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(3)白渠の技術とその限界――再生アルカリ化の発生

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漢の初めは、斉の社会政策方針に類似する「黄老之学」と呼ばれる政治思想が主流にな っていたようで、匈奴に朝貢する必要もあり、戦乱後の社会の安定を重視して民生を回復 させる必要もあったから、灌漑水路の建設などに設備投資しているゆとりはなかったらし い。政策的・思想的に斉型の自由放任・適地適作主義で経済が回復・発展を遂げたようで ある。 

ところが、武帝期になると状況は一変した。対匈奴戦の軍需発生と共に大量の穀物需要 が生し、増産要求が生まれる。が、同時に、水路建設の技術も進展し、高地に水を導くこ とが可能になった。これを応用して、機能の衰えていた鄭国渠周辺の灌漑耕地を補完すべ く建設されたのが、白渠である。 

  『漢書』には、白渠が建設されたことを喜んで、民衆が次のような歌を歌った、という 記録がある。

ハタケつくるなら何処にしよう?  

池陽か、それとも谷口がよいか。

田於何所、

池陽・谷口。

前にあったは鄭国渠

後には白渠もできたとナ。      

シャベル振上げるは雲出たよなモノで、        

堤崩すが雨降るよなモノよ。       

涇水一石、       

その泥数斗、

お湿りになり、肥えになり、       

オラがアワ・キビ大きく育て、       

都のおひとの億万の、      

腹を満たしてベベ着せる。

鄭国在前、

白渠起後。

挙摘爲雲、

決渠爲雨。

涇水一石、

其泥数斗、

且漑且糞、

長我禾黍、

衣食京師、

億万之口。

        

       

この歌から判ることは、白渠の灌漑が、涇水の泥を耕地に引き込む形態のものであったこ と、その泥には肥料の機能があったこと、植えられたのはアワ・キビ、つまり畑作物だっ たこと、などである。

  こういう方式は、エジプト・ナイル川の氾濫利用にも原理的には似ているが、現代中国 では、「引洪漫地」と呼ばれている。あらかじめ堤防を築いて区画した大面積の耕地に泥水 をそのまま満たし、泥を沈殿させた後、余分な水分を、排水するのである。一面に水を湛 えてのち、排水するこの方式は「溢水灌漑」の一種で、耕地の中にウネと溝を設けて、溝 部分にのみ水を流す「隴溝灌漑」方式と対置される。次回に述べる「代田法」の記述で「縵 田」と記されている従来型の耕地とは、どうもこの「引洪漫地」に類似する「漫田」とい う語のことであるらしい。

涇水の泥の栄養分とは、結局、黄土高原から流失した表土の養分なのであり、涇水上流 域での牧畜による家畜の糞をも含むわけである。そしてこの方式ではドロドロの場所に播 種するので、バラマキになる。こういう灌漑は、短期的には高収穫を上げることができる。

しかしながら、一定の期間、灌漑を続けると、現代の精密な土木工学の技術にでもよらな い限り、水分の過剰供給によって、再生アルカリ土壌が生成されてしまうのである。灌漑 水とは、自然排水可能な量を超えて供給される臨時の水であり、この種の失敗は、50年代 の中国や、70年代のイラン、東南アジア・南アジアのいわゆる「緑の革命」でも起こって いる。

      植え付けた作物がキビとアワであること、つまり、畑作を行ったことが、その原因と なる。畑作では、地下水と地表の空気が接触することになり、空気が乾燥していると、黄

(綿)土の細かい粒子間にできる毛細管を伝わって、地下水が地表に上昇する。灌漑水に よってその地域の水分供給が過剰になり、地下水位の上昇が起こると、灌漑水によってい ったん流された塩分が、重炭酸ナトリウムなどのより複雑な塩類となって地表に集積し、

再生アルカリ土壌を発生させるのである。下流域のアルカリ土壌化も当然発生しやすくな り、渭水と黄河の合流点には、漢代には塩池ができ、製塩が行われたことが、近年の研究 で報告されている。これを防ぐには、灌漑水の排水溝を、その場所の地下水位よりも低い 位置に設け、地下水位の上昇が起こらないように、設計する必要がある。

  このような高度な技術は、今日においても、容易には実現しないので、前述したような

灌漑の失敗例が相次いだのである。

  つまり、大規模な資本投下(無論、漢代においては、民衆の労役、という形が取られ た訳だが)が行われ、一時的に穀物増産が実現したとしても、それを長期に維持する、と いうことは、前近代の技術水準においては、極めて困難だったのである。

  『史記』や『漢書』に、大規模な水路建設の記録は確かに残っている。しかしながら、

それはあくまで、当時の国政にとっての重要な政策が取られた、という記録でしかない。

  農地灌漑が実際に、古代中国の全域で、長期的意義を持ちえたとは限らないのであり、

地形、土壌、水質、灌漑形態、作付け品種等によって、有効性に差異があったのである。

  無論、中国前近代での農地灌漑全てが失敗した訳ではない。野菜づくりなどは、小規模 に区画した耕地で、数区画ごとに井戸を設けて給水する方法が、後世の『斉民要術』等に も述べられているし、各地の水稲作には、当然灌漑施設が必要だった。が、華北で畑作灌 漑を長期安定的に成功させるには、地形・地勢・土壌・地下水位・地下水文・水質・狭域 気象等々、総じて、環境要素との適応性のある設計が不可欠だった、ということである。

  今日残されている膨大な歴史記述の中から、どれが、環境に適合した事象だったか、長 期的に社会的影響をもたらした事柄だったか、を読み取ってゆく作業は、まだ始まったば かり、といえるのである。

  

参考文献

原宗子 「陝北黄土高原の環境と農耕・牧畜」(『黄土高原とオルドス』(勉誠 社)、1997年11月)

「環境史の方法・試論」(『東洋文化研究』第5号、2003年)

史念海編  『アジア遊学』20「特集―黄土高原の自然環境と漢唐長安城」

(勉誠出版、2000年)

浜川  栄 「? 水渠の建設者をめぐる二節について」(『史潮』新51号、2002年)

  なお、この論文で浜川氏は、私(原宗子)の旧稿に言及し評価して下 さっていて大変ありがたい。が、そのうち、「漑」字の解釈については、

私の旧稿の表現が拙かったせいか、拙稿の趣旨についての誤解を招いた ようである。

  そこで、若干の補足説明をしておきたい。灌漑の「漑」と言う文字に は、「概」(概説、大概などと用いるが、元来は「とかき」という、枡で 物品を計る際に山盛り部分を平にならす木の道具)の原義と同様、「一 様に」「おしなべて」といった字義が含まれており、「蓋」字にも通ずる ことだが、広く蔽う意味がある(藤堂明保『漢字語源辞典』(学燈社、

1965年)などに詳しい)という。また、白川静氏は「漑漱(うがい)」 が原義だろう、ともされる(『説文新義』)。口いっぱいに含んでは吐き 出すイメージである。

そこで、「漑」字で表現される灌漑形態は、水稲田のような湛水田か、

本講で述べたような「引洪漫地」方式ではないか、と考えたのであり、

『斉民要術』の用例はその補足にすぎない。文字発生に付随する問題で あって、農業用語の用例が「限定的」であるか否かという次元の話では ない、と考えている。

      

第 11 章  農本主義の成立と技術       

1)「代田法」という乾地農法     

  前章で述べた漢・武帝期の大規模水路の建設は、対匈奴積極策に対応して進行していっ たといえる。 

『漢書』食貨志(ショッカシ  漢代経済政策の記録)には、この対匈奴戦に関して、武帝 が晩年、方針を転換した、と記している。そして、その記述に引き続いて書かれているの が、一般に「代田法」と呼ばれている農法――農耕のやり方――である。この農法は、「捜 粟都尉」という役人だった趙過という人物が考案した方法だ、との記録もある。 

できる限り簡単に説明すると、地面に、深さ 1 尺・はば1尺の溝を掘り、溝の中に種を 播く。これだけなら、実は、第9章でも紹介した『呂氏春秋』という書物にも記録がある。

が、「代田法」の場合は、ウネと溝の位置を毎年入れ替える点に特徴がある。そこで、「田 の場所が代わるやり方」=「代田法」、と名がついたのだという。 

そして、「代田法」では、この作業を、牛に牽かせた大きな犂でやった、という点が注 目されてきた。その作業形態については、「? 犂二牛三人」と記載されている。「? 犂」の

「? 」は、第7章で説明した「? 耕」の「? 」であり、二つ並べる意味である。犂二つと 牛2頭、人間3人が、どう作業したかについては、色々議論があるが、使われた犂につい ては、陝西省の各地から出土した大型の犂やひし形の犂? (リヘキ。スキベラ:掘り起こした 土を除けるための発土板)、さらには小型で先端に穴の空いた? 犂(ロウリ)などであっただろ う、ということが、ほぼ定説になりつつある。大型で犂? がついた犂は、「? 犂」とか「耕 犂」と呼ばれ、深く耕すことができるので、浅い播き溝程度しか掘れない「作条犂」より も進歩した道具だと考えられている。出土した犂? (スキベラ)は、私見では、土を両側 に返す機能を果たしたと考えている。これによって、牛の牽引力を利用しつつ、ウネと溝 を作ることができるようになり、また、掘った土を固まらせない、という意味では、? 作 業の役割をも一定程度果たしたことになる。そのうえ「代田法」では、犂が二つ並んだ、

というのであるから、二つめの犂は、出土した? 犂(ロウリ)であって、これで種を播きなが ら、さらなる? 作業、種を播いてその後の地面をならし鎮圧する機能も加わったと考えら れる。(なお、魏晋南北朝期になると、労、耙など土壌攪擾作業を専門的な機能とする耕具が出現し、

また、土を片側に返すことができる楕円形の犂? に進歩したので、耕地の全面耕起が可能になった、と されている。)

(2)「代田法」採用の背景と意義

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