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「擬明月何皎皎」詩に見る擬作の「演繹」性

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Academic year: 2021

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(1)兵庫教育大学研究紀要第23巻2003年3月pp.19-25. ﹁擬明月何峻吸﹂詩に見る擬作の﹁演樺﹂性. 鈴木敏雄*. 擬作詩は、原詩の型を借りて擬作者個人の事情を詠み込んでいるとする説があるl方で'原詩の裏にあるものを演揮しているとする考え方も存在するO前者であれば'. 原詩と擬作とを比較した場合に見られる差異は'擬作者個人の事情に帰することになるが'後者であれば'原詩の裏に埋伏するものが顕在化していると看倣せることにな. 明月何岐岐. (原詩). 憂愁麻ぬる能はず. 我が羅床の幅を照らす. 明月何ぞ岐々たる. 3. に対する感情をふくまぬように見えるOしかしながらこの詩に於いても'起句の. 照我羅床悼. 衣を摺りて起ちて排掴す. S. 明月は'単にその時点に於ける岐唆さばかりで、ながめられていないであろう。. 憂愁不能輝. 客行楽しと云ふと錐も. 蝣. とが原詩および擬作に関して言い得るか'その物語るものについて述べてみた 10. り'原詩の本質がどのようなものであるかを改めて探究できる可能性が出てくる。 本稿では'﹁古詩十九首﹂其十九﹁明月何頃岐﹂詩の擬作群を例に取り、後者である場合 を仮定して'擬作がどこまで原詩の本質に迫っているかの探究を試みた。 キーワード︰擬作へ擬古、古詩十九首'擬明月何較頃 Keywords:imitate,verse,deduction. 吉川幸次郎﹃推移の悲哀﹄は'﹁古詩十九首﹂其十九﹁明月何岐唆﹂詩につい. --かくも岐岐たる明月が出現するまでの時間への意識が'裏にあるとするのが'. 携衣起排掴. なる。ここに'擬作が原詩の本質をあらわにし得る﹁演揮﹂性を備えていること. 擬作に擬作者個人の事情が仮託されているとすればへこの傍証は成立しにくく. 法でへその傍証を行っている。. の擬作を引きへそれらが原詩の本質を﹁演縛﹂していることを指摘するという手. 涙下泊裳衣. 引領還入房. 愁思嘗告誰. 出戸猫紡径. 不知早旋締. 涙下りて裳衣を油らす. 領を引きて還た房に入れば. 愁思当に誰にか告ぐべき. 戸を出でて独り紡復すれば. 早く旋帰するに如かず. ﹁明月何頃岐﹂詩. むしろ自然である﹂と言い'﹁十九首﹂其十九の裏に'あらわには言わぬ所の﹁推. 客行難云饗. てへ﹁この詩へ時間に関する語を'表面的にはいわない。したがって時間の推移. ことを指摘している。そして興味深いことに'以下に述べるとおり'陸機と劉鍵. 移の悲哀﹂が'内在するもの(以下へ仮りにこれを本質と呼ぶ)として含まれる. が明らかにされているものと考える(註-)0 事情が仮託されるとする見方がある一方でへこの﹃推移の悲哀﹄にあるように'. 唐の車贋物、宋の洪造、滴の王闇運のものがあるが、まずへ擬作が成立し得る本. この詩を原詩とする擬作には'管見のおよぶ限りでは'陸機と劉錐のほかに'. l体へ擬作がなぜ行われるかは議論の分かれるところであるが'擬作者個人の 原詩の裏にあるものを清掃するとする見方も存在する。それは、擬作の存在意義. 質的な条件としては、どのようなことがらが考えられるかを見ておきたい。. 藻。只是平常口頭へ却字字句句へ用待合柏。便爾音節響亮へ意味深遠へ令人千讃. この原詩に関Lt呉浜は﹁古詩十九首定論﹂(註2)で﹁無甚意思、無甚異. を考察する上で看過できないことであると思われる。そこで以下には'擬作の備. 不厭﹂(甚だしくは意思無くへ甚だしくは異藻無し。只だ走れ平常の口頭のみな. えるこの﹁演縛﹂性についてへ﹁十九首﹂其十九﹁明月何岐吸﹂詩を原詩とする 擬作群を例に取りへ﹃推移の悲哀﹄が指摘した推移を言う時間に関する語以外の. 平成十四年十月二十一日受理. 部分についても擬作の演揮性に基づく原詩の捕捉を試み'その結果どのようなこ. *兵庫教育大学第二部(言語系教育講座). 19.

(2) 鈴 木 敏 雄 るも、却って字々旬々'用つて柏を合はするを得たりO便ち爾く音節響亮とし て'意味深遠へ人をして千たび読みて厭かざらしむ)と言う.この詩は何ら日常. ぼへ只だ足れ林を槌ち枕を鴇つのみ。那ぞ戸を出で房に入る許多の態を得んや). 限の排個へ憂愁を主とすと難も'実は走れ明月の逼り来たるなり。若し明月無く. 憂愁へ實是明月逼未。若無明月へ只是槌林檎枕而己。那得出戸人房許多態﹂(無. そしてへそのえも言われぬ含蓄の由来として'呉瀕はさらに﹁無限排綱へ錐主. 蜘蹄感節物. 寒蝉鳴高柳. 涼風縄曲房. 摺之不盈手. 照之有線嘩. 明月入我牌. 安寝北堂上. 瀦宙は会いは成る無し. 我が行は永く己に久し. 蜘蹄して節物に感ず. 寒蝉は高柳に鳴く. 涼風は曲房を積り. 之れを携れば手に盈たず. 之れを照らして僚嘩有れど. 明月我が膚に入る. 北堂の上に安寝すれば. 陸機﹁擬明月何頃頃﹂詩. と続ける(註3)。ここに、この原詩に関Lt詠歌主体が﹁明月﹂に照らし出さ. 我行永己久. 離思は常には守り難し. ・. ". まど. れて排御する場面こそが深遠なる意味を醸し出すという本質の根本が'明らかに. 瀬官舎無成. と異ならない動作の中にえも言われぬ含蓄があるのをへ最大の本質とする。. 指摘されている。. 離思難常守. *. いま'擬作が原詩に迫るためには'このような点を本質として如何に演縛する. 蝣. か'具体的に擬作する際に、憂愁に苛まれる詩中の人物がへただ涙して寝入ると いうのではなくへ月明に逼られる中で如何に深遠なる憂愁を醸すかにへ擬作の成. 洗の部屋であるとすれば、開扉と言うのと同様であるから'陸機はこの擬作を婦. ﹁北堂﹂が単に北側の部屋を指すのでなくへ﹃儀穏﹄(註9)に基づく婦人盟. またへ劉層が﹁古詩十九首旨意﹂(註4)で﹁者註李周翰以此鳥婦人之詩'謂. (たび)﹂と解せざるを得ない等の点が生じへ些か唆味性を帯びへむしろ原詩に. 人の立場で作っていることになろう。その場合は'﹁我が行﹂を﹁我がひとの行. 否が掛かってくるものと思われる。 ﹃其夫等行不蹄へ憂愁而望思之也﹄。曾原以鵠﹃濁醒之人へ件世無情へ撫時興悲. いると見れば、男性が北地の旅宿の北側の部屋で仕官の難しさゆえに憂愁に苛ま. ただし'このl篇に陸機が晋都洛陽に上ったときの個人的な事情が仮託されて. 忠実に演揮しているとも言えることになる。. 之作﹄.今詳味其節気へ大概類婦人、嘗以前説烏是﹂(旧注は李周翰此れを以っ て婦人の詩と為し'﹁其の夫客行して帰らず'憂ひ愁ひて之れを望み思ふなり﹂. れる情景を詠んでいると解することも出来る(註lo)0. と謂ふ。曽原(註5)以為へらく﹁独り醒むるの人へ世に件らひて債無くへ時を に類Lt当に前説を以って是と為すべし)と言うように'原詩は婦人(女性)の. るのに対し'﹁都て走れ古人を刻重して'泊油として似るを求め'所謂る桓温の. に開Ltそれ以外の擬作六首が﹁己に模擬して像らざる様を得たるを覚ゆ﹂であ. 賀揚雇人註1 1)はこの詩を含めた陸機の﹁擬渉江采芙蓉﹂以下l連の擬作八首. 撫して悲しみを興こすの作なり﹂と。今詳らかに其の辞気を味わへば、大概婦人 立場で詠まれたものか'それとも客行(商胃・仕官)している夫(男性)の立場 この点に関しては'惰樹森編﹁古詩十九首集搾﹂(註6)に載せる各解釈は、. で詠まれたものか'詠歌主体の唆味性の問題もその本質と関係している。. 基本的には原詩句を二句一連ごとに対応させて言い換えていくものであるところ. い'陸機が似せようと努めていることを指摘しているが'この種の擬件の形体は. を'陸機は前半四句と後半六句とでその大略を対応させているのみで'旬ごとの. 劉現に似せへ其の似ざる所無きにして、乃ち其の恨まざる所無き者なり﹂と言. は﹁古詩十九首賞析﹂(註8)で女性であるとして﹁此亦思婦之詩。首四即夜景. 対応を厳密にしていない。﹁恨み﹂の表出のためにそのように表現が凝ってきて. たとえば方東樹は﹁論古詩十九首﹂(註7)で男性であるとして﹁客子思蹄之. 引起空閏之愁'中二申己之望締也﹂(此れも亦た思婦の詩なり。首の四は即ち夜. 作へ語意明白﹂(客子帰るを思ふの作なりへ語意明白なり)と言い'また張玉穀. 景空間の愁ひを引き起こすなりへ中の二は己が帰るを望むを申ぶるなり)と言う. いることも見落とせない。. る者を苛むだけであり'恩恵を施さないものとして清輝されているように見える。. ず﹂と詠むように'原詩の本質という点では'月明は逼まり来て憂愁の極みにあ. 前半は頃々たる月明に照らし出される場面を描きながら'その光は﹁手に盈た. などへまちまちである。この男性か女性か'詠歌主体の問題をどのように演揮す るかも'擬作が原詩の本質を捕捉できるか否かと関係してくるものと思われる。 以下、各擬作がこれらの点をどのように捉えているかを中心に見てゆきたい。. 後半は原詩の﹁客行難云梁へ不知早旋掃﹂の二旬を最もよく演挿している。何. 20.

(3) 既述したように'吉川幸次郎﹃推移の悲哀﹄ではこの陸機の擬作のみ全文を訓. 初二句を承ける初めの四句から既に活脱は見られへそれに続く原詩と同句数で承. 川無梁へ山高路難越﹂にその活脱の最たるものは見られると思われるが'原詩の. 主として原詩の結二旬﹁引領達人房へ涙下泊裳衣﹂を演挿した結二句の﹁河贋. い﹁活脱﹂の表現に関して言うものであろう。. 読して引用Ltさらに﹁節物に感ず、我が行は永く己に久し﹂の部分に傍点を付. ける四句へ原詩の結四旬をまとめて承ける結二旬という展開に於いて、旬ごとの・. を活脱し出藍の誉れと言っても嘘はないとするのは'その単純な類似を思わせな. けへ﹁原詩の裏にあった推移の悲表を'あらわな言葉として演揮する﹂と言うO. 対応関係が錯綜するように出来ている点も'活脱が見られる。. 故そのように﹁早く--﹂と言うのかの理由も'﹁涼風﹂﹁寒蝉﹂という﹁節. 擬作が決して原詩の言わんとする所と異なる志向をするものでなくへあくまでも. 物﹂の推移によってあらわに演挿し得ている。. 真似ようとするものへ原詩の本質を捉えへ障れているものならば掘り起こそうと. まで眠られないままに秋月に照らし出される光景をより露わにする。詠歌主体は. 目頭では'﹁落宿﹂﹁浮雲﹂の様を詠み加えることによりへ婦人が夜明け近く. 捉えられたものは秋冬の交の景物であり'原詩では表面化しないものであるが'. 宮殿中に在る婦人であると思われるO原詩のように庭に出て紡復せずともへ同様. する性質を持つものであることを指摘したものと思われる。月明に逼られる中で それらは﹁我がひとの行(たび)﹂の永-久しいことに由来する憂愁をよりあら. Lt原詩の裏にあった推移の悲哀をあらわな言葉として演揮するとする部分であ. 二句﹁誰馬客行久へ屡見流芳歓﹂は'吉川幸次郎﹃推移の悲哀﹄が訓読して引用. 中二旬づつの四旬のうち'原詩の﹁客行難云柴へ不如早旋掃﹂を承ける擬作の. に婦人の憂愁は収めがたいものであることは清輝できている。. 吉川幸次郎﹃推移の悲哀﹄に見られる擬作の﹁清輝﹂性を用いた考証の手法. ﹁推移の悲哀﹂を極力演挿したものと言えよう。. わに表出し得ていると見ることが出来る。そうであるならば'原詩の本質である. は'後述するように王闇運がすでに実践的に利用しているものであり'原詩およ. とされる演樺の仕方は'﹁早き旋帰﹂を促すことと類義であると看倣されよう。. る。﹁流芳飲む﹂すなわちへ秋の月明に遥まられた季節の景物が沈憂を誘引する. それは'次の劉礫の場合に於いても見られる。. び擬作を理解する一つの有効な観点と言えるのではないか。. 玉字来清風. 浮雲語層閑. 落宿半遥城. 思ひを結びて伊の人を想ひ. 羅帳秋月を延く(註13). 玉宇清風を来たし. 浮雲層関に請たり. 落宿遥城に半ばし(註12). ない原因を詠むことで愁思を演挿している。. 難く沈憂を訴えられないと詠む。すなわち対話できない光景ではなくへ対話でき. げるべき者が誰もいないとして涙する。それを擬作では'川に梁無く山路は越え. の﹁愁思嘗告誰﹂の演揮ではないかということが見えてくる。原詩は'愁思を告. るかに思えるが'擬作である以上へまずは類義を疑ってみるべきであろうo原詩. 結二旬は'原詩が結尾の四旬で詠むところの'婦人がいったん外に出へ再び部 屋に入って涙する光景を'男女を隔てる山河で演挿している。原詩とは随分異な. 羅帳延秋月. 劉錬﹁擬明月何岐唆﹂詩. 結思想伊人. 沈憂して明発を懐ふ. ているか否かの観点を伴う。したがって、その手法上へ原詩旬の﹁演揮﹂に重点. とする。とりわけ王闇運は原詩を枚乗作と看徹しているためにへ枚乗を捕捉でき. 壬闇運自身の個人的な事情は決して詠み込まず'陸機以上に原詩の本質に迫ろう. 王闇運の擬作目的の一つは'陸機の擬作の成否を問題にする点にあるためにへ. 王闇運の擬作を見ておきたい。. 次に'擬作手法としての﹁清輝﹂性および既述した陸機との関連で'先に酒の. ≡. える。. このような﹁清輝﹂性こそへ擬作を擬作たらしめている主要な要素であると考. 沈憂懐明津. 屡しぼ流芳の飲むを見る 河広くして川に梁無く. 誰か客行の久しきを為す(註14). 山高くして路は越え難し. 誰鵠客行久 河虞川無梁. 屡見流芳歓 山高路難越. この擬作は便用語費から七夕伝説を想起させる(註15)。男女の隔たりを強調 するための表現であろうと思われる。 の臨帖式の擬作に比べへ清脱多きを得たり。孫日華それ青は藍より出づと説く'. が置かれていることは明らかである。本稿冒頭で引いたF推移の悲哀﹄での手法. 賀揚重は'劉鎌の擬作詩のl連の残巻に関してへ﹁この幾首かは'倒って士衝 その話は却って虚馨に非ず﹂と言う。陸機が臨帖式であるのに比べへ劉鎌はそれ ﹁擬明月何瞭岐﹂詩に見る擬作の﹁演揮﹂性. 21.

(4) 鈴 木 敏 雄. との一つの有力な傍証ともなっている。. 上の指摘をも併せへ王闇運の取り組みは'擬作の目的や性質が﹁演鐸﹂にあるこ. 王闇運﹁擬明月何校較﹂詩. 後半は'畢寛すれば原詩と同じことを詠もうとしている。原詩の﹁客行錐云. 楽﹂が譲歩であるのに対し'擬作は﹁既知客行苦﹂という既成の苦として詠んで. 結二句も、原詩では再び部屋に戻って涙しているところを'擬作では更にいっ. いる点等に'それは見られる。. 我情不可道. 誰令去故郷. 既知客行苦. 明月在我床. 憂愁誰嘗見. 濁宿昔夜長. 瀦子無定居. 農光高層に明らかなるに. 中夜正に妨捜す. 我が情は道ふべからず. 誰か故郷を去らしむる. 既に客行の苦しきを知るに. 明月のみ我が床に在り. 憂愁誰か当に見るべき. 独り席ねて夜の長きに苦しむ. 沸子は居を定むる無く. 次の尊贋物および洪道の擬作もtl概に禾離しているとは言えないことが分かるo. の擬作にもあるものと認めるならばへ原詩とかなりかけ離れているように見える. 事情で演揮されているものと思われる。. り寝の苦を詠んだものとする。原詩の作者を枚乗と看撤したことによりへ枚乗の. 王威運は原詩の本質を'推移の悲哀ではな-'源子である男性の望郷の念と独. をへその本質として演挿しているものと思われる。. する情景として詠む。これはへ原詩に詠まれる憂愁は当夜のみに限らないこと. たん寝入って再び目覚めた明け方に'昨夜来のことを忘れられずに独り言を吐露. 中夜正祐径. 痛言用つて自らを傷ましむ. 始欲去梁へ 不能退漢へ自疑之詞也。陸云済官へ是臭。. 農光明高腐. もしも陸機・劉鎌に見られへ王闇運が手法として利用している﹁演揮﹂性をど. 四. 宿言用自傷. する。. 件)に近似するものと認めへ﹁陸云瀦官へ定臭﹂と言いつつへ自らも原詩を演揮. 擬作の是非をも問題にしているためへここではそれを﹁是﹂すなわち原詩(枚乗. いるためへ註16)へ王闇運は客行を苦とする男性の立場で擬作している。陸機の. ことができず'自分はどうなるのかと戸惑っている状況を詠んだものと看倣して. 世嗣ぎ問題を起こした梁王(孝王)を枚乗が諌められず、しかし枚乗は梁を去る. らを疑ふの詞なり。陸はr瀕官﹄と云ふ'是なり﹂と言う0原詩を'漢における. 年華逐赫涙. 孤妾誰輿偶. 排掴東西廟. 春禽自相求. 芳樹自研芳. 洪水長悠悠. 寸心不可限. 空間生遠愁. 白日洪上没. 年華は赫涙を逐ひ. 孤妾誰か与に儒たん. 東西の廟を排綱するも. 春禽は自ら相求む. 芳樹は自ら芳を研しくし. 洪水長く悠々たり. 寸心限るべからず. 空聞達愁を生ず. 白日洪上に没し. 章磨物﹁擬明月何岐岐﹂詩. 前半の四旬は'原詩とは旬序を変えてある。﹁居を定むる無き﹂男性の立場. 一たび落ちて供に収まらず. 王聞達はこの擬作の小序で﹁始めて梁を去らんと欲して'漢に還る能はずへ自. も、原詩では露わにはされていないものである。さらに月明に逼られて旅先で紡. 一落倶不収. 似てはいるものの'王闇運の擬作ではその原因である﹁濁り嫁の苦﹂を清輝する. 見られたもので、原詩に本来内在するものではある。ただしへ憂愁自体は原詩と. もが演緯される。憂愁が夜明けまで及ぶであろうことは、すでに劉鎌の擬作にも. 未明に秋月が残っていることを明示する。この章贋物の擬作を見ると'そのよう. ことに在ろう。前掲の劉礫ならばへそれでも﹁落宿遥城に半ばし﹂と詠んだあと. る。その主たる要因は'主題材である月明に照らし出される場面を描いていない. ると分かるものの'一連の擬作群の中では最も原詩から離れているように見え. この章唐物の擬作も﹁空間﹂の語が見えへ原詩と同様に婦人の立場で詠んでい. しみを表出する、すなわち目覚めて後の独り言である﹁宿言﹂に苛まれる様まで. 捜し憂愁を来たしている上に'朝の陽光にまで逼まられて拭い去れない望郷の苦. の推移を原詩の本質とは看倣きなかった可能性がある。もとより原詩は﹁推移の. に'自日没後に月が出たとは詠んでいない。詠むのは'﹁明月﹂ならぬ﹁白日﹂. 方向に重きが置かれ'推移の悲哀は演押されていない。とすれば'王薗運は時間 悲哀﹂が露わでないのだからへ必ずしも演揮する必要のないことへ言うまでもない。. 22.

(5) いる(註17﹀。. を詠むことを志向するのかと言えば'そうではない。﹁明月﹂を﹁白日﹂と言い 換えた意味は大きく、反対模倣の手法を使いへ擬作であることを最も明白にして. では章腰物の擬作は'原詩の本質とは異なった内容へたとえば詩人個人の事情. 原詩から轟離しているように見える要因は'先ずはそれらに在る。. である。またへ季節も明月の秋ではなくへ年を越してしばらく経った春である。. 況復千里隔. 爬尺柏倉難. 新愁今両耳. 故愛同一心. 披軒歩庭際. 宛樽墓空床. 況んや復た千里に隔たり. 苔々として千里のごとし. 爬尺すら相会ふこと難くば. 新慾は今に耳を両つながらにす. 故愛は同に心を7にせLも. 軒を披きて庭際を歩む. 宛転として空床に墓ぢ. 憂端窮まり巳む無きをや. 多﹂(﹁入衛﹂詩)と詠んでいるように'明るく華やかな所でもある(註18)。. んでいるように、古来敵別の地であり'さらに沈俊期も﹁洪上風日好へ紛紛沿岸. また洪水は、杜甫も﹁洪上健兄掃莫輝へ城南思婦愁多夢﹂(﹁洗兵馬﹂詩)と詠. することから催す借という点に於いてへさして異なるところはないと思われるo. て'確かに原詩全体とさして達わぬ展開になっている。. 例によって初旬は原詩を祷写する(註19)。それを承ける前半の四旬日までは 婦人が月明に逼られて庭に出'意味深連なる愁いを来たしている光景を捉えてい. するという展開になっていると思われる。. 詩一篇を捕捉しておいて'後半六句で原詩の﹁憂愁﹂と﹁涙下る﹂の理由を清輝. のそれとずいぶん異なっているように見えるが'畢寛すれば'前半四旬ではぽ原. 洪道の擬作は原詩と比べて構成自体もかなり改変されへ随処の論理展開が原詩. 憂端無窮己. 苔苔若千里. 冒頭を見ると'原詩に見られる月明に遥まられる意味深遠なる場面に代わって' 日没後間もなくの黄昏中に浮かび上がる洪水の悠々たる流れ'およびその岸辺の 光景が詠まれている。落日後の夕焼けに逼られて来たす﹁遠愁﹂は'月明に逼ら. そのような土地柄の地を選んで擬作している点に鑑みへ原詩に本質として備わ. れて催した原詩の﹁憂愁﹂と質的に異なるものかと言えば'帰らぬ夫を思い排御. る'薄明かりの中に醸される深い離別の情を極力演辞しようとする意識が'当然. しかし後半の﹁故愛同一心'新愁今両耳﹂以降'六旬の展開は'原詩との対応. ここも'原詩の本質に迫ろうとする意識は前半と同様に働いていると思われる.. 掃﹂の二句に対応する部分でありながらへ真似ているようには見えないoLかし. 的に﹁腿尺﹂の距離しかないとあることから'それは明らかとなる。洪道の詠む. 隔たりを詠まないままへ時間的かつ心理的な隔たりのみを詠む。続く二句に空間. ﹁客行雄云饗へ不知早旋掃﹂と対応すべき部分である。それを擬作は'空間的な. ﹁故愛﹂の二句は'男女間の空間的かつ時間的な隔たりを問題にする原詩の. が分かりにくい。. 秋から歳暮にかけての時節と同様へ年を越してさらに再び巡ってきた春に自分に. 男女は'﹁故﹂と﹁新﹂という時間的な隔たりのためにのみ逢えないのであっ. 後半の﹁芳樹自研男へ春禽自相求﹂の二旬も'原詩の﹁客行錐云饗へ不如早旋. のことながらこの擬作にも働いていると見てよいのではないか。. でその愛別離苦を表出させようとしているoそれは陸機・劉錐にも見られた手法. て'実際は両人は近くにいる可能性がある。しかしその両人は'逢えないという. だけ来ない春を'原詩の直接的な詠み方とはl見違えへ﹁節物﹂を描き出すこと であり'原詩自体にそのような﹁節物﹂を呼び起こす要素が内在していることは. と詠んで収束する。原詩と本質的にちがいのないことを最終的に自ら説明した形. りの加わる二人ならなおさら会い難いものであり'尽きない憂いは同然であろう. 点では原詩と何ら変わりない。そこで結二旬では原詩に立ち戻り'空間的な隔た. で結んでいる。そこに'原詩を演挿しようとする意識が確認できる。. そしてその﹁節物﹂は'結句の﹁年華﹂に繋がっている。過ぎゆく時間を言う. 間違いない。章膿物も彼らの表現手法を襲ったものと思われる。 この﹁年華﹂は'原詩の裏にあった推移の悲哀をあらわな言葉として清輝するO. 代であったとは言えへあるいは宰相としての洪道の個人的な事情(政争など)が. なり﹂と似たものを、洪道も感じとっている可能性がある。そこには'平穏な時. 義﹄の﹁独り醒むるの人へ世に件らつて儒無くへ時を撫して悲しみを輿こすの作. るならばへそれは前掲劉履﹁古詩十九首旨意﹂に否定的に引かれていた曾原﹃演. 分であるOこの爬尺千里は、原詩に内在する政治上の問題が演縛されていると見. なおへ﹁侍尺相合難へ苔苔若千里﹂の二旬は原詩との対応が最も見えにくい部. 原詩の本質が追究され得ている部分であると言えよう.原詩との類義性は明らか に確認できる。擬作と銘打っている所以は'まさしくそこに在るものと考えられ る。. 洪造﹁擬明月何岐頃﹂詩 明月何校頃明月何ぞ岐々たる 静光登薗椅射光は薗緑を登かす ﹁擬明月何校頃﹂詩に見る擬作の﹁演揮﹂性. 23.

(6) めにへそれを﹁非﹂として批判するという演縛の仕方を遂行しているほどである。. ていない場合へ陸機が必ずしも枚乗を原詩の作者と見ていないことと抵触するた. 鈴 木 敏 雄 陰影を落としているかも知れない。そうではなくへ単に1般論として結二旬に言. あるとされる﹁推移の悲哀﹂へ②月明の中での紡復排個が意味する深遠なる憂. ないと思われる。仮りに個人的事情を詠み込むにしても'原詩の真似であること. 詩と擬作の個性差を出すことを当初から予定して表出するために作られるのでは. 擬作は原則として'いわゆる詩人みずからの個性追求や個人的事情の表出へ原. 上の考察で述べてきたことは適用できるものと考える。. 九首﹂其十九とその擬作群に限らず'全ての原詩と擬作との関係に於いても'以. がら備えていなければならない基本的な姿勢であり'ここまでで扱ってきた﹁十. 擬作の持つそのような﹁演揮﹂性は'擬件と銘打っている以上へ当然のことな. う千里の隔たりを強調する対象として爬尺千里が詠まれていると見るならばへ結 果的に前二旬の﹁新・故﹂という時間の隔たりに距離の隔たりを添えることにな り'原詩の裏にある推移の悲哀をよりあらわにし得ているとも言えよう。 五. 愁へ③詠歌主体は女性であると思われるにもかかわらずへそうであるとは断定で. を逸脱することは許されず、かなりの制限が課せられる。擬作は元来へ自らの手. 以上へ﹁古詩十九首﹂其十九﹁明月何頃頃﹂詩の擬作群に開Lt①原詩の裏に. きない唆昧性tという原詩の本質に迫ると考えられる三点から'主にそれらの. 持ちの素材で行うはかなく'勢いそれが個性差となって現れるものであって'む. い.③は'いずれも問題化して捉えたであろう可能性は高いがへ章魔物や王闇運. 衷出は'やはり原詩に内在する本質から呼び起こされたものである可能性が色源. 努めている。とりわけへ陸機'劉錬、章催物と継承される季節の景物によるその. 悲哀に由来する憂愁を月明に照らし出される中に描き出すべく、いずれの擬作も. に本質的に備わる要素であることは間違いないと言えよう。②も同様で'推移の. とりわけ①は'王聞達以外は皆﹁あらわ﹂に演挿しておりへ推移の悲裳が原詩. なる。それを'演挿しようとする意識のないままに手持ちの表現の中から語嚢を. して模倣は'演締性の追究のなされた芸術と言える城まで磨き上げられることに. 自己の芸として見せるのである。そこにこそ初めて擬作者の個性も現れる。かく. の表出なら徒詩でもできる。原詩の本質を自分の手持ちの表現でどれだけ追究で きへ磨き上げられるかを試みて見せるのが擬件ではないか。いわばへ自己の才を. しあらわにして見せる方に重点が置かれているもののように見える。個人的事情. まで可能なのか'どこまで原詩の裏に内在する本質に肉薄できるかを'自ら実作. しろ手持ちの素材という自らの持ち前で﹁清輝﹂性を利用した本質の追究がどこ. ﹁演揮﹂性を見てきた。この考察によりへ各擬作の原詩の本質への迫り方は'そ. のように男女いずれかに結論を下したものと'原詩同様に唆味にしたままの他の. のであろうがへその表現手法の上手さ'ほど良い芸術性を認められた場合にこ. 持ってきたとすれば'個人の事情となって現れてしまう。結局は表現論に帰する. れぞれ明らかになったものと思う。. 擬作者とに分かれ、依然として問題を残したままのように見える。この間題に関. 注意が必要となる。. l逆に擬作を詩人の個人的事情の現れた伝記的資料として扱う場合は'十分な. ( 註 V. そへ擬作への好評は得られるのではないか(註20﹀。. しては'結論を下さないのが原詩に近くへ本質が男性の詠にあると捉えるならば 男性の立場、女性の詠と捉えるならば女性の立場へ唆味こそが本質と捉えるなら ば唆味に演揮するのが'擬作の本来の姿勢なのではないか。振作目的が原詩旬の ﹁演揮﹂に置かれているならばへ必ずしも擬作者の個人的な事情を反映させ'仕 sa. 官のための旅にある者(男性)が詠み手である等と特定する必要はないであろ. 忘其神理之微へ不復漕思'蓋二十線載。轍以暇日へ比而興之'--﹂(間ま名篇. いないことは'一連の擬作の前に綜序および小序を置きへそこで﹁間党名篇'都. 6註2を参照。. 5蒼山曾原﹃演義﹄(晴樹森F古詩十九首集押しによる).. 4楕樹森﹃古詩十九首集搾﹄に引く﹁選詩補注﹄による。. 惟定宿辞有撰而己。超旬之不法設'於此益見﹂と言う。. 2隔樹森﹃古詩十九首集搾﹄二九五八年中華書局)に引くr選詩定論﹄による。. を覧るに'都て其の神理の微を忘れ、復たとは潜思せざることへ蓋し二十僚載な. 7F昭昧魚言﹄引。. 3張庚も﹁古詩十九首解﹂で明月の意味を呉洪と同様に捉え'﹁若無明月、亦. り。靴ち暇日を以ってへ比して之れを興こし'--)等と語っていることからも. 擬作が原詩の﹁演締﹂であることを最も明瞭にしているのは'既述したように'. 明らかである。王威運は枚乗の事情に近似させ﹁比して之れを輿こす﹂ことをし. 8﹃古詩貰析﹄引。. 王闇運の取り組みであろう.王薗運が自己の個人的な事情を決して擬作に詠んで. ようとする余りへ陸機の擬作が枚魂の﹁神理の微﹂すなわち原詩の本質を済挿し. 24.

(7) ﹁士昏鵡﹂に﹁婦人洗在北堂﹂とある。 晴樹森﹃古詩十九首集搾﹄に引く朱埼口授・徐昆筆述﹁古詩十九首説﹂に' 特定の個人を想定せずに'原詩の憂愁の一般的な由来として﹁成鳥名利へ成鳥 君友へ欲掃不得へ有無限愁思'難以告人﹂(或は名利のためにへ或は君友のた めにも帰らんと欲して得ず'無限の愁思の'以って人に告げ難き有り)と指摘 している。 ﹁古詩十九首研究﹂(一九二九年上海光草書局印行)による。 ﹁宿半﹂は'﹃文鏡﹄は﹁日下﹂に作る。 ﹁延﹂は'﹃文鏡﹄は﹁迎﹂に作る。 ﹁鳥﹂は'五臣・﹃玉壷﹄は﹁謂﹂に作りへ﹁客行久﹂は'﹃玉垂﹄は﹁行 客遊﹂に作る。 ﹁伊人﹂は﹃詩﹄秦風﹁某夜﹂に﹁所謂伊人'在水一方﹂と見えへ意中の人. をいう語。﹁玉字﹂は'伝説では天帝の住まう宮殿。結二旬の﹁河虞﹂﹁山 高﹂はそれぞれ'李充﹁七月七日詩﹂に﹁河虞尚可越へ怨此漢無梁﹂と見えへ. 章唐物の他の詩に﹁洪上﹂﹁洪水﹂の用例は見られず'この擬作に章腫物の. ﹃漢書﹄巻五十一﹁郁陽枚乗博﹂第二十一による。. 博玄﹁擬四愁詩﹂に﹁牽牛織女期在秋へ山高水深路無由﹂と見える。 6. 1. 7. 1. 個人的な事情が託されている可能性は極めて少ないと思われるが、もしもある ﹃詩﹄席風﹁桑中﹂の﹁・-・・期我乎桑中'要我乎上官へ送我乎洪水之上奏﹂. とすれば'洛陽の丞の時にその地まで足を延ばしたか。 00. 1. 9. 洪道の擬作﹁擬古十三首﹂は'全篇初旬を原詩と同じくしている。F盤洲文. を踏まえるとすれば'洪上は逢い引きの場である. 日U. ﹃文選﹄がその部立てに﹁雑擬﹂を入れているのは'その一例であると考え. 集﹄巻一参照。 られる。. 0 2. ﹁擬明月何岐岐﹂詩に見る擬作の﹁演揮﹂性. 25. 15 14 13 12 ll.

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