増野悦興の教育活動 : 新島襄の遺志の体現
著者 滝澤 民夫
雑誌名 同志社談叢
号 32
ページ 1‑42
発行年 2012‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013065
増野悦興の教育活動一
増野悦興の教育活動 ─新島襄の遺志の体現─
滝 澤 民 夫
はじめに
一八九三年秋に北米から帰国後、新神学論争のなかで霊南坂教会牧師、安中教会牧師を相次いで辞任した増野悦興は、岐阜中学校・金沢中学校英語教員などを経て、一八九九年四月に埼玉県第三中学校(川越中学校)校長に就任した。同志社英学校とアンドヴァー神学校・バンゴア神学校で体得した「自由・自治・自活」の精神を青年教育の場で実践しようとしたのだが、不運にも三年で退職に追い込まれた。しかしその後も、東京で青年教育のための成民会を立ち上げ、雑誌『成民』を刊行し、『丁酉倫理会倫理講演集』などに教育論などを掲載して、青年教育を志した。晩年は同仁教会の牧師として秋田伝道などに従事しながら、四六歳の生涯を終える増野の胸中には、恩師新島襄の遺志の体現が常に去来していたと考えられる。本稿では、キリスト教の布教と青年育成をめざした教育活動のはざまで揺れつつも、『高貴なる人格』の形成を目指した増野悦興の、埼玉県第三中学校(川越中学校)での教育活動とその意義について検討する。
増野悦興の教育活動二 一 岐阜中学校・金沢中学校から東京府教育会附属小学校英語教員伝習所 一八九三年九月七日~八日、コネチカット州のハートフォード神学校で勉学中の安部磯雄のもとに立ち寄って、メイン州のバンゴア神学校から帰国の途についた ((
(増野悦興は、翌九四年一月に、旧知の竹越與三郎の推挙で霊南坂教会牧師に就任した。招聘に際し増野は、「余ハ伝道ヲ以テ己レノ天職ト信ズル ((
(」と述べていたが、九月には辞任し、翌九五年一月に安中教会牧師に転出後、同年一一月に教育界に身を転じた。この間、九三年一〇月から九五年一月まで、『基督教新聞』、『六合雑誌』、『聖書之友雑誌』などに「新 ニューイングランド英洲」の紹介や米国での新神学運動の動向・解説、時評などを執筆している ((
(。北米社会で見聞した公徳心の篤い敬虔な人びとの信仰生活を根底に、「有神的存在者の実在が信仰的実験の中心点であり、基督教の内 コンテンツ素である諸事実はここから出てきている ((
(」とした増野は、教役者自身の内なる信仰心の吟味が急務だと主張するが、聖書無謬論などとのはざまで、慰留を振り切って「天職」を辞した。
一八九五年一一月二六日付けで、増野は岐阜県立岐阜中学校に嘱託英語教員として赴任する。校長蔵原惟郭の「懇篤なる招請」をうけてだが、その経緯は分かっていない。ただ、熊本バンドの一員で、同志社英学校で学んだ蔵原もアンドヴァー神学校で学び、増野の五年前にバンゴア神学校に在籍しており、そうしたよしみでの招請であったと考えられる ((
(。
着任当初の増野は「我一生を教育者と云ふ位置に委ねよ─と云ふ観念」をもったとして、「教育と云ふ事業は私に最も適したる事と思ひます、中にも尋常中学の教育は一層よく適したる事と存じます」「上に大学あり種々専門学校等高等の学を教ゆる処もあれとも国民教育の重要な点としては此の中学の上に出づるものはありません」「中学教育の価値は教育を受くる青年其人の価値に顕はるゝものてあります」「教育に重きを置くは即
増野悦興の教育活動三 ち重きを中学生其ものにをくのであります」「諸君は自身の地位を重じ教室に於ては学科を勉強し講談会に於ては雄弁を振ふて演説をされんことを望みます
((
(」と述べている。「天職」の変更については語られていない。
県立岐阜中学校で増野は九七年四月には語学部長となり、週に三年生の訳解九時間、四年生の倫理二時間・訳解六時間、五年生の歴史三時間・訳解三時間の計二三時間を担当している。校長の蔵原は五年生の倫理一時間であった ((
(。
この時期、九六年一〇月~九七年二月にかけて、増野は基督教関係の翻訳文七編を『福音叢誌』に掲載している。そのうちの一編が九六年八月の
The Review of Reviews
に掲載されたW・T・ステッドの「史伝孤児の父、医博士バーナード及び其事業」の抄訳である ((
(。
この時点での増野の教員としての姿勢はまだ定まっていなかったとも考えられる。九七年六月に蔵原が県知事と対立して辞任すると、増野も八月に退職し (9(、九月二九日には石川県尋常中学校教諭心得として金沢に赴任した (((
(。この間の経緯は不明である。増野は犀川に近い市内水溜町から出校している。しかし、ここでもその就業は短期間で終わり、翌九八年九月七日付で依願退職してしまう。金沢での教育活動の実際についても詳しいことは判明していないが、月給は校長野田藤馬一〇〇円、教諭太田達人(数学、物理)八〇円、教諭心得増野悦興(英語)六五円 (((
(と三番目で、厚遇された招聘だったと考えられる。そのなかで、九八年に校長野田の委嘱で増野は二人の同僚と校友会会則を編み、二月二八日に発会した同会講談部部長に就いている。また、同年五月には京都へ学況視察の出張をしている。
石川県尋常中学校校友会は、卒業生・在校五年生の要望で職員三名・発起者三名からなる創立委員会が設けられ、発起者による会則草稿を広戸保(博物)・増野悦興・堀維孝(国語)の三教員が諸方の会則を参照して
増野悦興の教育活動四 編み、これを校長が職員全体に諮問して修正後、確定した (((
(。
校友会発会式の挨拶で会頭野田は設立の目的として、「本校教育の主旨を体認して心身を練磨し且つ同窓の親睦を厚くする」(規則第一条)ことをあげ、事業は講談・運動・編輯(規則第一二条)とし、知徳の開発・健全の体躯・学校と家庭間の関係密接化のためだと述べている。野田校長は中学教育は「知徳体の三者を偏頗なく兼ね具へしむることを期す」と考えていた (((
(。この点については、二章で翌年の埼玉県第三中学校設立時の校長増野の方針と比較検討する。
石川県立金沢泉岡高等学校での調査で、九八年四月二四日に撮影された新入生記念写真[本論末尾]のなかに口髭のある増野の姿を確認できた。
ところで、増野の履歴に関してはこれまで、一八六五(慶応元)年九月二〇日、津和野藩士増野貞吉長男として出生─津和野小学校─山口で漢学─東京一致神学校─同志社英学校編入─徴兵令がらみで退校・再入学・連袂退学─伝道活動─日向教会設立─浪花教会伝道、岸和田教会応援─『基督教青年』編輯─九〇(明治二三)年八月、二四歳で渡米、新島襄の母校ボストンのアンドヴァー神学校で修学・メイン州のバンゴア神学校で修学─九三年秋帰国─霊南坂教会・安中教会牧師─岐阜県尋常中学校嘱託教員─石川県尋常中学校教諭心得─九九年四月、埼玉県第三中学校初代校長─一九〇二年二月、「校務ノ都合ニ依リ」休職、半年後に退職─とされていた。
一昨年曾孫木村滋子氏が保管されていた四六四点の関係文書 (((
(の提供を頂き、そこでとりあえず明らかになったのは、八四年二月~八月まで、一八歳の時に函館県下の大野小学校七等訓導として勤務していたと考えられること、九八年一月に石川県尋常中学校の商議委員・英語科主任・第三学年担任、四月に第五学年担任になっ
増野悦興の教育活動五 ていること、同年一〇月~九九年二月まで東京府教育会附属小学校英語教員伝習所講師を勤めたこと、の三点である。 今後文書の整理と解読、精査をしたいが、増野は石川県尋常中学校を依願退職直後、東京府教育会附属小学校英語教員伝習所講師に就任している。この急遽の就職は、新設される埼玉県第三中学校長就任とも関係があると思われる。当時、東京府教育会長は東京府知事の子爵岡部長職だった。岡部は最後の岸和田藩主で、在米留学中に新島襄にあてて藩士のキリスト教入信を依頼したことで知られる (((
(。岸和田藩家老で入信した山岡尹方の長男で牧師となる山岡邦三郎と増野は昵懇で、先年山岡邦三郎家に残されていたアルバム中に、若き日の口髭のない青年教役者増野の写真が確認できた (((
(。
東京府教育会附属小学校英語教員伝習所は九八年一〇月、主幹村上直次郎、講師増野悦興・茨木清次郎・和田琳熊・大村信二郎の五人の教員体制で発足し、一一月一日に帝国教育会講堂で開所式を挙行し、同月七日から授業を開始した。一九〇〇年四月に第一回卒業生三三名を出し、一〇月の小学校令改正で学科課程の変更を余儀なくされ、翌一一月に第二回卒業生一六名を出したところで休止となった (((
(。
同伝習所は小学校英語科教員養成を目的に、修業六ヵ月の予科(同年一一月一日~翌九九年四月三〇日)が午後四時半~六時半、一ヵ年の本科(一学期同、二学期同五月一日~一〇月三一日、三学期同一一月一日~翌一九〇〇年四月三〇日)が午後六時~八時までの夜間に開設された。休業は日曜日・大祭日・祝日と冬季二週間、夏季四週間であった。学科課程はそれぞれ次の通りである。予科:一
発音、綴字、読方、講読、暗誦、書取 一週六時間 一
文法初歩、邦文英訳、会話 一週五時間
増野悦興の教育活動六 一
習字 一週一時間本科 第一学期・第二学期 一
読方、講読、暗誦、書取 一週六時間・六時間
一
文法、邦文英訳、会話 一週五時間・四時間 一
習字 一週一時間・二時間 第三学期 一
読方、講読、暗誦、書取 一週五時間 一
文法、邦文英訳、会話 一週四時間 一
作文(書簡文・商用文) 一週二時間 一
教授法 一週一時間 使用教科書は、それぞれ次の通りである。
予科 ナショナル第二読本・第三読本、ス井トン第二読本・第三読本、
長谷川方文著新撰英習字帖巻一・二・三 本科 第一学期:ナショナル第三読本・第四読本、ス井トン第三読本・第四読本、
シイモア小文典、長谷川方文著新撰英習字帖巻一・二・三・四・五 第二学期:ナショナル第四読本・第五読本、ス井トン第四読本、エクレクチック読本、
シイモア大文典 第三学期:フランクリン自叙伝、アッヂソン著サア・ロウジア・デカバルリイ、
ネスフィルド著中学文典、ヂクソン著イングリシユ・レクア・ライチング 学費は入学金五〇銭、授業料は一ヵ月七五銭で、入学手続きは、現職の小学校教員・小学校卒業者で小学校
増野悦興の教育活動七 英語科教員を目指す者とされ、履歴により試験があった (((
(。
五ヵ月間という短期間の東京府教育会附属小学校英語教員伝習所講師の辞任に際し、教育会長岡部は創設以来の増野の授業への尽瘁と学生の指導に対して謝状を贈っている。同伝習所の創立と授業内容・教科書選定などに英語教師として増野の力は大きかったと推測できよう (((
(。
注(
(
(
) 『安部磯雄日記─青春篇─』明治二六年九月七日・八日(『新島研究』第一〇〇号別冊、二〇〇九年二月、一三二頁)。(
(
) 『霊南坂教会議事録』(同志社大学人文科学研究所移管)。( 九四年五月)の執筆者に増野の名があるが、原本は未発見である。留岡幸助との関係と思われる。 書』学『人大院学西関─」海叢教─『教誌雑業事会社権育』一で八号(一九二書』叢海『教は、月)三年一一〇二号、五 代の本日「近研支的合総るす関に援立究』自と成形クーワト査(二ネた。調の夫保田室お、なし〇介紹で月)三年〇一ッ
(
(『岡山孤児院におけるその詳細については、滝澤「石井十次と増野悦興─出会い・別れからバーナードの紹介まで─」)(
(
) 増野悦興「信仰的実験を論ず」(『六合雑誌』第一六六号、一八九四年一〇月)。( )。」[埼玉県立川越高等学校同窓会『川高同窓会報』六二号、二〇〇六年五月](四)の謎 中藤博文であった(滝澤「川越初学校相代校長増野悦興伊首学校大垣・肥田・御嶽の四中は長として着任した。任命者 埼玉県知事千家尊福に中学校長職の斡旋を依頼している。九六年四月一八日に文相西園寺公望・次官牧野の推薦で岐阜・ 国・英国留学後、私立熊本英学校・同女学校校長となるが、辞任後、文部省学務局長加納治五郎・次官牧野伸顕を通じて
(
蔵原惟郭は一八七六年に同志社英学校に入学し新島襄の薫陶を受けるが八二年に病気で帰郷し、八四年に渡米した。米)(
(
) 華陽会講談会での講談(「失題」)(岐阜県尋常中学校華陽会『華陽』五号、一八九七年三月、八四~八六頁)。(
Dup.M- (( (
) 「来学期授業受持予考案」蔵原惟郭関係資料三八二[東京大学史料編纂所収蔵]。(
〇館研究紀要』九号、二〇資八年八月)に記した。前料次) 澤「石詳細については滝井十十次と増野悦興」(『石井掲「石増野悦興の教育活動八 井十次と増野悦興─出会い・別れからバーナードの紹介まで─」では、ステッドの“
DR.BARNARDO : THE FATHER OF
”NOBODY'S CHILDREN.
””の全文と訳文(滝澤)も資料紹介した。(( ある。
(
) 「前任の教員八名をやめさせて、二人を新任とした」(岐高同窓会・清信重著『岐高百年史』一九七三年、一八一頁)と( 願職務ヲ解ク」とある。
((
治明拾五円給与」とあり、治金三一年九月七日に「依『明六俸二冊六年七月任免録第一石「月川県尋常中学校』に) は、(
((
) 『明治三一年年度俸給雑給傳票綴石川県第一中学校』。(
((
) 中川久太郎「校友会設立の来歴」(石川県尋常中学校校友会『校友会雑誌』第一号、一八九八年九月一九日)。(
((
) 野田藤馬「校友会設立の主旨」(同前『校友会雑誌』第一号)。 志社英学校以来の増野の交友関係を知るうえでも興味深い。改めて紹介の機会を持ちたい。 増野と安部磯雄との書簡のやり取りや、岸本能夫太が作成したと思われる香奠悵などもあり、石井十次らの名も見え、同((
の三氏蔵)」を二〇一〇年月滋に作成した。晩年のこ子村四て六四点の文書についは、) 仮目録「増野悦興文書目録(木 なお、増野悦興文書(木村滋子氏蔵)に、おそらく徴兵令がらみと考えられる函館県の小学校教員になっている次の四点の辞令がある。①増野悦興文書 仮A─1免許状東京府士族 増野悦興 十八年六カ月本県小学校初等科教員免許候事明治十七年二月十六日 函館県第弐百拾人号 ②増野悦興文書 仮A─2
増野悦興の教育活動九 増野悦興任大野小学校七等訓導函館県少書記官正七位堀金峰奉明治十七年二月二十一日 ③増野悦興文書 仮A─3大野小学校七等訓導 増野悦興月俸 金拾円給与候事明治十七年二月二十一日 函館県
④増野悦興文書 仮A─4大野小学校七等訓導 増野悦興依願免本官明治十七年八月五日 函館県 白石弘之氏のご協力で、東京都公文書館に次の書類[
((( B (.(
明治一八年回議録第十六類(兵事課)]が確認できた。十二月十六日送達十二月十六日記録科浄写明治十八十二月十五日 御用掛坂場道知事 書記官 兵事課本年徴兵過齢者取調之儀二付照会之件右按取調相伺候也
増野悦興の教育活動一〇 日本橋長宛 本課長[十二月第六〇五号東京府庁回議用]島根県那珂郡井野村四百九十二番邸士族敬太長男十三年十月二十八日 日本橋区北島町一丁目四番地へ転籍
吉田雄太郎 慶応元年七月一日生同県鹿足郡後田村百六十六番邸士族貞吉長男十四年九月五日 日本橋区富島町四番地へ転籍
増野悦興 慶応元年九月九日生右之者共改書之通異動候当該県ヨリ此段通知有之候処国民兵名簿ニ不相見候条一応御取調相加度此段改御照会候也
以上を勘案すると、次のように推定できる。
増野悦興は徴兵「回避」のために、一八八四(明治一七]年二月一六日に函館県小学校初等科教員免許を取得し、同年二月二一日に同県大野小学校七等訓導に任用され同年八月五日に依願退職をしている。
この目的で、一八八四年二月頃に同志社英学校を中途退学し、同年九月頃に復学している。
翌一八八五年一二月に東京府庁兵事課は、「徴兵過齢者取調」として、改書の通り異動したと当該県から通知があった吉田雄太郎と増野悦興の名前が、国民兵名簿に見当たらないので一応取り調べることを日本橋区長に照会している。(
( 大逆事件の一二人の「被告」の死刑執行を即断している。
((
) 敬虔なクリスチャンであったがのちに岡部長職は、第二次桂太郎内閣の司法大臣として、一九一一年一月に幸徳秋水ら」『同志社談叢』第三〇号、二〇一〇年三月、一二七頁。年』
((
澤「川滝二〇〇八年五月。澤「増六野悦興と『基督教青滝号、六越悦高校初代校長増野興報』の謎(八)」『川高同窓) 会増野悦興の教育活動一一 (
( 〇八号、一八九八年一一月一五日。
((
京卒六頁。「彙報:開所式と業~式」『東京教育雑誌』一東九五都会教育会編『東京都教育六) 拾年史』、一九四四年、九(
((
) 「広告:小学校英語科教員略規則」『東京教育雑誌』一一二号、一八九九年三月一五日。((
) 「彙報:伝習所新旧講師送迎会」『東京教育雑誌』一一二号。記事は次の通りである。東京府教育会附属小学校英語科教員伝習所講師増野悦興君は今回川越尋常中学校長に就任せらるゝことゝなり同所講師を辞任され其後任に東京帝国大学文科大学英文専攻生矢波淑次郎君が嘱託されしに付東京都教育会職員、伝習所主幹・講師、学生一同は三月一日午后六時より同所に於て新旧講師の送迎会を開き席上日下部同会理事長、村上同所主幹、増野講師の演説幷に矢波講師の挨拶等ありて午后七時過散会せり同会長岡部子爵よりは特に左の謝状を贈られたりと 趣領承候昨年同所創設以来授業の事に尽瘁され能く学生を指導し同所創立尚ほ浅きにも拘らす着々歩武を進め其基礎茲に確立するに至りしは貴下御尽力の然らしむる処と存候今御辞任に際し聊か蕪辞を呈し謝意を表し度如此御座候敬具 二 川越中学校での活動
一八九八年年四月一五日に埼玉県第三尋常中学校として設立認可された川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)は、翌九九年二月六日に埼玉県第三中学校と改称され、同四月一日に増野悦興が学校長に任命されて開校し、仮事務所が埼玉県入間郡公会所に置かれた。四月二〇日に面接、二一・二二日に試験をおこない、優秀者三九名を二年生とし、一年生八〇名の併せて一一九名が四月二八日に入学し、二九日に始業式、五月一日より新校舎で授業が開始された。同月二八日には文部大臣樺山資紀らが臨場して講堂で開校式が挙行された ((
(。第三中学校は〇一年八月に川越中学校と改称された。
埼玉県の県立中学校は九六年七月に浦和第一尋常中学校、熊谷第二尋常中学校、九九年四月に川越第三尋常中学校、粕壁第四尋常中学校が開設された。当時の初代校長の任期は次の通りである。
増野悦興の教育活動一二 浦和中学 石川 一 九六年七月~九七年一一月 一年五カ月 熊谷中学 植原惟忠 九六年七月~九八年三月 一年九カ月
川越中学 増野悦興 九九年四月~〇二年二月 二年一〇カ月 春日部中学 木寺柳次郎 九九年四月~一一年三月 一三年 石川は東京帝国大学政治学科卒で二八歳、植原は岐阜尋常中学校大垣分校校長からの転任で年齢不明、増野はアンドヴァー神学校・バンゴア神学校遊学で三三歳、木寺は東京帝国大学国史学科卒で三〇歳だった。その後、石川は京都大学寄宿舎舎監に転出、植原は依願免職、増野は休職後退職、木寺は大分県立臼杵中学校長に転任となる ((
(。在任期間の長短はあるものの、総理大臣任命の奏任官待遇の中学校長の休職・半年後の退職は異例の措置である。
増野の就任と休職の経緯を追ってみると、推定の域を出ないが、就任の契機は妻咲子の叔母堀江義子の斡旋か、あるいは、教育界にも人脈を持つ東京府知事・府教育会長岡部長職が埼玉県知事伯爵正親町実正に増野を推挙した可能性もある。
丸亀藩御目付役堀江治武斉(通称権左衛門)の娘として一八六二年に生まれた堀江義子は藩主の娘の学習相手から東京師範学校を経て、伊藤博文・下田歌子と共にフランスに留学し、帰国して華族女学校教授となり、その後宮内省で明治天皇の皇女の御用掛として出仕した ((
(。増野咲子は多度津藩家老畑平学の娘で、母モトは丸亀藩士堀江平四郎の娘だった。モトは一八五三年生まれで、堀江義子は九歳下の妹になる ((
(。伊藤博文と親交のあった義子が姪の夫の就職斡旋をしたとも考えられよう。これ以前に、蔵原惟郭も官界の手づるで岐阜中学校長に就任している。増野の任命権者は総理山形有朋、休職時は同桂太郎である。
増野悦興の教育活動一三 三年弱の期間ではあったが、川越中学校での初代校長としての増野の教育活動は「百事草創、僅かに中学の名ありて、未だ実なき有様」(「会長の告諭
((
(」)からはじまった職員と協働の基礎づくりであった。予期せぬ休職であったためか、残された資料はごく断片なのだが、この間に次のような事績が確認できる。①施設整備 校舎、雨天体操場、寄宿舎、校庭、瑞葉園(皇太子成婚記念植物庭園)開設・豊栄丘(皇太子生誕記念小丘)造成②中学校教育理念提示 講話「中学校教育の第一義」「居と志」③教育課程編成・授業・生活 体格検査、定期試験、部団(居住区別)設置④学校行事実施 遠足(坂戸、豊岡、飯能、大井、志木方面など、部隊競争も)、修学旅行(四年足尾・日光、三年横須賀・鎌倉、二年東京、東京・横浜、一年八王子、立川・青梅)⑤学則細則改正 学則細則改正⑥学友会設立 会則制定、総会、運動会、講話会、成績品の展覧会、学芸大会[写真は本論末尾]、会報発行⑦生徒募集 県内各地域の小学校を回り、中学教育の意義を説く⑧渉外 父兄会で植木の寄付を懇望、父兄懇親会、講演「中学校教育ノ方針」「居と志」
三クラス一一九名の生徒と校長を入れて一一人の職員という小規模で発足した県立中学校であっただけに、小学校を卒業したての少年を志ある青年に育成する使命は増野に大きな夢をいだかせたといえよう。増野は倫理の授業を担当した。複数の一回生の回想が残されている。
増野悦興の教育活動一四 「二階の講堂で、校舎の中で一番広くて立派な室で…初代校長増野悦興先生が厳粛裡に倫理の講義をされた…先生は京都同志社の御出身で、浮田和民、安部磯雄先生等と同窓の秀才で、中々の雄弁家であった。お身体は小さくて痩形で、いつも左肩を上げて、ピンとはね上った美髯の好紳士で、風格の高い威あって猛からずと云う方であった。我々第一回卒業生は、その風格と雄弁とに魅せられて、一に我々の尊敬の的であった。…講義が実に立派で私は今もノートを保存して居ります」(岩沢新平 ((
()
「かつて色々な先生にお目にかゝりましたが、この先生程勤勉な人はありませんでした。…アメリカ仕込の弁舌が達者で、倫理の授業時間を受け持たれました。教科書を用いずに社会の出来事を取りあげ、福沢先生のやつて居られた時事新報の社説をよく題材にされました。それで私達は福沢先生を尊敬しました。或る時皇室財産について述べた事があります。「皇室の多財はいけない。皇室財産は無くした方が良い。これを国民に等しくすべきである。又皇室が国の財産を沢山持つて居ては国民が国を立てゝいる以上徴収する事が出来るのだから持つ必要はない。」と言って居られたのです。これは一例でありますが、毎時も此の倫理の時間には新聞を持つて授業に出て来られ「今日の新聞には、こういう記事が載つている。」と言つてお話なされた…先生はキリスト教主義の人であるのですが宗教については非常に寛大な自由な人であつた。先生は勤勉な方であつた。そして四角四面に時間を守る人で登校の時もきちんと来られたそうです。」(矢部謙治郎 ((
()
「当時我々生徒の眼に映じたる先生は容姿の崇高にして端麗…挙止の典雅…学問の深く品性の高潔なる
増野悦興の教育活動一五 点といひ、譬へていはゞ磨きに磨かれた水晶の明珠の如き御方であつた。吾々を見る眼には常に優しく笑を含んで居られたけれども何処となく犯しがたい神様のやうな感じが有つた。学校の創始に当り善美なる校風を樹て、永く将来を支配すべき精神的基礎を定むる為には全力を尽くして努力せられた…将来如何なる職業に就き如何なる境遇に置かるゝにしても、常に人たるの道を踏み誤らない人間らしい人間を造るを以て先生は教育の大方針とされた。学生らしき学生たれ、人間らしき人間となれとは先生の常に繰り返されたモットーである。…之等の生徒は我が川越中学校の先祖である、善美なる我校校風の源泉を為すものは諸子である。諸子の勉むると勉めざるとは啻に諸子一身の利害に止らず永久学校の将来に関するのである。諸子の責任は寔に重大である。大いに勉めて呉れと常々吾々を励まされた。先生が高遠なる理想を掲げ、固い信念と鮮明なる主義主張とを持して躬行実践一向に吾等と学校との為めに心労せらるゝ熱心は深く吾々を感激せしめた。」(岡田恒輔 ((
()
埼玉県第三中学校(川越中学校)開設に際し、増野は北米ニューイングランドで見聞した「自修自治自活」の精神を、「礼、節、質」の三大校風とし ((
(、キリスト教主義ではなく、儒教道徳の涵養を中学教育の柱とした。一回生の矢部謙次郎は倫理の授業で社会の出来事をとりあげ、福沢諭吉の『時事新報』社説をよく題材にされたとしている。没落士族の子弟としての矜持と同志社・ボストン仕込みのキリスト教精神のはざまで、増野は青年に何を託そうとしたのか。
増野が自説を世に問いだすのは二三歳頃で、川越中学校長就任の一〇年前である。初期の雑誌論説である八九年三月の「基督教に対する青年学生の感情」(『青年之手綱』六号)と九月の「基督教夫婦余論」(同一一号)
増野悦興の教育活動一六 には、増野の倫理観、道徳観が記されている。『青年之手綱』は八八年一〇月に岡山の中国基督教青年会の『青年会雑誌』が改題された雑誌で、この前後は西日本各地でキリスト教青年会(YMCA)の設立と機関誌の発行が相次いでいた。それらは『青年会月報』(神戸)・『青年会雑誌』(岡山)・『知青年』(鳥取)・『人間』(松江)・『基督教青年』(大阪)・『青年之光』(京都)などである。このうち、大阪・神戸の青年会を中心に八九年九月には『基督教青年』が「同盟刊行」され、増野は四号から編集人となり、その実績もあって翌九〇年八月にボストンに修学する (((
(。卒業直前に同志社英学校を退学して後、伝道者の道を歩みはじめた若き増野の主張は、川越中学での生徒への語らいへとつながっている。
「基督教に対する青年学生の感情」は、おおよそ次のように語られている。
欧州太古の史上を装飾するものは希臘の文華である。ソクラチス、プレート、アリストーツル、テールス、アナキシマンデル、ヘラクリタス、ピサゴラスなど、「アカデミックスクール」、「ぺリパテチック、スクール」と各所に学派が青年子弟を教育している。その時代に、猶太の「ナザレ寒村一工匠」の子耶蘇は、真神の独子で十字架上に死んだとする基督教に対し、智慧を求める高慢な希臘人は聞く耳を持たなかった。
今の青年学生も同様である。しかし儒教の道徳は人倫を説くが天倫には及んでいない。一方、基督教は教育の社会では学生を薫陶して、その精神を発育する徳育の基礎となる。古今大人の最も心に憂うたことは「良心と自己の一致」をどう図るかということだった。孔子も王陽明もナポレヲン・ボナパルトもだ。白河上皇も「鴨川の水、双六の賽、山僧」と共にこれを問題にしよう。東西俊傑の伝記を読むと、聖書を
増野悦興の教育活動一七 熟読玩味したマルテン・ルーテルが「義人は信仰に由て生くべき」の教理を解して心思一変したとある。ところが東洋俊傑の伝記は「豁然として悟る」という程度である。基督教の偉大なのは、古今の大人君子、英雄豪傑ができなかった人類道徳の世界に空前絶後の一大変革を与えた点にある。学窓にある青年男女学生が忘れてはならないのは、将来の日本の問題に注目を怠らないことと、自己の心情に謹厳な省察を遂げることである。
このように、増野にとっては、キリスト教の受容は宗教心だけではなく、生き方の選択であった。それは、「基督教夫婦余論」により鮮明に見てとれる。このなかで、増野は世の青年男女のあるべき生き方を次のように考えていた。
基督教道徳の他教道徳に比べて卓越する点は夫婦の倫である。一夫一婦・姦淫以外の離婚禁止・未婚での不義姦淫の罪・相婚後の夫婦一体・夫は妻を愛し妻は夫に服するなどの金教玉訓で、男女の関係は清潔を保たれ、不義姦淫の空気は社会から一掃される。良人の不道持に心を苦しめる可憐の妻、愛子の放蕩に気を痛める老父母を思うと、基督教夫婦論・基督教女学説は男女の関係から起こる社会万般の悪弊を矯正し、清潔の天下をもたらそうと願うことにほかならない。舞踏会・競馬会の失敗後、条約改正問題の喧しいなか、国粋主義が勢いを増し、夫婦の相愛は父母の孝養報国の義務をないがしろにするなどの議論があるが、それは男女七歳にして席を同じくせず・夫婦別あり・云々なれば去るなどの道徳主義によるもので、夫婦間の関係を極めて冷淡に思考してきたことによる。基督教は夫婦相愛を理由に他の大義や報国の丹心
増野悦興の教育活動一八
を消滅させない。夫婦の愛は社会万種の愛の根源であり、夫にとり地上の最親の朋友・最近の親戚は妻である。夫婦一体は形容詞ではなく事実に履行するのである。孝愛両立は可能で、英国の清教徒ジョン・ハッチソン夫妻の言行は欽慕すべきものだ。基督教徒は妻を地上の無二の伴侶とし、快楽苦難を共にし、同心同意で愛し相助け、一体の実に適せんと期す。信仰・正義・義務の諸問題には夫婦相携えて馳騁するものである。
この夫婦論は終生、増野の道徳観、倫理観の根底に流れる意識となった。そこには、悦興を生んでほどなく病躯を理由に離縁され世を去った、面影も知らない母への思慕と、単身江戸に出て太政官行政局に奉職し再婚した父貞吉への幼少時からの拭いきれない不信があったとみてよい。母は津和野藩御用達の商人堀家縁戚の素封家の出であったとされる。この成育歴は温かな家庭団欒を味わえなかった悦興少年に、狷介孤高ともいえる妥協を許さない潔癖感をもたらし、それが青年に対する謹厳実直な道徳教育となったのではないかと考えられる。「我が東洋の男子が其妻を奴隷視し、妻は病床に臥すれども己は花街に流連して、家を顧みざるが如き薄情陋行」(「基督教夫婦余論」)と断じた論調は、他人ごとではなかったのではないかと思われる。『基督教青年』は折からの廃娼運動の動向も報じることとなる (((
(。さらに、一回生の岡田恒輔は、次のようにも記している。
「教壇に立てる時の先生、校長室内に閑居せる時の先生、道路を歩行せる時の先生…殊に先生の清教徒的なる言行は我等に一種の崇拝心を起さしむ程であった。…右のような教育の結果として我々当時の生徒は苟も不義不正を許さなかつた。虚偽を見ること蛇蝎の如くであつた。義の為には水火も敢て辞さなかつ
増野悦興の教育活動一九 た。試験に於けるカンニングとか女色に関する事とかいふものは、比較的年長の生徒が多かつたにも拘はらず実に清らかなものであつた (((
(。」
増野自ら会長として組織した「諸子が自修の機関たる学友会」(「会長の告諭」)では、「礼、節、質」の三大校風を定着させるために、各所の学校行事を組織し、講話会にも力を注いでいる。先の矢部謙治郎は、次のように回想している。
「一般の人には中学の教育法を徹底させる為、生徒を連れて近村へ行軍に連れて行き、そこで得意の弁舌で中学の講演を行つたこともある。或る時東京農業大学の横井[時敬]氏が鶴川座で講演があつた時、生徒に訊かせんと言つて先生が連れて行かれました。所が中学生が多いのを見て取つたのか知らんが、横井博士は中学教育を攻撃された。「実業世界でなければならぬのであるから中学校はいらん。実業学校制にしろ。」と言われたので万場の者が拍手したので、皆あの時は頭が上がりませんでした。先生も困つてしまいました。二、三日してから、「中学校教育とは何ぞや」として、中学教育の第一義をお話されました。決してそういうものではなく、国民の基礎を造るものであると、かの講演を否定したのでした。このように先生は私達が見て非常に勇猛毅然とした先生でありました (((
(。」
増野の在任中の学友会の講話会と講師・演題は次の通りである(*外部講師)。自らも最初に講話をし、二年間で同志社時代の学友岸本能夫太・村井知至・安部磯雄の三人 (((
(に依頼をしており、青年教育への増野の思い
増野悦興の教育活動二〇 入れが表出している。第一回 九〇年 七月 四日 佐藤助「北清地理」
和田亀之助「水の話」
増野悦興「居と志」第二回 九月二三日 岸本能夫太「英語を学ぶ者の心得」*高等師範学校教授 岡本定「漢字に対する中学生の覚悟」第三回 九一年 一月二六日 佐藤惟昇「学生と社会の進行」
村井知至「米国青年の気風」*元外語学校教授第四回 九月二三日 寺尾熊三「札幌農学校の過去及現在」
村瀬米之助「地理学より見たる埼玉県」第五回 一一月 九日 国友次郎「海軍思想に就きて」第六回 九二年 一月一九日 増野悦興「中学校教育の第一義」
安部磯雄「英独学生の気風」・「欧米大学に於ける体育」
*東京専門学校講師 学友会『会報』記事によると、増野は「居と志」で、生徒と会員外の父兄ら七二名を前に、「生徒を養育するにあたり、その自治自修を奨励する方針を執る」ゆえ、学友会は「生徒の自治自修の機関」であることを強調した。そのうえで、「人の気前」は地位・時勢の変化で推移するが、日清戦中~戦後に吾邦人の志気の変化
増野悦興の教育活動二一 が激しく、非常時には甚だしく昇り、平和の時に降りる弊がある。「常に真面目にあるは人たるの道にして、常に国に尽くすは国民たるの道なり」、勅語を拝読するのにややもすれば、「一旦緩急アレバ」のみを高調し、「進ンデ云云常ニ云云」などを看過する弊がある。今の時は鎖国的安閑時代ではなく、「維新改革の大方針」に従い、国家の進運を計る時代であり、米国人が七月四日の独立記念日にはあらゆる方法で「独立自由の国是」を思い出すよう努めているように、吾らも一一月三日の天長節には、「開国進取の大方針」を思い出し、奮興一番するようにしたい。北清事件に奮起せる志気を冷却させないように、学生は非常の志気で平時の修養をし、「治世の良民」としての人格作成に努めるべきであると講じている (((
(。
「中学校教育の第一義」の記録は残されていないが、「会長の告諭」では中学校教育の趣旨を次のように述べている。
「夫れ、心身両者の発育を助成して、完き人を造るは、周く教育の目的とする所にして、忠愛の精神に富み、国民の本領を解し、優に社会の中堅となり得べき人士を養成するは、特に、我中学校教育の趣旨とする所なり、諸子の中、進んで高等の教育を受けんと志す者あるか、今より心して、異日成業の後、学問ある人士てう名に辜負せざらんことを勉めよ、退いて実務に就かんと欲する者あるか、進歩せる思想を、堅実なる品性の中に寓して、公事に任ぜんことを期せよ、礼、節、質の三徳は、我が校風の夙に標榜する所の三大校風にして、主義あり理想あり、卓然として世の軽浮なる風潮の外に立ち、邦家の進運を翼賛するの器を成さんこと、是れ諸子が最後の希望たらば、諸子の前途豈遼遠ならすとせんや (((
(。」
増野悦興の教育活動二二 こうした増野の教育方針の特徴は、①忠愛精神と国民本領の理解、②自治自修、③進歩思想と堅実な品性、④礼、節、質の三徳、による人格の完成と整理できる。そこには同志社で受けた新島襄の薫陶とニューイングランドで見聞した「自修自治自活」の精神が色濃く反映されていた。
注(
( 。三七頁) 年二二年、九(七誌』念記八十二立、『創頁)二一年、〇~頁)五す~六三年、九(九木』のく誌』誌念記年周百立、『創(七
(
) 等念記年十五立校『創学高(一校・学中越川立県玉埼誌』九記越年十七立校『創学等高川四立県玉埼、頁)三年、八念( 高校百周年誌』。(一九九九年、一八~一九頁)、埼玉県立春日部高等学校『春日部高校百年史』(一九九五年、五三四頁)
(
和沿立熊谷高等学校『学校革玉誌』、『熊谷浦立県玉埼県埼高(一等学校『百年誌銀杏樹』九、九五年、三四~) 六頁)三( 掛下田歌子が学監・教授、津田梅子が教授となる八七年には義子の名はない。
いるが、第一』には、一八八五年九月二一日付で「小野梅ヶ枝堀江義子嘱托教師」とある。宮内省御用『華族女学校年報
(
義を七頁)。福家は義子教二授として江衛「堀惣家福三~子五女史」(『讃岐公論』三四巻号、四一九六四年五) 二三月、( 斉(通称権左衛門)と堀江平四郎の名前の食い違いについては確認中である。
(
澤「増九二六号、二〇〇六年月)雁』。なお、堀江治武滝第報『初野」(埼悦興研究ノート(六)玉部県立川越高校郷土) 部(
(
) 「会長の諭告」前掲『埼玉県立川越中学校学友会報』第一号、一九〇一年九月、一頁。(
(
) 岩沢新平「母校創立当時の思い出」前掲『創立七十年記念誌』(一三六頁)、『創立百周年記念誌くすの木』に再録。(
(
) 矢部謙治郎「五十年前の回顧」前掲『創立五十年記念誌』(三二~三三頁)。(
(
) 岡田恒輔「増野悦興先生伝」故増野悦興先生著/岡田恒輔編『筆華舌英』(一九二〇年、編外四~八頁)。(
(
) 「会長の諭告」前掲『学友会報』第一号、三頁。(
((
) 滝澤「『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動」『同志社談叢』三一号、二〇一一年三月。((
) 滝澤「川越高校初代校長増野悦興の謎(九)」『川高同窓会報』六三号、二〇一一年五月。増野悦興の教育活動二三 (
(
((
) 前掲岡田「増野悦興先生伝」『筆華舌英』(編外七~八頁)。(
((
) 前掲矢部「五十年前の回顧」前掲『創立五十年記念誌』(三三頁)。( る。 外を交親生終。頁)一三英』編ん舌華掲『筆前ふ」憶を君興結いで女あで生業卒期初の校学和野英なみは侶伴の人四た悦 (「増「増野君は京都同志社に於て私が学生であつた時代の同窓生であつた」のちに安部は年先輩であり、と追悼している 本の変革者』一九九三年、晃洋書房)が緻密で要を得ている。かつて岸本は同志社予備校を増野とともに担い、村井は二
((
部佐は、ていつに雄磯知安至・能井村太・夫能本岸藤) 丸「初(同日代近─襄島編『新社志学」期大田稲早と人社志の同(
((
) 「第一回講話会」前掲『埼玉県立川越中学校学友会報』第一号、一三~一五頁。((
) 「会長の告諭」同前、二~三頁。三 増野悦興の教育活動と新島襄の遺志の体現 中学校教育にあたっての増野の教育方針は、①忠愛精神と国民本領の理解=健全な国民の育成、②自治自修=自律的市民の育成、③進歩思想と堅実な品性=近代科学に裏打ちされた民主的精神の保持、④礼、節、質の三徳=公徳心の涵養、による人格の完成と読み換えることができよう。では、新島襄の教育姿勢と信仰心とはどのようなかたちで増野悦興のなかで継承・再生されているのであろうか。
新島襄の他界に際し増野は「生前にハ其指揮に服し、死後にハ其遺訓を奉じ、先生の唱導せる主義の為め、先生の企図せる事業の為め、馳駆奔旋を甘しとする」と記している ((
(。「其指揮に服し」とは、同志社英学校を中退したのちに新島の懇篤な説得で教役者=「天職」の道を歩んだことであり、「其遺訓奉じ」とはのちの「天職」から教育者への転換にまで及ぶものであった。増野にとってそれは単なる挫折ではなく、あくまでも
増野悦興の教育活動二四
恩師の「遺訓」の体現であった。
教育者新島襄についてはこれまで卒業生の回想や数多くの論考からその教育思想と教育活動の全体像が明らかにされてきた。そのうちの近年の研究では、井上勝也『新島襄人と思想』(晃洋書房、一九九〇年)、前掲同志社編『新島襄─近代日本の先覚者』、本井康博『新島襄を語る』シリーズ(一)~(八)(思文閣出版、二〇〇五~一一年)などが新島の信仰と教育について的確な指摘と評価を行っている。
井上『新島襄人と思想』は志なかばで斃れた新島の死後一〇〇年に当たり、その「生き方と先見性」を多くの人びとに知ってもらいたいとの想いから公刊された。なかでも井上は「学生の心を捉え動かす教育的人格、ヒューマニズム、彼の教育思想とその先見性 ((
(」に着目したとしている。井上はここで「新島襄の教育思想」「教育者新島襄」を整理して、[
[にた、し指目を成育の物人すくつ
(
界世新島の教育思想は彼の人間観、家観国り、おてっ持を]関な接密と係[
(
そル・た、っあでンョシーケュデエラの]リすざめを育教間人は法方ベ[
(
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]その教育思想はキリスト教とデモクラシーを根底にもっていた、[[中い、ならなはてし成養てれ入に型模の僻偏を年青は育教のでこそ
(
]国家は国民のための国家であり、人と民成の立自治自するこが養私立大学の長所であるを ((
(
の生徒の独自]し、己の気象を発揮一(、というものであったとしている。さらに、[
十反い分さを深く省のし、責任を痛感不導て立た生の立場にっ指て考え、自らのし ((
(
]学(、[
を思い、彼らを大切にした、[
(
]常に学生一人一人 に配慮し、彼らを極みまで愛した (((
]学生の価値可能性を信じ、個性を大切にし、クラスの中で「いと小さき者」(、とまとめている。
また井上は、新島は[
((
]教育とは知育に片寄ることなく、徳育、体育も重視されなければならない、[((
]増野悦興の教育活動二五 教育の目的は主体的な独立自治の人間である近代市民を育成すること、[
た国」にすることを目的としてい (( 光」らが神と人を愛し、「世の塩」「地のて、となり、我が国を「主の御彼しのけ、尊を性主自と性個重生学
((
校同志社英学]では管理主義を避(ともしている。
[
(
]と[((
]、[(
]と[た影響は、以上のような教育観からする教育実践によるものであったとの評価である。
((
]は重複する部分もあるが、教育者新島襄が特に初期の同志社英学校生に与え 一方、本井『新島襄を語る』シリーズは二〇〇〇年代に入ってからの学生などへの同志社学の講義のまとめで、視野広く新島と同志社の教育を青年に語りかけている。各冊に新島の書簡や文章の一部が紹介されていて、教育者・人間新島像が具体的にわかりやすく語られている。「諸君ヨ、人一人ハ大切ナリ」
同志社創立十周年記念式典の校長式辞(一八八五年:広津友信の演説筆記 ((
()
「君等宜しく改革家となり此不潔な天下を一掃し賜へ」
同志社学生古賀鶴次郎宛書簡(一八八九年一一月二日:全集四巻二四二頁 ((
()
「小生畢生ノ目的ハ、自由教育、自治教会、両者併行、国家万歳」
同志社学生横田安止宛書簡(一八八九年一一月二三日:全集四巻二四六頁 ((
()
なお、同志社編『新島襄
教育宗教論集』(岩波文庫、二〇一〇年)は「「教育者・新島襄」の思想や実践を世に普及させ (((
(」ようと、新島の教育論・宗教論・文明論のエッセンスを集めて刊行されたが、ていねいな解説が付されており新島の教育論を鳥瞰するうえで便利な史料集である。
では、このように整理した新島の教育活動から増野は何を体得し、実践に生かそうとしたのであろうか。井
増野悦興の教育活動二六
上のまとめ[
(
]~[((
]を手がかりに、四つの観点から見てみたい。[一]人一人を大切に 安中教会の増野の後任牧師となる柏木義円は「恩師をしのびて」(遺稿)のなかで、新島との出会いを記している。伝道師だった蔵原惟郭の世話で同志社に入った柏木は、新島自身から英語を学ぶが発音のよくできない生徒で、学校の食堂の食費を新島から借りて払ったことがあり、食堂のパンだけでなく飯櫃の「飯」も食べてしまい、皆罰金を取られたのに自分だけは新島がそれを支払ってくれた (((
(と回想している。
増野もやはり苦学生で学費もままならず、学校の鐘叩き、教場の掃除をして賄料・月謝を免除され、自炊生活のなかで「鳥さへも我が貧しさを笑ひてやポテートとなく藪のうぐひす」と歌った (((
(という。
新島の「人一人を大切に」という想いは、「自責の杖」(一八八〇年)事件が象徴であり、一貫して「いと小さき者」への配慮がなされていたことは周知の事実である。卒業直前の八六年三月に八名の五年生とともに連袂退学して説得されて伝道師の道を歩んだ増野は、新島との交信 (((
(をよすがに「価値可能性」を伸ばすことができたのであり、その生徒を愛する想いは川越中学校長としての増野の教育活動の原点となったと言えよう。増野の休職後、一回生たちは卒業写真撮影に後任校長を呼んでいない (((
(。
[二]愛国の主張 一八八四年一一月にアメリカン・ボードに提出した「日本伝道についての私案」(原英文、以下北垣宗治訳)のなかで新島は、「武士こそは東洋の騎士であり、日本の精髄であり、国の花であります」と述べて、「愛国心は彼らの間で、世代から世代へと受け継がれてきました (((
(」ともしている。「武士階級こそは、先頭に立って十字架を負う者 (((
(」と考えられており、『東京毎週新報』主筆の小崎弘道の東京での活動を紹介している (((
(。その小