことに疑いの余地はないように思えるが︑こ

の見方はあくまでも外部観測のそれである︒仏師の内部観測からすれば︑いま・ここで彫ってい

る箇所が必ずしも部分という訳ではなく︑むしろ全体というべきものである︒いま・ここの拡が

りのなかに部分を析出しているに過ぎない︒それは︑同時に部分の限りなき拡がりのなかに全体

を析出してゆくことでもある︒その意味で︑それは部分と全体の調和の所産である︒仏像なら︑

仏師が部分と全体を一つのものとして捉え︑それに応じて刀を動かす時︑その刀の動きはなめら

かなものになる︒

  彫るべきところはまえもってそれ自体あるのではなく︑全体との関連で規定される︒習熟する

につれて彫るべきところが確実に見えてくる︒要は︑彫るべきところがおのずと立ち現れるので

あろう︒としても︑それは単なる内的な表象の現れによるものでもなければ︑実際に木に仏像が

埋まっている訳でもない︒現実には︑双方のかかわりの所産であろうが︑双方の関係の度合いは

熟達の階梯の違いによって当然違ったものになる︒

  では︑木︵埋まっているであろう仏像︶と仏師とのかかわりとは何か︒かかわりとは︑厳密に

は人と人のそれであろうが︑それにもかかわらず木がかかわりの対象となること自体が︑実は仏

師の内面の表出であることを意味する︒それは︑木のもつ特性がその表出を引き出すとしても︑

その特性を引き出すのは︑最終的には仏師の内面の現れとしての彫る行為である︒とすれば︑彫

(20)

207  第 10 章 透明な動き

る行為やそのなめらかな動きは︑最終的には自己始動型のそれであるといってよい︒仏師は彫る

べきところがアフォードされるままに彫ったに過ぎない︒それは一見すれば︑外発誘導型の行為

のように思われるが︑誰もが彫れる訳ではない︒とすれば︑外発誘導を可能にしている内的な何

かがあるはずである︒その何かとは︑つまるところ自己始動型の行為ということになる︒

  ここでいう自己始動型は知的好奇心等によるものでもなければ︑また表象主義者が想定するよ

うな表象によるものでもない︒自己始動型の行為は外部から強制された動きではなく︑内なるも

のに従った動きである︒それは︑自らのうちに﹁原因﹂︵ただし手段︱目的分析のそれではない︶

を作り出してゆくという能動的な行為である︒その内なるものは表象ではなく︑あくまでも内部

観測を介してそのつど生成される何かである︒自己始動型の行為は長い経験に基づいて涵養され

た豊かな人の働きの表出である︒

  自己始動型の行為は必ずしも明確な意識を伴うものではないが︑無意識の働きというものでも

ない︒必要なら意識しうるという特性をもつ︒この領域が︑たとえば黒田︵一九三三︶が﹃勘の

研究﹄でいう覚である︒黒田によれば︑われわれは明確な意識を伴わないが︑なおかつ自らの行

為を自証しうる領域がある︒自証︵自内証︶とは︑自らのうちに証することの意味であり︑直接

自我に与えられる精神的事実が存在する場合をいう︒体験の意味するところに近い︒無意識は自

証されないが︑自証することが即意識という訳ではない︒通常の意識はほぼ識に相当するが︑こ

れ以外になお自証しうるものがある︒それが意識︱無意識の区別を超えたものであり︑彼が覚と

(21)

呼ぶものである︒

  覚の特徴としては︑⑴部分をすべて漏らすところなく包蔵しながら︑しかも部分に拘泥しな

い全体の性質をもつ︑⑵あえて言説をもって形容する必要を認めない︑⑶深みがあり︑破壊す

ることなしにそのある部分があるがままの姿の深みに徹する︑⑷動的な性質を帯びている︑⑸

現実の客観世界との交渉では識に比べて間接的である︑⑹識の代理をする︑⑺一種軽快な感じ

が伴う︑⑻自我との関係からみると間接的である︑等がある︒ ︵黒田︑一九三三︶

  行為者は︑一方では主体の意図に沿いながらも︑また他方では状況の変化を加味しながら︑自

己組織的にしかるべき行為を生成してゆく︒双方の事象がこととして︑互いにいま・ここで場を

共有するかぎり︑この考えは必ずしも的外れなものではない︒また︑その行為がなめらかな動き

であることはいうまでもない︒荘子によれば︑その動きは意識による身体の制御を超えたもので

あり︑﹁天理﹂のそれである︒それはひとえに修行の賜物であるが︑ただ修行によって得られるも

のは覚自証を身につけることであり︑世界をこととして捉えられるようになることでしかない︒

重要なことは︑それらに続いて生じる自己組織的な行為の生成であろう︒

(22)

二〇数年前であるが︑シッキムへの途上にあるカリンポの街で鍛造仏を幸運にも手に入れることができたチベットから逃れてきた人が生活に困窮し︑不本意ながら手放したものであろう

それを模刻しながら創作を加えたが︑光背のせいであろうか︑チベットの雰囲気がなくなっているようである︒ターラーとは︑人びとを悟りの彼岸に渡す女尊の意味であり︑チベットの人びとの深い信仰を集めている︒

ターラー坐像

 

楠造 総高一尺七寸︵平成一八年作︶

(23)

11章   境界と秩序

Ⅰ 

  界

1  開かれた世界

  地球上のあらゆる生命体は︑たとえ程度の差があるにしても︑いずれも開かれた世界に棲息し

ている︒なかでも︑他の生命体と質的に違った進化の道を辿った人類では︑その傾向が著しい︒

その契機が反省意識の獲得であり︑さらには言語の獲得であることはいうまでもない︒われわれ

はこれらを駆使し︑時間的︱空間的制約を克服することで︑他の生命体とは違った独自の世界を

構築している︒それが社会であり︑文化であり︑いずれも開かれた世界である︒

  まず︑われわれは感覚器官を介して世界のあり方を知覚し︑それを意識している︒それだけで

なく︑その意識に基づいて行動することで︑世界の変化に的確に反応し︑自らの生命を維持して

いる︒このあり方は︑進化の初期の段階のアメーバの捕食行動であっても︑あるいはまた進化の

最終段階にあると思われるわれわれ人間のそれであっても︑生命の維持という点ではなんら変わ

りはない︒いずれもいま・ここに生き残っている以上︑その行動に優劣をつけることは許される

(24)

212

ものではない︒

  しかし︑双方の行動には決定的な違いがあることも否定しえない︒アメーバは対象を捉え︑そ

れを捕食するとしても︑対象を知覚し︑捕食したという意識体験をもたないはずである︒これに

対して︑われわれは対象を﹁〜として﹂意識し︑しかもそれに続く行為にも意識体験を伴う︒こ

れらの違いは︑たとえば自動ドアのセンサーとドアボーイのそれに対応する︒センサーは対象を

﹁〜として﹂捉えたという意識体験をもたないままに作動するが︑ボーイは対象を人として知覚

し︑そして行為する︒そこには明確な意識体験を伴う︒

  では︑進化軸上のどのあたりから生命体が意識体験を伴うようになったか︑必ずしも定かでは

ないが︑犬は意識体験を伴い︑行動しているように思われる︒たとえば犬が悲しい体験や嬉しい

体験を伴い︑また飼い主を主人として意識していることは︑犬を飼った人なら誰もが知っている

ことである︒しかし︑犬は自分が主人を意識していることを意識している訳ではない︒また悲し

い体験をしているとしても︑自分が悲しい体験をしていることを意識している訳でもない︒それ

ができるためには意識の意識︑つまり反省意識の獲得を待たなければならない︒それは同時に言

語の獲得でもある︒

  われわれは獲得した意識や言語に基づいて固有環境︑つまり文化を構築しているが︑意識から

構築された世界は肥大化し︑また絶えず変化する︒それは他の生命体が環境に順応する形で生存

するのに対して︑われわれは環境を自分たちの都合に合わせて変えてゆく︑つまり逆順応︵竹内︑

(25)

一九八一︶することで生存しているからである︒このことが開かれた世界を構築し︑時間的︑空

間的に多様な生存のあり方を保証している︒一方では︑いったん構築された文化によって︑われ

われのあり方は厳しく制約され︑かつ閉ざされていることも事実である︒しかし︑たとえそうで

あっても︑文化であるかぎりいつかは開かれてゆく︒

  そもそも開かれた世界とは何か︒われわれが身体としていま・ここにあることを考えれば︑空

間的に開かれていることはいうまでもない︒しかし︑われわれの独自の進化のあり方を考えれば︑

またわれわれの心的活動︑なかでも自己存在の同一性を保証する記憶の働きが極めて大きいこと

を考えれば︑われわれはなによりも時間的に開かれているというべきであろう︒では︑時間的な

拡がりとは何か︒時間を過去︑現在︑そして未来への流れとして直線的に捉えるのであれば︑そ

の時間は主体とは独立にそれ自体として経過する︒そこでは時間的な拡がりはない︒それが拡が

りをもつためには︑主体が事象とかかわらなければならない︒かかわりのなかで過去が︑また未

来がそれぞれに析出されてゆく︒とすれば︑時間はそれ自体流れるものではなく︑主体が作り出

すものである︒

  開かれた世界はそれ自体厳然と存在するような世界ではなく︑そこに棲息するものと外界が相

互にかかわった際の所産である︒それは関係からそのつど規定される世界である︒私のあり方次

第では︑時には世界は拡大し︑また時には縮小する︒この拡大と縮小によって私のあり方もまた

変わる︒それだけでなく︑私のあり方は道具を自らに組み込むことで︑世界は飛躍的に開かれて

(26)

214

ゆく︒道具は棒切れであっても︑またそれがハイテクを駆使した人工知能であっても︑基本的に

は閉ざされている︒しかし︑それがいったんわれわれの身体に組み込まれると︑その道具は世界

に対して開かれてくる︒われわれの身体それ自体が開かれているからである︒としても︑開かれ

た世界と閉ざされた世界の境界は必ずしも定かではなく︑それはたえず変動しており︑われわれ

はそのつどその境界を設定している︒

2  境界とは

  境界とは︑哲学者ヴァルジ︵二〇〇四︶によれば︑いかなるものにおいても末端であるところ

の何かである︵ユークリッドの定義︶︒境界とは︑あるものXの末端はどの︵Xの︶部分も発見さ

れえないような外側にある最初のものであり︑かつどの︵Xの︶部分も発見されうるような内側

にある最初のものである︵アリストテレスの定義︶︒これらの定義は哲学の伝統においてなされた

ものであるが︑論理学︑数学の分野では︑境界AはAと非Aとの論理積の部分で等価であること

を意味する︒たとえば︑﹁Aである﹂を

1︑﹁Aでない﹂を

0とおくと︑Aの微分がすなわち境界

である︒数学において︑円Aが示された時︑円Aの輪郭線は円Aの領域にも属さないし︑円Aで

ない領域にも属さないといえる︒

  これらの明確な定義にもかかわらず︑実際に境界を定めようとすれば難しい問題に直面する︒

概念的に捉えれば︑陸地と海の境界は海岸線であり︑海抜

0メートルである︒しかし︑潮の満ち

(27)

引きでその海岸線は当然変動し︑しかもそれが地域によって違ってくるため︑何らかの基準が不

可欠である︒ところが︑その基準が国際的に規定されている訳ではない︒また︑基準を設定する

に必要な基本的な考えが確立している訳でもない︒我が国を取り上げても︑明確な一つの基準が

ある訳ではないようである︒たとえば地理学では︑東京湾のある地点の満潮時と干潮時の中間値

を海岸線とし︑それを基準として境界線を設定しているが︑多くの離島ではその基準では不都合

であり︑別の基準を用いているようである︒

  一見すれば︑海岸線といった境界に関しては︑誰もが受容しうる基準の設定は比較的容易な作

業と思われるが︑現実には難しいようである︒ましてや心理的な境界となると︑正直いって手が

つけられないほど複雑である︒自己と非自己︑あるいは快と不快の境界を定めることは︑第三者

はもとより当人にも極めて難しい︒それは︑結局自己と非自己との境界がそのつど変動するから

である︒  境界が問題になるのは︑ある事象Aと非Aとの関係が動的なものであるからである︒動的な関

係では︑境界もそのつど変動する︒では︑双方を峻別する境界とは何か︒その境界が身体を包む

皮膚であれば︑皮膚の内側を自己として︑またその外側を非自己として分けることができる︒こ

の場合であっても︑皮膚にごく近い部分︑たとえば衣服は自己の内側となり︑そのため非自己と

の境界は曖昧になる︒また︑たとえ皮膚から相当離れているにしても︑気に入ったものを身につ

けている際には︑そのものをも含めて自己であり︑境界は皮膚をはるかに超える︒それだけでは

(28)

216

ない︒電車の混み具合によって各人の設定する個人空間︑つまり非自己との距離はそのつど激変

する︒  海と陸地の境界は双方の動的な関係の結果であって︑海あるいは陸が一方的に設定したもので

はない︒同様に︑自己と非自己との境界は︑自己あるいは他者を含む非自己が設定したものでも

ない︒逆に︑境界が先に設定され︑その後に陸地と海が︑自己と非自己が規定されたという訳で

もない︒境界とそれらは同時に立ち現れたものであり︑関係としてある︒

  では︑関係としての境界とは何か︒それは行為者の意図とその状況のあり方で決定される︒し

かし︑われわれはどこまでが開かれた世界であり︑またどこまでが閉ざされた世界であるのか︑

まえもって分かっている訳ではない︒一方では︑いったん境界が設定されれば世界は閉ざされる

が︑必ずしも閉ざされたままでいる訳でもない︒以前とは違った境界が立ち現れることで︑それ

まで閉ざされていた世界が開かれることもある︒とすれば︑境界は他律的なものではなく︑むし

ろ自律的にそのつど立ち現れたものであろう︒それは行為を介してはじめて可能となるが︑その

行為はある明確な意図に基づいて生成された行為ではない︒むしろそれらの行為の多くは︑かか

わりの真只中で︑関係のないものが無視され︑また関係のあることが浮かび上がった結果でしか

ない︒

(29)

Ⅱ 

  序

1  風   土

  開かれた世界と閉ざされた世界の境界は必ずしも定かではない︒それはたえず変動しており︑

この変動に応じて︑われわれはそのつど境界によって構成される集合流の一コマとなる︒集合流

とは︑杉万︵二〇〇五︶によれば︑集合体の動態である︒集合体は︑われわれの身体とそれが占

有する空間とが結びつくことで成立し︑固有の世界を構成する︒それは生物一般にとっての環境

世界︵ユキスクル︑一九四〇︶である︒しかも︑その世界は絶えず構成され続けてきたことを考

えれば︑歴史的な経緯をも踏まえたものであり︑何らかの全体的性質を有する人たちとその環境

の総体のことである︒その環境には物理的環境のみならず︑広義の制度的環境︵習慣︑役割︑文

化︑言語︶も含まれる︒

  制度的環境は︑それがいったん生み出されると︑社会のあり方のみならず︑そのなかに生活す

る人びとのあり方までも厳しく制約する︒われわれは通常︑それ自体があたかも存在するかのよ

うに考えている︒しかし︑その制約がいかに強力であるとしても︑それは決して人類発生以前か

ら存在していた訳ではない︒このことは集合体が構成される経緯からしても明白である︒したが

って︑制度的環境は個人の自己と自然との出会い方に︑また個人の自己が自己を風土のなかに見

(30)

218

出す仕方によって基礎づけられている︒

  風土とは︑まず個と他者を含む世界との出会いを通して成立したものであり︑その出会いが組

織のあり方を規定してゆく︒この考えが︑和辻による風土論の趣旨である︒われわれは﹁寒さを

感じるということに於いて寒さ自身のうちに自己を見出す﹂のである︵和辻︑一九三五︶︒たとえ

ば︑われわれが﹁寒さ﹂を感じるという場合︑われわれは﹁寒気を感じる前に寒気という如きも

のの独立の有﹂を知っている訳ではない︒われわれは寒気と出会い︑そこに寒いという自己を見

出し︑服を着る︑暖をとるという行為を生み出している︒暖をとるという行為において︑寒さ自

身のうちに自己を見出しているといってよい︒この地球上に多様な行為があるのは︑その見出し

方が︑さらには自然が多様であるからである︒

  われわれは寒気と出会い︑暖をとるという行為をまったくの白紙の状態から始める訳ではない︒

﹁自己の風土化は︑われわれが自らの手で作り上げてきたものであり︑現在も作り上げつつある

し︑今後も作り上げ続けるものである︒この意味からすれば︑生まれた時から︑否︑生まれる前

から︑すでに風土の一部なのである﹂︵木村︑一九七二︑頁八九︶︒出会いという生の体験はその

つど生成されるものあり︑その出会いを過去のいつの時点として同定できるようなものではない︒

とすれば︑その出会いのあり方を組織に内在する規制力に起因させるのではなく︑むしろその規

制力がどのように生まれてきたかを問うことである︒それは外部観測に基づいた知見からは説明

不可能であり︑かかわりのなかでそのつど求めてゆく以外に手だてはない︒それが内部観測であ

(31)

り︑われわれはそれに依拠しながら自らの出会いのあり方を問うことになる︒

  そのつどの出会いは︑認知心理学的に見れば︑個々人が身を委ねている社会︑文化のなかで生

きてゆくに必要な手続き的知識からなっている︒それは︑ある領域や課題において問題を解くた

めに繰り返し用いられる手順であり︑食事の仕方︑歩き方︑挨拶の仕方等の家庭での躾から始ま

り︑学校での学び︑社会での働き方までに及んでいる︒家庭での躾︑学校での教育は︑社会で生

きるのに必要な手続き的知識を獲得するためのものである︒しかし︑われわれはそれらの手続き

的知識を獲得し︑それをそのまま適用して生きている訳ではない︒その手続き的知識に対応する

モデル︑つまり概念的知識︵波多野と稲垣︑一九八三︶を作り上げてゆく︒また︑その手続き知

識を自己説明することもある︒いずれにしても︑人びとはその手続き的知識をそれぞれの仕方で

意味づけ︑理解することで︑文化に︑風土に直接支配されないような存在となる︒

  風土の捉え方は多様であり︑必ずしも明確なものはないが︑ここでは木岡︵一九九四︶の風土

論の展開を参考にしながら︑以下のように定義しておく︒風土とは︑身体に固有である場所での

体験が個別的︑特殊的であり︑差異やズレを含むにもかかわらず︑それらを共存可能にせしめる

ような空間的な世界であり︑人間存在に固有な様相をもたらす世界である︒ただ︑この定義は風

土の場所的特殊性を強調することになり︑われわれのもつ開かれた特性が場所に限定されている

ことは否めない︒これに対して木岡は︑人間は空間を通じて一般的なものに開かれている点に注

目し︑風土が内的に自己完結した構造ではなく︑他の風土との接触や相互浸透をつねとするよう

(32)

220

な︑半開放的な世界だという︒人間は他者とのかかわりのなかで︑間風土的世界に足を踏み入れ︑

風土的宿命から脱却してゆく存在なのである︒

2  同時現成

  では︑かかわりとは何か︒集合流の連なりでは︑自己は自己として︑またそれに対峙する世界

は世界として未だ成立しておらず︑ともにかかわりの真只中にある︒それは経験以前の経験であ

り︑西田幾多郎︵一九一一︶のいう純粋経験を想定すればよい︒純粋経験は未だ主もなく客もな

く︑知識とその対象とがまったく合一しているが︑やがて主体としての自己︑客体としての世界

や出来事へと︑それぞれに分化発展してゆく︒このことははじめに自己があり︑それから経験が

生じるのではなく︑経験がまずあって︑その後に自己の自覚があるということを意味する︒

  分化発展という観点からかかわりに言及すれば︑まず主客未分の合一そのものがかかわりの根

源としてある︒私が経験するという自覚は未だないが︑私はそのなかに埋没し︑消え去るような

ものではない︒その証拠に︑やがて私が経験するというように自覚されてゆく︒この自覚の過程

そのものがかかわりの証である︒世界︑自己のいずれも動的なものであり︑かかわりを介して時

には拡がり︑時には縮小する︒その根源には自己と自己にあらざるものとのあいだの動的な関係

がある︒自己にあらざるものとは︑一つは文字通り自己以外のものであり︑他者を含む世界のも

のごとがその対象となる︒いま一つは︑自己の内面にあって未だ意識されない無意識の世界であ

(33)

る︒前者では意識が︑後者では無意識がかかわりの主役であるが︑普遍的無意識がその基底にお

いて︑他者のそれと通底していることを考えれば︑双方の境界もまた変動して当然である︒

  いずれのかかわりにおいても︑自己と他者︑自己と世界がそれ自体としてあり︑しかもそれら

がかかわるのであれば︑その関係は静的なものとなり︑結果の予測は容易である︒静的なかかわ

りは︑たとえば二要因の実験計画における独立変数の交互作用を考えれば分かりやすい︒一方︑

動的な関係では独立変数そのものが存立しえない︒そもそも動的な関係は純粋経験を介して立ち

現れるものであり︑かかわり以前にそれ自体独立に存在する経験ではない︒そこには未だ自己も

なければ︑それに対峙する他者や世界もない︒かかわりを介して自己と世界がそのつど立ち現れ

る︒もちろん︑個体間のかかわりとコミュニティ間のそれとでは︑その複雑さにおいて違いがあ

るとしても︑それぞれがおなじかかわりの原理に従うと考えてよい︒いずれのかかわりも等しく

動的な関係としてある︒動的な関係とは︑木村︵一九八一︶によれば︑差異を前提にしていると

いう︒﹁関係が関係それ自身と関係するような関係においては︑差異も差異それ自身とのあいだの

差異として示されるのでなくてはならない﹂︵頁一六一︶︒

  たとえば図︱地反転図形における双方の関係では︑一方が図となると︑それと同時に他方が地

となる︒これが成立するためには︑まず等質視野に差異が導入されなければならない︒その差異

はあいだとしての差異である︒この差異が動的な関係としてあることから︑時には図として︑ま

た時には地としての性質が立ち現れるのであろう︒これがゲシュタルト心理学でいう図︱地反転

(34)

222

関係が成立してゆく過程である︒

  差異としての関係が先行し︑図と地は同時に立ち現れる︒いずれか一方が︑他の一方に先行す

るというものではない︒それらが同時に立ち現れることを︑たとえば石原︵一九九三︶は同時現

成と呼び︑その内実を良寛の偈に求めている︒また︑これは禅でいう啐啄同時であり︑啐とは鶏

の卵がかえる時︑殻のなかの雛の鳴き声であり︑啄は母鶏が殻をかみ破ることである︒それゆえ

に︑啐啄同時とは師家と弟子の働きが合致することである︒

     良寛の偈     花無心招蝶     蝶無心尋花     花開時蝶来     蝶来時花開     吾亦不知人     人亦不知吾     不知従帝則

(35)

  蝶が来る時と花が咲く時が同時現成であるからこそ︑いのちの営みが保証されてきたのである︒

蝶が来た時に花が咲いていなければ︑蝶はその命を全うすることはできない︒同様に︑花が咲い

た時に蝶が来なければ︑花は受粉できないままに朽ち果てることになる︒これらのことは進化の

過程を顧みれば納得しうるはずである︒そもそも︑かかわりは生命を維持するための手だてであ

り︑生きることそのものである︒そのために外界としかるべき関係や秩序を構築し︑それを維持

発展することが宿命づけられている︒秩序の形態やそのあり方は実に多様であるが︑いずれにし

てもその秩序を維持できなくなった時が︑すなわち生命体の死である︒

  生命体の秩序形成とは︑かかわり以前の無限定の世界を自らの行為の働きによって限定するこ

とである︒生きているということは︑自らの行為を介して安定を保ち続けることである︒として

も︑それらは固定したものではなく︑安定から不安定へ︑不安定から安定へと絶えず変化し続け

ている︒そして︑そのような変化にもかかわらず︑自己が自己であり続ける根底には身体があり︑

さらにはその作動である行為がある︒また︑その身体は何らかの道具を自らの身体に組み込んだ

拡張された身体としてある︒

  かかわりの最前線は︑まず外界との接点である個別感覚であり︑手であり︑足である︒それら の接点は行為に埋め込まれており︑だからこそ手で触ってみる︑ヘフティング︵hefting ︶する等

の行為を介して︑ものごとのあり方を把握しうるのである︒その際の手の感覚は︑たとえ触覚と

いう個別感覚の働きによるものであるとしても︑その働きは同時に全体的なものである︒おなじ

(36)

224

ことは拡張された身体にも当てはまる︒たとえば杖を身体に組み込み︑それを自在に扱うものに

とっては︑感覚は手の先にとどまらず杖の先にまで行き渡っている︒杖と身体は一体化し︑どこ

までが手であり︑どこまでが杖であるのか︑その区別もない︒

  ところで︑行為は主体と世界のかかわりとしてあり︑かかわることで以前とは違った世界が︑

また行為主体が立ち現れる︒そして︑このことが新たな行為を引き起こす︒われわれは︑これら

の行為を介してものごとの意味を深く認識するようになる︒とすれば︑認識は外界の情報が一方

的に眼に入り︑それによって意味を把握するような受動的なものではない︒むしろ︑それを超え

て自己と世界の関係を把握することであり︑それを可能にするのが行為主体の能動的な働きかけ

である︒そもそも︑知覚は本来能動的なものである︒たとえばある景色を眺めた場合︑対象の動

きによっても︑また主体の動きによっても︑その光景は絶えず変化し︑違った姿を現す︒その変

化に応じて行為主体は対象の新しい側面を見出し︑それに対して新たに行為してゆく︒かかわる

ことそれ自体が新たなかかわりを呼び起こすのである︒

3  消滅する境界

  秩序の維持や発展は︑世界が絶えず変化していることと無関係ではない︒その変化は︑一つは

心身分離以前の身体的なものであり︑いま一つは言語を介したものである︒前者は身体的な同調

や共感であり︑後者は言語によるコミュニケーションによって生じたものである︒前者は進化の

(37)

初期の段階から生じるが︑後者は進化の最終段階で生じたものであり︑われわれは言語を介して

変化の多くを捉えている︒このことは︑前者の身体的な同調が不必要になったことを意味するも

のではなく︑身体的な同調を基底に据えた言語的なコミュニケーションが可能になったことを意

味する︒たとえ高次のコミュニケーションであっても︑それは必ずしも知的分析に依拠したもの

だけではない︒それを超えてわかりあえた予感︑あるいは理解できない失望感等々の心情︑感情

の関与もそこにはあるはずである︒そして︑これらが身体による同調や共感に支えられているこ

とはいうまでもない︒

  変化の根源にあるコミュニケーションは︑社会の支援と制約に支えられている︒支援と制約の

あり方がコミュニケーションの質に深く関係するのは︑つまるところ世界が開かれているからで

ある︒開かれた世界では︑多様なコミュニケーションが可能であり︑それを介して人びとの行動

傾向が変容するだけでなく︑目標それ自体をもまた変容してゆく︒逆に︑目標の変容が個人の役

割や行動傾向を変えてゆくこともある︒そして︑その変容に応じてそれぞれに秩序があり︑それ

に応じて境界が設定される︒秩序の構成には境界の設定が不可分であるが︑一方では境界を曖昧

にし︑時には消滅させることが重要な意味をもつこともある︒たとえば熟達者は︑時には境界を

明確にし︑時には曖昧にすることで︑状況の変化に即応している︒これが熟達行為であり︑なか

でも即興的行為である︒これらの境界の特性は行為者の意図の有無に深く関係し︑一般には意図

が明確であればあるほど境界は明確になる︒

(38)

226  意図の有無に関しては︑たとえばある生命体は︑複数の感覚器官への入力と連動することで進

むべき方向を確実に決めてゆく︒その方向がまえもってあり︑動物はその意図を表象として内在

している訳ではない︒このことは人間にとってもそのまま当てはまるが︑他の動物と違って反省

意識で自らの意図を意識することができる︒そのため意図を表象として捉えるのであろう︒本来

は行為のまえに意図が表象としてある訳ではないが︑意図を表象として捉えるなかで︑やがて表

象から意図を︑そして行為を生成する道筋も現れたのである︒このことが人間の行為の特殊性を

生み出している︒

  熟達者の即興的行為に関するかぎり︑いちいち意図が表象として頭の中にあるとは思えないが︑

熟達者が自らの意図を包括するような形で世界を捉えていることは否定しえない︒それが表象に

よる意図の把握であり︑その意識であるとしても︑やがてはその表象や意図は暗黙のものとなり︑

いちいち意識化されることはなくなる︒この事態では︑まさに動物とおなじく︑われわれもまた

複数の入力と連動することで行為を決めてゆく︒ただ︑他の動物との決定的な違いは︑われわれ

は必要ならその意図を表象として意識にとどめおくことができる点である︒それが黒田︵一九三

三︶のいう覚自証である︵第

10章参照︶︒その際の意図はもちろん表象ではないが︑その奥には覚

自証しうる暗黙の意図があることは否定しえない︒

  意図が暗黙である理由の一つは︑開放系での行為が未来志向的なものであり︑行為は必ずしも

当初の意図のままに展開するとは限らず︑時にはそれ以上の︑また時にはそれ以下の展開を見せ

参照

関連したドキュメント

「心理学基礎研究の地域貢献を考える」が開かれた。フォー

バックスイングの小さい ことはミートの不安がある からで初心者の時には小さ い。その構えもスマッシュ

経済学の祖アダム ・ スミス (一七二三〜一七九〇年) の学問体系は、 人間の本質 (良心 ・ 幸福 ・ 倫理など)

建物敷地や身近な緑化の義務化 歩きやすい歩道の確保や 整ったまちなみの形成 水辺やまとまった緑など

会議名 第1回 低炭素・循環部会 第1回 自然共生部会 第1回 くらし・環境経営部会 第2回 低炭素・循環部会 第2回 自然共生部会 第2回

今日は13病等の短期入院の学生一名も加わり和やかな雰囲気のなかで

そこで生物季節観測のうち,植物季節について,冬から春への移行に関係するウメ開花,ソメ

26‑1 ・ 2‑162 (香法 2 0 0