ワロン 諸起源』
『子どもにおける性格の を読む
\研究ノート
(3)
坂 元 忠 芳
略 記
L enfant turbulent,1925, (QUADRIGE/PUF)=ET 『多動児』=略記なし
Les origines du caractbre chez I enfant,1934, (PUF)=OCE
『子どもにおける性格の諸起渡』=「性格』(「児童の性格における起源』久保田正人 訳,明治図書,1965年)
L 6volution pasychologique de I enfant,1941,(ARMAND COLIN)=EPE
「子どもの精神的発達』=『精神発達』(『子どもの精神的発達』竹内良知訳,人文書院,1982年)
De I acte s la pens6e,1942,(FRAMMARION)=AP
『活動から思考へ』=『認識過程』(『認識過程の心理学』滝沢武久訳,大月書店,
1962年)
第6章 『多動児』におけるアシネルジーの問題(その2)
アシネルジー的な精神性の問題
ワロンはアシネルジー的な精神がどのようなメカニズムで発生すると考えた のだろうか。
この問題は,障害における身体と障害と精神との関係を一般的に明かにする ことに大きな意味をもっだけでなく,障害をもった人々の発達における人格と 性格の内在的な構造を明かにする上で,さらに,当面,『性格』でワロンが追 求しようとしている問題を解明する上で大きな照明を与えるものであろう。
デシヤンス
ワロンは「アシネルジー的な精神はしばしば心理現象の深刻な失墜と共存し ている」と述べて,まず,「心理的な深刻な失墜」にこのことが関係している
ことを説いていく(L enfant turburennt,1924, p.212)。「失墜」とは,心理
機能の一種の休み状態,衰えの状態のことである。ワロンは,これを小脳機能 不全の白痴にっいて明らかにする。ワロンによれば,小脳不全の白痴の原因は,おそらく,脳の機能損傷のひろがり・重さであるが,それは,興奮が発作的に,
デシヤルジュ
また,放出によって引き起こされるものである。その場合,発動的には興奮
はとくに突進的であり,無目標で,しかも攻撃的である(ibid)。
ワロンは,小脳不全の白痴の特徴を列挙しながら,こうしたステレオタイプ がまれにしか発達せず,それが,並み外れた感覚一運動的な輻となっているこ とを述べている(ibid)。だが,ワロンは情動的なものとしてのその特性に言 及する。
「情動的には,興奮は,怒りであれ,愛撫であれ,それらの突然の,そして,
激しい爆発から起る。しばしば,心理rt運動的な退行と器官のエネルギー消耗 の諸相が生み出され,それらの諸相が,癒痛の諸相一癩痛の他の諸特徴をと
もなわない一をよびもどしたりする場合もあり得る。あるいは,カヘキシー 患者[注一悪液質患者一結核・癌などの病気の末期症状に現われる重度の全 身衰弱をもっ患者一]の痴呆のことを思い出させるような場合もあり得る。」
(ibid)
っまり,アシネルジー的な精神のあり方は,情動の極端なゆれ一爆発とエ ネルギーの極度の衰弱・消耗一として現われるのである。こうしてワロンは,
アシネルジーの精神・身体的連関のなかに情動を位置付けるのである。
「しかし」とワロンは続ける。「他方,アシネルジーの重なりが,諸結果の前 面に出てくるが,それらの諸結果は癩痛の激発または増悪へと導くのである。」
(ibid)
ワロンはこのような文脈のなかで,小脳が機能する場合を取り上げる。すな わち,小脳が癒痛的な表出のなかでも基本的に機能し得ており,あるいは機能 するということは大いにあり得る。すなわち,ラムゼイ・ハントのいうように,
主体が完全な筋肉低下の状態に崩れていっても,それから立直るということだ
けが起ることもあり得るというのである(ibid, p.212)。
ワロンはこのような精神的アシネルジーの原因をどこに見ているのだろうか。
ワロンはこの点にっいて次のように述べている。
「こういう状態,あるいはすくなくともアシネルジーの明白な諸特徴の状態
ファ−ズ
は,トーヌス的拘縮と間代性の痙攣という二っの相での当然の危機のなかで,引き続き起るのであるが,それらの相の前者[トーヌス的拘縮]は,トーヌス および調節器官と明かに関係し,後者[間代性の諸痙攣]は,それらとおそら
く関係している。」(ibid, p.213)
っまり,こうしたアシネルジーの状態は,トーヌスをとおして情動にっながっ ていることをワロンは暗示するのである。しかし,同じような心理一器官的循 環は,癒痛以外でも起るとワロンは言う。例えば,一般的な麻痺に侵されてい る子どもの場合である。ワロンによれば,アシネルジーと生体の連関は,ずっ と深いところで,すなわち,小脳の部位で現われる。だから,白痴でもなけれ ば癩痛でもないが,小脳機能の不全をもった子どもたちの活動や状態には,し ばしば周期性や断続性が見られるのである。その性格は循環的なものである
(ibid)。
「それは,怒りであれ,そして喜びであれ,時には,やさしさ,まれには悲 しみであれ,それら諸情動の器官のなかに,ニューアンスも仲介もなしに,乱 暴に砕け散る波動が現われるように見える心理一器官的動揺をまさに基底にし
ているのである。」(ibid)
ここでワロンが述べている,「情動の器官のなかに乱暴に砕け散る波動」と は,いったいなにを意味しているのであろうか。情動の器官とは,もともと,
内臓感覚を生み出すところの内臓器官に源をもっているが,それは,自己受容 性感覚と外部感覚を生み出す感覚器官とっながっている。トーヌスは,ひとく ちに言えば,このっながりを可能にする情動の基底的動きである。アシネルジー は白痴や癩痛症の子どもたちだけでなく,小脳の機能不全を示しているところ の,循環活動を行なう時期の子どもにしばしば現われる,というワロンの所論 は,アシネルジーが情動の動揺をとおして器官的なものから心理的なものへ,
身体的なものから精神的なものへと渡っていくことを示している。
だから,ワロンは次のように言う。
モデュラシオン
「情動の変調,身振り表現の諸段階と精緻さ,感動の推移,動機への適応
ス ト リ オ
などは,アシネルジー的な人には存在しない。このような人は,線状体一中脳 を原因とした諸症候を同時に示さない限り,容貌の揺れの過程で,偶然の,ま た,とらえどころのない出会いとしてしか,ほほえみをもたない。このような 人は,涙の習慣的な欠乏を示す。彼の血管一運動器官は,精神的な諸影響にた いしてほとんど反応しないし,時にはそれはそれら器官の突然の,また,非連 続的な爆発一その継起は,しばしばもっとも一貫性のない表現をとる一のない,
感情喪失状態のように見える。」(ibid, p.214)
っまり,アシネルジー状態というのは,たんに運動機能の不協応というのに とどまらず,情動の器官である内臓器官と自己受容性・外部感覚器官のアシネ ルジーという意味で,まず精神的なそれとしては,情動の機能の喪失状態とし てあらわれる,とワロンは言うのである。そしてこのことが,後にワロンが
『性格』で問題にする情動の媒介的機能と関連してくる。っまり,姿勢をとお しての情動の動きが,アシネルジーの見地から問題にされるのである。だから,
ワロンはここでも,行動と心理機能の連関の問題を,アシネルジーの問題とし
てとらえるのである。
ワロンは続けて,先のような循環運動が表面に出てくる場合には,どういう
ことになるかにっいて言う。
「諸行為が欠如している。その活動は解体されて,諸断片に分けられてしま う。活動の水準が何であろうと,活動はその諸要素に分解してしまう傾向があ り,白痴または精神錯乱に特徴的な諸形態をとるQ活動はprocurcif*な型,
ムビュラシオン
動機のないふらっき,騒ぎまたは破壊の衝動などを通らないで,ほとんどっね
に単純な[エネルギー]放出の状態になる。」(ibid)
*pr6curcifの誤植か。そうだとすれば「前兆的な」という意味であろう。
身体的なアシネルジーの欠如は,総じて活動を統一的なものにしない。だか ら,それは器官のエネルギー放出の形をとる。したがって,そこに依拠する精 神活動もまた,アシネルジー的状態になることをワロンは示唆している。ワロ
ンは,こうしたエネルギー放出がどのような状態をともなうかにっいて,さら
に述べている。
ステレオテイピ−
っまり,そこで生み出される感覚一運動的な結果が常同症の出現にたいし て,十分な定着性をもたないので,エコプラクシーやエコラリーの介入がしば
しば現われる。活動が対象にたいしてまったく関係のない状態にとどまる時が あり,また,活動が小脳の先行症を引きずりながら,対象に適応できないとい アンテルミうことが起る。この場合,先行症は変わりやすいし,多かれ少なかれ,間欠
タント
的であり得る。活動は,こうしてまれな例外を除いて,目標もなく,有用性
をもたない状態となる(ibid)。
ところで,エコプラクシーとエコラリーについては,ワロンは後に,
『認識過程』のなかで,くわしく取り上げている。エコプラクシーとは,一般 に,反響動作のことであるが,これは,ワロンが説明しているように,ピック のいう「抑制されずに外部にあらわれる皮質下の自動的反応」のことである
(AP, p.140,滝沢訳『認識過程』,162ページ)。っまり,皮質活動が働かない
基本的な「自動運動」なのである。「エコプラクシーは,その心理的動機や意識的調節が切断された活動を前提としている。」(ibid, p.141,同上)とワロン
は言う。しかし,ワロンは普通いう「自動運動」と,ここでのそれを区別して
いる。
「ふっう記述されている自動運動とは,外部の世界へむかう諸反応から成る。
すでに,もっとも主観的反応に属している防衛反応と逃避反応は,未知の作用 因にたいする反応としてあらわれ,主体とその周囲のものとの関係を,変化さ せるにいたる。それ以外の反応の大部分は,もっとはるかに客体と関係してい る。運動がおこなわれねばならぬ環境は,事物や場面や力から成り立っている のだが,これら大部分の反応は,こういうものとたえず関係をもった,もっと
も自発的で日常的な活動形態である。」(ibid,同上,162−3ページ)
アシネルジーとともに起る「自動運動」と,私たちがこれまで見てきた「自
動運動」とを区別する指標は,ワロンによれば,主体とそれをとりまく外部世
界との或る関係が,先天的であろうと,後天的であろうと,一定のある繰り返 しをもっているかどうか,というところにある。シネルジーが「自動運動」を ともなうというのは,このような条件を充たしている,という意味である。と
ころが,一種のアシネルジーの結果おこるエコプラクシーが「自動運動」であ るという時には,このような条件は充たされない。
ワロンは,エコプラクシーの「自動運動」を「遠心性のものでもなく,有用 レデュプリカシオン
なものでもない。諸刺激にたいするその応答は,諸刺激の反 復,それら の鏡である。応答は周囲にたいする諸連関の有用な変容へとむかうのではなく て,刺激の方へとむかう。それは自動運動の回路に属するというよりも,感覚一
運動的回路に属している。」(AP, p.141,同上,163ページ)と述べている。
エコプラクシーは,ワロンのいう固有の「自動運動」ではなく,むしろ,感 覚一運動的回路に属しているものなのだ。ここで感覚一運動的回路に属してい るという意味は,その動きが感覚または知覚がきっかけになっているにもかか わらず,すなわち,或る他人の動きを感覚または知覚することをきっかけとし ているにもかかわらず,それが内的反応を再生する運動にしか行かず,外部と の適応関係にいかないということであろう。だから,一種のアシネルジーにエ コプラクシーが介入する,とワロンが言うのは,アシネルジーが感覚を対象の イメージへと結びっけないで,すぐさま運動的反応のくりかえしへとさそって しまうということなのである。そこではアシネルジーは精神的シネルジーのい ちじるしい制限としてあらわれているということであろう。
ヱコラリーの場合も同じことである。エコラリーは,もっぱら言語の反響に よるものである。それは知覚系列と反応系列との循環反応と結びっいた結合の 直接の結果としておこる(ibid, p.142,同上,164ページ)。そこでは,やはり,
知覚と運動との回路が反復されるだけで,表象やイメージにはいたらない。だ から,アシネルジーは運動機能のたんなるばらばらの状態ではなくて,その相 互連関が全くせまい制限された範囲内で起ることを意味している。っまり,対 象への関心を欠いた状態がエコプラクシーやエコラリーの介入を招くのである。
それぞれの器官のエネルギー放出はこのような状況のもとで起るとワロンは言 うのである。
ワロンは,『多動児』では,ここで場面を広げて,このような状態が,一見 外部的世界とうまく適応しているように見える場合でも起ることにっいて説明 している。すなわち,一見道具をうまく操作するように見える子どもの状態の
場合である。
「家事道具や勉強道具を手先でうまく子どもがあやっっているとしても,そ れは彼がそれらを実際にっかっていることにはならない。彼は日常的な活動の 外見の間で,そして道具へと,っなぎとめられている動作を行なっている。し かし,それらの応用の要点やそれらの実際的使用も精神的な方向も分かってい
るわけではない。」(LT, p.214)
そしてワロンはこうした先行症の性格を次のように象徴的に述べるのである。
「[これらの行為の]意図は,行為が成功し実現される機会が,身近にまたは
プUジ;クテイヴ
直接的に与えられれば与えられるだけ,弱まるのである。それは,投影的な 力に欠けた行為であり,それによって,癩痛性の行為とは根元的に対立するも
のなのである。」(ibid, pp.214−215)
ワロンは,或る種のものにたいする,子どもたちのくりかえしの器用さにっ いて語っているのであるが,その場合の器用さは全くそれにたいする目的的な イメージをともなわないものであることを強調している。
ところで,ワロンは先行症と癩痛症とは似ているが,本質的には全く違うも のであると言う。っまり,ワロンによれば,両者の類似性は純粋に外観からく
るものであって,運動または口頭の奔放さが似ているように見えるだけである。
すなわち,癒痴症的なものが,そのような奔放さの脱線をともなっているのに たいして,アシネルジー的なものは,絶え間のない転換の状態である。「前者 は,患者の意識へ導くよう強制的に作用する。というのは,動作またはことば によって彼が身にっけていなかったものは,彼にとって存在し得ないからであ
る。」(ibid, p.215)
ここでワロンが癩痛症の意識性にっいて述べていることは,癒痛症患者がそ うした状態になる場合を,すべてあらかじめ意識にのぼせることができるとい うことであろう。ワロンは,前もってのこの意識化にっいて次のように述べて
いる。
「選択に必然的に先立っこの[意識]の現実化,一連の諸現象が記録され,
知られているとおりに発現する。それら[意識」の展開は,それらを想起する 動機にたいして優位を占めている。思考は支離滅裂だが,それは,或る厳密な
応用によって,提供される軌道にたいする,或種の同一化によって行なわれ
る。」(ibid)
先行症に見られるアシネルジーは,これとは反対に,そうした意識を全く伴
わない。
「アシネルジーにおいては,反対に,なにものも持続されない。態度も,きっ かけになる動作も,それらを結果的にひきおこし,あるいは,それらをよびさ
エ ヴ ァ レ
ましうる意図も,あるいは観念も存在しない。それは[観念と行動の]うすれサ ンス
行きである。」(ibid)
アシネルジーの状態はさきに述べたように,感覚一運動的回路のものである から,行動が観念や意図へ結びっいていく回路が断たれている。だから,それ
は観念と行動が癒着しているのではなく,もともと観念そのものが存在しない 状態だとワロンは言うのである。これは精神的アシネルジーの状態が,観念の
ばらばらの存在によって特徴づけられるのではなく,もともと観念そのものが 結べない状態であることを示している。この状態はワロンによれば,心理r運 動的器官を活動状態におくことに没頭しないで,意識が瞬間的なもののなかに 生きることを示している。だから,動機が消失した後も,一定の行動を実現し
メタモルフイ−ク
ようとする衝動が存続し,行動が反復する保持症が一種の変成的可変性に席 を譲ることになる。こうしたコントラストは,のちには,精神的粘着性と観念 の逃走とによって示されるものとなる(ibid)。
ここでワロンが述べていることは,精神的アシネルジーが保持症のように,
動機が消失した後でも一定の行動を実現しようとする衝動が存続し,行動が反 復される形態をとるのではなく,むしろ,っねに瞬間瞬間の行動を行なうこと によって,一定の観念がなくなる形態をとるということだろう。精神的粘着性 と観念の逃走というのは,前者が精神が流動せずに一っの観念が行動に固着す るのにたいして,後者が一定の観念が全く定着しない状態をさすものであろう。
ワロンはこの両者をさらに次のように対照する。
モ− ド
「語漏症的な諸様式を用いること,例えば,ものごとの列挙を用いることが ありうる。それらの差異は,それでも本質的である。癩痛症においては,諸想 起の・または一定のカテゴリーに属する人々とものとの・連鎖が環毎に引きっ
け合い,その連鎖が精神に刻印される。それは,整理箱の中身を知るのに必要 な目録に似ていて,その目録は記憶のなかで,または,知識のなかで加工され る。[これに反して]アシネルジー的な人においては,たえず入れ替わる諸印 象にしたがって,言葉づかいはばらばらとなり,何事も持ちこたえ,持続する
ア ク セ
カをもたない。知覚の可能性が中枢に起源をもっ諸喚起によって閉ざされるよ うになる代わりに,その時,外的環境がこの更新に力を付与する。しかし,対 象の表象はそこで,なにものをもとらえない。直接的な再生のくりかえしへの
アプテイチュド キャパシテ
能力と,獲得あるいは同一化の力能との間には明かなコントラストがあ
る。」(ibid, pp.215−−216)
ワロンはこれら両者の差異が本質的であることを強調しているのである。癩 瘤症的なものにおいては,人やもののイメージが,連鎖をなして精神に刻印さ れるが,アシネルジー的なものにおいては,その時その時のままで,それは持 続しない。後者では,知覚が中枢から切れているから,矢[撹は切れ切れにある が,しかし,表象には結実しない。それは或る感覚一運動的なくりかえを行な
うのであるが,或るイメージや観念を獲得したり,対象に同一化する能力をも っことにはならないのである。
ワロンは,このようなアシネルジー的精神状態にっいて,引き続き述べてい る。それは,状況との関係においてさえも,そのような精神状態の意識は,主 観的なままであり,観念や知識のシステムにそれが組織化される傾向は全くな
い。その際,アシネルジー的なものにおける諸連合は,存在の連関性を表明せ ず,純粋な継起または単純な母音または類似母音のくりかえしによって,形式 的で偶然的なものとなる(ibid, p.216)。
ここでワロンがアシネルジー的なものにおける諸連合といっているのは,形 容矛盾であるように見える。なぜなら,アシネルジー的なものは,連合するは ずはないからである。しかし,ワロンは,ある感覚一運動的行為の,表象なし のくりかえし,っまり,先に述べたようなエコプラクシー一やエコラリーによっ て介入されたくりかえしは,一種の連合と考えているのであり,ここにもワロ ンの心理的・生理的諸機能の連合の弁証法があらわれている。それは一種の切
断の連合なのである。
ワロンは以上のように述べながら,癩痛的なものとアシネルジー的なものと のコントラストの質について次のように言う。
「固定化された話し方は,両者の場合,それぞれの意味をもっている。一方 は,癩痛症患者の困難でゆっくりした思考にとっての休止であり,それはそれ
らの話し方によって彼の諸観念の系列を現前させようとするものである。もう
デイスク−ル
ー方は,アシネルジーのっながりのなさ,また実体のなさを諸言説のなかに満 たす手段である。イントネーションの過剰は,一方にとっては,精神的態度へ の固執であり,彼はそうした態度を呼び覚ましたいと願う。が,他方にとって
は,感覚一運動的縮減の効果である。」(ibid)
ワロンは,心理一運動的状態にっいても,その非連続性を次のように描いて
いる。
「心理一運動的諸状態の不安定性と非連続性とは,もっともきわだったそれ ぞれの領域で,その諸結果を生み出す。尿の失禁がひんぱんにおこる。その原 因は,おそらく,膀胱の貯尿所と括約筋の緊張的諸関係の障害であり得る。し かし,それは同様に,しばしばものぐさ,優柔不断,放心であるように見える。
にもかかわらず,これらは,この種の怠慢からみれば,その心理的発達として はきわめて高度な子どもたちに起るのである。それは,彼らの欲求が,すこし
アンテルミタンス
ずっせり上がっていきながら,間欠性によってしか,彼らをとらえないよう に見えることである。このような子どもたちが,そのことで感じる不安が,か れらの不安定さを拡大するのである。」(ibid, pp.216−217)
「この子どもたちをとらえている諸転換の間で,また子どもたちが[排尿の]
満足を感じとれない気持(v611eit6s)の流れのなかで,整序し・緊急にしたがっ て秩序づけ・切れ目のないものにし・各々を序列化することができないような 諸転換の間で,排尿の前触れは,それがすでにはじまってしまった瞬間にしか 感じとれないのである。諸印象の変わりやすいこと,また,それらの印象を力 動的な諸連続のなかにおくことができないこと,に付随する自動運動がさけが
たいものとなる。」(ibid, p.217)
失禁は,明かに心理一運動的状態におけるアシネルジー的なもののあらわれ であるが,ここでも,ワロンは意識の上でコントロールできない自動運動が,
失禁状態においておこることを例示したものと思われる。「子どもたちが満足 を感じとれない気持の流れのなかで」と私が訳した個所は,原文ではdans Ia suite des v611eit6s sa satisfaireである。この場合, v611eit6というのは,行
動までにはいたらない意思や思いのことで,したがって行文の意味は「満足さ せないのだが,しかし実際は満足させることができない思いの流れのなかで」
という意味である。っまり,排尿してその満足を得たいという気持ちは,いた ずらに流れていくだけで,意思的にコントロールができないということなので ある。これは,いわゆる神経症的な意味での失禁ではない。神経症的な場合に は,それとは逆に,きわめて強烈な失禁防衛の意識が働らいて,かえって失禁 してしまう。そうではなくて,排尿の感覚r運動をコントロールするシネルジー が働かないで,排尿が自動運動的に起ってしまうのである。このような不安定 性と非連続性は,もちろん排尿という運動に関して起っているのであるが,こ の場合は,やはり,さきのv611eit6(「思い」)の状態にみられるように,心理 的なものが加わっているから,まさに,運動的なアシネルジーが精神的なアシ
ネルジーにかかわっている例である。
ワロンは,このようにして,時間の意識がアシネルジー的な場合にはどのよ うに非連続になってしまうかにっいて述べている。すなわち,小脳症の多くの 子どもにあって,時間の観念が特別に混乱しているとすれば,それは遠い時間 が問題になる時,継続を現実のものにしたり,想像したりすることができない デイスポジシオンン
からである。近い時間にたいしては,欲求や精神的 傾向 の間欠性,心的 生成の甚ダ尚の消滅が起る。だから,このような子どもたちは直接性のなかに 生きているといってもよいのである(ibid)。こうした子どもたちは「すべて 動作にし,瞬間の感覚にし,それら動作と感覚を引きとめ,それらを発達させ ようとする観念もなく,持続する興味もなく,環境にむかっては柔軟かっ流動 的で,周囲にたいする瞬時的親しさの状態のなかで,しかし,なにものをも引 き止めようとするように見せることなく,諸印象は固定しない。それらは,心 理的状態と精神的調節のたえまのない,この機能低下のなかで,ほとんど明確
になることも,形になることもできない。身体の観念さえもはっきりしないよ うに見える。右と左の区別のっかないことが,とりわけひんぱんにおこる。お
アプテイチュ−ド
そらく,これは,手足を,また,手足の運動諸能 力または運動諸習性を比 較して表象するのを想起する能力がないことによるのである。ある種の心理一 運動的な現実化を前提とする操作二それは,子どもがまえもってその輪郭を頭 に描く動作によって証明されるものなのだが,スプーンやペン軸をっかもうと する手を,彼の右手を的にしてさがし出すそうした操作を想起する能力がない
のである。」(ibid, pp.217−218)
精神的アシネルジーの状態は,こうして,或る種の心理一運動的機能を喚起 する能力のなさを示している。ここで「想起」というのは,原語では6 voquer であるが,これはもともとあるイメージを思いっくという意味である。つまり,
精神的アシネルジーの状態は,もっとも原初的な運動のイメージの想起能力の 欠如と関係している。あるものをっかもうとする手の使い分けもまた,運動に おけるアシネルジーを精神におけるシネルジーへとっなげていく途中経過を示 している。これは後にワロンが模倣の発生にっいての重要な仮説へと導くモメ ント,すなわち,表象が運動の身体への造形を外なる知覚へと反転するなかで おこるという仮説へのモメントを示すものであろう。っまり,運動的シネルジー の欠如は,模倣へと進む表象を想起させないが,それは,身体にたいする運動 の造形を一っの連続したものとして刻印できないということである。だから,
精神的アシネルジーの状態は,感覚一運動的回路が,連続性をもって一っのま とまりの印象へと結晶しないということから必然的に起るのである。
ワロンはこのことが人格における最初の統一性を形成することをさまたげ,
したがって性格形成にとって大きな障害になることを示唆する。
アンスユフィサンス ペルソナリテ コエ ジオ ン
オ−トノミ−
「これら一連の機能不全によって,人格はそれ自身まとまりと自律性を欠 くことになる。対立する諸反応一諸態度がきわめてしばしばあらわれる。そう
{.た諸反応,諸態度はもっとも基本的な,自己を他と分かっもっとも独自的な やり方である。だがアシネルジー的な人の場合には,それらは運動上の不決断 姿勢上の不安定,そのことからくる慎重さと臆病さによって,時には筋肉の対 立する諸グループ間の一種の揺れによってさえ,また,態度の定着における敵 対的なものの優勢によって,促進されるようになる。」(ibid, p.218)
ワロンによれば,アシネルジー的な人聞とは,身体運動および筋緊張におい
て,対立物の調和と平衡が不可能な人間のことである。このような人にあって は,人格の平衡的な独自性がっねにやぶられるために,その人間に固有な人格 の統一的性格が形成されない。っまり,精神的アシネルジーを引き起こすので ある。これは,くりかえすが,性格形成のきわめて困難なことを示している,
だから,このような人の場合には,運動や筋緊張だけでなく,心理的・精神的 働きに際しても,さまざまな障害が引き起こされる。それは拒否症的なひっこ
ド ノ シ リ テ
みと諸運動の最大限の成り行きまかせの共存の可能性である。っまり,それは 一種の「暗示感応症」といったものではない。というのは,暗示にかかりやす
いというこの種の状態は,運動器官の観念への追随を必要とするので,それは 一定のアシネルジ・・一の存在とはあいいれないのである(ibid)。
っまり,ワロンがここでアシネルジー的なものの特徴の一っとして取り上
げている「諸運動の最大限のなりゆきまかせ」(la plus grande docilit6 de
mouvements)というのは,いわゆる暗示にかかりやすい性質のように,運動 が或る観念によって次々と移行するのではなくて,純粋に運動が次々と対立の 間を揺れ動いていくことを指している。ワロンはさらに,精神的アシネルジーのその他の特徴にっいて言及する。
「………同様に,コントラストには自発的活動またはむしろ偶然的な活動一 それは機敏さと時宜にかなっていることがあり得る一と,命令された活動と の間にしばしば認められる。エコラリーとエコプラクシーは,小脳の機能不全 の諸ケースとしては互いに対立して,ほとんど排他的な偏愛をふくんでいる。
それらは,感覚一運動的な諸連合の段階一その諸連合は正常な場合は無用な
デイソシアシオン
ものとして縮減されていくのであるが一を再現しながら,精神的解 体の 諸状態のなかで,再び現われる傾向をもっている。それらが現われるのは,心 理一運動的可能性がそれ自身の間で結び合わされることをやめ,活動の主導的
な目標を受け取ることをやめる時である。」(ibid, pp.218−219)。
精神的アシネルジーは,このように,ワロンによれば,心理一運動的可能性 が一っに結び合わされて活動となること,っまり,活動の諸目標を追求するよ
うな目的的なものに統一されていくことが解体される時,現われるのである。
エコラリーとエコプラクシーが,或る運動の偏愛を含んでいるというのは,す
でに述べたように,それらが,感覚一運動の反響的なくりかえしであるという ことであろう。感覚一運動の回路にのみそれが属しているために,このことが 起るのである。ただ両者が「対立して」(par contre)いるのは,エコラリーが
もっぱら言語の反響によるのに対して,エコプラクシーがもっぱら動作による ものだということであろう。こうして精神的アシネルジーは,感覚一運動的連 合が,目的的なものにまでいたらないことを指している。しかも興味深いのは,
ここで,ワロンが精神的アシネルジーの問題を,自発的活動と命令された活動 との間のコントラストの文脈で見ていることである。ワロンは自発的な活動が 精神的シネルジーの形成の発展,すなわち,ある目的的な意識が子どものなか
に主体的に生まれるということであるのに対して,命令された活動では,自ら,
目的を意識して選択することができないために,しばしば命令に自動的にした がう形となり,それは,あたかも,エコラリーやエコプラクシーのような精神 的アシネルジーの状態をいくらかでもともなっていることを述べたのだろうと 思われる。それは目的的意識が,人格と性格の形成にとって決定的なモメント である,ということの強調と結びっいている。精神的アシネルジーは生理学的・
心理学的現象ではあるが,それは,目的性という点では,社会的にあらわれる ということがそこに暗示されている。っまり,精神的アシネルジーは,生理学 的な欠如がまさに社会的な形であらわれたものにほかならないと思われる。
さてワロンは,こうした精神的アシネルジーの,より高い段階にっいてつぎ
のように述べている。
「より高度の程度では,模倣がエコラリーとエコプラクシーに対応している が,[その際]模倣は非常にしばしばアシネルジーに属してもいて,個人的な 諸目標の欠如を示す。そこには,イメージによる動作のどんな単純な誘導もな く,一っのモデルの介入があるだけである。二重化は抽象的にははっきりして いるように見えるにもかかわらず,[実は]はっきりしない。模倣一習慣が意 図的でもなく,またその特別の対象に限定されてもいない。模倣一習慣は子ど もの発達における一っの段階に対応しているが,それは,子ども自身の近くに ある存在物または,既知の活動を現実化したり,自分自身,その存在物または
ペルソンヌ アフィルマション
既知の活動となる必要からである。それは自我の主張であるが,あくま
アシミラシオン
でも他者への同化によるものである。自己と自己でないものとの区別は不
確かである。」(ibid, p.219)
っまりここでワロンは,精神的アシネルジーがより高い段階では,模倣が自 動的に行なわれる形であらわれることに注目している。ワロンがここで「二重 化」(d6 doublement)と言っている意味は,模倣におけるそのモデルと自己と
が,一度はイメージによって相対化されて,その後で同一化させられる状態を 指している。
「二重化」はイメージによる意図的な作用である。が模倣が,しばしば,エ コラリーとエコプラクシーによる場合には,そうした二重化は,抽象的には,
そこに存在するように見えて,実際には存在していない。このことをワロンは,
後に『認識過程』において,模倣の発隼が表象と結びついていることを通して 事細まかく論じているが,すでに『多動児』で,イメージの欠如をともなう精 神的アシネルジーの状態を対比させて,その本来の姿を示唆しているのである。
精神的アシネルジーと自我の形成
ところでワロンは,続いてそのような場合における人格のいわば解体状況に っいて次のように述べている。
「たしかにこの区別は,幻想がその区別をとり去ってしまう時には,例えば,
子どもが現実よりも彼らの遊びのほうを一層信じているような場合には,失わ れてしまう傾向にさえなる。もし,子どもが彼の活動を試そうとするなら,そ ペルソンヌれは疎外の状態においてである。そこには,置き換えまたはむしろ自我の混
同がある。興味や個人的諸目標は消え去る。表象が行為をうばいとってしまう。
反応のかわりに,それは,それ自身で閉じられた知覚運動的代役以外ではなく なってしまう。精神的諸印象のこの相互隔離は意識の解体に,そして,不連続 の状態に対応している。この隔離は流れが欠けている。この流れは散発的で,
マニフェスタシオン
瞬間的な意識の表出を集めていくものなのだが,衡動と状況の間にまに
ペルソナリテ
生まれ,尽きてしまう。人格は噴出と反射となって,粉々にくだけてしまう。
人格は偶発的かっ全く末梢的となる。」(ibid, pp.219−220)
ここでワロンが述べている,自我の区別の消えさりというのは明かに表象の
連続性の欠如と関係がある。模倣がその場合には生じようがないのであり,ワ ロンが言うように,そこでは,明かに自己が「疎外されて」(ali6nant)いる。
ところで,ワロンは,精神的アシネルジーの状態の記述のなかに,子どもにお ける幻想のことを付け加えているが,これは,彼が何時もするように,異常児 の状態にたいする正常児の状態の対比,その記述の相互関連にほかならない。
精神的アシネルジーの状態が,一般に,幻想にとらわれている子どもの行為 一例えば現実と遊びとを混同するような一と全く同じでないことはいうま でもない。しかしワロンは,幻想にとらえられている正常児の状態のなかにも,
精神的アシネルジーに一脈通じるような事態を見てとるのである。これは何度 もふれてきたようにワロンの行論の難しさなのであるが,ここにこそワロンの 発達心理学の真骨頂があらわれていると見るべきであろう。
ワロンのいう精神的アシネルジーとは自己のなかで精神的に統合ができない ということである。このことをワロンはっぎのように説明している。
「自己を統一し,自己を抑え,自己の態度をはっきりさせていくことの無能
マニエ−ル
カさは,往々にして,ある言語様態によって表現される。この言語様態にっ いては,以前書いたのだが,その表現は,その際言語に付髄する諸運動のこと をほとんど気にとめず,また,その言語様態が個人的意識の原初的で,おくれ た[ずれた]状態を指し示していたことを表すだけの仕方で行なわれるのであ
る。」(ibid, p.220)
ここは非常に翻訳しにくい表現になっているので,もう少し解説をしておく と,ワロンが述べているのは,精神的アシネルジーの言語的表現のことである。
すなわち,原初的なイメージのもとでも,そして,自己を意識的にコントロー ルする能力がない状態のもとでも,或る種の言語は出てくるというのである。
ワロンが,この言語の状態について以前書いたといっているのは,JOURNAL
DE PSYCHOLOGIE,1911, pp.436 一 444に載った論文で, Forme 6 chola−
lique du langage chez un imb6cile 6pileptique(「癩瘤性痴愚における語の
エコラリー的形式」)というもので,いま,この論文を参照することができな いから,この症例を具体的に紹介することはできない。が,『多動児』のなか の同様の例示によって,その様態は或る程度想像できるだろう。すなわち,ワロンは『多動児』の第1章第3節の「表現の諸機能・装置への意識の従属」
(Subordination de la conscience aux fonctions et apPareils de 1 expre−
ssion)のなかで,癩痛性患者の言語について,ピックやカールバウムやプロッ ホを通して展開しているのである(LT, pp.147−156,浜田寿美男・山口俊郎 訳『発達』25号,1986年,114−117ページ)。
ここでまず,ワロンは「癩痴性の精神的諸特徴は,言語においてもっとも純 粋かっ完全にあらわれる。というのは,その言語と精神との関係は直i接的だか
らである。」(ibid, p.147,同上,114ページ)と言う。そして,次のようにそ の特徴を示している。
アンコンテイナンス
「その言語には自制欠如と努力という様相が同時に存在している。それは,
ロゴレ ペニ−ブル
語漏であるが,骨の折れるもので,語漏がっねになくならないようにさがし求 めているように見える。言語が,固有の道すじからはなれて拡散し,体全体と 顔貌とを動かし,その代わり,体と顔貌の動きが,多くの場合,言語自身を動
プロジェクティヴ
かしているように見える。その言語一運動的シネルジーは,投影的な興奮に特 徴的なものである。」(ibid,同上)
ここでワロンは,癒痛症患者の言語と体の動きにっいて述べているが,そこ
アスペクト
には自制欠如と努力という全く反対の様相が存在していることを明らかにして いる。このことはきわめて興味深い。っまり,癩痛症患者にとって,言語がも れるのは必然的であるが,しかし同時に,そうした事態がっねになくならない ように努力するということが存在するのである。しかも,全体として言語はコ ントロールされないで,身体の動きにうまくアンサンブルをとることができな いo
ワロンがここで,言語が拡散し,体全体と顔貌を動かすと言っているのは,
白痴の場合と違って,癩痛症患者に表象が存在していることの証しであろう。
が,それがワロンの言うように,きわめて原初的でおくれた個人的意識にかか わるのである。っまり,言語表現が固有の道すじをもって,体の動きに対して 相対的に独立して進行することができず,っねに体と類縁関係に入って,互い に浸透し合ってしまうというのである。このことは,言語の表現がそれに付随 する運動の事をほとんど気にとめない,という事実と一見矛盾するように見え
る。しかし事実はそうではない。言語に付随する運動というのは,言語の抑揚 によって身体が様々に動くことであり,言語と身体との内的結合が,高度の精 神的シネルジーの結びっきによって可能にされている状態であるが,この場合
は,そういった高度のシネルジーがなく,きわめて原初的で,身体の動きとず れた意識のもとで言語と体の動きの連動がおこるというのである。その場合,
ずれた意識というのは,言語に関連する運動がいっも意識の上でずれていく事 で,共応が同時におこらないという事であろう。っまり,後でワロンが例示し ているように,或る癩痛症患者のように四肢が動くのにっれて言語が出てくる ように,四肢の運動についての意識の原初的イメージが運動にたいして少しず れるので,言語表現が少しおくれておこるのである。
いずれにしても,体全体や顔貌の動きと言語とが連動しているように見えて,
高度の連動からいえば,アシネルジー的な状態を示しているというのである。
シネルジーがあるのに,それがなおアシネルジー的であるというのは,ワロ ンが述べているように,この段階での言語一感覚的シネルジーがまだ投影的な 段階のそれであることを示している。ここで投影的段階というのは,ワロンが
『多動児』のなかで設定した発達の初期の「情動的段階」「感覚一運動的段階」
にっつくもので,それはこうした「意識の主観的な諸段階」から,いわゆる
「諸表象の謎体系」が,意識にたいして世界を表現し,意識そのものを説明 し,その諸反応を決定するようにあらわれる時期までの中間段階を指している
(LT, p.133,『発達』23号,1985年,谷村覚・山口俊郎・浜田寿美男訳)。これ
は正常の発達過程では目立たない段階であるが,この段階では行動の機制が意 識の機制が働く以前に発揮されるので,っねに動作が意識の状態に入り込まなければ意識は起らない。したがって,動作が言語に先だち,言語が意識に先だ っ。こうして意識が表象によって自主的に形づくられないので,意識の連合の 体系に属する回路は,「投影の装置を道具とする外化の援助と拘束」に支配さシステム
れることになる(AP, p.160,『精神発達』195−6ページ)。これが外的行為に 意識がっねに「投影」されるとして,ワロンによって位置付けられた発達の段
階である。
ワロンによって,この段階がとりわけ癩痛児に典型的にあらわれるとされた
のは,彼らが白痴のように表象を全くもたないのではなく,普段の状態では表 象の機能が現われるのに,癒痛症状がおこると,それが主体的働きを停止して,
それ以前の「投影的段階」がそのまま現われてくるからであろう。ワロンは,
『多動児』のなかで多くの例でこの事を説明しているが,例えば,脳背髄膜炎 によって全身の無力症と癩痛症状を表わした4歳の女子の場合,なんらかの運 動によって身体の一部と一部が触れ合うと,彼女はそこから生じる一連の感覚
に呪縛されたように突然動きを止めてしまう。ところが,彼女の動きを釘づけ にしまうこうした感覚印象も,ひとたび,彼女のなかに外部への投射の欲求に 奉仕する印象が現われると,すぐにもひっこんでしまい,その後は,まだもの をっかむという考えが浮かばないうちから,視覚にひっぱられて,ものからも のへの動きが投影的に起るというのである(LT, ibid, p.135,『発達』
23号,1985年,谷村覚・山口俊郎・浜田寿美男訳)。
これは視覚と運動の間の投影的関係であるが,ワロンは癩痛症患者の言語と 運動との間にもこれが起るというのである。
ワロンは『多動児』のなかでっぎのように述べている。
「言語機能は,厳密にいえば次のことを示している。すなわち,癩痛症患者 においては,言語に投影されなければ思考が不可反であること,そして,言語 と思考がかたく結びっいているために,どれほどか言語自体が不確実で,骨 折れるものとなり,抽象的な諸目的には向かないということである。」(ibid,
p.151,同上『発達』25号,1985年,浜田寿美男・山口俊郎訳)。
ワロンは,癩痛症患者にあっては,言語と運動との関係は,次の二っの段階 に止まっているという。すなわち,「ことばを反復することがことばを理解す る手段になる」段階と「ただ耳で聞いただけで理解できるけれども,ただしそ のためにはその対象となるものが眼の前になければならない」段階とである
(ibid, p.152,同上)。これは,明かに「投影的段階」の特徴である。ワロンは 癒痛症患者の場合,「受容的活動(1 activit6 r6ceptive)よりも「投影的活動」
(1 activit6 projective)のほうが優勢で,それが「観念作用」(id6 ation)に
役立てられると述べている(ibid, p.137,『発達』,24号,1985年,浜田寿美男,山口俊郎訳)。
さきに,癩痛症患者の行動が「骨折れる」(p6nible)様相を呈することに触 れたが,ワロンのいうように,これは「投影的活動」が優勢で,それによって
「観念作用」が引き起こされるからである(ibid,同上)。ワロンはこれを「努 力印象」(impression d effort)と呼んでいる(ibid,同上)。
さて,ワロンは『多動児』のなかで,言語様態と運動の関係にっいての先の 記述にっついて,次のように述べている。
「私は,それでも,問題の眼球振盈症の子どもを観察するなかで,いわゆる
パ ロ − ル
小脳の機能不全を推定させるような音節を区切った,とぎれとぎれのことばのことを指摘したことがあった。私がそのようなことばをそこで再発見した諸ケー
スは,その二重の関連を確証するものである。」(ibid, p.220)ここでワロンが
とぎれとぎれのことばの「二重の関連」といっているのは,さきに触れたよう に,言語様態の表現が,言語に附髄する運動のことをほとんど気にとめないこ と,さらに言語様態が個人的意識の原初的でおくれた状態をさし示しているこ とであろう。つまり,言語と運動とがばらばらに進行するということと,言語 が原初的な意識のつれといっも関連しているということとの二重の関連をそれ は指すのであろう。ワロンは,言語と運動・意識の関連にっいてさらに次のように説明している。
デイスク−ル
すなわち,問題なのは言述に欠如している「個人的形式」にある。例えば 子どもは自分をよく三人称で呼ぶが,これは子どもが自我にっいて感じている
ことを示しているとする意見には異論がさしはさまれてきた。こうした言い方 は,まわりの大人がしばしば子どもを指して,その名前を言う習慣からくるの で,これが子どもの言語発達を遅らせるというのである。その証拠に,国によっ ては一人称や代名詞の使用の時期に違いがおこるのは,そのような言語の使用 に或る特別な事情があるからではないか,と言われてきた。だが,ワロンによ れば,第一人称や代名詞が現われる日付はその心理的意味によって決定される。
イッヒ
例えば,ドイッ語の「私」で欲求したり,呼んだりすることが,ドイッの子ど ジュもの間で習慣化するのは,フランス人の子どもが「私」を使うよりも早いかも ジュしれない。というのは,フランス人にとって,「私」が使われるのは,個人的 なアイデンティティの確定ということに限定されているからである。実際そ
の他の言語にたいする情動言語の「位差運動」(pr6 cession)というのはある のだと,ワロンは言うのである。だから,たとえ或ることばが子どもの前でし ばしば話されるとしても,関連する概念にたいする子どもの精神のめざめによっ て,そのことばを使用する必要が子どもに生まれる以前に子どもがそのことば を繰り返すことはない。こうして,例えば副詞の使用の時期が,時間に属する ものか,場所に属するものかにしたがって,その出現に違いが起るのであると
(ibid, pp.220−221)o
ワロンはこのように,アシネルジーの問題とは一見無関係に見えながら,言 語と意識との間の微妙なずれの問題へと移っていく。ワロンにあっては,すで
に述べたような言語と意識のずれの問題は,決して障害児にとどまらないで,
正常児にっいての記述にも取り入れられる。言語と意識のずれが正常児に起る のは,或る言語がたんに繰り返されてしゃべられる,というようなことから起 ることもある。例えば,国々による代名詞や人称にっいての言語の差異によっ て,その現われの早い遅いが説明されることがある。しかし,それはそれほど 単純なことではないことをワロンは示唆するのである。
ところでその際ワロンがフランス人のJeがドイッ人のlchよりもおそく 発せられるだろうと仮説的に述べていることは興味深い。これは,ワロンも述 べているように,フランス人の個人的アイデンティティの形成の確実さにかん する事柄であろうが,そのことはフランス文化とドイッ文化における自我意識 の形成の歴史的差異からおそらく来るのであろう。ワロンはこのような心理学 的状況を示唆したものだと思われる。
こうしてワロンによれば,情動言語の発現に様々な差異がおこるのは,子ど もの感情生活が,その言語の発現に関連しているからだということになる。こ こでワロンは,明かに意識と言語のシネルジーにっいて述べているのであるが,
それは言語がひとり歩きする場合の両者のシネルジーの状態をも前提とするも のであろう。
ワロンの記述はこうして,時に異常児のそれから正常児のそれに移行してい るとしても,最初に述べたように,『多動児』のなかでは,両者の記述が互い に関連させられながら,次々と比較的方法によって論が進められるのである。
精神的アシネルジーと精神的シネルジーの弁証法的対立は,障害児のようにで はないにしても,明かに正常児の精神発達において存在する。ワロンはそのこ とを情動的言語の発現にっいて立証しようとしているのである。
ワロンの代名詞についての発言はこの後も次のように続く。
「しかし,二人の対話者の間でjeとtuを対立させて互いに使うことが,子 どもにとってより難しい理解に属するということがあるのかも知れない。そし て確かに,0・プロッホが認めるように,総じて一人称と二人称は三人称より
も遅れる。だが,アシネルジー的な人にあっては,jeだけが欠けている。もし,
彼が自分自身にっいて話すなら,彼は二人称をもっとも頻繁に使う。というの は,彼は実際には彼自身に対して話し合うからである。形式と内容は紋切型の 表現のコピーであり,それらが似たような場合に,推薦,おどかし,罰の約束,
または質問としてさえも彼に発せられたりするかも知れない。が,それは彼が 言おうとしているのに,いきなりまた進んでそうすることができないように見 えることを実行するためなのである。彼は,だから,彼がしていること,感じ ていることの中心や源として,自身を感じとっていないのである。彼は彼の諸
マニフェスタシeン
機能,彼の活動の 表出 と居合わせていて,それら表出を調整することも,
我がものとすることもしないのである。心理一運動的シネルジーの欠陥によっ て彼はそれら総ての諸表出の間に散らばっているままなのである。」(ibid,
p.221−222)
ワロンは精神的アシネルジーの場合には,むしろ,自我意識が充分育ってい ないことを指摘しているように見える。すなわち,彼は自分と対話しているよ うに見えて,それはすべてたんなる紋切型の文句のコピーを自らに発している だけで,自己の表出を統合する中心をもってはいない。これは精神的シネルジー が結局はjeという自我意識によって行なわれることを示しているものととら えられるが,それの欠陥についてワロンが面白い言い方で表現しているのが興
味深い。ここでワロンは「諸表出と居合わせる(assister aux manifestations)
という表現をとっているが,これは自分が自己の表出を統制することができず,
まるで違った人格のように自己の表出の側にいるような感じを言うのであろう。
このことは,もちろん自我がもう一人の自我と同居しているのではなくて,も