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Histoire du «Mont-Saint-Michel» première partie /Takaharu ISHIKI

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Academic year: 2021

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Author(s)

石木, 隆治

Citation

東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. II, 59: 93-105

Issue Date

2008-01-00

URL

http://hdl.handle.net/2309/87650

Publisher

東京学芸大学紀要出版委員会

Rights

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序 わが国でモン=サン=ミシェルは世界中の寺院,僧 院の中でももっともよくその名を知られた存在だろ う。ユネスコから世界遺産に指定されてからは,フラ ンス・グループツアーの定番訪問地となり,またテレ ビ等でもよく紹介されるので,この知名度の高さ,ブ ランド化は恐るべきものがある。こうした知名度の高 さはもちろん日本ばかりのことではなく世界的なもの であって,世界中から年間300万人もの観光客が訪れ ると言われている。 しかしながら,この高名なるモン=サン=ミシェル について,われわれが何を知っているかと問うてみる と,かなり心許ない思いがする。簡単なパンフレット の類を別とすれば,モン=サン=ミシェルについての まとまった日本語の文献はあまり存在しない。 われ われは世界に冠たる翻訳文化の国として,フランスの 哲学者,文学者の翻訳全集ならことごとくと言って良 いほど持っているのに,モン=サン=ミシェルについ てはほとんと何も文献をもたないのである。それはお そらくモン=サン=ミシェルの知名度は浮ついた観光 の流行に伴うあぶくのようなものであって,江ノ島に ついて,あるいは流行歌手について研究する専門家が あまりいないのと同じように必要がないと考えられて いるからではないか。しかし,モン=サン=ミシェル は映画スターや,サッカー選手のように5年,10年で 人気が低落するとは思われないのだが。 また,建築史,特に宗教建築史の分野でも実はモン =サン=ミシェルはあまり取り上げられることが少な い存在である。それはわが国では宗教建築史は多くの 場合,ゴシックやロマネスクの建築様式が変遷してい く上でエポックメイキングな建物に研究が集中してい るからのように思われる。そういう意味ではモン=サ ン=ミシェルの建物はいかに壮麗なものであれ,建築 史学者の興味を引かないものらしい。しかしながら西 欧社会に対する認識をさらに深めて行くにあたって, この種の建物のいわれを知ることは,必要なことと考 える。文化史的な視点から見た場合に,この建物を重 要性が浮かび上がってくるからである。 モン=サン=ミシェルの人気ぶりは,世界史的に言 えば過去にも一回あった。中世に聖なる巡礼地として 無数の善男善女が押し寄せたのである。このときモン =サン=ミシェルに押し寄せた巡礼たちは人数の点で は今日と比べればかなり少なかったことだろう。しか し現代の観光客のように2,3時間の見学をすませる とそそくさと次の場所に移動していくのではなく,こ の地を参拝することだけど目的として,非常に遠い土 地から苦労を重ねて徒歩でやってきたのであり,われ われよりずっと真摯な希求の念を背負ってやって来た に違いない。われわれがこの世界遺産を見物に出かけ ていくのも,そうした中世における人々の信仰の熱い 思いがあったからこその話なのである。 実際,この巨大で孤立した石のかたまりの前に立っ たときに,われわれは非常に名状しがたい思いに駆ら れる。時の重圧に耐えてきたもののみが持つ,もの凄 さである。1000年以上の歴史を誇るこの建築物には崇 高な記憶,栄光に包まれた歴史があるのはもちろんだ が,同時に非常に恐ろしいもの,謎めいたものがあ る。ここは修道院としてばかりでなく,軍事的な防備

モン=サン=ミシェルの歴史(その1)

地域研究

**

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7年8月3

1日受理)

* Histoire du «Mont-Saint-Michel»(première partie)/ Takaharu ISHIKI ** 東京学芸大学(184―8501 小金井市貫井北町4―1―1)

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を目的とする城塞として,また牢獄として使用されて きた陰惨な歴史をも抱えているからであろう。 本書は,こうしたモン=サン=ミシェルの歴史を語 ることによって,その隠された秘密の一端を明らかに しようという,いささかの野心をもっている。また, そうしたモン=サン=ミシェルの崇高だが陰惨でもあ る歴史が19世紀を通して転回して,現代のような観光 のまなざしによって見られる存在に変わっていく様を あらまし述べてみたいと思う。 第1部 歴史 ≪自然環境≫ 本章では,モン=サン=ミシェルの歴史を語る前に 少しこの巨大な岩場を取り囲む自然環境について触れ ておきたい。モン=サン=ミシェルにとって,周囲の 湾の存在は非常に重要である。それというのは,モン =サン=ミシェルはこの周囲の存在を前提として成立 して来たからであり,またもう一つには現在はモン= サン=ミシェルとはなによりも景観として評価されて いるからである。さらには,近年の環境意識の高まり によって,周囲の海に対する配慮の重要性が一層高 まっていることもある。海,陸地,空が渾然として, どこからどこまでが海で,どこまでが陸地なのかはっ きりしない場所にこの僧院が浮かび上がるさまは,見 る者にある名状しがたい思いを抱かせる。 かつては,巡礼の地としてのモン=サン=ミシェル にたどり着くには,引き潮の時を狙って膝まで水につ かり,水に飲み込まれる可能性も考えながら海を渡っ ていかなければならなかった。途中溺れて亡くなる人 も数多くいた。現在のように,たやすく渡海堤をクル マで行くのとは違い,ひどい苦労の末に水の向こうの 彼方の世界にたどり着くことによって,ひとびとは自 分が現世でない場所に至ったという感を強めたのであ る。 この40000ヘクタールになんなんとするモン=サン =ミシェルの湾は,ヨーロッパで最大の干潟をなして いる。干潮時と満潮時の水位の差は非常に大きく,最 大時には15メートルもの干満の差に達する。というこ とはつまり,引き潮になると18キロメートルも引いた かと思うと,分速62メートル(1秒間に1メートルの 速さ!)の猛スピードで戻ってくるので非常に危険で ある。中世の巡礼はこの海を非常な難儀をしながら 渡ったのであって,そのことが巡礼のもつ意義を深く 意識させたということをよく記憶しておきたい。 この干潟には無数の魚類,小生物が生息しており, その種類の多さは驚くばかりである。ここはフランス 有数の牡蠣とムール貝の養殖産地としても知られてい るばかりでなく,無数の鳥類の生息地としても有名で ある。 満ち潮の時に海から持ち込まれる大量の砂,土は取 り残されることもあったが,また引き潮の時にまたこ れを海に帰すということもあった。また,湾に流れ込 む河川(セリューヌ河,セー河,クエノン河)は大量 の土砂を運び込みながらも,それらの堆積物を押し流 す働きもしていたので,バランスがとれて海は安定し ていた。しかし,これらの河が近年整備されて水の流 れる場所を固定されたこと,運河のように流れを一定 化され水流の強度を失ったために,かえって堆積物を 遠くへ押し流す力を失ったこと,また渡海堤のせいで 潮の自由な満ち引きが阻害されていること,などの理 由で泥土が堆積するようになったと言われている。 またこの干潟は久しい以前から,干拓によって農地 化をはかろうとする人間の動きにも翻弄されてきた。 すでに11世紀からはじまっているこの農地化の動きは 19世紀に達して本格化し,オランダ人の技術者を呼ん で,機械技術をもちいた大規模な干拓が行われた。し かし,最近はわが国とおなじように膨大な魚や鳥が住 むこうした干潟を残そうという考えが次第に優位を占 めるようになり,干潟の現状保存が真剣に考えられる ようになっている。モン=サン=ミシェルの島の周囲 が干上がりつつあることも大きな問題になっている。 潮の流れを良くするために渡海提を廃そうという計画 もあるが,地元民は生活の便が奪われることになるの で猛反対しているし,また,その代替案として海底ト ンネルが考えられているが,これにしても道路が螺旋 式にでもせり上がって島のどこかに出口を作らなけれ ばならないが,そのための場所を確保できないという 難問がある(その後,提を廃して橋をかける決定がな された)。 モン=サン=ミシェルは何よりもまず,それを取り 囲む自然環境と一体として考えて初めて,モン=サン =ミシェルとして成立していることを忘れることはで きない。 第1章 古代 中世前期 ≪伝承の時代≫ モン=サン=ミシェルの歴史は,わが国の古事記と 同じように伝承の雲の間に溶け込んでいて,よくわ かっていないことが多い。 いずれにせよ,この島は有史以前からケルト人や, それ以前の先住民族にとって何らかの意味をもつ聖地

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だったようである。その証拠にモン=サン=ミシェル の山頂部分には有史以前のドルメンの痕跡が残されて いる。また,このあたりは当初は陸地や,さらには近 くに存在するトンブレーヌ島と共に陸続きであり,モ ン=サン=ミシェルは森に囲まれた土地であったとい う伝承もある。しかしながら最近の考古学的調査によ ると,モン=サン=ミシェルと陸地をむすぶ干潟には 森の存在した形跡があるが,モン=サン=ミシェルの 島の海側はそうでもないという。従って,モン=サン =ミシェルが陸地とつながっていた可能性は大いにあ るが,このあたり一帯が沖合のトンブレーヌ島までぜ んぶ森だったと考えるのは難しいという。このあたり は,現在と同じように陸地と海の境界に存在していた ようだ。 敬虔王ルイ(814−840)の時代に作られた書物が紹 介している言い伝えによると,このあたりには妖精た ちの住まう大きな森があって,その名をシシーの森と 言った。葉叢の上にそびえる二つの丘があり,その一 つを「トンブの山」といい,もう一つを「トンブレー ヌの山」と言った。前者は俗ラテン語で「丘」を意味 する「トゥンバ」から来ているらしい。また,「トン ブレーヌ」というのは,周囲の丘を意味する「トゥン ブラ」から来ているのか,あるいは単に「トンブ」の 指小辞かと思われる。初期の巡礼たちはこの聖地を 「二つのトンブ島の大天使ミカエル様」と呼んでい て,現在のような「モン=サン=ミシェル(聖ミカエ ルの島(単数))」と初めて呼んだのは,10世紀のクリ ニュー修道院の聖オドンだと言われている。つまりそ れ以前は,陸続きだったかど う か 別 と し て,「ト ン ブ」と「トンブレーヌ」を一体のものとして考えてい たようである。 しかし「トンブ」という呼称については,別の説も ある。フランス語では墓のことを「トンブ」というの で,ここは墓地かあるいはたとえば死者を海へ流す葬 送にまつわる儀式を行う場所だったのかも知れない。 それというのもすぐ隣のブルターニュに住まうケルト 人はこの頃,死者を海に流す習慣を持っていたからで ある。トンブの島のほうが歴史上重要な役割を演じる ことになったのに対して,トンブレーヌ島がそうでも なくなったのは,ひとえに後者の島が陸地から遠く, 小さかったからに他ならない。それは言いかえると, 現在無人島であるトンブレーヌ島は僧院が建立される 以前のトンブ島の様子を表していると考えることもで きるだろう。実際,修道僧の中にはトンブレーヌ島の 原始的状態を好んで,僧院を去り,ここで暮らした人 たちもいる。 ≪ケルトの神々≫ ケルト人が信仰したドリュイド教では,森への信仰 を好んだ。また山頂を死者の霊魂の来る場所として尊 ぶ習慣もあったから,この丘の上で,そうした儀式が 執り行われたのであろう。ドルイド教のアポロン神に あたるベレン神に祈りを捧げたのである。このような ドルイドの聖地は天と地を,そして陸と海を結ぶ場所 であったから,このトンブ島は理想的な場所であり, 死者を天国へと導く役割を持っていたことになる。 あるボロセリアンドの伝承によると,このトンブの 島にはドルイド教の巫女たちを養成する学校があっ た。魔法の力を備えた巫女たちがこの聖地を見守って いた。ケルトの戦士たちはここにハシバミでできた強 力な弓を求めにやってきた。またここでは,魔力をそ なえた矢も手に入れることもできた。白い雄牛の血に 浸したその矢は,雷神タランを下すことができるので あった。雷神を退去させるためには,嵐に向かってこ の矢を放つだけでよいとされていた。しかし,この矢 がほんとうの効果を持つためには,いままで一度も愛 を知ったことがない若い男の手によって,矢が放たれ なければならないとされていた。19世紀の作家シャ トーブリアンの説明によると,アンビオリックスはこ の規則を破ったために,美しきヴェローナと共に海へ 投げ込まれたという。魔力の犠牲にされたこのカップ ルは,ちょうどトリスタンとイズーのように,死の中 で永久に結ばれたのである。 また別のブロセリアンドの伝承によれば,アーサー 王の婚約者エレーヌはある巨人に拐かされてしまっ た。彼女の失踪の後,王はこのトンブレーヌの島に チャペルを建てたと言われている。これはトンブレー ヌ島をエレーヌのトンブ(tombe d’Hélène)と解釈す る語呂合わせである。 このようなケルトの神々,またその後に入ってきた ヘレニズムの神々は,ケルトの地に散在して残ってい たメンヒルとともに5世紀頃には失われていく。キリ スト教が入ってきて勝利をおさめたからである。この 地のキリスト教化は英仏海峡の向こうに住んでいた僧 たちによってなされたのかも知れない。ちょうどこの 頃,ゲルマンの大移動の流れに乗って,アングロサク ソン人たちの侵入をうけていたイギリスのケルト人, アイルランド人たちがこの地に移動してきたと言われ ている。この時代にはアイルランドの方がキリスト教 の先進地であった。すでにキリスト教化していたこう したケルト人,アイルランド人たちは船にのって各地 に散らばって住み着き,そこにコロニーをつくり,僧

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院を作った。そうした者たちのうち,二人が6世紀頃 にはトンブ山に住み着いたという,当時のトンブ山は 恐ろしい森で,灌木のみが生えていて「人間よりは動 物が住むのに適している」状 態 で,「瞑 想 を 好 む も の」のみに向いていた。ここに住み着いたふたりは, 初期の僧院によくあったように,別々にチャペルを 造った。そのうちの一つは丘の上にキリスト教の最初 の殉教者,聖エチエンヌに捧げられ,もう一つのチャ ペルは岩場の下に,裸足の聖者,聖シンフォリアンに 捧げられた(この聖人は長い間ガリア地方で人気を博 することになった)。 こうした二人の動きは5,6世紀におけるコタンタ ン地方(ノルマンディーの一部。モン=サン=ミシェ ルは現在,コタンタン地方に所属する)の僧院の動き とも非常に正確に一致していると言われている。この 当時,コタンタン地方,ブルターニュ地方には人が孤 絶して暮らす環境がいくらでもあったわけだが,既成 の僧院にいた僧たちがいっせいにこうした荒野に出で て,一人暮らしの修道生活を始めたのである。ちなみ にこのコタンタン地方のキリスト教化に力があったの は,ポワトー地方(ガリアの西南部)からきた僧たち だとも言われている。 トンブ島に住み着いたこの二人は,森の中に無事に 暮らし始めたわけだが,しかし問題がないわけではな かった。ふたりの食料をどうするかということであ る。幸い麓の村に住む僧がロバに必要なものを背負わ せて,森へ送ることを引き受けてくれた。森に煙があ がって合図があるたびにロバは誰にも導かれることな く,山に入っていって,任務を全うしていた。しかし ある日,このロバはオオカミに食べられてしまったの である。このことを知った神様は,食料が届かなくて 困っている隠者たちの嘆きを聞き届け,オオカミにロ バの代わりをさせることにされた。オオカミは後悔の 念にうたれて,おとなしく食料のはいった袋を背中に 乗せたと言われている。モン=サン=ミシェルは伝承 に満ちた土地なのである。 ≪聖オベール≫ このようにモン=サン=ミシェルは当初,ブルター ニュからのケルトの影響を受けた土地であったが,こ の土地が修道院として本格的に立ち上がっていくの は,むしろノルマンディーから入ってきた要素が大き い。モン=サン=ミシェルは現在ノルマンディーに属 しているが,ノルマンディーとブルターニュのほとん ど境界線上といっても良い位置にあることがこの僧院 の運命を大きく規定したことは記憶に値する。 モン=サン=ミシェルについて書かれた最初の歴史 は10世紀の写本作者ドン・ユイーヌの手になる。その 記述内容は8世紀にさかのぼり,これもまた伝説と史 実の間であいまいな状態で推移しているが,以前より は信頼にたる資料である。これから物語の主人公を当 分の間務めるオベールは,7世紀の終わり頃,ノルマ ンディーはアヴランシュ(上述のコタンタン地方の中 心地)の司教区にあらわれたことがわかっている。当 時の若者たちの鏡ともなる人物で,献身的で,病人を 治療し,人々を苦しみから救ってやることができたと されている。彼の力は非常に強いもので,当時この地 方で悪さをしていた竜でさえ,彼には従ったとされて いる。聖オベールが命令すると,竜は海中に去って, 二度と姿を現さなかったという。しかし,こうした話 はどこにも見られるのであって,もともと西欧に一般 に流布している聖ジョルジュの物語はそういうものだ し,また近隣のブルターニュのサンポル=ド=レオン の聖人も同じ奇跡譚をもっている。当時の民衆の素朴 な信仰心に答えるためには,こうした素朴な奇跡の物 語が都合がよかったのだろう。ここで「竜」とされて いるものは,異教徒のことだろうか。もっと言えば, なにがしか,悪魔を退治する大天使ミカエルの仕事と 2重写しになっていると言うこともできるだろう。 アヴランシュの大司教となったオベールは708年の ある夜,奇妙な夢を見た。それによると,大天使ミカ エル(フランス読みはミシェルである)が夢枕に現れ て,トンブ島に教会を建立することを命じた。この夢 はオベールの夢枕に三度現れた。聖ミカエルが3度目 に登場したときには,命令をすぐさま実行しないオ ベールを非難した。そうして指先で僧の額に触れた。 そのために聖オベールの残された頭蓋には穴が開いて いるのである,云々(聖オベールの頭部はアヴラン シュの大聖堂に現在も聖遺物として保存されており, その頭部にうがたれた穴は医学的に説明不可能とされ ている。しかし,実際にはこれは聖オベールの頭蓋骨 ではなく,モン=サン=ミシェルで発見された先史時 代の頭骨と言われている。何らかの戦闘の痕跡と想像 されている)。 今度は聖ミカエルの命令は実行され,島の上に大き な丸い穴が掘られた。そうしてその場で発見された古 代のメンヒルにとって代わった…。 こうしたことは実証のしようがないが,現在はっき りしていることだけを示すならば,聖オベールのラテ ン名Aubertus ならびにアヴランシュの司教を勤めた 彼の前任者Ragentrannus はいずれも当時のガリアを支 配していたフランク族の名前であって,しかも後者は

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ルアンの司教を勤めたサントゥアンの協力者であった ことがわかっている。ということはこうした人事は, 従来ブルターニュやアイルランドからきた聖コロンバ ン派の僧たちの影響力が強かったこの地域をもっとフ ランク化させようとする意志のように感じられる。 また,大天使ミカエルは神の軍隊の長のような職責 にあるわけなので,ちょうど当時の王,ヒルデベルト 3世の近衛隊長職にあって飛ぶ鳥を落とす勢いのあっ た宰相ピピン2世への忠誠心を示すためであったかも 知れないと言われている。 ≪モンテ・ガルガーノ≫ 仕事がうまくいくと,司教オベールは,大天使ミカ エルが492年に初めてこの世に姿を現したイタリアの モンテ・ガルガーノに人をやり,そこの聖遺物のなに がしかをもらい受けることを考えた。6ヶ月に及ぶ苦 しい旅の後,二人の使者はモンテ・ガルガーノに到着 した。ちょうど「教会で,祈りが捧げられている時刻 であった。モンテ・ガルガーノの修道院長は二人を大 歓迎し,二人の語る事柄を注意深く聞いた。ふたりは 修道院長にことの子細を大急ぎで伝えたと言われてい る。というのも,フランスで起きたことを伝えるにあ たってふたりは頭の中の記憶しか持っていなかったの である。修道院長は話を聞くと満足し,使者を褒め称 え名誉を与えた。そうして,使者たちは大天使の「赤 いマントの一部と大天使が立っていた岩場の岩の断片 を与えられた」よく知られているように,中世のキリ スト教では聖遺物の存在は極めて重要で,モン=サン =ミシェルではその後,聖オベールの遺物が再発見さ れて崇敬の対象となったばかりでなく,十字軍が持ち 帰った聖ニコラの歯(!),聖ロランの腕(!!)な ども崇敬の対象となった。あるいは大天使ミカエルの 聖像があったはずだと考える人もいる。 ≪大天使ミカエルの山≫ モン=サン=ミシェルにおける大天使ミカエルの夢 での出現,その教えに従った聖地の誕生,雄牛による 場所の指示などは実はこのイタリアのモンテ・ガル ガーノの創世物語と非常な類似性を示している。モン =サン=ミシェルの創世物語はモンテ・ガルガーノを なぞっているだけなのだろう。モンテ・ガルガーノが 山上の洞窟に作られたことをまねて,モン=サン=ミ シェルでも洞窟状の穴を掘ることまでしている。ま た,この二つの丘はいずれも先史時代の異教の礼拝の 後を残している点も共通しているのである。モン=サ ン=ミシェルはモンテ=ガルガーノからインスピレー ションを受けて作られたどころではなく,モンテ・ガ ルガーノのコピーなのである。さらにこうした物語を つくったベネディクト派の僧たちは,自分たちの隆盛 を迎えつつある僧院に権威を与えるために,聖書の記 述や部分的にはケルトの言い伝えを交えて,そうした 物語と作っていったのであろう。それによって,モン =サン=ミシェルはある意味では聖書のなかでモーセ が神のお告げを聞くシナイとなっていくのである。 このようにモン=サン=ミシェルがじつは南イタリ アのモンテ=ガルガーノの末寺ともいえる関係がある ことが後に予想外の結果を引き起こすことになる。ノ ルマンディーを征服したヴァイキングはのちに南イタ リアとシチリアを征服してシチリア王国を建設したこ とはよく知られているが,このきっかけになったのは ノルマンの騎士たちがこのモンテ=ガルガーノへと巡 礼をしたからである。しかも,南イタリアへ出かけた 最初のノルマン人たちの故郷のオートヴィル・ラ・ギ シャールという村は,モン=サン=ミシェルからそれ ほど遠くない大聖堂のまちクタンスの北東10数キロ メートルの寒村なのである。彼らが,モン=サン=ミ シェルの本寺としてモンテ=ガルガーノを崇め,巡礼 に赴いたことは疑いない。 実際に,モン=サン=ミシェルではこの時代に最初 の建物が建設されたことが現在ではわかっている。こ のお堂は,古文書の言うように円形をしており,おお よそ100人は収容できそうな大きさで,現在でも,ノー トル・ダーム地下聖堂の組み積み構造の後ろに一部を 見ることが出来る建築はこれなのかもしれない。 大天使ミカエル崇拝は,小アジアから始まり,4世 紀にはエジプトのコプト派キリスト教徒の間で広まっ たとされるが,それがギリシャを経てヘレニズムと融 合した後,イタリアへ,そうして全キリスト教圏に広 がったと言われる。大天使ミカエルを崇拝する教会が で き た の は,先 述 の492年 イ タ リ ア の モ ン テ・ガ ル ガーノが最初である。大天使ミカエルはもともとはヘ ブライ教徒の守護者であったが,同時に世界の終わり に際して悪を体現する竜を打ち負かす軍の隊長であ り,最後の審判に際して良き魂を天国に導き,悪しき 魂を地獄に落とす存在である。そういう意味では,キ リスト教といってもイエスの持つような愛を原理とす るような信仰でなく,ユダヤの荒ぶる神に近い存在と 言って良いかもしれない。われわれは4,5世紀にガ リアの地で布教が始まってからは,順調にキリスト教 が勝利していったように考えがちだが実際はキリスト 教がこの地域を制圧するまでには様々な混乱があった し,制圧した後の揺り返しもあったのである。たとえ

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ばスペインをイスラム教徒が長年にわたって占拠して フランスにも押し出してくるなど,フランスは周囲を 異教徒に囲まれ,また内部でもキリスト教内のアリウ ス派などのような分派と戦わねばならなかった。12世 紀になってさえ,南フランスでは東欧からアルルの港 経由で入ってきたと言われる異端アルビジョワ派,さ らにはワルド派などと戦わねばならなかったのであ る。そうだとすると彼らの信じていたキリスト教がわ れわれの想像するものとはいささか異なって,戦闘的 な側面を色濃くもっている必要があったことだろう。 また人々は地獄の存在を信じてこれを畏れ,人々を天 国へも地獄へも送る権限をもつこの天使にすがろうと したことだろう。 大天使はもともと異教的な性格を持っており,いっ たんキリスト教化した後にはキリスト教が異教と戦っ て勝利していく過程でその戦闘的性格を重用された。 また,異教徒を征伐した後には,現地に溶け込むため にも戦闘的な性格をもつ異教神と融合していく場合も あった。彼は翼をもつローマの神メルクリウスのよう に,神の使者でありながら冥界へと死者を導く者であ る。彼はまた,ローマの光の神アポロンと同じように 光を体現する。彼はまたガリアの神ルグのように剣を かざして戦う。彼は,ミトラ神のように人々の魂を天 上に導く役を担った。その際には光と雷と関係づけら れることが多かった。また,孤立した丘の上に奉られ ることが多かった。そういう意味でモン=サン=ミ シェルは大天使ミカエル崇拝に理想的な場所であった (逆に,そのためにこの聖地は落雷による大火災にし ばしば苦しめられる運命を担わされることになったの だが)。ドルイド教時代の神が征服されてヘレニズム 時代の神に代わり,それがさらにキリスト教のヨー ロッパ制覇に従ってキリストの天使に変わっていくこ とが起きたのである。 冥界の神メルクリウス神が大天使ミカエルに取って 代わられることはよく起こったことのようで,たとえ ば,ポ ワ ト ゥ ー 地 方 に は 現 在 で もSaint−Michel−du− Mont−Mercure(メルクリススの山の聖ミカエル)と いう名の土地があるし,またあるグノーシス派のメル クリウス神像の台座に「ミカエル」と刻み込んである ものがあるという。もともとメルクリウスは死者を冥 府へと案内する役だから,大天使ミカエルがとって代 わるのには適当であったことだろう。というよりもむ しろ,大天使ミカエルという存在自体が古代エジプト や原始インドで行われていた言い伝えの化身なのであ るかもしれず,こうしたメルクリウス神のような異教 神の後継者になるのは理の当然だったのかも知れな い。というのは古代エジプト,原始インドでは死者の 審判の日に,彼の行った徳行と悪徳がふたつのはかり の上で計られたのだから。聖ミカエルはいずれにせ よ,「死の天使」なのである。 ≪大天使ミカエル信仰の伝播≫ それでは,このように南イタリアでは僧院という物 質的な基盤さえ得ることになったこの布教時代のチャ ンピオン,大天使ミカエル崇拝は,言い伝えはさてお きどのようにしてノルマンディーの端まで伝播したの であろうか。当時の宗教,政治状況を考えてみると, 上に述べたこと以外にもいくつか考えておくべきこと がある。 中世には,エルサレムに対する巡礼,またスペイン の聖ヤコブをまつるコンポステーラへの巡礼が有名だ が,もちろんローマもまた大巡礼の中心地であった。 フランスからやってくる旅人たちはアルプスのグラ ン・サンベルナール峠か,モンスニ峠を苦労して越え ると,古代ローマ道であるエミリア街道をとって南下 していくのであった。こうしたローマに通じる街道は 「フランス街道」と呼ばれ,この道を通ってイタリア の信仰と思想がフランスへと持ち込まれるばかりでな く,イタリア人もまたこの街道のおかげでシャルル マーニュの偉業や,ロランの歌を知っていたのであ る。巡礼のなかに混じって入り込んできた旅芸人たち がロランの歌を好んで歌ったからである。この街道沿 いに,また街道からはずれた場所にいくつも大天使ミ カエルを祀った教会があった。また,ガルガーノのサ ンミケーレまで足を伸ばして参拝するものも数多かっ た。こうしたルートを通じて,大天使ミカエル信仰は ガリアの地へを持ち込まれたのであろう。そうして, 英国へ,ブルターニュへとまで持ち込まれたのであろ う。 一方すでに見たように,フランスのブルターニュ, ノルマンディーを含む西北部に関しては,英国の影響 が強いブルターニュのほうで聖ミカエル信仰がはやく 行われていたようである。当時,モン=サン=ミシェ ルのすぐ西側,ブルターニュ側の司教区にある海辺の 島モン=ドルではすでに大天使ミカエル崇拝を行って いた。海の向こうのイギリス側から548年に渡ってき たサムソンが,モン=ドルを根拠地としてこの地域を キリスト教化したばかりでなく,モン=ドルを大天使 ミカエル崇拝の地としたのである。当時ブルターニュ とアイルランドでは大天使ミカエル崇拝はモン=ドル 以外にもある程度すでに行われていたようである。こ れに対してこの当時,ガリア地方ではそれぞれの地方

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で布教のために殉教した聖人,司教といったような, ある意味で目に見える存在を崇拝することばかりで あった。彼らは縛り付けられ,首を切られる姿ととも に善良な村人たちの記憶に残ったのである。言い換え ると崇拝の対象は自分たちの住む場所をキリスト教化 した先祖のような人ばかりである。考えようによって は先祖崇拝にちかいものであった。これに対して天使 というなかば抽象的な存在を崇める精神は,オリエン ト,イタリアの一部,そしてこのあたりのアイルラン ド,イングランドで発達した僧院の中でのみ考えられ る発想であったようだ。またすでに述べたように,ブ ルターニュには瞑想的なケルト人の聖地がたくさん あったわけで,そういう場所に現世と彼方を結ぶ聖ミ カエル崇拝が入り込みやすかったものかと思われる。 このように大天使ミカエル信仰はブルターニュ,ア イルランドを経由したものもあり,またフランス本土 ともいうべきガリア地方を経由したものであれ,じわ じわとキリスト教世界に拡げつつあった。西暦505年 にはリヨンに聖ミカエルを奉る教会の存在が確認され ている。また7世紀の終わりにはメロヴィンガ王朝の 宮廷では,大天使ミカエル崇拝は非常な勢いを持って いると言われている。そうすると,その流れで大天使 ミカエル崇拝がモン=サン=ミシェルへ持ち込まれた 可能性も否定は出来ない。 モン=サン=ミシェルで709年の10月16日に新しく 作られた礼拝所には12人の修道士が派遣され,アヴラ ンシュの司教に服属する形で運営が始まった。しかし 概してこの場所の運営は,いまだケルト風=ブルター ニュ風であり,修道士は厳格な規律に従って,共同の 祈り,聖書の朗読,苦行,独居などが要求されたよう である。聖オベールの意図がどのようなものであれ, 実際はかなりブルターニュ的なものに浸透されていた ようである。また867年になると,禿頭王シャルルは コンピエーニュの協約によって,モン=サン=ミシェ ルを含むコタンタン地方をブルターニュの支配者ソロ モンに譲っている。この地域はとったりとられたりが 続くのである。 ≪モン=ドル≫ モン=サン=ミシェルから西へ15,6キロほど行っ たところにモン=ドルの丘がある。現在は,干拓のせ いか海岸線から3キロほど下がったところにあるが, 丘の麓の土地は沼地のように低くて,もし何らかの理 由によって水位が少しでもあがれば,たちまちここは 島になってしまうだろうと思わせる土地である。この 丘の上に大天使ミカエルを祭るチャペルが長い間存在 した。モン=ドルはモン=サン=ミシェルと同じよう に海辺にそびえ立つ島であり,両者の地理的な類似性 はあきらかである。こうした高い土地に好んで,大天 使ミカエルを祭る寺院,修道院が建設されたのであ る。 たとえば,フランス中部の古都ル・ピュイの岩場の 上に聳えるサン=ミシェル=デギイユ礼拝堂,またピ レネー山脈のなかに位置するサン=ミシェル=デ= キュクサ修道院,イタリアはピエモンテ山系に位置す るサグラ=ディ=サンミケーレなどがある。またイギ リスのコンウォール地方のサント=マイケルズ=マウ ントはモン=サン=ミシェル,モン=ドルと全く同じ ように海辺の島に屹立しているのである。これは聖ミ カエルが天と地をつなぐ役割をもった大天使だからで あろう。しかしそれだけに聖ミカエルを祭った寺院は 例外なく雷に見舞われやすい特質も備えている。 モン=ドルはマンモスの骨が発見されるなど,非常 に古い時代から生き物が水を求めて集まってきた場所 である。人類の祖先はここに狩りをするために集まっ てきた。その後,ここはドルイド教の聖地となり,ガ リア人たちはここでタラニス神への崇敬をおこなっ た。そのあと,ローマ人たちはここで,ジュピター神 を祭ったので,この丘は,モン・ジョヴィスと呼ばれ た。タラニス=ジュピターは天を支配し,平和と博愛 の神であった。これに対して,トンブ島を支配するタ ラニスの弟,オグオミス(=ヘラクレス)は支配と戦 いの神であり,雄弁の神であって,モン=ドルとモン =サン=ミシェルの間には住み分けが出来ていたので ある。モン=ドルはその後,ガロ=ロマンの時代にな ると3世紀頃にインド=イラン系の神であるミトラ 神,シベール神への崇敬に変わった。この神々は動物 の生け贄をたくさん要求したと言われている。その 後,聖ミカエルを崇敬することになり,あとから聖ミ カエルを同じく崇敬することになったモン=サン=ミ シェルと競合することになった。1802年にはモン=ド ルの聖ミカエルのチャペルは破壊され,その跡地から このミトラ神,シベール神崇敬の証拠が発見されたの である。モン=ドルのチャペルは2層の外陣をもって いたことがわかっているが,これはモン=サン=ミ シェルのプレ・ロマネスクの教会(現在のノートル・ ダーム地下聖堂)とそっくりであり,またモン=サン =ミシェルの村の教会とも構造が似ている。 モン=ドルとモン=サン=ミシェルの地理的な類似 性は明らかであり,民衆の中には大天使ミカエルと悪 魔がこの二つの島を交換した民話が残されている。悪 魔はモン=サン=ミシェルにすばらしい建物を造った

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のだが,これを嫉妬した大天使ミカエルはある日,モ ン=ドルにガラスだけで城を造り,悪魔に交換話をも ちかけた。これを受け入れた悪魔がモン=ドルに行っ てみると,ガラスの城はすべてなくなっていた…。現 在はモン=ドルには聖ミカエルを祀ったチャペルは影 も形もなく,決して枯れることがないといわれる泉が 丘の上に湧いているだけである。18世紀に使われたと いう無線通信用の惨めな建物の廃墟が残されているの みである。この二つの島の争いは,モン=サン=ミ シェルの完全な勝利で終わった。モン=サン=ミシェ ルはモン=ドルを喰い殺したのである。 ≪軍神ミカエル≫ この後,西洋世界の基礎をつくったシャルルマー ニュ大帝は自己の国の守護天使として大天使ミカエル を選んでいる。戦乱が繰り返し起こった時代には,あ る意味で当然な選択だったのであろう。これに対し て,シャルルマーニュの跡を継いだカペー王朝は,聖 ドニを守護神に選んだ。その後ヴァロワ王朝になる と,再び聖ミカエルに守護を祈願するようになった。 百年戦争のせいで軍事的な力に頼らざるを得ないこと になったからである。つまりここで信仰されているの はキリスト教ではあるけれども,善と悪を峻別し,敵 と味方をはっきりさせ,あくまでも敵を打倒すること をよしとするような思想である。つまりここで,大天 使ミカエルは,キリスト教の守護神というよりは,フ ランク族の世俗的な権力を守る軍神となっていくので ある。 すこしモン=サン=ミシェルのもつ思想的な意味を 先回りして述べておくと,11世紀ぐらいから,フラン ク族は神の使命を担う特別な民族であるという信念が 生まれるようになった。そうした思想を表現するとき 常に大天使ミカエルがフランク族の守護天使として崇 敬されたことは言うまでもない。十字軍の思想的な背 景のひとつとしてもこうした優越思想があり,たとえ ば第一回十字軍を率いたゴドフロワ・ド・ブイヨンは 出発の前にフランドルのアントワープに大天使ミカエ ルに奉ずる寺院を建立している。 また中世には大天使ミカエルをメダルなどで表現す る折にはフランス王の衣装をまとって表現したことが 多い。王を先頭とする国家守護の神として聖ミカエル は崇められたことになる。つまり大天使ミカエル信仰 とフランスの国民意識とは一体のものなのである。 このように,ヨーロッパのキリスト教世界で初めて 祖霊崇拝から離れて,天使というある程度は抽象的な 存在に対する崇敬を中近東から,あるいはアイルラン ドから持ち込んできた途端に,この抽象的観念は国家 守護の観念にとって代わられたのである。考えてみる とイタリアやドイツは19世紀になってやっと国家とし て成立したのに対して,フランスはすでにかなり早い 時代から国家として成立した秘密はこのあたりにある のかもしれない。国家制度を整えるかどうかは別とし て,フランス人はかなり早い時期からフランス人とし ての自覚をもっていたようである。フランス人のナ ショナリズムとは複雑なものであって,たとえば大革 命当時は愛国心が革命推進とその防衛の原動力になる など,一概に右翼的なものとは決めつけられない性格 をもっている。フランス人にとって国民意識は自己の アイデンティティの根本にあるものだからかも知れな い。 第2章,ヴァイキングの時代 ≪ヴァイキング≫ モン=サン=ミシェルも800年頃になるといくつも の奇跡的な事件がおこり,戴冠したシャルルマーニュ のモン=サン=ミシェル参詣があったりして,王国の 外部,遙か遠方からの巡礼の増加に拍車をかけた。し かし,その直後から来襲するようになった北方のヴァ イキングのおかげでこの地方はさんざんに荒されるこ とになり,島は信仰の場所というよりは,避難所とし て利用されるようになった。847年には実際にモン= サン=ミシェルがヴァイキングの略奪にあったことも ある。しかし,ノルマンディーを征服したヴァイキン グたちはフランス化するにつれて一転して敬虔な宗教 者としての相貌をあらわし,また熱心な事業家として 土地の経営に精を出し,僧院を数多く建設したことは よく知られている。 ヴァイキングの首領ロロンとフランス王シャルル単 純王との間に交わされたサン=クレール・シュル・エ プト条約によってノルマンディー公国が成立した911 年という年号は,モン=サン=ミシェル自体にとって はあまり大した意味はない。しかし,モン=サン=ミ シェルを含むコタンタン地方がヴァイキングたちの支 配下に入った933年は重要なエポックを画する。ブル ターニュからの直接間接の影響力を嫌ったヴァイキン グたちが,モン=サン=ミシェルの僧院から従来の僧 たちを追い出して,自分たちの息のかかったベネディ クト派を導入することを始めたからである。 ≪ノルマンディーの誕生≫ ノルマンディーはもともと「ノース・マン」つまり 「北の人」という言葉から出たと言われ,ヴァイキン

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グを示す言い方である。つまりノルマンディーはヴァ イキングの侵入とともに真の活力を得た土地であり, またその歴史のなかでも,ヴァイキングが活躍した時 代がもっとも華々しい時代なのである。 ノルマンディーの土地のヴァイキングへの委譲は3 つの段階に分けて行われた。 まず911年にロロンに対して,シャルル単純王からル アンとエヴルーの司教区が割譲された。エヴルーは現 在で言うとノルマンディーでももっともパリに近い都 市である。その後,924年にはラウールがリジュー, バイユー,セエに勢力を拡げた。また彼らは,信心深 いキリスト者に心を入れ替えており,カン,ルアンと いった主要な都市の教会を保護し,手厚い寄進を行っ た。クタンスとアヴランシュの司教区を含むコタンタ ン地方はすでに述べたように933年,ロロンの息子「長 剣王ギヨーム」の時代にノルマンディーに編入され た。このようなヴァイキングによる領地拡大のなか で,モン=サン=ミシェルもノルマンディーに含まれ ることになったのである。新しい支配者は,政治的に はフランス側に所属するブルターニュの影響を警戒 し,モン=サン=ミシェルを完全にヴァイキング勢力 の支配下におくことを望んだのであろう。 ≪ベネディクト派≫ ヴァイキングの初期の代表的な首領であったロロン の孫で3代目のノルマンディー公にあたるリシャール 一世は,966年にモン=サン=ミシェルにいた「怠惰 な」教会参事会員たちを追い出した。フランドル人の 僧メナールに導かれて,セーヌ河沿いの高名な僧院サ ン=ヴァンドリーユ(当時はフォントネルと言った) に所属していたベネディクト派の精鋭30名をここに導 き入れた。これによって,モン=サン=ミシェルは名 実共にベネディクト派の僧院となった。フォントネル の修道僧たちはかつてはノルマンディーの戦乱を逃れ て,フランドル地方のゲントに逃れていたが,ヴァイ キング支配が確立してからフォントネルに戻り,新た な支配者たちから手厚い扱いを受けていたのである。 追放される側の教会参事会員のひとりベルニエは,あ らたにやって来た僧たちに抵抗してオベールの聖遺物 を隠したが,これは4年後にある修道僧の部屋のニセ の整理棚から発見されることとなった。彼らは,モン =サン=ミシェルに入ると,従来の教会を拡大し,ま たもっと壮麗なものにすることを計画した。 ≪モノス≫ 修道僧とは,もともとはひたすら神に仕えるために 世間から離脱する存在のことを言った。フランス語で 修道僧を意味する「モワーヌ」はギリシャ語の「モノ ス」からきていて,これは,「単独者」を意味し,北 アフリカの砂漠地帯で独居生活をおこなうことから始 まった。最初にモン=サン=ミシェルに定着した二人 が別々に暮らしたのは,この教えに従ってのことであ る。しかしながら修道僧たちの一部は神への奉仕に いっそう専念するために,その後集団生活に移行し た。集団生活に移行したものは,集団生活の規約を作 り,それに従って生活した。その規則のうちもっとも 有名なのは聖ベネディクトスが534年頃制定したもの である。聖ベネディクトスは490年頃から550−560頃 までイタリアで活動した僧で,530年頃ローマの近く のモンテ・カシーノに修道院を建設した。聖ベネディ クトスの教えによると,修道僧たちは修道院長を自分 たちで選び,その人物に服従しなければならない。修 道院長は終身その任につき,修道僧たちに厳しく,か つ慈愛をもって接しなければならない。ベネディクト 派の教えによれば,人が僧侶になるのはひたすら神に 仕え,神の加護にすがるためである。神の言葉を聞 き,神を求め,神の愛の中で生きる…。こうした神と の直接的な,個人的な結びつきを作れるようにするた めに,「われわれは,神に仕えるた め の 学 校 を 作 っ た」と聖ベネディクトスは書いている。このように彼 は僧院の性格を規定したのである。僧院からは絶え ず,神を賛美する祈りが立ち上らねばならないのであ る…。 こうした僧侶たちの根本的な行動原理は慈愛(ベネ ディクション)という個人的な行動原理でなければな らない。神は良きことを語り,良きことを行われるの だから,人間も良きことを語り,良きことを行わなけ ればならないのである。また,こうした言葉と行為 は,信頼と希望,要は愛の中で行われるべきだという のである。817年にはアニアヌのベネディク ト ス に よって改革が行われたことが有名だが,さらにフラン スにとって重要なのは,910年にクリュニーの修道院 が創設され,ベネディクト派がフランスの中に確固と した足場を築いたことである。 ベネディクト派の修道僧は伝統的に3つの誓約をす ることになっていた。「修道院長への服従」,「貧困」, そして「純潔」である。それにもうひとつ付け加わっ たのは,「定住」であって,修道僧はあちこちの僧院 を渡り歩くことを禁じられた。修道僧の仕事という と,聖書について瞑想すること,神に奉仕し,神を褒 め称えることであった。 聖ベネディクトスの教えの中で大事な行動原理は,

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精神の安寧を保つことである。孤独と沈黙を旨とする ことであり,また熱狂や,気散じ,精神的な緊張を去 ることである。こういうことのためにはモン=サン= ミシェルの環境はことのほか向いていたことだろう。 修道僧は,自己へと現前し,神へと現前するのであ る。自己へと内省するのであり,自己ならざるものに はならず,自己とともに暮らすということが重要なの であった。したがってベネディクト派の姿勢はどちら かというと知的であり,観想的であった。 それまでの僧院はキリスト教の研究と並んでギリ シャ・ローマが作り上げた文化の高みを理解し,継承 することに重点をおいていた。ところが12世紀になる と,僧院は西欧社会の前進に対応するあたらしい文化 の発展の牽引力になっていくという側面も持つように なる。それは文化,芸術,哲学,法学,農工業,そう して建築(具体的にはロマネスク)とあらゆる分野に 渡って,その発展を行ったのである。 ≪僧院の発展≫ このように,修道僧の入れ替えによって,モン=サ ン=ミシェルはノルマンディーの支配下に入ったかに 見えるが,実際はことはそう簡単ではない。初代の修 道院長メナール1世,それを継いだメナール2世は, ブルターニュ側と良好な関係を保持することに腐心し た。ブルターニュの首都レンヌに頑張っていた支配者 たちもまた,モン=サン=ミシェルにブルターニュの いくつかの領地を寄進するなど,理解あるところを見 せ て い た。そ の た め に,ブ ル タ ー ニ ュ と ノ ル マ ン ディーの双方から寄進を受けて僧院は主としてこの湾 の周囲に,さらにはかなり遠方にまで広大な土地を所 有することになり,かなり強力な封建領主でもあった のである。 こうした雰囲気の中で,ノルマンディーの盟主リ シャール2世がブルターニュの支配者ジョフロワの妹 とモン=サン=ミシェルで結婚をした。彼は,まだ歴 史も浅いこのモン=サン=ミシェルの僧院をことのほ か好み,手厚い庇護を与えた。彼がブルターニュの若 く魅惑的な王女ジュディットと華燭の典をあげたの は,ここである。新婦は,伝によれば「身体の完全な 美しさ」を備えていたという。リシャール2世はモン =サン=ミシェルに土地,村,小邑,小教区,水車, 森,封建的権利などを気前よく寄進するのだった。 しかし,リシャール2世のモン=サン=ミシェルで の結婚式にはおそらく政治的な意図もあったことだろ う。彼はブルターニュに対して野心を持っていたので あり,そのためにブルターニュの娘と結婚し,式もま たブルターニュとノルマンディーのちょうど境にあた るこの土地を婚礼の場所として選んだのだろう。(同 じ 頃,リ シ ャ ー ル2世 の 妹 が ジ ョ フ ロ ワ と 結 婚 し た)。996年から1008年の間に行われたといわれるこの 婚礼の折りには僧院はまだできあがっておらず,参会 者の大部分は建物の外で,風に吹かれながら帽子を とって式典を祝ったといわれている。僧院の資料によ ると,イギリス王,ブルターニュの諸侯,ノルマン ディーの封建領主たち,クリュニーを含む他の僧院も 気前よくモン=サン=ミシェルに寄進を行ったとあ る。こうした寄進と,そして領地からあがる収益を元 にして,新たな大建築の計画が可能になったのであ る。 このノルマンディー公の大々的な肩入れと,ベネ ディクト派の進出はモン=サン=ミシェルの僧院の非 常な隆盛をもたらした。まず経済的に,近隣の大領主 たちの寄進によってフランスばかりでなく,イングラ ンド,イタリア,ブルターニュにも領地を持つに至っ た。またベネディクト派はサン=ヴァンドリーユ修道 院から精鋭のみを派遣し,彼らはベネディクト派の教 えに厳格に従って祈りと労働に専念して教団を維持す るための肉体労働は他に任せたから,優れた写本を大 量に作り出し,アリストテレス研究では他を圧してい たのである。 ≪新教会≫ 長さ30メートル,幅12メートルのこの建築は現在で もロマネスクの教会のしたに,その存在を確認するこ とが出来る。モン=サン=ミシェルもまた,その他の 西欧の教会と同じように,新しい教会は古い教会の上 に建てられた。そうして,古い教会は完全に破壊され ることなく,一部は地下聖堂(クリプト)としてその 新しい使命を獲得して残されていくのである。 逆に言うと,そうした歴史の堆積をそのままに空間 的に堆積しているのが教会の建築だということができ るだろう。さらには,そうした教会の一番基層にはキ リスト教以前の信仰の痕跡をみることもまれではない のである。たとえば,シャルトルの教会の地下聖堂 (クリプト)の中には,ドルイド教の信仰をたたえた 井戸が今でも存在するのを目にすることが出来る…。 996年のモン=サン=ミシェルの火事は不幸にもこ の教会の骨格部分までをも破壊した。しかし,人々は そうした犠牲にもめげず,石組みの丸屋根を作り上げ た。起源1000年が訪れて,世界の終末の可能性に人々 はおののいたが,この時期不安に駆られた人々は巡礼 として,モン=サン=ミシェルにも数多く訪れた。

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無恐怖王リシャール1世は996年に亡くなると,そ の息子善良王リシャール2世が即位し,1026年まで30 年間の長きにわたって,ノルマンディーを支配するこ とになった。1022年になると,リシャール2世はモン =サン=ミシェルの僧院にショゼー諸島を与えた。こ れはモン=サン=ミシェルの沖合おおよそ30キロメー トルに位置する島々である。島に居着いた石工たちは 石灰岩を切り出した。それを船に乗せて満ち潮の機会 を狙って,モン=サン=ミシェルに運び込むのであ る。また僧院が所有していた森林が,骨組みや足場用 の木材を供給することになった。 ≪ギヨーム・ド・ヴォルピアーノ≫ リシャール2世はモン=サン=ミシェルの拡大のた めに役に立つ有為の人材をさがしていた。そうして白 羽の矢を立てたのが,ギヨーム・ド・ヴォルピアーノ (962−1031)であった。彼が注目されたのは,ヴォ ルピアーノがベネディクト派のなかで改革派として非 常に目立つ存在であったことと,また彼が建築家とし ての才を世に響かせていたからである。彼はいくつも の修道院の改革に手腕を発揮した後,クリュニーの修 道院長マイユルに呼ばれてブルゴーニュに赴いた。そ の後,北部ノルマンディーの古い港町フェカンに居を 構え,ルアンのサントゥアン,ベルネー,スリジー, そしてモン=サン=ミシェルといった主要な修道院の 改革に腕を振るった。彼の弟子ティエリはベルネー, ジュミエージュ,モン=サン=ミシェルに派遣され, そこで直接の指導にあたった。また,いずれも弟子で あるテオドリックとシュッポが続けて,モン=サン= ミシェルの修道院長となった,というように非常な影 響力を振るったのである。 彼は僧としてばかりでなく,建築家としても名を残 した存在であり,ロマネスク建築の創出者のひとりと 目されている。彼はノルマンディーにやってくると, 直に宗教的改革ばかりでなく,建築の革新にかかわる 実権を手に入れた。それというのも,彼は祈りに儀式 的な性格を持たせることを望み,まず全体のミサ,つ いで修道僧ひとりひとりのミサを行わせたが,それに 伴ってミサに相ふさわしい大きな教会と小さな礼拝堂 などを必要としたのだった。 モン=サン=ミシェルの建物の独創性,荘厳,革新 性,完成度の高さなどはこうした一群のひとびとがど れほどの能力をもっていたか,よく示している。丸天 井の作成をめぐる新しい技法のためには,それに適合 した技術をもった職人を養成する必要があった。実 際,ヴォルピアーノに従ってフランスへやってきたイ タリア人の職人たちが,そうした指導に当たり,ノル マンディー人の職人たちはこうした要請にうまく応え て,短期間で技術をものにしたと言われている。しか し,現在ではイタリア人の職人の影響力を過度に評価 することには懐疑的な考えが多い。やはりノルマン ディーの職人たちに技術的にも主導権があったようで ある。彼らは後の「フランス派」ほどには均整がとれ て美しい形姿を作り出すことは出来なかったが(つま り,当時のノルマンディーはフランスではなかったの である),大胆な施策を案出しそれを実行する能力, 思い切って高い尖塔を作る腕をもっていた。石工たち は,出来高で支払いを受けた。彼らは一つ一つの石を 切り出して,正確な形にそれを細工する仕事に誇りを 持ったことだろう。彼らが刻んだ石には現在でも仕事 に関わった職人たちが自ら彫り込んだ名前を見ること が出来る。 実際ノルマンディー地方に存在するベネディクト派 の僧院や教会,たとえば,ジュミエージュの聖堂,カ ンの男子修道院,女子修道院などは,モン=サン=ミ シェルのロマネスク教会と親近性をもち,これがノル マンディー様式と呼ばれることもあって,後にイル= ド=フランスで完成形態を作り出すことになるゴシッ クの教会への橋渡しとなっていくのである。 ≪征服王ギヨーム(ウイリアム)≫ 彼はノルマンディーの領主として英国を征服した (ノーマン・コンケスト)ことで有名だが,このギ ヨーム(ウイリアム)もモン=サン=ミシェルと無縁 ではない。彼はイギリスの王座を簒奪したハロルドに 抗議して,1066年にノルマンディーはディーヴ=シュ ル=メールから大艦隊を率いて出陣し,へイスティン グで敵を降参させた後,ウエストミンスター寺院にお いてイギリス王冠を自ら被ったのであったが,彼は故 国を発つに当たって大天使ミカエルの聖日(9月29 日)を選んでいる。つまり,大天使の守護を願いなが ら出撃していったことは明らかである。ノーマン・コ ンケストによって,ノルマンディーとイギリスは一つ の国になったのが,モン=サン=ミシェルの修道院長 はこれを祝して4人の僧侶をイギリスに派遣した。彼 らは,イギリスの王となったオド(ギヨームの兄)の 摂政となった。代わりにギヨームは王室付き司祭ロ ジェ1世をモン=サン=ミシェルの修道院長に据え た。このようにモン=サン=ミシェルは英仏を束ねる ギヨームの権力と密接な関係を取り結んだのである。

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≪ロマネスクの教会≫ ロマネスクの教会は1023年に着手され,1080年に細 部を残して実質上完成した。1048年になると,交差廊 の主柱ならびにロマネスクの身廊が完成した。征服王 ギヨームがモン=サン=ミシェルを見たのはこの状態 であり,またバイユーの高名なタピスリーがモン=サ ン=ミシェルを描いたのもこの状態でのことである。 1060年になると教会部分は完成し,ラニュルフ・ ド・バイユーが着手したロマネスクの建築はノート ル・ダーム地下聖堂を中心にして馬蹄形の形をとるこ とになった。入り口は西側,この馬蹄形のてっぺんの 位置におかれることになった。北側はすでに3層に なっていた。1103年になると,建物を一部崩壊がおこ り,9年後には火事で打撃をうけたこともあり,モン =サン=ミシェルは大規模な修復を早くも余儀なくさ れたのである。この崩壊はカロリンガ朝時代の地下聖 堂(現在のノートルダム地下聖堂)の上に作られた教 会部分の設計が十分でなかったことによって,起こっ た。教会の身廊部分は下段の柱の上に正しくのってい れば良かったのに,間違って,大きな重みに耐えない カロリンガ朝時代の丸天井にのっていたのである。こ の崩壊によって北側の側廊も崩れ,そのために居住部 分が壊れた。このため,ノートル・ダーム地下聖堂は もっと強力な支えとなるように作り直され,その上の 教会部分を立て直したのである。ロジェ2世は,北側 に作られていた建築に関しては,3階層をもつ外壁だ けを残して,内部は徹底的に改変した…1138年には再 度火災が起こり,これを機会にまたもやベルナール・ デュ・ベックによる改築が行われた。 (モン=サン=ミシェルの歴史その1終わり)

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モン=サン=ミシェルの歴史(その1)

Histoire du «Mont-Saint-Michel)

(première partie)

Takaharu ISHIKI

地域研究

要旨

本論は,世界遺産モン=サン=ミシェルをよりよく理解するために試みたこの修道院の歴史探訪の一部をなす。 本稿を含む全2部でこの修道院の18世紀までの歴史を示す。そうして第3部をなす「表象のモン=サン=ミシェ ル」では主として19世紀を中心としてモン=サン=ミシェルが宗教的施設としての役割を失って牢獄となるに従 い,モン=サン=ミシェルはロマンティックな美学的表象となっていく様を分析した(紀要に公表済み)。 なお,第4部としては,モン=サン=ミシェルを具体的に探訪するに当たっての,各部屋の造作,由来,室内の 調度など,具体的,緻密なガイド・ブックを計画している。 本稿(第一部)はモン=サン=ミシェルが神話時代の闇から登場して,次第次第に明確な歴史の輪郭をとること から始まって,11世紀のノルマンディー最大の王ギヨーム・ド・コンケランの参拝までを対象としている。

参照

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