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増野悦興と『基督教青年』

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増野悦興と『基督教青年』

著者 滝澤 民夫

雑誌名 同志社談叢

号 30

ページ 114‑160

発行年 2010‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013009

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増野悦興と『基督教青年』一一四

増野悦興 と『基督教青年』

滝   澤   民   夫

は じ め に

 新島襄の懇篤な説得を振りきって、卒業直前に同志社英学校を連袂退学した増野悦興は新島校長の配慮で伝道活動に従事するようになり、日向高鍋で石井十次と出会い意気投合し、一八八八(明治二一)年八月七日に日向(高鍋)教会を設立して、初代牧師に就任した。しかしほどなく高鍋での活動を断念し

、その後大阪で伝道活動をしつつ『基督教青年』誌の刊行に尽力した。一八八九年九月一三日に発兌された我が国初の基督教青年会(YMCA)の雑誌の全貌は長い間存在も含めて判明してこなかった

。増野悦興の調査過程でご遺族増野潤吉氏が保管されていた『基督教青年』一〜一〇号を見る機会をいただき、先年私はこの関西連合基督教青年会の機関誌について簡単な紹介をおこなった (3。 本稿では一二号まで刊行されたと思われる『基督教青年』の刊行経過と目次を紹介しつつ、青年教役者として日本にキリスト教をどう布教するかという課題に邁進した増野悦興の理想と、一年間余ではあったが渡米直前まで全力を傾注したその発行活動とについて論じる。

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増野悦興と『基督教青年』一一五 ) 夫「石興」『石要』号、月。は、澤「石い・─」『岡究』(平勇)行予定。) 滝口敏行編『大阪YMCA100年史』、大阪キリスト教青年会(大阪YMC)、一九八二年、六二〜六三頁。  日本YMC同盟史料室・落合則男編『日本YMC運動史資料集第三集』、日本YMC同盟、一九八四年、一〇五頁。) 滝澤「新島襄と増野悦興」『同志社談叢』第二七号、二〇〇七年三月。

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増野悦興と『基督教青年』一一六

一  青年教役者としての増野悦興

 一八八七年八月二四日の『基督教新聞』第二一三号の「論説」欄への投稿で、地方伝道に従事している青年教役者として、二三歳直前の増野悦興は五六〇〇字ほどの「日本基督教会の病根」と題した教会改良論を「日向高鍋」から発信している。内容的には具体性には乏しいものの、それは後に『基督教青年』誌上で本格的に展開される改革案の素地となるものだった。 このなかで増野は当時の「都下近況」を数年前と比べて、「社会改良の論其最高熱度に達したるの時なり、都人の思想改良の一点に凝集せるの秋なり、百物百事日に改め月に良くし」と捉え、最も心を驚かしたのは「基督教に於ける思想頓に一変し、求道の精神社会の表面に発揮せる一事」だとしている。それは久しぶりに東京に戻った増野の目には、「社会改良」や「国権拡張」、あるいは「滔々たる天下の流行」からする面もあるが、「求めんとする一念」は受洗者の増加、教会の増築、男女学校の設立、説教会場の聴衆となり、「与論日に我を迎へ、伝道の門戸益々開く」状態として映った。帰路、「中国四国の大小都会を経過するに、地方人民宗教の思想、亦大に面目を一新する」ものがあり、有志家財産家が道を求め、県官郡吏が教を賛助し、外国女教師も歓迎され、令閨令娘が婦人の改良をめざすなど、これまで地方紳士の眼中に「毫氂の価値」すらなかった田舎伝道者を「社会改良の率先者」とみるような「伝道の好時機到る」様変わりも眼前にした。 ところが増野から見ると、「社会の与論」や「世上の人心」が「基督教の門戸に向て、馳せ来るの勢いあるに拘はらず」、教会の内情は「進歩が遅々として外に対する勢いなく」、「生命の進歩に至りては我其幾何なる

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増野悦興と『基督教青年』一一七 を知る能はず」で、「笛吹けども信徒躍らず」「無為無覚」「説教壇上千言の勧奨も、祈祷会場万言の伝道策も」実効をもたらさず、「睡眠の雲霧は日本基督教会の全面を蓋ふの現象なるが如く」の状態だというのだ。そうした指摘のうえで増野は、「近頃特に我心に悟て以て我業不振の大原因となし、推して全国教会の病根となす」ものは、「イエスキリストの十字架」を宣ぶるに主眼をおいてこなかったからだと主張している。 「保羅哥林多人に告ぐるの言に曰く、『我イエスキリストと彼十字架に釘られし事の外は爾曹の中に於て何をも知るまじと意を定めたればなり』と、宣教の赤心説きて尽せりと云ふ可し」。これが日向で休むことを知らずに「甚ダ熱心ソノ声雷ノ如ク、走ルコト電ノ如ク、南ハ宮崎、北ハ美々津ニ及ビ十四里ノ間ヲ奔走シツヽ伝道シ」、「聴聞ノ人悚然襟ヲ正セリ」(『高鍋教会伝導 ママ史』)とされてなお「我業不振」に苛まれた雷軒清士増野悦興の、その時点での提言だった。 「病める者を慰藉し、囚はるゝ者を見舞ひ、一生を窮乏の中に送るを甘しとする烈女の行為となり、文物隆盛の故土を去て、開化幼稚の異郷に寓し、蚕愚の蛮民を友として、其足を洗うを快とする壮士の事業となり、其他病院、貧院、私学校等万利慈善の業となるものは、彼の十字架に現はるゝ神の愛にあらすや」、政治家の節操・愛国の一念・記者の鉄筆・売奴の禁止・禁酒の演説なども「十字架に現はるゝ神の義にあらすや」として増野は、学教の一致・道徳の優劣を論ずるだけでは「人魂の救い」に役に立たず、有神説・証拠論と言っても骸骨に過ぎないとしている。 さらに、「滔々たる今の天下、社会の進歩に心を奪はれ、己が不学を悲みつゝ、後を顧みる役者は無きか、世人の変化に気を狂はし、女学校と云ひ編物会と云ひ、懇親会と云ひ、徒らに方法のみに心を込めて、十字架を忘るゝの教会無きか、嗚呼役者処世の要訣は『キリスト』の十字架の外何を知らざるの一事にあり教会眼孔

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増野悦興と『基督教青年』一一八 の注ぐ処亦此一点にあるを要す、神学と哲学は、役者此要訣を実施するの具たるに過ぎず、万種の方法は、教会此目的を達するの器たるに過ぎず」と記している。 現実に増野からすると、「予輩の十字架は、動もすれば『クリスマス、プレゼント』に用ひる『カード』の十字架に類し、無益の装飾多くして聴者の眼は却て装飾に注ぎ、主要なる十字架其物に至ては、看過に附せらるゝの弊無き能はず」であった。 「此秋に際し、吾人信徒、殊に宣教を以て自任するの人が、自ら担ふ可きは、正さに改良の如何なる部分なる可きか外形の事にあらすして内部の事にあり屍骸的の動作にあらすして生命を吹き込むの動作たるは、識者を待たすして明らかなり」であった。「キリストの十字架」こそが説教の主眼であり、伝道の骨子とすることが、「目下教会の睡眠を救ひ、其光たり塩たる所以を全ふせしむる庶幾からんか」と増野は結んでいる。 こうした風潮の背景には、「近来米国、無神進化唯物等の異説流行し」「純乎たる十字架の救いを説くを忘れるの致す処ならん」とも、増野は数年前に「先師米人某」から聞かされていた。そして、「神学を怪しみ、哲学を無みし、女学校編物会懇親会を嫌ふ」とした増野が、「基督教に対する予の『アイデヤ』の甚だ卑陋なりしを悔ゆ、予が既往の伝道は殆ど木草禾稿に均しかりしを悔ゆ

」と記すのは『基督教青年』の編輯活動を経て米国留学し、アンドヴァー神学校に学んでからのことであった。

) 「海萃」『基聞』号、一三日。

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増野悦興と『基督教青年』一一九

二  組合基督教会総会での言動

 増野悦興が所属した日本組合基督教会は年次総会を開催しているが、その記録である『組合基督教会総会議事録』からも当時の青年教役者増野の言動の一端を追うことができる。検索できた次の三回分の議事録

から年次的に見てみる。  第三回 明治二〇年度  一八八八(明治二一)年五月 大坂基督教会  第四回 明治二一年度  一八八九(明治二二)年八月 神戸教会  第五回 明治二二年度  一八九〇(明治二三)年四月 京都平安教会 一八八七(明治二〇)年度をまとめる八八年五月の第三回組合基督教会総会は、日向教会設立直前で、増野悦興の立場は番外員(伝道師)だった。出席教会数三六、議員数五五、番外員数一六で、議員中には増野の同志社英学校の一学年後輩で後に『基督教青年』を主宰する大阪青年会長となる同志社教会の望月興三郎、『基督教青年』第三号までの編輯人となる天満教会の本間重慶、増野の退学時に翻意をうながした大阪教会の宮川経輝・神戸教会の原田助、福音社社長で『基督教青年』の発行人兼印刷人となる大阪教会の今村謙吉、岸和田教会の山岡尹方、晩年まで増野を支援し続けた岡山教会の安部磯雄、番町教会の小崎弘道、多聞教会の長田時行らがいる。番外員には伝道師の伊勢時雄、海老名弾正、かつて共に同志社予備校を設立した新島公義、村井知至、アツキンソン、ペテー、ローランド、湯浅次郎らが名を連ねている。議長には宮川経輝が選出された。 五月二三日の総会第一日の夜、各部会及伝道会社伝道師報告が行われた。東京部会小崎弘道、熊本地方海老

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増野悦興と『基督教青年』一二〇

名弾正、上州地方杉田潮、高松地方村井知至、関東一般伊勢時雄らとともに、日向地方増野悦興の名もある。翌二四日の伝道会社年会での「日本西部基督伝道会社収支清算表」によれば、増野には高鍋での一二ケ月分の俸給一二二円が支払われている。ちなみに高松の村井には一二ケ月分一六二円、熊本の海老名には六ケ月分二二〇円で、収入三〇九四円五二銭五厘のうちの伝道師俸給が二〇七六円九〇銭、六七%であった。また、臨時伝道旅行費及滞在費では、増野には高鍋=東京往復で二五円が支給されている。海老名の東京から熊本への引越諸費が七〇円八一銭で、旅費総額が七一〇円二五銭六厘、収入の二三%であった。両者を合わせると収入の九〇%以上が俸給と旅費に充てられていた。全国各地の教会や信徒から集められた寄附金の五%弱を増野は受け取っていた。先の『基督教新聞』への投稿「日本基督教会の病根」は基督伝道会社の東京出張後に書かれたものだった。 一八八八年度のまとめの八九年八月の第四回総会は、日向教会設立後であり、出席教会数四二、議員数五三、番外員数三三、増野悦興は一七番高鍋教会議員として参加した。この総会後の秋に増野は高鍋を離れる。議員中には安部磯雄、小崎弘道、本間重慶、宮川経輝、かつて同志社を連袂退学して復学した同志社教会の花畠健起・今治教会の山中百、後に帰国後の増野を霊南坂教会牧師に招聘する東京第一基督教会の竹越与三郎、同志社予備校を共に設立した西群馬教会の松尾音次郎、日向教会で増野に按手礼を施した平安教会の松山高吉、丹波第一教会の留岡幸助、安中教会の湯浅次郎、番外員には後に帰国した増野を自身の後任として霊南坂教会牧師に推薦する福島の綱島佳吉、神戸の阿部政恒、奈良の新島公義、兵庫の村上俊吉、高松の山岡邦三郎、熊本の海老名弾正らがいた。議長には前年と同じく宮川経輝が選出された。 第四回総会では組合教会の「憲法」(教会、教理、各教会、部会、総会、戒規、申告など)の逐条、一致教

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増野悦興と『基督教青年』一二一 会との合併問題などが審議されたが、前回無発言だった増野は今回も若干の発言をするに留まっている。「憲法」七章「部会

((

」では、部会の代員に牧師を入れるか否かの論議で、「教会ニ盛衰強弱ノ差別アレドモ皆平等ナル一個ノ資格ヲ有スル教会ナレバ」との東京第一基督教会の人見一太郎の発言を支持し、これは賛成多数で可決されている。教会の新設問題に関しては、増野の提案は少数否決されている。一章「教会」では、花畠の提案に反対して原案を支持し、原案が可決されている。一致教会との合併問題では、柔軟に対応をとする増野の意見を踏まえ、小崎の建議が可決されている。 一八八九(明治二二)年度は『基督教青年』発兌前であり、九〇年四月の第五回総会では出席教会数三八、議員数四三、番外員数一三、増野悦興は二一番浪花教会議員として参加した。福岡教会と日向教会は海老名弾正が兼務している。この直後に渡米の話が持ち上がり、六月五日に増野は海外旅券下付願を大阪府知事に申請している。議員中には安部磯雄、小崎弘道、本間重慶、宮川経輝、松山高吉、村上俊吉、山中百、杉田潮、後に増野の後任牧師として安中教会に赴任する同志社教会の柏木義円、番外員には新島公義、東京の横井時雄、新潟の広津友信、神戸のアツキンソン、仙台のデホレスト、熊本のギユリキ、岡山のペテーらが名を連ねている。東京第一基督教会牧師の綱島佳吉は欠席している。議長には本間重慶が選出された。 第五回総会で増野は多くの発言をしている。開会ほどなく「日本基督伝道会社収支清算報告表」に日向教会と高鍋教会が二者のように記載されているが、実際は同一であり、正式名は日向教会だとしている。『高鍋教会伝導 ママ史』によれば、増野が去った後、日向教会は分裂していた。大日本基督伝道会社々則改正案の審議では、以下の発言をしている。・従来どおり京都に本局を置く原案に賛成、→原案可決

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増野悦興と『基督教青年』一二二

・教会のみから集金するのは不可、富者や余剰金のある者に出金させるべき、→支持なく原案可決・信徒を社員にする時は多額の寄付を出す者に限るべき、→小崎弘道が未信者に膝を折って金を哀求するのではないが、喜捨をする有志家に門戸を空けておくことも必要と発言、原案可決・社員のうち正員は毎年一円以上の寄付金を一二円以上とすべき、→宮川経輝が組合教会員九千人中それほどの金を出せる者が幾許かと反論、原案可決・東京に支局を置くことに反対、伝道が振るわないのは委員の不勉強による、→安部磯雄・小崎が原案に賛成、原案可決・評議員を五名から一二名に増加する際に、評議会には莫大な権力を持つ外国人宣教師を従来どおり参加させるのかと質問、→宮川が干渉はないと回答、原案可決・社長の権限を強化する修正意見、→小崎が権限などを紙上に明記できない、「社長モ米国大統領ノ位地トシ必シモ天皇陛下ノ位置トナスニ及バス」と反論、原案可決・役員は毎年の年会で選定せずに二三年間の時日を与えるべき、→小崎が再任ありと説明、原案可決・伝道月報の刊行は、伝道の報告のみで教会のことも記載するのか、→小崎が説教・論説・談話等を掲載もするが、伝道の景況を報じると説明、一カ月五〇銭以上を出す社友にも送るとの修正案可決・社長の選定には指名委員七名を選ぶべきとの宮川の意見に賛成、→宮川説に決定・社長に松山高吉が選定され、投票の必要なしと発言、→山中百が精神においては同じだが、そうした習慣を作ることは良くなく投票すべきと反論、山中説に決定・社長と評議員以外の役員(伝道師)の選定は、便宜的に議会の与論を聴くべきかとの議長提案に対し、必

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増野悦興と『基督教青年』一二三 要なしと意見、→小崎が巡回伝道師の任は重大だとして反論、小崎説に決定・社長に当選した松山高吉が多忙を理由に辞退するが、是非とも受けられんことを願う、伏して就任を祈ると発言、→最終的に松山は承諾 総会議事では、部会区域、組合教会規則改正、事務委員三名(当時は松山高吉、本間重慶、村上俊吉)に加え専任の書記一名を置く、組合一致両教会合併中止の件などが審議された。このうち、事務委員の配置場所について、安部が西京と主張し、増野が賛同、安部説に決定している。 翌四月二日の夜に同志社公会堂で開かれた部会報告会で、大坂部会の大口平次郎は「浪華教会久シク無牧ナリシガ今月ヨリ阿部政恒氏来ル」と報告しており、二一番浪花教会議員の増野は「仮牧師」だった可能性が高い。九州地方の海老名弾正は「日向教会増野悦興君同志社学校退学以来十二分ノ力ヲ尽シ此ニ東洋ノ清教徒ヲ作ラントスルノ望ヲ有シ十五里ノ間ニ東奔西走シ毫モ怠ル事ナカリシガ病気ニヨリ昨年大坂ニ移ラレタリ故ニ其后ノ景状ハ子ノ親ヲ失ヒタルガ如シ」と報告している。また、「宮崎地方ニハ蜂谷君伝道セラル近日該地ニ九州信徒ノ親睦会及伝道会ヲ開キ其節又演説会ヲモ開キ特ニ中学校及師範学校ノ生徒ヲ招キテ之ニ伝道ヲナセリ当時余ノ大ニ感シタルハ信者ガ善キ伝道師ヲ失フタル後状ノ極メテ憫レナル事ナリキ四面皆罵詈讒謗ノ声ニシテ其中ニ閉鎖セラレタル羊ノ群ヲバ慰藉奨励スル者ナキ時ハ甚ダ憐レナル事如何バカリゾヤ故ニ此ノ地方ニハ是非共善キ伝道師ヲ要スベシ」ともしている。日向地方において、良きにつけ悪しきにつけ、増野の影響力は大きなものであったことがうかがえよう。 四月三日の夜には同志社公会堂で懇談会が開かれ、小崎が「伝道師養成ノ方法」「新島先生ノ遺言ニ就テ」、海老名が「諸教会ノ牧師伝道師宣教師ノ方々ニ宜シク別ヲ告グ」、杉田潮が「伝道師ノ精神」、広津友信が「新

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増野悦興と『基督教青年』一二四 島先生ノ終ノ三ケ月ニ於ケル伝道ノ精神」を語り、海老名が「吾人ハ今先生ガ自ラ養成シタル精神ヲ受ケ得テ以テ深ク自ラ養成スベキノミ」としめくくった。 この席で小崎は伝道師の不足について、一致教会数六〇・按手礼を受けた者四〇・そのうち伝道師三〇弱、組合教会数五〇・同三一・同二六〜二七に過ぎず、牧師・伝道師が少なく無牧の教会が甚だ多いとして、伝道師の養成が「至要切迫ノ問題」だと述べている。 渡航直前に『基督教青年』一〇号(九〇年六月六日)に「日本伝道の将来の計図」として掲載された増野の「年少教役者(其六)括論

」はこうした経過のなかでまとめられたものであった。 この年八月にボストンに旅立った増野は、翌九一年の第六回明治二三年度総会からは参加できず、総会復帰は帰国後の九四年となる。

) 山岡邦三郎家文書─二─四〇、─二─五三、─二─五五。) 部会は京都、大坂、兵庫、四国、九州、中国、東京、北海道にあり、一八八九年度には日向と福岡が九州部会に属している。) 教会、伝道、事業、財政、学説制度、教育の六問題と自己信仰問題。詳細は前掲滝澤「石井十次と増野悦興─出会い・別れからーナードの紹介まで─」で紹介した。

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増野悦興と『基督教青年』一二五

三  『基督教青年』の編輯

 『基督教青年』の発兌と刊行・編輯の経緯について、増野悦興は同誌四号(八九年一二月一三日)の「本紙の改進」において、関西のキリスト教主義を代表する新聞・雑誌がなく、教内の人心が何となく物足らないなか、かつての遺業を継ぎ、「真道の光栄」を発揚させようと今春から有志で相談をし、熱心な者数名が発起人となり、創業の事務を負担して計画を進め、九月一三日の発兌となったと記している。かねてより神戸地方の諸青年会が運動を共にしようとしており、相談して賛助を得てから近隣各地の大小数十の青年会へ書を寄せて同盟を促し、応援を取り付けたとしている。発行部数も著しく増加したとあるが、実数は現時点では不明である。 福音社社長で発行人兼印刷人の今村謙吉は、神戸教会のギューリックの指導のもとに一八七五年一二月に雑報社から『七一雑報』を発兌しており、編輯は村上俊吉が担当した。八三年六月の廃刊後も今村は福音社から『福音新報』を発兌しており、『基督教青年』の発兌にはうってつけの人物だった。大阪天満教会牧師で一号から三号までの編輯人の本間重慶は、先にふれた九〇年四月の第五回総会の議長に選出されている関西の組合教会の重鎮であり、梅花女学校教頭で大阪青年会会長の望月興三郎は「発行の主意」を寄せ、地方青年会の為に、中央運動場として、各地の青年会と提携し、互に思想を表白し交流するために雑誌を発行すると述べている。 熱心な者数名と神戸地方の諸青年会や近隣各地の青年会の中心人物は、新島襄への思慕・尊敬と同志社英学

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増野悦興と『基督教青年』一二六

校の人脈と組合教会総会での出会いのなかで結びついていたといえよう。 『基督教青年』第四号から編輯人となった増野は、かなりの量の執筆をこなしつつ、発行と岸和田教会の支援などの伝道活動を続けている。この短期間に同盟青年会は大阪・多聞・神戸・兵庫・神戸和友の五青年会から、和歌山・丸亀・岸和田・堺・関西学院同盟・山陰・徳島・東播・南越・松江・摂陽・長浜・淡海・高知の一九青年会へと広がり、「本誌は関西十九青年会の精神なり」「基督教青年の元気を知らんと欲せば基督教青年を読め」(『基督教新聞』三六一号、一八九〇年六月二七日)とする広告を出すに至った。 東の『女學雑誌』を念頭に、「我社会の表面に立ち、斯教の光焔を吐き得べき、一大雑誌たらしめんとの期図」のもとに、増野は『基督教青年』編輯に全力を傾注している。それは、「真成の青年」を教内に得るために「名実相適へる基督教青年」を育成したいとする熱望を雑誌発行で奨励しようとの思いであり、日向高鍋での伝道活動以来感じていた伝道会社の組織不完全や教役者養成の方法のまずさを打破し、実践的人材の乏しさを克服したいとの想いでもあった。そのためにも、諸種の新聞雑誌書籍・信徒の手によるキリスト教事業・各種の社会問題などを広く論評し、「時には神学上の学説に渉り、講究する事もあるべし」(「本紙の改進」)と構想したといえる。 岸和田の山岡邦三郎家に残されたアルバム中に、口髭のない若き青年教役者の肖像写真が一枚残されている。  写真①[増野悦興の肖像写真 一八八八年前後か(山岡邦三郎家蔵)]写真②[『基督教青年』第五号附録(一八九〇年一月一〇日)]写真③[『基督教青年』第七号表紙(一八九〇年三月一四日)]

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増野悦興と『基督教青年』一二七 写真④[『基督教青年』第八号表紙裏(一八九〇年四月一一日)]写真⑤[『基督教青年』第一〇号表紙(一八九〇年六月六日)]写真⑥[『基督教青年』第一〇号裏表紙(一八九〇年六月六日)]

 ここでは以下、『基督教青年』の目録・関連記事・目次を紹介する。なお、一一号(九〇年七月六日)・一二号(九〇年八月八日)は未発見である。

写真① 増野悦興の肖像写真 (888年 前後か(山岡邦三郎家蔵)

写真② 『基督教青年』第五号附録     ((890年(月(0日)

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増野悦興と『基督教青年』一二八

写真⑥ 『基督教青年』第十号裏表紙     ((890年6月6日)

写真⑤ 『基督教青年』第十号表紙     ((890年6月6日)

写真④ 『基督教青年』第八号表紙裏     ((890年4月((日)

写真③ 『基督教青年』第七号表紙     ((890年(月(4日)

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増野悦興と『基督教青年』一二九

四  『基督教青年』目録

 『基督教青年』目録      [一〜一〇号は増野潤吉氏蔵   一八八九 明治二二年 九月一三日  一号  CHRISTIAN YOUNG MAN.       A六版三一頁・広告一頁      明治二二年一〇月一一日  二号  THE YOUNG CHRISTIAN.(本号から)      同三二頁      明治二二年一一月 八日  三号  同三二頁      明治二二年一二月一三日  四号  同三二頁・広告四頁・附録八頁 一八九〇 明治二三年 一月一〇日  五号  同三四頁・特別附録八頁・附録一〇頁      明治二三年 二月一四日  六号  同三二頁・広告四頁・附録八頁      明治二三年 三月一四日  七号  同三三頁・広告一頁・附録八頁      明治二三年 四月一一日  八号  同二八頁・広告四頁・附録四頁      明治二三年 五月 九日  九号  同二八頁・広告四頁・附録四頁      明治二三年 六月 六日 一〇号  同二八頁・広告四頁・附録四頁      明治二三年 七月 六日 一一号(未発見)      明治二三年 八月 八日 一二号(未発見)

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増野悦興と『基督教青年』一三〇

発行日 毎月第二金曜日定価 五銭 発行人兼印刷人 今村謙吉(福音社社長)   編輯人 一号から三号まで 本間重慶(大阪天満教会牧師)     一〇号まで 増野悦興(日向教会牧師兼浪速教会牧師)    一一号から一二号 望月興三郎(梅花女学校教頭)発行所 大坂西区土佐堀二丁目四十二番屋敷 青年会館 基督教青年同盟発売所 大坂西区土佐堀三丁目三十八番屋敷 福音社同盟発刊 大阪青年会 多聞青年会 神戸青年会 兵庫青年会 神戸和友青年会        三号から参加      和歌山青年会 丸亀青年会 岸和田青年会 堺青年会         四号から参加       関西学院同盟青年会        五号から参加       山陰青年会 徳島青年会        六号から参加       東播青年会 南越青年会        七号から参加

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増野悦興と『基督教青年』一三一        松江青年会        八号から参加(関西連合基督教青年会が会則に基づき発行)       摂陽青年会 長浜青年会 淡海青年会 高知青年会 *創刊号表紙裏    Watch ye, stand fast in the faith, quit you like men, be strong.   基督教の大道を信じ身霊を天父に献げ博愛正義を以て平素の主義とする我等同志の青年相謀り茲に本紙を発行す本紙登録する所の論説記事雑録は皆以上の主義に原きて其案を立つるものなり希くは大能の聖手恒に本紙の上に在り我等が此挙を祝し微志を貫かしめ給はんことを是れ我等が旦暮の祈祷なり*発行の主意(会長望月興三郎)    大阪の我国商業の中心たる所以は、財富ある為にあらず、又商法に練達せる為にもあらずして、地利の然らしむる所なるべし、地利巳 ママに佳し、故に自ら財富集る、財富多し、故に自ら商法に練達す、大阪が他二都の如く官廨の有無に依て、盛衰栄枯せざるは職として是に由るなり、   地利は独り商業を興起するに便なり、然れども現今商業の外、大坂に拠て以て全国を指揮する能はざる事情あり、一歩を退き函嶺より中分して、一を関東とし、他を関西とせば、大坂は実に関西の首府なり、之に拠て以て旗幟を翻へさば大に為す所あるべし、   今我儕が此形勝の地を占むるは、恰も嵎に憑るの虎の如し、我儕は基督教徒中一種特色の人物にして、顕然一大勢力を為すものなり、自ら任ずる所重くして且大に、気力は雄健に、希望は高遠なり、人類中前途に希望多く、快活雄壮なる者、恐くは他に比類なかるべし、之を何とかする、曰く基督教青年是な

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増野悦興と『基督教青年』一三二 り、我儕青年は一意基督教を奉じて、永刧の生命を握り、忠愛の大義を持し、正義真理の為には身命を犠牲にして、恬然自得する者なり、常に新日本を眼中に描き、教外の青年をも同化し、倶に進んで其の礎石たらんとする者なり、今我儕は此の目的を抱き、此の地利に拠り、又此の創業の嘉会に逢遭す、豈に悠々徒過すべけんや、   斯く陳説すれば、傲慢不遜他を凌辱する者と評せられんも計られず、然れども我儕をして此言を吐かしむるものは大坂なり、之を例すれば巨細の河流四方より注写して凹地に湛満し、洋々たる大湖をなすが如し、此湖をして大ならしめたる者は巨河細流なり、凹地何の功かある、大坂は猶大湖の如し、之を養ふものは河流たる地方なり、大坂孤立して他と関係を絶たば、何ぞ能く為さん、我青年会も亦地方青年会の援助なくんば、何を以てか其目的を達せん、我儕は惟 ママ我独尊を気取るものにあらず、却て地方青年会の為に、中央運動場たらんとするものなり、否な我儕の眼中には都鄙青年会の差別なく、苟も基督教を以て主義とする者は皆一身同体にして、惟だ日本基督教青年会あるを知るのみ、我儕は此目的を抱て各地の青年会と気脈を通じ、相ひ提携して、愈々進歩する所あらんとする者なり、互に思想を表白し状況を通報するの道は、雑誌を以て至簡最良とす、是我儕が今回本誌を発行する所以なり、*発会当初役員    会長望月興三郎、副会長荒砥琢哉、幹事山路一静、会計今村謙吉   商議委員宮川経輝・本間重慶・和田秀豊・寺澤久吉・善積順蔵・左乙女豊秋   各教会委員三一内田賢吉、テモテ都留繁蔵、救主中川藤四郎、慰主田中宇喜智,ヨハネ清田梅一郎、ポーロ飯塚當一郎、大阪大成倉太郎、天満前田菊次郎、浪速沖野老治郎、堂嶋山下清治郎、第一長

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増野悦興と『基督教青年』一三三 老平尾重太郎、第二長老水澤郁、北一致飯田平吉、南一致堀米吉*基督教青年 本号より改め、予紙尾に署名する事となりたれば、向後本欄に掲ぐる論文にして、一定の記者名なきは、皆予が属稿に係るものにして、予自ら其責を負ふべし、其時として社員の筆に成れるものを、掲ぐる事ある時は、一々記名して責任の帰する所を明かにせしむ、   増野悦興識   本紙の改進(演説) 今や本紙改進の一大過渡に際せり、茲に予輩が本紙を発行するに至りたる由来と、将来に於ける希望とを陳し、読者諸君の清閲に供せんとす、先に太平新報一たび斃れて以来、関の以西復た基督教主義を、社会の表面に代表する新聞雑誌なかりしより、教内の人心何となく不足の思をなし、早晩一大雑誌若くは新聞の、起て彼が遺業を継ぎ、真道の光栄をして、我社会の全面に、発揚せしむるものあらん事を、希望して止まざるの色ありしが、此希望や今春以後愈其熱度を高め、相集れば必ず談新聞雑誌発刊の事に及ぶの勢となれり、是に於てか中に就て希望最も篤く、熱度最も高き者数名、自ら進んで之が発起の任に当り、創業の事務を身に負担し、百方計画終に発行の運に至らしめたるものを、九月十三日発兌の本紙第壱号となす、   其起原や実に微々たるものなりき、然れども予輩は自ら揣らずも、心竊かに一の期図を有したり、何ぞや曰、予輩が本紙を発行するや、今の日本は雑誌流行の世の中なり、予輩も亦試みに一雑誌を発行す可しといふが如き、空疎なる考案に原きしものゝ如くならずして、早晩必ず本紙をして、主義も無く見識も無き、一小雑誌たるの地位を免かれて、我社会の表面に立ち、斯教の光焔を吐き得べき、一大雑誌たらしめんとの期図是なり、是を以て、夙に神戸地方に在る諸青年会が、予輩と運動を共にせんとするの志を抱かるゝを聞くや、先づ意を通じて其賛助を得、続て近国各地に於ける、大小十数個の青年会へ、

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増野悦興と『基督教青年』一三四 一々書を寄せて同盟を促せしに、予輩が微志を哀れみ応援を約諾せらるゝの会、陸続として起り来り、号を重ぬる僅かに三回にして、巳 ママに九個青年会の機関たる地位に進み、発行の部数も亦著しき増加を見るに至りしは、実に本紙の面目なりと云はざる可らず、嗚呼予輩が素志は着々其歩を進め、当初の希望漸く将に成らんとす、今や大小事務を整理し、進んで社会の中真に立ち出づべき時機熟しぬ、是れ今日の改進ある所以にして先づ条例に遵て保証金を官に納め、大に言域の拡張を計る、之を目下計画の第一着歩となす、   予輩は実に此の如き改進を行ふべし、然れども予輩が最初より取り来たる主義に至りては、紙面の改進と共に改むべきにあらずして轍頭轍尾之を維持し益々奮て之が主張を試みんと欲す、主義とは何ぞや曰天上の聖命を奉じ、博愛正義の大節を持し、自任するに新日本社会の生命を以てする、俊秀有為なる基督青年の輿論を茲に代表し、中は斯教の運動を刺激するの原力となり、外は社会情化の活泉源となる是れなり、予輩が前途行旅の好伴侶となる東京女学雑誌が、先に紙面の改良を計り、言域の拡張を試みんとするや、世其心事の在る所を誤解する者あり、或は以て政治雑誌に変化せるものとなし、其天職を失ふものと評するに至る、今や本紙改進に際し、世若し其主意を誤解し、関西男児蒙らすに、東国の好姉妹と同一の誣名を以てし、目して純然たる政治雑誌に変化せる者となし、或は以て一政党の機関となれる者となすが如き人あらば、是れ大に予輩が意に反するものあり、何となれば予輩は毫も政治の事業を疎賤するの思なく、斯業を以て社会事業中重なるものゝ一なりとなすは、喜んで承認する所なれども、之を以て基督教青年会の意を注ぐべき、主一単独なる事業となすに至りては、敢て首肯し得ざる所にして、往々純乎たる基督教青年会の機関と自称する新誌にして、終始一貫政治的の記事論文を以て充満し、

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増野悦興と『基督教青年』一三五 宛然政治専門雑誌の子分たるが如き観ある者を見る時は、人は之を進歩したりと評すとも、予輩は之を基督教青年の機関としては、少しく一方に偏倚せるなきやを疑へる者なれば、此言域の拡張せる、本紙に筆を執るに当ても、先づ其鋒尖を向けんと欲するは政治の問題にあらずして、他更に重要なる一二問題あるを認む、   其第一は基督教青年彼自らの問題なり。上巳 ママに述ぶるが如く、予輩が紙面は不肖とい 雖、外に向て基督教青年の意見を代表せんと期するものなれども之を為さんと欲す、要先づ中、互に相誘導し相勧告し、十分なる静養を施す所なかる可らず、精鋭未だ整はず猥りに戦を大敵に挑む、凡庸なる兵家といへども其策の拙なるを知らん、されば本紙の地位に於て、首として講究論弁せざる可らざるもの、恐らくは青年自己の問題に若くものはあらざるべし、予輩は固より基督教青年の勧誘者たるべき、価値を有する者にあらず、然れども身自ら此栄誉ある肩書を有する一人なるが故に、平素心に銘じて自ら奉じ、自ら戒めんと欲する所以のものを紙上に述べ、我同輩の諸士と共に、互に奨励切磋せんと計るが如きは、誰か之を不遜の所為とや言はん、   抑今の日本の基督教青年たる地位に立ち、自ら奮て担はざる可らざる前途の大業を思ふ時は、其責任の重大山の如きの感あるは、今更事新らしく言ふ迄も無き事なれども、中、顧みて青年自己の状態を察すれば、果して警戒を要すべきものあらざるか、予輩は今の基督教青年中に、俊秀英士夥しきを知る、前途嘱望的の人物多きを知る、然れども概して之を論ずれば、果して外天下今日の需用に応ずるに足るべき状態なりや、現今我青年の発達は、如何なる方向を取て進みつゝあるか、天真縵 ママの分子漸く減じて装飾作為の分子徐々に加はるの微候なきか、朴突 ママ剛毅の風漸く去て、浮薄華美の俗徐々に来らんとする

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増野悦興と『基督教青年』一三六 様なきか、元気精神の煉るの熱情漸く薄く、清歌妙音を学ぶの嗜好徐々に厚からんとする状なきか、古今の英豪を理想とするの念漸く其迹を絶ち、東西の才子を友とするの念徐々に萌さんとする色なきか、是等数種の傾向にして、万に一にも其事ありと仮定せば、其責果して誰に帰すべき、基督教青年の保育者を以て自任する、教育家其人に帰すべきか、彼等が模範たる地位に立つ、先進者其人に帰すべきか、抑又青年彼自の罪なるか、之を匡正するの方法は如何、我青年にして依然として、今の状態を保たば、日本将来の社会は果して如何なる運命に、遭遇すべきかと云ふが如き、又は独り我基督教青年男子のみならず、将来の世界に於て、其伴侶となり慰藉者となり奨励者となり、彼と共に啻に快楽幸福を割つのみならず、亦其義務責任及び之に伴ふ苦痛艱楚を割つべき、天職を有する我青年女子の状態は如何、其教育の実況は如何と云ふが如きは、予輩が目下の問題を講究するに当り、必ず論弁せざる可らざる条項にして、予輩は自ら揣らずも此紙壇に立ちしからには、向後筆毛の存せん限り、墨滴の続かん限り、満腔の精神を振て之が切論痛議を試み、時に或は基督教主義の男女学校に論及する事もあるべく、教育家の方針に嘴を容るゝ事もあるべく、又進で青年会青年雑誌青年事業等、説き到る事も之れ有るべし、之を要するに予輩は外に向て、傲然として基督教青年の名を以て、大言壮語を放たんとするからには中に向ては此等大言壮語を証確し得べき、実 コンクリート位的人物を求むるものなり、語を換へて之を言へば、予輩が外に向て所謂「真成の青年」なるもの、諸要素具有せる多数の俊秀青年を、先づ教内に得んと欲するものなり、否我数千の基督教青年をして、何れも皆有名無実の基督教青年たらしめずして、名実相適へる基督教青年たらしめん事は、予輩が常に恒に熱望する所なれば、特に本紙に於て之を奨励せんと期する所なり、

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増野悦興と『基督教青年』一三七    次に予輩が論ぜんと欲するは宗教の問題なり。 抑も宗教問題の謂ひたる、必ずしも罪の悔改を説き、祈祷の経験を談ずるのみならんや、予輩が平素信ずる所に由れば、之を心霊上の問題として、純乎たる信仰の表面より談ずると同時に、之を社会上の問題として、社会事業の表面より論究するも、亦甚だ必要なる事にして、今の日本の基督教青年が、先づ心を注ぐべきも、恐らくは此に優れる重要の問題はあらざるべし、熟々今の基督教青年の挙動を察するに、彼等が一個人として信仰に熱心なるは、或種の人々をして、彼等は信仰に迷信して世事を顧みざる者なりと、憂慮せしむる程なれども、広く眼を日本基督教の大局に注ぎ、教会の方針伝道の方策等に関して、一定の意見を有する者衆中果して幾人ぞや、固より一身を捧げて直接伝道に従事すると否とは、各自所受の天職あり、自ら別問題に属すれども、若し夫れ日本社会の一民として、国家の問題に意を注ぎ条約改正の中止断行に、痛痒を覚ゆるの義務ありとせば、豈一個の基督教徒として、教会伝道の問題に意を注ぎ、教会の清潔建徳、伝道会社の組織計画、教役者養成の方法の如き、日本基督教の消長に直接の関係を及ぼすべき問題に対し、喜憂を感ずるの義務なしとせんや、若し国家の問題に関し、国務政治家の施政にのみ、放任し置き難きものありとせば、焉ぞ教会の問題に対し、徒らに当路教役者の処置にのみ、一棄し去り難きもの無からんや、是に於てか政治の社会に政治談ある如く、宗教の社会に宗教談若くは伝道談なるものゝ無かる可らざるの必要あり」目を転じて目下の教状を目撃すれば、予輩が嘗て痛論せし如く、教会の内部は睡眠の状を呈し、伝道の運動は沈滞の迹を現はし、戦ひに勇むの猛卒あれども、之を率ゆるの勇将なく、救を求むるの未信徒あれども、之に応ずる工人少なく、伝道会社の組織不完全に、教役者養成の方法宜しきを得ず、重要の問題前に横はれども、自ら奮て之に当るの人に乏しく、天下の風潮一変して、基督教は復び被妬の地

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増野悦興と『基督教青年』一三八 位に立てども、教内の状況は依然たる太平の気象なり加之此太平の機運に乗じ、不急なる宗派の感想等、起り来て其勢を得、僅々三万豆大の一小団を粉砕して、更に数個の粉塊となし、信徒の一致を害し、外に対する勢力を弱めんとし、欧米教育の弊風入り来りて其色を染め、軽薄冷淡の俗漸く生じて、謹厳清節の徳徐々に此地を掃はんとするの徴あり、是に至る所以のもの、要するに教会伝道の枢機一に当路教役者少人数の手中に帰し、一般信徒──特に其活動分子なる基督教青年が、之に対して感覚を有するの少なきに原因せずんばあらず、若し夫れ巳 ママ往の小進歩に満足し、会堂を飾り外形を装ひ、徐々安逸の夢を結び、日本全天下を救ふて神の王国となす、前途の大業を忘却するが如きは、是れ老人老夫の所為、活気凛々たる基督教青年の当さに為すべき所にあらざるなり、何となれば基督教日本に伝はつて以来巳 ママ

に三昔の年を経るも、当路の教役者は巳 ママに不惑の齢に達するも、伝道其れ自らは前途遼遠の青年なり、今の日本の基督教徒として我教の将来を一望すれば、未だ容易に安じ難きものあるを見るなり、夫れ其本興らず末掉ふものはあらず、教会伝道の機関にして今一層の活気なくんば、仮令政治教育文学諸種の社会に、我党の主義を代表する俊士あるも、社会の救ひに於て何かあらん、是れ予輩が宗教の論議を以て本紙々上青年論の亜に位置せしめんと欲す所以にして、此紙壇に集めたる我俊英秀雄なる、数百基督教青年の、精気向ふ所は先づ此問題なるならん、   之に次では基督教文学の問題、即ち教内に於ける、諸種の新聞雑誌書籍に関する事の如き、基督教事業の問題、即ち信徒の手に成れる諸種の起業に関する事の如き、凡そ我教勢力の消長上に、間接の影響を及ぼすべき諸問題は、何れも予輩が好んで紙上に論評せんと欲する所にして、又時には神学上の学説に渉り、講究する事もあるべし、

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増野悦興と『基督教青年』一三九    此の如く中に向て十分其気勢を張り、然る後進んで鋒尖を外に向くるに当りてや、社会の風紀、世上の宗教、道徳の問題は言ふも更なり、教育にまれ文学にまれ学術にまれ、凡そ社会の生命を以て自任する基督教青年が注目せざる可らざる諸問題に関しては機に触れ時に臨んで十分講究論弁する所あるべく、又好んで政治の問題に進入し、時事に対して痛切の批評を下す事あるべし、何となれば予輩は平素教会の内部に立籠り、世と隔離して隠遁的の生涯を送らんと欲する者にあらずして、進んで社会の中真に身を投じ、世を味付くるの塩塊たらんと自ら期する者なれば、社会諸般の問題にして、苟も言ふ可きものあらんか、侃々愕々或は駁し、毫も躊躇せざるべし、然れども此等の世事を観察するや、轍頭轍尾純乎たる基督教徒の地位よりし、其準る所は惟博愛正義の公道あるのみ、基督教の真理あるのみ、彼の某党の為めにすると云ふが如き、其派の為めにすると云ふが如きは、予輩が死すとも為さゞるべきは云ふ迄もなく、或は政治を談じ、教育を説くに当ても、彼の政治家たり教育家たる其人の地位に立ち、之を観察論談するは、抑予輩が志望にあらざるなり、望む所は惟純乎たる基督教青年の身分を以て不偏不党の意見を吐露せんと欲するにあるのみ、   熟々近来我基督教社会に於ける、弁説文章の傾向を察するに、其中に向ふものと外に向ふものとを問はず、繊麗華美の分子漸く進歩せんとするの色あるにも拘はらず、壮厳至誠の分子に至ては、却て退歩の色を呈し、緩慢の風将に生ぜんとするの状なきにあらず、是れ予輩の心竊に憂慮する所なれば、本紙の紙面や、仮令金繍を鏤め綾羅を飾り、読者諸君の美妙心を鼓舞する事能はざるも、熱論痛議秋毫も仮借するなきの一事に至ては、予輩の今より実行を期する所なり、人は曰青年の言論は激烈なりと、予輩が素論は即ち曰、激烈の言論にして、始めて中、能く基督教社会の睡眠を攪破し、外、能く世に跋扈せる

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増野悦興と『基督教青年』一四〇 罪悪の勢力を、誅戮し得るのみと、若し夫れ情談綺話を掲げ、巧に時勢の嗜好に投ずるが如きは、世自ら之に任ずるの新誌あらん、是れ本紙の天職にあらざるなり、   嗚呼六合毎週の二紙未だ出ざるの前、早く巳 ママに真道の光輝を我社会に放ちたる、七一雑報の生誕地にして、国民の友未だ生れざるの先き、基督教主義の政論を世に唱へたる、太平新報の埋葬地なる、茅停湾頭に兀然として出現せる、我基督教青年の望む所や斯の如く其れ大なり、此高遠の希望をして、徒らに空漠虚妄の希望たる運命に陥らしめず、能く其の威効を見るに至らしめんものは、惟我優渥なる上天の擁護と、平素本紙の良友を以て自ら任じ、誘掖の煩労を厭はざる、内外教友諸士の援助あるのみ、*進而不止祝意発表基督教青年    這回紙面を改良し、加ふるに附録を以てし、愛読諸君の便に供したりしが、次号より、猶特殊の興味と、異様の実益を呈せんが為め、更に説話、問答、の二欄を増さんとす、即ち、説話には平易にして、適切なる、諸名家の説教を載せ、問答には、社会万般(例せば、教義、教勢、学術技芸等の如き、或は人物、書籍、礼法、機密、等)に就て、尋ぬるも、答ふるも、論ずるも、駁するも、各其嗜好に任す、畢竟、弘く読者の投書を仰がんとすればなり、願くは至簡、至明、の問答、縷々寄送せられん事を、新に、明治廿三年、即ち吾国歴史上に特筆大書すべき、一大期年を迎ふるに際し、之が祝意を表せんが為め、特に内外基督教諸名士の数十名に請ひ、其最も深く玩味せらる、聖語一二句宛を掲載し、傍ら読者諸君の愛顧に対し、其万分一に報ひんとす、実に亦本誌の一光彩たるや疑なし、予め報じて以て其日の来るを俟つ事然り*五号表紙裏

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増野悦興と『基督教青年』一四一    謹賀新年 会員並に読者諸君の福祉をいのる 明治廿三年一月一日        基督教青年同盟社 増野悦興 松浦政泰 望月興三郎 今村謙吉 光勢耕作      中川内十郎 矢部外次郎 津田健義*七号広告   定価前金一冊五銭十二冊五十銭六冊二十七銭廿四冊一円(全国無運送料)   広告料(五号活字廿四字詰)一行一回前金五銭切手代用一割増(但五厘切手に限る)   (「本誌は関西十五青年会の精神なり」「基督教青年の元気を知らんと欲せば基督教青年を読め」『基督教新聞』三四八号、一八九〇年三月二八日*)    *右脇に広告 「増野悦興著『清教徒之紀事』定価二十銭 発行所東京京橋区出雲町一番地警醒社」*八号広告   同前、(「本誌は関西聯合青年会の機関なり」「基督教青年の元気を知らんと欲せば須らく基督教青年を読め」『基督教新聞』三五一号、一八九〇年四月二五日)*関西聯合基督教青年会役員(一八九〇年四月)    会長望月興三郎、副会長大塚惟明、幹事清田梅一郎、山口信太郎、山下清治郎、   商議委員亀山昇、牧龍太、宮川経輝、本間重慶、飯田勇記*

    阿倍政恒 大塚惟明    左の両氏は今度本社々員となり編輯事務に関係せらるることゝなりたり (0基督教青年同盟社々員

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増野悦興と『基督教青年』一四二

   関西聯合基督教青年会本部は 土佐堀二丁目 青年会館   本紙発行所は 土佐堀三丁目福音社内 基督教青年同盟社       [三丁目卅八番屋敷]*

* 教新聞』三六一号、一八九〇年六月二七日) 基を知らんと欲せば督元教青年を読め」『基督気の会年誌は関西十九青年の   精神なり」「基督教青(「本 ((一〇号広告 教新聞』三六九号、一八九〇年八月二〇日) ば気を知らんと欲せ基の督教青年を読め」『基督元年年青誌は関西十七青会   の精神なり」「基督教(「本 ((一二号広告

『基督教青年』目次一八八九 明治二二年九月一三日  一号  CHRISTIAN YOUNG MAN. *基督教青年 *発行の主意(会長望月興三郎)、年少教役者(其一)年少者の挙動は須らく活発なるべし(増野悦興)論説 青年信徒ノ責任(寺澤久吉)、基督教ト青年(本間重慶)、大阪基督教徒青年会諸君に望(和田秀豊)、日本基督教ノ将来(佐藤洲訊)学海 基督教証拠論一班黙示論(M・M・生訳述)叢談 基督教地を払う、隠者の起源、戦勝者たる基督、大王たる基督、基督と良心の関係の佳例、基督

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増野悦興と『基督教青年』一四三 と其羊、ニーロー帝、或人英訳の聖経を調査したる成績を見るに、聖経は何時何人の翻訳せしものなるやと問ふに史伝 ジヨン、ノツクス(雷軒清士)寄書 祝詞(宮川経輝)記事 本会々況、紀和災害救済事業本会運動略記(水災救恤運動略記)会告 *本会役員広告 明治二二年一〇月一一日  二号  THE YOUNG CHRISTIAN.となる基督教青年 青年会の大団結(松浦政泰)、年少教役者(其二)年少者は宜しく進歩的なるべし(増野悦興)説欄 基督の愛(説教宮川経輝)、青年ノ価値(論文堀口良平)学海 基督教証拠論一班黙示論(承前)(M・M・生訳述)史伝 ジヨンノツクス(雷軒清士)雑録叢談 隨感録(魔々子)、教事漫言(玉砕軒主人)、叢談(玉兎子)通信 シヨトクハ夏期学校の記(在米国原田助)記事 同盟諸青年会記事、内外諸青年会記事会告 本会役員

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増野悦興と『基督教青年』一四四

広告 本会委員更迭 ヨハネ井川辰蔵、第二長老島崎清太郎

明治二二年一一月八日  三号基督教青年 明治青年の大運動(望月興三郎)、特別会告、年少教役者(其三)年少者教役者及び後進者(増野悦興)説欄 義人の死(説教スポルジヨンM・M・生訳)、青年ノ時(論文青木仲英)、壮士論(論文楠瀬一貫)学海 基督教証拠論一班黙示論(承前)(M・M・生訳述)雑録 叢談(玉兎子)、教事漫言(玉砕軒主人)、隨感録(魔々子)史伝 ジヨンノツクス(雷軒清士)通信 シヨトクハ夏期学校の記(承前)(在米国原田助)記事 和歌山青年会、岸和田青年会、堺青年会、丸亀青年会、神戸地方に於ける四青年会、大阪青年会広告 大阪青年会副会長 大塚惟明(荒砥琢哉の後任)

明治二二年一二月一三日  四号  附録(教会報知)がつく基督教青年 *本紙の改進(演説)論説 基督教青年会(演説シドニーギユリキ述S・I・生訳)、日本今後ノ学術及宗教(論文中瀬古六郎)、敢テ同盟青年会ニ望ム(説教スポルジヨンM・M・生訳)

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増野悦興と『基督教青年』一四五 学海 基督教証拠論一班内証論(M・M・生訳述)史伝 ジヨンノツクス(雷軒清士)雑録 叢談(玉兎子)寄書 加盟の通知(関西学院同盟青年会)時評 神光燿々将に九重の簾内に輝かんとす、大旱雲霓、基督教文学、正気勃々、反対?萌芽?却て婦人中に廃娼を叫ぶの会顕れたり、保守風、公爵会、公正なる紀念碑、元寇紀念碑、明治維新の紀念碑、愛国公党、公認数、舞踏伯と相撲伯、女子教育、大阪府会議案を読んで嘆ず、尚国民の友在り記事 多聞青年会、関西学院同盟青年会社告 会員諸君ニ告グ(和歌山基督教青年会)(附録)教会報知[彙報]役者会、上毛の廃娼、種播会、大成社、新任米国監督、聖バルナバ病院、幻燈会、婚礼、[教会]大阪聖三一教会、約翰教会、三一教会、北一致教会、大阪保羅教会、嶋之内教会、上町聖公会、救主教会、慰主教会、[学校]三一神学校、私立高等中学校、日本文学会、女子の学校、梅花女学校、照暗女学校、永世女学校、婦人学習会、約翰婦人会、[演説]福音会の演説、提摩太教会、平野の演説会広告 本会幹事、委員更迭 幹事北一致教会渡邊為蔵、委員大坂教会油谷次郎七*進而不止祝意発表基督教青年

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増野悦興と『基督教青年』一四六

一八九〇 明治二三年一月一〇日  五号 *基督教青年 明治廿三年を歓迎す(松浦政泰)、明治廿三年の基督教徒(増野悦興)論説 廃娼論(演説宮川経輝)、壮士論(論文楠瀬一貫)、基督教徒青年会(演説シドニーギユリキ述神戸S・I・生筆記)、神戸日本公教青年会設立ノ趣意ヲ読ミ併テ基督教青年諸君ニ望ム(論文佐畑虎熊)学海 基督教証拠論内証論(M・M・生訳述)史伝 ヘンリー、マーテン伝(三畝園夫)雑録 柴門辞(唖堂居士評解)、はきよせ(多嘉屋主)、賦詩(三首)新年偶成(内田桂宇)/庚寅歳旦(永康)/明治二十二年十一月念三日臨広瀬氏之送別会賦呈(内田桂宇)寄書 青年の発行に就て(祝文在東京某)時評 政海波高歳窮時、明治廿三年、祝典と兇変、廃娼尚早論、社会の良心、美人を裸にせよ、宗教と政党、一派を合せんとして三派を生ず、一致組合教会合併の相談落着如何、基督教の門戸を堅持せよ、つぼみ、彼も亦記事 関西学院同盟青年会通信、堺青年会通信、多聞青年会通信、新なる加盟(鳥取山陰青年会、阿波徳嶋青年会)、近国青年会巡訪略記特別広告 臨時総会・廃娼などの相談(大坂青年会会長望月興三郎)特別附録 内外基督教諸名士の最も深く玩味せらるゝ聖書中の語句 ※附録 説教 測るべからざる愛(米国デイ、エル、ムーデー演日本三畝園夫訳)

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増野悦興と『基督教青年』一四七 教報 [彙報]聖書之友大会、歓迎会、救主降誕祝会、大阪青年会新年祝会式、同窓会、救助金、[教会]北海道標 シベツチヤ茶の教会設立、高知教会報[土佐教会報の誤り]、落合教会報、和哥山救主教会、和歌山長老教会、堺教会、天満教会、大阪教会、[学校]梅花女学校、[演説会]大阪教会青年福音会、堺青年会広告 大阪青年会幹事渡邊為蔵(山路一静の後任)

※ 特別附録 内外基督教諸名士の最も深く玩味せらるゝ聖書中の語句      大阪在留一致派米国宣教師 チー、チー、アレキサンドル     岡山教会牧師 安部磯雄     長洲豊浦教会牧師 青山昇三郎     大阪在留組合派米国宣教師 ジー、ヲルチン        神戸在留組合派米国宣教師 アッキソン     東京 伴直之助     京都在留組合派米国宣教師 ジェー、デー、デビス     東京在留美以美派宣教師 シー、エス、イビー     熊本在留組合派米国宣教師 ヲー、エッチ、ギユリキ     熊本在留組合派米国宣教師 シドニー、ギユリキ     東京麻布美以美教会牧師 平岩愃保

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増野悦興と『基督教青年』一四八

     広島一致教会牧師 服部章蔵     東京本郷教会牧師兼標準主筆記者 星野光多     新潟教会牧師 広津友信     大阪天満教会牧師 本間重慶     横浜海岸教会牧師 稲垣信     一致教会牧師 石原保太郎     京都同志社教会牧師兼同志社校長 金森通倫     東京番町教会牧師兼六合雑誌及基督教新聞主筆記者 小崎弘道     東京 小池靖一     備中高梁教会牧師 古木寅三郎     東京 国府寺新作     京都在留組合派米国宣教師 ラルネツド     京都平安教会牧師 松山高吉     新潟北越学館教頭兼北光主筆記者 松村介石     仙台教会牧師 三宅荒毅     兵庫教会牧師兼神戸教会牧師 村上俊吉     日向教会牧師兼浪速教会牧師 増野悦興     大阪教会牧師 宮川経輝

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増野悦興と『基督教青年』一四九      京都同志社惣長 新島襄     伊予松山教会牧師 二宮邦次郎     神戸多聞教会牧師 長田時行     東京芝教会牧師 奥野正史昌綱     東京 島田三郎     東京在普及福音派独国宣教師 スピンネル     長崎教会牧師 瀬川浅     上州安中教会牧師 杉田潮     日本聖公会牧師 田井正一     東京数寄橋教会牧師 田村直臣     東京 津田仙     東京霊南坂教会牧師 綱嶋佳吉     大阪一致教会牧師 和田秀豊     大阪在留監督派英国宣教師 ワーリン     名古屋美以美教会牧師 山鹿旗之進     美以美派教師 山田寅之助     高知教会牧師 吉岡弘毅     伊予今治教会牧師 山中百

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増野悦興と『基督教青年』一五〇

     東京 某       (四八名)     [六号表紙裏]     仙台在留組合派米国宣教師兼東華学校教授 ジエー、エチ、デホレスト     大坂南一致教会牧師 青木仲英     大坂在留組合派米国宣教師 ケレー       (三名)(計五一名)

   明治二三年二月一四日  六号基督教青年 制欲論(増野悦興)、新嶋先生逝く(望月興三郎)、故新嶋襄先生自筆書簡及び記者の諸言(増野悦興)論説 社会公徳上の制裁(論文葛岡龍吉)、神戸日本公教青年会設立ノ趣意ヲ読ミ併テ基督教青年諸君ニ望ム(論文佐畑虎熊)、廃娼の得失(堀口良平)学海 基督教証拠論内証論(M・M・生訳述)史伝 ヘンリー、マーテン伝(三畝園夫)雑録 贈新道心辞(唖堂居士評解)、賦詩(二首)題富士山龍/発上州(故新嶋襄)/郊外晩望(在洛陽翠江散士訳)、希望と恩恵(大阪船場や、あ)、はきよせ(多嘉屋主)時評 偶像となす勿れ、人心の極端を好む何ぞ甚しき、必要?又彼も亦、洋行の価値、教役者の洋行、語を寄す千里の客士にある我友よ、新華族、閑族、東京十二新聞の花競鳥競、基督教文学の新果実、真理、教義、北光、新刊書籍(からくさ、フランクリン自叙伝、聖語類聚)

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