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(4)渭水盆地と黄土高原

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秦が新出した渭水盆地は、水が豊富で平地が続く。西周以来の農民も、多く居住してい たはずである。が、商鞅の変法の段階で、盆地全域が農耕民の居住地であったとは限らな い。盆地内に居た、「大茘の戎」、「翼戎」など、秦が統治せねばならなかった人々の多くが、

「戎」と呼ばれている。

さらに、秦は渭水盆地の北側に続く今日の黄土高原をも掌中に収めてゆく。が、黄土高 原の白水(高度差の激しい丘陵地帯)には、秦と商鞅の死後も長く交戦を続けた義渠と呼 ばれる人々が生活していた。商鞅の時代をはるかに下った漢の武帝期になっても、義渠の 出身者は「胡エビス」と呼ばれている。

黄土高原の地形と土壌は複雑である。ほんの数メートルの小川を隔てて、赤い粘土の丘 の隣に、頂きまでスレート瓦を積み上げたかのような頁岩の堆積の丘があったりする。無 論、全体が、名前の由来となった通り黄土(黄綿土)の堆積でできている丘もある。手が 届きそうなすぐ隣の丘との間に、数百メートルの侵食谷が抉られている光景はザラである。

また、現在、黄土高原を流れる河には、涇水のような泥の河もあれば、清潤河のような、

木曽川や長良川並の岩と砂礫の川底を清水が流れる河もある。

最近の研究によると、静岡大学の林愛明助教授は、現在の黄河の流路が、1000万〜500 万年前に形成され、約500万年前から今の姿になった証拠を発見されたという。元来、現 在の渭水の場所を流れていた黄河は、インドのプレート(岩板)が中国側のユーラシアプ レートに衝突する圧力によって、オルドスブロック」と呼ばれる巨大な長方形の岩板(南 北500キロ、東西400キロ)に沿って曲げられ、現在のコの字型ができたたのだそう だ。林助教授が、黄河がコの字に流れる西から北の左岸側と、南の右岸側の3000万〜

1000万年前の地層を調べたところ、南側だけに砂れきなど河川があったとみられる堆 積(たいせき)物が確認されたとのことである。

黄土高原は、この黄河のコの字型に押し付けられた部分にすっぽり包まれている。こう いう地形の原型ができた後に、同じヒマラヤ造山運動が原因で始まった青蔵高原からの黄 綿土の飛来は、この地に積もり始めたのである。上記の複雑な地形は、元来、縦に並んで いた地層が押されて横向きに並んだり、地下深くの岩盤が圧力に抗して残ったため地表部 がよじれたり、ギュッと押し付けられて盛り上がったりした結果なわけだ。清水の河が流 れ出ている岩と砂礫の川床は、太古の黄河の河岸の堆積地が、表層になった所かもしれな

い。一般に第3紀の古土壌が高温・高圧を受けて変質したものが赤い粘土層となるが、こ ういう地層は無論、透水性が低い。粘土層が押されてできた丘の上に黄綿土が堆積しても、

表層と下層の透水性が異なる(不整合)から、大量の降雨があると、水とともに表土が流 失しやすい。岩体の丘の傍らの低地に黄綿土が積もると、降雨時に丘上から流れてくる水 で、平地の黄綿土堆積は抉られてゆく。

こういう条件の場所に育っていた草原や森林が「七月」の村の周辺だったわけだ。秦は、

この黄土高原に生活する人々にも、農耕を奨励したのである。『商君書』には、開墾を奨励 する文章が無数にある。普及し始めた鉄器の斧で、鉄器生産の燃料にもなる周辺の森林の 切り出しが行われただろうし、「草を墾し尽くせ」は、『商君書』のほとんどの篇に見える 常套句である。が、牧畜が皆無になった訳ではない。始皇帝の時代になっても、烏氏? と いう大牧畜業者がお気に入りとして宮廷に出入りしていた。「末業」でも貧しくなければ、

即ち、国の徴収に協力できればよかったのだから。現在でも牧畜従事者の多い黄土高原で は、当然牧畜を継続する人々があったはずである。

穀物畑、それも夏作物のアワ・キビの栽培地は、秋に刈入れる。刈り入れの方法は時代 によって変化しているが、仮に根刈りが行われているとすると冬にはそこが裸地同然にな る。自然の草原には、越冬する草も、地表部は枯れても根が残る草も混在している。が、

穀物生産地とは、人為的に、植生を単一化した場所なので、冬の地面は無防備になる。ま た、農耕地周辺で牧畜が行われていると、しばしば刈り跡への家畜の放牧が行われるが、

この場合、特に羊を放牧すると地面を掘り返して植物根を食べる(これは草原の場合も同 様)。渭水盆地のような平地ならまだよい。黄綿土も、さらに毎年積もるし、土粒の移動は 当然少ない。が、傾斜地にこういうことが起きると、地表の土粒は簡単に飛散してゆく。

家畜の足で土粒が蹴飛ばされて流失する放牧圧の問題も起こる。森林を開墾して穀物生産 地に転換すれば、狭域気象の乾燥化が進行するし、樹木が風を防いでくれることも、飛散 したり崩落したりした表土を、低地の森林の根が止めてくれることも無くなってゆく。草 原や森林であった頃の土壌内の有機質が、毎年の穀物生産によって次第に失われてゆくと、

団粒構造を保てない表土の乾燥化と飛散は、加速される。西から吹いてくる風は、天水に 雨を降らせた後の乾いた風であった。

黄土高原に堆積した黄綿土は、かくて、流失を始めたのである。流失する表土には、牧 畜の副産物として地表に落ちた家畜の排泄物も含まれ、肥料分に富んでいたはずであるの に・・・。

つまり、傾斜地ばかり、それも部分的に表層と下層の不整合が見られる黄土高原で、牧 畜も継続しつつ、森林を伐採して穀物生産することが奨励された結果、次第に複合的な環 境の激変が起こったのである。

秦はなぜ、こんな政策を続けたのだろう。

天水市で訪問した小隴山林業実験局・王建英局長のお話によれば、解放以前、放馬灘一 帯は、毎年五月五日に山焼きをし、馬の放牧に利用していた。放馬灘という地名も無論こ れに由来するが、その後荒山となっていたという。が、1963年以降、封山育林を開始し、

現在では、石門にまで続く放馬灘森林公園(総面積1250畝、生育樹種約2500種・野生動 物約100種)の一角として保護されている。写真を掲げた一号墓からの木牘の発掘は、1986 年、現在も建っている護林站建設に際しての産物だったのだそうだ。

すなわち、天水という場所は、全く自然のままに放置すれば、林地が回復するだけの気 象・土壌・地形条件にあるため、解放前、なだらかな場所では、むしろ樹木の生育を防止 し牧畜に適した草類の繁育を助けるべく、山焼きが実施されていた、と考えねばならない。

この地域に見合う主産業は、自然環境条件的には牧畜業よりも林業ないし狩猟なのであろ う。この点は、現在の森林保護事業にあたって、従来、樹木伐採を生業としていた人々を 森林保護要員として確保するという方法を採っているので、当区の林業大隊は1200余名 をも擁するという状況からも、推定できる。

これが、秦の故地であった。毎年山焼きした後にすぐ芽生える草で放牧しても、翌年に は草や潅木の生える土地であった。ここを根拠地として生活習慣を形成してきた人々は、

黄土高原についても、同様の働きかけをしたのではあるまいか。人口増や鉄器の普及とと もに、開発のスピードが上がると、黄土高原の自然環境は、天水では何の問題も無かった 生産様式・開発方法に、耐えられなくなったのである。

それでも、穀物は生産された。兵糧を蓄えた秦は、戦国の雄となり、次々に領域を拡大 していったのである。

(5)  斉の路線と秦の路線   

さて、以上戦国期の開発について、東方の斉、西方の秦を比べて、簡単に纏めてみる  と、次表のように整理できるだろう。 

 

  表;華北の開発と環境変化の地域差          

     斉(山東)   秦(甘粛・陝西)

現在の主要土壌 微酸性 微アルカリ性

現在の主要な植生 と樹種

針葉樹・落葉広葉樹・照葉樹混 交林

針葉樹・落葉広葉樹もしく は潅木・草原、裸地

水面 海洋が取り巻く 陸水のみ

『戦国策』『史記』

以外の主な関連史 料

『孟子』『管子』『銀雀山漢墓竹 簡』

『商君書』『呂氏春秋』

春秋時代の変化 尊皇攘夷の中心(覇者)=桓公

(牧畜民・狩猟民との抗争)

渭水盆地への進出⇒周から の「封建」、繆公の中原政治 への介入(中原の生活様式 の導入)

戦国時代の変化 田氏による簒奪、稷下の学=諸 子百家の優遇策、多様な産業の 保護育成、流通の国家管理

商鞅の変法=中原型国家

(単婚小家族を基盤とする 税体系に基づく)への改造、

非農耕民への対応 羊牧畜の排除 農耕への特化の奨励、非農 耕産業の国営化を企図

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