<論説>ロールズにおける功績の非対称性問題
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(2) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). くとも次の点では一致を見ている。第 1 に、功績についての主張はいずれ も「X は B ゆえに P に値する」という形式を持っている。X の位置には個 人が入ることもあれば集団が入ることもあれば人以外のものが入ることもあ る。このうちここでの検討の対象となるのは個人についての功績(personal desert)である(以下、とくに断らない場合、 「功績」という語によって個 人についての功績を指示するものとする) 。そして第 2 に、個人についてで あれそれ以外のものについてであれ、 (妥当な)功績判断はいずれも「根 拠」を持っている。たとえば「彼はすぐれた業績をあげたので昇進に値す る」と言う場合には、業績が、彼という主体が昇進という取り扱いに値する (deserve)根拠である。これは通例「功績根拠(desert-base) 」と呼ばれる。 功績根拠は個人の徳(virtue)のようなそれ自体道徳的なものである場合も あれば(道徳的功績)、貢献や達成のように非道徳なものである場合もある (非道徳的功績) 。第 3 に、P の部分には X に対するある種の取り扱いが入る が、その中には賞賛や褒賞や財の分配のようなポジティブな取り扱いもあれ ば、非難や刑罰のようなネガティブな取り扱いも含まれている。 いくつかの古典的理解からすれば、功績概念は正義と極めて近い関係にある とされてきた。たとえばジョン・スチュアート・ミルは 『功利主義論』において、 各人が各人に値するもの(what he deserves)を得るのが正しいこと(just)で あり値しないものを得るのは不正である(unjust)という正義の理解を取り上 げて、おそらくこれは「公衆の考える正義の理念のもっとも明確で強力な形式 (the clearest and most emphatic form in which the idea of justice is conceived. て集中的に論じた哲学的著作は少ないが、例外として(Sher 1987) 。一方で、分配的正義 の文脈では、とくに「運の平等論(Luck Egalitarianism) 」との関連で功績について論じ られることがある程度増えてきている。この論点については、 (Arneson 2003) 、 (Arneson 2007) 、 (Arneson 2011) 、 (Wolff 2003)を参照。日本における功績と正義についての研究 として、 (亀本 2015)がある。 198.
(3) ロールズにおける功績の非対称性問題. by the general mind) 」だろうと述べている(Mill 1998(originally 1863) , p. 179) 。だが、英米圏を中心とする正義論のいま現在の文脈では、功績と正義 の間にこのような密接な関係があるとは通常考えられていない。そしてそれ に伴って、例外はあるにせよ、概して功績の概念自体にもそれほど大きな理 論的関心が払われてはこなかった(Sher 1987, p. ix, 亀本 2015) 。功績なる概 念自体の多くの人にとっての耳慣れなさこそ、まさにその証拠とも言えるか もしれない。 このような理論傾向は正しいのだろうか。功績と正義はどのような関係に 立つのか。かかる大きな問いを考える際、その端緒として、功績と正義の無 関連という現在の傾向が形成された源をたどってみるのは 1 つの悪くないア イディアだろう。この傾向の形成に大きな役割を果たしたのは明らかに『正 義論(A Theory of Justice) 』におけるジョン・ロールズのよく知られた議論 である。分配的正義における格差原理を擁護する際、ロールズは功績に応じ た分配が正義に適っているという考えを否定した。すぐ後に見るように、彼 によれば、達成であれ努力であれ人の「何か」に応じた分配という謂は正義 に適った制度が存在して初めて有意味となるのであって、制度のあるべき姿 を指導する理念ではあり得ない。もしその通りならば、正義と功績は功績が 正義の内実を規定するのではなく、正義が功績の内実を規定するという関係 に立つことになろう。 だが、 『正義論』における功績についてのこのような立場は(ロールズの 他の主張と同様に) 、早い段階から疑問と批判の対象となってきた。ひとつ の問題は、ロールズの立場が不整合ではないかというものである。というの も,ロールズは分配的正義については功績原理の役割を否定する一方で、次 節以降で確認するように、応報的正義(retributive justice)については功績 の役割を認めているように見えるからである。しかし、功績概念についての そのような非対称な取り扱いは果たして可能なのだろうか?分配的正義につ いて功績を否定する論拠は、そのまま応報的正義の分野にも当てはまってし 199.
(4) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). まわないのだろうか。この小論の検討の対象は、このロールズにおける功績 概念の非対称性の問題である。 次のように議論を進めよう。まず次節において、功績概念と正義について の『正義論』における記述を確認し非対称性問題を導入した上で(2.1 節)、 非対称性問題を考える意義について若干の敷衍を行う(2.2 節)。次に、分配 的正義における功績の役割を否定するロールズ自身の叙述から、非対称性 を擁護する論拠を抽出することができるかを検討する(3.1 節)。続いて、非 対称性を認める立場を擁護しようとするサミュエル・シェフラー(Samuel Scheffler)の議論を検討する。これらの検討の結果、功績の非対称性を擁 護しようとするこれまでの議論はいずれも失敗しているというのが本稿で の診断である(3.2 節) 。それを踏まえて 4 節では、正義の理想理論(ideal theory)と 非理想理論(non-ideal theory)の 区別 を 用 い て、功績 の 非対称 性を擁護する議論を素描的に提出してみたい。. 2:ロールズの功績否定論と非対称性問題 2.1:ロールズにおける功績の取り扱い まず問題の所在を確認しておこう。 『正義論』第 48 節「正当な期待と道徳 的功績」においてロールズは明示的に分配的正義における功績の役割を否定 している。 収入や富、人生における良いもの一般が、道徳的価値に応じて分配さ れるべきであるとする傾向が常識的な考えにはある。正義とは徳に応 じた幸福であるというのだ。 (中略)だが公正としての正義(justice as fairness)は こ の よ う な 構想 を 拒否 す る。(中略)基本構造(the basic structure)を統制し諸個人の権利義務を特定する正義の原理は 道徳的功績について言及しないし、分配上の取り分が道徳的功績に対 200.
(5) ロールズにおける功績の非対称性問題. 応するという傾向も存在しない。 (TJ, pp. 310-1, 邦訳, pp. 413-43)) 4. 4. 4. 厳密に言えば、ここでロールズが明示的に否定しているのは道徳的功績と 分配的正義とのレレバンスのみである。だが、続く 2 つのパラグラフではそれ ぞれ「貢献(contribution) 」と「努力(effort) 」という非道徳的な功績根拠に 応じた分配という発想が検討され斥けられている。この点に鑑みれば、ここで ロールズがその役割を否定しているのは非道徳的功績をも含めた功績一般であ るとみなしてよいだろう 4)。少なくとも、その後の論者は概ねそのような理解 を採っている。 ただし、上述のように述べるからといって分配的正義について「〜に値する」 というような言明が意味をなさないとまで、ロールズが主張しているわけでは ない。一旦正義にかなった制度が存在しているならば、制度は諸個人の行為に 対して特定の分配上の取り分を与えることを予告し得、その行為を行ったもの は、制度に対して当該取り分を要求しうる。その意味でたとえば「わたしは〜 の取り分に値する」というような発言は意味をなすだろう。だが、それは「正 当な期待(legitimate expectation) 」と呼ぶべきものであり、制度を指導する 理念としての功績ではない(TJ, p. 103, p. 311) 。言い換えれば、妥当な功績な るものがまず存在していて、それに沿って各人にそれに価するものを分配する ことが正義であるという関係にはなっていないということである。 ともあれ以上のパッセージから、分配的正義における功績の役割に対する ロールズの否定的態度は明らかであるだろう。だが、この第 48 節の最後の 2 つのパラグラフにおいて、彼は次のように述べている。. 3)以下 A Theory of Justice からの引用については TJ と略記する。なお邦訳の訳文には必ずし も従っていない。 4)この点は第 17 節の記述からも明らかだろう。 201.
(6) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). この意見[分配が各人の道徳的価値と相応すべきだという意見]は、分 配的正義がどういうわけか応報的正義と方向が逆なだけの同じもの(the opposite)であるという考えから生じているのかもしれない。無理なく 秩序立った社会では、正義にかなった法律を破ったがために処罰され る人々は通常は何か誤ったことを行ったというのは確かである。とい うのも刑法の目的は、基本的な自然的義務(basic natural duties)── 他者の生命や身体を毀損したり自由や財産を奪うことを禁じる諸義務 ──を維持することにあり、刑罰はそれに資するべきものだからであ る。刑法は一定の行為に価格を付けそれによって相互利益にかなうよ うに各人の行為を導くよう設計された税と負担の体系に過ぎないわけ ではない。 (中略)したがって、そのような行為をなす傾向性は悪しき 性格のひとつの表れ(a mark of bad character)であり、正義にかなっ た社会においては、法的刑罰はそのような欠点を示すひとびとにのみ 適用されるのである。 (TJ, pp. 314-5, 邦訳,p. 418) ここでロールズは応報主義的刑罰観にコミットしているとされてきた 5)。す なわち、ロールズ理論においては自然的義務は正義とは独立に、いわば前正義 的(prejustical)に存在するものである。したがって、犯罪は正義に先行する いくつかの自然的義務への違背という(自然犯的な)道徳的悪であり、それゆ えに刑罰に値するものなのである。そして犯罪にそれに値するものを与えるよ う刑罰制度は構築されなければならない。ロールズは応報的正義(retributive justice)の領域においては、功績が何が正義かを規定すると考えていると理解 5) 「されてきた」と言うのは、あらためて虚心坦懐に読むと、応報主義へのコミットメント はそこまで明白に読み取れるというわけでもないように──もしそうだとすると本稿の 問題自体が消失する──思われるからなのだが、差し当たり通説的理解にしたがってお く。この点は安藤馨の指摘に負う。 202.
(7) ロールズにおける功績の非対称性問題. されてきたのである。. 2.2:非対称性問題とその意義 功績の果たす役割に関するこの非対称な取り扱いは不思議に思える。分配的 正義であれ応報的正義であれ、おなじ正義である以上は同一の規範的原理に服 するのが自然ではないか。分配的正義における功績の規範的意義を否定する論 拠は、どうして応報的正義の領域には妥当しないのか。このような批判は『正 義論』をめぐる論争のごく初期の段階から提起されていた。マイケル・サンデ ル(Michael Sandel)は次のように述べている。 より基礎的な疑問は、分配的正義の目的から功績を排除する彼の自我 論とそれに関連する想定と矛盾せずに、応報的正義における功績を認 めることがロールズにはどうやってできるのかという点である。 (中 略)その同じ恣意性からの議論は、分配上の取り分についてと同様に、 刑罰の基礎としての功績をも排除してしまわないのだろうか ?(Sandel 1982, p. 90,邦訳,p. 103) だがこのような疑問に、 『正義論』の記述は明示的に答えていない。この非 対称性はなんらかの形で擁護できるものなのか。それとも、非対称な取り扱い はサンデルらが批判するようにやはり維持し得ないものなのだろうか。この問 題を検討する前に、この問題の持つ意義について若干敷衍をしておこう。 この問題の帰趨は、複数の含意を有している。第 1 に、サンデルらが指摘し たように、この問題は(前期)ロールズ正義論の整合性に疑義を投げかけう る。もし、功績の非対称性が維持し難いのであれば、ロールズ的な分配的正 義の原理を支持する論者は、刑罰においても功績概念が意義を持たないこと を認めなければならない。だがそうだとすれば、刑罰制度に対するわたした ちの強固な直観に反してしまわないだろうか?この議論が帰謬法(reductio ad 203.
(8) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). absurdum)を構成するとまでは言わなくても、少なくともロールズの立論が この点について説明さるべき問題を抱えているとは言い得るだろう。 非対称性問題はさらにロールズ個人の整合性にとどまらない論点を惹起す る。というのも、もし──ロールズのみならずそれに続く多くのリベラルな平 等論者も支持しているように──分配的正義における功績の意義を否定し、か つ、非対称性が棄却されるべきだとすれば、それが意味するのは刑罰にとって もまた功績は基底となる指導的理念(guiding idea)ではないということであ るからである。そして実際、多くの論者が分配的正義における功績の役割を否 定していることから考えれば、これは刑罰に関する応報主義(retributivism) を批判するひとつの──もちろん唯一のではない──論拠を構成することにな る。また逆に言えば、功績に応じた分配を擁護したい論者にとっても、非対称 性問題の帰趨は一定の意味を持つ。かりに応報的正義の領域において功績基底 的な応報刑論がもっともらしく、かつ非対称性が成り立たないのであれば、そ のことは、功績に応じた分配という発想を正当化するひとつの傍証を提供する ことになるからである。 言い換えれば、この問題が示唆しているのは、分配的正義と応報的正義が別 個に追求されることが可能なものなのかという論点なのである。しばしば指摘 されるように、そもそも現代の正義論においては応報的正義をめぐる議論は相 対的に少ない。分配的正義をめぐる論議の隆盛と反比例するように、応報的正 義について論じられることは稀になっていった。正義について論じるというこ とは、イコール分配的正義を論じることだと思われてきたきらいさえある。し たがって、現在多くの論者は分配的領域における自己の立場が、刑事的領域に 対していかなる含意を有するのかさほど気にかけない傾向にあり、逆もまた然 りである。無論、分配的正義と応報的正義には多くの違いがあり、両者を安易 に同視することはできない。しかし、その違いがいかなる点に存するのかを明 らかにするためにも、ロールズにおける非対称性の問題を検討することには一 定の意義があるだろう。 204.
(9) ロールズにおける功績の非対称性問題. 3:非対称性の論拠を検討する 3.1:ロールズの論拠とその検討 ロールズは功績の非対称な取り扱いの論拠を明示的に述べていない。だが次 のように推測するのが自然だろう。すなわち、分配的正義における功績の役割 を否定する論拠は、応報的正義については妥当しないと考えているが故に、彼 は非対称な取り扱いをしているのだ、と。だが、 『正義論』の記述中、ロール ズの功績否定論の論拠とみなせるものは、むしろ逆に功績についての対称的な 取り扱いを要請するようにみえる。確認していこう。 1 つは、有名な道徳的恣意性(moral arbitraliness)からの議論である。 『正 義論』第 17 節においてロールズは、 4 4 4 4 4. 4. 分配は自然の巡り会わせによって起きるが、その結果は道徳的観点か 4. 4. 4. 4. 4 4 4. 4. 4. 4. らすると恣意的である。所得と富の分配が才能という生まれ持った資 産の分配によって決まるがままにしておくのは、それが歴史的・社会 的運命によって決まるのと同じ位に理にかなっていない。 (TJ, p. 102, 邦訳,p. 138,傍点米村) と述べているが、第 48 節においては、これを引照する形で、 「各自の社会生活 のスタート地点に値する人がいないのと同様に、生来の資産の分配・分布にお ける当人の境遇に値する人はいないとするのは私たちの道徳判断の定点(fixed point)のひとつである(TJ, p. 311) 」と述べている。 ロールズはここで次のような論拠に依拠していると理解されることが多い 6)。 すなわち、人が何がに値すると言えるためには、何らかの功績根拠に基づいて 6)このロールズ理解と論拠の検討としては、たとえば(Moriarty 2011, p. 523) 、 (Sher 1987, ch. 2) (Nozick1974, p. 225, 邦訳,p. 371)を参照。 205.
(10) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). いなければならない。かつ、 その功績根拠自体、 当人の責任ある行為(responsible act)の所産であると言えなくてはならない。このことは妥当な主張であると 考えられるが、これを認めれば次のような問題が生じる。たとえば経済的な貢 献の多寡を功績根拠として、ある人がそれに相応した財の分配に値すると主張 される場合を考えよう。かかる経済的貢献の多寡は、当人の生まれ持った生来 の能力や勤勉な気質なくしてはありえなかっただろう。だが、これらの能力や 気質自体は、自然や生まれ育った環境によって因果的に惹起された偶然の所産 であって、当人の責任ある行為によって獲得されたものではない。よって、功 績は分配の基準としては用いることができない。 この行為と責任についての一定の形而上学的立場に依拠した論法自体が正し いかは疑問なしとしない。この論法を真面目に受け止めるならば、 たとえば「こ の演奏は優れていて賞賛に値する」のような、わたしたちの日常的な功績判断 もすべて正しくない、ということになってしまう。さらにロールズがこの論法 を本当に採用していたのかには疑義もある 7)。だがここで重要なのは、いずれ にせよこの論法は非対称性を帰結しないという点である。この論法は明らかに 分配的正義の領域と同様に応報的正義の領域にも妥当する。 ロールズのもうひとつの論拠と通常理解されているのは、次のパッセージに 由来するものである。 道徳上の功績に報いることに直感的に最も近いように思われる指針は、 努力──あるいは良心的な努力とするほうがよいかもしれないが── に応じた分配の指針である。しかしながら、人が意欲的になす努力は 当人の生得的能力および技能と当人が手にしている選択肢とによって 影響されるということが、ここでもあきらかだろう。より恵まれたも 7)すぐ後に見るように、シェフラーは、この解釈をロールズに帰属させることに異を唱え ている。 (Matravers 2003, p. 143)もみよ。 206.
(11) ロールズにおける功績の非対称性問題. のは、他の条件が等しければ、より良心的に努力するだろう、そして 彼らの人より大きな幸運に対してそれを割り引く方法はないように思 われる。功績に報いるという理念は実行不可能(impracticable)だ。 (TJ, p. 312, 邦訳,p. 415) ここではロールズは次のような議論を展開しているように読める。功績に応 じた分配の根拠となるもの──達成であれ努力であれ──は人々の自由な責任 ある行為の産物であると同時に、生まれ持った遺伝的要素や生育環境の影響と いった偶然の要素産物でもある。ところで人々の功績に応じた分配を達成でき るためには、このうちどこまでが偶然の要素の所産であり(したがってそれに 報いるべきではなく)人々の自由な責任ある行為の所産である(したがってそ れに報いるべき功績根拠となる)のかを、峻別して認識できなくてはならない。 しかし両者を峻別することは不可能であるか少なくとも実行不可能である。た とえば、プロサッカー選手の成した功績のうち、どの程度が彼の生来の気質や 生育環境に由来し、どの程度が彼の自由な責任に基づく努力に由来するのかを 正しく識別することなどできないだろう。したがって、功績は分配的正義を規 律する理念とみなすのは、認識論的に不可能である。 これはさきほどより穏当な議論だと評価できるかもしれない。だが、こちら の議論も分配的正義と応報的正義双方に当てはまる。市場における個人の経済 的貢献について諸個人の責任の程度を正しく認識することが不可能なのであれ ば、同様の理由で犯罪行為の惹起について諸個人の責任の程度を正しく認識す ることもまた不可能であると言わなければならない。したがって、議論の成否 に関わらず、この論拠も非対称性を擁護することにはならないだろう。ジェフ リー・モリアーティー(Jeffrey Moriarty)が正当に指摘しているように、結 局のところこれらの議論が非対称性の擁護にとって役に立たない理由は明らか 4 4 4 4 4. である(Moriarty 2003, pp. 525-526) 。以上の 2 つの論拠はいずれも功績概念自 4 4 4 4. 体の特質に訴えた議論であるからだ。そうである以上、それがいずれの領域に 207.
(12) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). おいても同様の結論を導くのは当然であろう。. 3.2:シェフラーのアプローチとその検討 3.1 の検討から示唆されたのは、もし非対称性を擁護したいのならば功績概 4 4 4 4 4 4 4 4 4. 念自体ではなく、それが適用される問題領域自体の相違、すなわち分配的正義 と応報的正義という問題の相違に注目しなければならないということである。 そのような試みとして、サミュエル・シェフラーのものを挙げることができる。 シェフラーは 2000 年の論文「リベラルな理論における正義と功績」において、 ロールズ的な功績の非対称な取り扱いをサンデルやノージックらの批判から擁 護しようと試みた(Scheffler 2000)8)。同論文においてシェフラーは、前節で 示されたような論拠をロールズが採用していたかは疑わしいと述べるだけでな く、さらに、ロールズの叙述と少なくとも両立可能であり、かつ前節のそれと は異なった論拠によって功績の非対称性を擁護できるとしたのである。そこで 以下では、シェフラーによる非対称性問題へのアプローチを概観し、それが成 功しているか否かを検討しよう。 シェフラーの議論は要約すると次の 3 つのステップからなるものである。 (1)功績の功績根拠は何であれ当該個人についての諸性質でなければならない、 という意味で功績は個人的(individualistic)である。 (2)一方で、分配的正義 は個人的ではなく全体論的(holistic)な事柄である(そして応報的正義はそう ではない) 。 (3) (1)と(2)より、分配的正義について功績の概念は役割を果 たさない(そして応報的正義についてはそうではない) 。 (1)の前提は妥当なものであろう。第 1 節冒頭で確認した通り、個人の功績 の根拠は当該諸個人についての事柄である必要があるというのは、共通了解を 8)当 該論 文 は そ の 後、Scheffler, S. (2001), Boundaries and Allegiances: Problems of Justice and Responsibility in Liberal Thought, Oxford University Press. に収載されている。本稿での書誌 情報は専ら California Law Review 誌掲載時のものである。 208.
(13) ロールズにおける功績の非対称性問題. 得ていると言ってよい。たとえばわたしが(仮に)優れた研究をしてそれが賞 賛に値するとき、賞賛の功績根拠はわたしが優れた研究をしたという事実であ るが、これはあくまでわたし個人についての事柄であると言って差し支えない ように思われる。 問題は(2)の前提である。分配的正義が全体的である(そして応報的正義 はそうではない)とはどういう意味なのか。やや長いが彼自身の記述を引用し よう。 分配的正義を全体論的に考えるのを支持する議論は部分的には道徳的で 部分的には経験的なものである。その議論は部分的には、人格の平等な 価値に対する強い感覚および正義にかなった社会においてはすべての市 民は平等な地位を享受しなければならないという確信からきている。ま た、それは人間社会に典型的な資源の穏当な希少性の状況下においては、 自分たちが共有し実質的には抜け出せない、社会的協働のグランドルー ルを確立し執行する基礎的な制度と実践──経済、法制度、政治的枠組 ──を通じて、市民の物質的な展望は互いに深く結びついているから である。…全体論者(holist)は、これらの道徳的経験的考慮に照らし て、根本的原理のレベルにおいて、そのような便益を受益者についての 事実や特徴のみに依拠して割り当てるような基準を想定することは規範 的に理にかなっていないと結論づける。だが、これこそまさに前正義的 (prejustical)な功績の構想がそうでなければならないところのものなの だ。 (中略)諸個人の生はとても緊密にそして実に多様に関係し合って いるので──実質的にある人へのどんな資源配分も他者への道徳的にレ レバントな含意を有する。 (中略) [一方で]応報的正義の問題は限られ た便益の供給を等しく価値ある市民の間でいかに配分するかという問題 ではなく、社会が特定の人間に刑罰という特別な重荷を負わせることが 一体いかにして正当化されるのかという問題である。言い換えれば、刑 209.
(14) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). 事制度の構築は、配分的関心ではなく、社会が認容できないとみなす個々 の主体の活動への社会的応答なのだ。 (Scheffler 2000, pp. 984-6) だが以上の叙述からは、シェフラーが正確にいかなる意味で全体論的 - 個人 的という区分を分配的正義と応報的正義の間に引いているのか、そしてなぜそ のような区分が正当化されるのか、依然として明らかではない。そしてありう る理解はいずれも、非対称性の擁護に失敗している。以下、この点を確認して いきたい。 先の引用冒頭にあるように、シェフラーは分配的正義が全体論的であるとい う主張には、道徳的根拠と経験的根拠があるとしている。まず、分配的正義の 全体論性の「道徳的根拠」とシェフラーが呼ぶ部分を検討しよう。彼は「人格 の平等な価値に対する強い感覚」と「正義にかなった社会においてすべての市 民は平等な地位を享受しなければならないという確信」の存在を指摘する。た しかにこの主張自体は少なくともただちには否定しがたいだろう。諸個人が何 らかの意味で平等な価値を有し、正義にかなった社会において何らかの意味で 平等な地位を得なければならないという主張を正面から否定するのは難しい。 だが、だからといってそこから何故に分配的正義を全体論的に考えなければな らないという結論が出てくるのだろうか。 たしかにある種の平等の理解──たとえばシェフラー自身が支持するような 民主的(関係的)平等論──に立てば、かかる平等の理念は、財の分配に関し て各個人の功績や責任を考慮し、分配の多寡をそれらの要素に相応させること を拒否するだろう。だがかかる結論を受容しなければならないのは、平等の内 実についてそのような論争的理解を採用した場合に限られる。運の平等論者の ひとつの核心的コミットメントが、個人の功績や責任に相応した分配こそが適 切な平等の構想であるという主張にあるという点を想い起こそう。民主的(関 係的)平等論と運の平等論は、 どちらが平等の適切な構想なのかをめぐって争っ ているのであった。人格の平等という、その内実の論争的な理念自体の受容だ 210.
(15) ロールズにおける功績の非対称性問題. けから、分配的正義の全体論的性格、したがって功績の役割の否定が導出され るというのはあきらかな飛躍論証(non sequiter)であるだろう。 したがって非対称性を擁護しようとするシェフラーの論拠として有用なのは 「経験的論拠」の方である。だがこちらは複数の解釈を許す。まず、素直に読 めばシェフラーは、いかなる制度を構築するのかという問題について、分配的 正義の場合は全体的考慮が必要となる(そして応報的正義についてはそうでは ない)のだと述べているようにも解される。しかしシェフラーの真意がそのよ うなものだとすれば、それは明らかに非対称性の擁護に失敗している。ダグラ ス・フサク(Douglas Husak)が正当に指摘しているように、この意味での全 体論的考慮の必要性は、応報的正義の場合にも同様に当てはまるから(Husak 2000) 。いかなる刑罰制度を構築するのが正義に適っているかを考える局面に おいて、わたしたちは刑罰に値する個人の諸特徴ではなく、全体的な考慮(た とえば制度構築維持にかかる支出や、誤判冤罪のコストや、制度に従事する公 務員の権限濫用の可能性など)を行うだろう。刑罰制度の正当化は分配のため の制度の正当化と同様に全体論的である 9)。 シェフラーの「経験的論拠」は、制度構築の場面における考慮ではなく、 その制度下において誰に何を分配するかといった特定の判断が、分配的正 義においては全体論的であり、応報的正義においては個人的であるという 主張として理解すべきなのかもしれない。しかし、これも非対称性の擁護 には役に立たない。この意味でも、分配的正義と応報的正義には差は存在 しないというべきである。たしかに、誰にいかなる刑罰を科すべきかを考 えるときには、当人の個人的性質だけがその正当化根拠となるように思わ れることを一応認めてもよい。だが事情は分配の問題においても変わらな 9)シェフラー自身はこの批判を的を外したものと評している (Scheffler 2000, n. 73) 。 だがシェ フラーの記述にこのような解釈を招く余地があるのは確かであり、少なくともこの点に 関する限り、誤解の責任はシェフラーの方にあるように思われる。 211.
(16) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). い。たとえばあるファカルティにおいて限られた研究費をどのように分配 すべきかというルールを考える際、わたしたちはいかなるルールが望まし いかについて必ずしも個人的ではない考慮──たとえばファカルティ全体 の論文生産性への影響などといった考慮──を行う。だが、そうして出来 上がった特定のルールの適用場面において、特定の誰かに分配を行う際の 根拠は、刑罰の場合と同じく、その当人の個人的性質に言及したものとな るだろう。. 4:非対称性を別な仕方で擁護する ここまでで確認されたのは、非対称性を擁護するこれまでの主要な議論 が失敗しているということであった。ここからどこに向かうべきだろうか? この診断が正しいとすれば、わたしたちにはいくつかの理論的選択肢が存 在することになる。第 1 は、対称性を受け入れ、かつ、分配的正義と応報 的正義の両方の問題領域にまたがって功績の基底的な役割を認める筋道で あり、第 2 は、対称性を受け入れつつ、かつ分配的正義と応報的正義の双 方にまたがって功績の役割を否定する筋道である。第 1 については、功績 に応じた分配的正義という提案がなされていないわけではないことを考え れば、ただちにおかしな提案とは言えない。第 2 についても、刑罰に関す るあからさまな応報主義にさまざまな疑義があることを考えればこれも理 解可能な筋道である。だが以下では、ここまでの議論にもかかわらず、さ ら な る 別 の 論拠 に よって 非対称性 を 擁護 し 得 る と 主張 す る 第 3 の 筋道 を 探ってみたい。ここでわたしが素描的に提示する筋道は、第 1 の立場が有 望でないと考える理由とも関連しているため、まずはその点を敷衍しよう。 分配的正義において功績の役割が否定されるのは、端的にいかなる各人 についての事柄も財の分配に値するような功績基礎になり得ないからであ る。功績に応じた分配を主張する論者の具体的主張を考えよう。各人の功 212.
(17) ロールズにおける功績の非対称性問題. 績に応じた分配を主張する論者は、大抵、達成(achievement)や努力(effort) を功績根拠として、それに応じた分配をせよと主張する。だが、達成を根 拠にすると不公正な帰結が生じるだろうし(個人が何を達成できるかは大 部分運の所産である)、努力の方は測定し難いので実行可能性(feasibility) を欠く。だがこのようなよくある批判に加えて 10)、根本的に問題だと思わ れるのは、達成であれ努力であれ、なぜそれが功績根拠となり、それに応 じた分配がなされなければならないのかが恣意的に思われる点である。た とえば、誰も欲しがらない発明は達成であるかもしれず、敬意に値するか もしれないが、それがより大きな分配上の取り分に値したりするとは誰も 考えまい。また、ある財の生産への努力は賞賛に値するかもしれないが、 それが供給過剰に陥った場合には、より大きな取り分に値いしたりはしな いだろう。各人の道徳的徳性についても同様である。たとえば勇気がある ことは徳であり、賞賛に値するかもしれないが、だからといって他者より 大きな分配に値すると主張するのは極めて反直観的である。言い換えれば、 功績根拠と財の特定の分配の仕方とを結びつける「説明(rationale)」がそ こには欠けているのだ。 応報的正義における功績についても同様ではないかと思われるかもしれ ない。むしろ、ある特定の犯罪が特定の刑罰に値するという主張がいかに して正当化されるのかが不明であるというのが刑罰についての応報主義に 対する一つの論難であったことを想い起こすなら、問題は応報的正義にお いてより一層明らかであるすら言えるかもしれない。だが、私見では応報 的正義における功績の役割については一定の説明が可能である。しかもそ れはロールズの議論に少なくともある程度までは適合的な形で行いうるの である。 10) だが努力功績に近似的な形で報いる制度は実現可能性なものであることを示唆する議論 もある。cf.(Wolff 2003) 。 213.
(18) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). かかる説明のキーポイントとなるのは、正義の理想理論(ideal theory) と非理想理論(non-ideal theory)の区別である。この区別には複数の定義 が存在し、その意義についても議論があるが、ここでは遵守状況の違いに ついての区別を指すものとしてこの区分を用いよう 11)。すなわち、関連す るすべての主体が、正義にかなった制度が各人に要請する諸要求を遵守し ているという想定のもとで展開される理論が理想理論であり、部分的な遵 守しか存在していないという想定のもとで展開される理論が非理想理論であ る。 この区分を念頭に置いた上で、ロールズが『正義論』第 48 節において、 次のようにも主張していたことに注目しよう。 わたしたちが考えなければならないのは、秩序立った社会、すなわち 諸制度が正義にかなっており、かつこの事実が公共的に承認されてい る社会についてだけである。そのメンバーはまた、強い正義感覚、す なわち現行ルールを遵守しかつ互いに権限を持つものを与え合うこと 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. への実効的な欲求を備えている。この場合には、全員の道徳的価値が 4. 4. 4. 等しいと想定してもよいだろう。 (TJ, p. 312, 邦訳,pp. 415-6,傍点米 村) また、次のようにも述べている。. 11) 理想理論と非理想理論に関する複数の定式化の整理としては(Vallentini 2012) 。また(TJ, p. 8)も参照せよ。ロールズの正義論が大部分この意味での理想理論に属することはよく 知られている。ただし応報的正義を非理想理論に含める本稿の議論は、ロールズの用語 法からは逸脱しているかもしれない。ロールズは、第 48 節の最後のパラグラフにおいて、 刑法についての考慮を理想理論に含めているようにも見える。だがこの点は本稿の論旨 に影響するものではないだろう。 214.
(19) ロールズにおける功績の非対称性問題. 秩序だった社会では、個人は現行の制度編成によって奨励される一定 のことがらに従事することを通じて、社会的生産物の取り分を要求す る権利を獲得する。そうして生じる正当な期待は、言ってみれば公正 の原理と正義の自然本性的な義務の別の面に相当する。なぜなら、人 には正義にかなった制度編成を支持する義務があり、またそれらにお ける地位を受け入れたときには自らの地位を果たす責務があるという 点からして、制度枠組みを遵守しかつ自らの責任を果たした人は、他 の人びとから相応に扱われる権利を持っているからである。 (中略) これまで見てきたように、正義にかなった分配上の取り分は個人の道 徳的価値(moral worth)に相応した褒賞をあたえるものであると言 うのは正しくない。だが、伝統的な言い方で、正義に適った制度枠組 みは各人にその当然受け取るべきもの(due)をあたえると言うこと も可能である。 (TJ, p. 313, 邦訳,p. 417) ここでロールズは次のような主張を行っていると理解できる。道徳的功績 とは、各人の道徳的価値(moral worth)ないし徳性(virtue)に相応した 分配を行うべきだという主張である。だが、各人の道徳的価値とは、正義に かなった制度を構築しそれを支持する意欲と傾向性として定義される 12)。そ して、ロールズによれば「正義にかなった制度の下では、各人がかかる意欲 と傾向性を十分に有していることが期待される」 。したがって正義にかなっ た制度の下では各人の道徳的功績基礎は等しいのであり、ゆえに分配上の取. 12)ミルズは諸個人の道徳的価値ないし徳が、正義感覚のみによって定義されるのは明らか におかしいと指摘している(Mills 2004, n. 9) 。たしかに個人が有し得る道徳的価値や徳 がそのようなものに尽きているとロールズが仮に考えているのだとすれば、それはたし かに奇妙だろう。だが、ここで言われているのは人の道徳的価値一般ではなく、あくま で正義との関連で問われる人の人格的評価であると考えればこの批判は斥けられる。 215.
(20) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). り分(distributive shares)について差がつくことはあり得ず、理想的な分 配的正義において功績の概念は分配上の取り分の差異をもたらすことはない、 ということになる。 だが非理想状況では定義上正義に適った諸制度に違背する諸個人が存在する のだから、上記の議論は裏を返せば、非理想状況においては各人の道徳的徳性 が異なっていることを含意する 13)。そして、この正義の自然的義務への違背 としての道徳的(不)徳性こそが各人を刑罰に値する存在となす功績基礎であ ると考えることができよう。 このような非対称性の説明において、功績と正義の関係は次のようなものと なろう。まず正義にかなった制度が存在しない限り、いかなる行為も刑罰に値 する行為とはならない。この意味で、功績概念は派生的である。だが、正義の 自然的義務自体は正義に先行して(prior)存在する義務であるから、功績も また正義に先行する。次のような類比を考えてもらえれば良い。具体的に何が フェアなプレイであり何がそうでないかはスポーツのルールが定まらない限り 決まらない。しかしフェアプレイという理念自体はスポーツのルールに先行し て存在する。このような意味で、功績の理念は応報的正義を規律する理念足り 得るのである。 しかし、ではそのような功績基礎と刑罰とを結びつける「説明」とは何か。 すなわち、なぜ正義の自然的義務への違背が刑罰という取り扱いに値するの か。ここで想起すべきは、 ロールズにおける社会と正義のイメージである。ロー ルズにとって社会とは、 「協同して相互の相対的利益の実現を目指す試み(a coorperative venture for mutual advantage) 」であった。そして、この社会制 13) 『正義論』における次のような記述も参照せよ。 「公正としての正義の観点からは、根源的 な自然的義務は正義の義務(the duty of justice)である。この義務は、既存のわたした ちに適用される正義にかなった制度を支持しそれを遵守するよう要求する。また、この 義務は正しい制度編成を涵養するようにわたしたちを制約する(TJ, p. 115, 邦訳 , p. 155) 216.
(21) ロールズにおける功績の非対称性問題. 度・システムが「協同」によって成立し、それに依拠して各人の良き生の構想 の実現が可能になっている以上、そのシステムの「負担」 「利益」は公正な仕 方で各人に分たれなくてはならない。これが「公正としての正義(justice as fairness) 」の核となる発想である。この発想のもとでは、 犯罪という正義に適っ た制度への違背は、すなわち協働の試みにおいて各人に要請された負担の回避 を意味することになる。 ここにおいて議論は公正ベースの(fairness-based)刑罰の正当化、 すなわち、 刑罰についてのフェアプレイ論(fair-play theory)ないし不公正利得(unfair advantage)論という、すでによく知られた立場へと接続される 14)。この立場 によれば、刑法は全ての市民に対して彼らをある種の害から保護するという利 得を与えている。しかし、それは全員が法を遵守するという自己抑制の重荷を 負担しているからだ。犯罪者はしたがってある種のフリーライダーであること になる。彼らは、他者の自制による利得は享受しておきながら、一方で自分が その重荷を負担することを拒否しているのだ。その意味で彼らは不公正な利得 を得ていることになり、刑罰の意義は彼らに追加的な害悪を加えることを通じ て、彼らの得た不公正な利得を剥奪することにある。 以上の議論はロールズの叙述のすべてと適合的なわけではないが、ロールズ の読み方の一つとしてなおありうるものであると考えられる 15)。そして、な お素描的ではあるものの、ロールズ解釈を超えて、これは応報的正義の領域に おいて功績に応じた刑罰という発想を維持する 1 つの可能な筋道であるように 私には思われる。. 14)この種の議論として、たとえば(Sher 1987)を参照。 15)論拠は異なるものの、ジェイク・グリーンブラム(Jake Greenblum)は本稿と類似した 理解を採用している(Greenblum 2010) 。 217.
(22) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). 5:結語 本稿では、功績と正義の関係についての全面的な考察のいわば足がかりとし て、ロールズにおける功績の非対称性問題を取り上げ、検討した。分配的正義 において功績の役割を否定するロールズの論拠と理解されてきた議論はいずれ も非対称性を擁護しうるものとは解し得ず、この点の理論的瑕疵を治癒すべく 意図されたシェフラーの議論も、その内容には一読して判然とはし難い部分が あり、あり得る複数の解釈を施した上でもなお、功績の非対称性を正当化する ことに成功しているとは言えないことを確認した。その上で、素描的でありつ つも私見として、応報的正義についてのロールズの立場は、正義の自然的義務 に対する違背を功績根拠として、犯罪を犯したものをそれに応じた刑罰に値す ると主張するものとして理解しうると主張した。 すでに述べた通り、この私見のロールズ解釈としての適切性については多大 な異論があり得よう。またこの点を措くとしても、刑罰に関するフェアプレイ 論には、たとえば刑罰の害悪についての説明として不適切ではないか等、すで に多くの批判が蓄積されてもいる 16)。フェアプレイ論に対するこれらの批判 には少なくとも一定程度応答が可能であると私は考える。だが、この点に関す るより立ち入った検討はすでに本稿の主題を逸脱するものであり、他日を期す こととしたい。. 参考文献 英語文献 Arneson, R. J. (2007), ‘Desert and Equality’, in Holtug, N., and Lippert-Rasmussen, K. (eds.), 16)多くの文献の蓄積がすでに存在するが、たとえば cf.(Boonin 2008) 、 (Braithwaite&Pettit 1990) 。 218.
(23) ロールズにおける功績の非対称性問題. Egalitarianism: New Essays on the Nature and Value of Equality, Oxford University Press Arneson, R. J. (2011), ‘Luck Egalitarianism—A Primer’, in Knight, C. and Stemplowska, Z. (eds.), Responsibility and Distributive Justice, Oxford University Press. Arneson, R. J. (2003), ‘The Smart Theory of Moral Responsibility and Desert’, in Olsaretti, S. (ed.), Desert and Justice, Oxford University Press. Alm, D. (2010), ‘Desert and the Control Asymmetry’, Ethical Theory and Moral Practice, Vol. 13, pp. 361-375. Boonin, D. (2008), The Problem of Punishment, Cambridge University Press. Braithwaite, J., Pettit, P. (1990), Not Just Deserts: A Republican Theory of Criminal Justice, Oxford University Press, 1990. Feinberg, J. (1970), ‘Justice and Personal Desert’, in his Doing and Deserving, Princeton University Press. Greenblum, J. (2010), ‘Distributive and Retributive Desert in Rawls’, Journal of Social Philosophy, Vol. 41, No. 2, pp. 169-184. Husak, D. (2000), ‘Holistic Retributivism’, California Law Review, Vol. 88, pp. 991-1000. Matravers, M. (2011), ‘Mad, Bad, and Faulty? Desert in Distributive and Retributive Justice’, in Knight, C. and Stemplowska, Z. (eds.), Responsibility and Distributive Justice, Oxford University Press. Matravers, M. (2007), Responsibility and Justice, Polity. McLeod, O. (2003), ‘On the Comparative Element of Justice’, in Olsaretti, S. (ed.), Desert and Justice, Oxford University Press. Mill, J. S., (1998/originally published in 1863), Utilitarianism in Mill, J. S., On Liberty and Other Essays, Oxford World’s Classics, Oxford. Mills, E. (2004), ‘Scheffler on Rawls, Justice, and Desert’, Law and Philosophy, No. 23, pp. 261-272, 2004. Moriarty, J. (2003), ‘Against the Asymmetry of Desert’, Nous, Vol. 37, pp. 518-36. Moriarty, J. (2005), ‘The Epistemological Argument Against Desert’, Utilitias, VOl. 17, No. 2, pp. 205-221. Nozick, R. (1974), Anarchy, State, and Utopia, Basic Books.(ロ バート・ノージック(嶋 津 格 訳) (1984) 『アナーキー・国家・ユートピア:国家の正当性とその限界』木鐸社) Rawls, J. (1971), A Theory of Justice (Original Edition), Harvard University Press.(ジョン・ロー ル ズ(川本隆史・福間聡・神島裕子訳) (2010) 『正義論:改訂版』紀伊国屋書店*但 し邦訳は 1999 年の改訂版の訳) Sandel, M. (1982), Liberalism and the Limits of Justice, Cambridge University Press. Scheffler, S. (1992), ‘Responsibility, Reactive Attitudes, and Liberalism in Philosophy and 219.
(24) 横浜法学第 24 巻第 1 号(2015 年 12 月). Politics’, Philosophy and Public Affairs, Vol. 21, pp. 299–323. Scheffler, S. (2000), ‘Justice and Desert in Liberal Theory’, California Law Review, Vol. 88, pp. 965-990. Sher, G. (1987), Desert, Princeton University Press, 1987. Smilansky, S. (2006), “Control, Desert and the Difference Between Distributive and Retributive Justice”, Philosophical Studies, Vol. 131, pp. 511-524. Vallentyne, P. (2003), ‘Brute Luck Equality and Desert’ in Olsaretti, S. (ed.), Desert and Justice, Oxford University Press. Vallentini, L. (2012), ‘Ideal vs. Non-ideal Theoy; A Conceptual Map’, Philosophy Compass, 7/9、 pp. 654-664, 2012. Wolff, J. (2003), ‘The Dilemma of Desert’, in Olsaretti, S. (ed.), Desert and Justice, Oxford University Press.. 邦語文献 亀本洋(2015) 『ロールズとデザート──現代正義論の一断面──』新基礎法学叢書 7、成文 堂、2015 年 *本稿は科学研究費若手研究(B) 「功績概念の再検討を通じた応報刑論の擁護とその含意の 解明」 (課題番号 15K16913 代表者:米村幸太郎)の支援を受けたものである。. 220.
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