反風景的実践としての「採集」――桑原甲子雄と都市
佐 藤 守 弘
SATOW Morihiro
はじめに
東京に生まれ育った桑原甲子雄(1913年∼)が写真を撮りだしたのは,1931年頃のことだと いう(図1)。はじめはヴェスト・ポケット・コダック,いわゆる〈ベス単〉というカメラを 使用していたが,34年にライカC型を手に入れてから,撮影に熱中するようになる。この年か ら37年頃までが,彼のアマチュア写真家としての制作のピークであると言われる。40年,彼は 写真雑誌に推薦され,撮影隊として中国東北部に渡る。戦後になると,彼は『カメラ』誌をは じめ『サンケイカメラ』『カメラ芸術』『季刊写真映像』『写真批評』の編集長を歴任し,批評 サイドにまわる。制作を中断した彼が〈写真家〉として再び注目されるのは,1973年の銀座ニ コンサロンにおける初個展「東京1930∼40――失われた都市」,および翌年に発表された写真 集『東京昭和十一年i』である。このようにして,〈写 真家・桑原甲子雄〉は,いわば〈再発見〉されたので ある。 『東京昭和十一年』には,「私の東京」をテーマと した15本のエッセイが添えられている。それぞれ,桑 原の作品を基に書かれている。ほとんどすべてが,ノ スタルジアに充ち充ちた文ばかりである。著者たちは 桑原の写真に感情移入をする。すなわち表出的なもの として桑原の写真を見るのだ。それぞれが,その写真 のセンティメントに同調し,それを自らの体験した 〈東京〉に重ね合わせる。写真集が発表された頃の状 況について,「この写真集は,この時代を生きた人た ちを桑原同様の『回想の闇』をめぐる旅にひきずり込 んだのだったii」と金子隆一は指摘する。 本論の目的は,このように「ノスタルジア」の文脈 図1:桑原甲子雄 《浅草公園六区》1937年で語られがちな桑原の写真を,同時代の都市の状況をふまえた上で,「採集」という観点から 再考することにある。大正・昭和前期の東京を撮り続けた写真家,桑原甲子雄による東京を写 した写真を,考現学の創始者,今和次郎と比較することによって,その可能性を探ってみた い。
第一章 変容する大都市・東京
1923年,大震災という未曾有のカタストロフを経た東京は,徐々にその息を吹き返し,町に は仮拵えのバラックが建ち始めた。そんな中,ペンキを持って,バラックを飾り立てようとす る奇妙な集団が徘徊していた。〈バラック装飾社〉の面々である。東京美術学校図案科卒業生 を中心とする〈尖塔社〉と前衛美術集団〈アクション〉の人々が合流してできた団体であった。 その中心となったのが,後に考現学を発案する建築史家であり,柳田国男(1875∼1962年)門 下で民家研究を行っていた今和次郎(1888∼1973年)と,舞台美術家,吉田謙吉(1897∼1982 年)であった。〈アクション〉は,基本的な志向として,社会と関わりを持つ方向性を持って いた。こうした美術家たちの社会意識において,大震災後という状況は「時宜にかなった」も のであった,と五十殿利治は述べるiii。彼らは新聞に評されたごとく,「街頭に出る画家たち」 であった。その一例である神田神保町の東条書店の装飾は「野蛮人の装飾をタヽイズムでやり ませうかという主旨」でデザインしたものであったという。この運動は,形態上のシンプリシ ティを重んじるモダニズム建築家たち,特に滝沢真弓ら〈分離派建築会〉の面々から,激しい 非難を浴びることになった。 さて,バラック装飾社の行った街頭を装飾するという行為は,実は,目新しいものではなか った。なぜならば,震災前から既に,東京の盛り場の街頭は,装飾や文字情報,すなわち視覚 的な情報によって埋め尽くされ始めていたからである。 1900年代のはじめから行われはじめた東京の市区改正は,東京から江戸の匂いを払拭してい くことになった。時を同じうして街路に面した商店の販売形式も変わっていく。江戸から明治 にかけて,商店の営業は,いわゆる〈座売り方式〉,すなわち「紺暖簾を掛けて開け放された 出入口の中で,商人が畳の上に座って顧客を待ち,訪れた顧客のもとめに応じて,商品を店の 奥から一つずつだしてみせる」販売方式から,〈陳列販売方式〉,「商品を店に陳列しておき, 客みずからが,好みのものを自由に探し出し,手にとって購入する」販売方式に変わりつつあ ったiv。 この陳列販売方式は,初田亨および吉見俊哉によれば,明治期の博覧会/博物館から勘工場 への流れの裔にあるv。1872年のウィーン万博の際,実務の責任者であった佐野常民(1822∼1902年)は,報告書に次のように書いている。 「博物館の主旨は,眼目の教によりて人の智功技 芸を開新せしむるに在り。夫人心の事物に触れ, 其感動識別を生するは,眼視の力に由る者最多く 且大なりとす」。ここで,佐野は,まさに視覚の 直截的訴求性――眼で見ることがいかに効率よく 情報を伝えうるか――を説いているのである。 かくして,国内でも殖産興業を目的とした〈内 国勧業博覧会〉が数多く催されることとなる。そ こでは,さまざまな産業製品が展示され,文明の 力を視覚的なかたちでアピールした。明治20年代 になると,博覧会における「眼視の力」を応用したものとして〈勧工場〉が現れる。これはさ まざまな商品を一カ所に集めて展示し,「正札付き現金掛け値なし」で販売する施設のことで ある。岸田劉生(1891∼1929年)は,勧工場の想い出を以下のように綴っている(図2)。 誠にこの勧工場というものは,明治時代の感じをあらわす一つの尤なるものであって,私ど もにとっては忘れられない懐かしいものの一つである。細い一間半位の通路の両がわに,玩 具,絵草紙,文房具,はては箪笥,鏡台,漆器類,いろいろのものを売る店があって,品物 をならべた「みせだな」の一角に畳一畳位の処に店番の人が小さな火鉢や行火をかかえてち んまりと座って,時分時にささやかな箱弁当でも食べていようという光景はとても大正昭和 の時代にはふさわないvi。 勧工場の影響を受けた東京盛り場の商店は,陳列販売方式へと変わっていく。1900年には三 越が全店陳列販売方式に変え,他の店もそれに追随する。百貨店の誕生である。この変化は, 店舗が特定の得意客を相手にするのではなく,不特定多数の〈マス(大衆)〉を相手にするこ とを意味した。初田亨によれば「これらのことが,商品の購入を直接的な目的としないで,い くつもの店舗を訪れ,あるいは,ショーウィンドーにならべられた商品を見ながら,町の賑わ う雰囲気に紛れることを楽しむ人々が増加しはじめていたらしいことを示している」vii。すな わち,街衢鑑賞のはじまりであるとともに,遊歩者の登場を意味するのである。かくして都市 は視覚的情報の展示場となり,その展示を見て楽しむ観客も登場する。これが〈銀ブラ〉のは じまりである。このような街衢鑑賞の舞台である盛り場において,視覚情報を発信するのは, 街だけではない。それを見る人々もまた視覚情報を纏って歩いていたのである。ハリー・ハル 図2:岸田劉生《銀座近くの勧工場》 「新古細句銀座通」1927年
トゥーニアンは,このような状況に対して「数え切れないくらい多様なアイデンティティが, どの街角でも演じられていた。人々は煙草を吸ったり,着飾ったり,街を歩いたり,銀座で何 を楽しみ何を消費するのか選択することで,さまざまな主体の位置を試すことができたのであ るviii」と指摘する。 桑原が歩き,写真を撮った東京とは,以上のような状況にあった。ところで,多木浩二は, 『東京昭和十一年』に寄せた文で,次のように言う。「一九三○年代の写真を特徴づける流派や グラフ・ジャーナリズムを写真の一九三○年代というなら,桑原さんの写真はそこからずりお ちている。かれは一九三○年代の写真を代表するのではなく,一九三○年代という時代を織り あげている一本の細いヨコ糸なのであるix」。多木のいう「ヨコ糸」のメタファーに連なるもの が,同時代の東京で行われていた〈考現学〉である。
第二章 考現学と〈採集〉
先ほど述べた〈バラック装飾社〉。その中心にいた二人,今和次郎と吉田謙吉によって考現 学ははじめられた。考現学,あるいは〈モデルノロヂオ〉とは,考古学をもじって,今によっ て造語された言葉である。今はいう。「考古学と同じくそれ〔考現学〕は方法の学であり,そ して対象とされるものは,現在われわれが眼前に見るものであり,そして窮めたいと思うもの は人類の現在であるx」。すなわち,考古学が,発掘したモノを集め,それらを分類し,その傾 向を探ることによって,過去の姿を再構成するのと同じことを,考現学は現在に対して行う。 現在,「眼前」にある視覚的資料を集め,それらを分類し,その傾向を探ることによって,現 在の姿を再構成するxi。これが考現学の目指すところであった。 彼らは事例を集めることを〈採集〉と呼んだ。しかしその採集方法は,考古学とは多少違う。 モノを集めるのではなく,モノには手を触れず,それをスケッチするのである。「考古学にお いてもっぱら古代の物になされてあるように,現前の風俗に直接ぶつかり,それの観察,筆記, スケッチ,写真,などで材料の採集をやり,それらを収集することから出発する」。 第一回目の〈採集〉は,1925年,銀座の歩行者を対象として行われた。採集の規則は以下の 通りであった。 1,京橋から新橋までの間を調査区間とする。 2,歩道のうえだけを調査の舞台とする。 3,主として西側を調査する。 4,調査区間を20分の歩速度で歩くこととし,その途上において前方より歩いてくる人のみ を調査対象とし,立止まる人,追越す人その他一切を調査に加えない。5,採集カードには,調査事項の分類絵, 日時,調査者の歩いた方向(北行あ るいは南行)および調査担当者の名 を記入する。 この調査に基づき,1930年に出版された 『モデルノロヂオ〔考現学〕』の冒頭に, 「東京銀座街風俗記録」は置かれた。そこ に掲載されている採集記録には,圧倒され る(図3)。しかし,ここでは,その分析 の方法には深くは立ち入らず,むしろ,考 現学を都市の表象として考えてみたい。 まず注目すべきは,その採集方法である。 都市の路上を歩くこと。それは,その研究 対象と同じ行為をすることである。 研究対象の動く場に飛び込むことであ る。今は,考現学の採集法を,動物学や植 物学,そして考古学や人類学のそれになぞ らえる。 動物学者や植物学者が動物や植物に対してもつ態度と,われわれがわれわれの対象たる文化 人に向けるのと変わりがないのである。考古学の態度と照らしてみると,それは遺物遺跡に たいする心境である。街のショーウィンドーの品物を歴史博物館の陳列品と同列に見るので ある。このようにわれわれは眼前の存在を学的対象として尊重しながら,それらの分析と記 録を遂行していくのである。家庭における室内・押入れの内部・集会所・モダンガールのさ まよう姿,それらのうちに立ち,それらの前に立って研究の仕事に従事している間,その室 内,そのモダンガールの存在において,われわれはわれわれ自身もそこで生活している舞台 だということを忘れているのである。 すなわち,今はその場にいながら,その場と距離を持った超越的な研究主体たることを目指 しているともいえる。 しかし,それは不可能なことでもあった。都市の雑踏に身を置いて,一方的に見る主体であ ることはありえない。見る主体は,同時に見られる主体でもあったのである。そのことに,今 図3:《男学生の服装/男学生の帽子/女学生の服装》 今和次郎編「東京銀座風俗記録」1925年
の相棒,吉田は気づいていたように思える。それは,「東京銀座街風俗記録」の第二部にある。 吉田はわざと目立つ格好をして,道を歩く。そしてそれに眼を向けた人のコンストラクション を記録したのである。考現学の採集を行うとき,採集者は純粋な観察者ではありえない。対象 と同じ〈舞台〉に登っている以上,観察すると同時に,つねに観察され,超越的にはなりえな いのである。 さらに注目すべきは,考現学の無目的性である。今は,考現学的採集・分析によって,現代 社会の構造が明らかになると考えていた。にも関わらず,出版された『モデルノロヂオ』『考 現学採集』の二冊に収められた調査のどれひとつとして,結論に至るものはない。ひたすら採 集し,収集し,分類するのみで,読者が1930年頃の社会を知ろうとしても,ひたすら宙づりに される他はないのである。このような考現学の側面を,田中純は以下のように評する。「それ は徹底して現象の表層にまなざしを滑走させ,風俗を採集し,統計をとることによって,その 多様性と差異を分類しようとした。考現学とはいわば,探し求めるべき犯人を欠いた,無目的 な探偵の捜査活動なのであり,この探偵は犯罪という主題の不在を埋め合わせようとするかの ごとく,都市,都市生活の表皮に残されてゆく束の間の痕跡を狂ったように蒐集しつづけるの であるxii」。「東京銀座街風俗記録」において,すべての調査ノートは,活字に起こされず,も ともとの姿で掲載されている。またその他の調査記録においても,手描きの図のないものは一 切ない。その執拗なまでのスケッチ群。それは,一方では,彼らの視覚へのこだわりを想起さ せる。ただそれより重要なのは,それらのスケッチが, 無目的な採集活動における採集者の身体の痕跡を現前 させるものである点にあるのではなかろうか。
第三章 桑原甲子雄の「通過者」の視線
以上挙げた二点は,そのまま桑原の写真(図4)に 当てはまると考えられる。まず,桑原もまた超越的な 観察者ではあり得ない点を考えてみよう。桑原は30年 代を回想して,以下のように述懐している。「不思議 なことではあるが,今日,私は歩きまわった下町の光 景を,そこで生じた物や人の交流といった生まな形で, 深く記憶に捉えられたという思い出をもたない。これ は写真を撮るものの不幸なのであろうか。通過者の視 線というものは,いつも現実を写真の被写体として抽 図4:桑原甲子雄 《浅草公園六区》1935年象化してしまうからであろうかxiii」。飯沢は,この文章を繰り返し引用して,「通過者の視線」 について語る。「『通過者』である限りにおいて,つまり彼がファインダーを通して目にしてい る現実から,ほんの数ミリでも離脱した存在である限りにおいて,彼は“暗箱”の蓋を自由に 開閉する権利を手にすることができるxiv」と。 桑原は,〈通過者〉たる自分を悲劇の登場人物であるかのように回想している。しかし,こ れはその場にいながら,その場と距離を持った観察主体であるという,今和次郎の理想の裏返 しと考えられることもできよう。今と同じように,都市の現場に分け入るという方法を採る以 上,桑原も超越的な観察主体ではありえない。桑原の写真には,カメラを構える桑原を見てい るであろう人物がしばしば登場する。しかし,それらの人物が近景には殆ど登場しない。これ は意図的な排除と考えられるだろう。 シャツターを押して写つたというスナツプではなしに,被写体と一秒一秒を共に呼吸し乍ら, 正に意気の合致した火花の散る時,シャツターを切る,と云った様な,口や筆では現せない 様な所が頗る大切な美だと思ふのです。…僕は街頭の縁日,催物,集会,市場,盛り場等の 混雑した所へカメラを持って飛込むのが好きなのです。悪趣味と云ふ勿れ。これらの中に盛 られた人間の生活の匂ひ,感情は近頃の小型カメラで無ければ掴み取ることが出来ないから です。 これは,30年代における桑原の言葉である。〈通過者〉,すなわち超越的な観察者たろうとすれ ば,「人間の生活の匂ひ,感情」は表せない。それを表すには,都市の細部に分け入るしかな い。分け入っていけば,今度は自らもまなざされることになる。このパラドックスに,都市の 表象不可能性があるのではないだろうか。 洋画家の木村荘八(1894∼1959年)は,その思い出を語った『東京の風俗』の冒頭で以下の ように語る。 『東京の風俗』を僕は「パースペクチヴ」で書くつもりである。「バーズ・アイ・ビュウ」に は扱はない。 ――東京「バーズ・アイ・ビュウ」ならば材料を広く横にとらなければならないが,パース ペクチヴで,縦に行くならば,材料は狭くとも主意は達しようと,勝手な解釈に。 「ぼく」の東京はさういふ知らない部分で一杯である。それも上からの「バーズ・アイ・ビ ュウ」で行けば,眼界はそれらにも届くであらうが,横からの「パースペクチヴ」でのぞく ためには,知らないところは見えない。
実感を伝えるため,鳥瞰ではなく,遠近法で行くとい う。リアリティを伝えるために,綜合を犠牲にして, 細部に分け入るというのである。桑原の採った手段に 共通するものがないだろうか。 さらに,考現学に見られた無目的性は,桑原の方法 にも共通するところがある。桑原は,報道写真に影響 を受けたと語ってはいるが,アマチュアであった彼に とってどれほどの影響が実際にあったかはわからな い。また,新聞などのマスメディアに彼の写真が「報 道」目的で使われることはなかったはずである。当然, 彼の写真は,〈作品〉としてアマチュア写真家のため のメディアに投稿されることとなった。といって一時 代前の〈芸術写真〉家のように,ピクトリアリズムを 志向している訳ではない。また,新興写真の面々のよ うに,純粋な視覚性を追求している訳でもない。形式 としては,報道写真の形式を踏襲しながら,そこには報道すべき事件がないのである。田中の いう「犯人のいない探偵小説」という構図がここにも当てはまる。飯沢の戸惑い,すなわち 「宙ぶらりんの気分」はここに発するのであろう。桑原自身も,ふと離れていきそうな対象を 自らにつなぎ止めるかのように,自らを写し込んだ写真を撮っている。 ただし,この読解不可能性は,時を経,ノスタルジアの対象となることによって解消される。 『東京昭和十一年』に収録されている桑原の写真(図5)に寄せられた池波正太郎(1923∼ 1990年)のエッセイの冒頭を見てみよう。 この写真を見ていると, 『手もなく…』 桑原さんが私を撮ったようなものである。 場所は,浅草・永住町。道を小走りに駆けている少年は,この年代の,この町で暮らしてい た私そのものといってよい。 無目的であったからこそ,桑原の写真は,このような自由な読みに対して開かれていたといえ る。桑原の捉えようとした生々しい「人間の生活の匂ひ,感情」は,消毒され,喪われたもの へのセンティメントとして読み替えられたのである。桑原の行った「採集」という行為が, 図5:桑原甲子雄 《浅草区永住町》1936年
「風景」として受容されることになったと考えられよう。
第四章 風景批判の諸相
こうした「採集」という実践は,近代の視覚文化の文脈において,どのように捉えればいい のだろうか。一言でいうと,採集という行為は,環境と人間の関わりかたの一つのヴァリエー ションとして考えられる。通常,「環境と人間の関わり」といってまず挙げられるのは,おそ らく「風景」というものであろう。では,「風景」とは,いったいどのような環境と人間の関 わり方を指すのであろうか。 美術史/英文学研究者,W・J・T・ミッチェル(W. J. T. Mitchell)は,モダニズム的な風 景画の言説―― 一種の進歩史観――に異議を唱え,風景を静的なモノとしてだけではなく,動 態的な文化的実践として捉えることを提唱している。彼によれば,風景がどのように交換の媒 体,視覚的な流用の場,あるいはアイデンティティ形成の焦点として〈流通〉するのかを検証 することが必要であるというのであるxv。ミッチェルの言説の重要な点は,風景表象を単に見 られるべきイメージ,読まれるべきテクストとして扱うだけでなく,それを社会的なアイデン ティティを形成するプロセスとして考える点にある。 ミッチェルの概念を考える上で参考になるのが,文化理論家スチュアート・ホール(Stuart Hall)による「文化」の定義である。ホールによれば,カルチュラル・スタディーズや文化の 社会学における「文化」とは,ある社会や集団内における意味の生産と交換の上に存立するも のであるとされる。二人の人が同一文化に属するということは,二人が「世界をほぼ同じよう に解釈し,自らを,あるいは世界に対する自らの考えや感情をお互い理解し合えるように表現 することができるxvi」ということである。すなわち,文化とは,「共有された意味(shared meaning)」であるとホールはいう。ではどのようにして,意味は生産され,交換されるのであ ろうか。その手段とは,言語――音声言語,書記言語にとどまらず,視覚的イメージや音も含 む――による表象である。モノそれ自体に,内在的に,単一の固定した意味が存在することな どほとんどあり得ない。ホールが例として採り上げるのは,「石」の例である。「石」は,ただ 「石」であるだけでなく,それがある特定のコンテクスト―― 一種の言語ゲームのうち――に おいて定位され,使用されることによって,その石は「彫刻」とも,「境界の表示」ともなり うる。これこそがホールの言う「意味作用の実践(signifying practice)」としての表象である。 このように,文化を単に実体のあるモノ――絵画,小説,テレビ番組など――だけではなく, 社会的な実践として捉えることによって,ダイナミックな文化観は成り立つのである。 では,トポグラフィを文化的実践と捉えたとき,どのような意味作用がそこで行われているのであろうか。この点に関してはエドワード・サイード(Edward E. Said 1935∼2003年)によ る「想像の地理学=心象地理(imaginative geography)」という概念を援用してみることが有用 であると思われる。サイードのいう心象地理とは,人間の想像力の働きによって生みだされた 空間に関する知識であり,単なる実証的・経験的な知識と見える以上の何ものかであるxvii。
この「知識」を説明するため,サイードは,クロード・レヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss)が「具体の科学(La science du concret)」と呼ぶものを引く。それは,人間が周囲の 事物に特定の位置や機能や意味を与える行為のことを言う。 呪術的な思考は,まだ実現していないひとつの全体の発端,冒頭,下書き,部分ではない。 それは,それ自体でさまざまな要素をまとめたひとつの大系を構成しており,したがって科 学とは別の大系として独立している。この両者が似ているのはただ形の類似であって,それ によって呪術は科学のメタファー的な表現とでも言うべきものになる。呪術と科学を対立さ せるのではなく,この両者を認識の二つの様式として並置する方がよいであろうxviii。 すなわち「具体の科学」とは,必ずしも近代科学で実証されるような効用とは関係がない呪 術的/詩的/美的な行為である。しかしそれが,近代科学の目から見れば,いかに不合理なも のであっても,それらのうちには合理的な秩序があり,構造を具えているのである。サイード は,この概念を次のように説明している。 レヴィ=ストロースが言わんとしているのは,人間の精神が秩序を必要とするものだという ことであり,秩序とはあらゆるものを弁別・観察し,意識にのぼるすべての物体を安全で再 発見可能な場所に据えつけることによって,つまり,環境を形成する対象と主体が織りなす 機構のなかで事物のおのおのにその果たすべき役割を与えることによって,はじめて打ち立 てられるものなのだということであるxix。 人が自らを取り巻く場所に名を与え,分節し,意味を与える行為も,場所の中における主体の 位置を確認する行為であるといえる。 「事物のなかには,精神によって弁別され,客観的に存在しているように見えながら,実は 虚構上の実在性しか有していないものがある」とサイードはいう。「数エーカーの土地に住む 一群の人々は,自分の土地やその周囲と,その向こう側の領域とのあいだに境界線を設け,向 こう側の土地を『野蛮人の土地』と呼ぶ。言い換えれば,なじみ深い『自分たち』の空間と, その自分たちの空間の彼方にひろがるなじみのない『彼ら』の空間とを心のなかで名付け区別
する」。この時,「野蛮人」の側がその区別を承認する必要はないxx。まさしく一方向的な非対 称のまなざしによって,この地理学は成立するのである。 サイードは,さらに思想家ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard 1884∼1962年)の 「空間の詩学」を援用して論を進める。 もちろん,私たちの膨大な思い出は,家のおかげで保存されている。そしてもし家が多少と も複雑になり,地下室や屋根裏部屋,片隅や廊下を持つと,我々の思い出はますます表情豊 かな隠れ家を持つことになる。〔中略〕したがって精神分析研究者であれば,この思い出の 単純な位置決定に注目しなければならないだろう。〔中略〕この精神分析の補助的分析にわ たくしは場所の分析(topo-analyse)の名を与えたい。したがって場所の分析とは,われわ れの内密の生の場所の組織的心理学的研究となろう。 バシュラールによれば,家の内部空間は,単に客観的な空間として存在するのではなく,人に よって詩的な性格――想像上の価値や比喩的な価値――を付与される。したがって彼のいう 「場所の分析」とは,単に物理的,客観的な位置関係の記述ではなく,そこにどのような意味 が付与されているかに関する分析なのである。こうしたバシュラールの論を,サイードは次の ように解釈する。 空間は一種の詩的プロセスによって感情的な意味あい,あるいは合理的な意味あいをすらも つようになり,その結果として,空っぽで名付けようのないひろがりが我々にとって意味あ るものに変ずるのである。 バシュラールが,そしてサイードが「詩的プロセス」と呼ぶものこそが,「意味作用の実践」 に他ならないであろう。すなわち,私たちの目のまえに広がる場所は,トポグラフィという表 象によって,意味あるものと化し,理解=意味生成(make sense)可能なものになるのである。 場所それ自身は,意味を持たない。私たちが表象すること――それについて語り,それのイメ ージを生産すること――こそが,場所に意味をコード化する営為なのである。 このように風景とは,環境のさまざまな要素を捨象し,見る主体の恣意的なまなざしのもと に再編成する行為と批判的に捉えることができるのである。では,「風景」ではない,環境と 人間の関わり方の可能性はどこにあるのだろうか。私は,桑原に代表される「採集」という行 為にこそ,その可能性が見出されるのではないかと考えている。
おわりに――反風景的実践としての「採集」
「風景」と「採集」について考える際に,それらが場所と人間のあいだで,どのような関係 を取り結ぶはたらきをしているのかについて考えてみたい。
カルロ・ギンズブルグ(Carlo Ginzburg)は,美術史におけるモレッリ法,フロイト (Sigmund Freud 1856∼1939年)による精神分析,およびコナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle 1859∼1930年)によるシャーロック・ホームズの推理に一つの共通点を見出している。 モレッリ(Giobanni Morelli 本名イワン・レルモリエフ 1816∼91年)は,絵画の制作者を同定 する際に,耳などの通常では無視されがちな細部に注目した。そうした細部にこそ,制作者の 特徴が現れてしまうと考えたのである。モレッリの方法は,いわば「不必要なものや副次的な 与件が真実を示すと考え,それらに基づいて解釈方法を作るという考え」からなっていたとい う。「こうして普通は重要性に乏しいか,あるいは陳腐で『低級』と考えられていた細部が, 人間精神の至高の創造物に接近する鍵となるとされたのであるxxi」。モレッリの著作を実際に 読んだジークムント・フロイトは,夢や言い間違いなどの日常のふとした細部から,人間の無 意識を読み解く精神分析という方法を編み出す。また,ドイルの創造したホームズもまた,足 跡や煙草の灰などのささやかな痕跡を手がかりに犯人の姿をあぶり出す。ギンズブルグは,こ の三人の方法の基盤に,医学における症候学という考え方を見出す。「十九世紀の末頃――よ り正確に言えば,一八七○年から八○年にかけて――人間科学の分野で症候学に基礎を置いた 推論的範例が姿を現わし始めたのであるxxii」。 こうした方法は,何も十九世紀に唐突に現れたものではなく,たとえば狩人が動物の足跡や 匂いから,獲物を追う時に発揮される「一見して重要性のなさそうな経験的データから出発し て,実際には実験が不可能なある複雑な現実にさかのぼる能力」との共通点を指摘する。彼に よれば,「狩人が足跡解読の際に用いる言語が依拠している文飾――部分から全体を見る,結 果から原因を探る――は,今日でも換喩〔メトニミー〕を軸にした散文に帰すことができるか らであり,そこからは隠喩は厳重に排除されているxxiii」という。 さて,写真という技術も,本来,換喩的な表象手段であると考えられる。チャールズ・サン ダース・パース(Charles Sanders Peirce 1839∼1914年)は,記号を,その指示対象との関係 に着目して,三つのクラスに分類した。すなわち,類似性に基づく〈アイコン〉,物理的因果 関係に基づく〈インデックス〉,慣習,約束事に基づく〈シンボル〉の三種である。絵画や彫 刻は,一般的にアイコンに分類される。写真もまた,対象と類似しているという点ではアイコ ン的な記号である。しかし写真の場合,アイコン的記号であるだけでなく,同時にインデック ス的記号であると見なすことも可能である。それは写真の技術的な特性に起因する。なぜなら
ば,写真とは,被写体に当たって反射した可視光を,レンズを通して収束させ,感光面に反応 させ,化学的に定着させる技術であり,言い換えれば,写真とは光を媒介物とした,実在した 物体の痕跡であるともいえるからである。写真が,記号としてアイコン的でありつつ,インデ ックス性も有するということは,パース自身の言葉にもある。 写真,特にスナップ写真は非常に有益である。というのは,それらが表意している対象にあ る点でまったくよく似ているということをわれわれが知っているからである。しかしこの類 似性というのは,写真が一点一点物理的に自然と対応するよう強いられるという状況のもと で作られたという事実によるものである。そういう点で,それらは記号の第二のクラスつま り物理的結合による記号のクラスに属するxxiv。 光を媒介として表象と対象が接触したという因果関係が認識されるとき,写真はインデックス 的な記号と見なされる。アイコン的記号が隠喩と,インデックス的記号が換喩としばしば結び つけられることから,採集という行為が,写真という表象装置と深く結びついていることが分 かる。そして,写真は,ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin 1892∼1940年)のいう 「視覚的無意識」を,些細な事実から暴き出すのである。「カメラに語りかける自然は,肉眼に 語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意 識を織りこまれた空間の代わりに,無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである〔中略〕 こうした写真における無意識なものは,写真によってはじめて知られる。それは衝動における 無意識的なものが,精神分析によってはじめて知られるのと同様であるxxv」。 目の前に広がる場所の不必要と思われる部分を恣意的にそぎ落とし,理解可能なものにする 「風景」という技法が,いわば隠喩的な人間と場所の関わりであると考えると,桑原甲子雄の ような都市を徘徊し,その細部を切り取る「採集」的な営為は,換喩的な人間と場所の関わり であるともいえよう。そうした意味において,「採集」とは,反=風景的な実践であるといえ るのではないだろうか。 もちろん「風景写真」というジャンルは確実に存在するし,写真というもので「風景」を表 すことが不可能であるといっているのではない。ただ,「採集」という行為と深く結びつく写 真という表象のメディア自体の奥底に「風景」を覆す可能性のようなものが秘められていると 考えることは,場所と人間の関係の,あるオルタナティヴを追求することと結びつくのではな いかと私は考える。 i 桑原甲子雄『東京昭和十一年』晶文社,1974年。
ii 金子隆一『桑原甲子雄写真展――東京・昭和モダン』(展覧会図録),東京ステーション・ギャラリー, 1995∼96年。 iii 五十殿利治『[改訂版]大正期新興美術運動の研究』,スカイドア,1998年。 iv 初田亨『東京――都市の明治』,ちくま学芸文庫,1994年。 v 初田前掲書,および吉見俊哉『博覧会の政治学――まなざしの近代』(中公新書,1992年)を参照の こと。 vi 岸田劉生「新古細句銀座通」,酒井忠康編『岸田劉生随筆集』,岩波文庫,1996年。 vii 初田前掲書。 viii ハリー・ハルトゥーニアン「近代による超克――両大戦間期におけるファンタジー化される日常生 活と社会体についての言説」,毛利嘉孝訳,『世界』882号,岩波書店,1997年12月。 ix 多木浩二,桑原前掲書。 x 今和次郎『考現学入門』,藤森照信編,ちくま文庫,1987年。 xi 同上。 xii 田中純『都市表象分析ø』,INAX 叢書,2000年。 xiii 『桑原甲子雄(日本の写真家19)』,岩波書店,1998年。 xiv 飯沢耕太郎「『通過者の視線』――桑原甲子雄の1930年代」,『デジャ=ヴュ』15号,フォトプラネッ ト,1994年1月。
xv Mitchell, “Introduction,” Mitchell, ed., Landscape and Power,2nd ed., Chicago: U. of Chicago P., 2002. xvi Stuart Hall, ed., Representation: Cultural Representation and Signifying Practices, London: Sage,
1997. xvii エドワード・サイード『オリエンタリズム』(上)今沢紀子訳,平凡社,1993年。 xviii クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳,みすず書房,1976年。 xix サイード前掲書。 xx 同上。 xxi カルロ・ギンズブルグ「徴候――推論的範例の根源」『神話・寓意・徴候』竹山博英訳,せりか書房, 1988年。 xxii 同上。 xxiii 同上。 xxiv チャールズ・サンダース・パース『パース著作集2 記号学』,内田種臣訳,勁草書房,1986年。 xxv ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」『ベンヤミン・コレクションø――近代の意味』,浅井健二郎 編訳,久保哲司訳,ちくま学芸文庫,1995年。