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北村透谷と増野悦興のキリスト教認識 : 内部生命 論と信仰的実験(二)

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北村透谷と増野悦興のキリスト教認識 : 内部生命 論と信仰的実験(二)

著者 滝澤 民夫

雑誌名 同志社談叢

号 34

ページ 79‑126

発行年 2014‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014155

(2)

七九北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)

北村透谷と増野悦興のキリスト教認識        ―内部生命論と信仰的実験―(二)

滝 澤 民 夫

   はじめに     一

  『基督教青年』期から北米留学期の増野悦興のキリスト教認識と信仰     二  晩年の北村透谷のキリスト教認識と信仰―北村透谷の内部生命論―(前号)

    三  北米留学後の増野悦興のキリスト教認識と信仰―増野悦興の信仰的実験―     

    四  北村透谷と増野悦興のキリスト教認識と信仰について    おわりに    (本号)

 三  北米留学後の増野悦興のキリスト教認識と信仰―増野悦興の信仰的実験―キリスト者増野悦興についての研究は筆者以外には、増野肇、杉井六郎、鈴木範久、児島康夫、佐古純一郎が触れているが、あまりなされていない 1

増野は父悦興の評伝をまとめようと資料を収集した。杉井は増野悦興

(3)

八〇北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)の履歴を初めて簡潔にまとめ、鈴木はユニバーサリスト教会の名称が一九〇九年に宇宙神教から日本同仁教会と改称された経緯は、「増野悦興により、韓退之の「一視同仁」からとられたものである」と紹介している。児島は埼玉県第三中学校長時代の増野悦興の教育活動と著書『高貴なる人格』(廣文堂、一九一〇年)についての初めての画期的な研究をおこなった。前稿で触れたように、佐古は『六合雑誌』(一六九号、一八九五年一月一五日)に掲載された増野「横井時雄氏の新著[『我国之基督教問題』]を評す」において、Personal God を「霊 ポルソナルッドなる神」と表現したことはまことに貴重なものだと紹介している。本稿では、帰国後の増野悦興はどのようなキリスト教の教理を提起し、信仰を広めようとしたのか、そのキリスト教認識と信仰の実際について検討する。ここでは当初、晩年の増野悦興のキリスト教認識と信仰についても言及する予定であったが、紙数の関係もあり、北村透谷と増野悦興のキリスト教認識と信仰の比較と検討とにとどめたい。

北米留学後の増野の活動と主要な著作は3表のとおりである 2

一八九〇年八月~九三年九月までの増野の北米留学時代の学修状況・新神学の吸収経過と帰国直後の評論活動とについては、先述の拙稿「石井十次と増野悦興―出会い・別れからバーナードの紹介まで―」(『岡山孤児院におけるネットワーク形成と自立支援に関する総合的研究』[平成一八年度~二一年度科学研究費補助金研究成果報告書代表細井勇]、二〇一〇年三月)で紹介したが、その要点は以下のとおりである。1.渡米当初、増野は聖書、基督、贖罪などに関する自由神学理論を学び、強大な「オルソドツクス」教会と

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八一北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)

和暦 事項 著作等

1893 明治26 28 9.帰国 10.「新英洲」『基督教新聞』533号         10.「種類と程度」『六合雑誌』154号         10.「新英洲(二)」『基督教新聞』534号         10.「新英洲(三)」『基督教新聞』535号       11.「新英洲(四)」『基督教新聞』536号         11.「基督伝記 竹腰與三郎著」『六合雑誌』155号         11.「新英洲(五)」『基督教新聞』538号         11.「聖書之保存」『聖書之友雑誌』71号         12.「新神学運動一転歩の時機熟す」『六合雑誌』

156号

      12.「祷りの妙理」『聖書之友雑誌』72号 12.「論説 清教徒之本領」『基督教新聞』542号 12.「清教徒之本領(承前)」『基督教新聞』543号 12.「清教徒之本領(承前)」『基督教新聞』544号 1894 明治27 29 1.霊南坂教会牧師 1.「リバイバルは保守神学者の専有物にあらず」

『宗教』27号

1.先進学院教授 1.「アンドバ評論の廃刊」『六合雑誌』157号       2.「断じて旧神学に立帰る可らず」『基督教新聞』

552号

        3.「大なる教会は大なる牧師を要す」

         『基督教新聞』553号

        3.「帝都の講壇に於ける信仰家」『基督教新聞』

554号

        3.「旧神学者必ずしも新神学者にあらず」

         『基督教新聞』555号

        3.「卵と為って砕けるとも糠と為って全きこと勿れ」

         『基督教新聞』556号

        3.「異端征伐の時代は過去れり」『基督教新聞』

557号

        3.「金玉均の遭難」『基督教新聞』558号       4.第九回組合教会総会で

発言 4.「牧師たる者如何にせば教会の徳を建て得るや」

『基督教新聞』561号

        6.「教理講話 基督論(上)」『明治清教徒』第4号 *1         6.『教理講話』第1輯「神権の源」*2

7.『教理講話』第2輯「基督教の四大原理」*3         8.「宣教師某氏に答ふ」『基督教新聞』578号       9.霊南坂教会牧師辞任 10.「信仰的実験を論ず」『六合雑誌』166号 *4

3表 北米修学から帰国後の増野悦興の活動と主要著作

(5)

八二北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)

和暦 事項 著作等

1895 明治28 30 1.安中教会牧師 1.「横井時雄氏の新著を評す」『六合雑誌』169号         3.「現今日本神学界の分派」『明治清教徒』6号           「教理講話 基督論 ( 下 )」同 6 号 *5

7.第7回夏期学校講演 [「現今英米に於ける新神学の批評」] *7       8.畑咲子と結婚 「教理講話 基督の完全」『明治清教徒』7 号?

*6 10.群馬県会議員山口六平

に廃娼運動への協力を 依頼

      11.安中教会牧師辞任       11.岐阜中学嘱託教員

1896 明治29 31   4.『講壇の英傑「ビーチョル伝」』

        6.「天職に就いて」『宇宙神教』5 巻 10 号         7.「耶蘇理想の宗教」『宇宙神教』5 巻 11 号         10.「孤児の 博士バーナード及び其事業」抄訳

          『福音叢誌』5 号

10.「現今英米に於ける新神学の批評」『宗教』

8 巻 *7

・「実験神学講義目次 実験神学講義要点」

        『神学原論』草稿 「神権の源を論ず」 *2, 1, 5, 6, 4, 7.

1897 明治30 32 8.岐阜中学辞職         9.金沢中学教諭心得  

1898 明治31 33 9.金沢中学辞職 9.「国家教育と宗教の関係」『六合雑誌』213

      10.英語科伝習所講師   1899 明治32 34 2.英語科伝習所辞職         4.埼玉県川越中学校長   1902 明治35 37 3.休職

10.退職

 

* 『神学原論』草稿に関わるもの 3表 北米修学から帰国後の増野悦興の活動と主要著作

(6)

八三北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) 新興の「ユニテリアン」教会の調和がこの地では困難であることに気づいた(「米信(第一回)洋行者の自棄(つゞき)」『基督教新聞』三八〇号、一八九〇年一一月七日)。2.アンドバー神学校で新旧神学の対立と米国教役者の混乱を目の当たりにして、逆に日本であれば「純粋潔白なる初代の基督教を伝道し得る」との観を持つに至り、従来の「オルソドツクス」な教義と訣別し、キリストの形を信徒の心に陶冶することが最大の要点であると信じるようになった。また、同校での生徒と教員の隔週の討論会「神学校協議会」の自由な協議の場こそアンドバー神学校の精神であり、そうした雰囲気のなかで増野は新神学に惹かれていった(「論説教勢振起策と新神学」『基督教新聞』四一〇号、一八九一年六月五日)。3.当時、ユニテリアンとは「破壊的の意義」とされていたが、破壊的教理と新神学は別物だと本国に書き送った(「海外事情米国某学校にある某氏より当地の友人に寄せたる書簡の抜粋」『基督教新聞』三九八号、一八九一年三月一三日)。4.渡米一〇カ月後の九一年五月には、「基督教の真理は理屈にあらず生命なり(神の国は言葉にあらず力にあり[コリント前書四章―二〇の引用])」として、今後新神学の立場をとるにしても「其の生命に於ける関係を取調べ然る後公然と主唱」したい、「予に取りては第一も生命なり第二も生命なり第三も生命なり之を犠牲にしても取らんとする学説あるなし」として、基督教の真理は心霊的生命にあるとした(「論説教勢振起策と新神学」『基督教新聞』四一〇号)。5.新神学論争は増野の留学直前に本格化した。増野はバンゴア神学校組織神学教授ストルンス 3

の組織神学を学ぶためにバンゴア神学校に転籍したが、ストルンス(四九歳)はインフルエンザで急逝する。増野は九三年八月までバンゴアにとどまり独学をつづけた。

(7)

八四北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)6.九三年九月に帰国した増野の演説は、「新英洲」 4

と題された北米ニューイングランドの紹介と「新神学運動」の解説だった。当初の論説・評論などのうち、内面と宗教観を吐露している典型が一〇月~一二月にかけて発表された「種類と程度」(『六合雑誌』第一五四号、一八九三年一〇月一五日)、「聖書之保存」(『聖書之友雑誌』七一号、一八九三年一一月二五日)、「新神学運動―転歩の時機熟す」(『六合雑誌』一五六号、一八九三年一二月一五日)、「祷 いのりの妙理」(『聖書之友雑誌』七二号、一八九三年一二月二六日)の四編である。7.「種類と程度」では、聖書、耶蘇基督、基督教と他教を論じている。その論旨は、次のとおりである。教理神学中聖 ビブリオロジー書論は頗る重要で、聖書の理解には機械的天啓説と自由派説がある。共通点は聖書中には「人 ヒューマンエレメント為分子」と「神 デイインエレメント為分子」(インスピレーシヨン)を含む。ストウ夫人の「思泉脳中に湧出」し、「名著アンクルトムス、ケビンとなりしが如き」はインスピレーションの作用である。耶蘇基督は神か人かでも意見が分かれるが、その共通点は「耶蘇のヒユーマニティー」は不完全なものではなく、すべての人間は「ディビニティー」を有することだ。古来から「耶蘇のポルソン」の解釈には諸説があるが、人間が「耶蘇の身内に於けるヒユーマニティーとディビニティーとの関係」を知ろうと望むのは大胆すぎる。「善きものと真なるものは皆神より出づる」とすると「天下の宗教は皆神より出でたり」とせざるを得ない。また、基督教には救いがあり他教にはないというのはおかしく、救いは学説ではなく事実である。「人間が神の助に由り罪の支配下より脱し生命を握る其変化の事実」が救いである。以上の点で古典的神学の一派とは見解を異にする。聖書は「神の言葉」であり、聖書に対する予の信仰は「聖書其者の実価」より起こった信仰である。

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八五北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) 「予は耶蘇に於て完全なる模範を見又神の徳を見る彼は道なり真なり生命なり[ヨハネによる福音書一四章―六の言い換え]彼を見るは即ち天父を見るなり[ヨハネによる福音書一四章―九の言い換え]而して我心に最も大なる感動を受くる所の事実は其神の諸徳が形を成してヒユーマニティーの中に在ること」で、「彼が Divine たる所以は実に其 Human たる所に在り」、「予は基督のディビニティーを信ず然れども之を信ずるは我宗教的意識に由り味ふ ママて知れるが為」である。基督教は予にとって「教 説の塊に非ずして心霊的実在(spiritual reality)」である。「予が生涯を捧げて伝道に従事する所以は神よりして此職に召 コールされたりとの確信有るが為め…人を愛し如何にもして我握れる心霊的実在を分ち与へ幸福を共にせんと願ふ為め」である。日本の社会で「神の国」の拡張を図るに際しては、仏教徒でも儒教徒でも、社会の道徳同胞の救済を以て任として至誠世に尽くす人とは喜んで手を携えたい。増野は、キリスト教は「心霊的実在」であり、「自由なる学説」と「活気ある信仰」の調和をめざし、キリスト教会のために尽くしたいと抱負を述べている。8.「聖書之保存」では、神の黙示を「真と清き形で保つこと」が聖書の保存であるとしたうえで、ローマ教会の保存法は人民に聖書を示すことを嫌うものであり、ルター以来の宗教改革で「聖書の函」は開かれたが、その後僧侶の注釈、信仰箇条、神学者の説に依頼することになった。「我々基督信徒が自分の心に従つて聖書の真理を保存する」こと、「心の函に納め我が信仰的実験の鎖に繋いで保存すること」が「真正なる聖書の保存法」であるとしている。「聖書の教理中にあつて最著しい教理は何であるかと云へば神の父なる事所謂「ファーザーフードオフゴッド」

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八六北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)で」あり、反対論者も多いが、天下幾億万の信者が異口同音「自分の信仰上の実験より神は即ち我父なり神は活ける神なりと明言致す」ことが重要だと述べ、「聖書を信仰の眼で読んで書中の真理を自分のものとすること」が急務だとしている。9.「新神学運動―転歩の時機熟す」では、「現今思想界の状態を見て黙止することを得ず」として、教会の不振を憂い、新神学運動のあるべき方向性を提示している。論旨としては、次のとおりである。この三・四年間の新神学運動の波瀾はようやく収まったが、今日、アンドバー事件* などの影響から保守派も受け入れはしないが寛容となった。「新神学運動は尚行旅の途上」であり、「一歩を転じて其善後策に移るべきの時機」である。それは(

1)破壊的を去て建設的に移る、(

(事す、と 2否定を止め)極的説明を的極消積 3のず、ら可るざせ明証をるなも)きべす致一と信活は学神新(

。か動前進の方に向向わななならいばれけ 基古るあで釈解の教督宗の代時の開未は学教神較伝比学なの運学神新は人、く吾はる復でによ興教勢振起 考値価無どほるいてえでが徒信の数多の国が我、はで、な最。くあで向傾な全健るる界け現世今思想界に於 因命を慕う念に起大する公明正の運動い生慕、ををあり活気ある信仰発達の妨る。理新神学の運動げは真 あこで神る。古伝めるう定を所か向の心人てしの学と弊しはにこるめ求を諾受てと出持を理教るゆあらち 伝は古説派の所を的新目の学神る。あで策四難の非教攻要べ調高し出摘を理の撃督基くなでけだるすし、 エムフアサイズ 4つ断を縁のと派慢緩くら須) *アンドバー事件アンドバー神学校長で『アンドバーレヴュー』創刊者のE.C.スミス(教会史)は、その新神学を理事者に提訴された。一八九一年、最高裁判決で訴えが斥けられた。

10.「祷の妙理」では、祈祷は神の予定説では感謝、告訴、神との交わりに止まるとして「祈祷の応験」を疑うが、 いのり

(10)

八七北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) それは聖書の教えるところではないとして、次のような、「祈祷」についての自説を展開している。主キリストが世を去る際の訓戒や説教での祈祷についての話では、たとえば「求めよ然ば与へられ尋よ然ばあひ門を叩けよ然ば開かるゝことを得ん、蓋 そはすべて求る者は得尋る者はあひ門を叩く者は開かる可 べければなり、……况 して天に在 います爾 曹の父は求る者に善 物を与へざらんや  太七〇七―一一」[マタイによる福音書七章七―一一]とあり、「祈 祷の必要を教へ併せて其中に含める願 求の分子を高調」している。「吾人の祈求を待て然る後賜物を与へんとするは神の聖旨なる」ことは明らかである。神が人びとの願いに応えるのは、「吾人の裏 うちに宿れる真 理の霊 みたまの教示に従ひ吾人が悟り得可き理由ありとせば其は、神は己の慈父にて在すこと吾人に知らしめんが為めに「祈祷の動物」として吾人を造り且自ら祈祷を聞くの備を為し玉ひしと云ふ」からである。「自然界に於ける神の働」と「摂理界に於ける神の働」を考えてみても、「予め祈祷の制を設け「求めよサラバ与へん」と約束し玉ふ聖智と聖慮とは深い」。それゆえに、造 次顛沛[とっさのとき]にも神が活き、慈父でおられることを忘れず、飲食坐作の間も感謝の心を持つことが「吾人が天父のポルソナリティーを味ふ最良の方法」である。祈祷は吾人が「神の子」として持つ大特権であり、「吾人豈嬰児の心と語とを以て事々に天父に願求めざるを得んや」。

なお、九四年一月には「リバイバルは保守神学者の専有物にあらず」(日本ユニテリアン弘道会発行『宗教』二七号、一月一五日)と題して、リバイバルについて次のように論じている。キリスト教におけるリバイバルとは神の作用としての「聖霊の恩化」と人の安心と希望をもたらす「信

(11)

八八北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)仰の復活」であり、そこには神の霊 ポルソナリティー性・人の霊性・神の普在という三つの教理が働いており、これを確信し活用する人はリバイバルの恩沢に浴す。神の霊性とは、「神を天父となし、永遠無窮の権力、智慧、慈善を有する物質界、精神の源泉、教導及び整理者として信じて、我身霊を献げ委ぬるより生ずる」ものである。人の霊性とは、「自己の責任を感ずるの念…、道義性も宗教性も凡て備りたる」もので、「神と協同の作用を為さゞる可らず」のものである。神の普在とは、大 鬩の詩篇* にあるように、「神は天に在す如く地にも在して万事を支配し、特に人心に関する事柄には聖意を労するを辞し玉はず」という思想である。したがって、この三教理を確信し、活用するものはリバイバルの恩沢に浴すのであり、リバイバルは保守神学者の専有物ではない。我が国のキリスト教界では、惟一教徒・宇宙教徒・普及福音教徒・会衆教徒・長老教徒・美以教徒・浸礼教徒・監督教徒・友徒・希臘教徒・天主教徒・其の他の教徒も、「神を天父とする普通信仰の上に立ちて心を一にし、大に教勢の振起を計り我同胞を救ひ御国を我邦に来す為めに力を尽されんことを切望する」ものであり、「神学説の異同を論じ兄弟牆に鬩ぐの秋ならんや」。

* 詩篇第六五篇九、一一を引用。「爾地に臨みて(英文 Thou visitest the earth )漑ぎ大に之を豊にし玉へり、神の川に水満ちたり、爾此く備を成して穀物を彼らに与へ玉へり、爾畎 たみぞを大に湿ほし、畝を平にし、白 むらさめ雨にて之を柔にし、其萌 もえいづ芽るを祝し、又恩 みめぐみ恵をもて年の冕 かんむり弁とし玉へり」

以上は北米での体験と聖霊の導きによって祈るという信仰の表明で、日清戦争前夜の日本の思想界にあって

(12)

八九北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) は斬新な、宗教と自己の実存を問う真摯な発想であり、「保守派」が大勢を占めるキリスト教伝道にとっても、各派の大同団結を訴えるなど、建設的な姿勢であった。帰国当初の増野の精神状況は正に清真な「青年教役者」であったといえる。

一連の論評活動をへて九四年早々に増野は霊南坂教会牧師に迎えられ、四月の神戸での第九回日本組合教会総会では果敢に発言(『明治廿七年四月神戸第九回日本組合教会記録』)するが、現実的にはその思いは容れられず教役者としての自己を教理的に保持できなくなり、九月には霊南坂教会牧師を辞任した。その直後の一〇月に発表された「信仰的実験を論ず」(『六合雑誌』一六六号、一〇月一五日)では、より詳しくキリスト教教理を展開している。翌九五年一月に安中教会牧師に赴任後、同年七月に同志社で開催された第七回夏期学校では「現今英米に於ける新神学の批評」を講演し、これは翌九六年一〇月に『宗教』八巻三八頁~四五頁に発表された。こうした一連のキリスト教論・基督論・新神学論が、増野の信仰内容の表白でもあった。これらは九六年に『神学原論』として刊行しようとしてかなわず、草稿に留まった。『神学原論』草稿(増野潤吉氏蔵)までの諸論は次のとおりである。

一八九三年

12月   「新神学運動一転歩の時機熟す」

『六合雑誌』一五六号 一八九四年

(13)

九〇北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) 6月   「教理講話

基督論(上)」『明治清教徒』第四号*

1 『神学原論』草稿第二編 6月   『教理講話』第

1輯「神権の源」*

2    『神学原論』草稿 第一編 7月   『教理講話』第

2輯「基督教の四大原理」*

3 10月   「信仰的実験を論ず」

『六合雑誌』一六六号*

一八九五年     4『神学原論』草稿第三編 1月   「横井時雄氏の新著を評す」

『六合雑誌』一六九号

3月   「現今日本神学界の分派」

『明治清教徒』六号

    「教理講話基督論(下)」『明治清教徒』第六号→基督論(中)*

5 『神学原論』草稿第二編     「教理講話基督論の完全」[『明治清教徒』第七号?]*

6『神学原論』草稿第二編 7月   「現今英米に於ける新神学の批評」

(第七回夏期学校講演)  →*

7

一八九六年

10月   「現今英米に於ける新神学の批評」

『宗教』八巻*

  7 『神学原論』草稿附     「実験神学講義目次  実験神学講義要点」

    『神学原論』草稿 *2,1,6,5,4,7.

増野は『神学原論』草稿を、第一編「神権の源」・第二編「基督論」・第三編「信仰的実験を論ず」・附「現今英米に於ける新神学の批評」と構想し、「例言」で、「実業隆興」の時期にキリスト教界は神学論に意を注がない傾向を呈しているが、「基督教にして多少の真理を含蓄せん限り、神学問題が外に在つては社会の注意を惹き、

(14)

九一北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) 内に在つては今一たび教徒の尊重を博するの日あるべきは、識者を須たずして明なる所なり。予輩は世の風潮の為に心を動かさず、一たび立てたる志を固くし、希望を以て愈々研究の歩を進めんと欲す」としている。以下、順を追ってその内容を検討することとする。「教勢振起」策として『教理講話』第一輯(基督教革新会)を発行した増野は、冒頭に「神権の源」を載せ、「宗教的真理」の源は耶蘇基督(God 's revelation through Jesus Christ.)、基督教徒の実験(The personal experience of the individual Christian.)、教会の実験(The combined experience of the church.)、理性(Reason.)の四つだとしている。そのうえで、基督教の本体は心 スピリチユアルリアリテイー霊的現実で、これを「直覚し…自ら味ふ ママて此教の中に道あり真あり生命あるを承認し」「確乎として動かざる知覚を有する」ことである、多くの知識は間接的だが、「実験」から出る知識は「最直接的」であり、結合的実験(教会の実験)は個人的実験を補う、人は神より賦与された理性を持ち、「基督教の要素が成り立つのは個人と教会の実験によつて確定された理性に試験せられたる上の事なり」としている。かさねて、キリスト教四宗派の誤謬を次のように指摘している。(

( する力は外より来るに非ずして中より出づ、中に記さるゝ耶蘇基督の生涯より出づるなり」。 1正る。約を同一視してい「と聖書全篇を感動反旧約教重はイエスのみを偏し、新聖書無誤謬論に立)ち、 プロテスタンチズム

形於思意び及力智るけに分用作の仰信「性、理やの子根の無てせか働を力能三意を情智「に、ずせに」無拠 2の信)をみの験実的仰のじ、人個徒教は教秘神ん重他か史的教トスリのし、キし源神い。の権を知らな歴

(15)

九二北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)的なる世界を観察し、実際有るものを有りと悟る」ことは「最も単純且正当なる作用」である。(

)徒の本領」 5 介のりよ方地州欧るたの厄住会社国米今現…む移物民本の教清稿「拙」(なるたり標の物人種此に実き、如 for independent action.の国具神てしに不奥の至義を解する能力無きにらし性をの教宗人にく如しひ云”と up, Roman catholic training from childhood the is calculated to disqualify mind ジヨサヤ、スツロングが“ 3はじ義会教と会教ぎ、過ん法重を会教は教馬羅長(の王立主教旧るぐ妨)心の独視を)一同している。「

である。(

「理性」の三基礎が不可欠である、と結んでいる。「信仰的実験」「耶蘇基督」健全な思想を兼有するには、 が視重の験実的信て、っした聖ず、らおてし定確はと仰書命の行な格厳仰、信るあ状、生研で、評的批究が必要 こ世はで界学神の末紀と九一て、し論結は野増重のん要が問意の者学神が、だ盛見派解学は未題決で、新神 いう同様の演説をしているが、反正教の誤謬から脱出できていない、としている。 「」「」か教会」理性のらなる「神権三坐」と聖書に「そーして、米国の前者チャ学レブリッグスも数年ス・ 。源と、信仰的実験なる心霊的根源より出で来り、理性は唯之を試験して証明を与ふるの務を為すのみ」 し賛同な得ざる所の輩予はてり至に義主る基り。耶督と根的史歴るな督基蘇は、教料材る造形を理真のす 4ん重る。す用妄を性理し、偏へをみの性理は教理惟「理性以代に理真的教宗てて、のし列陳析分を容内) コンテンツラショナリズム

次の「基督論」では、「千八百年の昔、猶太国ベツレヘムの邑に生れナザレの里に成長したる、木工ヨセフの子耶蘇」は、「千古の哲人も未だ達し得ざる宗教的真理の秘奥に通じ」、「其天真の品性と行状とは、無垢の人間を表出して徳光を宇内に輝かし」、「吾人は彼を呼んで「救主」と云」ったのだが、世の人が皆不完全なのに、「基

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九三北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) 督」だけが完全なのはなぜか、そのことが多くの基督論を生みだしていると前置きしたうえで、以下の一二の基督論を紹介している。一、基督は人(

( 者とする。由来はエピオナイツ(貧民輩)より。 1ピし、跡的生誕を否定預の言者律法の擁護エ奇督オユニズム:二~三世紀、ダ基ヤの基督教徒の)説。

( 奇跡を重視し、処女からの生誕を信じる。 2)ソシニアニズム:一六世紀、イタリア人ソシナスが主唱。基督が神であることを否定し、教師だと主張。

( 基督は人で、「子なる神」は彼の裡に宿ると、神人両性を主張。 3)ネストリアニズム:紀元四二八年~四三一年にコンスタンチノープルの監督だったネストリウスの説。

( 二、基督は人でも神でもない 4)ヒユ―マニタリアニズム:現今のユニテリアン教徒の説。極端な輩は基督は不完全な人間だと主張。

( たのが基督だとする。[アリウス派] 1アにた霊物で、人の体な造って世に降りリエっのニエズム:三世紀、神学者リ神ウスの説。ロゴス)は

( 2)セミ、エリアニズム:ロゴスは神より出てきたと主張。

( 3)ユウチキアニズム:五世紀半、シリア人のユウチキスの説。基督の心も性も神人混合の結果だとする。

三、基督は神 を長じて「我」は神に化したとする。 4序少に生れた基督の時ヘの「我」は人で、年逐ムレ化の身説:最近のドイツ有ツ力な神学者の説。)ベ

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九四北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)

( 由来は「見ゆる説」より。 1)ドセチズム:初期の異邦出身の基督教徒の説。基督は神で、外貌が人のように見えるにすぎないとする。

( は心に宿るが、基督の血肉の中に宿る心は神のみであるとする。 2ポスだったアポリネリが監唱えた。人の霊魂ア督のリトネリアニズム:ネスリアウスの敵でラオデ)シ

( 由来は「虚しくする説」より。 てて世に降り、は終始同一の神となる。「我」天に昇ると同時に元にもどるとする。思想行為の中心である 3説:情督は神に属する性能の力を棄スシーノグ基天最者近のドイツの神学のば説。トマシウス)よれに こ無の督基「る。すにのき値己価を涯生るな尚高の克も忍あ耐れすとりあ情性りば心涙、の喜落抬彼に人間 うのこた、まる。説いてし一よせさ致に理無をの他やとのでも、基督の「我説す督は、説学る基とを」神 )は論」性の二と一我心(のの「説のこに、的次断独で解あもいなで致一し、きに通字文を書聖りり、 の力ではなく政治家の貸与せる俗権で正統化された。 明係関の学子陽と学朱よのはうに、アサネシアニズム学理代の時から川端裁判にけれ不運に遭遇する。徳 は的起源がンスタ歴史こたれさと統正説のチンコン帝はどなムズニアリエ後、のそで、議会異ヤカニの を定めることが大切だとして、アサネシアニズム(正統派)批判を次のように述べている。 こうした整理のうえで、基督を解釈するためにはから穏当な説を取り、「智力上の基督の位置」「最進歩の学理」 [アタナシウス派]神で、四世紀にアサネシヨスが唱え、正統派の神学者多数が保持してきた。 性るあで」性の「二とる」神な子る「あで位二第神基と督位つ持を性人と性神はる。すとつ持を性人の インネーチュアヒューマンネーチュアデイ 4三はと」我心「の一唯人一ム:ズニアシネサアち唯の「基即」、我の「一はけだ督が、性す有をと」) ネーチュア

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九五北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) そ、感嘆已む能はざる次第」で、全智全能の神では感じはしない。その次に、他の一一の学説の批評はここでは触れないとしたうえで、アメリカでの修学をもとに、以下のような基督論を展開している。基督のヒューマニティーは完全で、「外貌血肉人間なりしのみならず、心の奥底に至るまで真個の人間なりし」ということは現今世界の神学界で確定している。「基督は神なり」とはそのヒューマニティーと撞着しない限りであり、現今の疑問は人である基督がヒューマニティーに加えて持つディビニティーとは何かということである。基督がナザレの耶蘇として世に在った間は人間であったとせざるをえず、彼に関しての古代の学説中に取るべき価値は無い。普通に神性と訳す基督のディビニティーと天の神のディビニティーとは意義が違うことを明らかにすることが必要で、天の神の神性は哲 メタフィジカルアッツリビュート学的属性(全能全智遍在等)と道 モーラルアッツリビュート義的属性(聖愛義等)を含めるが、基督の神性は道義的属性のみをいう。ゆえに天の神のディビニティーは神性と訳し、基督のディビニティーは神徳と訳さざるを得ない。モーラル・ディビニティー(神徳)のみ存在するのが地上における基督の人物である。この神徳は完全な人徳で、米国の一神学者が“I believe in the divinity of Christ, because He is Perfectly human.”といったことは適切である。ヘッドとハートの要求からしてもこの基督論が最適である。基督には吾人の「模範」「救主」とすべき徳性があり、これを基督のディビニティー(神徳)という。神と救主には大差があり、「孔子釈迦ソクラテス等と同様、父母が生み境遇が作り歴史が育てたる人間に、完全の者有る可き筈無し」というのは速断で、その背後には大能の神が働いている。偶像崇拝の未開社会に生まれた一神崇拝の信仰を維持したのがユダヤ社会であり、孔子が生まれた中国社会同様に、上天の特

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九六北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)別な干渉により人びとが救主と仰ぐ人物が出現するのは怪しいことではない。基督が奇跡的に生れた「人 なる神」でないなら救主と仰げないというのはおかしい。基督を救主とするのは生まれのオーソリティーによるのではなく、基督そのものにある自明的証拠の事実による。それは古代のサマリア人に「我儕自ら見て、此は誠に世の救主と知りたり」と叫ばせたことなどで、これは全身を献じて互いに生死苦楽を共にする夫婦の関係のようなものである。以前、「神権の源」で述べたように、吾人が基督の言教人物から出てくる宗教的真理を真理として受ける理由は、これを「実験」に附し、「理性」に照らして真理と認定するからである。「真個の人間」である基督は「救主」としての「職任」を天より授けられ、必要な「神徳」を賦与されて世に来た人である。これは天が徳を与えてジョージ・ワシントンを米国独立の元帥とし、新島襄を新日本教育の木鐸としたのと同様で、「天職の在る所必ず天賦あり」であり、「救主神権説」も已むえないと感じる。

以上が「教理講話基督論(上)(『明治清教徒』第四号)で、次の「教理講話基督論(下)」(『明治清教徒』第六号)は『神学原論』草稿では「基督論(中)」に、三番目の「基督の完全」(『明治清教徒』第七号?)は「基督論(下)」に変更されている。現時点で、『明治清教徒』第七号の原本は未見である。

「基督論(中)」では、人間基督論が次のようにさらに詳細に主張されている。アサネシヨス[アタナシウス]の主唱した学説が唯一正統だった時代は、基督の前生・処女懐胎・奇跡復活等を信じない者は教会に加われなかったが、今日はそうではない。教理として歴史的に信受すべき理

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九七北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) 由もない。基督は前 プリエキシステンス生に他界(天)に生存していたとの説の起因は基督の「我 」を神とする誤謬による。この独断から聖書の一字一句を悉く弁護することになり、たとえば第四福音書[ヨハネ伝]冒頭の「太初に道 ことばあり、道は神と偕にあり、道は即ち神なり云々」とは、基督の前生を示すという等は自儘勝手の曲解で、二千年前のアレキサンドリアの学者輩の哲学主義を一九世紀の今日に異存なく受け入れられない。「ロゴスは基督なり」とは根拠がなく、ロゴスは神の心中の思想であり、この思想から天地万物、人類、耶蘇が生じたのであり、これが約翰伝巻首のロゴス説の意義である。にもかかわらず、ロゴスを一個の「我」を持つポルソンとし、基督とし、ナザレの耶蘇は造物主とするのは、こじつけである。第四福音書の記者が「我はアブラハムの前から在る」と基督の語を記録したのは、聞いたまま記憶のままであって、基督の真意は「自ら代表する真理はアブラハム以前より存在せるものなり」ということにある。これをイゴー、ポルソナリティー、ネーチュア等の組織哲学の語で説明して第四福音書の記者を後世に陥れたのは、アサネシヨス一派の所業である。保羅[パウロ]の書簡も同様で、古来の預言者や基督には「霊」が生前にも存在したとするユダヤ人一般に見られる観念を、ニカヤ神学者が同様に説明してきた。基督生前の説は後世学者の思想の凝塊にすぎない。基督の母マリアはヨセフと偕になる前に聖霊に感じて基督を孕んだとの伝説は、後世の教徒によって作為されたもので、新約聖書騰写の際に挿入されたと考えられる。馬太伝、路加伝も機械的守護が加えられた一種特別の書籍なのである。こうした伝説が起こるのは聖書以外にも稀ではなく、豊臣秀吉が日輪の子とされるのと同様である。教会内だけに通用する聖書の機械的天啓説はもはや通用しない。処女懐胎は歴

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九八北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)史的記録ではなく、基督死後の伝説なのである。こうした伝説は基督の救主としての品格を上下するものではなく、藤原秀郷の百足退治の伝説同様に、その精神的意義を学ぶには教訓に満ちており、血統(聖母マリア)や聖霊(感化力)などの「霊性界の真理」を発明できる。復活については、保羅自身が信仰しており、それ以前からの教徒間の「夢幻の作用」とも考えられる。馬太伝二八章一五節によれば、「基督の甦り」偽り説が当時のユダヤ人にもあった。今日までの復活の証拠は不十分であり、信受しないことが寧ろ理性に忠実といえる。にもかかわらず、近来英米の一部神学者が「活 ける基督」を口にして、信仰的実験により証明できると主張するが取るに足らない。吾人の実験の中心である「神 インポルソン霊は甦 りたる基 クライスト督なり」とは、復活の教理を信じて後にいえることで、復活を証明するには転倒している。「霊を以て交る基督は、福音書にて読むと同一の基督なり」などというものがあるが、福音書で教える基督の「父なる神」こそ、「実験に於て我が霊もて交わる神霊」であり、「甦りたる基督」はカルヴィン主義の神学説にしたがって「父なる神」を「敬して遠ける」ものである。予輩は医学上の学理で解明できる奇跡があることを信じるので、福音書で説く奇跡を全て抹殺するものではないが、理性の常規に逆らうものではない。上に解説したように、基督のディビニティーは神性ではなく神徳だとするなら、完全な品性ゆえに自然界の奇跡を許せないのは、一人の酒徒をとらえて、大酒家だから大食できない理由があろうかとはいえないのと同様である。日蓮などの奇跡とは別に、もし基督の奇跡に限り認めるとする理由があるとするなら、新約批評学の結果であろうが、研究はそこまで至っていない。基督教の教理が哲学的に証明されなくても、理性の常規に忠実であろうとするなら、信仰的実験に基礎

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九九北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) があることで科学的証明の範囲であり、聖書無謬説の如何に影響されはしないが、その基礎は聖書のなかにある。根拠なく奇跡的分子を混入するのは基督教の道義的性質を堕落させ、魔術的にし、霊機の発達を妨害する。それは天文学が占星術の、化学が錬金術の範囲を脱却しないと科学的進歩が遅れるのと同様に、一つの宗教が魔術の範囲を脱却しない間は道義的進歩が遅くなることとよく似ている。同時に予輩は基督教の超自然的分子をも排斥はしない。霊なる神の摂理、祈祷の応験などは超越すれども造反せず、自然界の常事と相ならんで行われ、是等を実験できるだけでなく科学的法則に従って証明できる以上、信受する価値があると思うからである。超自然的分子と奇跡的分子の違いは、現時点では奇跡的分子を除くべきだと感じているのであって、絶対的に排除するのではない。聖書無謬の基礎は倒れたが新たな基礎はまだできていない。予輩の基督は奇跡的後光のない、人として生まれ、活き、死んだ基督で、彼は「恩寵と真理に充てる救主」で、唯一、予輩を死の体から救う者である。

「基督論(下)」では、増野の「基督論」への批判に対し、次のように反論をしている。「聖書に誤謬無きを許さずして基督の神権を許し、彼の神なる事は信ぜずして完全の救主なる事は信ず」という立場は、保守自由の両側面より非難攻撃を受けることになるが、これは独断でも自家撞着でもないので、弁論する。自由派は『宗教』(四十号竹内楠三君) 6

紙上で、次のように指摘している。基督を完全無欠な人物とするのは如何なる意味か、また、完全とは如何なる意義か。増野氏は、基督は政略家としてはビスマルクに、哲学的にはカントに及ばず、この点では完全ではなく、宗教道徳に関する

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一〇〇北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)真理を有し、その品性が基督のデイヴイニチーだとしている。これは神学者としては諾納しやすいが、局外者の心眼に照らせば偏頗である。氏の説は天上界の全知全能の基督を人類界に引き下して、人間の水平面より少し高い位置に据えたもので、基督はユダヤの一民、ナザレの一匠工と思う人々の心には容れ難い。次に、完全を倫理学から考えると、行為の標準が何かは一定の説がなく、自己の理想を標準とするので、完全不完全は各自の好き不好きに適合したものになり、幼稚より基督の感化を受けて脳中に幻影を作った人だけが、基督は完全な人物となる。保守派は『護教』(百八十四号山路生君) 7

紙上の「明治清教徒記者に質す」で、次のように指摘している。先に、「基督のみ完全の主なりと信じるなら、これを神なりと信じるも大差無い。彼を神と信じるのが非論理なら、救主と信じるのも非論理ではないか」と問うたところ、「完全な徳性を有す人間の出現は異例だが、神の特別な干渉が加われば望めないことではない」との答だった。これは基督を神とするのと同じほどの独断で、正統派教理と五十歩百歩ではないか。「神命じて万世の師を作る」と信じられるなら、「神直ちに肉体を取る」とも信じられよう。人には独断を許さず、己には許しているように聞こえる。これらの「批判攻撃」に対して、増野は以下の通り駁論をしている。自由派は独断を脱していないとし、保守派は独断が足りないとしている。(

講校さ授教を学教説で学て神の紀世九一に督基せも、こす問会社う。ろだる起のが満不の生学にぐ題 それは完全にではない。「天空の飛禽と野の百合花」説教は有名だが、通していたと伝えられているが、 が関督基が、だ問学るすにこ事の教宗は学教宗精れ比たに約旧く、なはでのい等てし通精に問学の較 1予輩が基督を完全というのは救主として完全という意味である。倫理学は道徳の事に関する学問で、)

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一〇一北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) 義にしてもそうだ。したがって、政略家としてはビスマルクに、哲学的にはカントに及ばないばかりか、宗教道徳に関する事柄でも、今の博士・学士連中には及ばないとせざるを得ない。にもかかわらず基督が完全なのは「救主としての」に於いてである。ユダヤ人が政治的独立の大業と誤想し、今のある種の人々が宗教道徳の学説のオーソリテイーの大任と空望するなら基督は完全ではない。是等の資格が不完全でもそれは救主としての完全を棄損はしない。花瓶が壺として不都合でも花瓶としては完全であると同じである。基督を完全な救主とすることと神とすること同じだと思うのは、「救」「救主」の資格への誤解に起因している。基督の救主としての三職は「真」「生」「道」にあり、「学者」「覇者」「怪物」としてではない。(

を悟れば、宗教道徳学者としてではなく救主としての基督は誤謬が無いことが了解できよう。 「真理と真実とは自つから同一物ならざる」織されていない宗教道徳的真理の萌芽をみることができる。 がたし織組はに基て、っした理る。いてっ造形を部真督でみ組あ未く、なはでのるだをの子る説学単 教動宗で、うそも学物天る。あに体は体実が、道学・が徳基学要るあで主督救り、はのあ体実基督に と天文学の真理は天体合天文学者の心との相だある。で基標め督教真理の観的客準すたるのはこのと れ生ま「るなら、理」し真て「合相が」理的「理真が」でのを基が輩予る。あ督的真観体の「実」は客 こ彼る。あで完とはしるいて有を」料な「原全あ源観と観主と」真的「客泉る。で味意ういと」は「 2「真理」宗教道徳学のを有する点で完全である事は、「真」宗教道徳に関するである事、「真」基督が)    「智能が不完全な基督が宗教道徳に関する「真」のみを直覚できたとは理解に苦しむ」ということだが、これは「直覚」を「了解」と用いたための疑問で、これを「具備」と用いれば氷解する。蜜蜂が幾何

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一〇二北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)学の原則を応用して巣を作るにしてもその学の理を了解していないように、基督が宗教道徳的真理の実体を具備していることとその理を了解していることとは区別がある。予輩が基督を以て基督教真理の客観的標準とするのは、「神権の源」で論じたように、基督教の真理は基督により示され、信仰的実験により確定され、理性により証明された上であるからである。基督教真理の原料を湧出する源の基督の無誤謬は認めるにしても、宗教道徳学説のオーソリテイーとしての無誤謬は認められない。(

「基督の完全は人類の救主としての完全という意味のみ」と答えるほかはない。いうのならば、 と全完てえ訴に験実理性定でのな全完不は類をとめるとていなきではとこ」知完かも、に真全かどう 的完の「輩予が、るあで謬対絶は」誤無等彼」全の「はる人「適る。あでのもす持維てえ訴に準標の当 「聖書の無誤謬」督の完全」は新教徒の「法王の無誤謬」や旧教徒のに比して意義は別のところにある。 ツ歩十をと理教スクド歩ソルオて、視で断独百五な誤り基輩予る。あで謬の「るとい大は、のう思な い救を我を「れそとる。悟をこいなかる得がをっを見所の輩予て、た実しう。いと」す験欺我実がに るをり,よにとこ似真て督基有め勉け、受てしのそし達督基き、でがとこてするに意の種同とた識い 認を承誤し、また、「謬と無の督基し、覚知をこを我学信にじ主救を督基い、従と訓のそういと」べ遺 理的真そを作る徳る「合道教宗し、調を」理瞬のす間我賦う合に則の性理がに、所示の督基は人吾す 3の標理の人吾は、と準的と観客の理真教督基性実性教理我と」真的「徳道宗験す示の督基る。あで) 最後の「附現今英米に於ける新神学の批評」は、一八九五(明治二八)年七月の同志社での第七回夏期学校における講演筆記である。前書きに、岸本能夫太から依頼された九六年一〇月の『宗教』(八巻)に掲載の論文

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一〇三北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) を病後のため書けず、転載したとある。英米での新神学の動向と内容を増野は次のように紹介している。新神学とは惟 ラシヨナリズム理説ではなく正統派神学の範囲内の主張で、自らは新 ニユーシオロジー神学でなく進 歩的正統神学と称している。神学とは他の理学哲学同様に理に合うものでなければならないが、神と人間の関係である信仰の事実を満足に解釈すること、神 しん=スピリチュアルという意味での神霊的生命の生長を助成することが必要となる。アンドバー神学教授ジヨージ・ハリス博士曰く:Christian theology is the exhibition of Christianity as truth for life. 神学の健全不健全の判別標準は、条理に合うことと神霊的生命の生長を助成することで、人のヘッドとハートを満足させるものであることである。新神学は正統神学の不健全から起こった。法王に誤謬無しとする羅馬神学も、聖書に誤謬無しとする新教神学も理性を満足させる合理的主義ではない。理性中心の惟理神学も生命の点では不健全である。新神学は正統神学とラシヨナリズムの中間に位置するが、いくつかの分派に分かれている。現今英米に於ける新神学は基督中心で、ここから組織神学を編み出そうと試みており、歴史的基督派と活ける基督派に分かれている。第一  歴史的基督派   歴史的基督派はドイツのリッチェルから来ている。これを概括すれば、聖書六十六巻中の人物・記録の年代・場合・目的等差異があり、一貫しておらず、万世に通じる真理の標準とはできない。ついては、勝手にインスピレーシヨン説などを試みるよりも、人間が作った聖書は真理の標準にならないので聖書の主人公の基督を歴史的に研究し、後世附加の思想等を取り去り、純然たる基督を発見して、

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一〇四北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)これを真理の標準、神学の中心とし、路錫[ルター]やアサネシヨス[アタナシウス]、保羅[パウロ]を捨て、基督に立ち返らせようとする。また、旧神学の教理は哲学的思弁の分子が多く、神の政治を法律的なものとする弊があるので、神が圧制君主ではなく基督の心を育てる基 クリスチヤンツト督的神であることを明らかにし、贖罪説や来世賞罰説などは基督の心に基づいて建てかえて、新教の改造をしなければならない。オクスフオルドのマンスフィールド校のフェヤベイルン博士の近著“The Place of Christ in Modern Theology”の開巻一頁には、「信条に歴史を調和しようとするのが旧神学で、歴史に信条を調和しようとするのが新神学である」とある。腓立比書[ピリピ書]二章九節より十一節に「是故に神は甚しく彼を崇めて、諸の名に超る名を之に与え給へり、此は天に在るもの地に在るもの及び地の下に在る者をして、悉く耶蘇の名に由りて膝を屈めしめ、且諸の舌をして悉く耶蘇基督は主なりと称揚して、父なる神に栄を帰せしめん為なり」とあるように、基督を主とし、標準とし、歴史上の彼を見出し、彼の言教人物に万事を調和させれば神学者としての能事は終わると考える立場である。旧神学が保羅や約翰[ヨハネ]輩の未開の思想に照らして下した見解を重んじたのに比べ、今日の神学を組織する際には基督の言教がより良き材料になる。しかし、歴史的基督を重視し過ぎるのは盲目的首肯で、理性に取捨の権を与えないのは問題がある。神学上の真実の進歩は理性に附与する自由の分量上にある。理性は国会のようなもので、要求するだけの権能を与えなければならない。これは専制国の宰相が政府案を国会の名で開いた議会で賛成するのみと命じるようなことで、不都合このうえなく、この点が歴史的基督派を不健全な神学主義とする理由である。第二  活ける基督派   活ける基督派は馬太伝二十八章二十節の「夫れ我は世の終まで汝等と共に在るなり」という語を文字通り解し、甦った基督は今日活きて我等の間に在り、我等は信仰的実験の動作により親

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一〇五北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二) しく彼に接し、千八百年の古昔と全く違わない基督を見ることができると主張し、この神霊的事実を中心に一つの神学を組織しようとする。先ごろ死去した英国ボルミンハムの牧師デール博士の著書『活ける基督と四福音』には、「万一不測の変で四福音が世界から無くなっても、我等は基督を描き、今の福音書に少しも劣らぬ基督伝を作ることができる」とある。聖書も歴史的研究もいらず、信仰的実験さえあれば事足りると言う立場である。歴史的基督派はフェヤベイルン博士のような学者風の信仰家、活ける基督派はデール博士のような実際家が属しており、前者の議論は何となく深遠だが、後者はあまりにも浅薄である。ただ、信仰的実験を重んじ、「神人間なる所謂ポルソナル、エキスピリエンスを重んじて材料の重なる出所の一となす」というのは至当で、この点は神学に従事する人々に勧めたい。しかし、理性の権威を蔑如し、学の性質から離れている。これは、山で伐り倒しただけの材木を家の柱や梁にすることができないのと同様で、これを証明するためには理性の法則や学理的にその意義を示すことが不可欠である。神学上の難しい理論などいらないと主張しつつ旧神学の教理で信的実験の事実を説明しようとするのは大誤謬である。私は在米中に、新英州知名のこの派の神学者に「信仰的実験によって今現に、甦った基督と交わっていると主張しているが、実験に於いて神霊に近く交るように、あるいは二個のポルソンと交るように感じられるのか」と尋ねていたが、彼等は異口同音に「一個のポルソンと交るように感じられるにきまっている」というので、「ではなぜそれを、基督の教えた天の父なる神としないで、甦った基督自身とするのか」というと、「天の神は我等の近くにはいられない神だからだ」というのが常だった。これはカルヴイン神学風の神に対する陋見を抜け出ておらず、口には「神 の父なる事」などと唱えても心では未だ「父の神」の真意義を味わっていない。「神人両性を備えた基督」ではないかと問

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一〇六北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(二)うと、彼等は「神なる基督で、人である点は我らが現に交わる基督の中にはいない」と答える。これが活ける基督派を不健全な神学主義とする理由である。要するに、現今の英米の基督中心の新神学は学としての資格に欠け不健全を免れず、思想界における過渡時代の一現象であり、一層前進すべき運命にある。したがって、我国に建設すべき新神学は、欧米の新神学をそのまま移植するのではなく理性に自由を与えて学としての資格を持つものでなければならない。学としてヘッドに満足を与え、神霊的生命との調和を保ってハートに満足を与える神学を建設できたら、英米の思想界に先鞭をつけることになる。

「信仰的実験を論ず」についてもすでに報告しているので、その要点を紹介する。ここでは「神権之源」[『教理講話』第一輯]を考究して「信仰的実験」の内容を語り、その重要性を力説している。「心 スピリチユアルリアリテイー霊的現実」である基督教の知識には説教者や先輩教徒の証言である不 確定的知識と「其聞ける所を自ら実験し味ひ試みて得たる確 実的知識」があり、信仰の基礎は理論が入り込めない信仰的実験(確実的知識)にある。基督教の本体は「教理学説の奥に存する実在」で、教理学説はその実在の代表物にすぎない。心霊界の中心には心霊があり、「吾人は官能を働かして之を知る事を得る」。これが信仰的実験の事実で、教徒はこの実験ではじめて「己が礼拝は空に向つて為すに非ず、己が生涯は有形の世界に横はると同時に無形の世界に横はる」ことを知る。有神論者と違い敬神家は有神論を実化し、「其心を解し所謂ポルソナル、コンタクトの実験」をもつ。信仰的実験は基 督教徒の意識を中心に生出するだけでなく、主観的現象のみならず客観的実在の存

参照

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