『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動
著者 滝澤 民夫
雑誌名 同志社談叢
号 31
ページ 36‑70
発行年 2011‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013055
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動三六
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動
滝 澤 民 夫
はじめに
同志社英学校を卒業直前に連袂退学後、恩師新島襄の勧めで伝道活動に入った増 まし野 の悦 よし興 おきは宮崎県高鍋で石井十次と意気投合し、日向教会を設立して初代牧師に就任するが、不本意ながら同地を後に大阪で布教活動に参加し、一八八九年九月の『基督教青年』発兌に参画、四号からは編輯人として同誌を改良発展させた。
この間、関西連合基督教青年会設立に動く宮川経輝・本間重慶らはキリスト教系高等女学校の合同機関誌『つぼ美』を発兌し、青年会運動は女子教育とも関わりつつ広がってゆく。本稿では、これまで日本のYMCA史では触れられてこなかった、『基督教青年』発兌前後の経緯と関西各地の青年会運動の動向を『基督教青年』の記事を検討しつつ論じる。
『基督教青年』誌については、先般復刻したので活用を願うものである。書誌については復刻版「解説」に記した ((
(。
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動三七 注(
() 増野悦興の前半生の活動と『基督教青年』については、以下の拙稿を参照されたい。
滝澤「新島襄と増野悦興」『同志社談叢』第二七号、二〇〇七年三月 同「石井十次と増野悦興」『石井十次資料館研究紀要』第九号、二〇〇八年八月 同「増野悦興と『基督教青年』」『同志社談叢』第三〇号、二〇一〇年三月 同「石井十次と増野悦興─出会い・別れからバーナードの紹介まで─」『岡山孤児院におけるネットワーク形成と自立支援に関する総合的研究』(平成一八年度~二一年度科学研究費補助金研究成果報告書代表細井勇)、二〇一〇年三月
同「解説」『復刻版 基督教青年』、不二出版、二〇一〇年一二月
一 大阪基督教徒青年会と『基督教青年』の発兌
一八八九(明治二二)年九月一三日に創刊された『基督教青年』[THE CHRISTIAN YOUNG MEN ]は、当初大阪基督教徒青年会(大阪青年会)の機関誌であったが、翌一〇月一二日の二号[THE YOUNG CHRISTIAN ]からは、関西連合基督教青年会(翌九〇年三月発会式)の機関誌となる。
一八八九年前後は各地でキリスト教の青年会の設立と、短命ではあったが機関誌の発行が相次いでいた。資金・編集などの事情からそれらの一部を統合した形で、大阪・神戸の青年会を中心に『基督教青年』が「同盟刊行」されたと考えられる ((
(。各雑誌の投稿者も一部重複している ((
(。
当時の全国の中小都市の基督教青年会(YMCA)活動は、東京や大阪のものに刺激されて結成されていた
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動三八 が、事実上は教会青年会(YoungPeopleʼsSociety )で、教会から完全に独立した組織ではなかった ((
(。
『基督教青年』創刊時の紹介記事によると、大阪基督教徒青年会(会長望月興三郎)は、一八八二年六月に設立され、浪速・天満・嶋ノ内・大坂・南一致・北一致・三一・テモテ・ヨハネ・ポーロ・慰主・救主・第一長老・第二長老の十四教会および堂島講義所 ((
(の青年信徒より成立し、当時の会員数は二百余人とあり、次のような活動が記されている。
土佐堀二丁目に一大会館(明治一九年設立)を有し、毎月一回演説会を開催してキリスト教の拡張を図り、時々の講話会を開いて会員自他の知識を交換し、春秋二期に総会を開催し会務を商議し運動の方法を講定している。監獄伝道は差し止め中である。会館のかたわらに新聞雑誌縦覧所を設置し日々三〇名の来覧者がある。所内に図書室設置を計画している。会館はキリスト教に関する集会等のために借用者には廉価で、教外人へは相当の賃料で使用を許可している。諸種の計画を行き立て、「組織を倍々完備の域に」進めようと努力している ((
(。
副会長の本間重慶は、「近世ノ青年会禁酒会伝道会社基督教主義ノ諸学校赤十字社救世軍等其根本ヲ探求スレバ皆青年ノ結合ヨリ起ラザルハナク」、「世ノ洪益」のために「大阪青年会ハ今回一雑誌ヲ発兌シ以テ世ノ青年ノ不徳不義ヲ矯メ軽躁浮薄ヲ正シ且会員ノ精神ヲ鼓舞嚮導セントノ企図ナリ」と述べている ((
(。
会誌創刊直前に発生した紀和大水災に際し、大阪青年会は組織を挙げて救援活動をおこなった。罹災救助金募集中にポーロ教会の姉妹は近隣知己を問い、募金に尽力し、救主教会の三樹米次郎の紹介で府下立売南堀通三丁目の塩谷宇吉が青年会館での演説会に感じ、望月会長に人夫仕事を志願したという。会誌発行により、九月来の大阪青年会への入会申し込みは二二名に増加した ((
(。
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動三九 会誌発兌の二日後に開校式をおこなった灘の関西学院でも、すぐに関西学院同盟青年会が組織され、一一月二二日には大阪基督教青年同盟会への加盟の可否を衆議し、二六日に同盟を申し込んでいる
((
(。
『基督教青年』の論説には、当時としては一般的ではあったが、露骨な差別ではないが、朝鮮・中国に対する蔑視的な優越感がみられる。また、これも一般的ではあったが、会誌の廃娼論や廃娼運動記事の大半が、娼妓の人格や人権の視点を欠落させている ((
(。
青年会誌そのものへの短評として匿名の批評も掲載されており、『基督教青年』は、「珍しきも古びたる叢話のみなれば一読死枯黴臭き」とされている (((
(。
『基督教青年』と廃娼運動・多聞青年会などの関西各地の青年会運動の動向についても解明が待たれる。
注(
() 『基督教青年』を含め、以下の雑誌が確認されている。
『青年会月報』(神戸基督教徒青年会、一八八八年一〇月一日創刊)
『白楳蕾』(鳥取 山陰基督教青年会、一八八〇年一〇月創刊)
『青年会雑誌』(岡山中国基督教青年会、一八八八年一〇月創刊、六号から改題『青年之手綱』) 『知青年』(鳥取山陰基督教青年会、一八八九年六月創刊)
『基督教青年』(大阪基督教徒青年会、一八八九年九月一三日創刊)
『青年之光』(京都基督青年会、一八八九年一〇月二四日創刊)(
() たとえば、以下の投稿などがある(東京大学法学部近代法政史料センター〔明治新聞雑誌文庫〕蔵)。 『青年之光』一号:特別寄稿「新嶋襄先生の手紙」望月興三郎(大阪)
二号:特別寄稿留岡幸助
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四〇 四号:広告 孤児教育会趣意書・孤児教育会概則(明治二〇年九月)
五号:「先生を惜しむの聖歌」花畠健起 『青年会雑誌』四号:論説「東西両陸の文明」(続き)望月興三郎 『青年之手綱』六号:論説「基督教に対する青年学生の感情」増野悦興(大阪)
説教「我は途なり真なり生命なり」浮田和民演(西京)
七号:論説「為さゞるなり為さざるに非る也」岸本能夫太(仙台)
一一号:論説「基督教夫婦余論」増野悦興 論説「教育之価値」岸本能夫太 投書「読安部磯雄氏之小説論」奥山健盛 一二号:哀林「嘉次郎及びお安兄弟の譚」[石井十次の話から]
なお、『基督教青年』発兌後、大阪青年会に寄送された新聞・雑誌は、毎日新聞、中外電報、大阪公論、大阪毎日新聞、関西日報、東雲新聞、基督教新聞、上毛青年会雑誌、青年学海、六合雑誌、青年道標、青年之手綱、農業雑誌、女学雑誌、知青年、とある(「会告本会ヘ寄送セラレタ新聞雑誌ハ左ノ如シ」『基督教青年』一号、一八八九年九月一三日)。(
( () 奈良常五郎『日本YMCA史』二六~二七頁、日本YMCA同盟出版部、一九六七年。
おりである。 ()()(る告」と一四教会・一講義所堂役島「会の委員は次のと員にと、督この時点での大阪基教会徒青年会よ大阪) 年青 大阪青年会役員 会長 望月興三郎、副会長 荒砥琢哉、幹事 山路一静、会計 今村謙吉、商議員 宮川経輝・本間重慶・和田秀豊・寺沢久吉・善積順蔵・左乙女豊秋 各教会委員 三一 内田賢吉、テモテ 都留繁蔵、救主 中川藤四郎、慰主 田中宇喜智、ヨハネ 清田梅一郎、ポーロ 飯塚当譲、大坂 大成倉太郎、天満 前田菊治郎、浪速 沖野老治郎、堂島 山下清治郎、嶋ノ内 山口信太郎、第一長老 平尾重太郎、第二長老 水沢 郁、北一致 飯田平吉、南一致 堀米吉(
( () 「本会会況一班」『基督教青年』一号。
() 本間重慶「基督教ト青年」同前。
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四一 (
( () 「大阪青年会」『基督教青年』二号、一八八九年一〇月一一日。
( リスト教主義教育研究室、一九七六年。 (学年一二月西至明治二三六二月─』五頁、関西学院キ関年二院Ⅰ『関キリスト教教育史料西治学院青年会記録─自) 明 日本も亦愉快なるかな」とある。 之を現時のキリスト教会に望むも得可からず、然れども之を将来新日本の教会に望まば恰も見るの想いをなす嗚呼将来の の宣教師は朝鮮国に救出の道を講じ、数十名の青年壮士は北京城裏に福音を宣伝するに至るべし、此の如き希望と企図は (洲完り青年会の組織も備立して忽ち数十名藤佐成設尋「日教本基督教ノ将来」(『基督青の年』一号)には、「伝道会) 社
松浦政泰「青年会の大団結」(『基督教青年』二号)には、「嗚呼朝鮮支那の伝道は我輩の責任なり。夫の頑夢を攪破して、義光を仰がしむるもの、我輩青年に非ずして誰ぞ。夫の消えざる火に走る、四億の霊魂を救ふて、之を限りなき悦に入るゝ者は、我輩青年に非ずして誰ぞ」とある。
井伊松蔵「廃娼ニ就テ一言ス」(『基督教青年』一〇号、一八九〇年六月六日)には、(存娼論者がいると)「文明国を以てする勿れ我国を辱かしむるに野蛮国を以てせよ我国民を待するにアフリカ内地の猿猴と等しくせよと云ふ者なればなり」とある。(
適切なる時報を含んで紙上活気溢れる 藍色の表紙岡山青年之手綱政治主義 (() (『基督教青年』二号)関西の三青年雑誌」隨感録魔々子「雑録 紅色の表紙 松山 青年学海 青年主義 粋 小説「女学生の初恋」
言域狭きも尚強いて之を試みる 橙色の表紙 大阪 基督教青年 宗教主義 俗に遠い 伝記「ジョンノックス」
珍しきも古びたる叢話のみなれば一読死枯黴臭き
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四二
二 大阪基督教徒青年会と十津川大水災
大阪基督教徒青年会の、会誌『基督教青年』発兌に至る運動の根源を考えるうえで、大塚惟明 ((
(が第一号・第二号に記した「紀和災害救済事業本会運動略記」は注目される。「紀和災害」とは一八八九年八月一八日から二二日にかけて紀伊大和地方をおそった大水害で、これまで地崩れ・水害史(防災・移住面)から地理学・民俗学では注目されてきたが、歴史学では論究されてこなかった ((
(。
一九三六年六月から三九年まで五回、奈良県十津川の谷に徒歩で入った民俗学者宮本常一は、東西に連なる急峻な紀伊山脈をえぐって北から南に流れる十津川と北山川の作る深く険しい谷を襲った「明治二二年の水害」の話を老人から聞き取っている。十津川本流の谷すじの熊野街道は熊野参りの道者が通る重要な街道の一つだった。また西部の高野山からの高野街道、大峯山に至る道も信仰には重要な通路だったという。宮本が調べたこの水害は「前古未聞」で、八月一七日から一九日にかけての集中豪雨は峡谷の各所に山崩れと巨大なせき止め湖を作り、決壊した水がさらに下流に津波のように激流をもたらす大水災となった ((
(。 藤田佳久の調査によれば、大水害は当時六ヵ村に分かれていた十津川郷の各村と大搭村とその周辺地域に及び、災害規模はわが国の災害史のなかでも特筆されるものだった。V字谷の一大峡谷は崩壊した土砂に埋め尽くされて広い河原に一変し、場所によっては五〇メートルもの厚さに峡谷が埋没、十津川下流の一〇〇〇年の歴史をもつ熊野本宮も流出し今日の場所に移転せざるをえなかったという。被害の集中した十津川北部辺の大搭村・十津川村六ヵ村・野迫川村・宗檜村での大規模崩壊地は一一〇〇ヵ所、山地崩壊によるダム出現四七、
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四三 死者二三五人、負傷三〇人(『奈良県吉野郡史料(上)』)にのぼった ((
(。『明治二十二年吉野郡水災誌』(全一二巻)[以下『水災誌』]の緒言には、吉野郡の「西南半郡すべて荒涼惨憺たる集落に化し、流家三百六十四、潰家二百戸、半潰二百六十戸…死亡二百五十五人負傷三十人余」と記されている。
『水災誌』の詳細な検討と現地調査を通して籠瀬良明は、山腹の超大型崩壊が山林・耕地・家屋・人命を奪い、崩壊による河床せきとめによる長大なせきとめ湖の出現で河床近くの耕地と住居を水底に沈め、人命を奪ったとしている ((
(。
さらに藤田は大水災の要因として、吉野川本流域にほとんど被害が見られないなか、十津川流域では集中豪雨に加えて、特有の地層が降水を大量に含み、崩壊しやすい条件下にあったことに加えて、幕末までのすぐれた森林資源が明治以降乱伐され、耕地化が進んでいたことをあげている。近世までほぼ無税地だった十津川郷では、地租改正による地租負担のために土地利用が変化し、間接的にであれ山地崩壊を促進させたとしている ((
(。
実際、多量の湧水を伴う群発急性型地すべりは十津川流域の北半の上流部に発生した ((
(。
籠瀬はさらにこの大水害の特性として、国内一の洪水位によるむら壊滅の悲運のなか、六〇〇戸二四八九人の住民が離村を決意し、二ヵ月後には実行され、北海道の滝川に近い樺戸郡石狩川対岸に全員集団入植して、独立村の新十津川村を立てたことをあげ、数量的外観だけでは個々の現象を把握できないと述べている ((
(。
このときの大水災は、和歌山県有田川下流域と奈良県十津川下流域の新宮でも発生したため、当時は総称して「紀和災害」とよんでいる。この水災に対して全国から救援の手が差しのべられた。『水災誌』によると、救恤金は三〇、一二〇円にのぼり、政府の北海道移住資金は一七五、七四〇余円が支出された(巻之一)。「恩賜義捐金掲記」(巻之十一)によると、一、〇〇〇円天皇・日本銀行総裁、三〇〇円皇后・大和国吉野郡吉野材木、
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四四
五、八三三円一銭四厘大阪朝日・公論新聞社(第一回・第二回募集)、二、一二一円一五銭七厘日報社(東京、同)、九一五円六八銭六厘新報社(京都)、三八〇円七銭三厘報知社(東京)、三一一円八二銭八厘関西日報社(大阪)、二七〇円大阪毎日新聞社、二〇〇円奈良県知事、一〇〇円本願寺社務所・仏教青年会[基督教青年会の誤記か]、六七円八四銭七厘女学雑誌社、三三円三三銭四厘黒田内閣総理大臣・三三円三三銭三厘三条内大臣・二五円伊藤枢密院議長、二五円各閣僚、一〇円大半の奈良県課長・東大寺・日本聖公会奈良基督教会・五条聖公会・奈良組合平城基督教会・大和国宇智郡五条町柏田久太郎、五円五条町柏田久次郎・平井勝・基督教会講義所有志・大津将校婦人慈善会・堺市長・天理教会(東京・郡山・兵庫・大坂・静岡・都河原で三〇円)など二三、六八九円四七銭一厘が記録されている。
この非常事態に際して、『基督教青年』第一号の「紀和災害救済事業本会運動略記」は、「今回紀伊大和地方における水災救恤のために奔走したる一事は…猛士雲の如く会内に起こり、公愛正義のために勇往奮進一歩も退かざる気象あるを証明する」として、詳細な活動記録を掲載している。やや長くはなるがその概要を紹介する。
八月二五日(月) 午後八時、府下連合祈祷会、川口堤广太会堂にて開催。長老教会員久世徳蔵、紀州水害の惨状を述べ、昨日有馬滞留の内外人に二五円を募集、米国教師ヘールに託す。ヘール昨夕被害地に向かう。久世、応分の義捐を訴える。大坂教会牧師宮川経輝、一四教会で救恤事務委員を選挙し運動することを提案、了承される。大塚惟明、宮川に指名を要請。宮川、聖公会の中川藤四郎・清田海一郎、組合教会の前神醇一・一致教会の渡辺為蔵、長老教会の久世徳蔵を推挙、一同賛成。
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四五 八月二八日(木) 午後四時、救恤委員の要請で一四教会の牧師・委員、青年会館に参集。清田の司会で救恤方法を論議。①救恤は惨状を極め焦眉の急に迫れる十津川から行う、②救恤方法は先ず一人の視察員を五条に派遣し、五条聖公会・第三倶楽部員から状況を聞き臨機に対応する。午後八時、慰主教会の小畑貞恵、現地へ向う。八月二九日(金) 午前三時に小畑は五条、未明に教会に。十津川のための祈祷会開催中。柏田久太郎・平井勝を伴い午後三時に帰阪。桜井徳太郎、現地司令の任に。午後八時半、青年会館で府下信徒に向け第一回紀和水害惨状演説会を開催。大塚の司会で、大阪基督教徒青年会の事業が始まる。小畑、平井、柏田、十津川の地勢と惨害の状を曲陳。聴く者は感泣。十津川の地は幅一〇里、長さ三〇里だが、八月に入り連日の降雨で山崩れ、地裂けが起こる。五条の梅本某が坂本村を経て現地に入ると、被害地は一大湖水化しており、河水が逆流し、深さ数十丈の濁水の大湖に。これらの崩壊と湖水化は百ヵ所にのぼっている。出動警官・兵士も何もできず、罹災民は降雨にさらされ飢餓に苦しんでいる。湖水の対岸では、腐って虫の湧いた死猫を裂いて食べたり、二頭の牛を殺して生肉を食べたりしている一群の罹災民もいる。体力が衰え、助けを求める声も出せずに死に瀕する状態である。宮川が救恤方法を、①各自の応分の寄付、②金銭の義捐だけでなく、体躯屈強な人は挺身して一切を主に献じ被害地に出かける、あるいは米塩梅干衣類などを持ち罹災民に接して救助に従事する、③青年が平素弁舌を練るのは今日のような時に用いるためであり、戸毎に路傍に世人の同情心に訴える、と方策をまとめた。大塚のもとに義捐金五〇余円が集まる。久世徳蔵・白川・曽我部・才阪・木村が被害地行きを名乗り出る。八月三〇日(土)[ 八月三一日か] 救恤委員は一四教会の牧師・信徒より、本間重慶・望月興三郎・大塚
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四六 惟明・和田秀豊・宮川経輝・小畑貞恵・寺沢久吉・青木仲英・左乙女豊秋・吉束次武の一〇名を商議委員、大塚を出張演説事務長、吉束を会計係に。大塚は白布に「紀和罹災義金募集大阪基督教徒青年会」と墨書して七流の旗を作る。午後一時、救恤委員・商議委員・勇壮活発な青年諸士六〇人、会館に参集。路傍演説の許可を警察本部に願うが得られず、大坂教会・浪華教会・北一致教会・南久太郎町講義所・嶋ノ内教会・第二長老教会各教会での演説に。隊員を六隊に分け、岡村・鈴木・井川・井上・中川・大塚、各隊を率いる。福音社で印刷した数千枚の「義捐募集趣旨書」に手分けして、「水害惨状演説八月三一日午後八時何地何教会」と記入し、六隊六流の旗を立てて会館を出発。天満教会の福谷・堀など白髪の老翁も少なからず。雨中、担任場所近傍の戸毎に「義捐募集・演説会」刷物を配分し、午後八時に各会堂で開会。決算日と強雨が重なり浪花教会では聴衆なし。会堂前で飯塚の演説を聴いた老媼、家から三銭を持参し拠金する。南久太郎町講義所の集金一三銭。大坂教会では左乙女が演説、九一銭五厘。嶋ノ内教会では柏田が演説、一円三八銭。北一致教会では三七銭一厘。合計集金二円九二銭六厘。九月一日(安息日) 牧師と青年会員、各教会で義捐金を募集。午後一時、七隊の会員四・五〇名、会館に参集。路傍演説が許可されず、四ヵ所での軒下演説を行う。午後三時、青年会館前に群衆雲集、福谷・大塚ら一〇人余、十津川の惨状を二時間の演説、集金三円一四銭二厘。中仕、車夫、長媼などが義捐し、高帽美髯士の冷眼と嬋媚窈窕の婦人の嘲笑にあう。泰西学館前は三四銭四厘、石原時計商前は三円一銭、合計集金六円四九銭六厘。本日、第一回派遣救助員として、久世・曽我部・白川、坂本口から熊野路を経て十津川に向かうため、神戸で軍用麺麭七百斤を買い、夜神戸を発つ。午後七時半、青年会館で第二回紀和水害惨状演説会を開催。聴衆満堂立錘の地なし。大塚の司会で、平井・宮川・柏田が実情を説き、義捐を奨励。過半は
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四七 教外の人で、すこぶる感動する。義捐金二五円ばかり。散会時に中川杢治という人物が活動を申しでる。九月二日(月) 午後一時、一同会館に参集。岡村・吉岡・二宮・中川・大塚・奥村が隊長となり六隊を堂島北倶楽部・湊町ステーション・青年会館・石原商店・上田商店・川口客船に派遣。川口客船では二時から小畑・鈴木・藤本・紅露・山本・牛窪が二手に分かれて演説。当初、船客にすこぶる冷遇・嘲笑されるが、被害地の実情・罹災民の惨状・飢渇、猫肉を食べている事実、基督信徒の博愛、青年会員の運動、献身者の被害地進入などに及ぶと、はじめて粛然襟を正し敬意を示す。下等室の乞食が五厘、僧侶が二〇銭を寄付。この日各所の集金計一四円。教会より募集の金額は、委員清田・前神・渡辺・中川が本職を投げうちこれに従事する。夕刻、青年会館休憩所に商議員・救恤委員一同が集会。被害地視察及び実地救助委員第二回派出に一致教会伝道師鈴木寿一を五条経由で坂本口から現地へ、小畑貞恵が五条まで同行。九月三日(火) 未明、鈴木・小畑は五〇円を持ち大阪を発つ。午後・夜に大塚は堂島・塩町・川口船客・京町・堀杉之原門前・上田済生堂前などで募金。これ以前に、河内国富田林新道村・古市村などに嶋ノ内教会二人・大坂教会佐治徳三郎が、堺地方に青年会員奥村・伊東・中川・浜田・角中、三一神学校の三神熊三が尽力奔走、二〇円余を集金。京都で嶋ノ内教会山口信太郎・五条の柏田久太郎が平安教会・四条教会で遊説後、比叡山で避暑中の外国人を説く。保羅教会は南区・伝法村で須本浩・永田保次郎らが演説会。夜、青年会館に集合、第一回路傍演説会の集金四五円五八銭三厘に。九月四日(水) 夜、会員一同青年会館に参集し商議会。望月会長の司会で第二回募金を五日からに。大塚は再度事務長に当選するが、口中の腫れもので飯塚が代行する。九月五日(木)・六日(金) 昼、川口汽船に。夜、上田貞次郎門前で募金。柏田が五条に帰る際に救恤事
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四八 務所より二五円・照暗女学校ミス・ウィリアムソンより二五円を託す。小畑、五条より帰阪、商議員・救恤委員が会館に参集。小畑は、十津川では米塩が補われたが、山頂に露宿して風雨と飢渇に見舞われた人びとが劇性の熱病に罹り、老幼婦女ともども早く五条の避難場に入れるべきこと、医師・看護人の派遣、三~四〇円を送るべきこと、強壮な男女には一人五〇銭の旅費を与え、大阪で紡績所・摺附木製造所・信徒の家での奉仕が得策であることを報告。九月七日(土) 第三次派遣員として、嶋ノ内教会医師飯野勝三郎と助手山口信太郎、三〇円を持ち五条へ発つ。鈴木より電話機で、厚套百枚・衣百枚を至急送れとの連絡。救恤委員渡辺為蔵、これを用意し車丁に送達させる。代金三〇円余。午後~夜、大塚ら上田門前で路傍演説。九月八日(日) 路傍演説第二回募集終了、上田宅で感謝会。集計は五〇円程か。九月九日(月) 午後二時、一四教会より二名の委員を派遣して青年会館に参集。左乙女が議長で①紀和災害救済事業をさらに活発化させる、②救恤委員を三名増加し、うち一人を委員長とすることとし、宮川・大塚・左乙女が選考、救恤委員決定。前神・渡辺・清田・中川・久世・宮川・大塚・左乙女を委員とし、宮川を委員長とする。午後五時散会。府下中ノ島の刷物業岡本、惨状演説を聴き、負債の月賦返済を延ばして義捐金一円五〇銭を浪速病内の救恤事務所に持参。前神、感嘆して受納。堺の煉瓦焼職人辻尾一松、堺倶楽部での大阪青年会員の惨状演説を聴き、赤貧にもかかわらずなけなしの貯金五円を義捐。九月一日、青年会館の第二回紀和水害惨状演説会で平井・宮川・柏田が演説。自然堂病院長某感激し、代診和田(元聖バルナバ病院勤務)を五条に派遣。和田は近く入信の予定。・路傍演説に参加し尽力した青年会員:浮田・谷川・小畑・大塚・角中・岡村豊三郎・門田・堀口・青木・
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動四九 堀・山口・上代・福谷・今田・山本・林・広瀬・長野・田鹿・須本・永江・牛窪・内田・管 ママ原・岡村・村上・松田・飯塚・三宅・中川貞之助・中川国之助・三木・和田・皆川・鈴木・井川・浅山・立山・高田・嶋崎・奥村・二宮・上田・紅露・井上・三上・富嶋・藤本、その他数人。
『基督教青年』第二号(八九年一〇月一一日)の同盟諸青年会記事「大阪青年会」の概要も紹介する。
九月二三日(月) 夜、青年会館で紀和水災救恤の実地視察報告会を開催。数百名参加。清田海一郎の司会で、久世徳蔵・白川両季・鈴木寿一・飯野勝三郎が報告、曽我部四郎・山口信太郎は時間切れ。望月・前神が会計報告。有志三〇名、常安橋畔の西洋楼で慰労の会食、本間重慶が派遣員に挨拶。同夜の報告概要久世・曽我部・白川は神戸から海路紀州へ。八月三一日~九月一三日まで。神戸で軍用パン七百斤・塩四俵・梅干三樽・缶詰・牛乳・昆布・ブランデーなどを用意し、近傍の諸教会を遊説して義捐金を募集。九月二日午後、出帆、九月三日午後、紀伊の南端田辺に。街路の不潔・人家の惨状、全市の溺死者百余名。田辺から三輪崎・木ノ本などに寄港。九月五日、新宮着。荷物を陸揚げし、川舟に移し十津川を遡上。両岸は潰家、山崩れ、倒木など充満。九月六日、十津川郷五五ヵ村の竹筒村へ。村総代の斡旋で人足を雇い山坂を登り山頂の社務所に一泊。九月七日、山を下り、二手に分かれ、中十津川と南十津川・西十津川へ。曽我部他一人は中十津川の高滝・小原・小森・山崎・野尻村へ。救済品を施し、九月九日に河津で合流。久世・白川は杉立込の上平谷・山手
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五〇
谷・垣内・知合・玉垣・内西・中大谷などの被害地に物品を分配し、機を見ては主の道を宣伝し河津へ。その後三日間は山を越え高野から河内を経て大阪へ。各村で総代・村長・旅亭の主人らに歓待され、どこでも人足賃銭を受け取らず。ある村では旅費が尽きて宿料の不払いを承諾された。地方人民の歓待は主の名が歓待されたと感謝した。鈴木・山口・飯野は五条から坂本口より紀州へ。九月三日、鈴木は大和五条の基督信徒罹災救恤事務所へ。第三倶楽部救恤事務所で病者のための医師の必要を要請され、五条警察署から電話機で医員派出を大阪青年会事務所に通報。九月五日、現地兄弟と救助方法の相談会。南罹災地からの者が着替えもなく、汚穢衣類が発病原因になりかねないと浴衣一枚支給と決め、反物を買い入れ信徒中で仕立てて配布。アッシ(厚子)百枚・シャツ百枚送達を電話機で青年会事務所に請求。九月六日午後、医師飯野勝三郎・助手山口信太郎が到着。九月七日午前一〇時出立、午後六時に坂本村の中字天ノ川辻で一婦人を治療、さらに一四・五名を治療。九月八日、坂本村で南海倶楽部員から小代村にも病人と聞き難路へ。同村は十津川上流の野長瀬川より険路二〇町余登った険しい山中の地で、山崩れで五戸押し潰され八人死亡、負傷者が七・八人いる。山腹に大きな割れ目ができ、残された家でも家財を持ち出し、恐る恐る暮らしていて、実に危険だった。木の根、岩角を伝って辻堂村・宇井村・閉君村へ。同村で五・六人を施療。九月九日早朝、長藤村に向かうが、河原樋堰留が壊滅し進めず、山伝いに沼田原村字寺瀬見・野瀬見などの山間から長藤峠の険を超え、一一時頃長藤村へ。同村で五条から来た工夫頭の負傷を治療し、紀州有田郡からの工事人夫四・五名の熱病に投薬。朝日川を渡り、玉置旧郡長圧死のツンボ茶屋崩壊後を経て上野地へ。同村生存者中に病人多く、筏で対岸に渡り見舞う。夜、湖上を渡り高津村へ。同夜から翌朝まで三八名を施
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五一 療。九月一一日、大風雨で進めず。九月一二日、午前七時出立。前日の降雨で風屋村との道路が険悪で、四時間かかり一二時に国谷へ。同村・龍川村の一〇人を施療。夜、野尻村が危険なので、九月一三日朝、山崎村へ。九月一四日、山崎村・野尻村の病人一一人を治療。午前一〇時前出立、午後池矢那、中原を経て午後一時に小森村へ。隣村湯ノ原村谷で難路を越えて松葉徳平・寅吉父子を見舞う。父子は山崩れで住宅が埋没、下敷になり重傷。三畳敷ほどに板の間に二人の病者と五人の母子は、戸障子・敷物もなく、着のみ着のままで、夜具も蒲団三枚だけで、手当治療をして少しの金を与えたが一同落涙した。苦痛のなか病人は涙を流して大いに喜び、これまで如何なる服薬も膏薬も無ったが「懇切なる人の来り助けらるゝは実に天の冥助なりと涙を流して喜べり」。険路を越え小原村へ。九月一五日、午前九時出立、小原峠から橿原村、平谷村へ。七・八名を施療。九月一六日、山口は所用で大阪に。鈴木・飯野は西山川村・重里村・玉恒村で各七・八名を施療、西中村で一〇名を施療。九月一七日、早朝出立、三浦峠、三浦村、山天村へ。九月一八日、五百瀬村、水暇村水ケ峯で十津川巡回を終了。八月三一日~九月一七日の募集金額一四〇余円、南区医師八四名から義捐金五五円七四銭、その他諸種の金を報告会当日の正午までに事務所に届ける。総金額は六一二円三三銭三厘。同日までの支払額高は、二三八円一四銭四厘。
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五二 以上の「略記」によれば大阪の一四教会員・一講義所員と青年会員は、水災直後の八月二五日から九月一八日までの二五日間にわたる連日の救恤活動で、総額六一二円三三銭三厘の募金を集めている。活動概況は次のとおりである。
八月二五日 救恤事務委員を選出。
二八日慰主教会の小畑貞恵を五条に派遣。
二九日 青年会館で第一回紀和水害惨状演説会。
[三一日]救恤委員を一四教会の牧師・信徒より一〇名選出。各教会で演説。
九月 一日 牧師と青年会員、各教会で演説、義捐金を募集。
第一回派遣救助員、久世徳蔵・曽我部四郎・白川両季、神戸で軍用麺麭七百斤など購入、各教会で演説。
青年会館で第二回紀和水害惨状演説会。聴衆満堂立錘の地なし。
二日 一同会館に参集。六隊を堂島北倶楽部・湊町ステーション・青年会館・石原商店・上田商店・川口客船に派遣。青年会館休憩所に商議員・救恤委員一同が集会。
久世・曽我部・白川、神戸から海路紀州へ。
三日未明、被害地視察及び実地救助委員第二回派出に一致教会伝道師鈴木寿一・小畑現地へ。大塚惟明、堂島・塩町・川口船客・京町・堀杉之原門前・上田済生堂前などで募金。これ以前に、河内国富田林新道村・古市村などに嶋ノ内教会二人・大坂教会佐治徳三郎、堺地方に青年会員
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五三 奥村・伊東・中川・浜田・角中、三一神学校の三神熊三が尽力奔走。京都で嶋ノ内教会山口信太郎・五条の柏田久太郎が平安教会・四条教会で遊説、比叡山で避暑中の外国人を説く。保羅教会は南区・伝法村で須本浩・永田保次郎らが演説。
第一回路傍演説会の集金四五円五八銭三厘に。
久世ら、紀伊の南端田辺に。
鈴木、大和五条の基督信徒罹災救恤事務所へ。五条警察署から電話機で医員派出を大阪青年会事務所に通報。
四日 会員一同青年会館に参集し商議会。望月興三郎会長の司会で第二回募金を五日からに。
五日・六日、終日募金。小畑、五条より帰阪、商議員・救恤委員が会館に参集。
久世ら、新宮着。荷物を陸揚げし、川舟に移し十津川を遡上。
六日久世ら、十津川郷五五ヵ村の竹筒村へ。
第三次派遣員の嶋ノ内教会医師飯野勝三郎・助手山口が五条に到着。 七日飯野ら、午前出立、午後坂本村の中字天ノ川辻で一婦人を治療、さらに一四・五名を治療。
大塚ら上田門前で路傍演説。
久世ら、中十津川と南十津川・西十津川へ。~九日まで被害地に物品を分配。
八日 路傍演説第二回募集終了、上田宅で感謝会。
飯野ら、険路二〇町余登った険しい山中の難路を、八人死亡して負傷者が七・八人いる小代村へ。さらに辻堂村・宇井村・閉君村へ。同村で五・六人を施療。
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五四 九日 一四教会より二名の委員を派遣して青年会館に参集。①紀和災害救済事業の活発化、②救恤委員を三名増加、救恤委員決定。前神醇一・渡辺為蔵・清田海一郎・中川藤四郎・久世・宮川経輝・大塚・左乙女豊秋を委員とし、宮川を委員長に。路傍演説参加の青年会員は名前が記されている者、幹部のほかには五〇余名。
飯野ら、長藤村に向かうが進めず、山伝いに沼田原村字寺瀬見・野瀬見から峠の険を超え長藤村へ。五条から来た工夫頭の負傷を治療、紀州有田郡からの工事人夫四・五名の熱病に投薬。上野地村生存者中に病人多く、筏で対岸に渡り見舞う。夜、湖上を渡り高津村へ。同夜から翌朝まで三八名を施療。
一一日 飯野ら、大風雨で進めず。
一二日飯野ら、降雨で風屋村との道路が険しく、四時間かかって国谷へ。同村・龍川村の一〇人を施療。
一三日野尻村が危険なので山崎村へ。
一四日 飯野ら、山崎村・野尻村の病人一一人を治療。池矢那、中原を経て小森村へ。隣村湯ノ原村谷で難路を越え、住宅埋没の下敷で重傷の松葉徳平・寅吉父子を見舞う。険路を越え小原村へ。
一五日 飯野ら、小原峠から橿原村、平谷村へ。七・八名を施療。
一六日飯野ら、西山川村・重里村・玉恒村で各七・八名を施療、西中村で一〇名を施療。
一七日 飯野ら、三浦峠、三浦村、山天村へ。
一八日飯野ら、五百瀬村、水暇村水ケ峯で十津川巡回を終了。
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五五 二三日青年会館で紀和水災救恤の実地視察報告会。数百名参加。久世・白川・鈴木・飯野が報告。望月・前神が会計報告。
八月三一日~九月一七日 募集総金額は六一二円三三銭三厘。
このように、大坂教会牧師宮川経輝を中心に大阪の一四教会・一講義所の牧師・会員と青年会員らは救恤委員会を組織して、教派を越えて一ヵ月にわたって水災被害民の救援活動を行った。無名の数百人規模の献身的かつ迅速なキリスト教徒行動力こそが、独自の機関誌発兌のエネルギーの一つであったと考えられよう。
三 十津川大水災の記録
これらの活動は『水災誌』や当時の報道でも見受けられる。ここでは、『水災誌』と『大坂朝日新聞』から大阪青年会員らの活動を確認してみる。
『水災誌』での記述は次の通りである。
[巻之二大搭村]九月二日 在阪平井、柏田二氏ヨリ左記ノ書簡達セリ…今朝話ノ都合二ヨリ当地兄弟三人ト神戸ニ遊説スル事トナリ只今ヨリ停車場迄行キ升干パンヲ持テ桑原ヨリ被害地ヘ三人熊野ヨリ入リ込升事ニ決シマシタ今晩ハ私共当地ニテ路傍演説セル積リテス明晩ハ青年会堂ニテ演説ヲヤリ升関西ヘハ是カラ一寸寄リ升
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五六 大阪土佐堀湊橋南詰日向屋吉兵衛 二十二年九月一日 平井 勝 柏田 久 大和第三倶楽部御中 九月五日 附記 桜井寺避難所ニ於テ罹災民中疾病者ニ対シ五条町林元貞氏近藤春斉氏及ビ大阪自然堂病院黒田龍氏大阪基督教青年会員飯野勝三郎氏等ノ医師ハ施療且施薬セラレタリ
[巻之四 北十津川村]九月八日 大阪自然堂病院医員和田秀一郎氏大妻武馬等谷瀬井村熊二郎(森本)宅ニ来リ此地(谷瀬)及ビ宮原ノ患者七十余人ヲ施療セリ
[巻之五 下十津川花園村] 九月九日 耶蘇教会員久保〔久世の誤記〕徳蔵等被害民救助ノ為麺包ヲ輸送シテ村役場ニ来レリ九月一二日 大阪仏教青年会[基督教青年会の誤記]幹事鈴木寿一特ニ窮民施療ノ為メ医師飯野勝三郎等両三人来リ風谷及ビ山崎ニ滞留スル事両三日ニシテ去レリ[巻之六 中十津川村] 九月一二日 大阪仏教青年会[基督教青年会の誤記]幹事鈴木寿一同医員飯野勝三郎等湯之原巡回松葉寅蔵等数人施療セラレタリ
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五七 九月一三日 鈴木仏教青年会[基督教青年会の誤記]幹事飯野医員等小原地方ヲ巡回セリ九月二五日 大阪長老教会員久世徳蔵医員ヲ伴ヒ来リ村内ノ負傷者若クハ病患者ヲ施療セリ「備荒儲蓄並ニ恩賜義捐ノ救助」附記 小原小林湯之原小井武蔵及ビ大野ノ人民ヨリ救助ニ支消セシ金穀物品ノ価値並ニ奈良県衛生課員佐々木正大阪仏教青年会[基督教青年会の誤記]員鈴木寿一同長老教会員久世徳蔵等ヨリ村内患者若クハ負傷者ニ施療セシ薬価等ハ共ニ詳計記述スル事能ハズ[巻之八 南十津川村]「官吏並ニ有志者巡視」附記 被害後病患アル者或ハ貨財ニ窮シ或ハ医師ニ乏キヲ以テ治否自然ニ一任シ去ル者尠カラザリシガ九月四日大阪仏教青年会[基督教青年会の誤記]幹事鈴木寿一医員飯野勝三郎、助手山口信太郎等窮民施療ノ為メ平谷ニ来リ地方ノ患者ヲ召集シ施療投薬シテ去レリ「衛生」九月四日 是日大阪仏教青年会[基督教青年会の誤記]幹事鈴木寿一医師飯野勝三郎、助手山口信太郎窮民施療ノ為メ村役場ニ到リ地方ノ患者数人ヲ召集シテ施療セリ九月七日 七日和歌山、奈良県両被害者救済事務所(大阪高麗橋四丁目浪華病院内ニ在リ)派出員大阪長老教会員久世徳松[徳蔵の誤記]、同嶋ノ内教会員白河両季、京都四条教会員曽我部四郎村役場ニ来リ「パン」二包塩一俵ヲ被害民ニ義捐セラレタリ この『水災誌』の記録は大阪基督教青年会を仏教青年会と誤記しているが、大塚惟明が記した「紀和災害救済事業本会運動略記」とほぼ重なる。大水災発生に際し、吉野郡では八月二七日に大阪の朝日・関西、東京朝日・東京日日、京都の日の出、神戸の又新、奈良の大和の七社に義捐募集広告を出している ((
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『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五八 八月二五日夜の府下連合祈祷会で、五条の長老教会員久世徳蔵の義捐の訴えがあり、さらにこうした広告に接して大阪青年会の救助活動が具体化していったと考えられる。
次に『大坂朝日新聞』を見ると、大水災関係記事は八月二二日の「奈良地方の水況」から一〇月二〇日の和歌山県下義金名簿(合計金額五、八〇八円六二銭七厘、『水災誌』五、八三三円一銭四厘の九九・七%)まで、ほぼ二カ月間に及んでいる。この間の主な報道は次の通りで、詳報だけでも一九回にわたり、現地入りした記者らも命がけの取材だった (((
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小野米吉 大和大変災報(一)~(七)八月二八日、二九日、三〇日、九月一日、三日、四日、六日 松本幹一 和歌山県下水害の実況(一)~(六)八月三〇日、九月一日、五日、一三日、一七日、一八日 上野岩太郎 十津川変災地視察記事(一)~(六)九月四日、五日、七日、八日、一一日、一四日、一五日 奈良県下の大変災義捐金募集広告 四回 八月二七日、二八日、二九日、九月一日 奈良・和歌山県下の変災義捐金拠出者・金額 八月二八日~一〇月二〇日 天之川十津川両郷変災略図 八月三〇日 奈良県下十津川地方変災実況之図 九月一五日 和歌山県下西牟婁郡中変災実況之図 一〇月一五日 なお、『東京朝日新聞』も「大慈大悲の大方の諸君に望む」とする熊本・福岡・和歌山・奈良四県下天災被害者救助の募金広告を九月二日~七日に出している。
現地特派員の記事は長大で、被災状況と救援活動の実際を克明に伝えている。たとえば、九月四日の上野岩
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動五九 太郎「十津川変災地視察記事第一」によれば、十津川下流の南十津川村大字平谷では八月二〇日の午前一時三〇分頃には川沿いの家屋が流出し、住民は山上に逃れたが午前五時頃に水嵩が最高となり、数百千の材木が上流より流れてきて岩石に衝突したが、一一里上流の高津と林の間の山崩れで奔流が止り、上流は茫々たる湖水となり、その逆流で上野地・谷瀬・宇宮原などは甚だしい被害となった。北十津川村役場のある上野地では、三〇余戸の人家が湖水上に漂い悉く沈没し、二〇日の午後一時頃、湖水は決潰し下流の水位は六〇尺計り増水、川津は惨害が甚だしかったという。こうした決潰被害は十津川全流域に及んだ (((
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一方、北十津川村の三浦には吉野郡役所の救助米分配所が設けられたが、五条から高野・上西を経て三浦への運送には一升の米価が一二~一三銭になり、沿道の男女が一人二斗ばかりを肩にして、「千仞の幽谷に下り」「嵯峨たる高嶺を越え」険悪な路を運んだという。当時、東京の米価が白米一升七・七銭ほどで、一・六倍となる (((
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九月五日の上野の「承前」記事によると、北十津川村神納川(神之川)流域の杉清・五百瀬・三浦・内野・山天の五ヵ村のうち杉清では最大の崩壊が起き、出現した湖水の決潰が起こり、小規模な崩壊は百ヵ所を超えた。同村では四町一反歩の田地の百分の九九までが砂原となり、九町の畑地も六〇までが荒地となった。このため窮民二〇余名を五条に退避させるという。材木と椎茸を紀州新宮地方に出荷して、年々数百円を得ていた数十名は無収入になる状況で、夥しい窮民が村総代宅に集まり、「何れも皆觳觫として死地に入らんとする人の如し」で、慰めの言葉をかけると「泣かんとして泣く能はざるの状」であったが、同地方はまだ被害の少ない地方だったとある。
こうした水災のなかでの大阪地方のキリスト教徒の救援活動は以下のように報じられている。
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動六〇 八月二九日 小野米吉「大和大変災の特報(三)」 五条の基督聖公会員は此度の事に関し辻演説をして義金を募り同会の婦人も亦別に婦人等より之を募りて救助金に充るの考案なりと 九月一日 小野米吉「大和大変災の特報(五)」 大阪青年会は救助金募集等の為当地に来り被害地実見の考へなりしかど実地に臨む事の容易ならぬを悟り当地の基督聖公会員等と謀り義金募集の事に従ふ筈なり附ていふ今日正午迄に第三倶楽部へ集まりし義捐金は三百二円外に米五十四石なりと聞く
九月五日 「義金募集の路上演説」 当地基督教青年会に於いて和歌山、奈良両県罹災者救済に従事する次第は先号の紙上に之を記載し爾後同会は心斎橋筋今橋の浪華病院に両県救済事務所といへるを置きしは已に其広告せし所なるが仍同員会は路上に罹災者の情態並に宜しく救済すべき事等を演説して義金を募集する事とし此程より之を始め即ち八九名づゝ一団となり白金巾の大旗に「紀和罹災義金募集、大阪基督教青年会」と大書したるを押立て市内を巡廻しつゝ、那 あ首 ち這 こ頭 ちに停り演説するものにて已に一昨々日午後堂島に演説せし時などは斯一団を繞りて之を聴聞せし許多の人の中より立ちどころに五円余の金を得て夫々受取書を出し居りぬ 九月六日 小野米吉「大和大変災報(七)」[五条発]当地基督教聖公会員等は路傍演説等をなして被害者の為に義金を募るの労を吝まざるのみか全国各地の同教会及び基督教に関する各府県下の学校等へも義捐金募集の手数あらん事を夫々郵書を以て照会せしとの事なれば追々義金の寄贈もあるべし同会員らが初の路傍演
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動六一 説をなせしは一は以て直接に義金を募り一は以て聴者をして感動せしめなば間接に被害者の利益となるべしと云ふの考案より出しものにて即ち非常に感動を与へしと見え義捐金を寄する者意外に多しといふ九月二二日 「仏教家と基督教者」 本年各地に起りし天災地異は九州地方を始めとして紀伊大和に及び尚尾張三河より奥羽諸国に至りいづれも劣らぬ相当の惨状を極め此間に慈善家の競ふて救済の事に従ふものありといへども被害地の範囲広く且大なるを以て到底慈善の充分満足に行届くべきにあらざるや知るべし是に於いてか基督教者は平素信ずる所の道に由りて頻りに被害者の救済を図り路傍演説に実地派出に夫々及ぶだけの力を尽し殊に外国人宣教師等自から奔走の労を取るものあり然るに仏教家は一二追吊法会又は施餓鬼など執行して被害死者の冥福を祈り若くは仏教演説をなして浄財喜捨イヤ義捐の心を促すの方便を施すものなきにあらずといへども之を基督教者に比すれば未だ彼の如く熱心ならざるに似たり此際慈善家の力及ばざる所を補ひ以て其力を尽すは仏教家の本分なるべし何ぞ少しく奮発して衆生済度(未来にあらずして現在)の意を拡め渠等困頓流離の人民を弘誓の船に導きて彼岸に達せしむるの道を図らざる聞くが如くなれば真宗本山の両本願寺の如きは疾くに此志ありといへども両本山とも其内部に言ふべからざる紛雑の事情ありて之が為に掣せられ事の此に及ぶに暇あらざるなりと若し斯る事実の真にありとすれば益々仏教家の為めに嘆せざるを得ず云々との投書あり如何にも一応尤もらしきところのあれば姑く其侭掲げおきぬ このように教派を超えた大阪地域のキリスト教徒と青年会員の救援活動は、「耶蘇」攻撃が絶えないなかで、路傍演説に足を止めた人びとや被災地住民のなかから一定の共感と理解、感謝の念で迎えられ、社会的認知へ
『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動六二
と歩を進めたと見ることができよう。『大坂朝日新聞』九月二二日の「仏教家と基督教者」は慈善事業への両者の姿勢を世間がどう見ていたかを象徴的に示している。
注(
( は若き日のキリスト教への言及がない。 料比朝う。いといなは史知認確が、るあと師」牧会奈編『財泉新に年)九〇九一社、聞友翰(毎巻』下談敗失士名界教約 仰ス)。典』事大史歴教トリ聖キ本『日明」惟塚郎「大八『信三平店、阪は「大に年)一二九一書十社醒(警伝』列者督基年 大阪聖ヨハネ教会(聖公会)の伝道師となり、のち実業家の父の後を継ぎ南海鉄道社長、大阪市会議員・参事会員(伊沢 (大塚惟明(一八六四年五月七日~一九二八年一二月二八日)は大阪の聖テモテ学校・立教学校・東京三一神学校を経て)
() 主な研究に次のようなものがある。
宮本常一「十津川崩れ」『水利科学』
(─
。二月(『宮本常一著作集』一〇巻所収、未来社、一九七一年) (五き一九年一七九一号、八四く』る八み、る『あ記」村開川津十「新年・く 小出 博『日本の国土(下)』東京大学出版会、一九七三年、四四三~四四九頁。
千葉徳爾「明治
((年十津川災害における崩壊の特性について(
()(
()」『水利科学』
((─
(、
(、一九七五年。
籠瀬良明「明治二二年十津川水害」『災害の歴史地理』(『歴史地理学紀要』
((、一九七六年)二〇一~二二五頁。
藤田佳久「明治二二年の十津川大水害」『地理』
((─
(、一九八三年。
平野昌繁・島津俊之・野尻 亘・奥田節夫「吉野郡水災誌小字地名にもとづく1889(明治
の比定─南十津川・東十津川─」『人文地理学紀要』 (()年十津川災害崩壊地
((─
(、一九九一年。
岩波『近代日本総合年表』には七月二八日の熊本県の地震(死者一九人)、九月一一日の暴風雨による愛知県での津波(死者八九〇人)があるが十津川大水害はない。(
() 宮本前掲書、二五九~二七四頁。