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ちょっと覗こう!!

古代中国の環境

第 1 章 環境史の今日的意義

(1)『千と千尋の神隠し』に何を読むか 諸君の多くが、もう『千と千尋の神隠し』は鑑賞されたことだろう。私は、2002年の 3 月 21 日になって、漸く見に行くことができた(オバサンは忙しいのだ!)。アカデミー 賞やヴェネチア映画祭金の熊賞等々の受賞作品たるに恥じない、深い内容のアニメだった が、このアニメに盛り込まれた様々な仕掛け・設定のなかには、「環境史」に関わってくる ものがある。何だろうか。画面に見える形で表現されているものだけでも、3点ほど挙げ られると思う。 「オクサレさま」即ち実は日本神話にある「クサレ(穢れ)神」ではなく汚染されつく した「河の神」、というキャラクター設定が、汚染の進行した現代の都市河川に対する批判・ 警告を象徴していることには、大半の人が気づいただろう。千尋は、眼の前の汚さを我慢 して、一所懸命きれいにしようと努力することで、彼を蘇らせることができた。 もう1点は、これも、比較的多くの人が理解していると思うが、今や web サイトでも人 気絶頂の「ハク」というキャラクターの設定だろう。ハクの命を救うのは、なかなか大変 で、ドラマのクライマックスになっている訳だが、奪われていたハクの本名(忌み名とか 真名とかいうのだが)は「ニギハヤミコハクヌシ」となっている。通行本(現在普通に出 版されているテキスト)の『古事記』などの表記(文字の使われ方)を参照すると、多分 「邇藝速琥珀主」とでも書くのが適当だろう。日本のみならず、東アジア各地で水神の形 象にされることの多い竜、それも若い白い竜の姿が本体の彼は、埋立てられてその上がマ ンションになり、地表から姿を消した「琥珀川」の神、という設定だ。 環境史の視点からハクの設定を考えると、二重の意味が浮かんでくる.。1960 年代以降、 まさしく「オクサレさま」化した日本の都市河川の多くは、文字通り「臭い物に蓋」とば かり暗渠にされたり埋められたりし、その空間を駐車場、高速道路、ミニ公園等々に利用 して上辺は小奇麗になったが、こういう開発方式は、集中豪雨の際の飯田橋の地下道の例 などが示すように、都市型水害の原因にもなり勝ちで、近年は見直しが始まっている。川 を生きた水の流れる場所、様々な命の宿る場所とは考えず、人間に必要な給水と排水の機 能としてのみ捉えた当時の開発意識は、川の占める面積を「土地」に換えて、経済的利益 を獲得しようとしたわけだ。自己中心主義の経済優先思想が、川を傷つけて殺してゆく、 という点だけ見ると、ハクとオクサレさまの象徴するものは、同次元のようでもある。が、 実は、ハクの持つ意味は、以上のみではない。 琥珀とは、黄色く透明な宝石の一種だが、元来は新生代以前の樹脂が地殻変動などの高 温高圧条件によって結晶したもので、しばしばその中に小さな昆虫などが封じ込められて 採掘される。地球自体の運動によって樹木や昆虫の命が封じ込められる現象は、人間には

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何ともしがたい自然現象だが、その琥珀を名に持つ川、となると、水底に琥珀を含む化石 層のある川、を想定するのが自然だろう。日曜夜の日本テレビ系列「The 鉄腕ダッシュ」 を視聴している人は判るだろうが、水の流れを川の命の流れだと見なすならば、「琥珀川」 は元来、琥珀ができるような地殻変動によって,水の流れやすい地形が形成されて出現した 川である訳で、樹木や昆虫などの「埋められた命」を基盤に生まれたことになる。 その琥珀川は、「瀕死」に近い汚れた状態であったかもしれないが、千尋が靴を落とした 段階では一応流れていたはずだ。生きていた。それなのに、「子供が落ちたから」か、埋立 てられ、封じ込められたのだ。ところが、その川自身も、太古の命を埋めて出現した、と いう、いわば地球に存在するものとしての二重の哀しみを、ハクは背負っていることにな る、と私は考えている。 では、残る1点は何と考えられるか。これは本書全体のクイズとして、後に述べること にしよう。 (2)「発展」とは何か さて、『千と千尋の神隠し』が語りかけているものは、以上のような、単純な「環境」問 題関連トークばかりではない。 この物語の特徴として、宮崎駿監督自身、劇場公開用プログラムその他の媒体で明言し、 幾つかの関連する評論も出ている重要なポイントの一つに、「この映画は、千尋の成長物語 ではない」という命題がある。実のところ、出演した何人かの声優さんも述べているよう に、アニメの始まりと終り頃とでは、千尋の表情も行動も随分変化しており、一部の評者 が主張しているような、「『千と千尋の神隠し』=ロールプレイングゲーム」説は成り立た ないだろう。 にもかかわらず、宮崎監督が「最近の映画には成長神話みたいなものがあって、そのほ とんどは成長すればなんでもいいと思ってますね」と指摘しているのは、「変化=成長」と みなすような、単純右肩上がりの時間軸の扱い、近 50 年来の日本が「常識」にしてきた時 間概念のウソ臭さではないか、と私には思われる。 かって存在した様々な事象を、「衰退」や「停滞」の局面をも含めて、冷静に見据える歴 史理解こそが、必要であるように思われる。「衰退」は、ひょっとすると、物質的要求が概 ね満たされ「落ち着き」を求めた人々の行動の軌跡だったのかもしれないし、「停滞」は、 実は、生態循環的生産様式が一定程度成立した姿だったかもしれない。時と場合によって は、成長にではなく衰退や回帰にこそ意義がある局面、あるいは、「成長しない」ことが「停 滞」なのではなく、別の次元における、循環システムの高度な完成を意味する場合、等々 を、私たちは認識し始めなくてはならない。また、多様な歴史の推移の中に見える、自然 観・社会観・人生観等についても、その基盤を探って、真の「豊かさ」とは何かを模索す る必要があるのではないか。 経済学の分野では、1993 年に国民経済計算体系(SNA)が改定されて以降、徐々にでは あるが様々な国・機関で、いわゆるグリーン GDP を導入した経済分析が始まっており、 「持続可能な開発」という考え方が、次第に広がってきてはいる。

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しかしながら、過去を考え評価する、つまり歴史を見る時、そのツールとなる価値基準、 殊に、近代歴史学の方法・理論と現在までのその研究成果の中には、「成長・発展」の歴史 を描かねばならない、という、一種の強迫観念に近い手法の影響が色濃く残存しており、 様々な問題が生じている。 諸君は、高校までの歴史に関する科目の学習で、各時代において世界の中で目覚しい「成 長・発展」を遂げた地域の事象を、ダイヤモンドゲーム宜しくピョンピョン飛んで、追っ てきたのではないだろうか。「ギリシア諸都市が衰退して、マケドニアが、ま たローマが発 展してきた」といった具合に・・・。が、古代マケドニアのあった場所でもギリシアでも 幾多の戦乱を超えて、人々は生き続けてきた。ある地域の「発展」が途絶して「衰退」し た、と評価される時代でも、その地域が無人になった、というケースはそれほど多くない。 「被支配者」と呼ばれる存在になった場合もあろうが、人々は暮し続けた。人類と地球が 経てきた歴史の実際の推移は、当然「成長」の局面ばかりではなかったのである。 ところが、歴史学において、「過去」を考える基本的材料は、文字資料である。今日まで 伝わっていたり、近年、考古学的に発掘されたりした遺物も、無論補助的に参照するけれ ど、基本はあくまで文字である。理由の第一は、映像文化などが発達した近年になるまで、 最も多くの情報を伝えたものが文字だったからであるが、そればかりではない。特に中国 の場合、非常に多くの文字資料が残され、豊富な「史料」を提供しているのだが、それは、 事柄を文字にして、荷札や帳簿から『正史』にいたるまでの様々レベルの記録として残し、 その文字を読んで「過去」のある事象の経緯を理解・分析し、「現在」の問題解決に役立て る、という技術が、すなわち歴史学的思考方法そのものが、極めて有用な「支配」の技術 であり、その技術獲得者、つまり識字層に役立つ方向で整理された情報が残った、という 事情に関係する。言い換えれば、前近代の多くの社会で、歴史学は(他の学問も大部分そう だが)支配者のものだった。各地、各時代の為政者にとっては、無論、自らの属す社会の 「発展」が努力目標だったわけで、残される記録も、「将来の発展」に役立つよう整理され ていることが、多くなる、という訳だ。 歴史学は、そのような素材を用いるので、支配される側、「発展」していない地域の事情 や「発展」していない人々の意識をさぐる手がかりに、そもそも乏しい。文字資料を辿れ ば、各時代の支配者が残した記録を辿っていることになるので、人類社会は常に「発展」 しているのが当然、という錯覚に陥りがちなのだ。 今日、歴史を学ぶ人は、諸君や私を含めて、無論「支配者」ではない。けれども、こう いう資料的制約に加えて、私たち自身が、過去の「支配者」と同様に、歴史に「発展」の 跡を探ろう、などという意識を持って記録を読むならば、結果として、真実の歴史事象の 推移は、容易に浮んでこなくなるのである。 (3) 時事的「環境問題」と、複合領域としての「環境史」の意義 02 年、南アフリカで開催された環境サミットは、会議自体が、いわば「人類の智恵の衰 退局面」を示したともいえようが、いくら何でも、技術革新に基づいて成立した近 150 年 来の大量生産・大量消費による生産様式は、翳りを見せ初めているといえよう。家電製品 その他での「セル生産」や、様々な「隙間ビジネス」の発生は、その証だし、情報伝達の

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量と速度の増大は、ゆっくりとではあれ、確実に、世界の物価を平均化してゆくと思われ る。無論、今日、絶対的貧困にあえぐ人々は、世界中に存在するから、「少量多品種」だの 「付加価値」だのは、「金持ちニッポン」の世迷言だ、と非難される側面も無いわけではな い。が、いかに「失われた 10 年」が重くのしかかっていようとも、日本において、餓死は、 まだ例外的事件であろう。いくら「景気が悪」くとも、やはりまだ「豊か」なのである。 だから、私達「さしあたり明日の生活には困らない」人間が大部分の日本社会に生きる者 は、今のうちに、少し先の地球全体の未来のあり方を考えて提言する義務があるのではな かろうか。 その時、近未来の設計において、「成長」を前提とする時間概念に捕らわれていては、 地球と人類全体にとって、最も妥当な「折り合いのつけ方」を考えることが困難になるだ ろう。 以上のような話から、では、この書では、地球温暖化や大気汚染、ごみ問題などの歴史 を話すのか、とか、「東洋史」だから、中国の砂漠化や水土流失の歴史を話すのか、と思わ れた方もあるかもしれない。が、古代中国の環境史を辿ることは、無論、それらの問題と 無縁ではないけれども、本書で直接、今日の所謂「環境問題」の発生史を述べるわけでは ない。むしろ、先に述べたように、今日いわゆる「環境問題」を発生させた根本原因の一 つだともいえる、人々の自然観・社会観・人生観等の成立過程を考えてみたいのである。 それは、宮崎監督が主張する「成長神話の見直し」をする技法の一つともなるだろう。真 の「豊かさ」を地球全体で実現する方法を創造できる知性の基として、中国の環境変化と、 それに対応した人間の営みを、「成功」例も「失敗」例も含めて、眺めてゆきたい。このよ うな試みが、経済学の新たな方法の開発にも繋がってゆけばよいが、と考えている。 参考文献 植田栄二・武本 行正・小川束 『環境学総論』(四日市大学環境情報学部、同文館、2001 年) 宮崎駿、アニメー ジュ編集部 編 『千と千尋の神隠し』(徳間書店、2001 年)

第2章 近代西欧人の中国観と「黄土」神話

(1)はじめに 本章で述べることは、近年増加傾向にある中国からの留学生諸君から見れば、「自明の 理」「常識」であろうと思う。 しかしながら、日本人の中国理解、殊に、日本における第2次大戦後の中国史研究に おいては、中国の環境に関する一つの「誤解」が存在し、甚だ大きな影響を持った。そ してそれは、様々な歴史理解の「ゆがみ」の一因にもなっている。従って、留学生諸君 は、「日本を理解するための一要素」として、この話を許容されたい。

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日本で出版されている中国史の概説書には、しばしば「肥沃な黄土」という言葉が登 場している。中には、「黄土は肥沃だから、水さえあれば豊かな農業生産が約束されるの に、華北では水が不足しているので、灌漑の成否が社会発展の重要な契機をなした」と いう意味の記述も見られる。 いったい、この「黄土」とは何であろうか。 (2)「黄土」とは何か 近年の日本は様々な異常気象に見舞われているが、そしてその原因も複雑多様なのだ が、その中で、02 年、しばしばマスコミでも報道された大量の黄砂の飛来は、札幌の白 い雪の上に積もった厚い黄色の堆積として、テレビ画面で見ても異様な光景だったから、 記憶された方も多いだろう。この黄砂の飛来は、日本だけでなく韓国でも観測されてお り、中国では、オリンピック開催を控えた首都北京の環境保持策を考える上で、重要な 問題となってきている。 非常に単純化して説明するなら、日本で一般に理解されている「黄土」とは実はこの 「黄砂」の堆積に近いものなのである。中国の陝西省から山西省、甘粛省、或いは、寧 夏回族自治区、内蒙古自治区といった辺りに広がる地域を、一般に「黄土高原」と呼ん でいるが、これらの地域の表層の土壌の多くは、この「黄砂」の堆積、もしくは、「黄砂」 が堆積した後、様々な変化を受けて生まれた土壌からできている。これらの地域が、経 済発展目覚しい中国沿海部の都市と異なって、今日でも貧困者が比較的多い地域である ことは、よく知られている。その原因は様々であるが、従来の生産様式、殊に前近代の 技術水準の下では、多量な穀物の収穫が困難な自然環境にあったことも重要な原因であ る。 (3)そもそも土壌とは? 高校までに地学を学習してこなかった人のために、ここで、少し、「土壌」というもの について説明しておこう。 地球上の土壌は、地球ができた時のマグマに由来する岩石が、長い長い年月に、太陽・ 風に晒されたり、地殻変動を受けて大きく移動したり、水の底に沈んだり水で運ばれた り、細菌やカビ、動植物の活動に影響されたりして、粉々に砕け、「風化」して「土」に なったものである。この「風化」の度合いによって、或いはその土がある場所の気象や 地形的条件等によって、土にも様々なものがある。 熱帯地帯の赤土――ラテライトなどは、風化が進行した土で、土の粒の中に含まれる 様々な元素のうち、カリウムやカルシウムなどが流れ出てしまい、アルミニウムばかり が残っている状態なので、あの赤い色を呈している。中国東北地区や、黒海沿岸に広が る黒い土は、植物などが枯れて積もった有機質を沢山含んでいるので、黒い色を呈して いる。これらは重いので、そう簡単に風に飛ばない。ところが、黄砂は、いうまでも無 く、土の中でも風に飛ぶ軽い部分である。それは、風化が充分に進んでいない安定した 構造の珪素化合物が中心になって、土の粒ができている状態なのである。風化が進んで いない、ということは、土の粒の中には、色々な元素が残存している訳で、黄砂に含ま れる元素を化学的に定量分析すれば、植物の栄養分となる元素は含まれている。ところ

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が、風化が進んでいない土の粒の中で、それらの元素は、珪素に囲まれて安定している ものが多く、植物の根が吸収しうるイオンの形を取る部分が少ない。従って、単に水を 与えても土の粒と粒の間に水が通るだけで、土に含まれている成分を栄養として植物に 補給することは難しい。 (4)「黄土」の色々 「肥沃」という言葉は、「肥」つまり植物に必要な栄養分が多い、ということと、「沃」 つまり植物に必要な水分が充分にある、ということとの両面が備わる状態を意味する。 「黄砂」が積もっただけの「黄土」、現代の中国土壌学の用語では、一般に「黄綿土」と 呼ばれる土は、その成分を植物が吸収しにくいのだから、「肥」の性質は希薄なのである。 だから(といっても、無論上に述べたようにこれだけが原因ではないが)、黄土高原には、 貧しい人々が多かった。 とはいえ、「黄綿土」も降り積もって長く時間が経てば、その土地によって様々な変化 を受ける。気候が温暖で雨量が多かった時代(これについては、第 4 章以降で説明する) には森林が育ち、森林に生きる動植物が栄養を供給した場所もあった。草原であった時 代と場所もあり、そこで生育した家畜の糞が栄養を供給した場合もある。また、このよ うにいくらか栄養分がある場所は、歴史時代に入ると人間が農耕に利用するケースが多 かったから、人為的に肥料を施された場所もある。森林であれ草原であれ農耕地であれ、 土壌に有機質が供給されると、その栄養分が植物に利用されるだけでなく、土壌そのも のが変化する。風化が進んで、植物に必要な元素がイオンの形を取ることにもなるし、 もっと重要な変化として、土粒と土粒が有機質の働きで「団粒構造」と呼ばれる緩やか な塊を作ることも起る。「団粒構造」になった土はイオンを吸着しやすいので、さらに多 くの植物に必要な元素が集まる、といった現象が起こって、次第に肥沃になってゆく土 地もあった。 しかし、生産に熱心なあまり、供給した以上の栄養分を奪う農業を行ったり、傾斜地 などで水も栄養分も流れてしまいやすかったりすると、「団粒構造」を取る部分が減少し、 その場所にある土の中で軽い部分は、風で飛ばされてゆく。 その土は、落ちた先でまた「黄綿土」になるのである。 「黄綿土」は、同じように風に飛んで降り積もった土粒の堆積だから、均質な大きさ・ 重さの土粒が並んでいる。そこで、「黄綿土」の堆積した場所では、土粒と土粒の間に毛 細管が形成され、乾燥すると地下水がその空隙を通って上昇するという現象もしばしば 発生する。 また、有機質が少ないので、一端水分を含んだ後で乾燥すると、土粒と土粒がきっち りくっつきあって、とても固くなる。日干し煉瓦が簡単にできるわけだが、植物が根を 張るには厄介な状態のなるのである。

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現代の「黄綿土」の耕作地。 傾斜地を造成して、水と土の流失を防ぐ 現代の「黒? 土」の景観。 「黄綿土」と比べ有機質の粕で黒くみえる [写真出所:中国土壌普査辧公室『中国土壌』(中国農業出版社、1998 年)] また、かつて草原だった土地が様々な原因で乾燥し、有機質が失われると、繊維質など 有機質の粕が黒く残る。こういう土に対しては、土壌改良を施さないと、今日、農耕での 高収穫は難しい。この土を、今日の土壌学では「黒? 土」と呼んでいる。いわゆる「黄土 高原」には、こういう土壌の場所も多い。 そして、一部には、自然地理的・社会的条件に恵まれ、2千年来、農耕が継続され肥料 が供給され続けた場所もあり、そういう土地では、「? 土ロウド」と呼ばれる特殊な肥沃土が 出現している。 以上、纏めると、一般に日本で「黄土」だと思われている土の実態は、1種類ではなく、 しかもその多くが肥沃ではないのである。 (5)「肥沃な黄土」というウソはなぜ流布したか では、なぜ、日本の中国研究者の中に、「黄土は肥沃だ」などという間違った「常識」が 発生してしまったのだろう。 従来の研究者が、意図的に誤ったりしたわけではない。が明治以降、「近代的科学知識」 を獲得したい、と思っていた多くの日本人同様、中国を研究する人々も、中国の現実それ 自体より、欧米の「進んだ知識」をもつ研究者や「探検家」たちの中国に関する意見の方 を、まず参照する傾向があった。 日本に、いや、世界の中国学に大きな影響を与えた、欧米人の中国研究者の第一として は、やはり、F.F.リヒトホ−フェンという人物を挙げる必要がある。シルクロードの命名 者としても名高いこのドイツ貴族は、1872 年 1 月、中国西北部を踏査したのだが、ヨーロ ッパの風景を「常識」と考えていた彼は、中国西北地区に「肥料を施さないで農耕を続け ている」土地があることを知ってショックを受けた。ヨーロッパでも、またそれ以前に旅 行した中国の華南でも見かけない黄色い土である。彼は、当時、斬新な学説として脚光を 浴び始めた植物学者リービッヒの「無機栄養説」を援用してこの現象の解釈を試みた。さ らに彼は別の場所で、細かい粒子の「黄色い土」の堆積に発達した毛細管を伝って、土の

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中から塩が吹き出しているのも観察した。そこで、彼が「想像した」理論は、「黄土の地下 には栄養があって、毛細管でそれを運び、黄土が黄土自身に肥料を施しているのではなか ろうか」という、「自己肥培」説だったのである。彼自身は、無論これを、「仮説」である、 と述べている。彼が見た「肥料を施さないで農耕を続けている」土地は、前述した「? 土」 だろう。実のところ、「? 土」には、長年にわたって、川辺や沼の岸などの有機質に富んだ 土が「土糞」として与えられたりしていたのだが、ヨーロッパ的感覚で「肥料」とみなし うるような、家畜糞などは見当たらなかったわけだ。 が、この「自己肥培」というロマンテイックな空想は、欧米人を魅了し、日本人もしっ かり信じてしまった。 これに加えて、1930 年代になると、K.A.ウィットフォ−ゲルという、日本ではリヒトホ −フェン以上に有名な研究者が、リヒトホ−フェン説を拡大解釈して、「黄土は肥沃だから 施肥は不必要だが、水だけは不足する。だから、中国では、農業生産のための大規模渠水 灌漑が不可欠で、それを実現しうる、協力な専制権力が生まれた」という説を提起し、さ らに、「黄土には森林が育たない」とも主張して、非常に大きな影響を及ぼした。 無論、こういう実態に合わない説を批判する研究者もあり、中国各地を実地調査された 天野元之助博士などが、こういうウィットフォ−ゲル説を信じ込んだ人々への批判をして おられる。 しかしながら、全体の趨勢として、中国史を研究するのに、欧米人の提起した理論を、 あまりよく確かめもせず利用する、という傾向が、過去数十年来の状況では支配的だった、 と言わねばならないだろう。 (6)我々の環境史への教訓 今日、私たちは、リヒトフォーフェンやウイットフォーゲルの時代とは比較にならない ほど、豊富な自然科学の成果を利用できる。かれらのように中途半端な科学知識で類推し ないですむのである。また、アジアの一隅に位置する日本列島に生まれた私たちが、彼ら のように、地球の一角に過ぎないヨーロッパの「常識」で、他の土地を観察する必要もな いだろう。 ただし、もう目の前には存在しない過去の環境を考えるには、当然、今現在、眼前にあ る光景を、千古不変だなどと信じ込まず、地球誕生以来、どのように変化してきたかを、 科学的に追求せねばならない。それには、常に最新の自然科学的成果を吸収して、合理的・ 科学的に仮説を立ててゆく必要がある。 また、どんなに優れた学説でも、絶対の真実などありえないのだから、常に仮説の再検 討を繰り返してゆくべきであろう。 この「黄土」に関する誤解は、日本人の様々な分野の学問に、まだ残存している、様々 な「外来思想依存型思考パターン」とでも呼ぶべき傾向を象徴してもいるようである。 参考文献 ? 子同,等 『中国土壌系統分類―理論・方法・実践』(科学出版社、 1999 年)

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熊毅・李慶逵主編 『中国土壌』第2版(科学出版社、1987 年) 農林水産技術会議事務局

訳編

『英中日土壌学用語集』(丸善、1979 年)

F.F.von Richthofen China,1877, Berlin. K.A.ウィットフォ−ゲル 著・平野義太郎訳 『新訂・解体過程にある中国の経済と社会』 (原書房、 一九七七年 復刻版 天野元之助 「中国古代デスポティズムの諸条件―大会所感−」(『歴 史学研究』223 号、1958 年) 原宗子 「古代中国の農政と環境」(『中国―社会と文化−』14 号、 1999 年)

第3章 考古時代の華北の自然環境

(1)「淮河線」論のあやうさ 前述した「黄土」に関する「誤解」は、土壌に関する自然科学の発展状況を無視し て、100 年前の「空想」を鵜呑みにした結果発生したもの、いわば、中国の現実の自 然環境への観察と分析の不足に由来するものであるといえよう。では、今日の環境を 充分観察すれば、環境史のデータは充分か、といえば、これには、別の問題がついて くる。 これも、多くの中国史概説書などに引用されている、ジオン・ロッシング・バック が、その著・『支那農業論』(三輪孝・加藤健共訳、1938 年、原著 Land Utilization in China,1937,)で発表した「農業分布図」を例に考えてみよう。 右の図は、『大地』の著者、パー ル・バックの夫でもあるJ.L.バ ックが、20 世紀初期の中国各地を 実地調査して纏めたもので、21 世 紀の今日、これを参考にしても、 河南省・安徽省・湖北省・湖南省 等の境界付近で、やや問題を感じ はするものの概ね参照に足る地図 ではある。 大雑把にいえば、ほぼ、淮河の 延長線を境に、小麦・粟作地帯と 水稲作地帯が区分される、といっ た理解が今日普及している根拠に なってもいる。が、これは、3000 年前にも当て嵌まる地図だろう

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か。 近年、中国考古学の発展に伴って、各地の発掘に際し、埋蔵物の収集・分析のみな らず、遺跡を含む土層の土壌分析結果も報告されるケースが増えてきている。 これは、誠に喜ばしいことで、動植物化石などの発見の場合、ある程度の数量の集 積が確認されない限り、その出土地点全体の古環境を推定する手がかりにはなりにく い。これに対し、土壌は、その詳細な性質が判明すれば、直ちにその層が形成された 時代に発掘地点周辺が、どのような植生で覆われていたかを推定し易い。 例を挙げよう。後に周王朝を建設した一族が、根拠地としていた場所が、今日、陝 西省渭水北岸に位置する周原である。現在、盛んに発掘調査が行われているが、それ らの発掘地点を調査された周昆叔氏の「中国環境考古的回顧与展望」によれば、周原 の土壌の多くは、次のような層を形成していることが多いという。 層の厚 さ:cm 土壌の類型 堆積時期と出土遺物の文 化層 0∼30 現代農耕土層 30∼50 遅く堆積し土層不明確な黄土。 2000 年前頃から堆積。 40∼100 褐土類に属する古土壌。 2000∼3000 年前頃堆積。 春秋戦国・秦漢期文化層。 100∼ 150 褐土から棕壌に移行する過程の 土壌、ないし棕壌類の古土壌 3000 年∼8000 年前に堆積。 新石器時代中晩期、夏・ 殷・周(早期)期の文化層。 10∼50 早く堆積し土層不明確な黄土 不明瞭 周氏が用いておられる中国語の土壌分類用語は 1970 年代のもので、今日では異なる 用語が利用されているが、ここでは周氏の用語をそのまま用いて解説すると、「褐土」 とは、日本語では「肉桂色土(cinamon soil)」と呼び、主に落葉広葉樹を主とする森 林で形成される土である。また「棕壌」とは、日本語では「褐色土(brown forest soil)」 と呼び、主に針葉樹と落葉広葉樹の混交林で形成される土である。 従って、今日では殆ど自然の森林が見られない周原の付近が、新石器時代から周王 朝の初期にかけては、針葉樹林ないし針葉樹と落葉広葉樹の混交林が広がり、春秋戦 国から秦漢期にかけては、主に落葉広葉樹林の広がる地帯であったことが推定できる のである。 つまり古代の華北は、今日に比べ、総体的に、より暖かく湿潤であったことが想定 できる。その土地で栽培されていた穀物も、今日と同じ種類が分布していたとは言い 切れないわけだ。従って、漢代以前の穀物作について、バックが観察した淮河線を境 界区分として考える方法を、無条件にあてはめるのは危険だということになる。

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このような点については、第 5 章以降で、文献史料によって詳しく検証してゆくが、 表面的な「現代の自然観察」を適用するだけでは、古環境の復元ができないことを理 解してもらいたい。 近代における自然科学の発達は、確かに目覚しいものであった。しかしながら、19 世紀から 20 世紀初期にかけての、諸科学は、新たに得られたまだまだ断片的な諸知識 を、古今東西に通用する「普遍的真理」と過信する傾向を帯びていた。「時の流れ」を、 「科学的」に解明する技術が未発達だった、ともいえるだろう。ただ、近年において も、西欧人の価値基準が、ともすれば“global standard”などと見なされる傾向も否 み得ない状況は存在しており、単に、「自然科学の発展の度合い」にだけ、このような 傾向の原因を求めるわけにはゆかないかもしれない。 ともあれ、このような「近代の誤謬」を、一つ一つ訂正してゆくことも、21 世紀の 学問である環境史の重要な課題なのである。 (2)古代中国の地形と人工居住区 近年、脚光を浴びた中国史に関わる概念の中に、「長江文明」論なる提言がある。 中国黄河流域のみならず、長江流域においても、近 30 年来、新石器時代の遺跡・遺 物が多く発見・発掘されており、古くから文化が発展していたことは、疑いようがな い。 ただし、それを直ちに、「黄河文明」とは全く異なる「長江文明」が存在した、と主 張する根拠にできるかどうかは、また、別の問題である。 「長江文明」論を展開しておられる研究者は決して少なくないが、その論拠のひと つにしばしば挙げられるのが、良渚遺跡群、殊に大観山遺跡などの「台城遺跡」の存 在をもって、その特質とみなす見解である。 「台城遺跡」とは、数百メートルに渉って盛り土し、その頂上に巨大建造物を含む 居住区を建設したと推定できる遺跡である。殷墟に代表される華北の都城が平地に建 設され、北京原人が発見された周口店や、龍山文化(日本の世界史教科書では黒陶文 化とも表記されている)発見の地、城子崖などは自然の丘陵、半坡遺跡や? 地は平地 の遺跡である、と考えられてきたのに対し、明らかに異なった文化体系の表示である、 と見なされたのである。 ところが、最近になって、その前提が、いささか揺らぎ始めている。 李力氏が、参加記を発表しておられる“史前城址与聚落考古学術研討会”などのシ ンポジウムや、幾つかの発掘報告によると、何と、城子崖など、黄河中下流域の、小 高い丘陵遺跡の多くは、人工の台地である、つまり、「長江文明」論でいう「台城遺跡」 であることが、明らかになった、というのである。 この問題については、その後の議論の展開が、いまのところ、あまりはっきりしな い。 けれども、城子崖など竜山文化遺跡が人工の台地上に築かれたとすれば、竜山文化 の古環境を再検討する必要が生じるのみならず、「長江文明」論も、その独自性に関す る、重要な論拠を失うことになりかねない。

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今後の発掘報告を、注意深く見守ってゆく必要がある、といえよう。 参考文献 ジオン・ロッ シング・バッ ク(三輪孝・ 加藤健共訳)

『支那農業論』(1938 年、原著:Land Utilization in China,1937,)

周昆叔 「中国環境考古的回顧与展望」(中国第四紀研究委員会環境考古専業 委員会・北京大学環境科学中心、共編『環境考古研究』第二輯、科 学出版社、2000 年) 高広仁 「説“丘”――城的起源一義」(『考古与文物』1996 年 3 期) 李力 「“史前城址与聚落考古学術研討会”綜述」(『文物』1996 年 11 期) 張学海 「試論山東地区的龍山文化城」(『文物』1996 年 12 期)

第 4 章 殷王朝の祭祀体系を支えた環境

(1)華北の気候変動研究 前章に述べたように、人類が中国大陸に住み始めて以来の気候には、大きな変動があ ったと考えられる。 こういう問題について、最も早く提言されたのは、竺可楨氏の「近 5000 年来我国気候 変化的初歩研究」(『考古学報』1972 年第 1 期。他、多くの雑誌に転載)という論文だっ た。黄河中下流域の仰韶文化遺跡出土の動植物遺体を中心に考察されたこの論文では、 8000∼3000BP(:before present 現在から 8000∼3000 年前の意。考古学、植物学等でし ばしば用いられる年代表示形式)の、この地域の年平均気温は、2℃ほど温暖であった、 とされた。近年では、花粉分析法などの発達によって、さらに細かく地域・地形別に変 動状況が解ってきているが、竺論文の結論は、大筋において、承認されているようであ る。 が、年平均2℃高温ということは、具体的にどういう環境だったといえようか。 極めて判り易い例として画を示すなら、しばしば高校世界史で取り上げられるラスコ ーやアルタミラの洞窟壁画にも匹敵する新石器時代の絵が、中国にも残っている。 現在の雲南省各地には多くの岩画が残っているので、様々な野生動物の狩猟によって 暮らしていた当時の人々の生活を窺うことができる。

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雲南省金沙江の景観 寧夏回族自治区賀蘭山の景観 雲南省の岩絵 :狩猟 賀蘭山の岩画 ;狩猟 ところが、西南地区の現在も緑豊かな雲南省ばかりではなく、今日では沙漠の只中に 存在する寧夏回族自治区の賀蘭山にも、見事な岩画が残っているのである。羚羊や鹿が 闊歩する森林や草原があったからこそ生まれえた、これらの岩画は、古代華北の環境が 今日とは全く異なっていたことの鮮やかな例証となる。 もっとも、「こういう例は新石器時代のことだろう。歴史学の対象となる文字資料が残 るようになってからも、そんなに変ったのだろうか」、と疑問を持つ人もあろう。そこで、 次には、文字に残る材料から、環境変化に関する情報の読み取りを試みてみよう。 (2)殷王の狩猟の記録 中国史上、現在最も古い文字資料とし一般に承認されているのは、殷王朝の甲骨文だと いえよう(『史記』により古い王朝として登場する夏王朝に関しては、様々な研究の進展は

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見られるものの、未だその遺跡等について定説が生まれていない)。河南省安陽市小屯のい わゆる殷墟については、高校世界史での知識があるものと思う(なお、この時代について、 日本では、『史記』の表記に拠って「殷代」と呼び、中国ではこの殷墟が当時「大邑商」と 呼ばれていたことなどに基づき「商代」と呼ぶことが多い)。 甲骨文字は殷代の歴史に関する「一次史料」である。殷の王は、最高神「帝」の子孫と 考えられ、様々な事柄について亀の甲羅や牛などの骨に占う内容を刻んで火に炙り、生ず るひび割れの形状によって吉凶を判断したらしい。その占いの内容を記した文字が甲骨文 字である。戦争、穀物生産、祭祀の日程や供物、結婚など、多用な内容が占われており、 現在までの研究では、普通、占われている行動の主体となる王が誰か(貞人と呼ばれ実際 に占いをする人は別に居たらしい)、などによって、5 期に時代区分されている。 占いの文(卜辞という)には、普通、 現在も東アジア各地で用いられている十 干(右図参照。甲・乙・丙・丁・戊・己・ 庚・壬・辛・癸)と十二支とを使って占 った日や占う事柄の起る日が記される。 (なお、殷代の事象と甲骨文一般につい ては、本書では詳説しない。下記、参考 文献等を参照されたい。) 十干を記した甲骨 出所:白川静『甲骨文の世界』 (平凡社、東洋文庫 204、1972 年) その中から、王が狩猟(「田」という文字で示される場合が多い)をすることに関係す る甲骨を取り上げ、精緻な考証をされたのが松丸道雄氏の「殷墟卜辞中の田猟地につい て」という論文である。氏によれば、狩猟に関する卜辞は、第 1 期には比較的少なく、 第4期と5期に激増するとされる。また、その内容を調べると、狩猟を実施する日が、 第1期では不特定であったのに、第2期になると狩猟するのを乙・戊・辛のうちの1, 2日に限る「田猟日規制」が発生する。ところが、第 3 期ではこれに壬の日が加わり、 さらに第5期では乙・丁・戊・辛・壬の5日に狩猟日が増加し、末期には己日や庚日に まで行われるようになった、という。 また、第4期・第5期(松丸氏説では約 100 年 間)の狩猟に関係する卜辞のうち、狩猟した場 所が記されている 1330 を分類すると、狩猟が行 われた場所 96 箇所が判明するが、そのうち 20 回以上の狩猟記録がある場所 14 地点だけで、 1014 を占める。 これらの地名の中には、島邦男氏ら従来の甲骨 学者が山東省や河南省西部など、殷墟から遠い

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表の出所:平勢隆郎『よみがえる文字 と呪術の帝国』(中公新書 1593、2001 年)。 場所だ、と考えてきた地名が含まれている。と ころが、同一の骨片に数日にわたって断続的に 狩猟したことを記すものがあり、その中には、 2 日連続して異なる場所で狩猟することを占っているものがあるので、これら 21 の 地名相互は、1 日で行ける場所だと解る(上表で距離 1 の地名間)。 さらにその他の卜辞の分析から、通常殷王は狩猟地から狩猟地へと移動したのではな く、狩猟地と王宮とを、1 日で往復し、翌日また別の土地に出かけたと推定できる。 結論として、頻繁に狩猟が行われたこれらの土地は、すべて殷墟から半径 20km 程度の 場所(下の図〇の地域)だった、と考えるのが、松丸道雄氏の結論である。 なお、これらの地名の中には、盂方など同時期に殷 王と交戦した記録が残り、明らかに遠隔地に同一名の 場所があったと推定できるものも含まれる。そこで、 松丸氏は、これら王宮近くの狩猟地名は、「殷王がその 支配秩序下の諸族・諸方の名をもって自己の邑の周辺 の田猟地に命名し、その地で田猟をおこなうことを通 じて、それら諸族・諸方の支配の維持存続を計ろうと したような観念の存在が想定しうるかもしれない」と も述べておられる。 田猟卜辞にしばしば見られる「省」という文字で表 現されている行為が、巡視・征伐と密接に関係する 呪術的儀礼であるらしいことを勘案して推論された 卓見だと思われるが、松丸氏ご自身はこの推論を「も とより憶測の域をでるものではなく」と謙遜してお られた。 が、近年になって、この松丸氏の見 解を敷衍・発展させ、これらの田猟地の地名は、王 都の近くに、殷に服属する諸侯・諸族の村があったことを示すもので、殷王がそれらの 村で頻繁に田猟したのは、霊的威圧の儀礼であった、という見解を提起されたのが、平 勢隆郎氏である(下記参考文献参照)。 このような、田猟が当時の政治支配や国家構造論からみて、どのような意味を持つか、 という問題は、歴史学上、重要な課題であるが、本書の扱う範囲をいささか超えるので、 関心のある向きは、平勢氏の著作を読んでもらいたい。 以上、松丸道雄氏及び平勢隆郎氏の著作を紹介したが、これらの学説を環境史の観点か ら読むと、どういうことが考えられるだろうか。 第一に推定しうるのは、今日、見渡す限りの麦畑やトウモロコシ畑が広がる殷墟周辺、 つまり、自然の森林など稀有な場所に、100 年の間、2,3 日おきに狩猟ができ、収獲がある (卜辞には、鹿やイノシシ、水牛に近い動物などが、数十頭から数等捕獲できたという記 録が残る)ような森林が広がっていた、という状況である。 〇で囲んだ部分が、松丸説による田猟のおよ その範囲。図の出所:平勢隆郎『よみが える文字と呪術の帝国』(中公新書1593、 2001 年)。

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殷王朝の経済構造については、古く、農耕社会であったか牧畜社会であったか、といっ た議論も存在した。近年では、豊富な出土遺物や農業関係卜辞の研究の進展によって、農 耕社会説が有力になってはいるのだが、そして、穀物生産が高度に発展していたこと自体 は疑いようもないのだが、実のところ、産業構造に関する、機械的発展段階論の影響も濃 厚な過去の議論については、別の角度から再検討する必要も生じているのである。 (3)狩りの獲物と家畜と 新石器時代以降に関する考古学的な発掘は、定住の址を調査するのが一般的であると いえよう。移動する人々の生活の軌跡は、当然ながら辿りにくい。 殊に中国については、大規模な定住集落が全域に渉って発見されているので、勢い、それ らの研究が進み、また、稲籾など栽培種の発見も相次いでいるから、非常に古くから「農 耕社会」であった、との見方が一般的になっている。学生諸君が参照し易い日本人研究者 の報告書を例にとれば、甲元眞之氏の「長江と黄河--- 中国初期農耕文化の比較研究 ---」 (『国立歴史民俗博物館研究報告』 第40 集 1992 年.3 月)などは、膨大な遺跡調査の 報告を検討した結果、家畜としてのブタの骨が出土することを根拠にその飼育を想定する などの方法によって、現在とほぼ類似する動物相の存在を示唆している。 しかしながら、最近、興味深い分析が発表された。袁靖「論中国新石器時代居民獲取肉 食資源的方法」(『考古学報』1999 年第 1 期)では、新石器時代 54 箇所の遺跡(及び、そ の場所に後世の遺跡も存在する場合には、その時代まで)の様々な定住址について、そこ から出土する動物の骨が、野生動物のものか家畜のものかに類別し、次表のような結果を 見出している。 省 遺跡名 年代(Bp) 文化期(時代)野性(%) 家畜(%) 黒龍江 新開流遺跡 6189−5945 100 内蒙古 富家溝門 5460−5057 100 吉林 左家山 6886−6723 1 期 88 12 2 期 95 5 4871−4653 3 期 85 15 遼寧 馬城子 狗1のみ 郭家村 5600−4430 32 68 河南 ? 池班村 裴李崗 41 59 仰韶 16 84 廟底溝二期 17 83 戦国時代 20 80 陝西 臨潼白家 40 60

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臨潼姜寨 半坡類型 58 42 史家類型 69 31 半坡晩期類型 82 18 客省荘 79 21 扶風案板 39 61 商県紫荊 老官台文化 80 20 半坡類型 75 25 西王村類型 60 40 龍山文化 24 76 甘粛 武山●家門 石嶺下類型 20 80 馬家? 類型 17 83 永靖大何荘 斉家文化 2 98 安徽 ●渓石山子 65 35 蒙城尉遅寺 大? 口文化 43 57 龍山文化 45 55 山東 泰安大? 口 49 51 ? 県魯家口 21.3 78.7 ? 州西呉寺 龍山文化 47 53 周代 40 60 泗水県尹家城 龍山文化 64.8 35.2 岳石文化 39.8 60.2 殷周漢代 39.8 59.4 江蘇 ●陽万北 万北1期 12 88 万北2期 33 67 四川 巫山欧家老屋 83 17 巫山大渓 78 22 巫山魏家梁子 82 18 浙江 河姆渡 ブタの数倍が 野性 江蘇 常州? ? 85 15 蘇州龍南 30 70 上海 青浦崧沢 74 26

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閔行馬橋 良渚文化 38 62 馬橋文化 79.3 20.7 江西 万年仙人洞 基本的に野性 福建 ? 侯県石山 39 61 広西 桂林甑皮岩 77 23 雲南 元謀大? 子 70%前後 袁靖氏自身は、これらの結果から、(自然)依存型・初級開発型・開発型の三類型を想 定し、黄河中上流域が最も早く開発型を発生させた、といった視点を提起しておられるが、 注目したいのは、表中に明らかなように、殷や周の時代、あるいはさらに戦国から漢代に 至っても、高い割合で野生動物の出土する地点が多いことである。 これらの遺跡の多くは、殷墟のような高度に発達した「都市」に近い大集落ではない。 王侯貴族の居住地、というよりは、一般の人々が生活していた場所と考えられよう。「農民」 の生活していた場所で出土する野性動物の骨は、「農民」が栄養補給に野性動物を捕獲して いたことを意味する、と考えるべきであろう。殷王のように、祭祀あるいは政治的意味合 いを持った狩猟ばかりではなく、生きるための狩猟を「農民」が日常的に営んでいた、と 考えざるを得ない。そして、それが可能な森林の広がりも、当然、想定される。定住地に おける家畜の飼育には飼料を必要とするから、これらの遺跡周辺では、何らかの穀物生産 が営まれていたであろうが、彼らは、畑仕事だけで暮らしていたわけではない。いや、む しろ、畑仕事だけでは暮らせなかった、と言うべきかもしれない・・・。海から遠い場所 の多い中国の古代人は、貝塚を残しえた日本列島の古代人とは、異なる環境に置かれてい たのである。また、穀物生産のための労働時間も、のちに成立する「精耕細作」農業とは 異なり、作物の生育期間全部にわたって、除草や中耕などの農作業を行っていたとは思わ れない。穀物を植え付けた後、放置している期間もあっただろう。その間には、狩猟・採 集に精を出していたのではないか。 理屈としては当然のことで、誰でも想定できる時代状況ではある。が、イネ科植物を中 心とする、植物栽培の痕跡が認められる地点での古代人の暮しについて、その日常生活に 占める、穀物生産労働の時間と、それ以外の労働の時間配分に関して、くっきりした像を 描くことは、実のところまだ成功していない。 参考文献 白川静『甲骨文の世界』(平凡社、『東洋文庫』204、1972 年)。甲骨文に関する、纏 まった概説書。本学図書館所蔵。ただし、記述は、やや専門的。 松丸道雄「殷墟卜辞中の田猟地について――殷代国家構造研究のために――」(『東洋 文化研究所紀要』31号、1963 年)。なお、この論文は高度な学術論文であり、掲載誌も本学では架 蔵していない専門学術雑誌であるので(ただし、本学図書館に依頼すれば、コピーは入手できる)、簡単に内容の 概略を知りたい人は、次の平勢隆郎氏の著書に、判り易い紹介があるので、参照されたい。

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平勢隆郎『よみがえる文字と呪術の帝国―古代殷周王朝の素顔―』(中公新書 1593、 2001 年)。なお、田猟地に関する島邦男氏作成の地図(同氏『殷墟卜辞研究』(中国 学研究会、1938 年。再販:汲古書院、1975 年)及び、松丸道雄氏作成の田猟地間の 距離の一覧表(上記論文所収)についても、原書より鮮明なものがこの書に再録され ているので、このHPでは、著者・平勢氏のご承諾を得て、そこから拝借した。 袁靖「論中国新石器時代居民獲取肉食資源的方法」(『考古学報』1999 年第 1 期)。 唐云明「河北商代農業考古概述」(『農業考古』1982 年 1 期)。

第5章 「殷周革命」及び周王朝の政治思想発生の環境史的意義

(1)殷周革命 高校の世界史を履修してきた人は、殷王朝が周によって倒されたことは知っていると思 う。司馬遷が『史記』で描いている殷周交替のスト−リーは、殷王朝最後の王「紂王」が 「酒池肉林」という言葉に象徴される不道徳で「贅沢」な生活や、残酷非道な政治を行っ たから、それに憤った人々が「徳高い」周の文王の息子武王に荷担し、殷が滅びた、とい うものである。しかしながら、そのような原因だけで、大きな社会変動が発生したかどう かは疑問である。古く貝塚茂樹氏は、殷の最後の王「帝辛」すなわち「紂王」が、現在の 山東半島方面に居た敵対勢力と交戦していた折に、優れた武器を持っていた西方の周の勢 力が、その背後をついて軍事的優勢を占めた、という考察(「殷末周初の東方経略に就いて」) を発表されたが、本書では他の側面からも考えてみたい。 『史記』にある「酒池肉林」という言葉は、具体的情景としては、宮殿の中に、酒で満 たした池を作り、周辺に今風に言えばビーフジャーキーのようなものを吊り下げた樹を立 て、その間を裸体にさせた臣下の男女を走らせたもの、といった説明がなされている。ま た、後世に編集された『尚書』という古代の政治白書集とでもいった形式をとる文献でも、 殷王が供える酒の臭いと肉を炙る生臭い臭いとが「天」に達して、「天」がこれを怒り、つ いに「天の命」を革(あらた)めて、周に命を下した(これが後世で使われる「革命」と いう言葉の原義)のだ、といった宣伝文がある。が、獣肉の獲得は殷王の「職務」であっ たらしい狩猟に直結している。酒については、河北省の殷代の遺跡から、野性のものを含 む様々な果物で香り付けされた酒が出土しているが(唐云明「河北商代農業考古概述」)、 世界各地・各時代の宗教的支配において、酒あるいはある種の薬品などが、精神的高揚を 生む宗教的装置として利用されていた例は数多い。 (2)『詩経』? 風「七月」の示唆するもの 周王朝の、前述した宣伝文が示すような政治姿勢は、酒と動物犠牲とを重要な構成要素 とする殷の祭祀体系を、否定したのである。

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それを暗示する史料として、これまた後世に編纂された史料ではあるが、『詩経』とい う書物に残る? 風「七月」という歌を紹介しよう。「? 」とは地名で、現在の陝西省彬県付 近をさすらしい。涇水という河が近くを流れている。周の王族の祖先は、古くこの土地に 住んでいた、という伝説の地である。そこで、この詩も、周の一族が、まだ殷を倒す以前、 彬県付近に暮らしていたころの歌謡だ、という伝承がある。 この詩の大意については、さしあたり、目加田誠氏の日本現代語訳を参照してもらいた いが、原文に付したローマ数字、☆★は、全て私が付けたものである。 『詩経』 ? 風「七月」 〔Ⅰ〕 七月流火 九月授衣 ★一之日? 発 二之日栗烈 無衣無褐 何以終歳 ★三之日于耜 四之日舉趾 同我婦子 ? 彼南畝 ☆田畯至喜 〔Ⅱ〕 七月流火 九月授衣 春日載陽 有鳴倉庚 女執懿筐 遵彼微行 爰求柔桑 春日遲遲 采? 祁祁 女心傷悲 ☆殆及公子同歸 〔Ⅲ〕 七月流火 八月? 葦 蠶月條桑 取彼斧〓 以伐遠揚 猗彼女桑 七月鳴鵙 八月載績 載玄載黄 我朱孔陽 ☆爲公子裳 〔Ⅳ〕 四月秀? 五月鳴蜩 八月其穫 十月隕? ★一之日于貉 取彼狐狸 ☆爲公子裘 ★二之日其同 載纉武功 ☆言私其? 獻? 于公 〔Ⅴ〕 五月斯螽動股 六月莎鶏振羽 七月在野 八月在宇

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九月在戸 十月蟋蟀 入我牀下 穹窒熏鼠 塞向? 戸 ★嗟我婦子 曰爲改歳 入此室處 〔Ⅵ〕 六月食鬱及〓 七月亨葵及菽 八月剥棗 十月穫稲 爲此春酒 以介眉壽 七月食瓜 八月斷壺 九月叔苴 采荼薪樗 ☆食我農夫 〔Ⅶ〕 九月築場圃 十月納禾稼 黍稷重〓 禾麻菽麥 嗟我農夫 我稼既同 ☆上入執宮功績 晝爾于茅 宵爾索綯 亟其乘屋 其始播百穀 〔Ⅷ〕★二之日鑿冰沖沖 ★三之日納于凌陰 ★四之日其蚤獻羔祭韭 九月粛霜 十月滌場 朋酒斯饗 曰殺羔羊 ☆躋彼公堂 稱彼? ? 萬壽無疆 さて、この詩は「農民」の一年間の暮しを数え歌風に歌い込んだ、労働歌的色彩の濃い 歌謡であるが、後世編集されたもののようで、季節の流れを示す暦の呼称に二通りの原理 が並存しているらしい。中国古代の暦については、非常に込み入った専門的議論が展開さ れているので、詳しくは、前回も紹介した平勢隆郎氏の『中華文明の誕生』などを読んで もらいたい。「鑑象受時暦」という名称はいかめしいが、要するに、春分や夏至・冬至、月 の満ち欠けなど、普通の暮しの中で観察すれば規則性が判ってくる現象に基づいて作られ た暦と、もっと専門的に長期の観測と数学とを援用して理論的に組み立てられた暦とがあ り、後者については、後世の様々な政治的思惑によって、何種類もの暦の作り方が発生し たらしい、ということだけ、理解しておいてもらいたい。 私が付した★は、この後世作られた理論的暦が関係するらしい表現を含む句、それ以外 の部分に記されている「七月」とか「九月」とかは、「鑑象受時暦」のようで、およそ、今

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日の日本の旧暦に近いようである。☆は、「公」とか「公子」とか、何らかの社会的関係性 を暗示する言葉を含む句である。この☆部分を削除し、★部分を本来の表現に復元すれば、 1 節10句ずつの、メロデイーに載せて歌いやすい、労働歌が蘇るのではないか、と考え ている。 さて、この詩のⅣ節には、狩猟が歌われている。Ⅹ節には羔(コウ。こひつじの意)とか 「羊」とかの文字が見えるから、羊を飼育していたらしいこの村でも、冬場に狩に行き、 イノシシを取っていたことになる。 次は、この詩の他の部分を考えてみたい。 (3)? 風「七月」の第Ⅵ章 前節に述べたように、この詩には狩猟と牧畜が歌われているが、詩が描き出す村の生活 の基調は、第Ⅰ・Ⅶ章にも明らかな穀物生産であり、第Ⅱ・Ⅲ章に記された桑栽培がもた らす絹織物生産だろう。が、だからといって、この詩の中の植物は、全て食料・衣料の素 材なのだろうか。 第Ⅵ章は、☆を付けた末尾、「食我農夫」が象徴するように、一見、食生活を歌ったよう にも見える。しかし、「十月穫稲」はともかく、他の植物が配当されている月に、その植物 がどのような状態かを検討してみると、いささか奇妙な結果となる。 詩の言葉の月名が、およそ現在の何月頃か、その時、各植物がどんな生育サイクルか、 及び、その植物の一般的「出盛り」は(無論、品種による違いや地域差があるけれども)、 大体何月頃かを、後世発達した農学の成果を網羅している『斉民要術』などを参照して、 纏めてみると、次のようになる。 原文の月名 現在の季節 植物名 状況 出盛り 六月 8月 鬱(ウツ。にわうめ・ゆすら うめの類) 収獲可能期の最末 6∼8月 六月 8月 ? (イク。えびづる) 同上 6∼8月 十月 12月 稲 収穫後(?) 10∼11月 七月 9月 葵(キ。不明な野菜) 温室では冬季も生 育可能 通年 七月 9月 菽(シュク。まめ) 貯蔵用収穫期(?) 3∼10 月 八月 10月 棗(なつめ) 干し棗作りの時期 6∼9 月 七月 9 月 瓜(うり) 収獲可能期の最末 7∼9月 八月 10月 壷(コ。瓢箪。ゆうがお) 食用でなく器材用 の収穫・加工期 7∼9月 九月 11 月 苴(ショ。アサの実or アサ) 食用・繊維用とも収 獲済み 7∼9月 九月 11 月 荼(ト。にがな) 収獲済み(ただし、 霜にあうと甘くな 7∼9月。

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るとの説あり)。 季節感をキーワードとして構成されているこの詩にしては、各植物が、食料としての最盛 期とは、ずれる時期に、配当されている場合が余りに多い。 結論からいえば、このⅥ章の植物は、単純な食料としてのそれではなく、前半は「爲此 春酒 以介眉壽(これ春酒をつくり、もって眉寿をたすけん)」の句が示すように、果実酒 を含む様々な酒作りの材料の収穫期を示していると思われる。また、後半は、末尾の「薪 樗(たきぎとヌルデ=用材にならない雑木)を取ることが、明らかに燃料の採集を示すこ とにも暗示されているように、ウリのツル、液体容器の瓢箪作りでは捨ててしまう瓢箪の 実の中綿、アサガラ(織物材料のアサの芯を除去した後のいわゆるオガラ=後世では灯芯 に使われる)、ニガナを摘み取った後の根っこ、等々を薪と同様に燃料として採集すること を象徴していると考えられる。 つまり、Ⅵ章のテーマは酒と火である。ともに、日常生活、特に冬ごもりの仕度として は、重要な物品である。ただし、末尾に「食我農夫」という句があって、後世の学者の多 くは、Ⅵ章に登場する植物も食料だろうと推定している。 が、思い出してほしい。殷王朝の祭祀に酒はつきものであった。また、赤塚忠氏ら、殷 代の宗教的習俗の専門研究によれば、「火」を祭る儀式が存在したとされている。これを念 頭においてⅥ章を考えると、殷王朝の祭祀体系において、重要な役割を果たしていた火へ の祀りと、祭祀に欠かせない酒作りとが、本来のこの詩には歌われていたことを意味する、 と推定できる。☆を付けた「食我農夫」の句は、そういうこの詩の元来の意義を隠すため に、元来の暦とは異なる体系の暦を歌う句が無理に挿入されたのと同様、後に付け加えら れたものと見なければならない。 なぜか。それは、周王朝の祖先の村の情景とされるこの詩の内容に、周が滅ぼした殷の 時代の宗教儀礼・習俗が影を落とすことを避けるためであった。 参考文献 貝塚茂樹 「「殷末周初の東方経略に就いて」(『貝塚茂樹著作集』第 3 巻、中央公論社、 1981 年)。 尾形勇・ 平勢隆郎 『中華文明の誕生』(中央公論社、1998 年)。 平勢隆郎 『中国古代紀年の研究』(汲古書院、1997 年)。上記の概説書の執筆部分の基に なった専門書。かなり難しいが、暦に関して、正確には、本書を参照されたい。 目加田誠 『詩経・楚辞』平凡社『中国古典文学大系』15.1979 年)。 赤塚忠 『赤塚忠著作集』書誌 ID 10000880/BN00177730 赤塚忠著作集刊行会編. 東京 : 研文社 , 1986-1989。 殷周期の宗教・習俗文化などに関する基本的な考察が集められている。専門的でやや 難しいが、興味のある人は、拾い読みでもいいから、触れてみてほしい、。 原宗子 ? 風「七月」に寄せて(『学習院史学』第 35 号、1997 年)。専門論文なので 読みづらいと思うが、今回の講義の中心部分を考察してある。

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第6章 西周期の環境変化とその背景

(1) 環境変化に対応した祭祀儀礼の改革 周は宗教的権威を持った殷を滅ぼし、新たな秩序を作る必要があった。彼らが先ず主張 したのは「天・天命」という概念であり(甲骨文には「天」という文字がない、という説 が有力である)、殷王の不道徳を宣伝することによって、支配者交替の正当性を主張するこ とに努めた。しかし、一般の人々が長年、生活習慣として継続してきた祭祀に纏わる殷王 朝の記憶を払拭することは、容易ではなかっただろう。無理強いという印象を与えないよ うに、様々な工夫を凝らしつつ、習俗を改めてゆかねばならなかった。自らの祖先が、殷 王朝期の祭祀体系のもとで暮らしていた、などという記録は、好ましくなかったのである。 そこで、まず、自分たちの祖先が、日常生活の労働に励みを与えるために歌っていた歌 謡を取り上げて、殷打倒後の状況に適応するように、詩句を改変したのではなかろうか、 と思われる。(もっとも、このような詩の改作が、いつどのように行われたかについては、 まだ、検討を続ける必要がある。) が、それのみではない。 寒冷化・乾燥化の進行とともに、狩猟・採集や牧畜に比して、穀物を中心とする農耕の 価値は高まった。また、後に述べるように、穀物作を中心とする農耕民の生活は、土地に 縛り付けられる。新たなる支配者・周としては、かつて殷に服属していた人々を支配する ために、自由な移動・行動が必要な狩猟・採集、牧畜を、従来通り被征服者に許すよりは、 できるだけ、農耕に従事させるのが得策だっただろう。 「寒い冬に備えて、さあ、働こう」、という趣旨を内包するこの詩は、格好のプロパガ ンダにもなったわけである、ただし、殷の祭祀体系の痕跡を拭い去りさえすれば・・・。 (2) 周の「封建」と環境変化 さて、この詩の舞台になっている? の地、つまり、現在の陝西省彬県については、周王 朝期の基本的な一次史料である金文(青銅器銘文)の中に、この地にいた裘衛という人物 の一族が、周の王室に対して、毛皮を提供する義務を負っていたことを示すものがある。 西周期のこの付近に、毛皮を採取できる大型獣の生息する森林の存在していたことが、証 拠づけられるのである。狩猟を義務としたこの裘衛の一族は、旧殷の勢力ではなく、もと もと、周王室に近い集団だったのだろう。 また、「七月」Ⅶ章の中に、オクテ(重)とワセ(「紋」「禾+? 」という文字)(目加田 誠氏の訳では、原文の文字と逆)という異なる品種まで含めて、稲が歌われている。稲の 生育には、アルカリ度の低い、澄んだ水が不可欠である。現在の彬県付近を流れる涇水は、 泥の河だが、森林の存在した西周期には、清水だっただろう。でなければ、水稲は生育で きなかったはずである。 そして、「七月」には、稲のほかに、黍(キビ)稷(ウルチアワ)麦など、多様な穀物も

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歌われている。桑畑もあれば、近くにユスラウメやエビヅル、ヤマブドウなどを採集でき る森林もあるようだ。さらに、羊を飼う草地も存在したはずのこの村の情景では、穀物生 産専用の農地が、後世の農地のように、広大な区画に単一品種を栽培する方式のものだっ たとは考えがたい。小面積ずつ、多品種を植え付けていたと思われるのである。おそらく、 華北全体が、類似の状況であったと考えられる。後世の説話などによれば、西周期に諸侯 が貢納を義務付けられた品物の中には、茅(チガヤ)のような、農耕の産物とは言いがた いものも含まれていた可能性があるのだが、これは、穀物生産に余剰部分が少なく、森林 や草原の産物を貢納する人間集団が存在したことを、予想させるものである(実は、こう いう採集経済からの貢納品は、17 世紀ごろまで残存したようである)。 しかしながら、先にも述べたように、そのような環境適合型の暮らし振りを、被征服者 一般がそのまま継続することは、征服者であった周王朝にとって好ましくないものだった らしい。 西周期を探る一次史料として、金文――青銅器に鋳込まれた銘文――の検討は欠かせな いが、多くの論議の材料をなっているものに、「庖コツ(「忽」字の「心」部分に「臼」を 書く文字)鼎」と呼ばれる青銅器がある。この青銅器に鋳込まれていた銘文の釈文(金文の 特殊な文字を、現在の漢字に直すとどうなるかを示したもの)には、多種多様な説があるが、農地の領有 者が変更されると、その農地を耕作していた人間に対する支配権も、農地の新たな領有者 に移動する、と解釈する研究者の多い文章がある。このような耕作者を「奴隷」だ、と考 える論者もある。概念規定はともかくるらしく、その発生原因の一つが、以前、殷に服属 していた人間集団に対する、周王朝の統治に由来したことは、想像に難くない。 殷周交替に際して、黄河や淮河下流域の各地に、「諸侯の封建」ということが行われた。 周の王室の同族や、殷を倒す際に連合した氏族の首長が、「諸侯」として、殷の支配してい た地点で古くから居住区があった場所の統治を任されたのである。様々な文献史料に、「封 建」に際して「殷民六族」とか「殷民七族」とかが諸侯に分属された、といった記録(説 話)が残る。のち、周が都を鎬京から洛陽に移した、とされる頃(高校世界史などで「周 の東遷」とされる事象。その実態に関しては議論がある。詳しくは、さしあたり、前回紹 介した、平勢隆郎氏の著書を参照のこと)、周王室の一族である鄭が、やはり新しい国を建 設して移住するにあたって、従来、鄭に服属していた殷の遺民、すなわち「商」の人が、 鄭の都城建設への協力の見返りに、以後、流通業を営むことを許された、という説話が、 『春秋左氏伝』という書物に見える(これが、「商人」という語の起こりだ、とする説もあ る)。この説話の真偽は、俄かには断定しがたいが、説話の背景に、「東遷」以前の「商人」 は、自由な活動が困難だった、という認識が存在するようにも思われる。 被征服者を安定的に統治する手段として、農耕の産物の貢納が義務づけられた場合、当 然ながら支配される人々の側にも、より多量の穀物を生産し、少しでも自分たちが利用し うる部分を増やそうという志向を、発生させたであろう。 (3)青銅器製造の影響 人口の増大とともに、耕地面積は拡大する。多くは草原を開墾していったであろうが、 一部の森林は、耕地化された可能性もある。が、それ以上に、今日にまで残る夥しい青銅

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