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徳重浅吉と京都 : 思想史的素描

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(1)

著者 前田 一郎

雑誌名 社会科学

巻 48

号 2

ページ 27‑53

発行年 2018‑08‑31

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000245

(2)

二七 徳重浅吉︵一八九三〜一九四六︶は主として戦前に活躍した歴史

研究者である︒現在︑﹁明治仏教﹂の研究者として記され忘却され

がちである一方で︑教育史ではその資料収集が高く評価されている

が︑ここでは史学史的関心から徳重浅吉とその研究を取り上げる︒

西田直二郎とも近い関係にある歴史研究者徳重浅吉の基礎的な研

究を通じて︑そうした矛盾を考え︑なぜ京都だったのか︑京都にど

のように関係するのか︑を考えたいと思う︒考察の問題群としては︑

国史教授︑維新史︑京都︑教育︑宗教︑日本精神である︒

第一次世界大戦後を受けて︑教諭であった徳重も歴史=構成主義

の立場で︑経済史・文化史の必要を言い︑国史教授としては︑歴史

は進化するもので︑世界文化に貢献する皇国に忠実な国民を養成す

るものと見ていた︒研究生活に入ると︑歴史は史料を扱うので史料

の様々な検討は必要で︑それを経て歴史を構成するが︑観念論的史

学︑マルキシズム史学に対抗して︑とりわけ実証的な文化史・精神

史をめざそうとする︒維新精神史では︑それぞれの立場の理想とす

るところを実証して︑そこから時代精神︑イデーを歴史的に検出し

て構成しようとする︒

京都との関わりは︑一つは三浦周行との関係であるが︑維新史の

研究者としてかかわる︒二つには教育学の小西重直︑文化史の西田 直二郎との関係で京都府教育史にかかわる︒その中で京都地域の意

向を踏まえながら︑赤十字精神︑先哲遺芳︑京都府教育史を叙述す

ることになる︒三つには︑京都市教育会との関係で︑西田直二郎と

の関係であると思われ︑維新史の専門家として史蹟にかかわる︒

研究自体は︑維新精神史から維新期の政治と宗教が問題として選

ばれ︑時局と関係はないとしているが︑歴史学として時局には積極

的に関わっている︒つまり歴史は構成されるものであり︑﹁日本建

国の精神﹂︑﹁日本精神﹂は弁証法的に進化していくと論じていくよ

うになった︒

一 問題の所在

徳重浅吉︵一八九三〜一九四六︶は主として戦前に活躍した

歴史研究者である︒柏原祐泉は一九七四年︵昭和四九︶に徳重

浅吉の主著のひとつである﹃維新政治宗教史研究﹄を複刊する

にあたり︑徳重を維新期の政治史・思想史・宗教史の開拓者と

︽研究ノート︾

徳重浅吉と京都 │ 思想史的素描 │

前  田  一  郎

(3)

二八

して︑史料蒐集が困難で複雑で総合的な研究が必要ななか︑維

新宗教史の指針でありつつづけているとし︑今日でも総体的な

解明が必要なので︑本書の役割は﹁時代精神﹂によって幕末維

新期を見渡したことにあるとしている︒しかし吉田久一は戦前

の研究は﹁明治仏教﹂というのが多いのに対して︑戦後の研究

は﹁近代仏教﹂が多いとし︑大谷栄一は﹁明治仏教﹂の特徴は政

治的社会的背景をふまえた年代記的な記述とし︑これを受けて

林淳も﹁明治仏教﹂から﹁近代仏教﹂へと研究が変化するが︑徳

重自身は﹁明治仏教﹂の特徴を国家主義︑政治主義的としてと

らえ︑徳重を﹁明治仏教﹂の研究者として位置づけている︒明治

以降の仏教史を﹁近代仏教﹂として問題化することで研究が進

展しているとすれば︑﹁近代﹂的ではないとされる﹁明治仏教﹂

はどのように問題化すべきであろうか︒

一方︑教育史では︑徳重が﹃京都府教育史﹄の編纂主任とし

て集めた資料は貴重であり︑特に近代初期の教育史を考える上

で重要で︑京都市教育研究所では整理して目録を作成し︑これ

を使って諸研究がなされている︒たとえば︑川村覚昭は京都府中

学の初代校長である今立吐立の教育思想の研究では︑それをふ

まえて﹁京都学﹂構築のためには教育をすえる必要があるとし

て︑外国人教師招聘とそれを支える京都の文化性・宗教性を指

摘している︒ 現在︑﹁明治仏教﹂の研究者として記され忘却されがちである

一方で︑教育史ではその資料収集が高く評価されるということ

になっているが︑ここでは史学史的関心から徳重浅吉とその研

究を取り上げることで︑そうした矛盾を考えたいと思う︒近年︑

小林丈広は﹃京都における歴史学の誕生︱日本史研究の創造者

たち︱﹄の中で︑歴史学の見直しの動向を整理した上で︑本書

では多様な人々によって担われた京都地域の歴史学の歩みを明

らかにしようとしたし︑また入山洋子は︑西田直二郎が京都市史

にどのようにかかわったかをその意義を考え︑文化史的な自治

体史が目指され︑京都大学とは別に在野の拠点として戦後歴史

学の旗手を輩出したとしている︒

本稿では︑西田直二郎とも近い関係にある歴史研究者徳重浅

吉の基礎的な研究を通じて︑そうした矛盾を考え︑なぜ京都だっ

たのか︑京都にどのように関係するのか︑を考えたいと思う︵徳

重浅吉の年譜は表

1

を参照︶︒考察の問題群としては︑国史教授︑

維新史︑京都︑教育︑宗教︑日本精神である︵徳重浅吉の主要

な著作は表

2

を参照︶︒

1︶

2︶

3︶

4︶

5︶

6︶

7︶

8︶

(4)

二九 二 

出発点としての学校教育︱﹁国史教授﹂はいかにあ

るべきか︱

徳重浅吉は鹿児島に生まれ︑鹿児島・広島の師範学校を出て︑

一九一八年︵大正七︶以降︑師範学校などの教諭となる︒最初

の仕事は翻訳であった︒同年に︑イギリス人ジェ・タブリユ・

ヘッドラムの

he Dead Lands of Europe T

﹁援けよ亡国の民 ” を

を﹂として翻訳している︒翻訳者の言はないので︑どのように考

えていたかはよくわからないが︑編者はつぎのように評価して

いる︒

﹁訳者は現に広島県三原女子師範学校に於て重要なる位置

を有せらゝる青年教育家である︒同氏︵=徳重浅吉︶は凶

暴なる独逸の為に圧制の羈胖に縛せられて生存の権利さへ

も全うし得ざる無辜の良民の為に多大の同情を寄せられた︒

実に本編は訳者の同情の結晶の一部分である︒吾人は読者

と共に徳重氏の好意を感謝する次第である︒︵中略︶ヘッド

ラム氏は︵中略︶其の竟極の目的は墺洪二重王国︵=オー

ストリア︱・ハンガリー帝国︶の紛糾せる問題を連那的組

織︵=のちの国際連盟︶によって解決せんとするもので︑事

実に於て同国内のスラブ族に国家事務上︑大なる自由を享 受せしめんとするものである︒﹂︵傍線は筆者による︒以下

同じ︒︶

徳重にはドイツ帝国の圧政下で生存権をおびやかされているス

ラブ民族への同情があったことになる︒原題と邦題との違いに

注目すれば︑国家を失ったスラブ民族を救援しようということ

になろう︒それをヘッドラムが言うのちの国際連盟によってス

ラブ民族に自由権を与えることで生存権を確保することに同意

していたと見ることができようが︑このことが第一次世界大戦

後の新しい政治原理である﹁民族自決﹂ということを意味して

いたかどうかは定かではない︒現代への関心から︑国家をもた

ない民族の悲劇に同情したといえようか︒

この翻訳と前後するのが︑﹁国史教授﹂のあり方への関心であ

る︒つまり﹁国史﹂はいかに教えるべきかという歴史教育論に

ついて共著﹃史眼の養成を主としたる国史教授の原理及実際﹄

を刊行している︒第一次世界大戦は歴史教育についても見直し

をもたらした︒監修者の東京成城小学校主事鯵政︵小原︶国芳

は︑徳重と同郷で︑かつ鹿児島・広島の師範学校の先輩でもあ

るが︑鯵政は﹁歴史教授に対する私の意見﹂で︑歴史は﹁自己

を以つて諸種の事件をある体系に構成して行く﹂という構成主

義の立場で︑﹁歴史の改造﹂を﹁文明評論︑時代精神の批判︑人

9︶

(5)

三〇 表 1 徳重浅吉年譜

西暦 和暦 履歴 年齢 典拠 参考

1893 (明治 26) 3/15 鹿児島県囎唹郡財部村(現曽於郡財部町)に生まれる 京都府庁文書(大 9-27-21)

1909 (明治 42) 鹿児島県唹囎郡財部尋常高等小学校卒業 16 歳 京都府庁文書(大 9-27-21)

1913 (大正 2) 鹿児島県師範学校本科第一部卒業 20 歳 京都府庁文書(大 9-27-21)

1917 (大正 6) 広島県高等師範学校本科地理歴史部卒業 24 歳 京都府庁文書(大 9-27-21)

広島県高等師範学校研究科入学 24 歳 京都府庁文書(大 9-27-21)

1918 (大正 7) 広島県三原女子師範学校教諭兼訓導 25 歳

京都府庁文書(大 9-27-21)/広島県三原女 子師範学校・広島県立三原高等女学校『創 立廿五周年・十周年記念誌』

1919 (大正 8) 愛媛県宇和島中学校教諭 26 歳 京都府庁文書(大 9-27-21)

1920 (大正 9) 京都府女子師範学校兼京都府立桃山高等女学校教諭 27 歳 京都府庁文書(大 9-27-21)/『京都府学事関 係職員録』大正九年・大正一〇年 1921 (大正 10) 共著『史眼の養成を主としたる国史教授の原理及実際』(大同館) 28 歳

1922 (大正 11) 4/30 同校退職 29 歳 京都府庁文書(大 12-002-004)

1923 (大正 12) 京都帝国大学文学部史学科国史専攻入学

『経済的国史教授原義』(大同館書店) 30 歳

『京都帝国大学一覧大正十二年至大正十三 年』『京都帝国大学一覧大正十三年至大正 十四年』

大正 12 年度国史学講座喜田 貞吉・三浦周行、大正 13 年 度から国史学講座西田直二 郎・三浦周行

1925 (大正 14) 同校卒業 32 歳 『京都帝国大学一覧大正十五年至昭和二年』

京都帝国大学大学院「日本思想史特に近世ノ思想」(昭和 4 年迄)

『京都帝国大学一覧大正十五年至昭和二年』

『京都帝国大学一覧昭和二年至昭和三年』

『京都帝国大学一覧昭和四年』

大谷大学予科教授(日本史)(昭和 10 年迄) 京都府庁文書(大 14-34-4-043)/『京都府学 事関係職員録』大正十四年

小西重直は大谷大学学部嘱 託教授

1926 (昭和元) 大谷大学学部教授嘱託(国史・国史学)(昭和 11 年迄) 33 歳 『京都府学事関係職員録』大正十五年

小西重直は立命館大学予科 学監・立命館高等予備校学 監(大正 15 〜昭和 6)大谷 大学学部嘱託教授(大正 15

〜昭和 3)

1933 (昭和 8) 立命館大学予科講師(日本史・昭和 13 年迄) 40 歳『立命館学誌』第 162・170・191・199 号/

『立命館大学百年史』資料 1・499 号 立命館大学専門部文学科講師(国史担当) 『立命館学誌』第 162 号 1 /明治仏教史編纂所西部委員会発起人、3 /明治仏教史編纂所

嘱託(編纂員)、綜合明治仏教史編纂会発起人

『明治仏教関係新聞雑誌目録』(1934 年 7 月、

明治仏教史編纂所)

1934 (昭和 9)『維新思想史研究』(立命館大学出版部)

*小西重直題箋・西田直二郎序 41 歳

1935 (昭和 10) 3 /日本図書館協会で『維新精神史研究』が「哲学・倫理・宗

教」の良書に選ばれる 42 歳 『良書百選』第 4 輯

『維新政治宗教史研究』(目黒書店)*西田直二郎題箋 藤井貞文「紹介と批判 徳重浅吉著『維新精神史研究』」/牧健 二「書評及紹介 徳重浅吉著・維新政治宗教史研究」/浅野研 真「明治仏教の断面 維新 政治宗教史 研究」

『歴史学研究』第 3 巻第 3 号/『社会経済史 学』第 5 巻第 1 号/『読売新聞』昭和 10 年 7 月 12 日朝刊

1936 (昭和 11) 4 /皇紀 2600 年・京都府教育会創立 60 周年記念事業として京都

府教育史編纂事業が開始され編纂主任となる 43 歳 『京都府教育史』上

1937 (昭和 12) 大谷大学文学部教授(国史学・仏教史学担当) 44 歳 『京都府学事関係職員録』昭和十二年

明治大正史談会世話人 『明治大正史談』第 1 輯(1937 年 2 月、明治

大正史談会)

1938 (昭和 13)

大谷大学文学部教授(国史学・仏教史学・日本精神史)、同学部 必須科目「日本精神史」設置、徳重浅吉「日本精神の特殊性格」

開講

45 歳『大谷大学百年史』/『京都府学事関係職員 録』昭和十三年

『日本文化史の研究』(目黒書店)*西田直二郎題箋・扉

1941 (昭和 16) 陸軍軍属徳重浅吉 8 月 5 日臨時招集のため休務を命じられる。

9/30 召集解除、10/1 復務 48 歳

防衛省防衛研究所「軍需動員実施概況報告 綴(忠海製造所)」(国立公文書館アジア歴 史資料センター)

8 /日本仏教史学同人 『日本仏教史学』創刊号

山本三郎「工業史・近世」で言及 『社会経済史学』第 10 巻第 9・10 号

1943 (昭和 18) 国史学講座主任(昭和 19 年迄)、10/20 出陣学徒壮行会記念講演

「聖勇国に殉ず」 51 歳

『大谷学報』23-6/『大谷大学百年史』資料編 別冊戦時体験集−「学徒動員」「勤労動員」

の記録−/『京都府学事関係職員録』昭和 十八年

「史学概論」は西田直二郎

1944 (昭和 19) 11/1 大谷教学研究所所員兼任、人文科学部総題「日本精神史」、

徳重浅吉・柏原祐泉研究題目「日本世界観を中心として」 52 歳『大谷大学百年史』/『大谷大学教学研究所要 覧』

勤労動員引率教員(昭和 19 年 9/1 から約 11 か月あるいは昭和 19 年 10 月から終戦まで)

『大谷大学百年史』資料編別冊戦時体験集−

「学徒動員」「勤労動員」の記録−

1946 (昭和 21) 8/19 没 54 歳 『日本史研究者辞典』

(6)

三一

表 2 徳重浅吉の主な著作

西暦 和暦 論文・著書 掲載誌・出版社 備考

1918 年 大正 7 年 7 〜 10 月 (翻訳)ジェ・タブリユ・ヘットラム「援けよ亡国の民を」『戦事時報』第 8 号・第 10 号・第 11 号・第 13 号(戦時時報社)

1921 年 大正 10 年 5 月

『史眼の養成を主としたる国史教授の原理及実際』(東京成 城小学校主事鯵政国芳監修・京都府立女子師範学校徳重浅 吉・同訓導松本正男・吉良佐太郎・内藤孫一共著)

大同館 1930 年 12 版

1923 年 大正 12 年 2 月 『経済的国史教授原義』 大同館

1925 年 大正 14 年 10 月 『赤十字精神』(日本赤十字社京都支部編) 日本赤十字京都支部 1927 年 昭和 2 年 10 月 『先哲遺芳』(京都府編) カワイ書店

1928 年 昭和 3 年 6 月 「神国思想発展の理念」 『大谷大学国史研究会紀要』第 1 冊 昭和 3 年 11 月、昭

和 4 年 1 月 3 月 「幕末に於ける武家の窮乏」 日本放送協会東海支部『近世文化 史講座』第 3・4・5

1929 年 昭和 4 年 5 月 8 〜 10 日

「すみだ川の水は直ちにテイムス河畔へ―「近世世界政治

外交史論」の評―」 『読売新聞』朝刊

1930 年 昭和 5 年 1・2・10

『破斥出定笑語附録神敵二宗論 唾笑語』『総斥排仏弁』『護

法総論』(翻刻) 大谷大学人文学研究室

1933 年 昭和 8 年 2 月 『白華備忘録』(翻刻) 大谷大学国史研究会 昭和 8 年 「明治維新と東西本願寺」(鷲尾順敬監修『仏教文化大講

座』第 1 回社会篇)

1934 年 昭和 9 年 4 月 「江戸時代の仏教」(仏教思想普及協会編『国民仏教聖典』

第 3 編日本の仏教・日本仏教の歴史) 秀文閣書房

昭和 9 年 5 月 『維新精神史研究』 立命館出版部

昭和 9 年 10 月 「維新前後の仏教徒と日本精神」(真宗各派協和会編『日本

精神と仏教論纂』) 文化時報社出版部

昭和 9 年か 『白華教部省雑纂』『切支丹由来記全』(翻刻) 『尋源』第 3 号 1935 年 昭和 10 年 2 月 『維新政治宗教史研究』 目黒書店

昭和 10 年 2 月

「護法篇総説―護法運動概論―」(『明治仏教全集』第 8 巻 護法篇)*編輯顧問井上哲次郎・編輯校訂常盤大定・編輯 解題徳重浅吉

春陽堂

昭和 10 年 4 月 「大楠公とその時代」(東本願寺神戸教務所編『殉忠六百年

紀念刊行 大楠公と仏教』) 大谷派神戸教務所

昭和 10 年か 『白華護法録』(翻刻)

1936 年 昭和 11 年 6 月 『孝明天皇御事績紀―京都府学務部社寺課内孝明天皇聖徳

奉彰会蔵版―』 東光社

1937 年 昭和 12 年 4 月・6

〜 8 月 「明治初年の京都博覧会(一)〜(四)」 『明治大正史談』第 3 輯・第 5 輯〜

第 7 輯(明治大正史談会)

1938 年 昭和 13 年 9 月 「本尊美氏の学問について」

『本尊美翁追憶録』所収、のち佐藤 芳二郎編『ポンソンビ博士の真面 目』(本尊美記念会、1958 年 5 月)

に再録

昭和 13 年 10 月 『日本文化史の研究』 目黒書店

1939 年 昭和 14 年 10 月 『岩倉公旧蹟保存会所蔵文書目録』(徳重浅吉・藤島達朗

編)『岩倉公と京都』 財団法人岩倉公旧蹟保存会

1940 年 昭和 15 年 3 月

「五、宗教」(田中一彦編『日本文化史大系』第 11 巻幕末・

維新文化)*編輯顧問三上参次・喜田貞吉・辻善之助・長 沼賢海・松本彦次郎・藤懸静也・西田直二郎・今井登志 喜・栗田元次・石田幹之助

誠光堂新光社

昭和 15 年 10 月

『皇紀二千六百年記念 京都府教育史』上(京都府教育会 編)*第 3 篇草創期の京都府教育/第 4 編発展期の京都府 教育/第 5 篇全国的教育整頓期の京都府教育を分担執筆

京都府教育会

1943 年 昭和 18 年 4 月 『厳如上人の勤皇事蹟』(東本願寺パンフレツト第 51 輯) 真宗大谷派宗務所内大谷出版協会

昭和 18 年 6 月 『京都の維新史蹟』 京都市教育局文化課

(7)

三二

物の批判︑社会組織の機能の理解︑社会発展の理法︑経済生活

思想生活︑民衆の運動︑といつたやうな︑もっと〳〵生きた文

化的なものにならねばならない﹂として政治史中心から文化史

的な方向への改造が必要とし︑また﹁国民精神の鼓吹もよいが︑

それが時々偏狭なる島国根性となり排斥思想となり︑﹃日本一﹄

﹃世界一﹄の自惚れともなる︒国民精神の涵養は無論必要である

が︑ハキ違へは困る︒国民精神と同時に人道的国際的良心も涵

養せねばならぬ︒﹂として︑第一次世界大戦後を反映して国民精

神と同時に人道的国際的良心の涵養もいう︒

この国民的なものと国際的なものとの関係について本書では︑

教科書は﹁国史教授に於ける国家の意志を表明したもの﹂とい

うことを前提に︑﹁一︑時勢に順応し世界文化に貢献する真伨な

自然的国家人を養成するのが国史教授最終の目的である︒﹂︑ま

た﹁一︑生活は唯一つである︒道義は方便ではない︒皇国に絶

対の忠順を輸すのが我々に可能な唯一の世界文化人たるの生活

である︒国史教授は其の信念を陶冶するを目的とする︒﹂とする

ように︑国家人であること︑皇国への忠順によって世界文化に

貢献するという関係にあり︑国史教授は﹁一︑普通教育に於け

る国史教授は︑個々の細節を暗記させるよりも其の史実を必然

的に将来した歴史的生命力を髣髴せしめて︑人物栄落の跡︑国

家盛衰興亡の岐るゝ所以の原理を︑覚らしむべきである︒かく てこそ歴史は︑修身治国の要道に資する活学となる﹂として︑史

実に歴史的生命力を見て人物や国家の栄枯盛衰の原理をさとら

せる意味で歴史は修身治国に貢献するとしている︒

国民的なもの・国家的なものと国際的なものとの間に鰺政と

本書との間に少しズレがあるようにも思えるが︑徳重の単著で

ある一九二三︵大正十二︶年の﹃経済的国史教授原義﹄でも︑

﹁一︑国史教授の目的は世界の文化に貢献する日本帝国臣民を養

成することにあると思ひます﹂として帝国臣民として世界の文

化に貢献することが言われている︒また﹁二︑︵中略︶国民たる

志操の所有者は当然現代の国家社会の生活に順応し之を指導す

ることに依つて奉公の誠を尽す人でありますから現代に対する

正当なる理解を与へることが国史教授第一の任務だと思ひま

す﹂として国史教授として現代への正当な理解を与えて国民と

して国家社会に順応し奉公の誠を尽くすようにすると考えられ

ている︒また﹁八︑文化は価値の体現であり︑その生活は自然

から理想への高揚でありますから︑力を要します︵中略︶人間

の世界特に現今の如き民族主義の歴史時代には高遠なる人類愛

の実現のために之を忽にしてはならぬと存じます︑軍国主義帝

国主義的侵略政策は呪ふても国家も亦文化産物の一であること

を忘れてはなりません︒﹂として︑現代=民族主義の時代︑国家

=文化産物として考えられている︒

10

11

(8)

三三 歴史教育としての﹁国史教授﹂は第一次世界大戦後を反映して国民的なもの・国家的なものと国際的なものとの関係に苦心されていて︑国民的なもの・国家的なものを通じて国際的なものへの貢献が言われるので︑ともすれば国民的なもの・国家的なものが優先されるようである︒三 

文化史としての維新史の選択︱維新史はどうあるべきか︱

徳重は一九二三年︵大正十二︶に京都府女子師範学校を退職

したあと︑翌年︑三十歳で京都帝国大学文学部史学科国史専攻

に入学する︒一九二五年︵大正十四︶には京都帝国大学大学院

に進学し︑テーマは﹁日本思想史特に近世ノ思想﹂であった︒後

年︑回顧にしたところによれば︑文化史︑その一部である精神

史を選択したことになっている︒一九三八年︵昭和十三︶十月

に刊行された﹃日本文化史の研究﹄序ではつぎのようにある︒

﹁言ふまでもなく歴史は過去の事実に関する学問である︒そ

れ故に何よりも先づ史料の精密なる吟味と選択とが必要で

あり︑之を理解し批判する態度も︑広く文化的見地に立つ

た公正なものでなければならぬ︒然るに文化史と及びその 深き目的探究の一部面である精神史とは︑元来此の種の考証的研究を軽んじ易き性格に於てあり︑マルキシズム史学は︑一見極めて堅牢なる実証科学たるが如きも︑先づその出発点に於て偏倚せる独断的観念論を基礎として居る︵中略︶予は大正の中葉より史学界に生を託し︵中略︶曽て経済史を中心として諸分科史が競ひ興つた比︑普通史学在来の意義に迷ひし結果︑史料の厳密なる考証と批判︑その全体連関的観察による総合的理解︑即ち人生への直接なる意義を把握せんとする文化史こそ︑その拠て以て立つべき分野なることを思うて︑爾来かゝる方面に研究の歩を運び︑

折々筆にしたものがあって︑その幾分をこゝに纏めること

にした︒﹂

従来の文化史︑その一部としての精神史が﹁考証的研究﹂を軽

んじる性格があること︑マルキシズム史学が出発点に﹁偏倚せ

る独断的観念論﹂を基礎としているとして︑それらとの対抗か

ら︑﹁史料の厳密なる考証と批判︑その全体連関的考察による総

合的理解︑即ち人生への直接なる意義を把握せんとする文化史﹂

を選択したとしている︒

その最初の主著が一九三四年︵昭和九︶刊行の﹃維新精神史

研究﹄である︒その序で西田直二郎は徳重浅吉が﹁明治史研究﹂

12

(9)

三四

に志し︑卒業の論文もこれに関するものであり︑﹁明治維新の思

想史的方向の研究﹂は早くから決定されていたように見えたと

し︑大谷大学や立命館大学で﹁国史学﹂を講じながら︑﹁近世仏

教史の研究﹂と相まって﹁思想史︑精神史に対する興味と必要﹂

を感じて完成したとしている︒徳重自身も﹁一︑従来先づ外面

的政治的にのみ究明せられ居るかの観ある維新史を︑内面的精

神的方面にまでも系統を立てゝ領解せむことに﹂努めたとし︑い

わば﹁維新思想史研究の立場﹂についてつぎのように言ってい

る︒

﹁然るに史的考察は疑もなく過去に於ける人間の文化的活

動の実相を把握し︑之を解釈してそのものゝ持つ意味を明

かにせんことを以て目的とする︒所が過去は現在と継続は

してゐるといふものゝ︑それは進化を特徴とする一つの継

続体の二点である︒随つて過去の文化を形作った理想と︑現

在の文化を形作ってゐる理想との間には必然的に相違が出

来る︒かくて此の理想の相違を正確に鮮明に掴むところに

歴史家の努力は払はれる︒︵中略︶

史的考察が材料を事実にまで構成するのには︑二段の反省

が必要とされる︒其等の一つは深厚なる同情を以て︑対象

の出現した時代の社会事情の中に其れのはたらきの根底を 索めることであり︑他の一つは厳正なる標準を以て︑現在の生活理想より其れの価値を批判することである︒此等の二段の反省を経て始めて︑材料は事実にまで構成されるのである︒これは田中王堂氏が﹁福澤諭吉﹂︵世界思潮第十二輯︶の初めに書かれて

居る意見であるが甚だ我意を得た︒︵中略︶乃ち歴史はどこ

までも過去の国民なり︑個人なり︑社会なりの実際的活動

に関係し︑それ等の歴史的個体の活動を通して︑それ等の

ものが懐抱し︑追究してゐた理想と︑その理想実現の有様

とを跡づけ︑之に依てそれら歴史的事件の文化的意義を闡

明し︑終には或る個人なり社会なり時代なりが動かされて

ゐた最深最高の精神︑即ちイデーを知らんとするのである

と︒︵中略︶従つてこれが実際の内容は思想を通して過去の

国民なり︑社会なりの活動を観察し解釈し批判せんとする

ものなりともいへる︒﹂

特徴的なことは︑明確な発展的立場であること︑そこから過去

の理想のあり様と︑現在の理想から見た批判を通して事実を構

成することであり︑それは理想実現の有様をあとづけて︑歴史

事件の文化的意義を明らかにして︑個人なり社会なり時代なり

が動かされていた﹁最深最高の精神﹂﹁イデー﹂を知ろうとする

13

(10)

三五 精神史研究である︒したがって西田直二郎が序文で言うように︑徳重の立場には﹁明治維新の変革を以て︑日本建国以来久しき国民生活の総決算︑再建設なる理想に導かれたる時代﹂という現代認識があり︑﹁観念論的史学﹂を否定して︑﹁歴史研究とし

て厳密なる事実の探索とその実証に多くの力を用﹂いて﹁歴史

の諸事件の根柢に横はれる指導的なる精神にまで至らん﹂とす

るものである︒いわば精神やイデーの自己展開という観念論で

はなく︑精神やイデーそのものを歴史的に検出しようとするこ

とであり︑そのために歴史的事実を間違いなく構成しようとし

て﹁考証的性格﹂あるいは﹁実証﹂に意が用いられることにな

る︒この﹁実証﹂と精神との結びつきが整合的がどうかが問題

となる︒また現代から﹁国家﹂﹁国民﹂﹁社会﹂を無前提に遡及的

に読み込むことの是非が問題となろう︒

四 京都への関わり

1

維新史から

歴史研究者として徳重浅吉が京都地域に関わるようになった

のは︑一九三六年︵昭和十一︶刊行の﹃孝明天皇御事績紀﹄の

京都府知事鈴木信太郎の序によれば︑﹁先づ御伝記編述のことを

企て之を文学士徳重浅吉氏に依嘱したり︑同氏は予て日本思想 史を研究し特に維新史の造詣深く︑曽て本府編纂の﹃先賢遺芳﹄

と日本赤十字社京都支部編纂の﹃赤十字精神﹄に筆を執りしこ

とあり﹂としてあるように︑日本思想史︑特に維新史の関係で︑

京都府編﹃先賢遺芳﹄と日本赤十字社京都支部編﹃赤十字精神﹄

を執筆したことに始まる︒

一九二五年︵大正十四︶に刊行された﹃赤十字精神﹄の緒言

によれば︑編纂は文学博士三浦周行・田中勘兵衛・碓井小三郎・

和田不二男・北畠貞顕・雪沢千代治・徳重浅吉氏の七氏に嘱託

し︑しばしば会議を開き︑資料の蒐集・整理︑目録の調整︑本

書の文案等について打合せをした上で︑特に文学士徳重浅吉氏

を煩はして執筆せしめたとある︒徳重は一九二五年︵大正十四︶

に京都帝国大学を卒業し大学院に進学しているが︑当時の国史

学講座は三浦周行・西田直二郎であったので︑三浦周行の縁で

あろう︒﹃赤十字精神﹄とは﹁赤十字事業の精神﹂のことで︵第

1

章第

1

節︶︑日本赤十字社京都支部長池田宏序ではつぎのよう

にいう︒

﹁就中我が城丹の地は上下千有余年の輦下として︑最も深く

皇化に浴し︑仁風に薫化したること鮮しと為さず︑儒道の

仁義思想︑仏教の慈悲観の如きは此地が思想の源泉︑文化

の中心たるの故を以て夙に最善く醇厚なる国民性に依りて

14

15

16

(11)

三六

陶冶せられ︑特色ある教義と為り︑教権の及ぶ所政治に現

はれて賑恤救護の仁政と為り︑科学の智識と結びては医道

の好生輔仁と為り︑処世の上に応用せられては心学の実践

道徳を興し︑其相影響する所坊間に相愛善隣の誼を盛なら

しめたり︑然るに世の人王朝以来京洛の文術風尚が常に我

が国民社会の時代精神を作りし事を説くに詳かなるも︑未

だ総合的組織的に此の聖業の功に及ぶもの莫きを憾む﹂

ここには山城・丹波地域は︑天皇の徳や人々の仁徳の教化にな

じみ深く︑ここを思想の源泉︑文化の中心として儒道の仁義︑仏

教の慈悲が広がって︑人情に厚い﹁国民性﹂が陶冶されたとし︑

それが政治上に﹁賑恤救護の仁政﹂という形で現れ︑医学上に

は仁徳を助ける形で現れ︑心学という処世にも応用されて︑そ

れぞれが愛・善・隣の誼を盛んにしたという地域認識がある︒本

書では︑天皇の事業の功績に言及して︑京洛の学問・気高さが

﹁国民社会の時代精神﹂を作ったことを明らかにしようとしてい

ることになる︒

また一九二七年︵昭和二︶に刊行された京都府編纂﹃先賢遺

芳﹄は︑序や凡例によれば︑池田京都府知事は社寺課長馬場義

也に伝え︑同氏が下御霊神社社司出雲路通次郎・宮内省図書寮

御用掛猪熊信男・京都帝国大学司書官山鹿誠之助・京都府立図 書館長北畠貞顕・大谷大学教授鈴鹿三七等に依頼したとあって︑徳重浅吉の名前は明示されていないが︑大谷大学教授鈴鹿三七も参加し︑北畠貞顕とも面識があるので︑関係しているのであろう︒京都府知事大海原重義の序によれば︑昭和天皇が東山文庫で御物を検じるということがあり︑池田京都府知事はこの機会に慶長・元和以降で京都府下で縁由を有する﹁偉人烈士﹂の遺墨を展示して﹁皇室並に国家に対する赤心至情の一端﹂を示そうと︑﹁京都の地に於て王事に勤めし主要なる人士を選びた

り﹂としている︒徳重は維新史研究者としてかかわったというこ

とであろう︒

このような﹃赤十字精神﹄﹃先賢遺芳﹄執筆をきっかけにして

孝明天皇の伝記も執筆したことになるが︑孝明天皇聖徳奉彰会

ではつぎのように孝明天皇をとらえていた︒

﹁其聖業は不出世の聖帝明治天皇の宏謨によりて大成せら

れたりと雖も︑而も之が基礎を建設して発現の機運を醸成

し給ひしは︑実に孝明天皇夙夜御経綸の賜に外ならざる也︒

惟ふに孝明天皇御治世の間は︑世界大勢の変動期にして︑外

には欧米列強の圧迫我に逼り︑内には幕政已に衰頽に趨き

て政治の運用その機能を欠き︑擾乱為に相次ぎ起りて物情

騒然︑洵に国家の危急を告げたる非常時なりき︒︵中略︶敢

17

(12)

三七 然として国家の大事は必ず之を奏聞すべきを厳令し︑且つ旧習を打破して諸藩の意見を徴し︑士庶に及ぶまでも建白の機会を与へて言路を洞開し給へり︒万機公論に決する立憲の規模は正に此時に始まりし也︒若し夫れ海防を厳にし親兵を剏め給ひし如きは現時国軍建置の濫觴︑則ち内治外交の大権漸次朝廷に復帰するの階梯を成就し給ひし也︒︵中

略︶而も天皇は平然として日夜内外の政務にのみ御心を砕

かせられ︑数多き御製等一として国利民福を惟れ念はせ給

ふ大御心に出でざるはあらず︒︵中略︶本府故を以てこゝに

鑑みる所あり︒曩に孝明天皇聖徳奉彰会を組織して衷情の

一分を披歴せんとし︵後略︶﹂

孝明天皇の治世を﹁世界大勢の変動期﹂で外に欧米列強の圧迫

がせまり︑内には幕政が衰頽に趨き︑政治の運用機能を欠き︑擾

乱が相次いておこり物情騒然とした﹁国家の危急を告げたる非

常時﹂として把握され︑昭和初期の﹁非常時﹂と二重写しになっ

ている︒明治天皇の五か条の御誓文の﹁万機公論に決する﹂と

いうことは﹁立憲の規模﹂で︑これは孝明天皇の時から始まっ

ているとされている︒また海防を強化し親兵をはじめたのも﹁現

時国軍建置の濫觴﹂として︑大政奉還で﹁内治外交の大権漸次

朝廷に復帰するの階梯﹂を成就したとして︑明治天皇・明治政 府の直接の前提としての孝明天皇像を描いている︒徳重浅吉も自序で﹁あの国家危乱の際に国家国民を導﹂いたこと︑﹁維新の

大業といはるゝ所の︑あの光栄ある我国史の大変革の偉大なる

準備工作﹂という明治維新の準備がなされたこと︑いわば孝明

天皇は﹁新日本誕生のため︑旧日本更生の為の御通はしき犠牲﹂

であったとしている︒いわば明治天皇・明治維新・明治国家から

遡及的に孝明天皇を描いたことになろう︒

2

京都府教育会から

もうひとつ京都地域に関わるのは︑京都府教育会との関係で

ある︒京都府教育会は一八八一年︵明治十四︶に成立した教員

相互の修養団体で︑かつ社会教育の社団法人である︒また京都

帝国大学との関係も深い︒一九三〇〜三九年︵昭和五〜十四︶年

の動きをまとめると表

3

の通りである︒

京都府教育史の事業は一九三六年︵昭和十一︶からと考えら

れているが︑一九三五年︵昭和十︶六月に京都府教育会会長小西

重直︵京都帝国大学名誉教授︶・副会長飯田新七︵株式会社高島

屋社長︶を選出して︑いわば小西・飯田体制になってからすで

に京都府教育史の事業が動き出していた︒十二月には教育史編

纂意見交換会がなされ︑外部として北畠貞顕京都府立図書館長・

西原赤十字支部主事・柴田一徳会主事・徳重浅吉三高教授︑内

18

19

20

(13)

三八

部として京都府教育会小西重直会長・三国谷三四郎・藤森勝郎

︵京都府立京都第三中学校長︶・岩森・田村作太郎︵私立華頂高

等女学校顧問︶・鈴木博也︵京都府立第一高等女学校長︶各幹

事・岩内誠一評議員︵元京都市京極尋常小学校長︶・吉村保主事

︵元上京区長︶など十余名が参加した︒京都府教育会としては﹁京

都府には未だ完全なる教育史がない﹂ので教育史編纂は本会事

業として﹁有意義﹂かつ﹁必要﹂と認めて︑その準備として﹁各

方面の権威者﹂に意見を聞くことにしたと説明した︒これに対

して各員は教育史編纂に賛成し︑﹁来るべき紀元二千六百年奉祝

記念として刊行することにしては如何などの議も﹂出て︑京都

の教育史編纂に加えて紀元二千六百年奉祝記念としての教育史

編纂という方向性が打ち出された︒また編纂主任者については

﹁教育を理解し︑時代の流れを洞察することが出来る立派な人を

得ねばならぬ﹂という意見も出た︒

一九三六年︵昭和十一︶一月二十八日には教育史編纂に関し

て︑吉村保主事・朝倉暁瑞幹事︵東京築地本願寺輪番︶が徳重

浅吉を訪問しているが︑編纂主任者を要請したと思われる︒三

月二十八日には教育史編纂主任として徳重浅吉文学士が京都府

教育会に来館して執務をしている︒四月一日に京都府教育会内

に編纂事務局を開設して︑監修・顧問・編纂主任・編纂委員・

書記等を委嘱している︒京都府教育史編纂は紀元二千六百年奉 祝記念事業︑本会創立六十周年記念として︑昭和十一〜十三年度の教育史編纂費一万八千円が計上され︑監修小西重直︵会長︶・

西田直二郎︵京都大学教授︶︑顧問和田寛・中村長太郎・北畠貞

顕︑編纂主任徳重浅吉︵大谷大学教授・国史専攻︶︑委員岩内誠

一・藤田元春・小山荘太郎︵京都府立盲学校長︶・高橋俊乗・時

野谷勝となった︒また事業着年の初めに︑数回編纂会を開き︑編

纂方針・資料蒐集の方法等について議を練り︑まづ﹁本事業ニ

対スル府下各編ノ認識ヲ喚起スルコト﹂として︑四月二十日付

書面で︑京都府下の男女中等学校長︑各小学校長︑郷土史家な

どに助力を要請して﹁京都府教育史資料採集要目﹂を送付して

いる︒つぎに各部会打合会・校長会・各部会総会・郡校長会等

に出席して趣旨を説明して﹁殆ド具体的ニ援助﹂を求めた︒た

とえば一九三七年︵昭和十二︶十二月十九日には小西会長が顧

問・役員・小学校長を招待して︑﹁紀元二千六百年記念事業とし

て着手せる﹃京都府教育史﹄編纂は極めて重大の事業なれば︑何

卒今後ともに各校に於ては一層の御援助を賜はりたし﹂として

援助を要請している︒

資料蒐集については京都府庁にある文書については

﹁一︑京都府ニ保管セラレアル書類ハ︑慶応四年京都府設置

以来︑現存ニ及ビ無慮数千冊ヲ越エンカ︑其内教育史資料

21

22

23

(14)

三九 トシテ直接要用セルモノニテモ三千冊ニ垂ントス︑此ハ京都府ノ教育ガ終始一貫全国ニ魁ケ運営セラレシノミナラズ︑其内容ニ於テ常ニ優越セルモノヲ発現シ来レルコトヲ実証スルモノニシテ︑極メテ貴重ナルモノヲ以テ︑支障ナキモノハ繙閲ヲ許サレ︑且ツ編纂資料トシテ欠クベカラザルモノハ︑之ヲ謄写分類シテ以テ編纂内容ノ中心タラシムルコトトシタリ︑其文書ハ特ニ明治初年ニ精シキガ如シト雖モ︑主トシテ教育法規

・訓令

・施設等ノコトニシテ八千余点

四万五千余枚ニ及ブ﹂︵読点は筆者による︒以下同じ︶

として︑教育資料として三千冊をかぞえ︑京都府の教育力は﹁魁

ケ﹂であり﹁優越﹂しているとし︑編纂資料として謄写分類し

て編纂の中心とすること︑その謄写は教育法規・訓令・施設な

ど八千余点︑カードで四万五千枚余りに及ぶとしている︒また

京都市庁や郡役所にある文書については

﹁一︑京都市ニ於テモ幾許ノ資料ヲ蔵セラレアリ︑之等モ必

要ナルモノハ︑繙閲ヲ許サレ採集スル所アリ︑以前ノ各郡

役所関係ノモノモ︑或ハ各郡部会ニヨリ︑或ハ学校ニヨリ︑

或ハ以前郡衙ニ奉職セラレタル関係者ニツキテ︑努メテ之

ヲ蒐集シツツアリ﹂ として︑京都市庁も必要なものは採集し︑郡役所もつとめて蒐集することが意図されている︒こうして昭和十二年末までに収集を終えて︑章節を立て材料の解釈配列をして執筆の準備をした︒

一九三八年︵昭和十三︶には一月十日には教育史編纂委員会

が開催され︑主事がおそらく補助金のことで京都府学務課を訪

問し︑同月十四日には教育史補助金の一部を京都府より領収し

ている︵表

4

参照︶︒一月二十一日︑三月二十五日にも教育史編

纂委員会がなされ︑四月一日には京都府教育史編纂座談会が開

催され︑中山京都市教育会主事・稲垣真我・出雲路通次郎が来

館している︒

一九三九年︵昭和十四︶には二月四日︑四月五日に教育史編

纂委員会がなされた︒六月一日京都府教育会会長小西重直・副

会長飯田新七が再選され︑同月十五日︑京都府教育会吉村保主

事は﹁教育史編纂は着々進捗し目下各委員の分担にて執筆を急

ぎつつある﹂とし︑また﹁昭和

14

年度本会事業状況其ノ他報告﹂

でも﹁京都府教育史編纂  資料蒐集ヲ完了セルモノヲ︑昨年ニ

引続キ整理分類︑資料全体ノ時期区分︑各期ノ特色ヲ観テ執筆

中﹂とあり︑一九四〇年︵昭和十五︶十月二十七日には京都府教

育会編﹃皇紀二千六百年記念  京都府教育史﹄上が刊行された︒

題字は京都府知事川西宝三︑題箋・序は京都府教育会会長小西

24

25

26

(15)

四〇 表 3 京都教育会の主な動き(1930 〜 1940 年)

1930 年(昭和 5) 7 / 31 〜 8 / 21 京都府教育会主催夏季学校

(歴史科)「日本史・史蹟実施見学指導」京都帝国大学助教授中村直勝、「江戸時代(前半)」台北帝 国大学教授中村喜代一、「江戸時代(後期・明治維新)」大谷大学教授徳重浅吉

12 / 25 〜 12 / 30 京都府教育会主催冬季学校

(日本精神)「日本文化と日本精神」京都帝国大学教授西田直二郎、「公民生活における日本精神の実 践形態」東北帝国大学教授広瀬嘉雄、「明治時代における日本精神の考察」広島文理科大学教授清原 貞雄、「日本精神と仏教」龍谷大学教授深浦正文

1934 年(昭和 9)

4 /〜京都府教育会主催国史講座

第 1 学期「古代史」関西学院大学武藤誠、「鎌倉時代史」京都帝国大学講師藤直幹

第 2 学期「王朝時代史」京都帝国大学教授西田直二郎、「吉野朝時代史」京都帝国大学教授中村直勝 1935 年(昭和 10) 4 /〜京都府教育会主催国史講座(毎週月・木夜 2 時間宛)

第 1 学期「室町時代」京都帝国大学助教授中村直勝、「徳川時代史」、京都帝国大学教授西田直二郎・

京都帝国大学講師藤直幹

第 2 学期「安土桃山時代」関西学院大学教授武藤誠「幕末及明治時代史」立命館大学予科講師徳重 浅吉(『京都教育』605 号)

5 / 19 京都府教育会会長小西重直・副会長飯田新七選出、6 / 1 会告(同 608 号)

12 / 10 教育史編纂意見交換会(北畠図書館長・西原赤十字支部主事・柴田一徳会主事・徳重三高 教授・京都府教育会小西会長・三国谷・藤森・岩森・田村・鈴木各幹事・岩内評議員・吉村主事な ど 10 余名)(同 622 号)

1936 年(昭和 11) 1 / 28 教育史編纂に関して、吉村主事が朝倉幹事と徳重氏を訪問(同 626 号)

4 / 1「本会編纂の京都府教育史 周到なる計画と其の内容 紀元二千六百年奉祝記念事業」、昭和 11 〜 13 年教育史編纂費 1 万 8000 円、京都府教育史編纂部:監修西田直二郎、顧問和田寛・中村長 太郎・北畠貞顕、編纂主任徳重浅吉、委員岩内誠一・藤田元春・小山荘太郎・高橋俊乗・時野谷勝

(同 629 号)

3 / 28 教育史編纂主任徳重文学士来館執務(同 630 号)

5 / 1「京都府教育史 資料蒐集方に就き 各学校長等に御依頼」京都府教育史資料採集要目を掲載

(同 631 号)

5 / 16「各郡部会事務打合会 教育史資料報告等」(同 633 号)

7 / 10「教育史編纂資料蒐集の為め徳重主任岩内評議員丹後方面へ出張」(同 637 号)

1937 年(昭和 12) 12 / 19「小西会長の顧問役員招待 小学校長招待会」「京都府教育史」編纂に一層の援助をお願い する(同 647 号)

12 / 22 教育史編纂委員会(同 673 号)

1938 年(昭和 13) 1 / 10 教育史編纂委員会、主事、府学務課訪問、1 / 14 教育史補助金の一部、京都府より領収 1 / 21 教育史編纂委員会(同 674 号)、3 / 25 教育史編纂委員会(同 679 号)

4 / 15 京都府教育史編纂座談会、中山市教育会主事・稲垣真我・出雲路通次郎来館(同 680 号)

1939 年(昭和 14) 2 / 4 教育史編纂委員会(699 号)、4 / 5 教育史編纂委員会(704 号)

4 / 23「日本研究の英人 本尊美翁の記念碑 友人等の発起で西方寺内に建設」英国人リチャード ポンソンビー氏は昭和 12 年 12 / 10 没、その友人として新村出博士・西田直二郎博士・加藤玄智博 士・元一中校長山本安之助氏・山田新一郎氏・谷大教授徳重浅吉氏(同 704 号)

5 / 28 京都府教育会会長小西重直・副会長飯田新七再選、6 / 1 会告(同 706 号)

6 / 15 京都府教育会吉村主事「教育史編纂は着々進捗し目下各委員の分担にて執筆を急ぎつゝある」

(同 707 号)

1940 年(昭和 15) 10 / 27 京都府教育会編『皇紀二千六百年記念 京都府教育史』上刊行 題字は京都府知事川西宝三、題箋・序は京都府教育会会長小西重直

(典拠) 京都府教育会雑誌『京都教育』を中心に、京都府庁文書・昭和 15・121-3(京都府立京都学・歴彩館所蔵)、京都府 教育会編『京都府教育会最近十年史』(1941 年 3 月、京都府教育会)、京都府教育会編『皇紀二千六百年記念 京都 府教育史』上など。

(16)

四一 重直︑執筆者は徳重浅吉︵大谷大学教授・文学士︶︑藤田元春

︵第三高等学校教授・文学士︶︑高橋俊乗︵龍谷大学教授・文学

士︶︑小山作太郎︵京都府盲学校長︶︑岩内誠一︵京都府教育会

係員︶︑時野谷勝︵京都府嘱託・文学士︶であった︒

3

京都市教育会から

また京都市教育会とも関係がある︒京都市教育会は京都市に

独立の一大教育会を組織しようとして京都府教育会との関係が

懸念されたが︑一九〇二年︵明治三五︶に発足した︒戦後の京都

市文化観光局観光課が一九六七年︵昭和四十二︶十二月に﹃京

都史蹟石標建設推進記録︵京都市教育会史蹟調査委員会︶﹄をま

とめているが︑これによると︑一九一五年︵大正四︶十一月の大

正天皇の即位大礼の奉祝事業として京都市とその付近の史蹟を

調査・顕彰して﹁国民思想の涵養に資せん﹂として委員十名を

嘱託して﹁史蹟調査委員会﹂を設けてその﹁選定講究﹂にあた

らしめ︑翌年から逐次石標を建設したとある︒この﹁史蹟調査

委員会﹂は一九一五年十月に京都市役所内に京都市教育会史蹟

委員会として創立したもので︑この委員に中に西田直二郎とと

もに徳重浅吉も委嘱されたことになっているが︑一九一五年︵大

正五︶段階で徳重が委員になることは困難ではないかと思われ

る︒一九二八年︵昭和三︶の京都市編﹃京都名勝誌﹄にある﹁京

27

28

29

30

表 4 京都府教育会史編纂部収支状況(昭和 11 〜 12 年度)

金 3500 円 収入高

 内訳    金 2000 円 本会より繰入金(昭和 11・12 年度)

金 1000 円 本財団より助成金(昭和 11・12 年度)

金 500 円 京都府より助成金(昭和 12 年度)

金 4985 円 97 銭 支出高

 内訳   金 4391 円 63 銭 昭和 11・12 年度雑給(委員手当・雇員手当等)

金 594 円 34 銭 昭和 11・12 年度需用費(材料蒐集費)

差引  1485 円 97 銭 不足

京都府教育会史編纂部収支状況(昭和 11 〜 13 年度)

金 4000 円 収入高

 内訳  金 3000 円 本会より繰入金(昭和 11・12・13 年度)

金 1000 円 京都府より助成金(昭和 12・13 年度)

金 6156 円 4 銭 支出高

 内訳 金 5432 円 63 銭 昭和 11・12・13 年度雑給(委員手当・雇員手当等)

金 723 円 41 銭 昭和 11・12・13 年度需用費(材料蒐集費)

差引 金 2156 円 4 銭 不足

出典 京都府庁文書昭 13-0084-004・昭 15-0120-000

(17)

四二 都史蹟建設地﹂によれば

︑大正六年一月までに十名の委員が

五十五か所を選考して標石を建設し︑その後委員を解任して︑新

たに二︑三名の委員で十二か所を遂行したとあるが︑いずれも委

員名は記されていない︒徳重浅吉が関わったとすれば新委員の

可能性がある︒その十二か所は次の通りである︒

    

1

京都市街外郭御土居残墟官幣中社北野神社裏手豊臣秀吉築造

・・・現在所在不明

      

2

陶工仁清窯址市外花園村御室仁和寺仁王門前

・・・現在所在不明

    

3

藤本鉄石寓居之址御幸町通三條通上ル東側

・・・昭和三年五月建立

    

4

坂本龍馬寓居之址河原町三條下ル東入北側

・・・昭和三年三月建立

   

5

佐久間象山寓居之址木屋町通御池下ル東側

・・・昭和三年六月建立

   

6

吉村寅太郎寓居之址木屋町通三條上ル東側

・・・昭和三年五月建立

     

7

古高俊太郎邸址西木屋町通四條上ル西側

・・・昭和三年四月建立

     

8

志士西川耕蔵邸址三條通富小路西入北側勤王

・・・昭和三年四月建立

       

9

尊攘堂之址高倉通錦小路上ル西側

・・・昭和三年四月建立

10

      池田屋騒動之址三條通河原町東入北側

・・・昭和二年十一月建立

11

    後藤象二郎寓居之址河原町通三條下ル二筋目東入南側

・・・昭和三年八月建立

12

       春日潜庵邸址紫野大徳寺前雲林院町

・・・現在所在不明

現在︑所在不明なものを除くと︑幕末維新期の人物の寓居・邸

宅址か︑有名な事件の土地で︑昭和二︑三年に集中して建立さ

れており︑徳重浅吉も十分関わることができる︵表

1

参照︶︒そ

こで史蹟に関する京都市・京都市教育会の動きを参照すると︵表

5

参照︶︑在野の民間で史蹟への関心が高まり︑相前後して京都

市教育会︑京都市でも史蹟への関心が高まっていることがわか

る︒民間の﹁京都史蹟会趣意﹂によれば︑京都は﹁延暦遷都以

来﹂﹁史実遺跡﹂が豊富で︑尊重されているものが多いが︑十分

に意識されずに﹁忘却﹂﹁散逸﹂することは耐えがたいので︑﹁敬

重し調査すべきは調査し顕揚すべきは之を愈顕揚し以て将来に

保存﹂することは先祖に酬いるのみならず﹁科学の進運に資し

愛郷の念﹂を深く求める道だとしている︒京都市教育会でも大典

記念事業として史蹟保存標柱が一九一五年

︵大正四︶から

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四三 一九一八年︵大正七︶と集中に建設され︑再び一九二六年︵大正一五︶から一九三一年︵昭和六︶にかけて建設され︑翌年には史蹟調査会が設けられている︒京都市でも学務課長の川島元次郎は﹁郷土﹂に関する研究が新しい学界の傾向としてしきりに行われるようになり︑ドイツでは﹁ハイマートクンデ﹂︵故郷

の知識︶として盛んで︑日本でも一九一五︑一六年︵大正四︑

五︶から十年ばかり以前からその必要が認められ︑﹁郷土科﹂と

して研究され学界のためにも慶賀すべきこととしている︒また

一般にも﹁郷土の研究﹂﹁故郷の研究﹂は人生に必要な知識であ

り処世上も勇気と慰安を与えるとされ︑京都史蹟会はそのこと

に早くに着眼したことに京都市としては敬意を示し︑かつ小学

校教員のための郷土科講習会を開催して︑﹁京都市の計画が此会

の御計画と恰度相一致﹂していたとしている︒工藤泰子は戦時下

の観光について︑日中戦争の開始後の一九三七年︵昭和十二︶

から一九四一年︵昭和十六︶にかけて京都の乗降客数はむしろ

増加し︑京都市観光課は﹁我国の正しい姿﹂を知ろうとすれば

京都観光が﹁経路﹂であるとして﹁京都観光の特異性﹂を描き︑

観光資料が執筆者名を明らかにした﹁専門的な内容﹂でその﹁独

創性と熱心さ﹂で京都外部の事業者から非常に高く評価されて

いたとしている︒徳重浅吉の﹃京都の維新史蹟﹄︵一九四三年︹昭

和十八︺六月︶は京都市教育局文化課が明治維新の専門家とし

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表 5 史蹟に関する京都市・京都市教育会・民間の動き

出典 京都市教育会は『京都市教育会沿革略』(1932 年、京都市教育会)による。

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参照

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