検討
著者 花岡 康隆
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 70
ページ 25‑49
発行年 2008‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011567
はじめに
鎌倉府の管轄国については、渡辺世枇邸が明徳三年(一
一一一九一一)から応永六年(一一一一九九)の間に奥羽一一州が加えられた時期以外は、一貫して関東十ヶ凶T相模・武蔵・伊豆・甲斐・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)であったとされた。これに対し、東国と西国の中間に位満する信濃国の符轄権が、京都にある幕府(以下、京都という表現で統二と鎌倉府との間で移動したということを初め(2)て指摘されたのは佐藤進一氏であった。佐藤氏は、鎌倉幕府にとって信濃国は京都に対する関東の外壁として位置づけられた国であり、南北朝時代に入って管轄権が京都と鎌倉府の間で移動したという事実は鎌倉に本拠を置く政治機南北朝期における信濃脚管轄権の推移についての再検討(花岡)
南北朝期における信濃国管轄権の推移についての再検討
構を政治的・軍事的に防衛するという鎌倉時代の政治目標が依然として続いていることを示すものであるが、鎌倉府と京都との関係が悪化した義持・義教期になると、京都から関東に対する監視役として位置づけられるようになったとされた。この指摘以来、諸氏によって管轄権移動の様相(3)が検討されてきた。先行研究において一爪された信濃の管轄権移動の様机を本稿の検討結果とともにまとめたものが本文末尾に掲げた「信濃川衿幡権一覧表」である。詳しくは後述するが、諸氏によって相違があるため再検討の余地があり、管轄権が移動した理由についても積極的な議論がな(4)されているとは一一一一いい難い。また近年、盛んとなっている南北朝前期の鎌倉府・東国史研究の成果を活かす必要もあるものと思われる。
花岡康隆
二 五
本稿は、信濃国の管轄権推移の様相について再検討を試みることを目的とするが、その前提として、ここでは信濃の管轄権が京都・鎌倉府いずれの下にあるかを検討するにあたって、如何なる史料に注目すべきであるか確認しておきたい。というのも、川辺久子氏が設定された基準にやや疑問を感じるからである。川辺氏は「一国の管轄権が幕府にあるか鎌倉府にあるかを知り得るのは、第一にその旨を記した明確な記録がある場合、第二にその国の事柄に関する文書がいずれの機関から発給されているかである。第一の記録のない場合、信濃国管轄権の存在を端的に示すのは、幕府の命令が直接信濃守護に伝達されるか、或は鎌倉府を経由して伝達されるかの命令伝達のあり方である。」とし、建武三年(一一二三六)~貞和三年(一三四七)の間に鎌倉府分脚及び信濃に発給された高師仇奉書を検討された結果、「関東分川内の所務関係の遵行が鎌倉府を通じて行われはじめたのは、おそらく、高師冬・上杉憲顕が関東執事となった暦応一二年(一三W○)頃からであろう」とされた。そして田辺氏はこの基準に基づき、信濃守護充てに発給された貞和元年(一三四五)・貞和三年の一一通の執事奉書をもって、貞和元年及び貞和三年を信濃国が京都管轄(5)下にあった時期とされた。しかし、その後の研究にお 法政史学第七十号一一一ハ
(くり)いて、文和年間までは京都からの鎌倉府分国充ての〈叩令は原則として直接守護に充てて発給されていたことが明らかにされていることから、少なくとも文和年間までは田辺氏が設定された第二の条件を以て信濃の管轄権を論じることはできない。
これまでの研究では、遵行命令関係の文書など、行政的権限を示す史料が検討対象の中心となっていた。しかし、初期の鎌倉府は軍事指揮権が中心で行政的権限が弱体であり、分国への排他的な権限行使が行えず、内乱の過程で諸権限を獲得していったことが近年の東国史研究によって明(房I)らに三」れている。従って、行政的権限を示す史料のみを以て一律に符轄権の問題を論じることはできない。そこで本稿では、信濃が鎌倉府管轄下にあった状態とは、「排他的か呑かに関わらず鎌倉府が信濃の守護・川人に対して軍事的・行政的権限など何らかの公的権限を行使している状態」であると定義し、①信濃が鎌倉府符轄下にある(またはない)ことを記した記録。②信濃の守護・国人に対して軍事的・行政的権限を行使していることを示す史料。③京都の命令が直接信濃守護に伝達されるか、鎌倉府を
1上限について暦応年間に信濃が鎌倉府の管轄下にあったとする指摘の根拠となるものが以下の史料である。
【史桃Ⅲ]
信濃国が鎌倉府管轄下となった時期として先行研究において指摘されている最も早いものは暦応年間である。この時期に鎌倉府(関東執事)が分川内に行使した権限は軍勢催促・所領預置・感状・軍功認定など専ら軍事指揮権で(8)あったことが指摘されている。 経由して伝達ざれるかの命令伝達のあり方。④守護の在京活動徴証。などの条件を、その時々の軍事的・政治的状況や鎌倉府が行使した権限の時期的変化をふまえた上で、管轄権を検討する素材とみなすことにしたい。以下、信濃国が鎌倉府管轄下に入ったと考えられる時期について、その上限と下限、符轆権移動の理川、鎌倉府符轄下における信濃守護の活動の様態などについて検討していきたい。南北朝期における信濃国管轄権の推移についての再検討(花岡) 鎌倉府管轄期その1 伺川剴梱四訓偶1□□付其候者、此寺領之沙汰ハ、可為何様候哉、付是非可案内之旨相存候、又諸国之闘所、定令競望之人候、佃此大蔵をも指申人候歎、即去月(Ⅱ力)(静力)(高師冬)□六Ⅱ、以戒□|腸参州方へ、触巾京都御沙汰之趣候了、(後訣)
[史桃刈]
(前略)(師冬)一、吉川参州御在鎌倉之問、貴寺熱も御意安存候、於京都随分寺訴目然之口入なとの事、常巾入候き、及数度候、大蔵郷事も、鴫津去状事を巾候し程二、これハ公方御奉書を一度も彼仁違脊之時ハ、可申口入候、砦今度渡や候ハんすらんに、さきをくむて申事難義之由、被仰候て、不被出川入状候、芳此御教書も違背候々三州へ此由京都雑掌僧先日申入事にて候、且]伺州刈御鋼、毎事顧路次煩省略仕候、以此趣可有御披露、恐憧謹一一一一m、六月七日真如(花押)進化称名寺侍者御中史料1は金沢称名寺住持湛容の書状であ別・史料2の発
(前訣)候歎如何、又Nにても峡ヘハ、可有御成敗鰍のよし、可有仰候 関需i
二 七
給者の真如は、鎌倉期以来称名寺と深い関係にあった京都(、)の惜上的寺院である東山太子堂の僧真如房杲照であり、南北朝期においても京都における称名寺の信濃国大倉郷に関する訴訟窓口として活躍していた。史料2はその真如が称名寺に訴訟経過を伝えたものである。それぞれの傍線部から、本文書が作成された段階において信濃が鎌倉府の管轄下にあったことが明らかとなるが、この両文書の年代比定が問題となる。史料1については、佐藤氏はこの書状にみえる「参州」を三河守であった関東符領高師冬に比定し、その在職時期と死没年から本文書を暦応二年(一一一一一二九)から観応二年(一三五一)六月までのものと比定された。藤枝氏は史料lを暦応元年(一一一一三八)冬頃のものとするが、田辺氏が指摘されるように、暦応元年には、高師冬は未だ西国にいたことを考慮すると、この藤枝氏の年代比定は成立しない。川辺氏は佐藤氏の暦応二年説を検証され、さらに高師冬の関東執事在職の明証が康永一一一年(一三囚四)正月までであることから、史料1を暦応二年から康永三年までのものと比定された。管轄期間については、田辺氏は明確な期間を示さず「暦応頃」とされた。また、湯本氏は恐らくこの田辺氏の検討を受けて暦応一一年から康永三年までとされた。 法政史学第七十号
史料1.2については近年、青木文彦氏・原田正剛氏も(過)年代比{正を試みており、暦応二年に比定されている。青木氏は、史料1.2に京都での訴訟状況を高師冬に説明したとの記述がみられ、史料2では高師冬の在鎌倉を喜ぶ記述があることなどから、史料1.2ともに暦応二年に発給されたものと考えられるとされた。原田氏も史料2について、高師冬が三河守を称し、かつ在鎌倉であるという記述に注目し、この時期の高師冬の在鎌倉期間が①暦応二年六Ⅱ十一Ⅱ以前~八川二十Ⅱ頃、②康永一一一年二月一一十五Ⅱ~閏二月二日であったことと、史料2の日付が六月七Ⅱであることから暦応二年のものとされた。首肯すべき考証であり、ここから遅くとも暦応二年六川上句には管轄権が鎌倉府にあったことが明らかとなるが、その状態はいつまで遡ることができるのだろうか。次の史料を見てみよう。
【史桃犯]
(足利義詮)(上杉恵顕)(A)若御前鎌倉へ御出候らん、日出たく候、民部大輔もとへの事書二、近国とはかり候て、国々の名候ハきりし、ふしん候らん、まこと――ことはりにて候、伊豆・さかみ・かつき・下うさ・上野・下野・安房・ひたちなとにてこそ候ハんすらめ、委細の事書をハ、追て
一
-
八
(B)下候ハ□するにて候、先この国々の□をさたあるへく候、いま一日もとく申たく候て、この程ハ八幡(上杉重能)(高師直)の事も伊一見守・武蔵守なとも候ハて、か様のさたも候ハねとも、人のなけきにて候、この文にてさた候ハん事、後の難あるましく候よし、民部大輔に御つ□へ候へく候、あなかしぐ、(七)□月十一日史料3は別々に上杉家文書に伝来した書状を、青木文彦氏が建武五年(一一一一一一一八)の足利直義書状として再構成し(巧)たものである。傍線部から建武五年段階における鎌倉府分同は伊豆・相模。t総・下総・上野・下野・安房・常陸の八ヵ国であり、未だ信濃は鎌倉府管轄下になかったことが(略)明らかとなる。小要博氏は、鎌倉府は暦応一兀年を境に信濃を含む十一ヵ国を管轄する地方機関として成立したとするが、この史料から暦応元年には未だ信濃の需轄権は京都にあったことがわかり、小要氏の指摘は当たらない。さて青木氏は、この史料3から暦応二年の高師冬の着任に伴って武蔵・甲斐・信濃が鎌倉府管轄国に編入され、鎌倉府が関東の軍事体制の中心に据えられたとされた。この指摘自体、正鵠を射たものであると考えるが、当該期の畿内近国の軍事情勢をふまえながら再検討してみたい。高師
南北朝期における信濃国管轄権の推移についての再検討(花岡) 2暦応~康永年間における信濃守護の軍事行動青木氏の見解を裏付けるものとしてここでは建武年間~屏応年間における信濃守護および国大将の軍事的動向を見ておきたい。小笠原貞宗は建武三年(一一一一一一一六)六月以(Ⅳ)降、幕府からの軍勢催促をうけ比叡山攻めに参加し、暦応
元年正月には美濃国青野原において北畠顕家の軍勢と〈」鯏
しているが、それ以降は畿内近国での軍事行動は見えなく 冬は暦応二年に上杉憲顕のあとをうけて関東管領に就任した。暦応二年四月に京都を発った師冬は五月には鎌倉に入っている。この高師冬の関東管領就任は上杉氏ら直義派への牽制と、常陸小田城の北畠親房を中心とする東国の南朝勢力の制圧を任務としたものであったとされている。また、幕府は暦応元年に新山義頁・北畠顕家といった京都周辺の南朝勢力を一掃することに成功し、暦応二年には東海地方の南朝勢力に対して高師泰・師兼が派遣されている。ここから、暦応元年頃を境に幕府の軍事的目標が、地方において頑強な抵抗を続ける南朝勢力の掃討に移ったものと考えられる。対南朝勢力という軍事的要請から暦応二年に信濃を含む三ヵ国の管轄権が移動したとする青木氏の見解は首肯しうるものとみなすことができよう。一
一
九
なり、暦応一一一年(一三四○)六月には信濃国伊那郡の大徳(四)王寺城を攻めている。村上信貞は建武四年(一一二一一一七)に
信濃国人を率いて金ヶ崎城攻めに参加して乢測が、その後
畿内近国での軍事行動は見られない。ここから、信濃守護・国大将に対する畿内近川への軍事的要請は暦応元年頃を境に一段落がついていたものと見られる。またこのような動向からも、前項で述べた、暦応元年頃を境とする幕府の軍事的目標の変化が認められるものと思われる。鎌倉府の袴轄時期における信濃守護の活動として注目したいのが以下の史料である。【史桃哩]
市河大炊助倫房代子息弥一一一郎親房軍忠次第右、為退治常州凶徒等、信州守護方御発向之間、属干淵御手、倫房為致躯忠、欲馳参之処、依Ⅱ之労、不乗馬今期之間、差進親房於代向、去年胴応、一一一川十一一一
日、懸前、対子大宝城凶徒終H致合戦、向山Ⅲ七日懸前馳向M城、御敵遂合戦、令警間役所等、令帰同詑、而問抽戦功之条、明白上看、給御証判、為備向後亀鏡、恐々言上如件、康永二年十二月Ⅱ(吉良時衡正員)「承了(花押)」 法政史学第七十号三○【史桃鰹]
市河大炊助倫房軍忠事、右、為越後国凶徒等御対治、大将伊予守殿井信州守護御方御発向之間、令馳参常岩北条之処、可向妻在庄之山依承之、今兄刑部大夫助房・同左衛門十郎経肋・中野五郎太郎・何孫五郎入道・川郎太郎入道等相共、去月珊応囚廿八日馳向妻在庄処、新田一族等、信州与越
州之境、於志久見河波場令馳向之間、倫房・同子息彦一二郎経兼・同孫一一一郎親一腸等馳越彼河責上、追落凶徒等、於在所等者悉所令放火也、将又今月三日、於妻在庄内赤沢南山取陣、催勢之由、就承及之、不廻時日馳向、致散々合戦、追落凶徒等、焼払新田右馬助・同大善亮等館畢、然則給御証判、向後弥為施弓箭面目、恐々一一[止如件、暦応四年六月Ⅱ(吉良時衡正u)「承了(花押)」史料4では「信州戒溌」が暦応五年(康、水元、一一一一四
一一)に信濃国人を率いて常陸に発向し、一一一月十一一一日・四月七日の北畠親房の篭もる大宝城攻めに参加していたことがわかる。史料的制約から関東執事と信濃守護の軍事行動における関係は明確に-旨えないが、康永元年八月十五日付鹿遡るが史料5では、暦応Ⅲ年(二一四一)に「信州払熱」
が信濃国人を率いて越後に出陣していることがわかる。越後は鎌倉府分国ではないが、暦応三年より高師冬とともに両執事を務めた上杉憲顕の守護国である。憲顕は宗良親王が越後の寺泊に現れたのを契機に蜂起した越後南朝方を鎮圧するために暦応四年五月に上野同人を率いて越後に発向し、康永三年七月に鎌倉に戻るまで越後に在国して南朝方(幻)鎮圧にあたっている。この上杉憲顕の軍事活動について小(犯)国浩寿氏は東国への北陸l東山ルートを確保するtで越後経営が上野と川様に重要であり、川じ関東執事である高師冬の常陸合戦での活躍への対抗という面もあったと指摘された。また、当該期において師冬は武蔵、憲顕は上野・越後という目□の守護国を根本基盤として行動しており、常陸を中心とした北関東南軍攻略を任じる師冬と北陸・東山 (妬)推測される。島利氏申f製によると、康永元年の関城ムロ戦に「衆中井十
一一ヶ国軍勢」が鎌倉府指揮のもと参加していることがわかる。松本一夫氏が指摘されるように、この「十二ヶ国」とは関東十ヶ同に陸奥・信濃を加えたものと考えられるため、ここからは、暦応五年段階にあって信濃の守護が鎌倉府の指揮の下で関東において軍事行動を行っていることが南北朝期における信濃国管轄権の推移についての再検討(花岡) 3下限についてこの時期における管轄期間の下限を示す明確な徴証はないものの、高師冬が常陸の南朝鎮圧という任務を遂行し関東執事を辞して上洛する康永三年閏一一月頃までには管轄権が京都に戻っていたとみるのが適当であると思われる。その指標として、守護正員である小笠原貞宗・政長の在京活
動が指摘できる。山田胤剛は康永三年段階の守護の在京・
在国状況を明らかにされたが、鎌倉府・奥州管領・鎮西管領などの広域機関の管轄地域の守護は軍事的要請から在京しないのが一般的であったとされており、鎌倉府管轆下守護についても西国に守護職を持つ千葉貞胤以外は在同していたことを指摘されている。康永一一一年段階で信濃守護の明証がある小笠原貞宗は在京活動をしており、その後も貞和二年(一三四六)に貞宗が高師直らと一一一宝院賢俊のもとを 方面南軍からの鎌倉府防衛に努める憲顕という役割分担を読み取ることができるとされた。このように、暦応~康永年間における上杉憲顕の越後での軍事行動は関東執事としての活動という性格が色濃いものであり、史料5の事例も暦応年間に信濃守護が鎌倉府の軍事指揮下において軍事行く羽)動を行っていることを一不す事例であるといえよう。-
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次に先行研究において指摘されている信濃が鎌倉府管轄下にあった時期は観応二年(一一一一五一)Ⅲ月前後である。この時期は観応の擾乱にあたり、関東では尊氏党の高師冬が敗死し、直義党の上杉憲顕を中心とする体制が成立した。この時期に鎌倉府管轄下にあった根拠とされるものが次の史料である。
【史胤他]
法政史学第七十号(皿)訪れている記事が見られる。貞和一一一年(一一一一四七)五月二(犯)十六日には京都において没しており、一貫して守護正[貝の貞宗が在京している。貞宗没後も、貞和五年(一一一一四九)に高師直が直義の篭もる高倉邸を包囲した際、小笠原政長(羽)が馳せ参じていることから、引き続き信濃守護正[貝が在京していることがわかる。東国の南軍に対する軍事的要請に一段落がついたことにより信濃の管轄権が京都へ戻り、信濃の守護正員が在京することとなったと考えたい。
ただし、暦応二年六月十一日高師直施柾腿が直接信濃守
護に宛てられていることからも明らかであるように行政的権限は京都側が管轄しており、鎌倉府が信濃に対して行使(躯)し震えた権限は軍事的なものに限られていたと推測される。||鎌倉府管轄期その2 金沢称名寺領信濃国太田庄内大倉郷事、近隣之輩成違乱之由、雑掌申候、被加扶持候者、喜入候、恐々謹一一一一M、(上杉)四月二日散位憲顕判(宗貞)謹止禰津係次郎殿
【史胤測]
毛見彦次郎実綱申信濃因毛見郷本栖・平沢両村地頭職事、重申状具書如此、度々触遣之処、無音云々、大無調、所詮、今月中企参洛可明申之旨、屋代越中権守相共、相触木島五郎二郎、載起請詞、可被注申之状、依仰執達如件、(石塔頼房)観応二年六月二日右馬頭(花押)(経肋)市河十郎左衛門尉殿史料6は、上杉憲顕が直義方の信濃国人である禰津宗貞に、信濃国太田庄大倉郷において称名寺に対する扶持を加えるよう依頼した書状である。大蔵郷ついては、観応二年六月十日に禅律方より下地の沙汰付が禰津宗貞に命じられてf脳、この文書との内容的関連から史料6は観応二年に
比定される。史料7からは観応一一年六月には引付頭人奉書が信濃に対して発給されていることがわかる。田辺氏は幕 ̄ 一 一 一
一
府が発給した引付頭人奉書が関東分国内に発給された事例は見られないことから、六月には管轄権が京都へ戻っていたものとされた。小要氏は、史料7は関東分国内に対して発給された当該期特有のものであるとされた。如何様にも解釈しうるものではあるが、関東管領が管轄国以外の国に所務遵行の文書を発給している例は管見の限り見あたらないため、史料6の観応二年四月段階では管鱈権は鎌倉府にあったものとみたい。その上で史料7を京都管轄下にあった徴証とみるとわずか二ヶ月の問に管轄権が移動したという不可解なことになってしまう。小要氏の指(羽〉摘されるように、当該時期は関東分国に対する引付による所務沙汰権行使の徴証が見られる特殊な時期であるため、史料7をもって京都が信濃に対する排他的な管轄権を行使していたとみることはできない。この時期も前節でみたように、鎌倉府が軍事指揮権や一部の所務沙汰権を信濃に行使するとともに、京都もまた所務沙汰権を信濃に行使する状況にあったとみなしたい。史料の制約からこの時期の下限については不明であるが、直義方が関東を制圧していた文和元年までは一貫して鎌倉府の管轆下にあったとみるのが適当であると思う。この時期に信濃の符轄権が鎌倉府に与えられた理由につ
南北朝期における信濃阿符轄権の推移についての再検討(花岡) 次に指摘しておきたいのは文和元年(一三五一一)~文和二年(一一一一五三)九月の間の信濃国の管轄権の問題である。先行研究では、直義敗死後、尊氏が関東にあった文和元年~文和二年九月の時期における管轄権については一一一一口及がない。しかし、尊氏の関東在陣中にあっては東国を尊氏が、義詮が京都にあって西国を管轄していたことが明らか(蛆)にされている。この指摘に沿ってみると、文和一兀年正川か いては、観応二年正月に尊氏党の関東執事であった高師冬が甲斐国須沢城において直義党の諏訪両頼によって敗死し、尊氏党の信濃守護小笠原政長が直義方に降ったことにより信濃において直義方の勢力が伸びたために鎌倉府管轄(伽)下となったと指摘されていることは参考になる。また、観応二年三川に頂義は上杉憲顕に対して「関東分岡内剛所」
を以て恩賞地として宛て行う権限を与えて乢刷が、このこ
とについて伊藤喜良氏は、直義が憲顕の政治的判断力の甘さを補うために鎌倉府の権限を強化したとものとされて(妃)いる。これらの指摘を踏ま』えるならば、この時期における鎌倉府への信濃の管轄権移動は直義による関東への挺子入れとして考えることができよう。三鎌倉府管轄期その3
法政史学第七卜号
(“)ら信濃へ文聿日を発給しているのは一貫して尊氏であり、小要氏が指摘するように信濃は尊氏の管轄下にあったとみることが妥当である。尊氏は直義追討の為に観応一一年(一三五一)十一月東国に下向し、十二月に直義軍を破り、文和元年正月に鎌倉に入り、そのまま鎌倉に居座り擾乱後の関東の安定化にあたっていた。この時期尊氏は遠江・駿河・陸奥にも権限を及ぼしており、また、所務沙汰など従来の鎌倉府には見られない権限を行使していることから、特殊な時期といえ
L脚、信濃が東国側の管鰐下に入っていることで広義の鎌
倉府管轄下にあった時期とみなしたい。この時期、信濃に対する行政的権限の行使を示す文書は残されていないが、当該期は尊氏が管轄国内に対して所務沙汰関係の文書を発給していることから、信濃に対しても行政的権限を行使していたことが推測される。この時期の下限については、文和二年七月二十九日に尊氏が上洛した後の文和四年(一三五五)五月に小笠原長基が信濃の南朝勢鎮圧に関する御教書を義詮より受給してい(妬)ることから、尊氏の上洛に伴って符轄権が京都に戻ったものと考えられる。 次に鎌倉府符轄下として指摘されている時期は貞治川年(一一一一六五)以降の時期である。文和二年(一一一一五三)七月から鎌倉公方基氏が死没する貞治六年(一三六七)四Ⅱまでは、鎌倉府は管国内に対して軍勢催促・所領宛行・寺領寄進・祈祷命令・所務沙汰などの権限を行使し、京都からの命令が鎌倉府を経由して鎌倉府管轄国に伝達されて〈仰)いる。貞治四年以降に信濃の符幟権が鎌倉府に移ったとする根拠が次の史料である。【史胤脳]
石清水八幡宵権別淵了楕中尚消法印遺領信濃同小谷庄事、永清法印相語国人等、押領云々、了清為譜代御師、忠切仁候、無相違之様、可有計御沙汰候、謹一言、(足利)貞治四年一一月一二日義詮(花押)(足利基氏)左兵衛督殿これは石清水八幡宮より信濃国小谷庄に対する濫妨停止を求める訴えを受け、将軍義詮が鎌倉公方足利基氏に対して「計沙汰」を命じているものである。先行研究ではこの文書の存在をもって、貞治四年二月段階において信濃は鎌倉府符轄下にあったとされている。この時期の下限につい 四鎌倉府管轄期その4=
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1m
1上限についてこの時期における上限を明らかとするために、京都および鎌倉府が信濃に対して権限を行使した徴証を確認していきたい。貞治二年(一三六一一一)には義詮より面接、信濃守(⑲)護上杉朝一房に沙汰付が命じられている。ついで貞治一一一年(一三六四)には信濃国小谷庄の問題について義詮より直(印)接、村上中務大輔に「扶持」が命じられている。以上のことから、貞治三年までは鎌倉府は信濃に対して京都の命令を施行する権限を具有しておらず、おそらくその他の行政的権限を行使していたのも京都であったと考えられる。このことは貞治三年三川八日に鎌倉府に新設された「行宣政(皿)院」の管轄地域が「十州管内禅教書刹」であったことからも裏付けられる。そして先行研究でも指摘されているように、史料8をもって貞治四年二月には行政的権限が鎌倉府へと移っていることが確認される。貞治四年八月には南朝 ては、佐藤氏が永和三年(一三七七)には管轄権が京都に移っているとしたのに対し、藤枝氏は永和三年から永徳元年(二一一八一)の問に京都に管轄権が移ったとされ、田辺氏・湯本氏は応安三年(一三七○)八月までには京都符轆下に移ったとされた。
南北朝期における信濃同符轄権の推移についての再検討(花岡) (皿)方鎮圧のために、近習の一局師義を信濃に派遣している。また、貞治五年(一三六六)・六年には基氏が下地の沙汰付
を守護上杉朝房に命じた事例が確認ざ仏秘・
この時期の上限について注Ⅱしたい史料が次のものである。【史料翌
(可被致)天下安全祈祷伽、就搾服州現、殊□□□精誠之状如件、(足利雌氏)康安一一年一一月廿一二Ⅱ(花押)(官神力)科野大□□主これは康安一一年(一一一一六一一)一一月二十一二日に基氏が「彗星出現」につき科濃大官に対して「天下安全」の祈祷を命じたものである。ここから、康安二年には鎌倉府が信濃に対して祈祷の命令権を行使していることとなり、信濃が鎌(弱)倉府の符轄下に入っていることが排測される。ただし、前述したように、鎌倉府が信濃に行政的権限を行使し始めるのは貞治旧年からであり、康安二年~貞治四年の間に、行使しうる権限が拡大したものと考えたい。2下限についてこの時期における下限について、佐藤進一氏は、「守矢
五
文書」、水和三年八月十七日付管領奉書案において、諏訪社造営料足を難渋する輩に対する催促命令が京都から鎌倉府を介さず直接、信濃守護上杉朝房に伝達されていることから、永和三年までには信濃の管轄権が京都へと移っていたとされた。藤枝氏はこの管領奉書の存在から、、水利三年から至徳元年(一一一一八四)に至る問に管轄権が京都に戻ったとされたが、鎌倉府を経川せずに命令が胸接信濃守護に充てられていることから、この藤枝氏の説は成立しない。田辺氏は佐藤説を支持した上で、「応安に入ってからの信濃国は、その守護が関東管領であるという理由で、引き続き鎌倉府の管轄下にあったと想像されるが、幕府としては臨時的に鎌倉府に任せてあった信濃国を将軍の手にもどしたいとの考えから、上杉朝房が関東管領を辞した応安三年八川に、信濃川を幕府の符轆下に移したのではないか」とされた。川辺氏が指摘されるように、関東符領を辞して止洛しなお信濃守護を務めているとなれば、京都管轄国守護の在京原則から、信濃の管轄権が京都に移ったと考えることがで(邪)きる。ただし、小要博氏の指摘によると、この朝房の辞職問題は辞意を表明した応安三年八月四日の六日後の十日ま(印)で継続しており、同年十一月十二日には「上杉両管領」と 法政史学第七十号
3管轄権移動の理由この時期に管轄権が移動した則由について、当該期の政治的・軍事的状況から考えてみたい。 一一一一ハ
(卵)みこえ、上杉能憲とともに未だ管領の地位にいたことがわかる。応安五年(一一二七二)十一一月十一一日には「関東一方符(胡)領上杉丘〈部少輔入道」とみえることから、応安五年十二月までは依然として上杉能憲とともに管領に在職していたことがわかる。この指摘や応安一一一年十月に信濃で新田氏残党(釦)が蜂起した際に武蔵川本川より朝一屑が川陣していることを踏まえると、応安三年八月に信濃の杵轄権が京都にもどったという田辺氏の説は成立しない。では、朝房が管領を辞したのはいつ頃なのだろうか。小要氏は朝房の管領在職の下限を明示されていないが、朝房の上洛をもってその時期とすることができよう。朝房は応安七年(一一一一七四)三月
には在京している徴証がh秘ことから、朝房は遅くとも応
安七年一一一月までには関東管領を辞していたと考えられ、応安七年一一一H以前までには需轆樅が京都に移ったものと考え(⑪)たい。(1)旧直義党の復帰と義詮・基氏
この時期に信濃の管轄権が移動したことについては、湯本軍一氏が、「鎌倉府と幕府との関係が最良の状態におかれていた基氏晩年のことであ」り、「東国の早期平定を願う幕府が、鎮圧の進んだ信濃をふたたび関東防衛構想のなかに位置づけようとした」という見通しを述べられている。この湯本氏の見通しを深化させるため、淵該期の京部・鎌倉府の関係と東川情勢に信濃を位満づけてみたい。康安二年頃に管轄権が移動した理由を考える上で参考に(田)なるのが小国浩寿氏・岩崎学氏の研究である。小国氏は尊氏上洛後の畠山国情を中心とした体制が基氏の鎌倉公方としての主体性を抑圧したものであったこと、その崩壊の結果として上杉憲顕の関東執事復帰を迎えたことを指摘された。また、基氏が旧尊氏党の高坂氏童を重用したことから、基氏は義詮との関係の良好化をはかったものとされた。岩崎氏は貞治二年の上杉憲顕の鎌倉復帰は、幕府側が鎌倉府との関係強化を図った結果であったとされている。このように、康安元年(一三六一)の畠山国情没落から貞治二年の上杉憲顕の関東復帰までに到るⅢ尊氏党の関東からの一掃と旧直義党の復帰という流れは、基氏の自立的意思を示すだけではなく、義詮によっても推し進められたという理解が示されている。畠山国情没落の翌年四月には旧
南北期期における信濃国椅幡権の推移についての再検討(花岡) (2)貞治~応安年間の信濃南朝方勢力前述したように貞治四年頃より鎌倉府は精力的に信濃に(閉)潜伏する南朝方鎮圧のための軍事行動を起こしており、応安二年(一三六九)十月には上杉朝房は足利氏満の命を受 個義党である高師有の関東執事就任が見られるが、関東の旧直義党の復帰に伴う情勢の不安定化に対処するための措置として、この時期に部分的に信濃の管轄権が移ったものと考えたい。旧尊氏党の平一摸・宇都宮氏綱の乱討伐に信濃国人市河氏が参加していることは象徴的であろう。前述の貞治四年から行政的権限も移譲されたということ(“)についても、小凶浩寿氏の研究が参考になろう。小川氏は、貞治二年~五年にかけて義詮・基氏両者の協調関係の構築・保持を目的とした共川文化事業が行われたこと、貞治山年を境に武蔵・伊豆・相模一一一Nを公方の独自権力で間め、それを周辺(上野・信濃・上総)から上杉氏勢力によって護衛させる体制を志向したとされた。このような体制を構築するには信濃に対する基氏の権限が強化される必要が有ると思われ、貞治四年から兄られる信濃の鎌倉府への行政的権限の移動はこのような雌氏の主体的な政策と関連する可能性があることを指摘しておきたい。
三七
け、小山・宇都宮・千葉・佐竹らを率いて伊那大河原の宗
良親王を叺眺、応安三年二月には信濃に蜂起した新田の残
党馬淵・中村氏の退治のため信濃に出陣し退散させて(、)いる。また、北信地域においても応安二年九月に南朝方が(閉)蜂起し、上杉朝宗が鎮圧にあたっている。このように、貞治~応安年間にあっても信濃の南朝方の勢力は根強いものがあり、鎌倉府側も大規模な鎮圧作戦を敢行していることから、この時期の管轄権移動も根本的には信濃の南朝方鎮圧という軍事的要請による性格が含まれていたものと推測される。宗良親王が信濃から吉野へと帰ったのは応安七年の冬であり、信濃の南朝方が壊滅状態となった応安七年頃に上杉朝房が上洛し管鱈権が京都に戻っているのも、その軍事的課題を果たしたためであったと思われる。4上杉朝房と小笠原長基の並立状態についてきて、応安年間に信濃では、上杉朝房が守護に在職すると同時に小笠原長基が守護に準ずる権限を行使しているこ(的)とが指摘されている。その象徴的なものが次の史料であ
る。(わ)【史料Ⅷ]信濃國常岩御牧南条内五ヶ村、為兵粗料所公方御左右 法政史学第七十号
間、所預置也、守先例可被致沙汰之状如件、(小笠原長基)応安一二年四月一一一日沙弥(花押)(頼房)市河甲斐守殿(m一【史料u]信濃國水内郡常岩南条・後閑・水澤・有尾・中曾禰等事、為本知行不可有机違候、側執達如件、(上杉朝房)応安一二年六月八日沙弥(花押)(全切)藤井下野入道殿史料皿では小笠原長基が信濃同常岩御牧南条内五ヶ村を市河頼房に預け置いている。史料uでは上杉朝房が南条内五ヶ村と同一所領とみられる信濃国水内郡常岩南条・後閑・水澤・有尾・中曾禰を藤井全切に安堵している。この時期、上杉朝房が所務遵行・軍功認定権等を行使しているのに対して、史料、に象徴されるように小笠原長基が行使しているのはあくまで料所預憤といった軍事指揮権者としてのもののみであり、守護と認定することは出来ない。さて、藤枝氏は史料皿.uにおいて、小笠原長基が「公方御左右」として預け置いた所領を上杉朝房が別の国人に安堵していることから、融和的関係を保っていた義詮・基氏が相次いで死去し、応安三年頃から両府問の意思疎通が破綻をきたしたことによって、小笠原氏は京都によって鎌
八
倉府の信濃支配に対する模として位置づけられ、信濃が京都・鎌倉両勢力の角逐する地域となったとされた。田辺氏は鎌倉府の基礎が安定化した基氏末期の頃から鎌倉府は積極的に信濃統治を志向するようになり、関東管領の上杉朝房が信濃守護を兼ねることにより積極化されたとし、信濃を京都の符轆下に戻したいという考えから朝房が杵領を辞した応安三年八川に符轆椛が京都へ移ったとされた。このように、先行研究では、上杉朝房と小笠原長基が並立する状況と応安年間の京都への管轄権移動の背景に、両府間の政治的緊張関係があったとされている。この理解の当否について再検討するため、前述した義詮・基氏によって旧直義党の復帰が推進されたという考えに基づき、貞治年間の小笠原氏および信濃国人の動向についてみてみたい。建武政権期には南朝方に属し、観応擾乱期には価義〃に幌していた諏訪上社・禰津氏などは延文年間頃より幕府へ帰順するようになる。禰津氏については向背定まらない部分があるが、小笠原氏と鋭い対立関係にあった諏訪上社の諏訪直頼は、延文三年(一一一一五八)の義詮の将軍宣下に供
奉f腿など重用されている・一方で小笠原長基は、前述し
たように貞治一一年の上杉朝房の守護就任により守護職を南北朝期における信濃国管轄権の推移についての再検討(花岡) 失っており、それ以降の信濃国人に対する発給文書は残っていない。現存する貞治年間における小笠原長基の発給文書は、同族の小笠原清政に対する科所預ヶ状や諏訪下社・
石清水社への寄進棚などであり、ここからは小笠原長基
が、守護として獲得した所領の保全や一族の結集に転じていることが推測される。旧仇義党武士の登川という方針は、信濃において一貸して血義方式化と対立関係にあった小笠原氏の地位を低下させるものであり、小笠原氏の貞治年間における雌伏はこの方針によるものであろう。このことから、関東における旧直義党武士の復帰という流れが義詮によっても推進されたという理解は、信濃についても認められるものと思われる。川面義党の復帰という協調路線を採ってきた義詮・基氏が死去すると、応安年間頃より小笠原氏は復権し、京都によって守護上杉朝房と併存する軍部指揮権者として位撮づけられるようになるのである。では、このような刈該期の状況から信濃をめぐる両府間の対立関係を見いだすことは適淵なのだろうか。筆者は以下の理由から、上杉朝房・小笠原長基の並立状況と応安年間の京都への管轄権移動を以て両府問の政治的緊張関係を強調することはできないと考える。(i)前述したように、当該期の管轄権移動は、信濃で抵=
一
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、-〆()iiiい
抗を続けていた南朝方勢力討伐のための措置という性格が強い。また、朝房は信濃出陣にあたって東国守護を動員していることから、信濃平定のために関東管領を兼帯していたことは有利に働いたと考えられる。(、)田辺氏は関東管領が信濃守護を兼帯することによって鎌倉府が信濃支配を強化したとするが、朝房が関東答領として信濃以外に発給した文書は一通のみしか確認できない。能憲とともに両管領として存在した理由や役割
分担は不明とされて叱秘が、朝房の関東管領就任は川滴
義党の重鎮上杉憲顕の死後、年若い氏満を管領一一人で補佐せんとしたものと推測できると思う。そうであるならば、信濃守護上杉朝房が関東管領に就いたことに鎌倉府による信濃支配強化の目的があったとみることはできなⅦ)基氏が貞治六年川月に没して幼い氏満が鎌倉公方となると、一時的に京都は信濃を含む関東分国を管轄し、応安二年頃までその状態が続くことが田辺氏によって指摘されているが、その後も引き続き鎌倉府が信濃を管轄していることは、基氏死後も信濃を鎌倉府が管轄することに京都側が意義を見いだしていたことの証左であると思われる。 法政史学第七十号
以上述べてきたことをまとめると以下のようになる。①暦応一一年(一一一一一一一九)~康永一一一年(一一一一四四)頃関東執事高師冬の鎌倉下向にともなう措置で、東国の南朝勢力に対抗するための軍事的要請によるものであった。また、当該期の関東分国全般に言えることではあるが、鎌倉府が信濃に行使した権限は限定的なものであった。その (w)藤枝氏は史料皿.Ⅱをもって両府間の対立的関係を読み取るが、支配系統の混乱によって一度預け置かれた所領を本領主に対して安堵したとみるならば、この史料をもって対立関係を強調する必要はないと考えられる。(V)上杉・小笠原の並立状態に両府間の対立関係を見いだすならば、応安五年から七年の間に管轄権が京都に移った後は小笠原氏が守護に復帰することが自然であるが、依然として上杉朝房が信濃守護に就任し続けていることは不自然である。(.Ⅵ)応安年間には足利氏満は未だ本格的な文書発給にも至っておらず、後の康暦元年に顕現した氏満の野心を当該期に遡及して、向府間に対立関係を見いだすことはできない。
おわりに 四○
表信濃国管轄権一覧表 観文文康貞 応和和安治 2元224 5152536265
応安3南北朝期における信濃国管轄権の推移についての再検討(花岡) 康永3必
応永安和 73
至徳元弘歴歴
応応元2
(胸暦)3839 707477
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liilllIliHUmIh■UmlHIHIIIIHHPⅢl■I
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佐藤 麟枝 田辺 湯本 小要 私案
一鎌倉府管轄下にあった期間 一京部管轄下にあった期間
一一鎌倉府管轄下にあった可能性のある期間
下限は常陸の南軍討伐の任を終えて高師冬が上洛する康永三年頃までであったと推測される。②観応二年(一一一一五一)四月以降管轄権が移動した理由は不明確であるが、関東における南義党の勢力伸長に伴う措置であったと考えられる。③文和元年(一一一一五二)~一一年(一一一一五一一一)尊氏が鎌倉に下向し京都の義詮と東国・西国を地域分割して管轄する体制の成立に伴う措置であったと考えられる。恐らく文和二年九月の尊氏の上洛とともに笹轄権が京都へ戻ったものと推測される。④康安二年(’’一一六二)以前~応安七年(一一一一七四)頃旧臓義党の関東復帰に伴うものであり、その背景には義詮と基氏との協調関係があった。また、貞治四年(一三六五)より権限が強化された。応安七年の上杉朝房の管領辞職によって濡轄が京都へ戻ったと推測される。従来の研究では、永享の乱直前の東西境界地域をめぐる両府間の緊張関係や、基氏期以降の確立した鎌倉府像を南北朝前期に遡及していたきらいがあったように思われる。しかし、以上見てきたように、南北朝期を通じて信濃の管轄権が移動した一義的な理由は、関東安定化のための軍事的基盤とする必要性や信濃に対する軍事的課題が生じた場
111
-
合であり、その必要性や課題が解決されたときは管轄権が京都のもとへ戻っていることがわかる。南北朝内乱を経て「関東の外壁」としての役割を終えた信濃は「室町殿御分国」として明確に位置づけられるに至ったのであった。もとより、この検討結果は、管轄権移動が小笠原氏の守護権力形成にとって阻害要因となったとする従来の解釈を否定するものではない。永享の乱面前における村上氏に象徴されるように、管轄権が鎌倉府に移ることは自然と信濃に対する鎌倉公方の求心力を発生させた。また、貞治年間の管轄権移動は、単に小笠原氏の守護失職を意味するだけでなく、一国支配を志向する小笠原氏にとってのアキレス腱である北信地域を中心に盤踞する旧直義党武士の復権を伴ったのであり、小笠原氏の信濃における権力形成を阻害することとなったのであった。
註(1)
(2) 法政史学第七十号
渡辺世祐「関東中心足利時代之研究」(雄山閣、一九二六年、のち、一九七一年に新人物往来社より再刊、’九九五年に同社より改訂版が発行。)佐藤進一「守護制度史上の信濃」S信濃」第二十巻十号、’九六八年、のち佐藤進一「Ⅱ水中世史論集」岩波書 店、一九九○年)、同「室町幕府守護制度の研究上」(東京大学出版会、一九六七年)。以下、特に断らない限り佐藤氏の見解は前者の論稿に依る。(3)藤枝文忠「室町初期信濃国統轄をめぐる京・鎌倉の対立」(「日本歴史』第二六六号、一九七○年)、田辺久子「南北朝前期室町幕府における信濃国答轄権の推移」SⅡ本歴史」第二八六号、一九七二年)、小要博「関東府小論l幕府との関係を中心にしてl」(豊川武先生古稀記念会編「日本中世の政治と文化」吉川弘文館、一九八○年)、湯本軍一「第二章室町幕府政治の発展と信濃」(長野県編「長野県史通史編第三巻中世二」長野県史刊行会、一九八七年)、以下、特に断らない限り藤枝氏・川辺氏・湯本氏の見解はこれらの論稿に依る。(4)川辺氏は、信濃が鎌倉府管轄下に入った理由として、信濃守護の不在という可能性を提示されている。しかし氏が指摘されたいずれの時期も守護としての在職徴証を残す人物が存在している(暦応~康永年間Ⅱ小笠原貞宗・吉良時衡正員、観応二年Ⅱ諏訪直噸、貞治年間Ⅱ上杉朝房)ため、この説には従えない。(5)「秋田藩採集文書」貞和元年十二月六日付高師直施行状(「信濃史料」〔以下「信史」〕第五巻五一一一二頁)、「円覚寺文書」貞和一一一年三月二十二日付高師直施行状(「信史」第五巻五五○頁)。ちなみに川辺氏は「市河文書」貞和三年川月二十一日付石橋和義奉書S新編信濃史料叢書第三巻」
四 二
〔以下、出典略〕)を引付頭人奉将とするが、本文灘は安堵方頭人としての発給文書である。(6)伊藤喜良「「初期鎌倉府」小論」(「文化」第一一一十二巻第Ⅲザ、一九六九年、のち「初期の鎌倉府」と改題して同氏「中世国家と東国・奥羽」校倉書房、一九九九年)、同「鎌倉府覚将l幕府統治機関からの「脚立」過秘の雄礎的分析を中心としてl」(「歴史」第囚十二巻、一九七二年、のち前掲伊藤著書)・前掲註3小要論文。(7)前掲註6伊藤論文・註3小要論文、松本一夫「南北朝初期鎌倉府軍事体制に関する一考察」S古文書研究」第囚一・四二合併サ、一九九五年、のち同氏「東図守護の歴史的特質」岩川書院、二○○一年)、佐藤博信「鎌倉府論ノート」(中仙東国史研究会編「中世東国史の研究」東京大学出版会、一九八八年、のち「鎌倉府についての覚書」と改題して何氏「中世東川の支配構造」恩文閣出版、’九八九年)、峰岸純夫「書評佐藤博信著「中世東国の支配構造」」(「史学雑誌」第而編第六け、一九九一年)、前掲註3小要論文。(8)前掲註6伊藤論文・前掲註3小要論文、磯崎達郎「初期鎌倉府再考l南北朝初期の「鎌倉府執伽」の性格をめぐってl」(「史学」第六十一号第三・四号、’九九二年)、松本一夫「初期鎌倉府の理解について」S千葉史学」第八号、一九九四年)。(9)「金沢文庫古文書」年月日未詳僻湛容書状S豊野町の資
南北朝期における信濃国替轄権の推移についての再検討(花岡) 料一豊野町誌5」〔以下「賎」〕囚一三頁)。(Ⅲ)「金沢文庫古文書」年未詳六月七日真如書状(「豊」四一一頁)。(Ⅱ)湛蓉については、納富常犬「湛容の雄礎的研究l古文書資料を中心としてl」(「金沢文庫研究」第十一一一巻第五号、一九六七年)、神奈川県立金沢文庫編「企画歴学僧湛容の軌跡」三○○七年)などを参照。(里福島紀子「金沢称名寺による信濃同太川荘支配についてl範義書状についてl」(「信濃」第囚十八巻第五号、一九九六年)。(B)青木文彦「上杉家文書「足利氏書状」の再検討l初期鎌倉府の構想l」(「埼玉地方史」第二十六号、一九九○年「原田正剛「関東管領交替をめぐる諸問題l高師冬の関東管領解任をめぐってI」(峰岸純夫編「Ⅱ水中枇史の再発見」士Ⅱ川弘文飾、二○○三年)。(u)(A)・・・「上杉家文書」(「新潟県史資料編3中世1」二九八号)、(B)…「上杉家文什」(「M」二九六号)。(胆)前掲註皿青木論文。なお、史料3の復元の詳細については同論文を参照。(肥)武蔵の州偶については阿考の余地があると思われるが、この傍線部の記述から信濃が関東の管轄下になかったことは明向であろう。(Ⅳ)「勝山小笠原文書」建武三年六月二十六日足利直義御教普S新編信濃史料叢書」第十二巻〔以下、出典略〕)、建
四三
武三年七月四日足利直義御教書、建武三年七月五H足利尊氏御教書、建武三年七月十六日足利直義御教書、建武三年八Ⅱ二十ⅡⅡ足利尊氏御教書。(旧)「太平記」「巻十九青野原軍附八幡合戦並顕家卿討死事」(「信史」第六巻三七一頁)。(四)「守矢文評」所収「守矢貞実手記」(「新編信濃史料叢書第七巻」〔以下、出典略〕)。(別)「市河文書」建武囚年三月U市河親宗軍忠状・建武四年三月日市河経助軍忠状・建武四年一一一月日市河経助蝋忠状・建武四年三川H市河助房代小見経胤瀬忠状・建武旧年一一一月Ⅱ市河助扉代小見経胤耶忠状。(皿)「市河文書」康永二年十二月H市河倫房代親房軍忠状。なお、東京大学史料編纂所架蔵影写本に依って字句を補訂した。(型)「市河文書」暦応四年六月日市河倫房軍忠状。なお、東京大学史料編纂所架蔵影写本に依って字句を補訂した。(羽)この「偏州守護」について「新編偏濃史料叢洲第三巻」は小笠原貞宗に比定するが、松本一夫氏は「吉良時衡の正員」の可能性もあるとして積極的な比定はしていない(松本一夫「南北朝初期幕府軍事体制の一様態l信濃国の場合l」〔「信濃」第五十七巻1号、二○○五年〕)。しかし、松本氏も指摘するように康永元年九月以降小笠原貞宗の守護在職徴証が明らかであることから、この「信州守護」は小笠原貞宗に比定してよいと思われる。 法政史学第七十号
(別)「無量寿寺文書」康永元年八月十五日鹿島利氏巾状案弓新訂増補国史大系弘後鑑第一篇」)、前掲註7・註8松本論文。(妬)松本一夫氏は前掲註調論文八八七頁において史料4に論及し、「この時期、信濃が鎌倉府管轄下に入っていたか否か微妙であり、鎌倉府からの命令による動uなのか、あるいは幕府が鎌倉府の執事にして総大将であった高師冬を支援するために信濃に軍勢を発遣させたのかは不明である。」とされた。しかし、松本氏も指摘されるように前掲註型史料により、関東十ヶNに陸奥・信濃を加えた十二ヶ国から軍勢が動員されていたことは躯実であり、後述するようなこの時期の管轄権移動の経緯を考慮するならば、大宝城攻めにあたり鎌倉府からの動員命令があったと見るのが妥当であると思われる。ちなみに、佐藤和彦氏は史料4について、「信濃の守護が、領国内の国人領主らをひきいて、常陸まで遠征し、合戦ののち、役所を警間し、しかるのちに帰川していることに注Ⅱする必要があろう。足利力の侍大将高師冬を頂点として、東図の守護と囚人らが、組織的に参陣と帰国をくりかえすという方式が完成しつつあった」と述べられている(「第三章南北朝内乱と下野」〔栃木以史編さん委以会編「栃木映史通史編3中世」栃木雌、一九八四年〕四七六頁)。なお、史料4に見える「警同役所等」については、関城合戦に参加した豊島重久の軍忠状である「豊島・宮城文評」脱水元年六ⅡⅡ豊島嘔久着到状 四四
(「中世豊島氏関係史料集二)豊島・宮城文書」豊島区立郷士資料館、一九八八年)に「若御料警固」とみえる。(妬)この「信州守護」は「市河文書」暦応三年八月H市河倫房軍忠状にみえる「守護御代向吉良兵庫允時衡」の正且であると思われる。(〃)「小林家文書」暦応囚年六月日小林重政着到状(中世史部会「資料紹介資料編中仙袖遺二)小林家文書」〔「群馬県史研究」第二十九号、一九九一年〕)、「鶴岡社務記録」暦応四年六月七日条、「上杉家文書」康永二年正月二十七Ⅱ足利直義御教書S新潟県史資料編3中世l」六一○号)、「一一一浦和田文書」(年未詳)二月十九H源頼Ⅲ書状(「新潟県史資料編4中世2」一二七阿号)。(聖小国浩寿「奥州阿符領と関東向執事l初期鎌倉府と奥州l」(「中央史学」第二十一一一号、二○○○年、のち小脚浩寿『鎌倉府体制と東国」吉川弘文館、二○○|年)。(空史料5については、信濃守護とともに越後へ発向した「大将伊予守」が如何なる人物かという点において問題が残る。この人物がどのような立場で越後に発遣されたかが、この軍事行動を鎌倉府の指櫛によるものか否か判断することに関わるためである。この人物は次の軍勢催促状の発給者と同一人物であると思われるが、その人名比定は難しい。「色部達郎氏所蔵文書」暦応Ⅲ年正月lⅡ伊予守某淑勢催促状(田島光男編『越後国人領主色部氏史料集」〔神林
南北朝期における信濃国符轄権の推移についての再検討(花岡) 村教育委員会、一九七九年〕)越後国凶徒退治事、来三月廿R以前可令発向也、早致用意於搦手、可被軍忠候状如件、暦応四年正Ⅱ十Ⅱ伊予守(花押)(側腿)色部一二郎蔵人殿この「伊予守」の人名比定については①上杉憲顕、②上杉朝定、③字都南氏綱の三つの説が提示されている。①t杉憲顕については、山本隆志氏などが主張されるものであり(山本隆志「第一部第四章南北朝内乱と守護上杉氏権力の定着」〔上越巾史編さん委只会編「l越市史通史編2中世」二○○四年〕)、この時の合戦に憲顕が出陣していることから同定したものであるが、憲顕が伊予守に任官したことを示す史料はなく、暦応四年段階の而途も民部大輔でありこの比定は成立しない。②上杉朝定については「越佐史料』巻二において示された見解であり根拠は不明であるが、暦応川年四月十三Ⅱに越後脚柵川庄内安田条方上方を丹波回光福寺に寄進している(丹波安国寺文詩)ことからであると思われる。しかし、朝定は建武旧年十月以降、引付頭人としての活動がみられる上、建武三年から暦応四年七川まで弾正少弼を官途としていたため(阪川雄一「南北朝前期における上杉氏の動向l上杉朝定・憲顕・重能を中心にl」〔「国史学」第一六四号、一九八八年〕)、この比定も成立しない。③宇都宮氏綱は赤澤計眞氏が主雌するものである(赤澤計眞「上杉氏の越後入部と観応の擾
四五
乱」〔「新潟史学」第二十一号、一九八八年、のち、赤澤計眞「環日本海歴史民俗学叢書6越後上杉氏の研究」高志書院、一九九九年に収める。〕)。赤澤氏は官途の一致から文和元年に越後守護となった宇都宮氏綱に比定するが、宇都宮氏綱は貞和五年八川に従五位下下野守に補任されるまでは無位無官であり、伊子守と見えるのは文和元年十二月から貞治元年頃までであった(江川郁夫「鎌倉府「雌揮山体制」と宇都宮氏綱」〔「地方史研究」第二八五号、二○○○年ごため、この赤澤氏の比定も成立しない。もとより、筆者は現段階においてこの文書の花押を確認できておらず、また、官途の一致のみからの比定も消極的なものであり、結論的にはこの「伊予守」は現段階では不明とせざるを得ない。しかし、前述したように暦応四年六月以降に上杉憲顕が越後に下向して転戦していることは確実であり、「伊予守」と上杉憲顕がまったく同時期に越後において軍事行動を行っていることから、この「伊予守」は上杉氏の一族もしくは上杉憲蜘陛下の人物であると推測しておきたいO(釦)山皿徹「南北朝期の守護在京」(「日本史研究」第五三四号、二○○七年)。(別)「三宝院賢俊僧正日記」貞和二年二月十六日条(「信史」第五巻五三囚頁)。(型「師守記」S信史」第六巻二頁)。(羽)「太平記」巻第二十七「御所團事」(「信史」第六巻五二 法政史学第七十号
頁)。(別)「唐津市小笠原記念館所蔵文書」暦応二年六月十一日高師直施行状(「信史」未収、「南北朝遺文九州編」一三五五号)。(妬)このような状態は観応~延文年間における出羽国でも指摘されている(小要博「関東府と川羽l斯波兼瀬の発給文符をめぐってl」〔「与野巾史綱査報告書」第七集、一九八五年〕)。(胡)「金沢文庫古文書」(観応二年ヵ)四月二日上杉憲顕書状案S豊」)。原田正剛氏はこの文書について、関東管領化杉憲顕が禅律方による裁許の遵行を確実に行うよう依頼した挙状であったとされる(前掲註Ⅲ原川論文)。(〃)「市河文書」観応二年六月二Ⅱ石塔噸房奉書。(胡)「金沢文庫古文書」観応二年六月十日室町幕府禅律方頭人奉書案(「豊」囚二三頁)。(胡)小要博「足利義詮と下知状形式文書」含史路」創刊号、一九七八年)。(仙)「鰹」四二四頁。(4)「上杉家文書」観応二年一一一Ⅱ十一一一Ⅱ足利直義御教書(「新潟県史資料編3中世二六一一号)。(蛇)前掲註6伊藤論文。(⑬)小要博「足利尊氏と御内書」(「H本史研究」第一七三号、一九七七年)、同「発給文書よりみたる足利義詮の地位と権限」(「法政史学」第二十八号、一九七六年、のち上
四六
島有編「Ⅱ本古文書学論集七中肚Ⅲ南北朝時代の武家文書」吉川弘文館、一九八六年)。(坐「勝山小笠原文書」旺平七年正月I九H足利尊氏御教書・正平七年正月十九冊足利尊氏御教書・正平七年正月十九Ⅱ足利尊氏御教書・観応三年七Ⅱ十七Ⅱ足利尊氏下文・文和二年上川ⅡⅡ足利鯨氏御教菩・文和三年七川五Ⅱ足利鹸氏御教書・文和二年しⅡ(Ⅱ足利尊氏御教書案。(妬)前掲説3.註咄小妥論文。むろん、束下してきた鹸氏による統治時期を単純に「鎌倉府椅轄時期」とみることに問題はある。この時期は鎌倉府に帰属していたとみるよりは「在鎌倉の尊氏に帰属していた時期」と言った万が的確であろう。この問題についてここで詳しく論じる準備はないが、東国側の政治的管轄下に入ったということは事実であることから、本文中で述べたように本稿ではひとまず広義の鎌倉府符輔下にあった時期とみなした。(妬)「勝山小笠原文書」文利旧年五Ⅱ二十六Ⅱ足利義詮御教
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(仰)前掲註3小要論文、小林保夫「南北期・室町期の京と鎌倉(上)l鎌倉府発給文評の分析l」(「堺女子短期大学紀要」第十しけ、一几八二年)、角川朋彦「足利雄氏発給文書に関する一考察」(「駒澤大学史学論集」第二十五号、一九九五年)などを参照。(蛆)「石清水菊大路家文書」貞治四年二月一一一H足利義詮書状(「信史」第六巻囚二八貝)。
南北朝期における信濃N菅輔権の推移についての再検討(花岡) (蛆)「円覚寺文書」(貞治二年ヵ)八月二十一Ⅱ足利義詮御内{一一一書、貞治□年十月七日上杉朝房施行状。なお、小林計一郎「信濃守護考」(「伊那」第八~十一号、一九六二年、のち小林計一郎「信濃中世史考」吉川弘文館、一九八二年に収める)をはじめとする信濃守護の沿革について一一一一向及した先行研究では、この文誉の年廿の虫抜箇所を「五年」とした上で、上杉朝房の信濃守護補任を貞沽Ⅲ年以降としてきたが、「信濃山科第六巻」に掲救された写典版や「相州文書」所収の写しで確認すると「二」とよめること、京都の命令が面接僧濃守護に伝達されていることなどから、本文書は貞治二年とするのが妥当である。ここから、上杉朝房は上杉憲顕が関東に復帰した貞治二年に信濃守護に就任したと考えられる。(印)「石清水八幡宮旧記抄」貞治三年囚月八日足利義詮御内件案(石清水八幡滴文替を読む会「灯清水八幡宮関係史料の紹介」〔「白山史学」第川十二号、二○○六年〕)。この史料は近年紹介された「信濃史料」未収のもので、宛所の「村上中務大輔殿」は比定されていないが、而途からみて村上師凶であると考えられる。この文書は内容的にみて守護に充てられたものであるとみるのが通常であるが、貞治二年には上杉朝房の信濃守護在職徴証がみられることから、村止師川を信濃守護とみるのは問題がある。より現地での実力行使が求められる案件であったために在地で勢力を持つ村化氏を使節として任用した事例と考えたい。
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