ケベック問題は終わったのか : ケベック・ネイシ ョン論争が意味するもの
著者 太田 唱史
雑誌名 同志社法學
巻 63
号 1
ページ 799‑827
発行年 2011‑06‑30
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013798
ケベック問題は終わったのか 七九九同志社法学 六三巻一号
ケベック問題は終わったのか
︱
ケベック・ネイション論争が意味するもの︱
太 田 唱 史
︵七九九︶ はじめに
﹁ケベック問題﹂と聞いてほとんどの人がまず思い浮かべるのは独立問題であろう︒一九九五年のケベック・レファ
レンダムはあわやカナダの分裂かという事態までに至り︑国際的にも大きな関心を呼んだ︒当時は日本でもケベック独
立問題が﹁民族問題﹂の一つとして論じられることが多かった︒しかしケベック問題イコール独立問題だと捉えると︑
それは問題を単純にみすぎていることになる︒というのも︑一九九五年のレファレンダムは︑ケベックのフランス系の
人々がただ単に自分たちの国家を持ちたいという自民族中心的なナショナリズムを振りかざした結果というわけではな
いからだ︒そこに至る背景にはもっと複雑な︑政治学的に見て非常に興味深い問題が存在していたのである︒つまり︑
国家の在り方そのものに関するケベックとケベック以外のカナダとの間の見解の相違︑対立がそこにははらんでいたの
ケベック問題は終わったのか 八〇〇同志社法学 六三巻一号 ︵八〇〇︶
である︒ ケベックでは︑多くの人々がケベックという共同体をネイションと捉え︑カナダを平等な立場にある複数のネイショ ンによって構成される﹁マルチナショナル・ステート﹂︵
multinational state
︵︶とみなしている︒そのためそうした多様 1︶
性を支える連邦体制への変革が必要であると主張してきた︒しかしケベック以外のカナダでは︑大多数の人々がカナダ
をただ一つのネイションから成る﹁ユニナショナル・ステート﹂︵
uninational state
︶と考えており︑一貫してケベックの考えに反対してきた︒したがって︑自分たちの要求を認めてくれないカナダに対するケベックの人々の失望︑苛立ち︑
不満といった感情が一九九五年のレファレンダムの結果に反映されたというわけである︒
ただ︑ケベック・レファレンダムから早いものですでに一五年以上がたった︒この間︑行財政面における連邦制の再
編成も行われ︑ケベック融和もかなり進んだというのが大方の評価となっている︒さらに︑二〇〇六年一一月二七日に
は︑﹁ケベコワは統一されたカナダ内でネイションを形成する﹂︵
the Québécois form a nation within a united Canada
︶という内容を含む動議がカナダ下院議会で可決されるにいたった︒
となると︑こうした動きは︑ケベックが長年主張してきたマルチナショナル・ステートへと近づいたことを意味する
のだろうか︒ひいては︑ケベック問題の終わりがここにきてようやく見えてきたということになるのだろうか︒それを
明らかにすることが本稿の目的である︒その考察にあたってここでは先に挙げた動議に注目することにする︒この動議
がカナダ国内において大きな論争を引き起こし︑ケベック問題の本質ともいうべきものを今一度露呈させたからであ
る︒ただ︑本論に入る前に︑まずネイションという概念を整理し︑なぜケベックがネイション概念を使い︑マルチナシ
ョナル・ステートを提唱するのかを説明しておくことにする︒
ケベック問題は終わったのか 八〇一同志社法学 六三巻一号
1
.ネイション概念とケベックの主張 ネイション概念の整理といってもその概念自体がこれまで大きな論争の的となってきたため︑それを詳細に論じることは大変な作業となる︒そのためここでは︑概念をめぐる議論自体に深入りすることはせず︑基本的なところを確認す
るだけに留めたい︒
さて︑何らかの概念を説明する際にまず定義から入ることが一般的だが︑困ったことにネイションに関してはいきな
りここで躓いてしまうことになる︒研究者の間で長年にわたり多くの議論が繰り広げられてきたにもかかわらず︑ネイ
ションの定義はいまだ明確とはなっていないからである︒ただそれは︑専門家がどのようにネイションを定義したとし
ても︑現実の社会において人々はネイションを曖昧かつ多様に用いるため︑﹁科学的定義﹂をいくら行おうとその意味
がなくなってしまうということにもよる ︵
︒ 2︶
したがってここではとりあえず︑ホブスボーム︵
E. J. Hobsbawm
︶に倣ってア・プリオリにネイションを定義することはせずに︑﹁そのメンバーが自らを﹃ネイション﹄のメンバーとしてみなしている十分に大きな集団﹂を﹁ネイシ
ョン﹂として定義しておくことにする ︵
︒ 3︶
ただ定義の問題は未解決のままであるにせよ︑ネイションに関してはっきりいえることが一つある︒それは︑一八世
紀後半以降の国際社会において︑ネイションという単位が非常に重要な地位を与えられてきたということである︒つま
り︑近代国家がネイション・ステート︵
nation-state
︶といわれるように︑ネイションと国家が密接に結びつき︑国家はネイションによって構成されるとされたのだ︒それゆえ︑日本ではネイションを文字通り﹁国家の民﹂である﹁国民﹂
と訳し︑ネイション・ステートを﹁国民国家﹂と呼ぶようになったのであろう︒
︵八〇一︶
ケベック問題は終わったのか 八〇二同志社法学 六三巻一号
では︑ネイションと国家は具体的にどのように結びついたのであろうか︒アントニー・ギデンズ︵
Anthony Giddens
︶によれば︑﹁国民︵ネイション︶﹂は﹁明確に境界画定された領土のなかに存在する集合体﹂であり︑﹁国家が︑自国の
主権を権利要求する領土全域にたいして一体化された行政範囲を獲得したときにはじめて︑存立できる ︵
﹂︒つまり︑明 4︶
確な国境を持ち︑その領域に対する主権を備えた国家が成立した時に︑その内部に居住する民衆が﹁国民﹂とよばれる
ようになったということになる︒そうした主権的領域国家は︑しかしながら一八世紀後半に突然姿を現したわけではな
い︒その国家形態はそれ以前の絶対王政期にすでに確立されていたものであった︒絶対主義国家はその意味で国民とい
う共同体をつくりだすのに大きな役割を果たした︒
しかし︑絶対主義国家は国民国家の﹁前身﹂ではあったが︑国民国家とみなされるには不十分であった︒なぜなら︑
領土内の住民は﹁支配される客体﹂︑つまり﹁臣民﹂として国家に帰属するにすぎなかったからである︒国民国家が成
立するためには︑﹁住民が国民という集合体として国家の主体にならなくてはならない ︵
︒すなわちそれは﹂のだ︑国民 5︶
が﹁主権﹂の担い手になるということを意味する︒
この国家主権の担い手としての﹁国民﹂という概念はフランス革命において明確に打ち出された ︵
︒君主制の打倒を目 6︶
論む第三身分にとって︑﹁国王﹂に代わる連帯の絆︑﹁国王﹂に代わる政治的正統性の源泉を提示することは革命成就に
不可欠であった︒そして何よりも複数の身分や特権に基礎を置く社会を壊すことが必要であった︒そこで︑登場したの
が﹁国民﹂という概念である︒国民は統治者と被統治者を繋ぐものであり︑統治の権威の源泉とされた︒国民は﹁共通
の法の下に生活し︑同一の立法府によって代表される共同体 ︵
︒そして﹂なのである︑﹃人間と市民の権利の宣言﹄にあ 7︶
るように︑﹁主権の原理は本質的に国民に存する︒いかなる団体もいかなる個人も︑あきらかに国民に発しない権力を
行使することはできない﹂という国民主権原理が考え出されたのである︒ ︵八〇二︶
ケベック問題は終わったのか 八〇三同志社法学 六三巻一号 こうしてネイションは国家を主体的に運営する政治的な共同体として確立された︒そしてそうした共同体を成り立たせる上で不可欠だったのが市民権︵
citizenship
︶という制度である︒その制度の下で︑個人は法の下で平等な存在である﹁市民﹂として位置付けられ︑その生活に関わる一連の権利︵公民権︑参政権︑社会権︶を国家によって保証される︒
ただしここで重要なのは︑普遍的権利を保証する市民権はネイションの一員であるという条件で与えられるということ
だ︒市民権は︑誰がその国家に属し︑属さないのかを線引きするメカニズムとしても働く︒したがって︑市民権を与え
られた人々は国家への帰属意識を高め︑ネイションの一員であるというナショナル・アイデンティティを強く持つこと
になる︒ しかし現実には︑個人と国家の関係は︑法や権利だけで結びつけられていたわけではなかった︒そこには共通の文化︑
言語︑歴史︑習慣などの要素も介在していたのである︒つまり︑ネイションは文化的な共同体としても立ち上げられた
のだ︒ネイションが日本において﹁民族﹂とも訳される所以であろう︒では︑なぜネイションは文化共同体としても機
能するようになったのだろうか︒
この点に関してはこれまで様々な観点から説明されてきた︒例えば︑アーネスト・ゲルナー︵
Ernest Gellner
︶は﹁経 済的﹂な要因 ︵John Stuart Mill
を︑ジョン・スチュアート・ミル︵︶は﹁政治的﹂な要因 8︶︵Anthony
を︑アントニー・スミス︵ 9︶D. Smith
︶は﹁歴史的﹂な要因 ︵をそれぞれ強調している︒しかしいずれにせよ︑ネイションは言語的︑文化的同質性を 10︶
基盤として成り立ち︑それが﹁民族﹂として表象されてきたという点では皆一致している︒
そしてこうしたネイションの民族的側面は︑国際社会において非常に重要な役割を与えられるようになった︒新しい
国家が独立する際︑その内部の人々が﹁民族﹂としてまとまっていることが重要なこととされたのだ︒﹁民族﹂のみが
自らの国家を持つことができ
︑国民国家の
﹁国民﹂となることができるというわけである
︒この原則は
﹁民族自決
︵八〇三︶
ケベック問題は終わったのか 八〇四同志社法学 六三巻一号
︵
national self-determination
︶の権利として概念化され︑国民国家という国家形態は世界中に広まっていくことになっ た︒ ただここで注意が必要なのは︑﹁民族としてまとまる﹂ことが必ずしも共通の言語︑文化︑歴史などの客観的基準だけによって決められるわけではないということである︒というのも︑そこでは︑アイデンティティや﹁われわれ意識﹂
などの﹁主観的﹂な要因がより大きな役割を果たすからだ︒結局︑客観的基準も﹁われわれ﹂としてまとまろうという
意志によってつくり出されたり︑発見されたりする︒
しかしだからといって︑﹁客観的﹂な基準が必要ないというわけではない︒たとえ意識的に見出されたものにせよ︑
人々は﹁共通の○○﹂という基準を持っていると信じているし︑そうした思いが﹁われわれ意識﹂を強化しているのも
疑えないからである︒つまり︑﹁客観的﹂基準と﹁主観的﹂基準は相互に関連しており︑したがって︑﹁民族という意識
は︿自生的・文化的﹀な力と︿作為的・政治的﹀な力の互いに拮抗するダイナミックな作用と関係のなかから成立 ︵
﹂す 11︶
るということになる︒
以上︑ネイションは国家を支える政治共同体であり︑言語文化的な同質性を基礎として成り立つというのがこれまで
の説明である︒そして︑国民国家形態は世界的に波及し︑﹁一国家︑一ネイション﹂という原則が定着することになった︒
しかし皮肉なことに︑この原則が国家存立の理念として理想化されたことに問題の根本があった︒二〇世紀後半に世界
各地で噴出した﹁民族問題﹂の大きな要因となったからである︒
それはどういうことなのか︒国民国家として成立したほとんどの国家が︑共通の歴史や文化を共有する人々から構成
されていなかった︒いわば︑﹁めでたく﹃国民﹄として独立が認められた集団がいつもまとまった﹃民族﹄だったわけ
ではな ︵
﹂かったのである︒したがって︑近代国家は﹁まとまった﹃民族﹄からなる﹃国民﹄﹂をつくろうと腐心してきた︒ 12︶ ︵八〇四︶
ケベック問題は終わったのか 八〇五同志社法学 六三巻一号 そこから︑﹁国民形成﹂︵
nation building
︶という国家ナショナリズムが出てきたのである︒つまり︑国家は絶えず﹁国民﹂をつくりださなければならなかった︒
その﹁国民﹂の基準となったのは往々にして﹁国民﹂の核を形成する主流派集団のものであった︒それとは異なる背
景を持つ人々は︑主流派集団の言語︑文化︑価値観︑生活習慣などに同化するよう求められた︒ところが︑同化への圧
力が強まるほどそれへの反発を強くする集団も存在した︒そうした集団が反発するのには理由があった︒その多くが︑
もともとは自治を行っており︑それ自体が﹁国民﹂となりえたかもしれないのだが︑一定の条件の下で国家への参入を
認めたか︑征服や植民地化の結果︑強制的に国家の中へ取り込まれたという歴史を持っていたからである︒したがって︑
このような歴史を持つ集団は自らの共同体を﹁ネイション﹂と規定し︑失った主権を取り戻すため︑あるいは現在も主
権を保持しているとして︑民族自決や分離独立運動を起こすようになったのである︒
そうした集団としては︑ここで取り上げるケベック以外に︑ヨーロッパではスコットランド︵イギリス︶︑カタロニ
ア︵スペイン︶︑バスク︵スペイン︑フランス︶︑フランドル︵ベルギー︶︑ブルターニュ︑コルシカ︵フランス︶︑北米
ではプエルト・リコ︵アメリカ︶︑アジアではチベット︵中国︶などがあげられる︒それほど強くはないが︑ウェール
ズ︵イギリス︶︑ガリシア︵スペイン︶︑ワロニー︵ベルギー︶︑アカディア︵カナダ︶でも運動は見られる︒さらには︑
南北アメリカ︑オセアニア︑アジアなど世界各地の先住民族も運動を起こしている︒
ただ︑上記の集団のほとんどは民族自決でもって自前の主権国家を持ちたいと主張しているのではない︵とはいって
も独立という選択肢がなくなったわけではない︶︒一般的には︑自分達が固有の領土と考える領域に対して自治権︵
self-
government rights
︶を要求しているのである︒つまり︑彼らは国家を構成する﹁国民﹂の単なる﹁マイノリティ﹂ではなく︑国家内において独自の政治共同体を形成する存在であることを強調する︒そのために︑自らをネイションとして
︵八〇五︶
ケベック問題は終わったのか 八〇六同志社法学 六三巻一号
位置付けることが重要となるのである︒
こうした集団は﹁内なるネイション﹂︵
internal nations
︵nations without states
︶あるいは﹁国家無きネイション﹂︵ 13︶︵︶ 14︶
とも呼ばれるようになり︑研究者の間でも注目されるようになった︒そしてそれらの多くが主張するのが複数のネイシ
ョンから構成されるマルチナショナル・ステートである︒ただこれは単純に社会学的意味で国家内に複数のネイション
が存在するという意味だけではない︒それは︑法︑制度的構造においてもマルチナショナルな性格を反映する国家のこ
とを指す︒そのためまず重要とされるのが︑国家内に﹁ネイション﹂が存在することを公式に承認し︑そのネイション
が国家内において民族自決権を行使できるような権力︑すなわちそのネイションが政治的︑経済的︑社会的︑文化的に
発展できるような自治権力を与えることである︒つまり︑ネイションを﹁民族﹂としてだけではなく︑﹁国民﹂として
も認めよというのだ︒そのうえで︑複数のネイションが平等な関係で国政へと参加できるような法︑政治制度を持つ国
家へと編成されることを要求する︒マルチナショナル・ステートにおける国家とは複数のネイションによって共有され
るものであり︑そのナショナルな多様性が調停される場ということになる ︵
︒ 15︶
しかし︑マルチナショナル・ステートといってもただ一つのある特定のモデルがあるわけではなく︑その公式化︑制
度化はそれぞれの国家の地理的︑歴史的状況︑法的︑政治的伝統︑慣習を考慮してなされなければならないことはいう
までもないだろう︒しかも︑それが実践されるかどうかは実際のところわからないのである︒そこで以下では︑ケベッ
クの主張がカナダにおいてどのように受け取られてきたのかをみることにしよう︒ ︵八〇六︶
ケベック問題は終わったのか 八〇七同志社法学 六三巻一号
2
.ケベック問題の歴史 現在の状況をよりよく理解するためにまずケベック問題の歴史を振り返っておきたい ︵︒いわゆる﹁ケベック問題﹂が 16︶
先鋭化したのは一九六〇年代であった︒その背景にはケベックにおけるナショナリズムの変化が関係している︒一九六
〇年以前のナショナリズムは﹁フランス系カナダ﹂という﹁エスニシティ︵民族性︶﹂に基調を置くものであった︒フ
ランス系社会は︑その中心はケベックにあるもののカナダ全土にまたがるものであったため︑そのナショナリズムの対
象はケベックだけでなくカナダ全体であった︒つまり︑それはあくまでも﹁フランス系カナダ人﹂による﹁フランス系
カナダ﹂のためのナショナリズムだったのである︒さらに︑その精神的主柱はカトリック教会にあり︑彼らはフランス
系社会をただ外部の脅威から守りさえすればいいと考え︑ケベック州政府と結びつき何らかの政治的アクションを興す
ことはなかった︒
しかし現実には︑ケベック以外のカナダではフランス系カナダ人の権利の縮小︑侵害がなされるとともに︑彼らのイ
ギリス系社会への同化がどんどんと進んでいた︒こうした状況において︑フランス系の人々は︑フランス系社会を守る
ことができるのはカナダ政府ではなくケベック政府しかないという思いを強めた︒ところが︑ケベックのフランス系の
人々もその地位が安泰だったわけではなかった︒彼らは︑イギリス系の人々に比べて経済的︑社会的に劣位にあり︑い
わば﹁二級市民﹂的な立場にあったのだ︒ただその状況にはフランス系社会自体にも責任がないわけではなかった︒カ
トリック教会を中心とするナショナリズムは押し寄せる近代化の波に何の対応もしなかった︑いやそれどころかむしろ
それを積極的に避けていたのである︒保守的なケベック州政府もそうした状況に対して何の介入も行わなかった︒
ところが︑一九六〇年代になるとそうした内向的︑保守的なナショナリズムを打破しようとする新しいタイプのナシ
︵八〇七︶
ケベック問題は終わったのか 八〇八同志社法学 六三巻一号
ョナリストが台頭してきた︒彼らはケベック州政府へと参入し︑ケベック社会そのものを変えようとした︒新しいナシ
ョナリズムは﹁ケベック﹂という﹁コミュニティ﹂に依拠するようになったのだ︒それは旧来のフランス系カナダとい
う﹁民族性﹂を守るものではなく︑ケベックを政治︑経済︑文化の面において自律した共同体として発展させることを
目的としていた︒したがって︑彼らは自分たちのことを﹁フランス系カナダ人﹂ではなく﹁ケベック人︵ケベコワ︶﹂
と自己規定するようになったのである︒
こうして︑ケベック州政府はケベックを単なるカナダの一州ではなく﹁ネイション﹂を構成する共同体として位置付
け︑その﹁国民﹂政府としての役割を担えるような大幅な権限の拡大を要求するようになったのである︒それとともに︑
それまで観念的なものにすぎなかった分離独立運動も大きな政治勢力として台頭してきた︒
ケベック州でのこうした動きに直面した連邦政府は︑イギリス系社会を中心とする従来のカナダ﹁国民﹂の在り方に
問題があると考えた︒そこで連邦政府は︑エスニシティに関係なく誰もがその社会に平等に参加できる新しいカナダ国
民を形成することに力を注いだ︒そうなれば︑ケベックのフランス系の人々がケベックよりもカナダに対してより強い
アイデンティティを抱くようになると考えたのである︒とりわけそうしたヴィジョンを基礎とする新しいカナダの建設
に情熱を燃やしたのがトルドー首相︵
Pierre Elliott T rudeau
︑一九六八年︱一九八四年︑一九七九年一時下野︶であっ た︒ 彼は﹁公正な社会﹂︵Just Society
︶というスローガンを掲げ︑公用語法︑多文化主義︑一九八二年憲法といった﹁国民形成﹂政策を次々と打ち出していった︒中でも一九八二年憲法に挿入された﹁自由と権利の憲章﹂︵以下︑憲章︶は
彼にとって﹁カナダ国民の新たな始まり﹂であった︒というのも︑憲章が﹁カナダ人民の主権をすべての人に共通な諸
価値︑特にすべての人々の平等に基づかせることによって国の統一を強固に ︵
﹂すると考えたからである︒まさしく︑憲 17︶ ︵八〇八︶
ケベック問題は終わったのか 八〇九同志社法学 六三巻一号 章は︑単一不可分なカナダ﹁国民﹂をつくるというトルドーの夢の土台であった︒ ところが︑ケベック州政府は一九八二年憲法を批准しなかった︒憲章に反映されたトルドーの理念に納得がいかなかったからである︒簡単に言えば︑ケベックの独自性やアイデンティティがまったく認められていない︑その社会の発展のために必要な権限も付与されていない︑そして憲法改正における拒否権も失ってしまった︑というのが主な理由であった︒つまり︑トルドーの﹁国民﹂ヴィジョンにはケベック・ネイションの存在が全く考慮されなかったということである︒ しかし︑憲法の変則的状態がいつまでも続くのはやはり問題と考えられたのであろう︑トルドーの下野及びケベック州政府の交代によってケベック州のカナダ憲法受け入れへの交渉が一九八〇年代後半に始まることになった︒そこでまずロベール・ブーラッサ︵
Robert Bourassa
︶率いる自由党州政府によって︑ケベック州が一九八二年憲法を受け入れ る条件として︑ケベックを﹁独特な社会﹂として認めるという条項を含む五つの憲法改正案が提示された ︵︒これを土台 18︶
として連邦と各州の首相一一人が連邦︱州首相会議において検討を重ね︑できあがったのが一九八七年憲法改正協定︑
通称ミーチ・レーク協定︵
Meech Lake Accord
︶である︒この協定が正式な改正法となるには連邦議会と一〇州の各議会の批准を受けなければならなかった︒そこでケベック州が最初に批准をすませたのだが︑期限内にすべての州の批准
が得られずこの協定は不成立となってしまった︒
協定失敗の原因は様々あるが︑最大の要因はトルドーが作り上げた﹁国民﹂ヴィジョン︑つまり︑単一不可分なカナ
ダを支える二言語多文化主義︑集権的連邦体制︑﹁権利と自由の憲章﹂という理念が協定によって掘り崩されるのでは
ないかというケベック以外のカナダの懸念であった︒とりわけ﹁独特な社会﹂条項はトルドー・ヴィジョンと真っ向か
ら対立するものと受け取られ︑大きな批判を浴びた︒こうして一九八二年憲法へのケベック受け入れは失敗に終わった︒
︵八〇九︶
ケベック問題は終わったのか 八一〇同志社法学 六三巻一号
トルドーの﹁国民﹂ヴィジョンはケベック以外のカナダにはしっかりと根付いていたのである︒
しかし︑憲法改正の失敗は大きな副産物を生みだすことになった︒ケベック以外のカナダによるミーチ・レーク協定
の拒絶はケベックにおいてケベック自身の拒絶と受け取られ︑そのナショナリズムを煽ることになってしまったのだ︒
その結果︑多くのケベック州民が独立支持へと傾いたのである︒
そうした状況の中でケベック州政府は︑他のカナダから新しい憲法改正案がだされない限り︑﹁主権︱連合 ︵
﹂への道 19︶
を歩むことを宣言した︒それに対応する形で連邦政府は新たな憲法改正案のための協議を開いた︒そこでできあがった
のがシャーロットタウン協定︵
Charlottetown Accord
︶である︒この協定は全国におけるレファレンダムによって問わ れることになった ︵︒結果は︑賛成四四・八%︑反対五四・二%であった︒ケベック州と西部四州では圧倒的に反対が多く︑ 20︶
賛成に回ったのは東部三州とオンタリオ︵わずか〇・二%の差︶と北西準州であった ︵
︒またしてもカナダ連邦制の再編 21︶
成の試みは失敗に終わったのである︒
今回の失敗の原因も多々あるが︑ケベックに譲歩しすぎであるというケベック以外のカナダからの批判は際立ってい
た︒ミーチ・レークと同じように今回も﹁独特な社会﹂条項が挿入されたのだが︑やはり大きな批判を浴びることにな
った︒ただ注目すべきことは︑ミーチ・レークと異なり今回はケベックも反対に回ったことである︒ケベック州では︑
ミーチ・レーク協定が拒否されたことによってナショナリズムが高まっており︑ケベコワにとって︑この協定は﹁小さ
すぎるし遅すぎた﹂︵
too little too late
︶のである ︵︒ 22︶
こうしたナショナリズムの高まりが︑カナダ分裂の一歩手前という結果をもたらした一九九五年のケベック・レファ
レンダムへの流れをつくったのである︒しかしこの結果を単にケベック独立を望んでいる人が増えたと解釈すると︑そ
れは単純に過ぎるであろう︒多くの投票者は︑ケベックを﹁独特な社会﹂あるいは﹁ネイション﹂と認めてくれない英 ︵八一〇︶
ケベック問題は終わったのか 八一一同志社法学 六三巻一号 語系カナダへの失望︑苛立ちから賛成票を投じたのである︒そこにあったのは︑連邦体制に変化を求めるケベコワの意思であった︒では︑これに対して連邦政府はどう対応したのだろうか︒ クレティエン首相はレファレンダム・キャンペーン中に賛成派の増大を抑えるために憲法改正による連邦制の再編成を示唆したのだが︑レファレンダム後にはそうした発言はしていないとしてとりあえず︑ケベック州を﹁独特な社会﹂
であることを認める決議を連邦議会で通した︒さらに一九九七年には連邦政府と州政府︵ケベック州を除く︶が︑カナ
ダ国家の基礎となる基本原理を示した﹁カルガリー宣言﹂︵
Calgary Declaration
︶を謳いあげ︑その中にカナダの安寧 にとってケベック州の﹁独自性﹂︵unique character
︶は不可欠であるという項目を盛り込んだ︒ただ︑こうした動きが連邦体制に実質的変化をもたらすということはなかった︒
このようないわば懐柔的ともいえる政策をとるとともに︑連邦政府はケベックの独立だけは何としても阻止すべく強
硬な手段にもうってでた︒カナダ憲法の下︑ケベックは一方的にカナダから独立できるのかという点について最高裁の
判断を求めたのである ︵
︒これに対して最高裁は九八年八月二〇日に意見書を発表した︒その骨子は︑カナダ憲法の枠内 23︶
ではケベックは一方的にカナダから独立することはできない︑というものであった︒しかし︑レファレンダムで﹁明確
な設問﹂︵
clear question
︶のもとに﹁明確な多数﹂︵clear majority
︶の賛成があれば︑連邦政府と他のカナダはケベックとの交渉に応じなければならない︑ということも付け加えられた︒
ここで問題となったのは﹁明確な設問﹂と﹁明確な多数﹂であった︒しかし︑最高裁が具体的に﹁明確な設問﹂と﹁明
確な多数﹂の内容を明示することを避けたため︑その判断は政治的な決定に委ねられるものとなった︒いずれにせよ︑
この連邦最高裁の意見書によって︑理論的にはケベックの独立は可能となったが︑その敷居は高く設けられることにな
ったといえる︒
︵八一一︶
ケベック問題は終わったのか 八一二同志社法学 六三巻一号
それでも連邦政府はさらに強硬的な政策を推し進めた︒二〇〇〇年に﹁明確法﹂︵
Clarity Act
︶を制定したのである︒これは上記の最高裁の意見に答えるもので︑﹁明確な設問﹂と﹁明確な多数﹂の判断は連邦議会の下院が行ない︑下院
がその二つの条件に﹁明確さ﹂があると判断する場合に限り︑カナダ連邦はケベックと分離独立に関する交渉を開始す
る︑というものであった︒つまり︑ケベック独立の鍵は連邦政府が握っていることを宣言したのである︒
そうなればケベック政府も黙っておらず︑ケベックの自決権を主張する法律︑九九号法案﹁ケベック人民及びケベッ
ク国家が有する基本的権利と特権の行使を尊重する法律﹂︵
An Act respecting the Exercise of the Fundamental Rights
and Prerogatives of the Quebec People and the Quebec State
︶をケベック州議会で成立させた︒こうした政治統合の観点からすればある意味不毛な対立はケベック党が下野する二〇〇三年まで続いた︒
また︑この間︑連邦体制のあり方をめぐっても対立が起こった︒連邦政府は︑福祉国家の建設にともない︑全国的に
均一で平等なサーヴィスを提供するため︑州の排他的管轄権限である分野︵医療︑社会保障・福祉など︶に財政的に関
与し︑サーヴィス提供の条件を設定する権限︑連邦財政支出権︵
federal spending power
︶を行使してきた︒ケベックはこれに対して州の自治を制限︑侵害するものだとして一貫して抗議︑反対してきた︒ケベック以外のカナダにおいて
連邦財政支出権は﹁国民形成﹂︵
nation building
︶を促進する重要な手段だとみなされたのだが︑ケベックにおいてそ れは﹁国民破壊﹂︵nation destroying
︶のなにものでもなかったのである ︵︒ 24︶
そうした中で
︑一九九九年に連邦政府とケベックを除く州政府が
﹁社会統合枠組み協定﹂
︵
the Social Union
Framework Agreement
︑通称SUFA︶を調印し︑その中で連邦財政支出権を正式に認めてしまったのである︒ケベックもこの協定に至るまでの審議には参加していたのだが︑他の州が連邦財政支出権を認めるという段に至って参加を
拒否することにした︒ケベックにとってSUFAはユニナショナルな連邦主義の強化としか映らなかったからである ︵
︒ 25︶ ︵八一二︶
ケベック問題は終わったのか 八一三同志社法学 六三巻一号 ただそれでも︑二〇〇三年にケベック州政府がケベック党から自由党に代わったことによって︑憲法改正によらない方法でのケベック融和は進められることになった︒二〇〇四年には医療部門に関するケベックの独自性を認める協定が結ばれた︒この融和的路線は二〇〇六年に連邦政府が自由党から保守党に移った後も継承された︒スティーブン・ハーパー︵
Stephen Joseph Harper
︶率いる保守党政権は︑﹁開かれた連邦主義﹂︵open federalism
︶というスローガンを掲げ州政府と新たな関係を築こうとした︒それが︑ユネスコのカナダ代表団へのケベック代表の参加を認める協定の成立
やケベック政府が求めていた連邦と州の財政不均衡の是正への取り組みといったものにつながったのである︒
そして︑一九九五年のレファレンダム以降もっとも大きな話題を呼んだのが︑二〇〇六年一一月に下院で可決された
﹁ケベコワは統一されたカナダ内でネイションを形成する﹂という内容を含む動議であった︒ただ︑ハーパーは当初こ
の動議を提出する意図はまったくなかった︒それではなぜそのような事態へと至ることになったのだろうか︒
その発端は︑二〇〇六年秋に行われた野党第一党である自由党の党首選挙であった︒その立候補者の一人︑マイケル・ イグナティエフ︵
Maichael Ignatieff
︵︶がケベックと先住民族をネイションとして憲法で認めるべきだという綱領を掲げ 26︶
たのである︒もちろんこの考えは突然降って沸いたというわけではなく︑これまでのケベック融和政策の歴史を踏まえ
た上で主張されたものであるということは上記の記述からも明らかであろう︒しかし︑その内容が一九九五年のレファ
レンダム以降の政府の路線と異なっていたのは︑二度の失敗以来誰も触れたがらなかった憲法改正を行うということ
と︑ケベックを﹁独特な社会﹂というある意味婉曲的な表現ではなく﹁ネイション﹂として認めるとしたことである︒
そのためその主張はすぐに大きな反響を呼ぶことになった︒ただこれは野党の党首選における一候補の主張であると いうこともあって︑直接すぐに何らかの政治的な影響をもたらすものではないと思われていた ︵
︒そもそも︑ハーパーは 27︶
﹁開かれた連邦主義﹂において憲法改正という手段をとるつもりはないし︑ケベックをネイションとして認める考えも
︵八一三︶
ケベック問題は終わったのか 八一四同志社法学 六三巻一号
無いと明言していた︒なによりも︑彼はケベックに特別な地位を与えることに一貫して反対してきた政治家だった︒し
たがって︑ケベックをネイションとして認めようという動きに対して当初はまったく関わろうとしなかった︒ところが
事態は急変することになる︒
そのきっかけとなったのは︑ブロック・ケベコワ ︵
がイグナティエフの騒動に乗ずる形で﹁ケベックをネイションと認 28︶
める﹂という動議を連邦議会に提出するという動きであった︒これにはハーパーを表舞台に引きずり出そうという意図
とともに︑沈滞しているケベック主権派の勢いを盛り上げようという狙いがあった︒賛成となれば独立のための材料と
なるし︑拒否されればそれによってケベック・ナショナリズムを煽ることもでき︑独立運動への弾みがつくと考えたの
である︒ただブロック・ケベコワが読みを誤ったのは︑ハーパーが同じような内容の︵しかし︑後述するように意味を
変えて︶動議を提出したことである︒
ハーパーには︑翌年に行われるケベック州選挙でケベック党が政権につくことだけは避けたいという思いがあった︒
さらにそこには自分の政権のことも頭にあったのであろう︒保守党は政権にあるとはいえその議席は過半数にはるかに
及ばない少数与党の立場にある︒中でもケベック州における議席は少なく︑今後政権を磐石にするにはどうしてもケベ
ック州の議席を増やすことが不可欠となる︒ケベックに関する動議があるいはその役に立つと考えたのであろう︒こう
した思惑もハーパーの動議提出の裏にあったと思われる︒
では︑動議はどのような意味を持ったのであろうか︒この点を考察する上で注目すべきことは︑動議をめぐってカナ
ダ国内で大きな論争が起きたということである︒そして︑この論争はケベック問題の現在の状況を知る上で決定的に重
要な面を照射したのである︒そこで次節ではまずどのような論争が起きたのかをみることにしよう︒ ︵八一四︶
ケベック問題は終わったのか 八一五同志社法学 六三巻一号
3
.ケベック・ネイション論争 事の発端は︑ケベックを憲法上でネイションとして認めるべきだという自由党党首選でのイグナティエフの公約であった︒これを実行すればケベック州はカナダ憲法を受け入れるだろうし︑それによって独立への支持も下がり︑統合も
進むだろうというのが彼の考えであった︒しかしその公約が世に出るやいなや批判が噴出することになった︒
まず大きな批判を浴びたのは﹁憲法で認める﹂という部分であった︒それを行うためにはもちろん憲法改正が必要と
なる︒しかし二度の憲法改正の失敗を経験したカナダにおいて憲法改正を持ち出すことは一種のタブーとなっていた︒
憲法改正は︑いわば﹁パンドラの箱﹂ともいえるものであった︒したがって批判者の多くは︑なぜそれを今開ける必要
があるのか︑誰もそれを望んではいない︑最初から失敗することは目に見えている︑また辛い経験をするだけだ︑など
と非難したのである ︵
︒ 29︶
先述したように︑事態に巻き込まれる形で舞台に上がった連邦首相ハーパーは︑憲法改正を持ち出すことなく議会で
の決議という形で事態の収束を図ろうとした︒もともと憲法改正にはまったく興味がなかったハーパーにとって憲法改
正という選択肢は最初から頭になかったのであろう︒しかしそれでもこの動議は大きな物議を引き起こすことになっ
た︒なぜなのだろうか︒
ここでもう一度ハーパーの動議の内容を確認しておこう︒﹁ケベコワは統一されたカナダ内でネイションを形成する﹂
というものである︒最も大きな問題となったのはネイションという言葉であった︒この点に関してハーパーはイグナテ
ィエフの構想を踏襲したことになる︒しかし先述したように︑ネイションという概念は現代社会においてきわめて重要
な意味を持つ︒これが論争を呼んだのはある意味当然だったのかもしれない︒しかも︑ハーパーはそれについて明確な
︵八一五︶
ケベック問題は終わったのか 八一六同志社法学 六三巻一号
説明を行うことをしなかった︒これが議論に拍車をかけたのである︒
予想されたことだが︑イグナティエフの公約の段階においてケベック・ネイションを認めることには大きな批判が起
きた︒ケベックを憲法でネイションとして認めることは国際法上での﹁民族自決権﹂を与えることになり︑独立派の勢
いをつけることになる︒もしそうならなくても︑その新しい地位を口実にもっと大きな権力を要求することになるであ
ろう︒司法もそれにお墨付きを与えるかもしれない︒そうなればカナダの統一は極めて困難な状況に陥ることになる︒
このように批判者は主張した ︵
︒こうした意見は世論調査にも反映された︒﹁ケベックをネイションと認めることはカナ 30︶
ダの統一を弱めるかどうか﹂という質問に対して︑オンタリオと西部カナダではそれぞれ五〇%︑五五%の人々が弱め
ると答えている ︵
︒さらに︑そもそもケベックはネイションではないとして根本的な部分を否定する意見も多かった︒ 31︶
こうした批判にもかかわらず︑ハーパーはネイションという言葉を使う道を選んだ︒いや︑むしろ使わざるを得なか
ったといった方が妥当かもしれない︒しかし批判を和らげるための保険は掛けた︒﹁統一されたカナダ内﹂という文言
がそれである︒これは明らかにケベック独立派に対する牽制であった︒彼らがネイションという地位から﹁民族自決権﹂
を導き出さないように予防線をはったのだ︒﹁ケベコワはカナダから独立したネイションではないし︑これからもそう
ならないだろう ︵
﹂とハーパーは強調している︒ 32︶
ではネイションとは具体的にどのようなものなのかというと︑ハーパーは言語︑文化的に象徴的なものとしか説明し
ていない︒そこから推測すると︑先述したネイションの﹁国民﹂的側面と﹁民族﹂的側面を分けて考えているようだ︒
つまり︑﹁民族﹂としてのまとまりは認めるが﹁国民﹂としての権限は認めないということである︒ただこれで問題が
解決したかというとそうではなかった︒ネイションの民族的側面自体をめぐっても議論がたたかわされることになった
からである︒ ︵八一六︶
ケベック問題は終わったのか 八一七同志社法学 六三巻一号 ここで再び動議を思い出してほしい︒そこには﹁ケベコワはネイションを形成する﹂とあった︒つまりこれの意味するところは︑ケベコワといわれる人々の集団が﹁民族﹂としてまとまっているということであろう︒しかしじつは︑ケベコワとは一体どういう人々を指すのか︑この点が問題となったのだ︒というのも︑ケベコワには大きく二つの意味があるからである︒一つはケベック州の領域に住むすべての人々︑もう一つは古くからケベックに住む生粋のフランス系の人々である︒どちらを指すかによって意味が全く異なってくるため混乱を招くことになったのである︒ しかし困ったことにハーパーはこれについても具体的に説明することはなかった︒ただ︑英語のテキストでもケベコワという言葉を使ったことで彼は後者の意味をもたせようとしたのではないかというのが大方の見方であった︒というのも︑英語にはケベッカー︵
Quebecker
︶という州内のすべての人々を指す言葉があるのに︑わざわざケベコワというフランス語を使ったからである︒実際︑ケベコワが英語系社会で使われると後者の意味でとらえられることが多く︑ハ
ーパー政権の閣僚の中にはそう説明する者もいたし︑英語系の人々の多くがそう理解したことはまちがいないであろ
う︒ ではその場合どういうことになるのか︒ケベコワが﹁生粋のフランス系の人々﹂だけを指すならば︑ネイションとし
てのまとまりはフランス系という﹁エスニック﹂な要素を基調として考えられていることになろう︒つまり︑血統や共
通の祖先といった客観的要素が重視されているというわけである︒いわゆる﹁エスニック・ネイション﹂と呼ばれる考
え方である︒しかしそうなると︑カナダをエスニックな要素で分断することになり︑バルカン化を招く危険があるとい
う批判がおきた ︵
︒内閣の中には︑ケベック・ネイションを認める行為は︑ケベックのエスニック・ナショナリズムを認 33︶
めることになるとして閣僚を辞任した人もいた︒
こうした批判に対してケベック州政府などケベック関係者は︑ケベコワ・ネイションには州内のすべての人々が含ま
︵八一七︶
ケベック問題は終わったのか 八一八同志社法学 六三巻一号
れると一様に反論した︒そこでは﹁われわれ﹂意識という主観的な要素が重視されており︑エスニシティに関係なくな
りたい人は誰でも﹁ケベコワ﹂になれるという自己決定の原理が働いているというわけである︒いわゆる﹁シヴィック・
ネイション﹂といわれる考え方である︒エスニック・ナショナリズムというレッテルを貼られることが多いケベックに
とってそうしたネガティブなイメージは是が非でも払拭しておきたかったのであろう︒
ただこれには︑そうした﹁われわれ﹂意識がどこまでフランコフォン以外の人々に共有されているのかという疑問が
呈された︒そうでなければケベコワ・ネイションというのは結局﹁エスニック﹂な要素で繋がらざるをえないのではな
いかというのである︒そうなると︑フランス系の人々はケベック以外のカナダにもいるためケベコワ・ネイションとい
うネイション自体が成立しなくなるという意見も聞かれた︒カナダ内にネイションが存在するというのならばそれは
﹁フランス系カナダ﹂というネイションでしかありえないというのだ ︵
︒ 34︶
このように︑ケベック・ネイションをめぐる言説は錯綜としたものとなり︑コンセンサスが得られるどころではなか
った︒それゆえ︑そもそもネイション概念を使うこと自体が間違っているという批判も根強かった︒カナダにはすでに
カナダ﹁国民﹂というネイションが存在するのであり︑その内部にネイションの存在を認めてしまえば﹁一つのカナダ﹂
を分断することになる︒そして何より多くのカナダ国民がケベコワをネイションだと認めていないというのだ︒ある調
査によれば︑ケベックでは七二%の人がケベコワをネイションと思うと答えたのに対して︑オンタリオでは二四%︑西
部カナダでは二二%の人しかいなかった ︵
︒したがって︑大多数の国民が納得していないものを決議という形であれ認め 35︶
ることは後に禍根を残すことになるという懸念が示された ︵
︒ 36︶
もちろんこれに対して反論もあった︒例えば︑ケベック州政府の政府間関係省大臣は︑動議には何も恐れるものはな
く︑むしろそれはカナダの統一を促進するのだと強調した︒動議はカナダ社会におけるケベックの独自性を正確に反映 ︵八一八︶
ケベック問題は終わったのか 八一九同志社法学 六三巻一号 しているだけであり︑それを否定することの方がケベックの独立派を勢いづけてカナダの統一を危うくするのだ︒カナダの連邦制は本来こうした社会の多様性を基礎として成立したのであり︑その方向性を推し進めることがカナダの将来を保証する︒こう主張して動議を擁護したのである ︵
︒ 37︶
以上のように動議をめぐる論争は展開された︒次節ではこの論争から一体何が見えたのかをみていくことにしよう︒
4
.論争の意味 論争を見る上でもう一度確認しておきたいのは︑ケベックとその他のカナダでは動議に対する意見がまったく異なっていたということである︒ケベックではケベコワをネイションと認めることに賛成という意見が多数を占めたのに対し
て︑その他のカナダでは批判的意見が多数を占めた︒ケベック以外のカナダにおいて動議が不評だったのは︑多くの人
がケベコワをネイションと考えていないからであった︒これはつまり︑動議の批判者が指摘するように︑数字的に見れ
ば圧倒的多数の国民が動議に反対していることになる︒
したがってこのことは︑動議が下院議会で圧倒的多数でもって可決された︵二六六対一六︶ということとあきらかな
対照性をなす︒ではなぜ議会ではたいした反対もなくすんなり動議が通ったのだろうか︒
まず考えられるのは政治力学的な要因であろう︒ハーパーが動議を提出したのは︑イグナティエフの公約に乗じる形
でケベコワのナショナリズムを煽ろうというブロック・ケベコワの目論みを阻止しようとしたからであった︒その意図
を挫きつつケベコワの関心を買おうとしたのがハーパーの動議であった︒したがって︑動議を否決してしまうとケベッ
ク・ナショナリズムを煽ることにもなってしまうため︑反対しづらかったというのが多くの議員の気持ちだったのでは
︵八一九︶
ケベック問題は終わったのか 八二〇同志社法学 六三巻一号
ないか︒ ということは︑言い換えるならば︑ハーパーの動議にはあえて反対するほどの大きな理由がなかったともいえる︒そ
う考えられる要因の一つとして決議そのものの性質があげられる︒議会で動議が可決されたとしても︑それが法的︑憲
法的に何らかのインパクトをもたらすことはないからである︒つまり︑決議は単に象徴的なものにすぎないということ
になる︒この点はハーパーも強調しているところであるし︑憲法学者も概ねそのような意見で一致している︒
このことは過去の例でも明らかである︒一九九五年のレファレンダム後に可決された﹁独特な社会﹂決議やカルガリ
ー宣言は連邦︱州関係に何のインパクトも与えずに今ではほぼ忘れられたものとなっている︒したがって︑今回の決議
も時間が経てば国民の記憶から消えていくものと考えられたのではないだろうか︒
そしてもう一つ考えられる要因として︑動議が﹁民族的﹂次元からだけでしか捉えられなかったという点があげられ
る︒先述したように︑ケベコワというフランス語は英語圏において﹁フランス系の人々﹂と解釈されることが多く︑動
議もその意味で理解されたといってもよいであろう︒つまり︑ケベコワはエスニックな要素で構成されるネイションな
のだという理解である︒となると︑動議は文化的な意味合いを持っているにすぎず︑州の権限や連邦体制の変革と結び
つくものではないということになる︒
これはハーパーのアドバイザー的存在でもあった政治学者フラナガン︵
Thomas Flanagan
︶も強調していることである︒動議は︑ケベック州にたまたま集中的に存在しているある共通の言語文化的特徴をもつ人々の集団のことをネイシ
ョンとして定義しているだけであり︑ケベック州という領域や州政府と結びつくものではないというのだ ︵
︒つまり︑そ 38︶
こからケベック州政府への権限の移動という問題は出てきようがないということなのである︒さらに︑﹁統一されたカ
ナダ内﹂ということばを付け加えることによって︑ケベコワという概念はその条件の下でのみ初めて意味をなすという ︵八二〇︶
ケベック問題は終わったのか 八二一同志社法学 六三巻一号 ことを示したというのである︒ こうしたいくつかの要因から大多数の議員が賛成票を投じたと考えられる︒そして︑この決議に関して重要となるのは︑ハーパーの動議はあくまでもケベック独立派の野望を挫くことに主眼があったのであり︑ケベックの統合を進めようという意図から出されたというわけではなかったという点である︒たしかに︑ケベックにおいて動議は好意的に受け取られた︒しかしここで注意しなければならないのは︑ケベックではその他のカナダとは異なるネイション概念でもって動議が解釈されたということである︒ ケベックでは︑ケベコワというネイションはケベック州内のすべての人々を指し︑ケベコワと州の領域およびケベック州政府は密接につながっているという︑いわゆるシヴィック・ネイション的な解釈が主流であり︑それが決議によって認められたと多くの人は考えたのである︒ケベックの人々にとって重要なのは自分たち共同体の将来は自分たちで決めるというネイションの政治的︑民主的次元なのだ︒そのためには大幅な自治権が必要となる︒ところが︑ハーパーの決議はネイションの﹁民族﹂的側面だけを強調し︑ケベックの求めているそうした﹁国民﹂的側面を認めることは避けたのである︒ ただそれでも︑この決議がさらなる権限の要求のためにケベック州政府によって利用され︑ゆくゆくは憲法改正にまで至るのではないかという懸念は示された︒実際︑ケベック自由党政権は決議がそのきっかけになるだろうという期待を表明していた︒しかしその可能性は低いといわざるをえないだろう︒もともとハーパーは憲法改正を阻止するために動議を提出したのだし︑加えて憲法改正に対する世論の圧倒的な消極性を考えれば︑ハーパーが憲法改正に乗り出すとは考えられない ︵
︒そしてなによりケベコワをネイションとは認めないというケベック以外の世論の存在が︑憲法改正の 39︶
前提となるべきものを掘り崩してしまっている︒
︵八二一︶
ケベック問題は終わったのか 八二二同志社法学 六三巻一号
ここにケベック問題の本質が如実に表れている︒ケベックの人々が﹁国民﹂という意味でのネイションがカナダには
複数存在すると考えているのに対して︑ケベック以外のカナダの人々はカナダには一つのネイションしか存在しないと
考えている︒したがって︑多くのケベコワが︑カナダは平等な立場にある複数のネイションによって構成されているた
め︑そうした多様性を支える連邦体制への変革が必要であると主張してきたのに対して︑ケベック以外の人々は一貫し
てその考えに反対してきたのである︒
ハーパーの決議はこの溝を埋めようとするものではなかった︒むしろそれを今一度はっきりと明るみに出したのであ
る︒ここからわかることは︑ケベック問題はケベックが独立するかどうかという点にではなく︑ケベックとケベック以
外のカナダが国家観をめぐって対立しているという点にこそ本質的な問題があるということである︒つまり︑ユニナシ
ョナル・ステートとマルチナショナル・ステートという二つの国家観が対立しているということである︒制度的に言え
ば︑対称的連邦主義︵
symmetrical federalism
︶か非対称的連邦主義︵asymmetrical federalism
︶かということになる︒もともと連邦制は︑分権的体制をとれば︑それを構成する州が文化的︑政治的︑経済的自由をもちやすい制度といえ
る︒ただ︑ケベックは︑州をナショナル・コミュニティとして考えているため︑カナダ連邦を構成する単なる一州とは
見ていない︒つまり︑ケベックは︑連邦政府がカナダ人の﹁国民﹂政府としてその文化︑経済︑社会︑アイデンティテ
ィを支えているように︑州政府がケベコワの﹁国民﹂政府として同じ様な権力を持つことを求めているのである︒した
がって︑ケベックは︑他の州とは異なる法的地位︑そして他の州には無い大幅な自治権を加味した連邦主義︑すなわち
非対称的連邦主義を要求する ︵
︒ 40︶
他方︑ケベック以外のカナダは一貫して州の平等を主張し︑非対称的連邦主義を認めることを拒否する︒というのも︑
非対称的システムを認めることは︑ケベックに他の州がもたない特別の権力を与えることになるため他の州を軽視する ︵八二二︶
ケベック問題は終わったのか 八二三同志社法学 六三巻一号 ことになるし︑特定の市民を異なるやり方で扱うことによって市民間の平等をも侵害することにつながると考えるからである︒そして何よりもカナディアン・ネイションとしての統一性︑一体感を台無しにすると考えているのだ︒したがって︑その他のカナダは権利と権限におけるすべての州の平等を前提にした連邦主義に固執する︒ このように︑ケベック・レファレンダムから一五年以上たった今も︑国家観をめぐる対立は続いている︒そしてこの対立を考察する上で見逃していけないのは︑その対立にはケベックだけでなくカナダの方のナショナリズムも深く関係しているということである︒したがって問題はよくいわれるようにケベック・ナショナリズムだけにあるのではなく︑
﹁一つのカナダ﹂を作ろうとするカナディアン・ナショナリズムとそれを強固に支えるケベック以外のカナダにおける
ナショナル・アイデンティティにもあるのだ︒
もちろん︑上で見てきたように連邦政府が何もしてこなかったというわけではない︒一九九五年以降カナダ歴代政府
は憲法改正という手段を使わずに行財政的にケベック融和を図ってきた︒これを評価する研究者も多いし︑過小評価す
べきではないだろう︒しかし国家観の相違が根本にある限りこれからも﹁問題﹂が続くことはまちがいない︒
おわりに
一九九五年のレファレンダム以降︑ケベック問題は日本においてほとんど取り上げられることがなくなった︒その後
ケベック独立運動の勢いが衰え︑ケベック独立の可能性がほとんどなくなったことがその一因であろう︒しかしここで
論じたように︑ケベック問題の本質は独立問題にあるのではなく︑ケベックとケベック以外のカナダの国家観をめぐる
対立にあるのだ︒この対立が今後解消されるかどうかはわからない︒しかし︑ケベック問題の推移から多くの示唆を得
︵八二三︶