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中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷

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(1)中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷 松. 井. 之. 直. 朝末期の欽定憲法大綱の権利観を引き継ぐもの はじめに. なのか,中華人民共和国のそれとの連続性が強. 清朝政府は,アへン戦争敗北による西欧諸国. いものなのかを判断する試金石となるからであ. との不平等条約を撤廃しようとするなかで,欽. る.. 定憲法大綱を制定することになった1).憲法大. ここで,人権を確保するために国家権力を制. 綱を定めることで,皇帝の権限の限界が定めら. 限することを目的とする近代立憲主義10)を想起. 「外見的人権」2)ではあったが「臣民権利」. する必要があるだろう.このように個人の人権と. が規定されたのである.ここに,中国での近代. 国家の関係に着目することで,中華民国期の諸憲. 西洋法の受容は,表面的ではあるが,清朝末期. 法上の権利と国家権力の間の密接な相互連関や. に行われていたことを確認できるだろう3).だ. 緊張関係を明らかにすることができると思われる. が,. 1911年10月に,孫文(孫中山)を代表と する革命派による武昌蜂起を契機として辛亥. からである.そこで,本稿では不平等条約の撤. 革命が勃発した.そこで,清朝政府は,憲法重. の政治的対立状況を踏まえて制定された諸憲法. 大信条十九条(十九信条)4)を公布した.この. に,どのように権利が規定され,位置付けられて きたかを考察し,中華民国期の諸憲法における国. れ,. 廃という大きな課題が残されたなかで,中華民国. 十九信条は,皇帝の権限を名目のものにする5) 「臣. などイギリスの内閣制度を模倣したが6), 民権利」に関する規定は無くなった.清朝の滅 亡を目前にして,. 「臣民権利」は,やはり「憲. 家権力と個人の権利の問の相互連関や緊張関係 を明らかにしていきたいと思う. この時,注目すべきことは,. 1978年末の改. 法上の外観を飾り民望を慰撫せんとするアクセ. 革開放政策の採用後,中国近現代史研究におい. サリー」7)に過ぎなかったのである.. て中国共産党の正統的革命史観とそれに基づく 国民政府理解に対する批判がなされ,実証研究. その後,. 1912年1月1日に中華民国が建国. された8).中華民国期の諸憲法に関する論考で. が深化し,多元化してきたことである11).近. は,当時の政治状況と諸憲法の統治機構の関係. 年では,共産党中心史観からの脱却12)が言わ. について考察するものが多く見られた9).それ. れ, 「歴史の連続性」を重視することが提唱さ. では,中華民国期の諸憲法において,権利はど. れている.その中では,. のように規定されてきたのであろうか.中華民 国期の諸憲法では,欽定憲法大綱に規定された. 立が依然として残っている現在,両党の立場を. 「臣民権利」の概念がそのまま引き継がれたの. とは,その対立に直接まきこまれていない外国. か,それとも,. 「臣民権利」とは異なる権利概. 「国共両党の歴史的対. 綜合的にとらえ,中国現代史を再構築するこ 人の中国研究者がなしうる重要な課題の一つ」. 念が生まれてきたのかは問われかナればならな. であろうと主張されている13).中国の人権論. いだろう.それは,中華民国期の諾意法が,宿. においても,清朝末期と連続している要素と不.

(2) 34. (34). 横浜国際社会科学研究. 連続の要素が含まれていると言われる.例えば, 清朝末期から現在に至るまで連続している中国. 第11巻第1号(2006年7月). うとすることである. 当初,孫文にとって「国民革命は,一国の人. の人権論の特徴として,個人や個人の自由よりも,. がみな自由,平等,博愛の精神を持つこと」17). 国家の存亡に重点が置かれてきたことが挙げら. であり,民族主義,民権主義,民生主義とは,. れている14).中華民国期の諸憲法の中にも,覗 在の中華人民共和国政府の「人権」に対する考. このための三本柱であった.つまり「自由,平 等,博愛の精神」などの「文明の自由」が,国. え方などに通じる要素があるかもしれないので. 民革命によって獲得,実現されるべき目標だっ. ある.. たのである18).. 13歳でハワイに渡り,英語で. 教育を受けた孫文は,アメリカ人民に支援を呼 第1節. 孫文と三民主義. びかけた.そのなかで,中国人は,清朝の下で. (1)三民主義. 無数の虐待を受け,清朝は「我々の譲ることの. 革命運動の端緒は,清末の革命派を代表す. できない生存権,自由権及び財産権を侵害して. る孫文による興中会の創立に求めることができ. きた」と述べ,. る15).孫文は,. ある」アメリカ人民のなかに「多くのラフアイ. 1894年に日清戦争が起きると. 「何よりも自由と民主の戦士で. ハワイに渡り興中会を創立し,翌年には清朝転 覆を目的として広東で挙兵し, 1900年にも義 和団の乱に乗じ広東省恵州で兵を挙げたがとも. 領を選挙し,専制を廃絶し共和を実行する」20). に失敗した.この結果,孫文は,日本,アメリ. とも述べており,. カを経てヨーロッパに渡った.. から強に転じ,旧から新に変わる」ことを志向. 1905年に,孫文が日本に帰来したことから,. エツトを求める」と述べた19).そして,孫文は, 「革命成功の日には,アメリカにならって大統 「西洋人の文明を用いて,弱. していたのである21). それまでの分散的な革命運動を統一しようとす る気運が生まれた.. 8月には,日本にあった興. 中会,光復会,華興会を合わせた統一組織とし て中国同盟会が結成され,中国同盟会総章16) が発表された.その中には, 「駆除挺虜,恢復 中華,創立民国,平均地権」というスローガン が明示された(第2条).これは,. 「民族主義・. 民権主義・民生主義」に統一される三民主義の 原型ということができる. 民族主義とは,. 「中国同盟会総章」の「駆除. (2) 「三序」構想と人民観 もっとも,孫文は,立憲君主制が廃絶される とすぐに共和制が実現するのではなく,そこに. 至るには「軍法の治」「約法の治」「憲法の治」. (徳. に軍政,訓政,憲政と改称)の3つの段階,つ まり「三序」を経なければならないと主張して (翠 いた.革命直後に誕生するのは「軍法の治」 政)であり,革命に成功した革命党を中心とし た軍事独裁政権(軍政府)が強力な軍事力で皇. 軽虜,恢復中華」に当たり,満州族を追い払い,. 帝専制の旧体制を瓦解させ,反革命を粉砕し民. 清朝の専制政治を打倒し,本来の主人である漠. 主化に着手できる環境を整備する,民主化の環. 族の中華を回復することである.民権主義とは,. 境が整備されると,中央政府は軍事独裁である. 「創立民国」に当たり,専制王朝の清朝を打倒. が,地方議会を開設して部分的な民主化を進め,. して共和国を建設することを意味する.民生主. 「約法の治」 (訓政)を実施し,臨時的憲法であ. 義とは,. る約法を制定する.その後,地方から民主化を. 「平均地権」に当たり,地主の所有す. る土地の現在の価格を査定し,将来の経済発展. 進め,国民が政治的に訓練を受けて成長し自覚. によって地価が騰貴した場合,現在の価格分は 地主が受け取るが,残余は国家のものとして国. した後に,中央政府としての軍政府は解散し, 国民選挙で正式の憲法を制定して「憲法の治」. 民が共に享受することで,土地問題を解決しよ. (憲政)を実現する.この憲政とは「憲法を制定」.

(3) 中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷(松井) し, 「軍政府は軍権と行政権を解除し,国民は. (35). 35. その後,. 大総統を選挙し,議員を選挙して国会を組織す. 1912年1月1日に中華民国が誕生 し,孫文が南京臨時政府の臨時大総統に就任し. る」ことである22).孫文は,こうした段階を. た.孫文は,臨時大総統就任に当たり,. 経て共和制が実現されることを,その具体的な. 国が果たすべき義務を果たし,文明国が享有す. 内容など不明な点もあるが23),実践的に主張. べき権利を享有する」ことを掲げた32).しかし, 中華民国は依然として内部分裂の危機に直面. したのであった.. このように孫文は,過渡期における軍事独裁. 「文明. し33),政権の基盤が脆弱だった.そこで,蘇. 体制の必要性を強調した24).それは,孫文が. 文は2月に臨時大総統を辞職し,清朝の実力者. 愚民観に貫かれていたことに由来する25).蘇. で,清末の立憲政の樹立に大きな役割を果たし た衷世凱にその地位を譲ることになった.. 文は,民選議会や民選政府の存在を肯定してい たが,民主政治が実現されているアメリカでさ. え,多くの人民は愚かで,立派な賢人を選出す. これより先に,一院制議会の参議院では,臨 時政府組織大綱に人権に関する規定がないこと. ることが少なく,愚かな代表を選出していると. などから,約法起草会議が開かれていた.この. 批判していた26).そして,教育や政治的自覚. 約法制定でリーダーシップを握ったのは孫文よ. が遅れていた中国であれば,その人民の能力は. りも,中国同盟会結成時の中心メンバーの一人. さらに劣悪であり,愚かな人民に参政権を与え. であり,国務院直属付属機関である法制局34). れば,愚かな議員が生まれ,愚かな議員による 愚かな議院が形成され,それが有能な政府を拘. の局長・宋教仁であった35).宋教仁は,衷世 凱に臨時大給統の座を譲ることになった政治的. 束するようになることはとんでもないと考えて. 変動のなかで,国民の選挙が政治の動向を左右. いたのである27).このように考えていた孫文 が, 1912年1月1日に中華民国が誕生すると,. する議会政党政治を希求し,国会の権限を強化. アメリカから帰国し臨時大総統に就任すること になったことは,その後の経緯を考えるのに重 要な点であろう.. する内閣制の創出を求めた36). 3月に公布された中華民国臨時約法37)では, 国民主権が採用され(第1条),国務総理及び 各部総長を国務員とし(第43条), 「国務員は 臨時大総統を補佐してその責任を負い」. 第2節. 中華民国臨時約法と天壇憲法草案. (1)中華民国の成立と中華民国臨時約法 辛亥革命は,孫文の中国同盟会の力だけで達. (第44. 秦),法律の公布,命令の発布には副署しなけ ればならない(第45条)とされた.このよう に内閣制の建前を採りながら,参議院の解散に. 成されたのではなかった.したがって,清朝が. 関する規定を設けなかったことなどで,臨時大. 打倒されたことで,新たに権力を求めて諸勢力. 総統である哀世凱の権限が縮小し,参議院の権. が競い合い,政治闘争が急速に多元化していく. 限が拡大することになった38).しかし,大総. ことになった28). 統に法律の制定(第23条)や閣員の任免(第. こうしたなか,武昌蜂起後相次いで独立した 各省の間に,革命運動の統一化を図ろうとする. 47条)について複議権(拒否権)を認めてい. 機運が高まり,. である.したがって,中華民国臨時約法では,. 1911年11月に「各省都督府代. 表連合会」が成立した29).この連合会は,暫. ることから,大統領制の痕跡も残されているの. 定政府組織のための中華民国臨時政府組織大. アメリカの大統領制とフランス第三共和制の議 院内閣制39)を混合した制度が採用されたと言. 綱30)を制定,公布した.大綱は,主としてア. われるのである40). メリカの大統領制を取り入れた点に特徴を見る ことができる31).

(4) 36. (36). 横浜国際社会科学研究. (2)衰世凱の臨時大総統就任と天壇憲法草案. 第11巻第1号(2006年7月). 央集権を採用するか,連邦制49)を採用するか,. 衷世凱は,中華民国臨時約法を遵守すると. である.. 1912年4 いう条件で臨時大総統の地位に就き, 月に政府を革命勢力の根拠地である南京から自. が組織され,. 己の勢力基盤である北京に移した.. とする総統制度を設けることで衰世凱の権力を. 他方で,中華民国は,諸外国によって正式に 国家承認されていなかった.そこで,衷世凱に. こうしたなか,第1回国会で憲法起草委員会 1913年10月,議院内閣制を基礎. 制限することをねらった中華民国憲法草案(天 壇憲法草案)50)が作成されたのである51). とって,諸外国からの承.認を得るために,憲 法を成立させ,共和制を確立することが課題と なった41).ぁる新聞でも「民国元年は破壊が. (3)中華民国臨時約法と天壇憲法草案の権利規定 それでは,臨時約法と天壇憲法草案において,. 終わりを告げ,建設が始まった時代であり,氏. 権利はどのように規定されたのであろうか.臨. 国2年は完全な建設時代である.故に民国元年. 時約法の権利の享有主体は「人民」であるが,. の大事は満廷を転覆し,南北を統一し,臨時政 府を建立し,地方の秩序を回復することであっ. その定義はなされていない.しかし,天壇憲法 草案では,権利の享有主体である「人民」を「法. た.民国2年は民国憲法を制定し,完全な国会. 律に基づき,中華民国国籍を有する者」と規定. を成立し,正式政府を組織し,領土の主権を確 定することである」42)と憲法制定を重要なもの. している(3条). 次に,臨時約法と天壇憲法草案に共通して規. と位置付けていた.. 定された権利は,以下の通りである(表1).. と・ころが,衷世凱政権には,共和制に精通す. 両者に規定された権利として,平等権,人身の 自由,住居の不可侵,財産権,言論・著作・刊. る人材があまりいなかった.南京臨時政府には 衷世凱の意に適う者が存在せず,旧清朝政府に. 行及び集会・結社の自由,居住・移転の自由,. は立憲君主制に詳しい者がいたが共和制への忠. 信教の自由,請願権,法院に訴訟を提起する権. 誠心が疑われるおそれがあった.これに加え,. 刺,陳訴する権利,選挙権・被選挙権が挙げら. 諸外国との意思の疎通を図ることが求められた ことから,衰世凱は外国人顧問を招くことに. れる.また,臨時約法では信書の秘密と任官試 験を受ける権利が規定されたが,天壇憲法草案. なったようである43).これらの外国人顧問の. ではより広く通信の秘密,公務就任権が規定. 中で影響力が大きかったのは,アメリカのコロ. された.さらに,臨時約法には規定されながら. ンビア大学のFrankJ.. 天壇憲法草案では削られたもの,もしくはその. Goodnow44)のほか,日. 本からの法制顧問の有賀長雄45)などであった. このような状況のなかで,衷世凱の権力強化 に対抗し,議会政党政治を行うべく,. 1912年8. 道の例もないではない.このように若干の違い は見られるものの,権利の種類に関して,臨時 約法と天壇憲法草案では大きな変化が見られな. 月に中国同盟会は,幾つかの政党を組合して国. かった.この時期に,このように権利が詳細に. 民党(現在の国民党とは別の組織である)を結. 規定されたことは評価できるだろう52). 成して議会政党となった.そして,国民党など. しかし,それ以上に注目すべきは,臨時約法. の政党は,憲法制定に対して大きな関心を寄せ た46).憲法制定に関する主な論点は次の4つで. と天壇憲法草案において権利を制限する新たな 条文が規定されたことである.臨時約法では「人. あった47).すなわち,. 民の権利」が「公益の増進,治安の維持,或い. 1)憲法は国会によって. 起草されるか,政府によって起草されるか48),. は非常緊急の必要と認識される時には,法律で. 2)大統領制を実行するか,内閣制を実行する. 以ってこれを制限することができる」(第15条). か,. とされ,天壇憲法草案では「法律によらなけれ. 3)民権を重視するか抑制するか,. 4)中.

(5) 中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷(桧井). (37). 37. ば制限を受けない」というように,各条文に法. 人の共通の認識であったと考えることができる. 律の留保が付されたのである.. だろう62).そのような共通認識が,孫文の主. なぜ,このような条文が臨時約法において規. 張を押しのけて明文化されたということも推測. 定されたのであろうか.臨時約法では,上述の. できるのかもしれない.. 通り,フランス第三共和制憲法も参考にされた.. このように解すると,臨時約法制定のリー. ところが,フランス第三共和制憲法は自由と権. ダーシップを握ったのが宋教仁であったこと. 利に関する規定を持たなかったのである53). が重要となってくるだろう.宋教仁は,中華民. したがって,臨時約法の権利規定は,フランス. 国建国以前に制定された郡州約法の制定にも加. 第三共和制憲法を模範に作成されたということ. わっていたからである63).また,臨時約法制. は難しいように思われる.. 定を踏まえて中華民国の政体に関して胡漠民と 論争を行った際の宋教仁の発言にも注意すべき. それでは,臨時約法第15条は何に由来する 条文なのだろうか.孫文の主張は,臨時約法制. であろう.. 定過程において排斥されたようである54).蘇 文は, 「民国の創建の初め,予は極力,革命方. 武昌起義以来,各省が独立した.しか. 略を施行して革命,建設の目的を達し,三民主. し,中央はもてはやされるだけで実権がな. 義を実行するように主張した.ところが,わが 党人の多くは,躍起になって,これを不可とし. いに等しい.したがって,その弊を改める ことに努力しなければ必ず分裂となってし. た.予は再三再四,彼らを説得し討論を行った. まう.また,中央に大権があってはじめて. が,結局,何の効果もなかった」55)と回想して. 国力は振興できるのである.日本の倒幕は. いる.さらに孫文は,自分が臨時大給統として 公布した臨時約法に対して,次のように述べて. 我らの手本である64). いる.. さらに,宋教仁は,. 1904年から法政大学,. 早稲田大学に在籍し,日本に6年間滞在し,煤 「南京で制定した民国約法は,その中で. 国後,民立報において,清末に制定された欽定 56). 『中華民国の主権は国民全体に所属する』. 憲法大綱について論じ65),副島義一の『日本. という1条だけが私の主張である.その他. 帝国憲法論』の翻訳書の書評も執筆しているの. は全て私の意思ではないから,私はそれに. である66),このように宋教仁は,欽定憲法大 綱だけでなく,それを制定する際に参考にされ. 責任を負わない」57). た大日本帝国憲法67)にも精通していたような この孫文の発言から,臨時約法第15条は,. のである.ここから,宋教仁が大日本帝国憲法. 彼自身の主張に基づいたものではない可能性が. から影響を受けた可能性があるということがで. 高いと推測することができるだろう.. きるだろう.天壇憲法草案の権利保障について. また,臨時約法第15条のような条文は,臨. ち,大日本帝国憲法の臣民権利に関する規定に. 時約法が最初ではなく,中華民国建国以前に独. 近く,法律の留保が付されたという見解も見ら. 立を宣言した省軍政府の制定した省臨時約法,. れる68). すなわち郡州約法58),新江軍政府臨時約法59), 広西軍政府臨時約法60),江西省臨時約法61)に おいても見ることができる.したがって,. 益」「治安維持」などの「国民全体の利益」によっ て権利が制限されることは,当時の先進的知識. 以上から,中華民国臨時約法や天壇憲法草案 には,大日本帝国憲法の影響を受けた可能性が. 「公. あるということができるだろう.これは,清朝 が打倒されたことで諸勢力が競い合い,政治闘 争が急速に多元化していくなかで,脆弱な統治.

(6) (38). 38. 横浜国際社会科学研究. 第11巻第1号(2006年7月). 表1中華民国期の憲法及び憲法草案における権利規定 中華民国臨時 約法. 天壇憲法草案. 5条. 4条. 平等権. 中華民国約法. (表記約法). 中華民国憲法 (曹鋭憲法). 中華民国訓政 期約法. 五五憲章. 中華民国憲法. 4条. 5条. 6条. 8条. 7条. 人身の自由. 6条1項. 5条. 5条1項. 6条. 8条. 9条. 8発. 住居の不可侵. 6条2項. 6条. 5条2項. 7条. 10条. 11条. 財産権. 6条3項. 12条. 5条3項. 13条. 営業の自由. 6条3項. 言論,著作,刊行及 び集会,結社の自由. 6条4項. 伝書,通信の秘密. 6条5項. 7条. 居住,移転の自由. 6条6項. 8条. 6条7項■. 11条. 17条. 19条. 15条. 5条3項 9.10条. 職業選択の自由. 5条4項 5粂5項 .5条6項. 8条.. 信教の自由. 16.17.18.. 10.11条. 14.15条. 8条. 13条. 9条. 12条(移転 の自由のみ). 13.16条 14条 1卜12条. ll.14条 12条 10条. 9条 5条7項. 孔子の崇拝の自由. 12条. 11条. 15条. 13条. 12条. 請願権. 7条. 14条. 6条. 16条. 20条. 18条. 16条. 法院に訴訟を提起し 審判を受ける権利. 9条. 13条. 7条. 15条. 21条. 18条. 16条. 9条. 10条. 9条. 22条. 18条. 16.秦. 軍事裁判を受けか、権利 陳訴などする権利. 8条. 官吏の違法で権利を侵害し た行為に対して訴える権利. 10条. 14条. 8条. 16条. 26条. 24条. 23条. 20条. 18条. 7条. 19条. 17条. 国家賠償請求権 任官試験を受ける権利. 11条. 選挙権.被選挙権. 12条. 9条 15条. 選挙,罷免,創制, 複決の権利 公務就任権. 16条. 9条. 18条. 24条. 18条. 生存権. 15条. 勤労権. 15条. 行為の自由. 14条. 出典:陳荷夫編『中国憲法類編』. (中国社会科学出版社,. 24条. 22_条. 1980年)より作風. 基盤を強固にすることが第一であり,そのよう. 能停止に追い込んだ.そして1914年5月には,. な政治状況に適合的な権利規定が求められたこ. 天壇憲法草案ではなく臨時約法を修正し,議会. とが大きな理由であると考えられよう.その結 莱,権利は天賦人権ではなく,臨時約法や天壇. の権限を大幅に縮小し,大総統に集中した権力 (表記 を実質的に制約しない「中華民国約法」. 憲法草案によって,つまり国家によって人民に. 約法)69)を公布した.この裏記約法制定に関し. 与えられる権利となったのである.. て注目すべきは,哀世凱の外国人顧問であった FrankJ.. 第3節. 中華民国約法と中華民国憲法. (1)蓑世凱の帝政復活から軍閥の割拠へ 天壇憲法草案起草中の1913年8月に,衷世 凱は宋教仁を暗殺し,. 9月に第二革命に決起し. Goodnowと有賀長雄が参画したこと. である70). ところが,帝政復活を図った衰世凱が1916 年6月に急死したことから,軍閥が割拠する時 代に入っていった.まず権力を掌握した大総統・. た国民党軍を制圧し,孫文ら国民党指導者の逮. 費元洪,国務総理・段棋瑞は,. 捕を命じた.. 大総統令で臨時約法を回復し,議会を召集して. 10月に大総続選挙を強行して正. 式に大給統に就任した衷世凱は,. 11月にクー. デタを断行し,国民党解散令を発して議会を機. 1916年6月の. 天壇憲法草案を基礎とする憲法制定事業を再開 した.しかし,第1次世界大戦-の参戦問題を.

(7) 中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷(松井). 機に軍閥間の争いが激化し,. 1917年6月,再. (39). 39. 「強い国家」を建設していくのか,それとも臨 時約法を修正して強力な権限を与えられた大総. 度議会は解散され,制憲作業も中断した.. 統を中心に行政府を強化して「強い国家」を樹. その後1918年12月から翌年8月にかけて, 段頑瑞のイニシアティブにより憲法起草作業が. 立していくのかということが課題だったのであ. 行われた.だが,. 1920年7月,段ら安徽派は, 直隷派,奉天派の連合軍に破れ(安直戦争),. る76). 北京政府から一掃されたため,この憲法草案も. (2)中華民国約法と中華民国憲法における権利 規定. 日の目を見ずに終わった.. それでは,表記約法と曹鍛憲法において,樵. 安直戦争の勝者である直隷派,奉天派は, 1922年4月に第一次奉直戦争を引き起した.. 利はどのように規定されたのであろうか.表記. その結果,直隷派が勝利し,. 約法の権利の享有主体は「人民」であるが,臨. 1917年6月の議. 8月に国会を再開して憲法 制定作業が再開された.そして, 1923年10月. 時約法と同様に定義されていない.しかし,管. には憲法会議を開会し,直隷派の曹鑑を大総統. 人民」フう号「法律に基づき,中華民国国籍を有す. に選出し,その就任式当日に中華民国憲法(管 鋭憲法)71)を公布した.曹鋭憲法では,当時,. る者」と規定されている(第4条). 次に,具体的な権利の内容について概観する. 連邦制度に閲しアメリカ,カナダ,スイスなど. (表1).表記約法と曹鋭憲法の両者に規定され. を参考にして議論されていたことから72),第. た権利は,平等権,人身の自由,住居の不可侵,. 12章に地方制度に関する規定が新たに設けら. 財産権,言論・著作・刊行及び集会・結社の自. れた73).しかし,この曹鋭憲法も, 1924年10月, 第二次奉直戦争の結果,曹鋭ら直隷派が政権の. 由,居住・移転の自由,信教の自由,請願権, 法院に訴訟を提起する権利,陳訴する権利,逮. 座を追われて烏有に帰した.. 挙権・被選挙権がある.また,表記約法では信. 会解散令を取消し,. 北京政府を掌握した安徽派の段棋瑞は, 年8月から憲法起草作業を始め,. 1925. 12月には憲. 鋭憲法では,権利の享有主体である「中華民国. 書の秘密と任官試験を受ける権利が規定された が,曹鋭憲法ではより広く通信の秘密と公務就. 法草案(段棋瑞憲法草案)を完成した.この段. 任権が規定された.さらには,表記約法のみに. 棋瑞憲法草案には「生計」及び「教育」の章が. 規定された権利として営業の自由があり,曹鋭. 新たに規定された.これは,ドイツのヴァイマ. 憲法のみに規定された権利として職業選択の自. ル憲法を参考にしたとも言われ,段棋瑞憲法草 案に進歩的性格を与えるものであった74).と. 由,孔子の崇拝の自由があった.. はいえ,この段棋瑞憲法草案の内容,形式な. の範囲内において」権利,自由を有するなどと 規定され,曹鋭憲法でも,人民の各種の自由権. どは,曹鋭憲法にほぼ沿ったものであった75) その後,段棋瑞政府は,北伐戦争が引き起こし た反軍閥気運の高まりと,. 1926年4月に奉天. やはり注目すべきは,表記約法の場合「法律. は「法律によらかナれば侵されない」と法律の 留保が付されたことである.この時期の課題が. 派,直隷派の連合勢力の圧力によって崩壊し,. いかにして「強い国家」を作るかであったこと. 憲法草案も同じ道命を辿った.. を踏まえると,法律の留保などが付されたこと. 端的に言えば,軍閥が割拠する時期において,. で,. 「強い国家」を作るという「国民全体の利. 憲法制定の際に問題となったのは専ら,いかに. 益」によって権利が制限される可能性があると. して「強い政府」を作るかであった.この時期. いうことができるだろう.さらに言えば,. に制定された憲法や憲法草案では,臨時約法の. い国家」を作るという「国民全体の利益」に適 合する権利規定が求められたのではないだろう. ように最高機関と位置付けられた議会を中心に. 「強.

(8) 40. (40). 横浜国際社会科学研究. か.それは,表記約法の制定に,上述の通り有 賀長雄が参画したことからも伺うことができよ. 第11巻第1号(2006年7月). さらに,その後の議論でも,天壇憲法草案第. う.したがって,表記約法や曹鋭憲法において. 19条第2項をめぐり,様々な主張がなされた. 国民党系議員は, 1)孔教は君主政体を擁護す. 規定された権利とは,臨時約法や天壇憲法草案. る傾向があるから中華民国の国体と相反する,. と同様に,天賦人権ではなく,国家によって人 民に与えられた権利と捉えることができるだろ. 2)孔教について特別の規定を設けることは信 教の自由を定めた規定に反する, 3) 「修身の. う.. 大本」は元来倫理問題に属し,国家根本法であ. 「中華民国人民の さらに,曹鋭憲法の場合, 自由権は,本章の規定を除き,およそ憲政の原. る憲法に規定することは適当でないと主張し,. 則に背くことがなければ背これを承認する」こ. こうした主張に対し,反対派議員は,. とが新たに規定された(第14条).これは,人. は教育問題であって宗教問題ではないから信教. 民の権利が国家によって与えられたものとしつ. の自由とは衝突しない, 2)孔子の「天下為公」 (礼記礼運編)の説は共和の真諦を説いたもの. つも,その規制の及ばないところには「行為の 自由」があることを初めて承認したものである.. 天壇憲法草案第19条の2項の削除を求めた.. である,. 1)孔教. 3)孔教は二千年来中国社会組織の中. 1921年7月に中国共産党が上海で設 立されたことを踏まえると,あくまでも共産党. 心となっていたものである,. 対策で登場した例外に過ぎず,曹鋭が自らの政. を見ることができると主張し,天壇憲法草案第. 権の優位性を示すために設けられたと捉えるこ. 19条第2項の維持に固執した.また,孔教を. とができるだろう.. 国教として憲法に規定すべきであると主張する. これは,. 4)教育の方針を. 憲法に規定したものとしてオランダ憲法に先例. 者もいた81). (3)孔教の国教化をめぐる議論 ところで,清朝末期にも伝統法との相克が見. これらの主張の妥協の結果,曹鋭憲法では, 儒教を国民教育の基礎とする天壇憲法草案とは. られたが,加えて注目すべきは儒教(孔教)の. 異なり,. 扱いである.儒教をめぐる論争は,清末以来の. 教信仰の自由を有し,法律によらなければ制限. 新旧勢力の対立77)が思想的な形をとって憲法. を受けない」と信教の自由の一部として規定さ. 問題に現れたものであり,多くの議論を引き起. れたのである(第12条).. こした78).. 「中華民国人民は,孔子の崇拝及び信. このような憲法に孔教をどのように規定する. こうした議論は,天壇憲法草案の起草段階か ら見られた79).哀世凱系の起草委貞は,孔教. のかといった問題は,陳独秀や胡適を中心とす る新文化運動の中心的課題であった国民意識の. は社会道徳の根本であるとした.逆に国民党系. 儒教的束縛からの解放82)とも関わりがあった. の委員は,孔教を国教とすることは信教の自由. ということができるだろう.まず,陳独秀は「憲. に反するばかりでなく,孔教は封建的社会制度 を維持する封建道徳の代表であるから憲法に規. 法と孔教」. (1916年11月)のなかで,儒教と. 国家建設について,次のように言う.. 定することは適当ではないとした.両者ともに 譲らなかったため,妥協案として「国民教育は. 「もし,我々がこの世界に生存するために,. 孔子の道をもって修身の大本とする」と規定さ. 西洋をモデルにした新国家を建設し新社会. れることになった(第19条第2項)80). を組織しようと欲するならば,その根本的. しかし,この天壇憲法草案第19条第2項は,. な課題は西洋社会の基礎,すなわち平等と. 衷世凱没後の1916年9月に開催された憲法会. 人権-の新しい信仰を輸入することである.. 議においても最大の焦点となった.. 我々は,儒教がこの新信仰,新社会,新国.

(9) (41). 中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷(松井). 41. 家と相容れないということを徹底的に自覚 第4節. し,この新信仰,新社会,新国家と相容れ ないものを捨て去ることを勇敢に決意しな. (1) 「人」一般の自由・権利の否定 他方で, 1913年9月の第二革命の挫折後87),. ければならない」83), そして,儒教と個人の関係について,陳独秀 は「孔子の道と現代生活」. 中華民国訓政時期約法. (1916年12月)に. 孫文は, 1914年7月に中華革命党を結成した. 革命党は,異分子の混入も辞せず,議会で多数 を占めることによって衰世凱の武力に対抗しよ うとした国民党の失敗を教訓に,. おいて言及している.. 対する服従, 「現代生活の命脈.は経済である.経済学. 2)厳格な組織,. 1)指導者に 3)党内不純分. 子の排除を基本原則とする非公然政党であっ. における生産の基本原則は個人の独立であ. た.結党時に孫文が公布した中華革命党総章88). り,その影響は倫理学にまで浸透している.. は,民権,民生の両主義を宗旨とし(第2条),. かくして現代倫理学上の個人の人格の独立. 専制政治の除去と完全な民国の建設(第3条). と経済学上の個人の財産権の独立とは,互. を目的として謡った.その後1917年8月に,. いに証明しあって動かすべからざる説とな り,社会秩序と物質文明は,このため大い. 孫文は,. に進歩したのである.中国の儒者は三綱五. 京政府と対決した.ところが,広東軍政府内に. 常を教えの根本とする.人の子,人の妻で. は,北京政府との妥協を図る勢力が台頭し,翠. ある者は,個人の独立した人格を失ってい. 閥打倒を強行に主張する孫文は次第に孤立し,. るうえに,個人の独立した財産もない.父 兄はその子弟を養い,子弟はその父兄を養. 1918年5月に大元帥辞任に追い込まれた.. 「中華民国軍政府」. (広東軍政府)を結. 成し,大元帥に就任し,軍閥が割拠していた北. う. 『礼記』坊記編の『父母いませば,あ. こうした状況のなかで孫文は, 1919年10月, 秘密結社的色彩の強かった中華革命党を広い国. えてその身を有せず,あえてその財を私せ. 民的基盤を持つ政党に改組すべく「中国国民. ず』という言葉は,甚だしく個人独立の道. 党」を結成した.これが現在に繋がる国民党で. に反するものである」84).. ある.当時の孫文の最大の関心事は全国統一に あった.孫文は,その統一の方法として党組織. 陳独秀は,孔教に浸りきった個人の変革に目 を向けていったのである85).そして,五四運 動における儒教批判の高まり86),. 1921年7月. の中国共産党の成立に影響を及ぼしていくこと になる.こうして, 1925年12月に完成した段 頑瑞憲法草案では,曹鋭憲法の儒教尊重の規定. の全国-の展開と党員の拡大による民意の承認 を背景とする統一よりも,軍事的制圧による統 一を優先させた.もっとも,孫文の矛盾は,そ れを実現するだけの軍事力を自らの手では準備 できなかったことであった89). 孫文は,当時の国内の政治状況を次のように. は削除されることになり,孔教をめぐる議論は. 評価していた.. 終駕することになったのである.. 民権を実行しようとし,欧米の民権が現在,代. 以上の孔教をめぐる議論を通じて,西洋近代 法であれ,社会主義であれ,これらを受け入れ る際の大きな障害物が否定されたことを示して いる.これは,換言すれば,儒教的束縛からの 「個人の析出」と捉えることもできるだろう.. 「中国革命後,欧米にならって. 議政体に発達しているというので,中国も外国 に追い付いて民権を実行するため代議政体を 「国会議員は豚議員に変わ もった」.ところが, り,堕落腐敗は世界各国でこれまでなかったほ どのものだ.これは全く代議政体の一つの怪現 象である.だから,中国は外国の民権政治を学.

(10) (42). 42. 横浜国際社会科学研究. 第11巻第1号(2006年7月). んだが,うまく学ばなかっただけでなく,逆に 学んで悪くなった」90)という.そこで,孫文は,. 応えるものを求めているということを.け. 「同じ革命でありながら,どうしてロシアが成. が享受できるものであり,軽々しくこの権. 功できて,中国が成功できないのか」,. を民国に反対する人に授け,それで民国を. 「我らが. だし,民国の民権は,ただ民国の国民のみ. 革命の成功を望むなら,ロシアの方法,組織及. 破壊させてはならない.詳しく言えば,お. び訓練を学ばなければならない」と考えるよう. よそ帝国主義に真に反対する人及び団体は. になっていった91). 等しく一切の自由及び権利を享受できる. この判断の真には,. 「支那の4億人とアジア. が,およそ国を売り,民を欺いて帝国主義. の各民族は,日本をアジアの救世主とみなして きた」が,日本は「欧州の侵略手段に追随する. 及び軍閥に忠を尽くす者は,団体であれ個. のを知るのみで,果ては高麗を併呑する挙に出. 受できか、のである」95). 人であれ,全てこれらの自由及び権利を享. て,アジア全域の人心を失うに至った」という, 日本への失望が存在していた.こうして孫文は, 「アジアの人心は必然的にソビエト・ロシアに. この孫文の発言から,自由及び権利とは,第. 向かう」と考えるようになり,ソ連へと接近す. 一に少数のブルジョア階級ではなく一般平民が 共有すること,第二に抽象的,非歴史的な天賦. ることになったのである92). 人権とは別のもの,現在の中国革命の必要に応. こうして孫文は, 1923年1月に上海でソ連 代表ヨッフェと会談し, 「孫文・ヨッフェ共同. える具体的,歴史的なものであると捉えられて いたことがわかる96). 宣言」を発表した.宣言では,中国とソ連の平. そして,自由及び権利を享受できるのは,中. 和共存及び国民党と中国共産党の平和的協力. 華民国の国民であって,帝国主義に反対する人・. が打ち出され,. 「連ソ容共」路線への転換が明. 団体であり,帝国主義,軍閥に忠を尽くす人・. 確にされた93).そして国民党の綱領や規約の. 団体は自由及び権利を享有できないことが明言. 作成作業が,ソ連顧問団の支援を得て集中的に. された.つまり,自由及び権利の享有主体が帝. 開始され94),. 国主義,軍閥を基軸とする敵・味方の階級で分. 1924年1月,国民党第1回全国. 代表大会が開かれて,. 「連ソ・容共・労農援助」. けられ,. 「人」一般の自由及び権利が否定され. たのである.このような天賦人権を否定する社. の政策が正式に決定された.この時採択された 「-全大会宣言」が提起した三民主義は,それ. 会主義的権利観97)が加わることで,天賦人権. までの状況の変化を踏まえ,従来の三民主義と. 思想を排除してきた中国の近代憲法史の流れが. 区別して「新三民主義」と呼ばれる.. 補強されることになったのである.. このなかで注目すべきは,民権主義について である.. こうした権利の捉え方は,中華人民共和国憲 法における「公民の基本的権利」の捉え方と同 様である. 「公民の基本的権利」とは,. 「近代各国のいわゆる民権制度はしばし. 「『天賦』. のものでもなければ,また,誰かから与えら. ばブルジョア階級に専有され,まさに平民. れた『恩恵の贈物』でもなく,無数の革命烈士. を抑圧する道具となっている.国民党の民 権主義は一般平民が共有するものであり,. の流血の犠牲とひきかえに獲得されたものであ り,全国の人民が長期の革命蹄争をおこなって. 少数者がそれを得て私するものではない.. かちとった成果である」という認識に基づく概. 故に次のことを知るべきである.国民党の. 念とされているからである98). 民権主義はいわゆる"天月武人権"とは別の. そして,権利の享有主体を敵・味方で分ける. ものであり,ただ現在の中国革命の必要に. ことも,中国共産党の下で制定された諸憲法に.

(11) 中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷(松井). (43). 43. も見てとることができることに注意すべきであ. 中国全土を統一した.共産党との対立,旧軍閥. ろう99). との提携など各種勢力との複雑な組合せによっ. このように帝国主義,軍閥を基軸として敵・ 味方の階級に分けて自由及び権利の享有主体を. て全国の政権を掌握した国民党は,権力が分散. 限定することで,前述の儒教的束縛から析出 された「個人」は,階級という枠組のなかで捉 えられるようになったということもできるだろ う.. する可能性がある構造のなかで政権政党として の絶対的権威を確立するために強力な集権化を 進めかナればならなかった.こうしたなかで, 孫文の「三序」の第二段階である訓政体制の確 立を目指したのであった104).そして10月に, 国民政府は,軍政期を終了して訓政期の開始を. (2)蒋介石による北伐と訓政期の開始. 宣言した.この時制定された中国国民党訓政綱 領は,次のように規定している.. 1925年3月に孫文が亡くなるが,その「遺 嘱」は,全国民党員に対し「建国方略」. 「建国. 大綱」100)「三民主義」 「-全大会宣言」を遵守す るよう求めるものであった.同年7月,広東軍. いては,中国国民党全国代表大会 が国民大会を代表し,国民を領導. 政府は,中華民国国民政府と改称し,国民政府 組織法を公布した.その第1条は,. 第1条「中華民国は訓政時期の最初にお. 「国民政府. は,中国国民党の指導及び監督を受けて全国の 政務を掌理する」と規定した.これは,国民政 府が国民党の決定したことを執行する機関に過. して政権を行使する」 第2条「中国国民党全国代表大会が閉会 の時は,中国国民党中央執行委員 会に政権を付託して執行させる」. ぎないことを示すものであり,ソ連の「以党治 国」 (党が国家を統治する)の原則の法文化で. 孫文によると,民権とは「人民が政治を管理. あった101). すること」であると述べている.ところが,人 1926. その後,国民党は国民革命軍を組織し,. 間には「先知先覚」. 「後知後覚」 「不知不覚」の. 年5月に国民政府は,蒋介石を国民革命軍給司. 3種類があり,最も多いのが「不知不覚」であ. 令に任命した.そして7月には,全国を統一す. るから,人民自身には政治を実際に運営する能. るための北伐を広州から始めた.北伐軍が長江. 力はない.そこで,政治において「権」と「能」. 一帯を制圧すると,実権を握っていた国民党の 容共的な左派は,蒋介石らの反対を押し切って,. を区別し,人民は「権」を有し,政府が「能」. 広東の国民政府を武漢に移した102). 委任すべきであるという105). 北伐の過程で蒋介石は,各地の労働運動や民. を有するようにし,人民が政府に国家の運営を 憲政段階では,政府を選ぶ政権は人民にあり,. 衆運動を弾圧して,反共的な立場を明らかにし. 統治する治権は政府にある.人民の政権を具体. ていった.そして,. 的にいうと,政府の全ての管理を管理するため. 介石の党籍を剥奪し逮捕令を出したが,これに. の選挙権と罷免権(recall),そして,法律を 管理するための「創利権」 (人民が直接法律を. 反対した蒋介石は,別の国民政府を南京に樹立. 制定,廃止する権利initiative)と「複決権」(立. し,共産分子の粛清を宣言した.こうして,第. 法機関の制定した法律に対して人民がその可否. 一次国共合作は決裂したのである103) その後,蒋介石は,国民党内の反共体制を整. を決定する権利 referendum)の4つとなる.. えると北伐を再開した.国民党軍が,. というのである106). 1927年4月に,蒋介石は 上海でクーデタを起こした.武漠国民政府は蒋. 1928年6. 月に北京に入城することで北伐が完了し,一応. これによって間接的民権を直接的民権に変える ところが,訓政時期においては無能な人民は.

(12) 44. (44). 横浜国際社会科学研究. 第11巻第1号(2006年7月). 政権を持たず,自らの代表を選出する選挙権を. 訓政時期約法110)を採択することになったので. 持ち得ないため,国民大会を開催することがで. ある.. きないので,国民党の全国代表大会が国民大会 を代行することになるという107).このような 孫文の主張を踏まえて,中国国民党訓政綱領第 1条,第2条は規定されたのである. こうした孫文の権能分立論には,ソ連の「以. (3)中華民国訓政時期約法 それでは,訓政時期約法において権利は,ど のように規定されたのであろうか(表1).こ れまでの諸憲法と同様に,信教の自由(第11条). 党治国」に基づき,政権を有する愚かな人民か. を除き,全て法律の留保が付されている.上述. ら信託を受けて統治する有能な政府は過ちを犯. の通り,国民党は,権力が分散する可能性があ. すことがないという無謬論が存在していること. るなかで政権政党としての絶対的権威を確立す. に注意しなければならないだろう.このような. るために強力な集権化を進め,帝国主義列強と. 無謬論に基づく権能分立論によって,有能な政. 対抗できる近代的な国民国家を建設しなければ. 府が愚かな人民の権利を実現し保障するという. ならなかった.こうした政治状況に適合する権. 主張の下で,権利が侵害されることに繋がり易. 利規定が求められたのである.したがって,訓. いからである.. 政時期約法において規定された権利とは,これ. また,蒋介石は「北伐完成後における最も重. までの諸憲法と同様に,天賦人権ではなく,訓. 要かつ緊急なことは外交である」108)と述べて. 政時期約法を制定した国民政府によって人民に. いることから,訓政を開始し,国民党一党独裁. 与えられた権利と捉えることができるだろう.. による強力な中央集権体制を確立することで, 帝国主義列強と対抗できる統一された近代的な. ここで,訓政時期約法の権利の享有主体が「国 民」と「人民」とに分かれていることに着目す. 国民国家の建設を目指し,不平等条約体制を打. る必要があるように思われる.国民とは「およ. 破し,独立国家としての地位を確立しようとし. そ法律により中華民国の国籍を有する者」. ていた109). 2条)と規定されているが,人民とは,条文上. このように訓政を宣言して統一を強化しよう とする蒋介石は,その後,国民党内の反対勢力 との乱傑を増していくことになった.. 1930年4. 月.地方軍閥の闇錫山,鳩玉祥らは,大規模な. 明確に定義されていない. なぜ訓政時期約法では,このように権利の享 有主体を「国民」と「人民」とに分けたのであ. 反蒋戦争(中原戦争)を仕掛け,反蒋各派の連. ろうか.ここで想起して欲しいのは,孫文の「遺 嘱」に基づき「-全大会宣言」などの遵守が求. 合戦線を結成した.. められたことである.孫文は「-全大会宣言」. 9月に別の国民政府を北京. (第. 「人」一般の権利を否定し,権利の. 10月に国民党中央執 に組織した反蒋連合は, 行委員会拡大会議の名で,中華民国約法草案(太. のなかで,. 原拡大会議約法草案)を発表した.ところが,. 方で分けることを示した.したがって,訓政時. 東北軍を率いる張学良が蒋介石の側に立ったこ. 期約法の権利の享有主体も,帝国主義,軍閥を. とで,蒋介石の権力が強化されたため,約法草. 基軸とする敵・味方で分け,帝国主義,軍閥に. 案は,草案のままに終わった.. 反対する味方のみに権利を保障していたという. しかし,約法草案の発表は,結果として蒋介. 享有主体を帝国主義,軍閥を基軸とする敵・味. ことができるだろう.つまり,. 「人民」とは帝. 石による中華民国訓政時期約法の制定を促すこ. 国主義,軍閥に反対する味方であると解するこ. とになった.そして1931年5月,孫文の「遺嘱」. とができるのである.. に基づき国民党が招集した国民会議は,正式な 憲法が制定されるまでの基本法として中華民国. 帝国主義,軍閥に反対する味方である「人民」 に保障される権利として,人身の自由,住居の.

(13) (45). 中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷(松井). 不可侵,通信の秘密,財産権,言論・著作・刊. 会を設置し,憲法制定作業を開始した.憲法草. 行及び集会・結社の自由,移転の自由,信教の. 案起草に閲し,第四期五中全会は,孫文の「三. 自由,請願権,法院に訴訟を提起する権利,訴. 民主義を遵奉しかナればならない」とした114). 頗及び行政訴訟を提起する権利,公務就任権が. こうして1936年5月5日に,国民政府によっ. 規定された.そして,これまでの諸憲法になかっ. て中華民国憲法草案(五五憲草)115)が発表さ. た規定として,. れた.だが,. 「人民は,現役軍人を除き,法. 1937年7月に北京郊外の塵溝橋. 律によらずに軍事裁判を受けない」ことが規定. で日本軍との衝突が勃発して日中戦争に突入. された.これらの権利は帝国主義,軍閥に反対. し,国民大会は開催されず,この憲法草案も幻. する味方である人民に保障されるのであって,. に終わった.. 逆に言えば,人民ではない者には保障されない のである.しかし,ここには,中華人民共和国 憲法と同様に,敵・味方に分ける際の基準や, その基準により誰が判断するのかが明確ではな. 日中戦争の開始により,国民党と共産党の間 には,. 1936年12月に張学良らが蒋介石を監禁. して国共内戦の停止を要求した西安事変以来, 内戦停止,一致抗日の気運が拡大し,第二次国. いなどの問題が存在するということができるだ ろう111) 他方で,このような敵・味方に関係ない「国. 共合作が実現した.共産党の「国共合作を公布. 民」には,平等権と「完全自治の県において,. 方針を規定する」ことが掲げられた116).国民. 建国大綱第9条に規定する選挙,罷免,創制,. 政府としても,国共合作を受入れて抗日戦争を. 複決の権利」が保障された.もっとも,この「選. 戦う方針に踏み切った以上,共産党の民主化要. 挙,罷免,創制,複決の権利」とは,. 求を無視することはできず,憲法制定の早期実. 「完全自. 治の県において」保障されると規定されている. 「民権政治を実現. する中共中央の宣言」では,. し,国民大会を開催して,憲法を制定し,救国. 現を約束することになった. 国民党は,. に自治が認められる県,つまり,帝国主義,翠. 1938年3月から臨時全国代表大 会を開催し「憲法実施の準備」が規定された「抗. 閥に反対する味方である県であると国民党が判. 戦建国綱領」117)を採択した.そして1939年9. 断した場合に「選挙,罷免,創制,複決の権利」. 月,国民参政会第四次大会で,一定期間内に国. が保障されることを意味するのである.結局の. 民大会を招集して憲政を実施すると決議され,. ところ,. それに基づき「国民参政会憲政期成会」が結成. ことが重要な点であろう.国民党によって完全. 「選挙,罷免,創制,複決の権利」が. 45. 訓政時期約法に規定されていても,国民党が味. された.これを受けて,. 方であると判断しなければ保障されなかったと. 会は,. いうことができるのではないだろうか.. 法を制定することを決定した.. 11月に国民党六中全. 1940年11月に国民大会を招集して,憲. もっとも,この頃には,国共両党の関係は. 第5節. 五五憲章と中華民国憲法. (1)国共対立から抗日戦争へ 1929年6月,国民党中央執行委員会は,第. 悪化の一途を辿り,. 11月に予定されていた国. 民大会は開かれなかった.さらに, なると,戦局の不利を反映して,. 1943年に 9月の国民党. 三期二中全会において訓政期を1935年までの. 十-中全会は,戟争終結後1年以内に国民大会. 6年間と決定し112),. を招集して憲法を制定することを決定し,. 1936年には憲法を制定し. て憲政期に移行することにした.そして1932. 月には「憲政実施協進会」を設けた.国民党の. 年12月に,第四期三中全会は,. 1935年3月に 国民大会を開催して憲法を議決することを決定. 方針は,五五憲草を基礎として,以前に行わ. した113).その後,. される国民大会で憲法を制定するものだったの. 1933年2月に憲法起草委員. れた選挙によって選出された代表によって構成. ll.

(14) 横浜国際社会科学研究. (46). 46. 第11巻第1号(2006年7月). (3)五五憲章と中華民国憲法における権利規定. で,共産党のみならず他の勢力も反対した.か くして国共両党の関係はさらに悪化していった. 五五憲草と中華民国憲法における権利の享有 主体は,訓政時期約法とは異なり「人民」だけ. のであった.. となっている.しかし,. (2)再び国共対立へ. 「人民」について,条. 文上定義はされていない.ここで,五五憲草で. 1945年8月15日の日本の敗戦によって,. は「中華民国は三民主義共和国とする」(第1条). 抗日戟争は終結した.そこで,アメリカの. とあり,中華民国憲法では「孫中山先生の中華. Franklin. 民国創立の道教に依拠して」,. D.. Roosevelt大統領特使として垂慶. 「本憲法を制定」. に滞在していたPatrickJ.Hurleyを交え,国. し(前文), 「中華民国は三民主義に基づく民有,. 民政府主席・蒋介石と共産党主序・毛沢東の直. 民治,民事の民主共和国とする」. 接会談が行われ,戦後構想を話し合った.この. 明確に規定していることに着日すると,訓政時. 国共の重慶談判は10月10日に「国共会談紀要. 期約法と同様に,権利の享有主体を敵・味方で. (双十協定)」118)としてまとめられた,. 分け,味方にのみ権利を保障しているというこ. 1946年1月,. C.. Hurleyの後任のGeorge. Marshallの斡旋により国共間に停戟協定が成 立し, 「双十協定」に基づき垂慶で政治協商会. (第1条)と. とができるだろう. 次に,そのような「人民」に保障される権利. 議が開かれた.そこでは,憲法審議委員会を親. の内容について概観する(表1).五五憲草と 中華民国憲法の両者に規定された権利は,平等. 織して五五憲草の修正案を作成することなどを. 権,人身の自由,現役軍人を除き軍事裁判を受. 決定した.日本の敗戦後の約1年間は,国民党,. けない権利,通信の秘密,財産権,言論・著作・. 共産党の両党にらみ合いのなかで平和交渉がな. 刊行及び集会・結社の自由,居住の自由,移転. されたのである.. の自由,信教の自由,請願権,法院に訴訟を提 起する権利,訴願及び陳訴する権利,国家賠償. ところが,国民党は,政治協商会議での決 定を1946年3月の第六期三中全会で否認した. 請求権,任官試験を受ける権利,. ため,共産党などは5月に予定されていた国民. 創制,複決の権利」である.また,五五憲草. 大会への出席を拒否した.. 1946年6月,国共 関係は決定的に悪化し,国民党は軍事攻撃を開. のみに規定された権利として住居の不可侵があ り,逆に中華民国憲法だけに規定された権利と. 始した.国民党と共産党は,全面的な内戦-突. して公務就任権,生存権・勤労権がある.. 入していくのであった.その後,. 民党は共産党などの反対を無視し,国民大会を. これまでと同様に注目すべきは,五五憲草で 「およそ人 は,各条文に法律の留保が付され,. 強行し, 12月に中華民国憲法119)を採択した.. 民の自由,権利を制限する法律は,国家の安全. この中華民国憲法は,. を保障し,緊急の危難を避け,社会秩序を維持. 11月に,国. 1947年1月1日に公布,. 「選挙,罷免,. 12月25日に施行され,台湾の現在の憲法に繋. し,あるいは公共の利益を増進する必要がある. がっていくのである120). 場合に限る」. され,中華民国憲法においても「各条に列挙し. 1947年中頃には戦局も-変し,蒋介石をは じめとする国民党は台湾へと逃れ,. 1949年12. 月に台北を臨時首都とすることになった.. (第25条)と,権利の制限も規定. 1949. た自由,権利は,他人の自由を妨げることを防 止し,緊急の危難を避け,社会秩序を維持し,. 年1月には,北平(現在の北京)が共産党の人. あるいは公共の利益を増進する必要がある以. 民解放軍によって解放され,中国は共産党政権. 外,法律でこれを制限することができない」(第. の時代に入っていくのである.. 23条)と規定されたことである.これは,こ れまでの諸憲法と同様に,抗日戟争や国共内戟.

(15) 中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷(於井). (47). という状況の下で,社会秩序の維持,公共の利. おいて確認するのではなく,国家の存在を前提. 益の増進によって権利が制限される可能性があ. としつつ,国家が権利を人民に対して宣言した. るということができるだろう.さらに言えば,. ものである「外見的人権」であるということが. 抗日戦争や国共内戟という状況に適合する権利. できるのである.. 規定が求められたということができるだろう. したがって,五五憲華や中華民国憲法において. 47. こうした清末からの「外見的人権」の流れを,. 規定された権利とは,天賦人権ではなく,国家. ソ連の社会主義的権利観がさらに補強すること になったということができるだろう.孫文の「遺. によって人民に与えられた権利と捉えることが. 嘱」に基づき制定された訓政時期約法,五五憲. できるだろう. また,五五憲草と中華民国憲法の両者には,. 辛,中華民国憲法では,国民が帝国主義,軍閥. 曹鋭憲法と同様に「人民のその他の自由及び権. 軍閥に反対する政権にとって味方である者のみ. 利は,社会秩序,公共利益を妨げなければ,均. が権利の享有主体とされたのである.. しく憲法の保障を受け,法律によらかナれば,. このように権利の享有主体が味方である者に 限定されたことで,孔教の国教化をめぐる議論. これを制限することができない」と「行為の自 由」も規定された.さらに,中華民国憲法では,. を基軸とする敵・味方に分けられ,帝国主義,. 生存権・勤労権が新たに規定され,第13章に. の中で見られた,儒教的束縛からの「個人の析 出」により析出された「個人」は,階級という. 「基本国策」フうミ設けられ,権利実現のための物. 枠組のなかで捉えられるようになったというこ. 質的保障というべきものが規定された121).こ. とができるだろう.. れらの規定は,共産党との戦局が不利な状況で. 以上を踏まえると,中華民国期の諸憲法にお. あった国民党政府が,社会主義的権利観に基づ く国家による権利実現のための物質的手段の保. いて,権利とは国家によって付与され,保障さ れるものであり,天賦人権論はおよそ根付かな. 障をも取り入れることで,自らの優位性を示す. かったということができるのである.さらには,. ものであったと解することができるだろう.. 人権を確保するために国家権力を制限すること を目的とする近代立憲主義は,中華民国期の諸. おわりに. 憲法において,およそ見られなかったのである.. 本稿で考察してきた中華民国期の諸憲法で. ところで,中華民国期には中国共産党が実効. は,清末の欽定憲法大綱に比べて,詳細に権利. 支配していた地域が存在し,共産党が憲法的文. が規定された.しかしながら,その権利を制限. 書を公布していたことに目を向ける必要もある. する新たな条文が規定されたことに注意すべき. だろう.そのような憲法的文書において,権利. 「人民の権利」が「公 であろう.具体的には, 益の増進,治安の維持,或いは非常緊急の必要. はどのように規定されていたのであろうか.そ. と認識される時には,法律で以ってこれを制限. 興味深い.. することができる」とする場合と,その権利が. れは,今日の中華人民共和国憲法の源流であり, また,国共内戦後に国民党が台湾へ逃れ,中. 「人民」のものか「国民」のものかに拘わらず,. 華民国法が台湾に持ち込まれ122),. 法律の留保が付される場合とがあった.このよ. 半に台湾社会が現代化,経済発展を遂げていく. うな規定は,中華民国期の諸憲法,欽定憲法大. なかで,台湾人によって中華民国法が台湾法-. 綱,そして大日本帝国憲法まで共通していると. と「本土化」しつつあることを意識すると123),. いうことができるだろう.したがって,中華民 国期の諸憲法において規定された権利とは,欽. 台湾における中華民国憲法による人権保障がど. 定憲法大綱と同様に,人の生来の権利を憲法に. 分析,検討を加えていく必要があるだろう.既. 1990年代後. のように変化したのかといったことについても.

(16) 48. 横浜国際社会科学研究. (48). に台湾の研究者によって,法律の留保,社会権 の保障などに関する論点が指摘されている124) それらを探求することにより,中国の権利概念 は徹底的に西欧近代のそれとは異なるのかが判 明しよう.こうしたことを考察することが,筆 者の次の課題である.. 注 1)松井直之「清朝末期における権利の受容と変 容一欽定憲法大綱と臣民権利-」横浜国際経 済法学14巻2号(2005年) 29-63頁参照. (新世社, 2004年) 2)長谷部恭男『憲法第3版』 96頁参照. 3)大清商律草案,大清刑律草案,大清刑事訴訟 律草案,大浦民事訴訟律草案,大浦民律草案な どの法律が,不平等条約の撤廃と伝統法との相 克のなかで制定されたことにも表れているだろ う(於井,前掲註1, 38-40頁参照). 4)憲法重大信条十九条の条文は,陳荷夫編『中 国憲法類編』 (中国社会科学出版社, 1980年) 359-360頁参照. 「大 5)十九信条は,欽定憲法大綱と同じように, 清帝国ノ皇統ハ万世二易ナシ」 (1条), 「皇帝 (2条)と掲げているにも ハ神聖不可侵ナリ」 かかわらず,内容的に大きな変化を見せた.皇 (3 帝の権限は「皇帝ノ権ハ憲法ノ規定二限ル」 条)と規定されて大幅に縮小され,そして,読 会の権限が拡大された(張晋藩主編『清朝法制 史』 (中華書局, 1998年) 685頁参照). 「中華民国憲法の成立 6)ハーバートH.P.マに及ぼしたアメリカの影響-その歴史と将来 の展望-」ローレンスW.ピーア編,佐藤功監 訳『アジアの憲法制度-アメリカの影響に対 するアジア的対応-』 (学陽書房, 1981年) 48 頁参照. 7) 「考察憲政大臣達寿奏考察日本憲政情形摺」故 宮博物院明清楢案部編『清末筆備立憲楢案史料 上冊』 (中華書局, 1979年) 35-36頁参照. 8)永井算巳「清末の立憲改革と革命派」歴史学 研究202号(1956年) 6-11頁参照〔同『中国 近代政治史論叢』 (汲古書院, 1983年)所収, 228-240頁参照〕. 「専ら一党一 9)中華民国期の憲法史については, 派の一時的,部分的勝利のための道具として, 極めて低劣な利己主義的意識の下に,憲法が間 断なく作られては死滅の運命を辿ってゆくので ある.極端な共和主義憲法から軍閥の武断的政 治擁護のための憲法に至るまでt まことにjLゆ. 第11巻第1号(2006年7月) る型の憲法が登場する」と述べられているほど (有斐閣, である(高橋勇治『中華民国憲法』 1958年) 53頁). 他方で,清末の立憲改革においても,各政治 勢力によって内閣制度をめぐる議論がなされた (田中比呂志「清末立憲改革と責任内閣制論一 章亥革命への一つの道程-」近きに在りて39 号(2001年) 137-148頁参照). 『憲法第三版』 (岩 10)芦部信書(高橋和之補訂) 波書店, 2002年) 13頁参照, 11)笹川裕司「中国国民政府研究」野津豊編『日 本の中華民国史研究』 (汲古書院, 1995年) 4968頁参照. 12)例えば,横山宏章『中華民国一賢人支配の 善政主義-』 (中央公論社, 1997年) i-iv頁, (慶療義塾 家近亮子『蒋介石と南京国民政府』 大学出版会, 2002年) 8-15頁参照. 13)山田辰雄『中国国民党左派の研究』 (慶磨通信, 1980年) 10頁. 14)土屋英雄「序説」同編著『中国の人権と法 一歴史,現在そして展望-』 (明石書店, 1998年) 18-21頁参照. (慶庵通信, 1952年) 15)石川忠雄『中国憲法史』 8頁参照. 16) 「中国同盟会総章」広東省社会科学院歴史研 (中華書局, 究室ほか合編『孫中山全集第1巻』 1981年) 284-286頁参照. 17)孫文「中国同盟会革命方略」広東省社会科学 院歴史研究室ほか合編『孫中山全集第1巻』(中 華書局, 1981年) 296頁. 18)土屋英雄「近現代の中国の人権論」同編著『中 国の人権と法-歴史,現在そして展望-』 (明 石書店, 1998年) 75頁参照. 19)孫文「中国問題的真解決」広東省社会科学院 (中 歴史研究室ほか合編『孫中山全集第1巻』 華書局, 1981年) 252-255頁. 20)孫文「在檀香山正埠荷梯厘街戯院的演説」広 東省社会科学院歴史研究室ほか合編『孫中山全 集第1巻』 (中華書局, 1981年) 226頁. 21)孫文「在東京中国留学生歓迎大会的演説」広 東省社会科学院歴史研究室ほか合編『孫中山全 集第1巻』 (中華書局, 1981年) 278頁. 22)孫,前掲註17, 297-298頁. 23)横山宏幸『中華民国史一専制と民主の相克-』 (三一書房, 1996年) 16頁参照. 24)同上,同頁参照. 25)同上, 10-11頁参照, 26)孫文「在東京≪民報≫創刊周年慶祝大会的演 説」広東省社会科学院歴史研究室ほか合編『孫 中山全集第1巻』 (中華書局, 1981年) 330頁 参照. 27)横山,前掲註12, 28)横山,前掲註23,. 11頁参照. 23頁参照..

(17) 中華民国期の諸憲法における権利概念の変遷(桧井) 29)石川,前掲註15, 13-14頁参照. 30)中華民国臨時政府組織大綱の条文について は,陳,前掲註4, 372-374頁参照. 31)大綱の要点は, 1)大総統制(Presidential. System)を採用し,臨時大総統のもとに外交, 内務,財政,軍務,交通の5部を置き,臨時大 総統が政治の責任を負うものとしたこと, 2) 臨時大総統が行政上の重要職務,すなわち宣戦, 講和,条約の締結,各部部長の任用及び外交特 使の派遣,臨時中央裁判所の設立などを行う場 合には,いずれも参議院の同意を必要とするこ と, 3)臨時大総統の選出は各省都督府代表が 行い,投票総数3分の2以上の得票ある者を当 選とし,投票は各省1票を以って限度としたこ となどであった(石川,前掲註15, 14頁参照). 32) 「臨時大総統就職宣言書」中国第二歴史楢案 (江蘇 館編『中華民国史梢案資料匪編第二輯』 人民出版社, 1981年) 2頁. 33)ある新聞では, 1)財政上の不統一, 2)南北 4)党派の対 の対立, 3)中央と地方の不統一, 立という4つの現象が中華民国成立以来解決さ れておらず,ますます激しくなり分裂を促進 し,滅亡の危機をもたらしていると訴えていた 『北京民視報』 〔『民国 (「民国危亡之四大朕兆」 嚢報』第3期(中国国民党中央委員会党史委員 会, 1976年) 438-439頁所収〕). 34)法制局は,臨時約法公布以前に既に設けられ ていたが, 1912年7月に修正新官制が公布さ れた際に,その職務として, 1)国務総理の命 を承け,法律命令案を作成すること, 2)法律 命令の制定,廃止あるいは改正について審査す ること, 3)行政各部の立案する法律命令案を 審査することが挙げられた(鎮端升等(及川恒 (慶庵出 忠訳) 『最近支那政治制度史(上冊)』 版社, 1943年) 39-40頁参照). 35)中華民国臨時約法制定をめぐる政治状況につ 22-31頁参照. いては,横山,前掲註23, 36)宋教仁「国民党癌交通部歓迎会演説辞」陳旭 (中華書局, 1981年) 麓主編『宋教仁集下冊』 460頁参照. 37)中華民国臨時約法は, 7章56箇条から成る. 各章の構成は, 「第1章 紀綱」 「第2華 人民」 「第3章 参議院」「第4章 臨時大給統 副総 統」「第5章 国務員」「第6章 法院」「第7章 附則」である. 「人民の権利」は, 「第2章 人民」 に規定されている.中華民国臨時約法の条文に 366-371頁参照. ついては,陳,前掲註4, 38)石川,前掲註15, 16-18頁参照. (東京大学出 39)山口俊夫『概説フランス法上』 版会, 1978年) 94-95頁参照. 40)鏡,前掲註34, 17-22頁,アーネストP.ヤ 『哀世凱総統『開発独 ング(藤岡喜久男訳) (光風社出版, 裁』の先駆-』 1994年) 103頁,. (49). 49. 土屋光芳『中国と台湾の『民主化の試み』』 (人 間の科学社, 2005年) 60頁参照. 41)熊達雲「有賀長雄と民国初期の北洋政権との 関係について一有賀長雄とその北洋政権の法制 顧問応碍の経緯を中心にして-」山梨学院大学 法学論集29号(1994年) 92頁参照. 42) 「民国2年国民之責任」民権報1913年1月3 日.. 43)熊,前掲註41, 93頁参照. 44) Frank ∫.Goodnowが起草した中華民国憲法 草案については, 「古徳諾擬中華民国憲法草案」 夏新華-胡旭居ほか『近代中国憲政歴程:史 料香草』 (中国政法大学出版社, 2004年) 387395頁参照. 45)有賀長雄の経歴などについては,熊,前掲 註41, 78-108頁,松下佐知子「清末民国初期 の日本人法律顧問一有賀長雄と副島義一の憲法 構想と政治行動を中心として一」史学雑誌110 編9号(2001年) 59-83頁参照. 46)熊達雲「有賀長雄と民国初期の北洋政権にお ける憲法制定との関係について」山梨学院大学 法学論集30号(1994年) 15-18頁参照. 47)張玉法「民初対制憲問題的争論」中華文化復 興運動推進委員会主編,中国近代現代史論集編 輯委員会編輯『中国近代現代史論集』第19編 『民初政治(1)』(台湾商務印書館, 1986年) 〔台 北〕 524頁参照. 48)憲法起草権の所在に関する議論については, 楠瀬正明「中華民国初期の憲法構想-いわゆる. 天壇憲法制定過程を中心に-」広島大学笹合科 学部紀要Ⅰ地域文化研究20巻(1994年). 156. -161頁参照. 49)横山,前掲註23, 54-92頁参照. 50)天壇憲法草案は, 11章113箇条から成る. 各章の構成は, 「第1章 国体」「第2章 国土」 国 「第5章 「第3章 国民」「第4章 国会」 会委員会」「第6章 大総統」「第7章 国務院」 「第8章 法院」 「第9章 法律」「第10章 会 計」「第11章 憲法修正及び解釈」である. 「人 民の権利」は, 「第3章 国民」に規定されて いる.天壇憲法草案の条文については,陳,前 掲註4, 389-399頁参照. 51)天壇憲法草案の起草過程における政治状況や 論点については,田中比呂志「近代中国におけ る国家建設の模索一天壇憲法草案制定時期を中 心として-」歴史学研究646号(1993年) 162-169頁参照. 54頁,楠瀬,前掲註48, 52)古島和夫「旧中国の人権問題と基本権思想. 38-. 一人民民主独裁論との関連において-」東京大 (東 学社会科学研究所編『基本的人権3歴史Ⅱ』 京大学出版会, 1968年) 389頁参照. (東京大学出 53)山口俊夫『概説フランス法下』 版会, 2004年) 273頁参照..

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