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志賀志那人の大阪基督教青年会時代の初期論考

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日本福祉大学社会福祉論集 第 128 号 2013 年 3 月 目 次 はじめに Ⅰ 解説 1 . 志賀志那人の生涯 2 . 大阪基督教青年会と志賀志那人の活動 3 . 「大阪青年」 の論考について  書かれた背景と種類  収録文献解題 (1916 年 10 月∼1919 年 7 月, 22 点) Ⅱ 志賀志那人の主要初期論考収録

はじめに

志賀志那人は, 大阪市立北市民館館長として活躍すると同時に, 第一次世界大戦後からの日本 のセツルメント運動のリーダーとして, 地域に根ざした社会事業の追求, 地域の組織化や協同組 合型の保育, 多彩な文化活動を展開し, 日本の地域福祉実践を開拓した人物として知られる. し かし, 志賀志那人の著作は遺稿集である 社会事業随想 にまとめられたものと, その他北市民 館館長以後の時代に 「社会事業研究」 (大阪社会事業連盟) 等の社会事業雑誌や北市民館の刊行 物に書かれたものが中心である. とくに大阪市に赴任するまでの思想形成過程を辿る上で重要な 東京帝大基督教青年会や大阪基督教青年会時代の発言は, 日本基督教青年会同盟機関紙 「開拓者」 に掲載した論考と, 入営中に記された 「軍隊日記」 を除いては知られていない(1). この資料は, これまで年譜や文献目録に含まれていなかった大阪基督教青年会勤務時代の諸論考の主なものを 収録したものである. 志賀志那人の思想と実践の全貌を把握する上で貴重なものであり, 志賀志 那人研究に役立つことができれば幸いである. 〈史料解題〉

志賀志那人の大阪基督教青年会時代の初期論考

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解説

1. 志賀志那人の生涯 志賀志那人は 1892 (明治 25) 年 9 月 7 日, 熊本県阿蘇郡産山村に, 志賀馬九郎, 母モトエの 長男として生まれた. 1910 年に県立熊本中学校を卒業後, 第五高等学校英語法律科に進んだ. 中学時代に聖公会の熊本三一教会で受洗し, 五高ではすでに基督教青年会 (YMCA) で活動し ていた. この間にキリスト教理想主義とともに社会問題, 社会教育への関心も身につけて, 江部 淳夫教授 (東京帝大哲学科出身) に学び, 次第に法科から社会学へ関心を移したようである. 1913 年に五高を卒業と同時に, 東京帝国大学文科大学哲学科 (社会学専修) に入学し, 建部遯 吾の下で社会学を学んだ. 卒業論文は 「広告の社会学的観察」 であった(2). 彼は在学中, 東京帝 大基督教青年会でも中心の一人として活動するとともに, 経済的余裕のない中で基督教青年会館 寄宿舎の舎監代理なども務めている(3). そして 1916 年 7 月東京帝大を卒業後, 10 月 22 日に大阪基督教青年会教育部主任として赴任 した (辞令は 10 月 1 日)(4). 「大阪青年」 第 7 号 (1916 年 11 月) の会報欄には 「二十二日, 教育 部主任文学士志賀品人氏来任す」 と報じられている. 志賀は, 赴任前の 1916 年 9 月 30 日から 3 日間にわたって青年会の夜学校を参観しており, その感想は 「大阪青年」 の翌月号に 「社会問題 を解決する教育」 と題して掲載されたが, 志賀は次のように述べて YMCA への期待を表明して いる. 「社会問題を解決する最後の鍵は教育であるとの素信を強うする事が出来た.」 「社会問題 の源を絶つには経済的施設と共に霊的満足を与へる様な施設をしなければ経済的社会問題は永久 に片付かぬ事となるパンのみで生きる事の出来ない人間に, パンばかり與ればよろしいと考へ て居る今日の社会政策家は短見と謂はねばならぬ.」 「勿論学校で其の就職口を紹介する場合もあ るが, 永久に其の世話をなし一方には霊的満足を與ふる様な系統的施設はまだ日本に見当たらぬ.」 「実力の修養」 も力を注ぎ, 「宗教的教育」 も 「職業紹介部」 も設け, 「霊的満足」 も与える施設 は, 「独り基督教青年会の能くする所である.」(5) ここには, 志賀の実践と思想の輪郭がすでに明 瞭に示されている. こうして, G. グリーソン (George Gleason) 名誉主事, 佐島啓助総主事の下で, 英語学校等 の教育部事業の組織化を進めるとともに, 「少年義勇団」 (ボーイスカウト) の事業も担当し, 翌 年からは, 機関誌の編集責任者も担当するようになった. 彼はこののち 1919 年 7 月末まで, 約 3 年のあいだ大阪 YMCA に勤務した. その間, 1917 年 12 月から翌年 11 月まで約 1 年は志願兵 として入営していたので, 実質的な活動は 2 年に満たない短いものであったが, その内容はその 後の活動の基盤となるものであった. さて, 志賀志那人は 1919 年 7 月大阪 YMCA を離れ, 8 月 1 日付で大阪市に新設された調査 係 (のち労働調査課) に赴任し, 労働調査に従事することとなった. いうまでもなく, 志賀が赴 任する前年の 1918 年には, 社会問題の拡大に対応して大阪府は救済課 (のち社会課), 大阪市は

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救済係 (のち救済課, 社会部) を設置し, 社会事業行政を本格的に開始したところであった. 春 には公設市場等の経済保護事業が開始され, 夏に起こった米騒動以後には大阪市では社会事業の 整備が本格化し, 大阪府では 10 月方面委員制度が設置された. 大阪市では 1913 年に池上四郎が 市長となり, 翌年東京高等商業学校 (現・一橋大学) 教授であった関一を高級助役に迎え, 第一 次世界大戦後に向けて着々と都市政策を進めていた. また, 大阪府でも 1913 年に大久保利武知 事が小河滋次郎を嘱託に迎えて, 救済事業研究会の活動とともに, 社会事業行政の計画が検討さ れ, この時期には先駆的な社会事業が生み出されている. 志賀はこうしためまぐるしい動きを, 自らの思想を問いながら近くで関心をもって見ていたことだろう. 1919 年には米騒動が一応収束したのち義捐金の残金が大阪府と大阪市に分配され, 大阪府で は方面委員後援会の設置が計画され, 大阪市では市民館の建設が計画された. こうして大阪市で は, 公立セツルメントとして日本で最初の市立市民館設立が具体化し, 議論が進められた. この 間に名称も検討を経て民衆会館から市民館へと改められている. 当初準備にあたり館長に予定さ れていた嘱託の島村育人が事情で退職することになった経緯を経て, 労働調査課にいた志賀は市 民館開設にあたり館長に推薦され, 人事等も全面的に任されることになった. 志賀は島村からの 交替の経過についてやや感情的な文章で回想しているが, そこには, この間の引き継ぎの難しさ が感じられ, 事後処理にも努力したことが窺えるものである(6). 1921 年 4 月, 大阪市立市民館長 (開館は5月. 1925 年に天王寺市民館開設に伴い北市民館と 改称) に任命された志賀志那人は, 大阪市社会部長となる山口正, 財団法人弘済会会長となる上 山善治と並んで大阪市の社会事業のリーダーとなった. 第一次世界大戦後の大きな社会変化, 社 会事業の新たな課題が明確になる中で, 社会学, 社会問題, 社会調査を専門とし, YMCA での 実践経験があり, 教育と文化の視点を合わせもち, 大阪市赴任後は労働調査の担当として大阪の 労働者の実態の理解も深めていた彼は, 最適の人物として市立市民館長となったのであった. それからの彼の活動は, 大阪の社会福祉史のみならず, 日本の地域福祉史, セツルメント史, 社会福祉理論史等においてよく知られるところである(7). その後の履歴を簡単に記しておくと, 市民館では労働者クラブ, 講演・講座, 相談事業の組織, 調査活動等セツルメントとしての内実 を形づくり, 1925 年には北市民館保育組合, 26 年には労働者のための愛隣信用組合等々を組織 した. また 1923 年には国際セツルメント連盟の継続委員となり, 1929 年には大阪のセツルメン ト活動家や府社会事業主事の川上貫一らとともに大阪セツルメント協会を設立した. なお, 志賀 は館長就任後も 1925 年 8 月まで調査課を兼務していた(8). 1935 年 1 月 26 日に関一市長が急逝し, それに殉ずるように山口正が退職したのに伴って, 同 年 5 月 24 日に後任の社会部長となった (その後何度か北市民館長事務取扱を兼務している). そ れからは, 市民館事業にも継続して直接取り組みつつ, 大阪市社会事業行政全体の発展を図り, 次第に戦時色が強まる中で熱心に理想の実現に向かって努力を続けたが, 1938 年4月に多忙を 極める中で倒れ急逝した. 多くの市民がその死を惜しみ, 葬儀は本人の希望どおり北市民館で行 われた. 死後すぐに遺稿集の計画がなされ, 1939 年に主な論文や随想を収録した 社会事業随

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想 が刊行されている. 志賀は裏表のない明るく温かく爽やかな人柄で多くの人を魅了し, 多く の組織を育て, 実践において大きな影響を与えた. 志賀志那人は, セツルメント運動, 社会事業行政に重要な役割を果たしただけでなく, 社会事 業理論形成の上でも, 大正デモクラシーから昭和初期社会事業論争においてヒューマニズムと協 同組合思想を軸とした実践的な理論を展開し, 当時の磯村英一や川上貫一らの 「唯物弁証法的社 会事業観」 と福山政一らの 「社会連帯的社会事業観」 の理論対立の中で, 現実的な理論的整理を 行い, 社会事業実践と理論とをつなごうとした. 志賀志那人にはキリスト教とヒューマニズムに もとづく人間観と世界観の思想的根底と, 五高から東京帝大時代に身につけた社会学的思考や社 会調査にもとづく実証的な問題解決への視点, 人間生活における文化や芸術の重要性への理解な どが統合されていた. それは北市民館での実践と関西におけるセツルメント運動の組織化への努 力とも結びついていた. 志賀志那人の思想には, 穏健な社会民主主義的な方向があり, それは社 会的立場の推移によって変化したが, 基調になるものは変わらなかった(9). 志賀の論文について は 社会事業随想 に収録されたものの他に 「社会事業研究」 や 「社会学雑誌」 等の関係雑誌に 掲載された多数の論文がある(10). 2. 大阪基督教青年会と志賀志那人の活動 志賀志那人の大阪 YMCA の在任期間は, 上述のとおり 1916 年 10 月から 1919 年 7 月までの 約 3 年であり, 大阪師団に一年志願兵として入営した期間を除くと, 活動はさらに短いものであっ た. しかし, この間の仕事は, 大阪 YMCA の事業の発展にとっての重要な役割を担ったもので あっただけでなく, 東京帝大で学んだことと, 東京帝大基督教青年会での活動を経て, 大阪基督 教青年会での労働者の生活にふれて社会と教育との接点で事業に取り組んだ経験は, 志賀にとっ て, その後の実践のかたちをつくり出すものであったということができよう. 次に, 大阪基督教青年会の歩みと在任中の志賀志那人の活動について見ておきたい. まず大阪 基督教青年会について簡単に紹介しておくと, 前史として 1880 年に浪花基督教青年会が澤山保 羅 (大阪教会牧師で天満教会を兼牧) を中心に天満教会において組織され, 1882 年に同じく天 満教会仮会堂で 「大阪基督教徒青年会」 が組織された. 会長は宮川経輝 (大阪教会牧師に赴任), 幹事長に古木虎三郎 (同じく天満教会牧師に赴任) が選任されている. これが大阪 YMCA の正 式の設立とされる. その後, 演説会, 各種集会や災害救援, 廃娼運動等活発な活動が進められた. 1891 年には 「大阪基督教青年会」 と改称され, 1893 年には青年会夜学校 (のちの英語学校) が 開設された. 1901 年に北米 YMCA 同盟からグリーソンが専任主事として来任し, 翌年には安 藤乙三郎が常任幹事, その後 1906 年には専任主事が設置され組織の体制が整えられ, 1903 年に は英語学校設立, 日露戦争での軍隊慰問事業等も実施された. YMCA では初期から濃尾大地震をはじめ災害救援に熱心であったが, 1909 年の 「北の大火」 に際して救援事業が大規模に展開され, そこから人事相談部が生まれて職業紹介事業が開始され 社会活動が本格化した. 災害救援活動はその後も進められ, また基督教婦人矯風会と協力して廃

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娼運動も展開された. こうして青年会の新たな発展が見られ, 1910 年には財団法人として認可 される。 1911 年には理科学院が開設, 1914 年には 1 月に教育部に図書室設置 (のち図書部), 6 月に宗教部に 「大阪青年伝道団」 が組織されて貧民伝道などが熱心に行われるようになり, 9 月 にはアメリカのボーイスカウトにならって日本のボーイスカウトの始まりである 「少年義勇団」 が設立された. また体育活動の近代化, グループワークの基礎となるインナーサークルの組織な ど事業が発展していった(11). 志賀志那人は 1916 年 10 月 1 日に大阪基督教青年会主事となり教育部主任として活動を開始し た. 着任した年の 5 月に機関誌 (月刊) 「大阪青年」 が創刊された (機関誌としては 1889 年に 「基督教青年」 が創刊されたが短期間で終わっていた). 翌年初めには理科学院中等科, 高等予備 科, 英語学校予科も増設され, 学生も講師も拡充され, 事業は新たな発展の最中であった. 1917 年の大阪 YMCA の組織は総主事 (佐島啓助), 名誉主事 (G. グリーソン), 教育部, 会員部, 体育部, 宗教部, 社会部, 学生部, 経理部, 書記, となり, 職員はこの間に増加し, 1918 年末 には主事 11 名, 名誉主事 2 名 (ブリッジマンが加わる), 副主事・書記 9 名合計 22 名となって いる(12). 彼は教育部の中心となってこうした事業を進めるとともに, 講演会等の企画も行った. そして機関誌にも論説や随想を執筆し, 1917 年 1 月からは総主事の佐島啓助にかわって 「発行 兼編輯人」 となって巻頭言も書くようになり, また, 顧問部に移った竹中宣治に代わって少年義 勇団の団長ともなり, 「新進気鋭の新指導者」 として期待されている. しかし, 志賀は約 1 年間のエネルギッシュな活動を中断して, 1917 年 12 月 1 日に志願兵とし て歩兵第八聨隊 (第九中隊) に入営することになった(13). 彼はあとの業務を東京帝大 YMCA で 共に活動した上山善治に託した. 上山は 10 月 21 日に赴任し 11 月から業務を引き継いでいる. 翌年 11 月に志賀が退営したあと, 上山は大阪市に招かれて赴任することになる(14). 1 年近くし て復職した志賀は, またそれまでと同様に教育部の仕事に取り組むとともに, 機関誌の編集等に も再び当たることになった. 翌月の 「大阪青年」 の巻頭言には 「志賀主事亦退営し教育部に帰り 各事業漸次緒につき…」 と記されており, 彼の不在が大きかったことがわかる(15). 宗教部での活動をみると, 1918 年 12 月には, 12 月 6 日の祈祷会 (毎週金曜日) では 「デモク ラシーと現代青年」 と題して講演 (出席 112 名), 12 月 21 日の宗教部土曜会のクリスマス会で は 「天使と悪魔」 の話をしている. 記事には 「志賀主事の西洋思想と東洋思想の上に現はれたる 天使と悪魔の比較研究は甚だ痛快で一同非常なる興味を以て拝聴いたしました」 との感想があ る(16). また 12 月 24 日の青年会クリスマス祝賀会では聖書朗読 (ルカ 2:1-12) を担当してい る(17). 翌 1919 年 1 月 21 日の 「基督教大阪青年伝道団第四回年頭告白会」 では釘宮辰生牧師が 「火焔の人」 と題して説教を行っているが, 志賀はその前の奨励を担当している(18). この年の少 年部報告には, 「信仰会には三浦主事, 音楽は長井先生, 運動は中村医学士, 講演会には志賀文 学士, 園芸は大石農学士, 読書研究外国通信はブリッヂマン先生, 柔道は人見先生, 剣道には大 日向先生をお願い」 していることが書かれているが, 志賀が幅広く青年会の事業に携わっていた ことが分かる(19).

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基督教青年会では, 1918 年には人事相談部が始まり, 釜ヶ崎での教育活動や立志日曜学校の 組織 (今宮飛田), 「細民子弟招待クリスマス」 などが実施され, バイブルクラスでは賀川豊彦ら の講演があった. 1919 年になると 2 月にはホームズによる人種差別撤廃問題の講演, 2 月 16 日 の日曜倶楽部では, 石井記念愛染園主事の冨田象吉の 「南部大阪の貧民窟」 と題する講演(20), 3 月に府衛生課長で難波病院長の上村行彰の講演, 立志日曜学校の 「第一回父兄母姉招待会」 の開 催, 大原社会問題研究所の高田慎吾の少年裁判所の講演, 4 月には宗教部の 「盲人招待会」 の開 催と好本督, 熊谷鉄太郎牧師の講演などがたて続けに開かれている. また, 退職の翌年 2 月から は志賀と親しかった弁護士でのち代議士となる古野周蔵が担当して法律相談所が開始されている. 志賀はこれらの企画にも関与していたと考えられるが, こうした交流によっても, その後の方向 を考えたのではないだろうか. 志賀の入営中には米騒動が起こり, 青年会事業全体にも社会問題への関心が広がっていた. 社 会事業に関しては, 1913 年に始まった小河滋次郎の主宰による救済事業研究会が毎月開催され ていたが, 当時の出席者には YMCA からはグリーソン (名誉主事), 大石泰蔵 (学生部), 菅野 茂八郎 (立志日曜学校幹事) の名が僅かに見られるが, 志賀の名は見られない. 業務面からも個 人としても関心の基本は教育にあったと考えられる. しかし, 退営して YMCA に復帰してから の志賀の心中には, 教育への視点を基本としながらも, 社会的な課題に本格的に取り組む希望が 大きくなっていったと思われる. また, 志賀は聖公会に属していたが, この時期から普及福音教 会に参加するようになり, キリスト教信仰の内的変化も経験しながら, 彼は大阪市が開始した社 会調査の先駆的事業や社会事業の多様な展開と, そこに働く人たちを見て, 自らの役割を見出し たのだろう. 大阪市はちょうど調査係の主担となる人を探していたところに志賀の希望が一致す ることとなり, やがて志賀は上山の推薦によって大阪市に赴任することになった(21). この経過に ついて上山は次のように記している. 「私は志賀君が帰りましたので, 志賀君に椅子を返して再 び東京へ帰るつおりでゐましたが, 亡くなられた小河先生やその他の人達からいろいろ御忠告も ありましたので, 大阪に止まることになつたのであります. …調査方面を指導する適当な人がゐ なかつたのでこれを私の方へ御相談があつたのであります. その頃どういふ心境の変化か YMCA に居つた志賀君が何かさういふ方面に行つて見たいと思ふといふ話を私に洩してゐまし たので, 私は早速 YMCA の幹部にお願ひして, 労働調査課の嘱託として志賀君を貰つたのであ ります. これが志賀君が大阪市に這入つた動機であります.」(22) 志賀は 「大阪青年」 1919 年 7 月号の巻頭言の執筆を最後に, 残務を整理して 7 月 28 日に YMCA を辞し, 8 月 5 日付で大阪市役所に赴任することになった. 同誌 1920 年 1 月号の 「職員 異動」 欄には 「教育部主任志賀志那人君は七月廿八日, 学生部主任大石泰蔵君は九月五日, 小山 田正直君は九月六日何れも本会主事を辞して志賀氏は大阪市役所に, 大石氏は大正日々新聞社に, 小山田氏は東京市役所に何れも就職せらる」 とある(23). 退職後も, 志賀も上山も大阪 YMCA 会 員として在籍しており, 志賀は 1920 年 4 月 11 日に日曜倶楽部で 「人の縄張りへ」 と題する講演 を行っている. 同年末の 「基督教青年会会員名簿一覧」 には, 志賀は北区堂島大阪市役所労働調

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査課, 弘済会事務長 (のち会長) となる上山善治は北区堂島濱通大阪市役所弘済会内と記されて いる. 当時の会員には大阪での志賀のキリスト教信仰に影響を与えた普及福音教会牧師の青木律 彦, 石井記念愛染園の小学校長の庵原嘉十郎らの名も見られる(24). 3. 「大阪青年」 の論考について  書かれた背景と種類 機関誌 「大阪青年」 は, 1916 年創刊時の目次は社説, 宗教, 講演, 学術, 会員, 海外報, 会 報, ローマ字欄, 英文欄 (グリーソン), 広告となっており, 10∼12 頁程度であった. 志賀が編 集を担当した 1917 年以降は, 目次は当初のように細かく分かれていないが, 巻頭言 (社説), 論 説などのほか各部報告, 会計, 会報, 英文欄, 広告等があり, 毎号グリーソンによる英文社説が 掲載されている. 頁数は 8∼16 頁である. その後戦時下の 1942 年に休刊となった後, 戦後再刊 され今日に至っている. 冒頭に述べたように, 大阪基督教青年会で志賀志那人が書いたものについては, 機関誌 「大阪 青年」 (1916 年創刊) が YMCA 以外に所蔵されていないこともあり, これまで明らかにされて こなかった. 大阪市に赴任する前と赴任直後の志賀志那人の思想形成と初期の活動を示す文献は, 森田康夫氏が志賀の二つの 「軍隊日記」 を公表し, そのプライベートな心情を含む内容を考察し て思想的位置づけをされているが, ここに収録する志賀の論考はそれを補う意味をもつものであ り, その思想形成過程を社会的発言として具体的に示すものである. いずれも短い論であるが, その後の志賀の活動と社会事業思想を知る上で不可欠な内容をもっ ている. この時期の志賀の論考には, まだ大正末期からの思想的確立前の特徴があり, 社会学の 基礎と社会問題への関心とともに, キリスト教にもとづく人間観や教育的視点が強くみられ, も ともと社会と教育の接点への関心が濃厚であったことがよく示されている. それは, 志賀志那人 の思想の原点であり, その後の社会事業, 教育, 文化を結ぶ思想展開への模索の過程でもあった. この点は, 志賀のソーシャル・セツルメント運動への実践の深まり, 社会改革と社会事業への人 格的で協同組合的な志向をもつ論理と倫理を考える上で, 実践面からも理論面からも示唆的なも のである. 志賀志那人の大阪基督教青年会時代の論考は, 赴任時に書かれた夜学校の視察記が 「大阪青年」 1916 年 10 月号に掲載されたものが最初である. その後, 1917 年 1 月以降総主事の佐島啓助にか わって機関誌の発行兼編輯人となったため, ほぼ毎号のように執筆がなされており, 同年 7 月号 からは署名入りで巻頭言も多く書いている. 他に編集者の立場上, 教育部の記事の他に, 無署名 の巻頭言や記事等, 彼が執筆したと思われるものがあるが (巻頭言 「何をか基督教青年会と謂ふ?」 1917 年 1 月号, 無題, 1917 年 3 月号など) 現在のところ確定することはできていない. なお, 「大阪青年」 は創刊後 9 号までは号数が表示されているが, その後 1917 年 4 月号からは年月のみ の表示となっている. 1917 年 12 月から約 1 年間入営していた期間は, 翌年 1 月に通信として掲 載されたものだけであり, 1918 年 12 月の復帰報告文まで中断している. そして 1919 年 1 月号

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から退職までのあいだ, 5 月号を除いて毎号巻頭言を執筆した. 論考には, 巻頭言, 論説, 講演・講座の記録, 随想類があり, 巻頭言がもっとも多い. また内 容を見ると, 第一に, 社会事情や社会問題を論じたもの, 第二に信仰の問題や倫理について論じ たもの, 第三に, 入営時に執筆した軍隊事情や兄弟の死など身辺のことを綴ったもの, 第四に, 編集者として執筆した無署名の報告記事等がある. いずれも, その後の社会事業論のように整理 された理論的展開は見られないが, 論旨は明快であり, 随想的な内容はその後のものと共通の面 が見られる. また, この間の論調には少しずつ変化が見られ, 大阪市時代へとどのように変化し てゆくかを読み取ることもできるだろう.  収録文献解題 (1916 年 10 月∼1919 年 7 月, 22 点) 収録した文献は以下の 22 点であり, 署名のあるものに限った. ここに収録しなかったが, 他 に志賀が書いた短い記事および書いたと思われる記事がかなりある. これらは現在確定すること ができないが, 基督教青年会での仕事を理解するときには重要なものがある. なお 「大阪青年」 1917 年 8 月号は大阪 YMCA 所蔵原本は欠号となっており, 刊行されたか合併号か今のところ 不明である. 志賀の氏名は, 大阪 YMCA 時代は 「大阪青年」 等での表記は多くは志賀品人となっているが, 機関誌の発行人の氏名等, 「志那人」 と記されている場合もある. その他の場合は 「志賀」, 「志」, 「士心」 などがある. 退職後は 「品人」 は用いられなくなり, 日曜倶楽部で講演した時の記録も 志賀志那人と記されている. 北市民館時代には 「志賀都」 などのペンネームも用いている. 志賀 志那人の名は, 志賀家と那須家から一字ずつとったものであり, 履歴書等も 「志那人」 であるが, 通称として品人を用いたと考えられる. なお, 文中に差別語が用いられているが, 文書の歴史的意味からそのまま掲載した. 1916 年 史料 1 「社会問題を解決する教育」 (志賀品人) 「大阪青年」 6号, 1916 年 10 月 この短文は, 解説で述べたように志賀が大阪基督教青年会に赴任するにあたって夜学校を参観 した感想として書かれたものである. 「社会問題を解決する最後の鍵は教育である」 との見解が 示されるとともに, 青年会の事業への期待と抱負が語られている. 史料 2 「基督教の形式的飽満」 (志賀品人) 「大阪青年」 8 号, 1916 年 12 月 赴任して伝道に参加するようになった時期の執筆であり, YMCA の第二期協同伝道に対する 客観的な視点からの批判が記されている. 未信者への働きかけが不十分であり, 伝道の形式が人々 の心に届いていないこと, そして, 飢えて福音を聴こうと待っている現代人に 「平凡に信ずる所 を語り, 教える所を実行」 することを主張している. その後の志賀の歩みを予感させる内容であ る.

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1917 年 史料 3 「廣告の研究 (一)」 (志賀品人) (講演) 「大阪青年」 (10 号), 1917 年2月. 青年会での講演として話したもので, 前号掲載予定だったが紙面の都合でこの号になっている. 志賀志那人の東京帝大での卒業論文の題目は 「広告の社会学的観察」 であり, 自らの研究内容に もとづくものである. 広告研究の出発点として社会学の原理によって応用科学として捉える研究 の視点が見られ, 志賀の初期における社会への関心の持ち方が見られる. (一) とあり途中まで であるが, 続編は見当たらない. 史料 4 「互に罪人互に義人−たまねぎの皮を剥ぐ人々に−」 「電位 ポテンシヤル の差」 (志賀) 「大阪青年」 8 号, 1917 年3月, 2 頁. 信仰にかかわるエッセイであるが, 前者ではキリストの十字架を見上げつつ, 隣人と社会に生 きること, 私たちが罪人であると同時に義とされていることの根底にある十字架への信仰, 神の 愛が語られている. 後者は, 実弟が朝鮮で死去する, その時の思いに重ねて, 信仰がポテンシャ ルの関係であること, 聖霊の働きと自覚の問題が論じられている. 弟の死のあとの思いについて は次号でより具体的に記されている. 史料 5 「多数のニイド」 (志賀) 「大阪青年」 1917 年 4 月, 2−3 頁 この論説は, 人々の社会的要求と 「社会事業」 を取り上げた最初のものと考えられる. 民主的 であることは, 多数のニードを洞察して心の奥に触れるものでなくてはならないこと, 社会事業 は多数のニードに向かってなされるものであり, 従来の慈善事業とは異なることを述べるととも に, 大阪 YMCA の事業が社会的ニードによって展開されてきたものであり, 民主主義にもとづ いて下から上に向かう力に支えられたものであることを力強く論じている. 「社会事業」 という 用語はここでは広い意味で用いられているが, その後の彼の方向を予見させるものである. 史料 6 「若き弟の遺骨を携へて」 「大阪青年」 1917 年 4 月, 9 頁. 2 歳年下の弟である亮人が朝鮮で逝去した時の経験を記したものである. 短文であるが, 志賀 の悲しみと情感豊かな筆致が印象的であり, 「自分の生涯を一変せしめるとまで感ずる程の強い 印象」 は, その後の志賀の生き方につながっている. 史料 7 「秩序と羞恥」 (士心) 「大阪青年」 1917 年5月, 2−3 頁. 5 月 20 日に宗教部の 「第三週年紀念親睦会」 で行った講演 「社会生活に於ける羞恥の意義」 にもとづくものと思われる. 儀礼の根本観念としての秩序と羞恥を論じているが, 群集心理と公 衆道徳の問題, 公共の施設における羞恥の保持へと展開されていて, 志賀の社会教育への問題意 識が鮮明に見られる.

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史料 8 「三種の敬−金曜講話」 (志賀) 「大阪青年」 1917 年 5 月, 3−4 頁 他者を尊敬すること, 自己を尊敬すること, 事を尊敬することの三種の尊敬を論じ, その上で 最後にすべては神を敬することに帰すこと, 神によって与えられた事物を尊敬することによって 使命の実現となることを明快に論じている. 会誌には金曜講話としては定期的なものは見当たら ないが, 青年会では金曜の講演会も随時行っていた. なお, 同号には 「社会への寄與−社会部」 の記事がある. 少年義勇団名で書かれているが, これは増田健三主事 (副団長) か当時団長となっ ていた志賀かいずれかの執筆と思われる (同 11−12 頁). 史料 9 「夏の讃美」 (志賀) 「大阪青年」 1917 年7月, 1頁, 巻頭言 志賀が発行兼編集人となった 1917 年の 1 月号からの巻頭言は無署名であるが, この号から入 営までのあいだ志賀が署名入りで執筆している. この巻頭言には YMCA の夜学校の生徒たちや 自らの仕事を含めて, 働く人々の努力への尊敬の念が溢れ, 富裕な階層への批判も見られる. 史料 10 「両親を安んじ奉り」 (志) 「大阪青年」 1917 年7月, 2頁 同号の巻頭言とも関連するが, 青年会の夜学校生徒の調査結果から, 多くが家族を助けて働き, 貧困の中で父母を思う心があり, 現実を忘れない祈りの心が神を思う心に通じていることを簡潔 に説いている. 家族への愛から神への愛を説く論法は山室軍平の説教とも共通している. 史料 11 「事を始める心」 (志賀) 「大阪青年」 1917 年9月, 1頁, 巻頭言 この巻頭言にも, YMCA で学ぶ人々への思いが綴られている. YMCA の教育部ではこの年 の夏には高等英語等の夏期講習会 (386 名), 英語学校, 中等科の夏期補習教育 (280 名) があり, 9 月からは英語学校, 中等科, 高等予準科, 関西商工学校工業予科入学予備, ドイツ語の各科 (計 708 名) の新入学生を迎えている. 史料 12 「死を与ふる神 生を与ふる神」 (志賀) 「大阪青年」 1917 年 10 月, 1頁, 巻頭言 この巻頭言には, 志賀の信仰のかたちが端的に言い表されており, 次号へと続いている. 史料 13 「我が父」 (志賀) 「大阪青年」 1917 年 11 月, 1頁, 巻頭言 生活に裏づけられた人格的存在としての神. 「わたしは道であり, 真理であり, 命である」 と 言う主イエス・キリストのみ言葉において, 生命は 「唯だ生るゝもの」 であり, 「神は私を活か す根本的生命である」 との証がなされ, 当時の合理的な神学のあり方への批判がある. なお, 11 月に志賀は入営し, 12 月号に 「教育部主事文学士志賀支 (ママ) 那人氏一年志願兵として歩兵 第八聯隊 (第九中隊) に入隊し其後任として文学士上山善治氏就職」 と記されている (9 頁). 上山は 10 月 21 日に教育主任として赴任した (11 月号 「個人来往」 欄, 11 頁). 志賀は 10 月 17 日には青年会の奈良旅行の準備等にもあたり, 上山赴任後も 11 月中旬に伯父の葬儀のため約 10

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日間帰郷するまで勤務し, 12 月 1 日に入営した (12 月号, 11 頁). なお, この年のクリスマス には青年会で釜ヶ崎の 「細民子弟」 招待の祝会が最初に開かれている. 1918 年 史料 14 「カーキ色案山子物語」 (S志願兵) 「大阪青年」 1918 年 1 月号, 2−3 頁 12 月 1 日に第八連隊に入営した様子が客観的な筆致で詳しく描かれている. ここでの志賀の 入営への思いはやや表面的なものだが, その経験は 「軍隊日記」 に詳しく綴られている. 入営時 は第二次世界大戦中であり, 夏には米騒動が起こっている. なお志賀入営後の少年義勇団は増田 主事が指導している. この間の志賀の動きを見ると, 社会事業よりも教育に関心の軸があったと 思われる. 史料 15 「無恙帰りました」 (志賀品人) 1918 年 12 月号, 4−5 面 第 1 回入隊から戻ってきて最初に掲載された報告である. 当時の志賀の軍隊に対する理解の一 端が見られるが, 信仰の問題や YMCA での仕事, 自らの生き方の問題なども背後にあったよう に思われる. 同号の巻頭言に復職の報告がある (1 頁). なお, その後志賀は大阪市赴任後に 2 回目の入営をしている. 1919 年 史料 16 「舞台は依然代るは役者」 (志) 「大阪青年」 1919 年 1 月号, 1 頁, 巻頭言 復帰後志賀は再び巻頭言を執筆している. 第一次世界大戦後を民衆の歴史として, 青年会主義 をヒューマニズム的民主主義, 理想主義, 政治の根本主義としているが, 「市民の利益と教養と の為めに」, 「青年会不要時代」, 「民の時代」, 「天国の現出」 といった言葉には, 宗教より社会的 な志向が見られる. 史料 17 「はやりすたり」 (志) 「大阪青年」 1919 年 2 月号, 1 頁, 巻頭言 1916 年の 「基督教の形式的飽満」 と同様の論調が見られるが, 第一次世界大戦後の 「世界改 造」 の議論のもつ問題を指摘して, 流行に流されずに地味に福音を伝えることが大切であること を述べ, イエスの教えの根源に戻って 「人の心には霊の改造」 「人の社会には愛」 を訴えている. この巻頭言と関連して同年 4 月 6 日には 「流行に就て」 と題した日曜倶楽部の講演を行っている. この志賀の思想の原型はその後も持続しつつ, 市民館長時代に社会的な視点を加えて新たな展開 を見せる. 史料 18 「呪ふべき丁稚制度」 (志) 「大阪青年」 1919 年 3 月, 1 頁, 巻頭言 丁稚制度という隷属的な労働形態に対して, 日々の教育部での多くの生徒を通して把握した実 態にもとづいて, 社会問題が精神問題でもあり, 少年たちの 「人としての権威」, 「発達すべき少

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年として待遇」 を基本とすべきことと, 丁稚制度そのものの廃止を訴えている. やはり社会運動 への期待よりも, 青少年への教育の視点や人格的な主体形成への期待が濃厚に見られる. 史料 19 「渋い顔窄める肩」 (志) 「大阪青年」 1919 年 4 月号, 1 頁, 巻頭言 ここでは, 第一次世界大戦後の戦後不況や国際軍縮会議等の状況にあって, 青年への期待が語 られているが, 志賀自身の時代からの影響, 内面の変化の刻印がある. 史料 20 「内なる人は日々に新なり」 (志) 「大阪青年」 1919 年 5 月号, 1 頁, 巻頭言 この巻頭言にも時代に立ち向かう青年への訴えとともに, 自身の活動への葛藤が信仰とかかわっ て率直に記されている. 史料 21 「日誌の端より」 (志) 「大阪青年」 1919 年 5 月号, 5 頁. 日記の一部を載せたもので, 紙面に一段空きができたために埋めたものと思われるが, 状況の 中での志賀の祈りが見られる名文である. 史料 22 「羊頭を掲げて狗肉を売らん」 (志賀) 「大阪青年」 1919 年 7 月号, 1 頁, 巻頭言 この巻頭言は, 4 月, 5 月の抽象的な煩悶に似た文章を経て, 労働問題, 賃金と生活の問題, 「神様の問題」 に対して 「飯の問題」 は 「命の問題」 であることを述べ, キリスト教伝道や 「指 導」 のあり方が厳しく批判されている. この時期に志賀は自由キリスト教的な信仰を強めていっ たと思われるが, 教育への関心を保ちつつ, 社会問題, 労働問題への取り組みへと自らの方向を 定めていった背景が示されている. 彼はこの巻頭言の執筆を最後に, 7 月 28 日に YMCA を辞 し, 8 月 5 日付で大阪市役所に赴任することになった. 注  「開拓者」 掲載のものは 1914 年 2 月から 1916 年 9 月にかけて評論 6 篇と訳文 (志賀生) 1 篇があり, 社会政策への関心も見てとれる. 森田康夫編 「史料・志賀 軍隊日記 」 は ① 1917 年と ② 1919 年から なり, 志賀志那人研究会 (代表・右田紀久恵) 編 都市福祉のパイオニア・志賀志那人 思想と実践 和泉書院, 2006 年, 所収. 志賀志那人 社会事業随想 (志賀志那人氏遺稿集刊行会, 1939 年, 250 頁) は, 戦後増補版が再刊された ( 社会事業随想 大阪市立北市民館後援会, 1968 年, 288 頁). また 社 会福祉古典叢書 8 山口正・志賀志那人集 (柴田善守解説) 鳳書院, 1981 年, 戦前期社会事業基本文献 集 48 巻として 志賀志那人 「社会事業随想」 (永岡正己解説) 日本図書センター, 1997 年で復刻され ている. 志賀の詳細な伝記として森田康夫 地に這いて―近代福祉の開拓者・志賀志那人 大阪都市協 会, 1987 年があり, 五高, 東京帝大時代の活動にもふれられている.  東京大学文学部社会学研究室開室五十周年記念事業実行委員会編 東京大学文学部社会学科沿革七十 五年概観 同, 1954 年, 78 頁.  荒木亨編 東京大学基督教青年会年表附解説:明治元年 (一八六八) −昭和二十七年 (一九五二) には, 志賀が主事らとともに会議に出席していることが記されている (東京大学基督教青年会, 1957 年, 82 頁). 当時のことをよく知っている伊藤悌二は次のように回想している. 「氏は基督教青年会館の舎監

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代理をつとめ, その他二三の仕事をして五十圓程の収入を獲得して学資金に充てゝゐた. ……以上のや うにして苦学生活を送つてゐた当時, 記者はよく基督教夏期大学が京都同志社大学や御殿場の東山荘な どで開かれた時, 同大学の事務をとつてゐる氏の姿を発見して, よく天下国家を論じたものであつ た. ……」 (伊藤悌二 「志賀志那人氏の故郷を訪ねて」 「子供の世紀」 16 巻 9 号, 1939 年 9 月, 7 頁). また, 共に活動した上山善治もエピソードを記している (「故志賀志那人氏を偲ぶ会」 「社会事業研究」 26 巻 6 号, 1938 年6月, 102∼103 頁ほか). その他 大阪 YMCA 100 年史 (1982 年) には 「教育部 には, 東京大学基督教青年会で活躍した志賀品人がいた」 と記されている (185 頁).  「大阪青年」 第 7 号, 1916 年 11 月, 8 頁 (会報欄) および北市民館旧蔵履歴書. 志賀志那人の年譜に ついては, 森田康夫による 「志賀志那人年譜」 (志賀志那人研究会編, 前掲書) がもっとも詳細なもの である.  「社会問題を解決する教育」 「大阪青年」 第 6 号, 1916 年 10 月, 5 頁.  志賀志那人は, 市民館の計画に携わり, 創立業務半ばで退職した島村育人について, 追悼集の中で 「君は大阪をやめて東京に行かれてからも時々私に手紙を呉れました. それにはよく, 親は無くとも子 は育つと書いてありました. 市立市民館が君によつて創立事務を開始せられ, 後私が館長になつて兎も 角やつてゐると云ふ意味であつたらうと想います.」 と書き, 珍しく厳しい口調で島村のエピソードに ついて回想している (島村八十子編 愛真 1932 年, 83∼85 頁) 島村はその後浜寺幼稚園, 羽衣女学 校を創設し, さらに東京で職業紹介所の業務に従事した. この経過については, 村島帰之や高尾亮雄ら も回想している.  志賀志那人の社会事業理論史上の位置づけは吉田久一 社会事業理論の歴史 一粒社, 1974 年, 吉田 久一・一番ヶ瀬康子・小倉襄二・柴田善守 人物でつづる近代社会事業の歩み 全社協, 1971 年, 永岡 正己 「志賀志那人の生涯と思想」 ( 志賀志那人 「社会事業随想」 日本図書センター, 志賀志那人研究 会編. 加筆改稿したものを前掲書に収録) など.  志賀志那人履歴書 (北市民館旧蔵) 及び, 志賀志那人研究会編, 前掲書所収年表等参照.  永岡正己 「戦前の社会事業論争」 (真田是編 戦後日本社会福祉論争 法律文化社, 1979 年) 他参照.  志賀の著述には論説, 随想類が多く, 宮川松安と組んだ浪曲台本や藤井清水と組んだ作詞も評価され るものである. 市民館長就任後の学術論文として, 「ソオシヤル・セツルメントの起源及其の発達」 (「社会学雑誌」 第 4 号, 日本社会学会, 1924 年 8 月), 「ソオシヤル・セツルメントの精神と其の経営」 (同 6 号, 1924 年 10 月) は理論形成として重要である.  世良田元編 (奈良伝監修) 大阪 YMCA 史 大阪キリスト教青年会, 1969 年及び滝口敏行編 大阪 YMCA 百年史 大阪キリスト教青年会, 1982 年. 「大阪青年」 1918 年 12 月号, 1 頁. 同上, 1918 年 3 月号, 7 頁. 志賀入営のことが記載されている 同上, 1917 年 11 月号, 11 頁 「個人来往」 欄および 12 月号, 9 頁 「教育部」 記事. 上山は教育部主任 であるが, 主要な業務には登場せず, あくまでも志賀の不在のための一時的なものであり, 上山も志賀 復帰後は東京に戻る予定であった. なお少年義勇団は増田健三主事が団長となっている. 同上, 1918 年 12 月号, 1 頁. 同上, 1919 年 1 月号, 8 頁.  同上, 1919 年 1 月号, 6 頁 (会報欄)  同上, 1919 年 2 月号, 8 頁. 釘宮辰生牧師は当時大阪西区のメソジスト教会大阪両国橋教会牧師. 早 くから巡回伝道で知られ, のち, 日本メソジスト教会監督, 関西学院教会牧師ともなった. YMCA で も多く説教を行っている.  同上, 1919 年 6 月号, 6 頁. 三浦懿美は 「社会事業研究」 にも少年部の活動を報告している. のち大 阪基督教青年会総主事となった.  同上, 1919 年 3 月号, 7 頁. 富田象吉とは, 大阪市赴任後, 大阪社会事業連盟や大阪セツルメント協 会でセツルメント運動の発展と公私社会事業の連携の中心となって取り組んだ.

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 前掲 「軍隊日記」 に入営中の心情の変化が記されている. 大阪児童愛護連盟の伊藤悌二はキリスト者 の立場から 「志賀さんの信仰はユニテリアン程度であつたと思います」 と述べている. 志賀は聖公会か ら大阪普及福音教会 (当時青木律彦牧師. 普及福音教会は 1885 年にドイツの W. シュピンナーによっ て日本伝道が開始され, 「自由主義神学」 「新神学」の流れをつくった. 当時は京都が拠点であったが, 大阪でもその後も続いた) へと移り, そこから 「大阪愛生教会」 を設立しているが, 志賀はそこからも 離れたようである (「故志賀志那人氏を偲ぶ会」 「社会事業研究」 1938 年 6 月号, 113 頁, 基督教年鑑 日本基督教聯盟, 各年版). しかし, 吉田源治郎 (四貫島セツルメント) によれば, 志賀は市民館で聖書研究会をつくるため吉田 に応援を求め, 「市社会部長になつて後も, 大阪基督教社会事業協会の新年祈祷などへも顔出しをして 居られた」 という. 吉田は 「氏の如き有能な人物が若しキリスト教社会事業界で働いて居られたらどん なにか異彩をそえられたらう」 と述べている. また, 志賀が, 我々が出来る 「社会事業は, …一人の箇 人が一人の箇人に心からの親切をつくすと云うことの外にはないと云ふ気がする」 としみじみと述懐し たことも記している (吉田源治郎 「何を再検討するか−社会事業の現業として考へるいくつかのこと−」 (「新興基督教」 114 号, 1940 年 3 月, 10∼11 頁).  「故志賀志那人氏を偲ぶ会」 「社会事業研究」 26 巻 6 号, 1938 年6月, 102∼103 頁. ここには当時の 大阪市の救済課の設置や山口正, 上山, 志賀が中心となってゆく経過も語られている.  「大阪青年」 1920 年 1 月号, 「職員異動」 6∼7 頁.  「大阪青年」 1921 年 1 月号付録 「基督教青年会会員名簿一覧」 1∼8 頁. その後, 昭和初期には志賀志 那人の名は見られない. 注に挙げた史料・文献以外の主な参考文献 「大阪青年」 (大阪基督教青年会) 各号 (1916 年∼1942 年) 救済事業研究会 救済研究 , 社会事業研究会・大阪社会事業連盟 社会事業研究 各号. 大阪市立市民館年報 , 同北市民館年報 , 「木賃宿の一考察」 「個別指導」 等の北市民館刊行物. 北市民館史料 (大阪市社会福祉研修・情報センター所蔵) 北市民館の五十年 大阪市立北市民館, 1971 年. YMCA 史学会編集委員会編 新編・日本 YMCA 史 日本キリスト教青年会同盟, 2003 年. 奈良常五郎 日本 YMCA 史 日本 YMCA 同盟, 1969 年. 永岡正己 「大阪市 「社会部報告」 とその周辺」 社会事業史研究 第 3 号, 1975 年. 永岡正己・井上和子 「北市民館の歴史とその意義―閉館によせて」 地域福祉研究 11 号, 1983 年. 付記:史料閲覧に際しましては大阪YMCA事業統括部のお世話になり, また掲載のご許可をい ただきました. 記して感謝申し上げます.

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志賀志那人の主要初期論考収録

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参照

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